日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

声をあげ、主にむかって

2022-01-30 14:47:01 | 礼拝説教
【詩編142編1~7節】
【ヨハネによる福音書5章1~9節】

 ヨハネによる福音書5章から「ベトザタの池で病人をいやす」という箇所を読んでいただきました。

 ベトザタという意味は、明確ではないようで、「慈しみの家」とか「オリーブの家」といった意味があると言われています。

 言葉の意味ははっきりしていないとしても、この池は、イスラエルの人々からすれば、特別な池であったことは間違いありません。

 細かい箇所ですが、5章3節の次が5節になっています。4節がありません。なぜ無いのかというと、恐らく後のある時代に、4節に記された御言葉は加筆されたであろうと考えられているからです。その印が小さな♰のような印です。
 口語訳聖書には4節がカッコに入れられて記されていまして、そこにはこうあります。「彼らは水の動くのを待っていたのである。それは、時々、主の御使いがこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」
 恐らく、この御言葉は読者が読んで理解しやすいようにと後の時代に記されたのでしょう。

 でも、この文章がありますと確かに分かりやすい。ベトザタの池の周りには多くの病人が集まっていたであろうと思われます。池の大きさは割合に大きかったようです。凡そ100m×60m位はあったと言われています。現在は、この池があったと言われる場所に「聖アンナ教会」と呼ばれる教会が建っているそうです。アンナはマリアの母親の名前です。
 
 皆さん、頭の中に台形を思い浮かべてください。台形には四辺あります。その四辺の中に一本線を入れると五つになります。それが「五つの回廊」となって、池の周りと中央に廊下が設置されて、そこを歩ける、あるいは座れる、あるいは寝そべることが出来るようになっていたと思われます。
 
 今、新型コロナウィルスの影響の中、病院に沢山の患者が詰めかけているようです。けれど2年前のコロナ前であっても、病院には多くの患者、病人で一杯でありました。病院は、病気にならなければ行くところではありませんが、殆ど行ったことのない方、これまで一度も入院したことのない方は幸いだと思います。お見舞いに行くということもありますけれど、病院に行くとこんなにも病人がいるのかと改めて驚くような思いをする時があります。
 
 イエス様の時代、現代のような病院などはあるはずもなく、池の周りには、そのようにして多くの病人がいたと思われます。「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人」など、実に大勢の人々が癒されたいと願い、弱っている体を押して、あるいは誰かに連れて来られて通っていたのでしょう。

 1節を見ますと「ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた」ともあります。この時の祭りは恐らく「過越しの祭り」と考えられます。いわゆる巡礼の祭りの一つで、多くのユダヤの人々が祭を祝うために、エルサレムに向かいます。主イエスも、この祭りのために、エルサレムに向かったのでしょう。神を賛美し、自分達の先祖は、エジプトで奴隷の民であったけれど、主なる神がエジプトから導き出し、自由の民となったことを忘れないように行われる喜びの祭り、それが過越しの祭りです。

 多くの人々が祝い、賑わうそのエルサレムの城壁の羊の門と呼ばれる門からさほど遠くないところにベトザタの池がありました。一方においては喜びの祭り、しかし、対比されるようにして祭りであろうと、なんであろうとも、池の周りには、病気で苦しむ大勢の病人が毎日集い、癒し、救いを待ち望んでいた。ここには笑顔も喜びも見いだされなかったでありましょう。

 主イエスはその池にやって来ました。そこに38年も病気で苦しんでいる人がいました。主はその人を見て、もう長い間病気であることを理解されました。なぜ、大勢の病人がいる中にあって、なぜこの人だったのでしょうか。なぜ、この人に主は目が向いたのでしょうか。

 ある先生は、「恐らく多くの病人の中でも、最も絶望的な思いを持っていた人であると主は理解したのではないか」と告げています。38年という年月、出エジプトを果たしたイスラエルは、神の与えたもうカナンの土地を目指して荒野を40年旅しました。
 男子だけで60万人もの人々がエジプトを出たにも関わらず、40年後、目的のカナンの土地に生きては入れた人は、僅かに二人だけでした。モーセでさえ、その土地を目前にして天に召されていきました。

 そのことを思うと38年という年月、病気で苦しんでいる、それは人生そのものが病気というか、病気以外の人生を知らなかったと言ってもいいかもしれません。どのような病気であるのか分かりませんが、一人では動けない状況でした。
主は「良くなりたいか」と話しかけました。この言葉に病人は「主よ、水が動くとき、わたしを池の中にいれてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」と答えました。この言葉は自分の病気に伴ってくれる人は誰もいません、という意味でしょう。この人は一人で苦しみ、一人で悲しみ、痛みに耐え、そして絶望していたと思います。

 その様子を見て主は言われました。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出しました。自分の人生になんの希望も見いだせず、ほとんど絶望していた一人の人、恐らく多くの病人の中でも、最も絶望的な思いであったろう人、しかし、そのような人をこそ立ち上がらせてくださる方こそが主イエス・キリストです。

 先ほどの先生は続けて「最も絶望的な思いを持っていた人」とは、すなわち私たちではないかとも告げられました。私は、本当にその通りだと思います。なぜ、私たちが神を信じたのか。なぜ私たちが神を信じているのか、この方こそ、私たちの様々な絶望のその先に希望の灯を灯された方であると、私たちも、それぞれに様々な体験を通して、そのように信じているのではないでしょうか。

 38年も病気で殆ど何も出来ず、池の周りにうずくまるしかない、自分の人生はこんなものでしかない、あるいはなぜ自分は生まれて来たのだろう、と諦めていた命に、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と自らが行動を起こすように促し、体を癒してくださり、希望を与える方こそ私たちが信じる神、主イエス・キリストです。

 詩編142編を読んでいただきました。この詩編もまた、圧倒的な絶望の中にあって、主に救いを求めている詩編です。ダビデの詩、ダビデが洞穴にいた時、祈り。とタイトルが付けられています。この時、ダビデはサウル王の追っ手に追われていました。難を逃れてガドの王であるアキシュを頼って、ガドの地域までやって来るのですが、アキシュはダビデを迎え入れようとしません。それどころかアキシュ王にも命が狙われるかもしれないと悟ったダビデは、自ら気が狂ったふりをして、アキシュの前に現れて、呆れたアキシュはダビデを追い出して、なんとか命は助かるのです。しかしその後、ついに洞窟の中に逃げ込んで、身を沈めるようにして過ごすのです。

 サウル王には命を狙われ、ガドの王には見離され、もはや打つ手がない状況の中で、しかし、主なる神に向かいほとんど絶望的な中にあっても、「声をあげ 、主に向かって叫び 声をあげ、主に向かって憐れみを求めよう。」と祈ります。6節にはこう記されます。「主よ、あなたに向かって叫び、申します。『あなたはわたしの避けどころ 命あるものの地で わたしの分となってくださる方と』
 
 神様、あなたのみが私の避けどころです。あなたこそが頼りですと願い祈り続けるのです。その祈りをささげた後、不思議な事にダビデのもとに、ダビデを慕った仲間が続々と集まり、ダビデは一人ではなくなり、その後は、難を逃れながら、ついにはイスラエルの王となり、イスラエルの民に最も愛された王の一人となっていくのですが、人生の最も苦しい時、辛い時、長い暗闇のトンネルだと思うような時、私たちは、ダビデのように、自分は一人だと思うのではないでしょうか。誰も助けてはくれず、誰も救いの手を差し伸べてはくれないと思うのではないでしょうか。

 けれど、そのように思う時、それは既に、罪に陥る一歩手前のようなものではないでしょうか。罪とは的をはずすことだと言われますけれど、私たちは的をはずすことなく、主に祈り、求め続けていきたいものだと思います。

 主なる神はダビデと共におられた。そして主イエス・キリストは38年もの間、見放されたような一人の病人の為に働かれました。この出来事は、神様の働きは民全体の中で働かれると言うよりも、一人ひとりのその与えられた状況、人生におられると私は思います。そのようにして、主イエスは福音を宣べ伝えられました。

 この教会全体のために神がおられるのではなく、神が自分と共におられたと信じる一人一人が集って教会となっていくのです。
 全体のために誰かが犠牲になるのではありません。主の恵みに生きる一人一人によって体となり、一つとなっていきましょう。

 厳しい社会状況が続き、緊張が強いられる毎日の中にあっても、神を信じ、それゆえに平安と希望をたゆまず持ち続け、今週も過ごして参りましょう。

 お祈りします。
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御前に立ち昇る香りとして

2022-01-23 14:01:57 | 礼拝説教
詩編141編1~5節
ヤコブの手紙3章1~12節

 本日は、ヤコブの手紙3章という箇所を読んでいただきました。「舌を制御する」というタイトルが付けられています。
 
 私はこの聖書箇所を読む度に思い起こすことがあります。以前おりました教会で、若いご夫妻が礼拝に通って来られるようになった。大変嬉しい思いでよくお出で下さいましたと良い交わりをしておりましたが、彼らには小さな女の子さんがおられて、いつも三人で礼拝に出席されていました。
 ある礼拝が終わって話をしていた時に、女の子がお父さんに似ているなぁと思ったのです。お母さんに似たら良かったのになぁと、「心の中」で思ったのです。でもそんなことは言えませんから、黙っていようとしたのですが、つい言葉に出して「お父さん似だよね」って言ってしまって、そこまでは良いのですが、その後に「仕方ないよね」って(笑)言ってしまったんですね。すぐに、しまったと思ったのですが、言ってしまったことは帰りませんから、暫く気まずい時間が流れました。彼らはその後も、良く礼拝に来てくださいましたから、内心本当にほっとしたのですが、今日の聖書箇所を読む度に、思い起こしてしまう出来事でありました。

 「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。」と聖書に記されています。
 私たち人間は舌といより、言葉によって人間関係、コミュニケーションを取っています。言葉以外にも態度であるとか、感情や顔の表情によってもかなり関係は作れますけれど、やはり言葉によるところが大きいのです。
 
 何度も申し上げていますけれど、牧師として初めての教会が岩手の花巻教会でした。辛い事も度々ありましたが、楽しい事のほうがずっと多かったと思います。何が良かったかというと、ほぼ私の故郷だったということです。何よりも花巻に住む方々が話す言葉を私はほとんど完全に理解出来ました。お年寄りが話す方言も、私は別になんとも思わなくすっとその思いが心に入ってくる。家内は半分分かるか分からないか、で苦労もあったと思いますけれど、私はその点はネイティブですから本当に良かったと思います。教会員から「先生はずっと前からここにいたような気がする」と言われましたが、そりゃそうです。生まれた時からいたわけですから。

 話す言葉が分かる、言葉が分かるだけでなく、その話している思いまでも分かる。それは日常生活が円滑に行えるという意味でもあります。私たちの日常生活は言葉を聞いたり語ったりすることで成り立ちます。一日に、一言も話さなかったということは滅多にありません。
 
 でも、そのようなまさに神様から人間にだけ賜物として与えられた言葉を思う時、ヤコブの手紙の著者、ヤコブは「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません」と告げたのです。このヤコブは12弟子のヤコブではなく、イエス様の弟のヤコブだと言われます。

 生まれた時から主イエスと共に暮らし、主の御言葉を聞き続け影響を受けてきた人でしょう。福音書には共に行動したというような箇所はありませんけれど、決定的なのは復活の主と出会う経験があったと考えられています。後にエルサレム教会の指導者となり、一人の使徒として、つまり御言葉を語り福音を宣べ伝える人として、そのような働きをした教師でありました。

 そのヤコブが、自分のようにならないほうが良いと言っているわけです。牧師・伝道者は一人でも多く伝道者が与えられますようにと願っています。私たちの教会も杉野兄は、今神学校の最終学年となり、この4月からはいずれかの教会で奉仕されることになると思いますし、大塚平安教会はこれまで多くの方々の福音伝道者を送り出して参りました。

 けれど、ヤコブは「多くの人が教師になってはなりません」と告げている、なぜでしょうか。それは、伝道者は言葉を語るからです。説教するだけではなく、牧師の務めはいつでも言葉を語ることです。教会に関わる方々や信仰を求める求道者と呼ばれる方々と言葉を交わします。先週の月曜日はリモートでしたが地区の牧師会がありました。リモートでの牧師会、確かに顔も見えるし、表情も見えているわけですが、実際、頼りは交わす言葉のみに集中します。言葉のみというのはどこかで心もとないのです。

 ヤコブは「私たちは皆、度々過ちを犯すからです。」と記しました。8節には「舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で死をもたらす毒に満ちています」とあります。大変強い言葉ですが、けれど、その通りだとも思います。

 幼稚園のお母さん方との聖書の学びにあっても、子育ての問題の一つは、子ども相手にして、つい「切れる」時があるという悩みです。先週の木曜日も、聖書の会がありましたが、子どもが朝に学校に来ていく服が気に入らないと騒いでいた、その原因は母親が着ていく予定の服を洗濯してまだ乾いていないからといったそうです。母親の私が悪かったのかと思って、あの服はどう、この服はどうと宥めながら、色々と世話をしていても、なんかかんやと難癖、悪態をつかれて、ついに逆切れしてしまいました。という話を聞きましたが、我慢に我慢をしてけれど最後にキレてしまう。キレた「言葉は、疲れを知らない悪で死をもたらす毒に満ちて」いる言葉です。
 更に恐ろしいことに、実際はそのキレた言葉こそが実は本音です。人の本音が怒りと共に出るとしたら死をもたらす毒にもなるのです。

 10節には「同じ口から讃美と呪いが出て来る」とも記されています。一方において人は神を賛美する、しかし、一方においては呪う、呪うとは悪態をつくだけでなく、心の深いところでは「あの人なんか、いなければ良いのに」と思う心がつい、口に出て、舌を通して言葉になるということでしょう。

 私が尊敬する牧師はそのような呪いの言葉、人をダメにする言葉を「腐った言葉」と表現しました。特に教師と呼ばれる立場の人、舌を用いる職責の者は「腐った言葉」とならないように、人を生かす言葉となるように、ヤコブは告げているわけです。ヤコブ自身そのような苦労を何度も体験したかもしれません。

 けれど、人は完全ではありません。2節に「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。」と記されています。ヤコブも、何度も、言葉による過ちを起こし、実に悩ましいと思っていたかもしれません。完全になれないもどかしさを何度も経験していたことでしょう。

 けれど、人はそんなものだと開き直るのではなく、完全にはなれないとしても、腐った言葉を用いないようにしなければなりません。その為に特に神を信じる信仰者に求められることは、神を賛美し続け、御言葉に生きることでしょう。
旧約聖書エレミヤ書(15章16節)にこうあります。「あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり わたしの心は喜び踊りました。」
御言葉を食べることです。主の祈りは「我らの日毎の糧を我らに与えたまえ」と祈りますけれど、毎日、食事を摂り、健康が守られ、体が守られるように、御言葉もまた食べるように読むことです。毎日食事を食べ続けるように、読み続けることです。
 
 先ほど詩編141編を読んでいただきましたがが、そこには祈りの大切さが記されています。「主よ、わたしはあなたを呼びます。速やかにわたしに向かい あなたを呼ぶ声に耳を傾けてください。わたしの祈りを御前に立ち昇る香りとし、高く上げた手を夕べの供え物としてお受けください。」

 古来、ユダヤ教の礼拝においても古い時代、天幕においても、また、立てられた神殿においても、毎朝、毎夕祭壇に灯を灯し続けなければなりませんでした。その時、ともし火と共に、香りのよい香を焚き、香りの献げものを絶やすことなく焚き続けることが求められました。香の立ち昇る煙は祈りにつながると考えられていたからです。
 
 私たちの教会の礼拝は、時としてクリスマス等にローソクの灯を灯すことがありますが、香を焚く慣わしはありません。けれど、良き香り、立ち昇るかすかな煙、それは私たちにとって祈りの姿と重なるのです。
 
 主なる神に祈りを献げる、祈りの言葉、時には苦しみの、時には怒りの、時には涙にくれる祈りがあるかもしれません。けれど、いかなる時も、神に心を向けて、心を神に明け渡して祈る時、私たちの心に、神の光が与えられ、聖なるものとされ、神の栄光が与えられるのです。
 そのような祈りが軽んじられる時、心が腐り、言葉が腐っていくのです。毒のある言葉を用いてしまう。そのような思いを祈りによってこそ、越えて行かなければなりません。

 心を集中し、主が我と共にいますという思いを強くし、与えられている状況を受け止め、受け止めるだけでなく、前を向き、そしてまた一歩と歩いていきましょう。
 新型コロナ感染拡大が進んでいます。そのような状況が既に丸2年続いています。これほどに続き、まだ先が見えていない。でも、このような時にこそ、人生において、希望を失わないためにも、私たちは主に向かい祈り続けてまいりましょう。
 御前に立ち昇る香りとしての祈りを絶えず、祈り続けて参りましょう。

 お祈りします。

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気を落とさずに絶えず祈る

2022-01-16 16:12:48 | 礼拝説教
詩編140編1~14節
ルカによる福音書18章1~8節
「気を落とさずに絶えず祈る」

 本日は、ルカによる福音書18章からの箇所を読んでいただきました。「やもめと裁判官」というタイトルが付けられた箇所になります。ある裁判官がいて、そこにやもめが裁判を開いてくれるように必死にお願いするという内容です。聖書に親しみ、また礼拝に出席されている方であれば、これまで一度ならず、二度ならず、何度も読んだ方もおられるでしょう。説教で聞いたという方もおられるでしょう。そういう意味では、今日読まれた聖書箇所も、私たちは知っている聖書箇所の一つと言えると思います。
 けれど、この話はイエス様のたとえ話の一つですが、なぜ、イエス様がこのたとえを話されたのか、あるいは誰に対して話されたのですかと問われたとしたらどうでしょうか。上手く答えられないかもしれません。

 なぜイエス様がこの譬を話されたのか、誰に対して話されたのか、その答えは18章1節に記されています。「イエスは、気をおとさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」なぜ話されたのかの答えは、「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」ことを教えようとした、ということです。誰に話されたのか、弟子達に対してです。
 
 では、なぜ弟子たちに気を落とさないように祈りなさいと言わなければならなかったのか、それは前の17章の内容にあるわけです。
 
 17章20節からの箇所は「神の国が来る」というタイトルが付けられています。ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねてきた場面です。その問いかけに「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と答えられた、その後で、主イエスは弟子たちに顔を向けて話をされました。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることは出来ないだろう、『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人の後を追いかけてもいけない。」と続きます。更に読んでいくと、黙示的な表現で人の子が現れる前に起こる、この世の惨劇を話し始めるわけです。
 
 聞く弟子たちにとっては詳しいところまでは分からないけれど、自分達が思っていたようではなく、聞けば聞くほどに恐ろしい出来事が次から次へとやってくることだけはわかる。そんな状況で22節に戻りますが、「人の子の日を一日だけでも見たいと望む日が来る、けれど、見ることは出来ない」ですから、その恐ろしい場面で主が自分達の傍らにおられないというというのです。恐らく、このような状況は、一言で言えば、迫害の時代を示唆しているものと思われます。ルカによる福音書が記された時代、明確にいつとは言えないとしても、キリスト教徒が迫害を受けていた時代であることは間違いありません。
 
 ですから、直接主イエスの教えを聞いた弟子たちにとっても、この福音書が記され、読んでいた人々にとっても、あるいは今を生きる私たちにとっても、大切なことですが、主イエスは「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子達に」このたとえ話をされたと言っても良いでしょう。

 たとえ話ですから話はそれほど難しくはありません。登場人物は一人の裁判官と一人のやもめです。
 
 人の歴史の中で、古い時代であっても法律があるのであれば、そこに裁判官という職業がありました。法に照らして正しいのか正しくないのか、あるいはどちらが正しいのか、裁判官はそういった問題を裁く権威が与えられていました。
 けれど、イスラエルの裁判官は他の国とは違う権威があったと思われます。それは、神様から与えられた律法に照らして、人を裁くという権威があったということです。神様の律法は、これまで何度も申し上げていますように、出エジプト記において、指導者モーセが主なる神から与えられた教えであり、当初はその律法に照らして、モーセ自身が裁いていたのですが、余りにも多くの人々がやって来るものですから、モーセはモーセの姑にあたるミディアン人の祭司エトロから知恵を授けられて、「神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として選んで、平素は彼らに裁かせて、大きな事件の時だけはモーセが裁きを行う」というシステムを作り上げたとあります。このシステムは後の時代にも力を発揮したと思いますけれど、他にも祭司であるとか、長老、律法学者といった人々、あるいは預言者もまた裁きを行ったと思われます。いずれにしても、イスラエルの裁判官にとってもっとも必要なことは、誰よりも神を畏れる人であり、また、社会的弱者を守り、支え、神の義を民に示す役割が与えられていたわけです。

 ところが、主が話されたたとえ話に出てくる裁判官は、そのような裁判官とは正反対です。「ある町に、神を畏れず人を人と思わない裁判官がいた」というのです。神を畏れず人を人とも思わず、つまり、自分にとってどれだけの利益があるのか、どれだけ儲けがあるのかによってどんな裁判もするような裁判官であったわけです。たとえ話ですから少し極端なほうが分かりやすいでしょう。ところが、そのような裁判官のもとに、やってきたのは、一人のやもめです。「やもめ」という言葉が表しているのは、社会的に、最も弱い立場の人間という意味でしょう。社会的に最も強い立場の、しかも、ろくでもない裁判官に、社会的にもっとも弱い立場のやもめがやって来たというのです。
 
 しかもただやってきたのではなく、3節に「裁判官のところに来ては、「相手を裁いて、わたしを守って下さい」と言っていた。とありますが、なにが大切かというと、「来ては」という言葉です。この言葉の使い方が、文法的に見ると継続と言いますか、リピートを意味していまして、裁判官の所に、何度も何度も来ては、しつこいぐらいに、うるさいぐらいに、嫌になるぐらいに来ては「わたしを守ってください」と迫ったと言う訳です。

 当初、裁判官にとって、賄賂も持ってこない、袖の下も使わない、自分にとってなんの利益にもならない、まして「やもめ」の訴えなど知らないふりをしていたのですが、ついに、そのしつこさに根負けした裁判官が折れて「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。」ついに根負けして、やもめのために裁判を開くことが決まりましたという、イエス様が話されたたとえ話です。

 このたとえ話からイエス様が弟子たちに、あるいはその回りにも多くの群衆がいたとも思いますけれど、主が伝えたかったことは7節以下に更に分かりやすくしるされます。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

 神を畏れず、人を人とも思わない裁判官でさえ、このようにしつこくされたら、うるさくてかなわないから裁判を開くのであれば、まして主なる神は、私たちのためにどれほどに心を砕き、神の正しい裁きを示してくださるであろう、、だから大切なことは、「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」となるわけです。
 
 今日は、先ほど詩編140編を読んでいただきましたが、ダビデの詩と紹介されていますけれど、必ずしもダビデと考えなくても良いでしょう。けれど、詩編の作者が与えられている状況は極めて深刻であることがすぐに分かります。この作者の周りには、自分をさいなむ者がいて、不法の者がいて、悪事を謀る者がいて、絶え間なく戦いを挑む者がいるのです。そのような状況にあって、「主よ!」と救いを求め、「嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください」と必死に願っています。何度も何度も祈り願っています。なぜそうなのか13節にこう記されてあります。「わたしは知っています。主は必ず、貧しい人の訴えを取り上げ 乏しい人のために裁きをしてくださることを。」
 
 この作者の与えられている状況がどんなに辛く、厳しいものであっても、主は必ず自分の祈りを聞き届けてくださる、このことを信じて疑わないのです。辛く、厳しい詩編だと思いますけれど、良く読んでいくと大きな励ましを受ける思いがいたします。

 今、私たちに与えられている状況もまた、非常に厳しい状況となって来ました。オミクロン株が流行り始め、コロナウィルス感染者がものすごい勢いで増加しようとしています。すでにコロナウィルス感染の脅威は丸二年近くとなり、神の教会の働きは、私たちが思い願うようになっていきません。神の国の福音伝道も多くの教会で停滞し、また進められていません。私たちの教会も例外ではありません。けれど、だから諦めようというわけでは決してありません。
 
 ルカによる福音書に戻りますが、今日読まれた最後の18章8節「言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」この言葉もまた印象的な御言葉です
 人の子が来て、地上を見たら誰も信仰者がいないことになっているだろうと言っているのではなく、そのようなしつこいほどに願い、求め、祈る信仰者がいることを私は願っているという意味で用いられています。
 
 状況によらず、絶えず祈ることです。ローマ書8章26節に「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」とあります。体裁よく、整えられた祈りも良いものです。けれど、多くの場合、わたしたちは主に対して本当のところは、「どう祈るべきか」を知らないのではないでしょうか。何が正しく、何が正しくないのか、私たちは自分で決めることは出来ません、だからこそ、私たちは主の前に、ひたすらに、謙遜に、けれどなによりも気を落とさないで祈り続けて参りましょう。主よ、あなたこそが何をもご存知ですと祈り続けましょう。このことを通しても、主の御栄が現わされますようにと祈り続けて参りましょう。

 お祈りいたします。
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全ては最善に

2022-01-09 11:58:53 | 礼拝説教
【詩編139編11~12節】
【ローマの信徒への手紙8章26~28節】


 今日の説教題を「すべてが最善に」といたしました。木曜日に雪となりまして、大分寒い日が続いておりますが、昨日朝から今日の準備に牧師室にこもっていたのですが、暖房をつけても大分寒い、それで肌着のシャツが薄いのではないかと思いまして、着替えようと家に帰りました。戻りながら歩きながら、「すべては最善に」、「すべては最善に」と考えながら戻りまして、家に入ってマスクを外して、眼鏡をはずして、着替えて、良しこれで大丈夫、と思いながらまた「すべては最善に」と頭で巡らしながら牧師室に戻りまして、改めてさあやるぞとパソコンの前に座ったら気が付きました。眼鏡をしていない。マスクをすると、耳の感覚がメガをしているように感じるものですから、気が付かなかったんでしょうね。
 あ~しまったと思いましたが、また家に向かって歩きながら更に本気になって、「すべては最善に」「すべては最善に」と自分に語り掛けた訳でありました。(笑)


 新約聖書からローマの信徒への手紙8章を読んでいただきました。28節にこうあります。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。」とあります。この箇所を御自分の愛唱聖句としておられる方も多いと思います。
 「御計画に従って召された者」とは、亡くなられた方ではなく、神のもとに集められ、信仰者として生きている者、つまり「神を愛する者」とされた人、という意味です。
 つまり、今共に礼拝を守っている私たちのことであり、今、ここにおられなくとも、信仰の兄弟、姉妹として共に歩んでいる一人一人も含めて、私たちに与えられている特権のようなものがあって、それが「万事が益となるように共に働く」のだと信じられる信仰です。
 
 教会には年間を通じれば、多くの方が訪ねて来てくださいます。時にはどこにも行けないけれど、ここに相談に来ましたという方も少なくありません。人はそれぞれの人生を生きていますから話される内容は全く違うわけですが、上手く解決していく時と、解決にはまだ時間がかかるかなと思える時との違いがありまして、どこが違うかというと、自分の過去を自分が許しているかどうかという点にあります。
 
 ある時に一人の青年がやって来たことがありました。既に二十歳を過ぎておられましたが、悩み多く、仕事も見つからないというのです。
 なぜそうかというと、中学生の時にイジメを受けたというのです。イジメは虐待ですから本人にとってみれば本当に辛い経験であったと思います。出来るだけ丁寧に話を伺ったつもりでしたが、その次に来た時も、更にその次に来た時も、自分がこうなのは、中学生の時のイジメが原因だというのです。いつも同じ話をされる。長い期間、話を伺いましたが、暫くして気が付いてきました。
 今が良くない状況を生きていると思っている人は、過去にその原因があって、その過去の原因が解決しないから今も良くない、そんなふうに考えているのではないか。

 今日の9時からの子どもの教会ファミリー礼拝はヨハネによる福音書の3章という箇所でした。ファリサイ派に属し、ユダヤ人たちの議員でもあったニコデモという人がある夜イエス様を訪ねてやってきました。 
 話をする中で、主イエスは「はっきり言っておく、人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」と話された。ニコデモは驚いて「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることが出来るでしょうか。」ニコデモは検討違いの答えをしたわけですが、新たに生まれるとは、勿論、これまでの自分に死んで、主なる神と共に生きる者となるという意味ですが、ニコデモは、自分は既にそのように生きていると思っていたのか、或いは、自分は生まれた時から神の民として生きて来たと思ってきていたので、逆に理解出来なかったのかもしれません。
 
 でも、大切なのはファリサイ派であろうと、ユダヤ人の議員であろうと、新たに生まれることです。生まれ直って、日々新たな信仰に生きることです。その為には過去の自分を引き摺らない。引き摺らないと言っても、経験したことは忘れることは出来ませんし、忘れられません。でも、あの事があったから、あの苦しみを経験したことによって今の自分があると現在を受け入れられるようになるとしたら、気持ちも生き方も変わるのではないでしょうか。過去に引きずられ、過去を生きていると現在を生きられなくなるのです。

 12月のクリスマス礼拝では洗礼式が行われ、私たちに新たな兄弟が与えられまして、喜びの礼拝となりました。洗礼式に先立って私は洗礼準備会を行います。そこで必ず話しますことの一つに「過去を許し、現在を褒め、将来を励ます」という話です。
 
 特に大切なところは、「過去を許し」です。自分の人生を振り返った時に、特に主なる神の愛、神の恵みを知れば知る程に、自分がいかに神から離れ、自分自身に生き、罪深く生きて来たかを思わされるものです。
 
 古代の偉大な神学者アウグスティヌス(AD 354-430)は、76歳まで生きましたが、32歳の時に決定的な回心を経験するのですが、神を知るまでの人生、前半の30年と、主なる神と出会った後の40年は全く違った人生を生きた人でした。
 前半の30年、一面においては勉強熱心で高い能力を持つ人として評価されていましたが、アウグスティヌスは「告白」という書物の中で、こう告げています。「19歳から28歳までの9年間、わたしは様々な情欲の中で、誘惑されたり、誘惑したり、騙されたり、騙したりして過ごしました。」

 青年と呼ばれる時期ですから、演劇やスポーツに打ち込んだりもしたようですが、友達と馬鹿騒ぎもする、時には盗みや悪さもする、18歳からは好きになった女性と同棲して、子どもをもうけたにもかかわらず、結局は別の女性と結婚することになります。自ら放縦な生活をしたと告げています。
 けれど、それから劇的な神との出会いを経験し、過去を許される経験をするのです。元々高い能力を持ち備えていたわけですから、以来、キリスト教の司教となり、生涯を生きることになるのです。
 アウグスティヌスにしてそうなのですから、人の人生には、最初から定まった道が備えられているわけでもなく、決まりきった意味が与えられているわけでもないことがわかります。

 時には思いもよらない出来事が起こったり、良いと思っていた所から悪しき結果が出てきたり、時にはその反対となったり、もあり得るでしょう。人生の評価は、その時その時の一部によって評価するのではなく、断片的に見るのでもなく、刹那的な捉え方をするのでもなく、重層的ですから単純には評価出来ません。でもそのような複雑さの中で、アウグスティヌスは神を知り、自分の人生の全てに主なる神がおられたと理解しました。そのことによって過去が許され、神に立ち返り、前を向いて、自らがなすべきことを見いだし、神に仕える生涯を送りました。
 
 神と出会い、過去の赦しを知ると、今与えられている状況を受け入れることが出来ます。状況を受け入れ、なすべきことは何かに集中できるようになります。

 そうなると、その先には、今与えられている状況から、自分の将来を見つめることが出来、確かな目標に向かって歩みだすことが出来るのです。

 アウグスティヌスは若い頃、マニ教という教えに傾倒していました。元々キリスト教の異端的な教えですが、決定的に違うところは、世の中には良い世界と、悪い世界があると教えました。その為に善い神と、悪しき神がいると教えました。キリスト教では、善なる神のみと教えましたが、では、世の中になぜ悪いことばかりが起こるのか、という問いに明確に答えることが出来たようです。一面では分かりやすいのです。マニ教では、天地創造の神は、悪しき世を作った悪しき神とされていたようです。

 けれど、次第にマニ教に対しても懐疑的となり、キリスト教徒であった母親の祈りと影響も受け、その後、自分で自分を救うことは出来ず、ただ神の恵みによって、その恵みを信じる信仰によってのみと教えるパウロの御言葉から強く影響を受けて、キリストを信じる者となっていきました。

 キリスト教は、天地の創造主である主なる神、主なるキリストこそが我らの救い主であると教えます。そして、その方を信じる者の信仰は「すべてが最善に」です。

 旧約聖書詩編139編、12節を読みます。「闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち 闇も、光も、変わるところがない。」
 
 夜も、昼も、闇も、光も、それらのものは相反していくのではなく、二つの世界があるのではなく、ただ一つの世界があります。出エジプトを果たしたイスラエルに神様は、昼は雲の柱、夜は火の柱を示して、行く道を照らしました。昼も夜も、どんな時も主なる神が与えたもうた時であって、全ての事が相働いて益となり、私たちは良い状況へと導かれていくことを信じる信仰を養いましょう。そのように生きてまいりましょう。過去のあの事、この事に振り回されることなく、過去を許し、現在を褒めて、将来を見つめて過ごしてまいりましょう。

 お祈りしましょう。
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わたしを知る方がいる

2022-01-02 12:41:02 | 礼拝説教
【詩編139編1~6節】
【ルカによる福音書2章22~38節】

 新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願します。新年最初の礼拝で読まれましたのは詩編139編です。

 「主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだまだひと言も語らぬさきに 主よ、あなたはすべてを知っておられる。」

 新しい年を迎えるにあたり、私たちの心に直接的に訴えかけるような相応しい御言葉だと思います。
 主なる神がわたしを究める程に、わたしを知っておられる。

 過ぎるクリスマス、御子イエスが誕生された聖書箇所を私は何度も読みましたが、マリアの夫となるヨセフのもとに現れた天使は、ヨセフに向かって語り掛けました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は「神は我々と共におられる」という意味である。
 インマヌエルとは天地創造された神が、私たちと共におられる、そのような出来事を目で見え、理解できるようにとクリスマスの出来事が与えられたとも言えます。
 
 昨年一年かけて、水曜日の祈祷会では、出エジプト記を読み続けました。
エジプトにおいて400年住み続けていたイスラエルでしたが、エジプトの王が変わり、政治政策が変わり、イスラエルの民は奴隷とされてしまいます。
イスラエルはその過酷な労働のゆえにうめき、叫んだとあります。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神の耳に届き、神は嘆きを聞いて、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされました。
主なる神は、アブラハムと共におられ、イサクと共に歩まれ、ヤコブと共にその道を進まれました。私はあなたと共にいるという約束を再び思い起こし、イスラエルとの約束を果たすために、モーセを指導者として、イスラエルをエジプトの奴隷から脱出させ、脱出させるだけでなく、自らが、昼は雲の柱、夜は火の柱となってイスラエルを導き、40年かけて、神が約束された「乳と密が流れる」と言われる程肥沃な土地であったカナンの土地を目指して進み行かれました。

 けれど、皆さん自分達が信じていると思っている主なる神が400年前に、確かに先祖のヤコブと共におられた神であることを知らされていたとは思いますが、400年という年月は短くありません。話としては聞いている、話としては知っている、けれど、それと自分達の生活とどういう関係があるのか、というより主なる神は私たちと実際に共におられるのかとイスラエルの人々は感じていたのではないでしょうか。

 その為、エジプトを出たのは良かったと思った、本当に喜びであったけれど、その状況が悪化すればすぐに信じるよりも、愚痴や不満が出るのです。エジプトを出たと思ったら、エジプト軍が追ってくる、自分達はここで死ぬためにエジプトを出たのかと不満を述べたら、海が二つに分かれて助けられる。
良かったと思ったら、今度は腹が減って来た、エジプトには何でもあったのに、ここには何もないと不満をぶつける。喉が渇けば、水を飲みたいと訴える。
イスラエルは何度も何度も不満をぶつけながら、でも、その都度、モーセは神に祈り、解決されていくのですが、三か月後にシナイ山に到着して、モーセは山に登り、主なる神から十戒を伝えられ、石に刻み、その板を持って下山するのですが、山にいた期間は40日です。

 イスラエルの民は40日まてませんでした。もはやモーセは当てにならんと金の子牛を作って、それを神様にして、その回りで飲めや歌えや、の大宴会です。その様子に流石の神様もわしゃもう知らんと怒り爆発して、もう私はあなたがたと共にいくことはしないと伝えるのですが、モーセの命がけの執り成しによって、神は思いを変えて、民と共にいくことをイスラエルに伝えるのです。
イスラエルの民は、このような神に背くような体験を何度も繰り返す中で、しかし、一つ一つの体験が重なり自分達の経験として培い、そして、この方は本当に自分達の主なる神であって、この方はどんな時も自分と共にいてくださる方なのだと知ってくるのです。頭だけの知識だけの神ではなく、まさに生ける神として、生ける神が共におられる、そのような信仰に至っていく訳です。

 詩編139編の作者が与えられた状況は、出エジプトの民のそれとは違った状況であろうと思います。けれど、確かなこと、それは主なる神は、インマヌエルの主は、この自分と確かに共におられる、そういう確信を得たということでありましょう。

「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。」知っているとは、別の言葉で言えば、「大切に思っている」もっと言えば「愛している」です。
 
 クリスマス礼拝に、教会員の松M君が久しぶりに礼拝に参加されました。奥様と子ども二人を連れて四人で参加されました。元気だったと挨拶しましたが、金曜日の聖夜礼拝にも四人で参加されて、良かったと思っていたら土曜日の子どもの教会のクリスマスにも参加してくださいました。色々と話が出来ましたけれど、家内から聞いたのですが、今度の3月に4歳になるY君という長男がおられる。彼は電車が大好きだそうで、今度新幹線を見に行くというのです。新幹線なんて一瞬じゃないのって聞いたら「止まっている駅の新幹線でしょ」と呆れられ、「海老名の『ロマンスカーミュージアム』はもう見に行ったって」と言われて、「え!そんなミュージアム、海老名にあったの」と聞き返したら、更に呆れられてしまいました。

 調べましたら去年の4月にオープンしているようですが、でもそれは私が調べて分かったことで、本当に分かっているのは4歳のYくんのほうが何倍も、何十倍も、良く知っている。

知っているとは愛している、大好きだという意味なのです。知識としてというよりも体験として、経験として、そのようにして主なる神が、自分をこんなにもよく知っておられたのか、愛してくださっておられたかという経験をされた方は実に幸いです。

 そのような感覚は、その人の生涯を支え、その人の信仰はゆるぎないものとされていくでありましょう。「親思う心に勝る親心」という言葉がありますが、どんなに子どもが親を思うとしても、その思いに勝って、親は子を愛しているものです。
 そのようにして主なる神がこの私を、他の人には申し訳ないと思うけれど、こんなにも愛して下さっている、そう感じておられる方ばかりがここにおられるわけですけれど、それは信仰を持つ者のみが持つ、幸い、特権と言うことも出来るでありましょう。
 
 更に「座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる」と続きます。
「座るのも立つのも」、「歩くのも伏すのも」つまりは、どんな時も主が共におられるということでしょう。

 私たちの悩みはどこにあるのかというと、遅いよりも早い方が良いよ、出来ないよりは出来た方が良いよ、貧乏よりも金持ちが良いよ、病気よりは健康が良いよ、と家庭においても、学校においても、社会においてもそう教わって来ましたし、自分でもそうだと思いながら、自分達の人生を生きているようなものです。悪いものは悪いし、良いもの良い、そういうものだよと教わって来ていますし、確かにその通りだと思います。 
 でもね、私たちはそこで悩むのです。なんで出来ないかな、なんで貧乏かな、何で病気かな、座っているより立った方が、伏しているより歩いた方が、つまり、そうやってあたかも世の中には二つの状況があって、悪い状況は悪い、だから良い状況にならなければと願うわけです。

 今年は、コロナ禍も少し落ち着いて、神社、お寺さんと初詣の方が昨年よりはずっと多くなっていると思いますが、手を合わせてお願いするわけです。どうか、家内安全、商売繁盛、無病息災、宜しくお願いします。私たちも全く同じ思いです。願わくは、この年、良い年となりますようにと祈り願います。でも、状況によって良いとか、状況によって悪いとかではなく、私たちの信仰の秘訣は「どんな時も」ですよ。

 結婚する二人が結婚の誓いに、「幸いな時も、災いに会う時も、豊かな時も貧しい時も、健やかな時も病む時も、互いに愛し、敬い、仕えることを約束しますか」と問われた時に、必ずそのようにしますと誓いを立てるわけですが、つまり「どんな時も」ですよ。
 主なる神が、インマヌエルの主が私と共にいてくださる、しかも、どんな時もいつも共にいてくださる、だから大丈夫と、平安の心を持ち続けていくことです。その思いを生きる人こそが幸いを生きていけるのです。

 先ほど、ルカによる福音書から「シメオンとアンナ」の場面を読んでいただきました。清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるために、神殿に連れて行きました。そこにシメオンという人がいた、この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、メシアに会うまでは死なないと聖霊により告げられていた人でした。シメオンは御子イエスをその腕に抱き、どれほど喜んだことでしょう。主なる神を讃え、祝福に満たされたことでしょう。女預言者のアンナもまた、御子の到来、エルサレムの救いを人々に告げる幸いを与えられた人として記されています。

 この二人はどんなに幸いかと思います。けれど、この二人の何が素晴らしいかというと、どんな日も、繰り返される毎日を、通り過ぎていく日々の生活の中で、主なる神が自分と共におられ、そしてメシア、救い主に対する希望を、どんな時も持ち続けて生きて来た姿ではないでしょうか。その姿に私たちは感動するのではないですか。

 2022年という年、私たちにもインマヌエルの主が、共におられます。どんな時も、いつも共におられます。だから大丈夫、幸いを生きていきましょう。希望を持って生きていましょう。主なる神を讃え続けて生きていきましょう。

 お祈りします。
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