日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

誰に頼るのか

2022-02-27 15:43:45 | 礼拝説教
【詩編146編1~10節】  
【ルカによる福音書21章1~4節】

 岩手の教会におりました時、県の北、青森県にほど近い二戸という場所がありまして、奥中山教会という教会に神学校の先輩でもあるM先生がおられました。M先生は御自分のライフワークとして、チェルノブイリ原発事故によって体の具合を崩している子どもたちを日本に招いて、元気にさせるという働きをされていました。
 それは先生ご夫妻の娘さんが、若くして白血病で亡くされ、その悲しみを悲しみだけとせず、このことをも通して自分達がなせる業は何かを模索した結果であると伺い、感動したことを思います。私自身は、具体的には僅かな関わりしか出来ませんでしたけれど、良い働きをされていると感動をもって三好先生の心の優しさとその歩みを受け止めていました。
 
 そのチェルノブイリ原発事故という悲劇が起こったウクライナで、先週水曜日にロシアが宣戦布告し、突然に国境を越えて侵攻し、戦禍となり国全体を制圧する勢いで迫っていることが連日報道されています。
 西側と呼ばれる日本を含む欧米諸国は揃ってロシアに対して強い非難声明と制裁内容とを発表していますが、泥沼の戦闘状態にならないようにということでしょうか。軍や兵士を派遣することはなく、状況を見守っています。
 
 ウクライナには、私が調べたところですから正確かどうかわかりませんが、現在でも少なくとも原子力発電所が四つあります。そのような発電所がある国で、何度も空爆、砲撃がなされる、もしそれに西側が反撃し始めて、間違って原子力発電所を爆破したとなれば、地球規模で被害は広がることでしょう。そのような状況にならないようにと考えてのことかもしれません。しかし、既に多くの人々の命と生活と安全は戦いの中で奪われ、流血と惨劇とが繰り返されています。

「なんでこんなことに」とテレビ報道を見る度に、家内は呻いていましたけれど、私も全くそう思います。唇を噛みしめる思いで報道を見ておりました。早く事態が収拾されますようにと祈るしかありません。
 
 そのような驚くべき出来事、動揺する思いの中で、終末を過ごし、詩編146編を読むことになりました。詩編146編は、主なる神を信頼し、神を讃える詩編です。特徴の一つはハレルヤで始まり、ハレルヤで締めくくられる。「ハレル」は「賛美せよ」、「ヤ」は主なる神を意味しています。主を賛美せよ、です。「ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。命のある限り、わたしは主を賛美し 長らえる限り わたしの神にほめ歌を歌おう。」と自らの信仰、神に対する信頼から始まる伸びやかな讃美の御言葉です。

 けれど目に留まるのは、続く3節です。「君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない」とあります。君侯とは口語訳聖書では「もろもろの君」、新改訳聖書では「君主たち」とありました。この箇所は新改訳聖書が一番分かりやすいかもしれません。

 この詩編の作者は、イスラエルのバビロンの捕囚の時代、また、捕囚から解放されてエルサレムに帰還した人か、その出来事を良く知っていた人であろうと考えられます。

 「歴史は繰り返す」という言葉ありますが、紀元前6世紀に、イスラエルは世界の大国であったバビロンと戦い、多くの血が流されてイスラエルは滅び、捕囚の民となりました。しかし、そのバビロンも、更に勢力を伸ばしてきたペルシャとの戦いによって破れ、自分達は帰ることが出来た。そのような出来事を、身を持って体験したわけですから力を持った君侯、君主たちでさえ、時代と共に移り変わる。移り変わるものに依り頼んではならないと告げているのであろうと思います。

 現代の諸国の君主たちはどうでしょうか。ロシアの大統領は、戦争をするしか方法はなかった正当化していました。悪いのは自分ではないと主張していました。なら、アメリカが悪いのでしょうか。西欧諸国が悪いのでしょうか。日本にも責任があるのでしょうか。武器を持って人の血を流し、人の文明、文化、歴史を破壊する。破壊する側が、それは正しいと判断するのはなぜなのでしょうか。非難と批判の応酬の中で、誰一人として自分が悪かったとか、力が足りなかったと言わないのはなぜなのでしょうか。「自分は分かっていると」思っているからでしょうか。「自分には知恵がある」と誇っているからではないでしょうか。

 エレミヤ書9章にこう記されています。「主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい 目覚めてわたしを知ることを。」

 「人間には救う力はない」と詩編に記されている通りだと思います。人は完全でもないし、むしろ足りない所だらけです。私などはその最たるものだと自分でも思います。ましてや、私たちの地上の命、地上の生涯には限りがあります。限りがある者同士が、罪に生きる者同士が、神に対して負債があり、借金のある者同士が互いに人を救うことはできません。

 だからこそ、私たちの命の造り主である主なる神に依り頼む、それはなんと幸いなことかと詩編の作者は記します。「いかに幸いなことか ヤコブの神を助けと頼み 主なるその神を待ち望む人 天地を造り 海とその中にあるすべてのものを造られた神を。」

 新約聖書からルカによる福音書21章を読んでいただきました。「やもめの献金」というタイトルが付けられた短い箇所です。

 主イエスは自ら十字架刑に処せられることを知りながらロバの子に乗ってエルサレムに入城します。受難週の初めの日です。イースターの一週間前ですから、今年は4月10日となります。エルサレムに入られて神殿に行かれた時、何をされたかというと、神殿の境内で商売をしていた人々を追い出し始めました。両替商の台や鳩売りの腰かけをひっくり返してしまった。
 そして言われました「わたしの家は、祈りの家でなければならない。ところがあなたがたはそれを強盗の巣にした」その様子に祭司長、律法学者、民の指導者たちは、怒ってイエスを殺そうと謀りますが、民衆が主イエスの話に夢中になっていたので、手だし出来ませんでした。

 けれど、なぜ主イエスがそのようにむしろ乱暴と思える程のことをされたのか。主イエスはそこに祈りを見いだせなかったのだと思います。神を信じる者の信仰の姿を見いだせなかったのでしょう。神を愛し、隣人を愛する姿を見つけられなかったのでしょう。宗教的指導者はイエスを殺そうとさえ考えるわけですから、その通りです。それから主は、何度も、何度も祭司長や律法学者や長老たちと論争を繰り返し、ファリサイ派やサドカイ派の人々と問答を行い、彼らは正しい人を装う回し者を遣わしてまで主に論争を仕掛けたりします。主は、その度にどれ程悲しみを覚えたであろうかと思います。

 主イエスが捕らえられる数日前のことです。主が境内に入ってこられた、その時、一人のやもめがレプトン銅貨二枚を入れている姿を見られました。レプトン同銅は貨幣の単位の最も小さな単位です。その銅貨二枚を入れた。けれど、その時、主イエスはそこに神に信頼する者の姿、信仰者の光をついに神殿に見つけたのではないでしょうか。

 「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、誰よりも沢山入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」と弟子たちに話されました。生活費全部とは、その時に持っていた生活費の全部という意味かもしれません。全財産とは考えなくともよいかもしれません。

 けれど、主はこのやもめの信仰に希望を見いだしたのは確かだと思います。やもめの、神にのみ依り頼む姿に主イエスご自身が力を得たのではないかとさえ思う。

 私たちは、自分が自分がと自分を主張することは得意かもしれません。でも、むしろどれだけ神の前において、神に依り頼み、神に信頼し、神を仰ぎ見ているのか、いつも問われ続けられていると思います。私たちは神にのみ依り頼み、悪魔の策略に対抗し、血を流す武器ではなく、信仰という神の武具を身に着けて、神を愛し、人を愛しつつ、今週も過ごして参りましょう。 

 お祈りします。

神に祈り続ける

2022-02-20 15:03:21 | 礼拝説教
詩編145編1~9節
ルカによる福音書18章9~14節
「神に祈り続ける」

 今回、説教を準備する中で気がついたのですが、ルカによる福音書18章1節~8節までの聖書箇所、「やもめと裁判官」のたとえという箇所を先月、1月16日の礼拝で読まれ、また説教をしておりました。
 
 その時の説教題は「気を落とさずに絶えず祈る」という説教題でありました。この説教題は18章1節の御言葉から付けたのですが、そこを読みますとこうあります。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」弟子たちに絶えず祈ることの大切さを教えるために、どのようなたとえをされたかと言うと、裁判官とやもめが登場するたとえでした。
 「神など畏れないし、人を人とも思わない裁判官」がいて、その裁判官のもとに一人のやもめがやって来て、裁判をしてくれと頼んだという話です。当初はやもめなど相手にしなかった裁判官でしたが、裁判官のところに来ては「相手を裁いて、わたしを守ってください」と言って来る。
 
「来ては」という言葉は、何度もうるさく、しつこいぐらいに、絶えず繰り返してという意味です、と話しましたけれど、しつこくされて根負けした裁判官が、やもめのために裁判を開いたわけでした。
それから主イエスは弟子たちに話された。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わず、彼らをいつまでもほおっておかれることがあろうか」
 神を畏れず、人を人とも思わない裁判官でさえ、しつこつやって来たやもめに対して裁判を行うように、ましてや、あなたがたよ、あなたがたもしつこい程に祈り続ける、あたかも神様が参ったと言うほどに、絶えず祈り続ける、そのような姿勢が求められるのだと話された、といった個所でありました。
 
 今日の聖書箇所は、すぐその後の話となるわけですが、弟子達に対して祈りについて話された後、更に続けて話をされた。祈りについての話が続きます。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」とあります。自分は正しい人間で、人を見下している人は誰か、と言えばタイトルからも分かりますように、「ファリサイ派」と呼ばれる、時の宗教的指導者、ユダヤ教の導き手ということになります。

 たとえの中でもファリサイ派と徴税人が登場してきます。たとえ話は少々極端な方が分かりやすいわけで、裁判官とやもめは、いわば社会的に最も高い立場にある代表的な人と、最も低い立場とみなされる代表的な人とが対比されて話され、今日の箇所は、社会的というより宗教的にもっとも高く、もっとも敬虔と見なされるファリサイ派と、宗教的には罪人とか、人々の蔑みの対象となっていた徴税人という設定となるわけです。

 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。」「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を捧げています。』
ファリサイ派と呼ばれる人たちは祭司ではありませんし、聖職者でもありません。いわば普通の人々です。色々な職業についていたとも思われます。けれど、律法に忠実に生きること、旧約聖書の教え、伝統的宗教観を厳格に大切に守ろうとした人たちでありました。彼らの生き方は人々の手本であり、尊敬を集め、それゆえ宗教的指導者としての役割も果たしていたと思われます。

 そのような一人が神殿にやって来て祈ったわけです。祭司は、この人が祈りを献げている間、香を焚き、祈りに相応しい状況を演出していただろうと言われます。

 この人はモーセの律法に従った祈りを献げました。それは整えられた祈りの姿であって、主イエスの周りで、たとえを聞いていた人たちには、よく考えられた良い祈りの姿であると感じたと思われます。また、そのように感じるように主も話されたのでしょう。

 勿論、良く読んでみれば分かりますように、このファリサイ派の祈りは、「神様」と祈った後に、わたしはという言葉が入ります。「わたしは、他の人たちのように奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく」ですからね、如何に自分は社会的、道徳的に正しく生きているかを主張しているわけで、更に「この徴税人のような者でもないことを感謝します。」と続いて「私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」この箇所はいわば、宗教的な教えに対しても正しく生きているのかを告げているわけです。神様、私は道徳的にも宗教的にも正しく生きています。

 神様に自らを自慢しているような祈りであることはどの注解書にも記されているわけです。けれど、当時の習慣からすれば、驚くべき祈りではなかったようです。ですからイエス様のたとえを聞いていた人たちは、ファリサイ派の祈りにびっくりして、酷い祈りだと思ったわけではないと思われます。

 むしろ驚いたのはそれからの話です。一人の徴税人は遠くに立っていました。どこから遠くなのか、ファリサイ派から遠くだったのでしょうか。神殿から遠かったでしょうか。神様のおられる場所から遠いという意味かもしれません。

 「目を天に挙げようともせず、胸を打ちながら」。当時の祈りの姿勢は、手と目を天に挙げて祈る、そのような姿勢が求められていたようです。徴税人の姿勢からして祈りの姿ではありません。目を伏せて、胸を打ちながら、これは、自らの罪を感じながら、という事です。そしてこう祈りました。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。これだけです。祈る姿勢としても、祈る言葉としても整えられているわけでもなく、聞いている者の心を動かすこともありません。
けれど、主イエスは「言っておくが、義とされた家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と話されました。

 このたとえを聞いた人々は驚いたと思います。日頃自分達が考えている思い、聞いている教えと逆の話をされたからです。けれど、そこにこそ主イエスが人々に伝えたい思いがあったことは間違いありません。

 一つは、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」話されたということです。このような人の特徴は、自分と人を比較する。わたしはこのような者ではありませんと主張する。それは他人の罪は良く見えるけれど、自分については見えていないということでしょう。ある牧師は「独りごとのような祈り」という表現を用いていました。

 むしろ、義とされたのは徴税人の祈りでした。徴税人は「罪人のわたしを憐れんでください」と祈りました。自分自身の内に罪を見いだし、人の前に神の前にも誇れるものは何もないと知っていたと思います。

 この聖書箇所を何度も読み、また、良く知っている話、これまで何度も読んでいる話、として読んでいる方も多いことでしょう。でも私は改めて思いました。私たちは本当によく知っているのだろうか。主イエスが教える祈りの姿勢、祈りとはどういうことかを理解しているのだろうかと改めて感じました。

 教会という場所には、色々な方がやって来ます。これまでそれほど多い経験でもありませんが、刑務所から出て来たばかりの方がやって来たことがありました。その方は、最初、酔っぱらっていたと思いますが、その後も数回話にやって来て、礼拝にも二度程出席されました。でも、それ以降はどうなっているのかわかりません。ある時は、明らかに夜の商売をしている一人の女性がやってきたことがありました。私と話をした後、これから礼拝に来ますと言って帰って行きましたが、その後、教会に来ることはありませんでした。他にも様々な方々がやって来られます。

 私は今日の話を準備しながらそんな方々を思い出していました。きっと世の中において神様からもっとも遠いと考えられる一人一人に対して、私自身がどこまで受け入れようとする思いがあるのだろうか、刑務所から出て来たばかりの堅気ではない男性、夜の商売の女性、徴税人と似ていると思います。

 何が似ているのかというと、魂の渇望です。普段なら、全くと言っても良い程に教会に来て祈ろうなどと思わないでしょう。でも、人は魂が渇き、神を求め、御霊の潤いを求める時があるのだと思います。

 奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者の一人ひとりでさえ、時には霊的渇望を感じる時がやって来るように思う。自分は自分に対しても、神様に対しても何も誇るものが無いと思う時があると思います。私たちはそのような人たちに比べるとしたら、かなり神様に近いのでしょうか。

 主イエスは「だれでも高ぶる者は、低くされ、へりくだる者は高められる」と教えられました。周りで聞いていた人々は本当に驚いたと思います。私たちは、御言葉を読みながらも、彼らほどは驚いていないかもしれません。

 聖書を読むとは、きっと驚くことです。徴税人が神の前に頭を垂れて、私を憐れんでくださいと祈る祈りを義としてくださる方の業を前にして、私たちは驚き、驚くばかりでなく、神の愛の深さに感動さえ与えられるのではないかと思う。そのような方が、自分の人生と深く関わりを持って下さろうとして、私たちの世に誕生された神の業を改めて受け入れる、それが今、この時なのだと思います。

 私たちは、時にはファリサイ派の人のように生き、時には徴税人のように生きるのだと思います。けれどどんな時も、私たちを神の子として選び、全てを赦し、罪無しとして下さるために、主イエスは働かれ十字架につけられました。

 私たちの救いはここあります。既に神の前にいることを赦されているのです。だから、私たちが祈る時には、神よ、憐れんでくださいと祈らなくて良い。

 既に神の憐れみの内に招かれています。だから、神よ、あなたを信じますと祈り続けるのです。祈り続けて生きていきましょう。    お祈りします。

人間とは何ものなのか

2022-02-13 13:29:26 | 礼拝説教
【詩編144編1~4節】
【ヘブライ人への手紙2章5~9節】

 今日の説教題を「人間とは何ものなのか」としました。詩編144編3節を読みますとこうあります。「主よ、人間とは何ものなのでしょう。あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう。あなたが思いやってくださるとは。人間は息にも似たもの 彼の日々は消え去る影」この箇所からつけた説教題です。
 
 この詩編の御言葉と、ほぼ同じ内容の御言葉が詩編8編4節以降にも記されています。そこにはこうあります。「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは人間とは何ものなのでしょう。人の子とは何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」
 
 さらにもう一個所、詩編89編48~49節(928頁)を読んでみましょう。
「心に留めてください わたしがどれだけ続くものであるかを あなたが人の子らをすべて いかにむなしいものとして創造されたかを。命ある人間で、死を見ないものがあるでしょうか。陰府の手から魂を救い出せるものが ひとりでもあるでしょうか。」

 このような詩編の御言葉を読んでいきますと、神によって創造された人間は、いかに弱い存在なのかが良くわかります。人間は儚く、脆い存在であり、時には悩み、時には患い、時には争い、時には諦め、そのような人の弱さが記されている。それは詩編全体を通しても、貫かれているテーマの一つと言えるでしょう。

 先日、ネットであるキリスト教に関係する動画を見ていましたら、こんな質問がありました。「聖書を一人で読んで、一人で学んで、一人で信じて過ごすのは良くないのですか。」
 コロナ禍だからということでもないと思いますが、私はなるほど、そう考えることも出来るかなと思いました。けれど、その問いに答えられた牧師ははっきりと「それは良くない」と即座に答えられました。
 
 聖書を一人で読む、一人で学ぶ、それもかなり厳しいでしょうが出来なくはない、けれど一人で信じるとはどういうことか。イエス様は律法の中で一番大切な教えは何かと問われた時に、「一つは神を愛すること、もう一つは隣人を自分と同じように愛する事。この教えにまさる掟はほかにない」と話されました。一人で神を信じる、それは出来るかもしれないが、一人でどうやって隣人を愛するのか。実践が伴わない信仰は正しい信仰なのか。あるいは、人は一人で信じられるほどに強くないはずだ。そのような答えだったと記憶しています。

 今日は礼拝後に婦人会の皆さんが、コロナ禍の中で、教会から足が遠のいておられる方々が多くおられる、そのような皆さんに週報の発送をされると伺い嬉しく思いました。私も色々と考えて、私なりに封筒に入れてもらえる文章を記して準備しました。文章を記した他に、もし良かったら私たちにもお便りをくださいとお願いする、「つながり葉書」というものを用意してみました。

 人が生きていく中にあって、自分は弱いなと思う出来事を幾度も経験します。私たちは2年以上に亘るコロナ感染拡大の状況を過ごしていますが、このような甚大な災害と言える状況、医療現場の方々はまさに命がけで働く日々を送っておられますし、行政や、保健所で働かれる方々には本当に頭がさがる思いがします。
 だから、皆さんよ、不要不急の外出はしないように、出来るだけ外に出ないように、これもまた大切です。しかしまた、一方においては経済活動の停滞は、日々の私たちの生活、命にも直結するわけで、不安と近況の日々を過ごさなければなりません。
 自由に出るにも出られず、集まるのに集まれない。孤独を感じ、弱さを感じておられる方々も多いと思う。そのような方々と葉書一枚でも、つながり合えるなら互いに励まし合えるなら、私たちは更に力を得て、主にある兄弟姉妹として大きな喜びを分かり合えるでありましょう。私たちは弱く、一人で信じていける程の力を持ち合わせてはいない、人間とはそういうものだと詩編は伝えているのではないでしょうか。

 人は弱い存在である。二つ目は、「主よ、人間とは何ものなのでしょう。あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう。あなたが思いやってくださるとは。」とあるように、私たち人間に対し、主なる神が親しんでくださり、思いやってくださる、御心に留めてくださるに値する、人間はそういう存在だと詩編は告げています。
 
 どのようにして御心に留めてくださっているのか、その答えの一つとして、先ほどヘブライ人への手紙の2章を読んでいただきました。
 ヘブライ人への手紙は、毎週、水曜日午前の祈祷会で共に読み進めていますが、読めば読むほどに難解で難しいなと感じるような手紙でもあります。
 
 先日我が家の夕食の時に、唐突に家族に聞いてみました。「固い煎餅と柔らかい煎餅とどっちが好き」、「鳥の軟骨ともも肉とどっちが好き」と聞いてみました。誰がどう答えたかはともかく、固い煎餅が好きと答えた人は、鳥の軟骨も好きと答えました。誰がとは申しませんが「噛めば噛むほどに味わい深く感じるから」と言っていました。
 固い煎餅、軟骨が好きな方は、是非ヘブライ書を読まれると良いと思います。でも、中々一人では読み切れませんから、祈祷会に是非おいで下さればとも思います。

 なぜ、難しいと感じるのか、その理由を説明する暇はありませんけれど、聖書が手もとにある方は新約聖書の405頁を開いていただければと思いますが、2章6節を読みますとこうあります。「ある箇所で、次のようにはっきり証しされています。「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け、すべてのものを、その足の下にしたがわせられました。」とあります。
 
 この御言葉は先ほどの詩編144編の箇所、また同様の詩編8編の箇所から引用された聖書箇所です。
 
 けれど確かに引用なのですが、読み間違えないようにして読まないと分からない箇所があって、それはヘブライ書が告げる「人間」、また「人の子」は、私たちのことではなく、主イエス・キリストのことなのです。旧約聖書で「人の子」という言葉がある時は、大体私たち人間を指しますが、新約聖書の「人の子」は多くの場合主イエス・キリストです。こういったことも難しさを感じるのかもしれません。

 ですから、あなたが心に留められる人間とは、主イエス・キリストで、あなたが顧みられる人の子も主イエス・キリストです。7節に「あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、」と続きますけれど、神の子である主イエスが天使たちよりもわずかの間、低くなったというのは、人の姿をとって、受肉されて、この世に誕生されたという意味です。

 更に続いて、栄光と栄誉の冠を授けとは、主イエスの十字架と復活の出来事を示し、「すべてのものを、その足の下に従わせられました」とは昇天され、神の右に座した主イエスの姿を示しています。
 
 主なる神が、私たちに親しんでくださり、思いやってくださり、御心に留めてくださっている証しとして、神の独り子である御子イエスを、この世に誕生させ、主イエスは私たちの罪を許すために十字架にかけられ死なれた。そこで全てが終わってしまったと思ったのに、三日の後に復活され、復活の主は天に上り、主なる神の右の座に座られた。

 この事により、主の弟子たち、使徒たちはユダヤ人に限らず、異邦人も含めてすべての人々に福音の宣教を開始し、この方こそが私たちが探し、求めていたメシア、救い主であることを広く宣べ伝えたのだと告げているのです。
 
 ヨハネによる福音書3章16節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とありますが、その御言葉の通りだと、このヘブライ書でも告げているわけです。
 
 なぜ、神がそうされたのか、繰り返しになりますが、御自分が命を与えた人間を愛していたからです。

 旧約聖書の創世記にアブラハムが独り子イサクを献げる場面があります。主なる神がアブラハムに語りかける。アブラハムよ、モリヤの地に向かい、あなたの愛する息子イサクを献げなさい。アブラハムにとっては信じられない命令でした。たった一人の願いに願って与えられた息子であるイサク、そのイサクを犠牲の献げものとして捧げなければならない。アブラハムはどう思ったことでしょう。けれど、アブラハムはその神の命令に背くことをせず、イサクと共にモリヤの地に向かい、イサクを祭壇に乗せ、刃物を取り、息子を屠ろうとしました。
 その時、「アブラハムよ、その子に手をくだしてはならない」との声がして、アブラハムは、後ろの木の茂みにいた雄羊を代わりにささげたという場面がありました。
 なぜ、神はアブラハムにこのような惨い命令をされたのだろうか、と私たちは読んで思うところがありますが、この出来事を新約聖書に照らして読むとすれば、アブラハムは主なる神、イサクは御子イエス・キリストを象徴します。神は、御子イエスを愛していたでしょう。けれど、その独り子を与える程に、私たち人間を愛して下さった。私たち人間に心を留めてくださったということではありませんか。
 そして、私たちを人としての罪から完全に赦し、主イエス・キリストは私たちの救い主、メシアでありながら、尚、私たちを兄弟と呼び、友よと呼びかけてくださるのです。
 弱くて、脆い、私たちのために、いつの時も共にいて下さるために、いつも一緒にいてくださろうとして今、天において神の右に座しておられる。
 だから、ヘブライ語を話す、ヘブライ人の皆さんよ、このことを忘れてはなりません。私たちはこの方から離れてはなりません。この方をこそ見上げながら、なんと幸いな私たちであろうかと感謝しながら、過ごして行きましょうと聖書は告げているのです。

 私たちはヘブライ人ではなく、日本人として生きていますが、しかし、主なる神に愛された一人一人です。確かに弱く、儚い一人一人です。でも、その私たちを愛してくださるかた、心に留めてくださる方を頼りに、この一週間も過ごしてまいりましょう。

 お祈りします。

目標を目指して生きる

2022-02-06 12:45:45 | 礼拝説教
詩編143編1~6節
フィリピの信徒への手紙3章12~14節
「目標を目指して生きる」

 本日は、フィリピの信徒への手紙3章から「目標を目指して生きる」というタイトルを付けました。「兄弟たち、私自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神にキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」とあります。
 
 この御言葉が、今日のこの日の礼拝に与えられたのは、何か特別な思いがします。というのも、先日の金曜日から冬の北京オリンピックが始まりました。 
それぞれの競技で、選手の皆さんは勝利を目指し、金メダルを目指して、それぞれの目標を目指して繰り返し練習し、励んできた結果を出そうとしています。私たちもその様子を見ながら感動が与えられ、感動を分かち合うことが出来るわけです。
 
 今行われているオリンピックは近代オリンピックと言いますが、古代オリンピックは紀元前776年から始まり、紀元後まで続きました。ギリシャのコリントの町でもオリンピックが開催されていたようですから、使徒パウロはマラソンとか、ボクシングとかを見たのではないかとも考えられます。
 その時の感動を思い起こし、自分達の信仰生活を何等かのアスリート競技、恐らく、マラソンではないかなと思いますが、この文章を記したのではないかと言われます。
となると、目標であるところの「前のもの」はゴールであって「後ろのもの」とは、スタート地点とも言えるでしょう。スタートしてしまえば、スタート地点がどうであったかなど、考える暇もなくなるでしょう。ゴールを目指して走り続けるのみです。そのように、自分達の信仰生活をマラソン競技のような状況に置き換えて説明しようとしたのでしょう。

 私たちの信仰生活の目標とは何でしょうか。週報にも記しましたが、先週の木曜日、郵便局に行きまして、会堂建設の際に日本基督教団から借りた負債の返済金を送りました。このことによって教団から借りていた700万円は返済終了となりました。既に神奈川教区からの300万円の返済は終わっていますので、教団、教区からの借り入れは完済となりました。私は素直に嬉しく思いました。
 新会堂が建てられ献堂式が行われたのは2015年です。それから7年、厳しい社会状況の中、更にコロナ禍が2年以上も続く中で、滞りなく完済出来たのは、私たちの教会、この教会に集う皆さんの高い意識、それはそのまま私たちの信仰の現われであるとも思います。
 とはいえ、まだ教会債の返済が残っていますので、終わったわけではありません。会堂建築返済が終わるまでは、私たちはまだ山を一つ、二つ越えていかなければならないと思います。建築返済に関しては完済すること、それが目標になるわけですが、私たちの信仰の目標がそこにある訳ではありません。

 私たちの信仰の目標、それは「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために」とパウロは記しました。この「お与えになる賞」という言葉が示しているのは間違いなく「死者の中からの復活」です。主イエスが十字架の死から復活して、パウロに現れ、言葉をかけてくださった、パウロにとってそれは決定的な事でした。死に勝利する神の復活の力、その力が一体どれほどなのか、それをなんとかして理解したい、捕らえたいとパウロが願い続けていることも分かります。
 
 先週の子どもの教会の礼拝において読まれた聖書箇所は、ヨハネの黙示録5章からの箇所でした。なぜ黙示録であったのか、「教師の友」という教団から出されている導きの本によれば、1月は「新しい命」がテーマでした。「新しい命」に関する聖書箇所が選ばれ、1月最後の礼拝ではヨハネの黙示録が選ばれたわけでありました。
 黙示録5章に記されている場面は何かというと、天の国における礼拝の姿です。ヨハネが幻でその礼拝を見たのです。礼拝の中心に玉座に座っておられる方がおられ、その右に神の小羊が位置します。すなわち父なる神と主イエスがおられる。その回りに四つの特別な生き物と、24人の長老たちがいて神を賛美している。更にその回りに数えきれないほどの天使がいて讃美を歌っている。更にその回りには、天と地と地の下と海にいるすべての被造物、あらゆるものが神を讃えて「玉座に座っておられる方と小羊とに、讃美、誉れ、栄光、そして権力が、世々限りなくありますように。」と声高らかに伝えている様子が記されてある場面であります。
 天と地と地の下と海にいるすべての被造物が神を讃えるのです。勿論、被造物の中心は人間でしょう。けれど、神に造られたすべての被造物が神を讃えている。動物も鳥も魚も、全ての被造物です。命あるものも、そうでないものも全てが神を讃え、感謝する礼拝が行われている。
 
 私は、私たち信仰者の究極的な目標は、この礼拝にこそあると思いました。全ての命が復活の命に預かり、新しい命として神に向かい、神を讃え、神を祝福するのです。人としての年齢とか性別とか、職業とか富とか健康とか、全てが取り除かれて、新しい命でもって完全な礼拝の姿がここにあると思いました。
 
 このような礼拝が必ず行われる。私たち一人一人が復活の命に預かり、完全な者とされた時、このような喜びの礼拝を献げることが出来る、私たちにとって、それは大きな目標であり、希望であると思います。

 私たちの地上の命は、確かに限られています。人は必ず死を迎えます。

 死に対して神の希望ではなく、死に捕らえられてしまうとどうなるか、一つは、生きる希望を失い、目標を失います。どうせ何をしても、と空しく生きてしまう。二つ目は、どうせ死ぬのだからと、生きていく計画を失い、自分の好き勝手に生きてしまう。最近ニュース等で人を傷つける事件が度々報道されます。特に最近は、「誰でも良かった」といった無差別殺人事件のような出来事が報道されます。人が目標を失い、希望を失うとどうなるのかを知らせているのかもしれません。
 私たちは、死に捕らえられ、飲み込まれるのではなく、死の向こう側にある「復活」の力を信じて生きていきましょう。更にそれは、死んだ後のことではなく、直ちに、だから今をどう生きるのか、神に捕らえられた者の生き方が問われてくるのだと思います。

 特に苦難、試練と思える出来事が起こった時に、どのように生きようとするのかが問われます。今日は、詩編143編を読んでいただきました。ダビデの詩と記されている詩編です。
 
 詩編には度々、ダビデの名による詩が登場し、苦難の中、神に祈る姿が記されています。その多くは、ダビデが王になる前に、サウル王に追われ、追っ手に追われ、窮地にいる状態で神に祈る場面の詩編ですけれど、この143編は、ダビデの晩年だと言われます。晩年に何があったかと言えば、息子に命を狙われるという出来事がありました。

 ダビデが愛する息子のアブサロムが反乱を起こし、ダビデに迫ってくるのです。ダビデは戦いを望まず、むしろ逃げて、逃げて戦いを避けるのですけれど、結果的には戦いとなり、息子アブサロムはそこで命を落とし、ダビデはその知らせを聞いて父親として、身を震わせて泣き出すのです。

 ダビデ王は、イスラエル民族からすれば英雄です。歴史を振り返ってもダビデ王以上の王はいないと言えるでしょう。けれど、ダビデは王になる前にはサウル王に追われ、晩年には息子の反乱を受けました。ダビデ自身、どれだけの試練を生きなければならないのかと思ったでしょう。けれど、また、ダビデは王として最も充実していた時に、最も大きな罪を犯しました。家臣ウリヤの妻、バト・シェバと関係を持ったことでありました。
人は豊かになった時、裕福になった時、最も神と遠くなると言われます。自分は大したものだと思うからでしょう。けれど、人は苦難、試練に出会う時も神を忘れる危機を迎えるのです。

 ダビデは息子アブサロムの反乱という試練を受けました。その時143編の祈りを捧げました。5節を読みましょう。「わたしはいにしえの日々を思い起こし あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し、御手の業を思い巡らします。」
いにしえの日々とは、昔の事です。後ろのものです。後ろのものは忘れて、前にいかなければなりません。けれど、後ろのものでも決して忘れてはならないことがあって、それは自分に関わってくださった主なる神の恵みの一つ一つ、試練の中にあって支えてくださった神の祝福の一つ一つ、神様の支えによってこれまでは自分は生き、生かされてきたということだけは決して忘れてはなりません。

 試練とは自分では変えがたいと思える出来事です。自分の力では如何ともしがたい場面です。その時に、私たちは自分の信仰が試されます。そして二つの道のどちらかを選ぶのです。この出来事を通してもっと神に信頼するのか、不平、不満、愚痴を語り続けるのかのどちからです。

 私たちが、生きていくためには試練は避けられません。けれど、そのことを通しても、私たちは神を信頼し、神を求め、天の国の完全な礼拝という目標を目指して、生きている時も、死んだ後も、主の支えによって生かされますように願いつつ、過ごして参りましょう。

 お祈りいたします。