日本キリスト教団 大塚平安教会 

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気を落とさずに絶えず祈る

2022-01-16 16:12:48 | 礼拝説教
詩編140編1~14節
ルカによる福音書18章1~8節
「気を落とさずに絶えず祈る」

 本日は、ルカによる福音書18章からの箇所を読んでいただきました。「やもめと裁判官」というタイトルが付けられた箇所になります。ある裁判官がいて、そこにやもめが裁判を開いてくれるように必死にお願いするという内容です。聖書に親しみ、また礼拝に出席されている方であれば、これまで一度ならず、二度ならず、何度も読んだ方もおられるでしょう。説教で聞いたという方もおられるでしょう。そういう意味では、今日読まれた聖書箇所も、私たちは知っている聖書箇所の一つと言えると思います。
 けれど、この話はイエス様のたとえ話の一つですが、なぜ、イエス様がこのたとえを話されたのか、あるいは誰に対して話されたのですかと問われたとしたらどうでしょうか。上手く答えられないかもしれません。

 なぜイエス様がこの譬を話されたのか、誰に対して話されたのか、その答えは18章1節に記されています。「イエスは、気をおとさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」なぜ話されたのかの答えは、「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」ことを教えようとした、ということです。誰に話されたのか、弟子達に対してです。
 
 では、なぜ弟子たちに気を落とさないように祈りなさいと言わなければならなかったのか、それは前の17章の内容にあるわけです。
 
 17章20節からの箇所は「神の国が来る」というタイトルが付けられています。ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねてきた場面です。その問いかけに「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と答えられた、その後で、主イエスは弟子たちに顔を向けて話をされました。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることは出来ないだろう、『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人の後を追いかけてもいけない。」と続きます。更に読んでいくと、黙示的な表現で人の子が現れる前に起こる、この世の惨劇を話し始めるわけです。
 
 聞く弟子たちにとっては詳しいところまでは分からないけれど、自分達が思っていたようではなく、聞けば聞くほどに恐ろしい出来事が次から次へとやってくることだけはわかる。そんな状況で22節に戻りますが、「人の子の日を一日だけでも見たいと望む日が来る、けれど、見ることは出来ない」ですから、その恐ろしい場面で主が自分達の傍らにおられないというというのです。恐らく、このような状況は、一言で言えば、迫害の時代を示唆しているものと思われます。ルカによる福音書が記された時代、明確にいつとは言えないとしても、キリスト教徒が迫害を受けていた時代であることは間違いありません。
 
 ですから、直接主イエスの教えを聞いた弟子たちにとっても、この福音書が記され、読んでいた人々にとっても、あるいは今を生きる私たちにとっても、大切なことですが、主イエスは「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子達に」このたとえ話をされたと言っても良いでしょう。

 たとえ話ですから話はそれほど難しくはありません。登場人物は一人の裁判官と一人のやもめです。
 
 人の歴史の中で、古い時代であっても法律があるのであれば、そこに裁判官という職業がありました。法に照らして正しいのか正しくないのか、あるいはどちらが正しいのか、裁判官はそういった問題を裁く権威が与えられていました。
 けれど、イスラエルの裁判官は他の国とは違う権威があったと思われます。それは、神様から与えられた律法に照らして、人を裁くという権威があったということです。神様の律法は、これまで何度も申し上げていますように、出エジプト記において、指導者モーセが主なる神から与えられた教えであり、当初はその律法に照らして、モーセ自身が裁いていたのですが、余りにも多くの人々がやって来るものですから、モーセはモーセの姑にあたるミディアン人の祭司エトロから知恵を授けられて、「神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として選んで、平素は彼らに裁かせて、大きな事件の時だけはモーセが裁きを行う」というシステムを作り上げたとあります。このシステムは後の時代にも力を発揮したと思いますけれど、他にも祭司であるとか、長老、律法学者といった人々、あるいは預言者もまた裁きを行ったと思われます。いずれにしても、イスラエルの裁判官にとってもっとも必要なことは、誰よりも神を畏れる人であり、また、社会的弱者を守り、支え、神の義を民に示す役割が与えられていたわけです。

 ところが、主が話されたたとえ話に出てくる裁判官は、そのような裁判官とは正反対です。「ある町に、神を畏れず人を人と思わない裁判官がいた」というのです。神を畏れず人を人とも思わず、つまり、自分にとってどれだけの利益があるのか、どれだけ儲けがあるのかによってどんな裁判もするような裁判官であったわけです。たとえ話ですから少し極端なほうが分かりやすいでしょう。ところが、そのような裁判官のもとに、やってきたのは、一人のやもめです。「やもめ」という言葉が表しているのは、社会的に、最も弱い立場の人間という意味でしょう。社会的に最も強い立場の、しかも、ろくでもない裁判官に、社会的にもっとも弱い立場のやもめがやって来たというのです。
 
 しかもただやってきたのではなく、3節に「裁判官のところに来ては、「相手を裁いて、わたしを守って下さい」と言っていた。とありますが、なにが大切かというと、「来ては」という言葉です。この言葉の使い方が、文法的に見ると継続と言いますか、リピートを意味していまして、裁判官の所に、何度も何度も来ては、しつこいぐらいに、うるさいぐらいに、嫌になるぐらいに来ては「わたしを守ってください」と迫ったと言う訳です。

 当初、裁判官にとって、賄賂も持ってこない、袖の下も使わない、自分にとってなんの利益にもならない、まして「やもめ」の訴えなど知らないふりをしていたのですが、ついに、そのしつこさに根負けした裁判官が折れて「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。」ついに根負けして、やもめのために裁判を開くことが決まりましたという、イエス様が話されたたとえ話です。

 このたとえ話からイエス様が弟子たちに、あるいはその回りにも多くの群衆がいたとも思いますけれど、主が伝えたかったことは7節以下に更に分かりやすくしるされます。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

 神を畏れず、人を人とも思わない裁判官でさえ、このようにしつこくされたら、うるさくてかなわないから裁判を開くのであれば、まして主なる神は、私たちのためにどれほどに心を砕き、神の正しい裁きを示してくださるであろう、、だから大切なことは、「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」となるわけです。
 
 今日は、先ほど詩編140編を読んでいただきましたが、ダビデの詩と紹介されていますけれど、必ずしもダビデと考えなくても良いでしょう。けれど、詩編の作者が与えられている状況は極めて深刻であることがすぐに分かります。この作者の周りには、自分をさいなむ者がいて、不法の者がいて、悪事を謀る者がいて、絶え間なく戦いを挑む者がいるのです。そのような状況にあって、「主よ!」と救いを求め、「嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください」と必死に願っています。何度も何度も祈り願っています。なぜそうなのか13節にこう記されてあります。「わたしは知っています。主は必ず、貧しい人の訴えを取り上げ 乏しい人のために裁きをしてくださることを。」
 
 この作者の与えられている状況がどんなに辛く、厳しいものであっても、主は必ず自分の祈りを聞き届けてくださる、このことを信じて疑わないのです。辛く、厳しい詩編だと思いますけれど、良く読んでいくと大きな励ましを受ける思いがいたします。

 今、私たちに与えられている状況もまた、非常に厳しい状況となって来ました。オミクロン株が流行り始め、コロナウィルス感染者がものすごい勢いで増加しようとしています。すでにコロナウィルス感染の脅威は丸二年近くとなり、神の教会の働きは、私たちが思い願うようになっていきません。神の国の福音伝道も多くの教会で停滞し、また進められていません。私たちの教会も例外ではありません。けれど、だから諦めようというわけでは決してありません。
 
 ルカによる福音書に戻りますが、今日読まれた最後の18章8節「言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」この言葉もまた印象的な御言葉です
 人の子が来て、地上を見たら誰も信仰者がいないことになっているだろうと言っているのではなく、そのようなしつこいほどに願い、求め、祈る信仰者がいることを私は願っているという意味で用いられています。
 
 状況によらず、絶えず祈ることです。ローマ書8章26節に「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」とあります。体裁よく、整えられた祈りも良いものです。けれど、多くの場合、わたしたちは主に対して本当のところは、「どう祈るべきか」を知らないのではないでしょうか。何が正しく、何が正しくないのか、私たちは自分で決めることは出来ません、だからこそ、私たちは主の前に、ひたすらに、謙遜に、けれどなによりも気を落とさないで祈り続けて参りましょう。主よ、あなたこそが何をもご存知ですと祈り続けましょう。このことを通しても、主の御栄が現わされますようにと祈り続けて参りましょう。

 お祈りいたします。
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全ては最善に

2022-01-09 11:58:53 | 礼拝説教
【詩編139編11~12節】
【ローマの信徒への手紙8章26~28節】


 今日の説教題を「すべてが最善に」といたしました。木曜日に雪となりまして、大分寒い日が続いておりますが、昨日朝から今日の準備に牧師室にこもっていたのですが、暖房をつけても大分寒い、それで肌着のシャツが薄いのではないかと思いまして、着替えようと家に帰りました。戻りながら歩きながら、「すべては最善に」、「すべては最善に」と考えながら戻りまして、家に入ってマスクを外して、眼鏡をはずして、着替えて、良しこれで大丈夫、と思いながらまた「すべては最善に」と頭で巡らしながら牧師室に戻りまして、改めてさあやるぞとパソコンの前に座ったら気が付きました。眼鏡をしていない。マスクをすると、耳の感覚がメガをしているように感じるものですから、気が付かなかったんでしょうね。
 あ~しまったと思いましたが、また家に向かって歩きながら更に本気になって、「すべては最善に」「すべては最善に」と自分に語り掛けた訳でありました。(笑)


 新約聖書からローマの信徒への手紙8章を読んでいただきました。28節にこうあります。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。」とあります。この箇所を御自分の愛唱聖句としておられる方も多いと思います。
 「御計画に従って召された者」とは、亡くなられた方ではなく、神のもとに集められ、信仰者として生きている者、つまり「神を愛する者」とされた人、という意味です。
 つまり、今共に礼拝を守っている私たちのことであり、今、ここにおられなくとも、信仰の兄弟、姉妹として共に歩んでいる一人一人も含めて、私たちに与えられている特権のようなものがあって、それが「万事が益となるように共に働く」のだと信じられる信仰です。
 
 教会には年間を通じれば、多くの方が訪ねて来てくださいます。時にはどこにも行けないけれど、ここに相談に来ましたという方も少なくありません。人はそれぞれの人生を生きていますから話される内容は全く違うわけですが、上手く解決していく時と、解決にはまだ時間がかかるかなと思える時との違いがありまして、どこが違うかというと、自分の過去を自分が許しているかどうかという点にあります。
 
 ある時に一人の青年がやって来たことがありました。既に二十歳を過ぎておられましたが、悩み多く、仕事も見つからないというのです。
 なぜそうかというと、中学生の時にイジメを受けたというのです。イジメは虐待ですから本人にとってみれば本当に辛い経験であったと思います。出来るだけ丁寧に話を伺ったつもりでしたが、その次に来た時も、更にその次に来た時も、自分がこうなのは、中学生の時のイジメが原因だというのです。いつも同じ話をされる。長い期間、話を伺いましたが、暫くして気が付いてきました。
 今が良くない状況を生きていると思っている人は、過去にその原因があって、その過去の原因が解決しないから今も良くない、そんなふうに考えているのではないか。

 今日の9時からの子どもの教会ファミリー礼拝はヨハネによる福音書の3章という箇所でした。ファリサイ派に属し、ユダヤ人たちの議員でもあったニコデモという人がある夜イエス様を訪ねてやってきました。 
 話をする中で、主イエスは「はっきり言っておく、人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」と話された。ニコデモは驚いて「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることが出来るでしょうか。」ニコデモは検討違いの答えをしたわけですが、新たに生まれるとは、勿論、これまでの自分に死んで、主なる神と共に生きる者となるという意味ですが、ニコデモは、自分は既にそのように生きていると思っていたのか、或いは、自分は生まれた時から神の民として生きて来たと思ってきていたので、逆に理解出来なかったのかもしれません。
 
 でも、大切なのはファリサイ派であろうと、ユダヤ人の議員であろうと、新たに生まれることです。生まれ直って、日々新たな信仰に生きることです。その為には過去の自分を引き摺らない。引き摺らないと言っても、経験したことは忘れることは出来ませんし、忘れられません。でも、あの事があったから、あの苦しみを経験したことによって今の自分があると現在を受け入れられるようになるとしたら、気持ちも生き方も変わるのではないでしょうか。過去に引きずられ、過去を生きていると現在を生きられなくなるのです。

 12月のクリスマス礼拝では洗礼式が行われ、私たちに新たな兄弟が与えられまして、喜びの礼拝となりました。洗礼式に先立って私は洗礼準備会を行います。そこで必ず話しますことの一つに「過去を許し、現在を褒め、将来を励ます」という話です。
 
 特に大切なところは、「過去を許し」です。自分の人生を振り返った時に、特に主なる神の愛、神の恵みを知れば知る程に、自分がいかに神から離れ、自分自身に生き、罪深く生きて来たかを思わされるものです。
 
 古代の偉大な神学者アウグスティヌス(AD 354-430)は、76歳まで生きましたが、32歳の時に決定的な回心を経験するのですが、神を知るまでの人生、前半の30年と、主なる神と出会った後の40年は全く違った人生を生きた人でした。
 前半の30年、一面においては勉強熱心で高い能力を持つ人として評価されていましたが、アウグスティヌスは「告白」という書物の中で、こう告げています。「19歳から28歳までの9年間、わたしは様々な情欲の中で、誘惑されたり、誘惑したり、騙されたり、騙したりして過ごしました。」

 青年と呼ばれる時期ですから、演劇やスポーツに打ち込んだりもしたようですが、友達と馬鹿騒ぎもする、時には盗みや悪さもする、18歳からは好きになった女性と同棲して、子どもをもうけたにもかかわらず、結局は別の女性と結婚することになります。自ら放縦な生活をしたと告げています。
 けれど、それから劇的な神との出会いを経験し、過去を許される経験をするのです。元々高い能力を持ち備えていたわけですから、以来、キリスト教の司教となり、生涯を生きることになるのです。
 アウグスティヌスにしてそうなのですから、人の人生には、最初から定まった道が備えられているわけでもなく、決まりきった意味が与えられているわけでもないことがわかります。

 時には思いもよらない出来事が起こったり、良いと思っていた所から悪しき結果が出てきたり、時にはその反対となったり、もあり得るでしょう。人生の評価は、その時その時の一部によって評価するのではなく、断片的に見るのでもなく、刹那的な捉え方をするのでもなく、重層的ですから単純には評価出来ません。でもそのような複雑さの中で、アウグスティヌスは神を知り、自分の人生の全てに主なる神がおられたと理解しました。そのことによって過去が許され、神に立ち返り、前を向いて、自らがなすべきことを見いだし、神に仕える生涯を送りました。
 
 神と出会い、過去の赦しを知ると、今与えられている状況を受け入れることが出来ます。状況を受け入れ、なすべきことは何かに集中できるようになります。

 そうなると、その先には、今与えられている状況から、自分の将来を見つめることが出来、確かな目標に向かって歩みだすことが出来るのです。

 アウグスティヌスは若い頃、マニ教という教えに傾倒していました。元々キリスト教の異端的な教えですが、決定的に違うところは、世の中には良い世界と、悪い世界があると教えました。その為に善い神と、悪しき神がいると教えました。キリスト教では、善なる神のみと教えましたが、では、世の中になぜ悪いことばかりが起こるのか、という問いに明確に答えることが出来たようです。一面では分かりやすいのです。マニ教では、天地創造の神は、悪しき世を作った悪しき神とされていたようです。

 けれど、次第にマニ教に対しても懐疑的となり、キリスト教徒であった母親の祈りと影響も受け、その後、自分で自分を救うことは出来ず、ただ神の恵みによって、その恵みを信じる信仰によってのみと教えるパウロの御言葉から強く影響を受けて、キリストを信じる者となっていきました。

 キリスト教は、天地の創造主である主なる神、主なるキリストこそが我らの救い主であると教えます。そして、その方を信じる者の信仰は「すべてが最善に」です。

 旧約聖書詩編139編、12節を読みます。「闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち 闇も、光も、変わるところがない。」
 
 夜も、昼も、闇も、光も、それらのものは相反していくのではなく、二つの世界があるのではなく、ただ一つの世界があります。出エジプトを果たしたイスラエルに神様は、昼は雲の柱、夜は火の柱を示して、行く道を照らしました。昼も夜も、どんな時も主なる神が与えたもうた時であって、全ての事が相働いて益となり、私たちは良い状況へと導かれていくことを信じる信仰を養いましょう。そのように生きてまいりましょう。過去のあの事、この事に振り回されることなく、過去を許し、現在を褒めて、将来を見つめて過ごしてまいりましょう。

 お祈りしましょう。
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わたしを知る方がいる

2022-01-02 12:41:02 | 礼拝説教
【詩編139編1~6節】
【ルカによる福音書2章22~38節】

 新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願します。新年最初の礼拝で読まれましたのは詩編139編です。

 「主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだまだひと言も語らぬさきに 主よ、あなたはすべてを知っておられる。」

 新しい年を迎えるにあたり、私たちの心に直接的に訴えかけるような相応しい御言葉だと思います。
 主なる神がわたしを究める程に、わたしを知っておられる。

 過ぎるクリスマス、御子イエスが誕生された聖書箇所を私は何度も読みましたが、マリアの夫となるヨセフのもとに現れた天使は、ヨセフに向かって語り掛けました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は「神は我々と共におられる」という意味である。
 インマヌエルとは天地創造された神が、私たちと共におられる、そのような出来事を目で見え、理解できるようにとクリスマスの出来事が与えられたとも言えます。
 
 昨年一年かけて、水曜日の祈祷会では、出エジプト記を読み続けました。
エジプトにおいて400年住み続けていたイスラエルでしたが、エジプトの王が変わり、政治政策が変わり、イスラエルの民は奴隷とされてしまいます。
イスラエルはその過酷な労働のゆえにうめき、叫んだとあります。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神の耳に届き、神は嘆きを聞いて、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされました。
主なる神は、アブラハムと共におられ、イサクと共に歩まれ、ヤコブと共にその道を進まれました。私はあなたと共にいるという約束を再び思い起こし、イスラエルとの約束を果たすために、モーセを指導者として、イスラエルをエジプトの奴隷から脱出させ、脱出させるだけでなく、自らが、昼は雲の柱、夜は火の柱となってイスラエルを導き、40年かけて、神が約束された「乳と密が流れる」と言われる程肥沃な土地であったカナンの土地を目指して進み行かれました。

 けれど、皆さん自分達が信じていると思っている主なる神が400年前に、確かに先祖のヤコブと共におられた神であることを知らされていたとは思いますが、400年という年月は短くありません。話としては聞いている、話としては知っている、けれど、それと自分達の生活とどういう関係があるのか、というより主なる神は私たちと実際に共におられるのかとイスラエルの人々は感じていたのではないでしょうか。

 その為、エジプトを出たのは良かったと思った、本当に喜びであったけれど、その状況が悪化すればすぐに信じるよりも、愚痴や不満が出るのです。エジプトを出たと思ったら、エジプト軍が追ってくる、自分達はここで死ぬためにエジプトを出たのかと不満を述べたら、海が二つに分かれて助けられる。
良かったと思ったら、今度は腹が減って来た、エジプトには何でもあったのに、ここには何もないと不満をぶつける。喉が渇けば、水を飲みたいと訴える。
イスラエルは何度も何度も不満をぶつけながら、でも、その都度、モーセは神に祈り、解決されていくのですが、三か月後にシナイ山に到着して、モーセは山に登り、主なる神から十戒を伝えられ、石に刻み、その板を持って下山するのですが、山にいた期間は40日です。

 イスラエルの民は40日まてませんでした。もはやモーセは当てにならんと金の子牛を作って、それを神様にして、その回りで飲めや歌えや、の大宴会です。その様子に流石の神様もわしゃもう知らんと怒り爆発して、もう私はあなたがたと共にいくことはしないと伝えるのですが、モーセの命がけの執り成しによって、神は思いを変えて、民と共にいくことをイスラエルに伝えるのです。
イスラエルの民は、このような神に背くような体験を何度も繰り返す中で、しかし、一つ一つの体験が重なり自分達の経験として培い、そして、この方は本当に自分達の主なる神であって、この方はどんな時も自分と共にいてくださる方なのだと知ってくるのです。頭だけの知識だけの神ではなく、まさに生ける神として、生ける神が共におられる、そのような信仰に至っていく訳です。

 詩編139編の作者が与えられた状況は、出エジプトの民のそれとは違った状況であろうと思います。けれど、確かなこと、それは主なる神は、インマヌエルの主は、この自分と確かに共におられる、そういう確信を得たということでありましょう。

「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。」知っているとは、別の言葉で言えば、「大切に思っている」もっと言えば「愛している」です。
 
 クリスマス礼拝に、教会員の松M君が久しぶりに礼拝に参加されました。奥様と子ども二人を連れて四人で参加されました。元気だったと挨拶しましたが、金曜日の聖夜礼拝にも四人で参加されて、良かったと思っていたら土曜日の子どもの教会のクリスマスにも参加してくださいました。色々と話が出来ましたけれど、家内から聞いたのですが、今度の3月に4歳になるY君という長男がおられる。彼は電車が大好きだそうで、今度新幹線を見に行くというのです。新幹線なんて一瞬じゃないのって聞いたら「止まっている駅の新幹線でしょ」と呆れられ、「海老名の『ロマンスカーミュージアム』はもう見に行ったって」と言われて、「え!そんなミュージアム、海老名にあったの」と聞き返したら、更に呆れられてしまいました。

 調べましたら去年の4月にオープンしているようですが、でもそれは私が調べて分かったことで、本当に分かっているのは4歳のYくんのほうが何倍も、何十倍も、良く知っている。

知っているとは愛している、大好きだという意味なのです。知識としてというよりも体験として、経験として、そのようにして主なる神が、自分をこんなにもよく知っておられたのか、愛してくださっておられたかという経験をされた方は実に幸いです。

 そのような感覚は、その人の生涯を支え、その人の信仰はゆるぎないものとされていくでありましょう。「親思う心に勝る親心」という言葉がありますが、どんなに子どもが親を思うとしても、その思いに勝って、親は子を愛しているものです。
 そのようにして主なる神がこの私を、他の人には申し訳ないと思うけれど、こんなにも愛して下さっている、そう感じておられる方ばかりがここにおられるわけですけれど、それは信仰を持つ者のみが持つ、幸い、特権と言うことも出来るでありましょう。
 
 更に「座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる」と続きます。
「座るのも立つのも」、「歩くのも伏すのも」つまりは、どんな時も主が共におられるということでしょう。

 私たちの悩みはどこにあるのかというと、遅いよりも早い方が良いよ、出来ないよりは出来た方が良いよ、貧乏よりも金持ちが良いよ、病気よりは健康が良いよ、と家庭においても、学校においても、社会においてもそう教わって来ましたし、自分でもそうだと思いながら、自分達の人生を生きているようなものです。悪いものは悪いし、良いもの良い、そういうものだよと教わって来ていますし、確かにその通りだと思います。 
 でもね、私たちはそこで悩むのです。なんで出来ないかな、なんで貧乏かな、何で病気かな、座っているより立った方が、伏しているより歩いた方が、つまり、そうやってあたかも世の中には二つの状況があって、悪い状況は悪い、だから良い状況にならなければと願うわけです。

 今年は、コロナ禍も少し落ち着いて、神社、お寺さんと初詣の方が昨年よりはずっと多くなっていると思いますが、手を合わせてお願いするわけです。どうか、家内安全、商売繁盛、無病息災、宜しくお願いします。私たちも全く同じ思いです。願わくは、この年、良い年となりますようにと祈り願います。でも、状況によって良いとか、状況によって悪いとかではなく、私たちの信仰の秘訣は「どんな時も」ですよ。

 結婚する二人が結婚の誓いに、「幸いな時も、災いに会う時も、豊かな時も貧しい時も、健やかな時も病む時も、互いに愛し、敬い、仕えることを約束しますか」と問われた時に、必ずそのようにしますと誓いを立てるわけですが、つまり「どんな時も」ですよ。
 主なる神が、インマヌエルの主が私と共にいてくださる、しかも、どんな時もいつも共にいてくださる、だから大丈夫と、平安の心を持ち続けていくことです。その思いを生きる人こそが幸いを生きていけるのです。

 先ほど、ルカによる福音書から「シメオンとアンナ」の場面を読んでいただきました。清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるために、神殿に連れて行きました。そこにシメオンという人がいた、この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、メシアに会うまでは死なないと聖霊により告げられていた人でした。シメオンは御子イエスをその腕に抱き、どれほど喜んだことでしょう。主なる神を讃え、祝福に満たされたことでしょう。女預言者のアンナもまた、御子の到来、エルサレムの救いを人々に告げる幸いを与えられた人として記されています。

 この二人はどんなに幸いかと思います。けれど、この二人の何が素晴らしいかというと、どんな日も、繰り返される毎日を、通り過ぎていく日々の生活の中で、主なる神が自分と共におられ、そしてメシア、救い主に対する希望を、どんな時も持ち続けて生きて来た姿ではないでしょうか。その姿に私たちは感動するのではないですか。

 2022年という年、私たちにもインマヌエルの主が、共におられます。どんな時も、いつも共におられます。だから大丈夫、幸いを生きていきましょう。希望を持って生きていましょう。主なる神を讃え続けて生きていきましょう。

 お祈りします。
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