日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

神の光が灯された時

2021-11-28 12:10:06 | 礼拝説教
【詩編133編1~3節】
【ヨハネによる福音書1章1~5節】

 2021年のアドベントが始まりました。御子イエス・キリストの誕生を喜ぶ時として備えられた時、また一本目のローソクに灯が灯されました。「神の光の印」としての灯とも言えるでしょう。このともし火を希望の光として、この年も共にアドベントを過ごして参りましょう。
 
先週の礼拝の後、皆さんと共に会堂の掃除を行い、その後、子どもの教会の担当者会は途中で退席しまして、家内と、それからうちの次男の三人で、以前私が奉仕しておりました町田の教会の献堂式に出席してまいりました。
3時から献堂式の礼拝が始まる時間ギリギリで到着しましたが、間に合いました。到着すると、ある方が「菊池先生が到着されました」と大きな声で言われて、恥ずかしい思いでしたが、町田の教会の方々が待っておられた様子に感激致しました。

 献堂式の礼拝は、密を避けてのことだと思いますが、外部からの方々を中心に礼拝堂に入りまして、教会員の皆様は、礼拝堂の出入り口から続く幼稚園舎の方に座っておられましたが、でも一緒に礼拝を献げました。外部の方といっても私にとってみれば、どの方も懐かしい方ばかりが並んでいるわけで、何か時間が10年位一度に戻ったような不思議な感覚でしたが、共に礼拝を献げることができる大きな喜びを体験いたしました。
今日、読んでいただきました詩編133編1節には「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」とあります。兄弟が共に座っている、この言葉は信仰の兄弟、姉妹が礼拝において座っているということです。そして、そこに大きな喜びがあるというのです。この御言葉のように、大変良い献堂式であったと思います。

 詩編133編2節、3節には、「かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り 衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り、ヘルモンにおく露のように シオンの山々に滴り落ちる。」と続きますが、この御言葉は、礼拝で用いられる香油が大祭司であるアロンに注がれ、注がれた香油がアロンの長いひげを伝わり、滴り落ちていく様子、神の恵みの印であり、聖別された印としての選び抜かれた香油が豊かに用いられ、礼拝が充実し、礼拝堂に香しい香りが立ち込め、皆の心が一つになり、気持ちが神に向かい集中していく、そんな様子を見て取ることが出来ます。

 「兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」なぜ、恵みであり、喜びであるのか、言うまでもなくそれが礼拝だからです。

 私たちの国では、コロナ感染がひとまず落ちついていまして、巷の飲食的は、時間的制約から解放され、人数的制約も4人から8人と徐々に緩められています。ですから、仕事帰りの仲間が、久しぶりに居酒屋にでも寄ろうかと、誘い合うこともあるかもしれません。久しぶりに楽しい時間を過ごそうとするかもしれません。リラックスした良い時間となるでしょう。
けれど、そのような集まりとは全く違う意味の、「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」

 再び問いますが、なぜ恵みなのか、なぜ喜びなのか、共に座っている兄弟、姉妹が皆同じ思いを抱き、同じ方向を向いて、天地創造の主であり、アブラハム、イサク、ヤコブの神として、また、イスラエルの歴史を導いてこられた主なる神の方向を向いて座っているからです。

 先週の礼拝でも申し上げましたが、今、水曜日の祈祷会では出エジプト記を読んでいます。先週読みました箇所は、主なる神から十戒をいただく為に、シナイ山に登り、主なる神のみ言葉を聞き続けていたモーセ、そのモーセが40日、40夜、山にとどまり主の御言葉を聞いていました。けれど、山の麓でモーセを待ち続けるイスラエルの民は、待てど暮らせどモーセが山から降りてこない、と感じるのです。しびれを切らし、これ以上待てないと感じたイスラエルの民は、モーセの兄のアロンに詰め寄って、自分達の神として金の子牛を造らせたという箇所を読みました。

 アロンによって造られた金の子牛を見たイスラエルは喜びました。子牛の像を見ては、この神が自分達をエジプトから導き出した神であるとし、献げ物を献げ、座っては飲み食いし、立っては戯れたというのです。戯れるという言葉は、男女の体の関係という意味があると言われます。もはや乱れ放題です。

 モーセに与えられた十戒の一番目、「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない。」二番目「あなたはいかなる像も造ってはならない。それらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」そのどちらにも違反しているわけですから、主なる神は怒りを爆発させることになります。
その怒りをモーセがなんとか宥めたという場面を先週読みました。旧約聖書に記されているイスラエル民族の歴史は、どこを読んでも、まことの神を神とせず、その場にあって、その時代にあって、時には自分達が自分達の手で神の像を造っては、この方こそ私たちの神と拝み、時には、その地域に信じられていた宗教に飲み込まれ、バアルと呼ばれる神を礼拝する。時にはイスラエルの王でさえ、そのような姿を示し、神の思いに反し、神から離れ、神を軽んじる、その繰り返しの姿が旧約聖書のイスラエルの歴史に色濃く記されているとも言えるでしょう。
けれど、その度に、主なる神は時には御旨に叶う王を据え、時には祭司を、時には預言者を派遣して、主なる神に立ち帰るようにと働き続ける姿をも読むことが出来ます。

 詩編133編、短い詩編ですけれど、そのような歴史を繰り返す中で、主なる神のもとに立ち帰った人々が共に座り、共に主なる神を見上げ、神を賛美している。ここに自分達の体と心の根源がある。ここに自分達の命の基がある。この場にこそ、自分達のまことの救い主がおられる。なんという恵み、なんという喜び、心を込めて礼拝に臨んだ場面を思い起こすことが出来ると思います。

 そして、今、この時代にあって、私たちは、私たちの主なる神である御子イエス・キリストの誕生を覚えつつ、アドベントの礼拝を献げています。コロナ禍にあって、皆が距離を取らなければならない礼拝です。大きな声で讃美をしたいと思いつつも、依然としてマスクをはずせない礼拝です。換気に気を付けながらの礼拝です。
でも、それ以上に人の心が神から離れ、自らを神とし、人を裁き、争いを起こし、時として愛を忘れ、サタンがいるとするなら、そのサタンに支配されているのではないかと思うような、この暗闇の世を照らす、輝く光である御子イエス・キリストの愛に包まれての礼拝を捧げることが出来る。なんという恵み、なんという喜び。

 皆さん、三度問いますが、なぜ、恵みなのか、なぜ喜びなのか。私たちが共に座り礼拝を献げるその方が、真の光として来られたからです。つまり、本物だということです。

 光の特徴は何か、子どもたちにいつも話します。光は速く、光は明るく、光は暖かい。その通りです。でも、更にいうならば、私たちが礼拝を献げる礼拝堂の光、この光は人間の手によって造られた光、人の手によって作られた光の特徴は光源から光が放射状に広がっていくのだそうです。でもね、主なる神自ら作られた太陽の光は、放射状ではなく、平行だそうです。科学的にもそう言えるのだそうです。
その違いはどこにあるのかというと、場所によって明るかったり、暗かったりしない、つまりすべてのものをくまなく照らす光、それが太陽の光です。
平行に進む光は、照らされている物がデコボコしているのか、凹凸してムラがあるのか人の手による光で見ると良く分からないけれど、平行の光は良く分かる、どんな小さな傷であっても見逃すことが無いというのです。それが真の光ですよ。

 この世の光として誕生された主イエス・キリストの光に照らされる時、きっと私たちの心のムラ、心の凸凹、罪の数々、全てが明らかにされるでしょう。でも、全てが明らかにしながら、その一つ一つを指摘し、裁く為に照らすのではなく、その一つ一つを赦し、滑らかに整え、平安を取り戻し、自分も祝福の内に入れられている喜びを思い出して、力を得て、この礼拝から歩みだしていけるようにしてくださるのです。

 そして、自分だけではなく、隣に座るあなたも、あなたも、皆さん、良かったと喜び合える仲間が与えられる。「なんという恵み、なんという喜び」を心に、今年のアドベントを共々に過ごして参りましょう。

お祈りします。
 
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主のための場所

2021-11-22 16:07:31 | 礼拝説教
【詩編132編1~9節】
【フィリピの信徒への手紙1章12~20節】


 毎週水曜日の10時30分から聖書研究祈祷会が行われています。毎週7名、8名、9名と集まって下さり良い祈りの時間となっていますが、今、旧約聖書の出エジプト記を1章ずつ読んでいます。最近、読んでいる箇所は、出エジプトを果たした民が、エジプト脱出から三か月後にシナイ山に到着し、指導者モーセが山に登り、そこで主なる神から十の教え、十戒をいただいた場面です。
更に、具体的に、十戒を掘り下げるようにして、例えば人に危害を加えるとどうなるとか、人のものを盗むとどうなるとか、安息日の意味であるとか、祭りを行うには、といった、細かい規則も主なる神から聞くことになります。それから続いて主は、あなた方は主なる神が臨在する幕屋を造りなさいとモーセに告げます。
 
 幕屋とはテントのことです。イスラエルは荒野を旅する民ですから、旅をしながら、移動しながら40年の間テントを張って仮の住まいに住み続けるわけですが、主なる神がおられる幕屋、礼拝、祈り、犠牲の献げ物を献げる場所を作らなければなりません。「このところに私は住むであろう」と主なる神は言われました。
 幕屋の一番奥には、至聖所という特別な場所を作り、その場所に契約の箱を置きなさいと伝えます。契約の箱とは、十戒が刻まれた石の板二枚を入れてしまっておく箱です。この箱に蓋をして、その蓋の上から、主なる神はイスラエルに臨むであろうと告げられました。

 主の教えに従い、イスラエルの民は幕屋を作り、契約の箱が置かれ、長い間、契約の箱はイスラエルの信仰の証しとして、民の中心に位置することになります。40年の旅の後、いよいよ目の前のヨルダン川を渡れば神様が約束された土地、カナンの地という場面では、祭司が先頭となり、金の棒でもって契約の箱を担いで水の量が多いヨルダン川に入っていくのですが、川の水が二つに分かれて乾いた土地となったとあります。彼らは川と川の間を安全に進んで、それからエリコの街に向かうことになります。
 
時には先頭になり、時には中心となり、イスラエルの民に大切に守られた契約の箱、カナンの土地侵入後も大切にされ続けますが、敵国として度々争ったペリシテ民族に奪われてしまったり、最終的にはダビデ王が取り戻し、取り戻すだけでなく、ダビデは礼拝を整え、数千人が奏でる楽器、讃美の歌声でもって、主を賛美しました。その中心に契約の箱がいつも備えられていました。

そして、ダビデ王の願いは、主なる神のために幕屋ではなく、神殿を建設したいという思い、それが詩編132編に記され、綴られている内容となります。
 
「主よ、御心に留めてください。ダビデがいかに謙虚にふるまったかを。彼は主に誓い ヤコブの勇者である神に願をかけました。「わたしは決してわたしの家に、天幕に入らず、わたしの寝室に、寝床に上らず、わたしの目に眠りを与えず まぶたにまどろむことを許すまい 主のために一つの場所を見いだし ヤコブの勇者である神のために 神のいますところを定めるまでは。」

ダビデは王として、主なる神を信じる者として、なんとしても神殿建設をと願っていました。
 
7節には、「わたしたちは主のいます所に行き 御足を置かれる所に向かって伏し拝もう」8節には「主よ、立ち上がり あなたの憩いの地にお進みください。あなた御自身も、そして御力を示す神の箱も。」と続きます。

主なる神はイスラエルをエジプトから救い出し、カナンの土地を与え、更に国として成長し王が立てられた。そのようにして導かれた神の印である「契約の箱」に憩いの場所をと願いつつ、ダビデは神殿建設を求め続けたのであろうと思います。
 そのための準備として、ダビデは金10万キカル、銀100万キカルを集めたと聖書にあります。これは現在のお金に換算すると、私の計算が間違っていなければ、金だけで272兆円となります。日本の国家予算が100兆円を超えたと言われていますが、いずれにしてもとんでもない金額で、この計算が正しいのかどうかよくわかりませんが、もの凄い金額であることがわかります。
更に、金、銀だけでなく、青銅、鉄、材木、石材、労働者として職人、石工、大工、あらゆる分野の達人を整えます。いよいよ神殿建設へと進むのです。

 けれど、そんな時に主の言葉がダビデの耳に届きました。「あなたは多くの血を流し、大きな戦争を繰り返した。わたしの前で多くの血を大地に流したからには、あなたがわたしの名のために神殿を築くことは許されない。」それがダビデへの御言葉でした。
 けれど、だから出来ないではなく、「見よ、あなたに子が生まれる。その子は安らぎの人である。わたしは周囲のすべての敵からその子を守って、安らぎを与える。それゆえ、その子の名はソロモンと呼ばれる」そう告げられました。安らぎの人であり、安らぎが与えられた人、安らぎとは、シャローム、平安です。ソロモンは神にシャローム、平安が与えられた人でありました。
神殿の建設は、ダビデの子である、ソロモンへと引き継がれることになるわけです。
 
 ある文章に、ダビデの戦いは主なる神の名による戦いなので、多くの血を流したことは間違いないとしても、それが神に対する罪とはならなかったはずだとありました。けれど、ダビデが戦い、ダビデが勝利し、ダビデが整え、ダビデが建てたとなると、ダビデだけに焦点が集まり、ダビデが讃えられかねません。それ故に、主なる神は、平安の子であるソロモンに神殿建設の栄誉を与え、そのことによって、どのような思い、どのような計画でさえも、主なる神の思いこそが実現し、神御自身の働きによるということを、聖書を読む者に対して示し続けているのではないかとありました。
使徒パウロは、「わたしは飢え、アポロは水を注いだ、しかし、成長させてくださったのは神である」と記しましたが、ダビデにはダビデの、ソロモンにはソロモンの役割が備えられていたのであろうと思います。

 けれど、神の栄光を指し示すために、主なる神は、神を信じる者を用いられることも確かです。ダビデの思い、信仰が息子のソロモンへと続き、神殿は建てられ、契約の箱が至聖所に納められた時、雲が神殿覆い、主の栄光が神殿に満ち溢れました。ソロモンは全会衆に向かって、「イスラエルの神、主はたたえられますように。」と祈り、主の御計画に感謝し、罪の赦し願い、主の道を歩む者として誓いをたて、そのような生き様を願います。

 神の契約の箱が、モーセの手に与えられたのが紀元前13世紀、ダビデが集め、ソロモンが神殿を建てたのは紀元前900年代です。その間凡そ400年の間、契約の箱は、神御自身の印として、イスラエルを守り、イスラエルの信仰の中心でありました。その後、数百年、幾多の戦いを経て、ソロモンの神殿も破壊され、契約の箱の消息は途絶えてしまうことになります。一説にはエチオピア正教会が所有していると主張しているようですが、そうであるかもしれませんし、そうではないかもしれません。現代に至ってはもはや、存在しているのかどうかも分かりません。途絶えてしまっているかもしれません。
けれど、その消息が途絶えようとも、尚、途絶えないで続いているものがあって、それは、ダビデの、またソロモンの主なる神に対する思い、信仰でありましょう。
 
 いつかの礼拝でも話しましたが、ダビデが生き、ダビデが残した物の中で偉大な物は詩編であると申しました。聖書に記され、神を讃える詩編の御言葉は、3000年後の時代を経てなお、私たちの心に語り掛け、私たちの心の拠り所となって生き生きと息づいています。更に、ダビデが私たちに残したものは神を賛美する礼拝だとも言われます。ダビデは竪琴の名手だと言われていますが神を讃える際に、楽器を奏で、讃美を歌声でもって賛美しました。この礼拝の姿もまた、現代を生きる私たちの礼拝へと受け継がれたものでありました。
なにより、ダビデが私たちに残した最も大切なものは、神に対する揺るぎのない信仰でありましょう。ダビデが備え、ソロモンが建てた神殿ですけれど、ダビデは備えましたが、備わったから神殿を建てようとしたのではありません。 

 主なる神の神殿を建て、契約の箱に憩いの場所をと願い続けた思いが実現していっただけであります。物質や金銭が先にあるのではありません。それらは一番後であって、その前に人の願いと思いがあるのです。けれど、更にその前に主なる神の思い、神の時があるのだとも思います。
 
 今日、たまたまですが、私は午後から町田市の以前奉仕させていただいた教会の献堂式だとお知らせをいただき伺うことにしています。
町田の教会は、私が牧師をしていた時代から既に、会堂建築の相談が年に何度も行われていました。もっと言えば、私の前の牧師の時代から話し合われていました。けれど、それから10数年後の今日の献堂式となりました。嬉しい思いがしています。しかしまた、改めて人の思いではなく、主なる神の思いこそが実現することを思わされます。主イエスは「人にはできないが、神にはできる」と話されました。私たちの会堂建設の際にも思いましたが、人の思いではなく、主なる神の思いがあり、神の時があって物事が進んで行く、そのことを信じ、感謝し願い続ける信仰もまた主なる神は私たちに備えてくださいます。

 私たちにとっての契約の箱は、主イエス・キリストです。新約聖書からフィリピの信徒への手紙を読んでいただきました。使徒パウロはどんな状況にあっても、主イエス・キリストの名が告げられるのは良いことであり、それは喜びだと記しました。
「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。」

 状況によらず、しかし喜ぶ信仰を歩んで参りましょう。与えられている状況から物事を判断する知恵も大切であり、必要です。でも神の思いこそが実現すると信じる者の信仰は幸いな信仰です。そして、それを喜んで受け入れる謙遜な心を私たちは養い育てていきたいと願います。考えればヘブライ書の11章に記されているように、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、モーセも、ダビデも、ソロモンも、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」とありますが、そのようにして地上を生きて、目で見えなくとも、しかし信仰によって与えられたと喜び、祝福された人生を歩んだことをお思います。
そこには一人一人が切に願い、神を信じ、幸い願い、更にを祝福に生きた姿を思います。私たちも、その一人ひとりに倣いつつ、地上を生きる時も、天に凱旋する時も、どんな時も、主イエス・キリストが共におられ、主なる神のお守りの中にあることに感謝して過ごして参りましょう。 
お祈りいたします。
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幼子のように

2021-11-14 13:43:08 | 礼拝説教
【詩編131編1~13節】
【マタイによる福音書18章1~5節】


 11月のこの頃になりますと、あちらこちらから喪中はがきが届きます。親族の大切な方が亡くなったのでと、必ずしもキリスト教の習慣ではありませんけれど、日本の一つの決まり事のようになっています。
 
 先日、私の母教会で牧師をされている佐々木潤牧師からも喪中はがきが届きました。お父さんが亡くなられたとありました。お父さんは佐々木久慶先生と言いまして、キリスト教主義の学校先生を長くされ、その後牧師として秋田県の教会で奉仕されていました。私が岩手の教会におりました時に、教区の主事をしていたこともありまして、教区事務所にも時々顔を出してくださって大変良い関わりを持って下さっていました。

 私は久慶先生が大好きでした。どうしてかというと、久慶先生は特別なタラントがありました。お会いして一分もしないうちに、一瞬のうちに、長く付き合っていた友のように、古い友人と話しているかのような会話が進むのです。
 
 その雰囲気は、これまで経験したこともない、信じられないと思う程、暖かく、穏やかで、しかも笑いの絶えない時間であったことを思い出します。幾らか大袈裟かもしれませんが、天の国の側まで来ているような、そのような雰囲気を一体どうすれば自分もそうなれるのか、羨ましくも思い、しかし、心から尊敬する思いがずっとありました。今日の説教題を「幼子のように」と致しましたが、久慶先生はほんとうに幼子のような先生であった、改めて思わされました。

 説教において、しばしば信仰者は「幼子のように生きること」が告げられ、求められます。聖書の御言葉もそのように告げているように思います。

 そう言われる時の幼子の意味は「純真・無垢」というイメージで言われると思いますし、私達の信仰に求められるものも、そのような信仰でしょう。私が久慶先生を思う時、なんと純真で無垢な先生であるかと感じた訳ですし、そう思うと逆に自分がどれほど純真でも、無垢でもないかとも思わされます。

 つい先日、我が家の夕食の時でした。何気ない会話の中で長男がふいにこんな話をしました。「神様が「本音の国」を作ったら、その国の人たちは何も話さない人たちになったんだって。」何かのゲームなのか小説なのか、あるいは自分で考えたのかもしれません。神様が人の姿を見られて、ウソばかりついている姿を見られて、がっかりして、本音だけで話す国を作られた、そしたら誰も会話しなくなったというのです。
 
 私はそれを聞きまして、「私も絶対話さないだろう」と言いましたら、家族中が大笑いとなりました。皆さんも本音の国に招待されるとしたらどうでしょうか。楽しく笑顔で本音を話せるでしょうか。そのようにして、私たちは日頃の生活において、幼子ではなく、大人としての付き合いをします。時には心の中とまったく逆の思いの言葉を話す時もあるでしょう。教会だけは違う、教会だけは本音で生きられるから楽だ、とも言えないのではないでしょうか。
 
 ある尊敬する牧師は、教会の中でさえも、日の当たる場所にいる人と、日陰にいる人がいることを忘れてはならないと教えておられます。その意味は深く、多くを思わされますが、でも、突き詰めてしまうとすれば、それ程に私達は罪人として罪に生きているということです。

 そして、私は、本当のところは、大人も子供もきっと同じだろうと思うのです。先ほど、詩編131編を読んでいただきました。僅か3節からなる短い詩編です。1節に「主よ、わたしの心は驕っていません。わたしの目は高くを見ていません。大きすぎることを わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません」とあります。
 この御言葉は謙遜に生きようとする詩編の作者の思いが記されていると感じます。続く2節「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように 母の胸にいる幼子のようにします。」美しい詩編です。自分の魂は、母の胸に抱かれる幼子のように穏やかで、優しい呼吸をして、平安である様子を見て取ることができると思います。驕り高ぶる必要もなく、自然に謙遜にさせられるほどに幸いな時間だと言えるでしょう。
 
 この詩編を愛唱詩編にしているという方も多いと聞きます。主に信頼して安心している様子が見事に記されていると感じます。

 詩編に記される「幼子」という言葉、私達が用いる新共同訳聖書ではなく、口語訳聖書には「乳離れしたみどり子」と記されています。英語の聖書でも、そこに「乳離れした子」という表現で記されていました。
 「乳離れした子」とは何歳位なのか、色々と議論も出来そうな話題ですが、昔の話ですから恐らく2歳~3歳、あるいは4歳位かもしれません。
 
 この世に生まれて来た赤ちゃんは、一歳ぐらいまでは殆ど何も出来ません。何も出来ませんけれど、この時期は時に母親がずっとそばに寄り添い、まさに幼子のために献身的に世話をいたします。専門的にはこのような時に、一身に世話を受けて、愛された子どもは、この世は信頼するに値するという価値観を得ると言われます。そうかもしれません。世話してもらい成長し、寝返りを打ち、お座りをして、ハイハイの後は、つかまり立ちして、歩き出す。それから少しずつ言葉を話し出すようになる。
 そのような幼子の成長を見ながら、両親、家族は一つ一つの成長の姿に喜び、その喜びを感じて、自分も喜びながら育つのです。
 
 そしてその次に来る、生まれて初めての試練、それが乳離れだと言われます。

 これまで言葉で話すことなく、しかし全ての事柄が可能となり、自分では何もしなくとも、全てのことがなされてきたのに、初めて自分の思いが叶わない事態となるわけで、幼子にとっては大きな試練の時となります。
 この時期あたりから、幼子の心は不安が大きくなり、夜泣きをしたり、わがままが強くなったり、あるいは言葉で表現できませんから、心の不満を態度で示したりするそんな具合になっていくのかもしれません。

 そんな子どもに、何が大切なのか。言うまでも無く母親という存在です。乳離れしたばかりの子が、不安と不満を知るようになった子が、すべての不安を吸収し、心からの安心を得ることができる、それが母親の膝の上であり、母親腕に抱かれる時なのです。魂は平安を得て、沈黙し、全てをゆだね、心を取り戻し、安らかに眠ることができる。

 主イエスは「はっきり言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることは出来ない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」と教えられました。
 先ほど、子どもは純真・無垢のイメージだと申しましたが、必ずしも純真・無垢な姿だけではありません。子どもは子どもなりに、わがままですし、時として面倒くさいところもあります。もし、本音の国に子どもがいるとしたら、どれほど聞きたくない言葉を聞くだろうかとさえ思います。人は大人であろうと、子どもであろうと、同じように神の前に罪があるのです。

 けれど、子どものようにならなければ、それは、あたかも母親の胸に抱かれ、全てをゆだね、すべてが受け入れられている中で平安を見いだす子どものように、私達もまた、主なる神の御前に平安に生き、祝福を受け入れようとすることではないでしょうか。
 
 特に、私達がその平安に生きる場所として、毎週の週の始めの日である日曜日に礼拝が整えられています。この礼拝こそ、私達が主の腕に抱かれ、神の愛に包まれ、御翼の陰で休むことができる、人生の平安をこの礼拝でこそ味わいたいと思います。
 
 これから聖餐式が行われます。昨年の三月以来、コロナ禍の中で聖餐式を行うことが出来ませんでした。昨日、夕方から聖餐式の祭具を持ち出して、私一人で一生懸命に綺麗にしてみました。多くの方がやりますよって声をかけてくださいましたが、一人でやりたいと思いました。それは主の体としてのパンと主が流された血としての杯を、この一年半の間、自分はほったらかしだったんだなと思いとあまりにも悲しくなったからでありました。心を込めて神様に懺悔しながら綺麗にさせていただきました。

 コロナ禍の中で、聖餐式を執り行えなかった分、今、私たちは主イエスの、御自分の命として、血としての杯と、体としてのパンを弟子達の前に整えた時から、神の見えない恵みを見える恵みとして今に至るまで2000年に亘り途絶えることなく行われてきたことを思います。

 私達一人一人が神の御前に幼子のようになる、それは杯をいただきながら、パンをいただきながら、その一つ一つに主イエスの愛を感じとる心を持つことでもあります。これは、私の血、これは私の体と伝える方が、自分と共におられる確信を得る聖餐式としたいと心から願います。 

お祈りします。
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元気が出る言葉 第11回

2021-11-13 17:50:00 | ラジオトーク
 みなさん、こんにちは、大塚平安教会牧師の菊池丈博です。今日の人生これからメッセージは、新約聖書ペトロの手紙二 3章18節からの御言葉です。

「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。」

 以前に、ある社会福祉の専門家に聞いたことがありました。人間は何歳位から年寄りになるのでしょうか。すると何歳だと思いますか。答えは45歳だそうです。

 人間45歳位からは、年々衰えていくそうです。私も45歳の時に、生れてはじめての経験をしました。人と話をしていて、目の前にいる人の名前が出てこなくなったのです。

 何か病気なのだろうか、よくない兆候なのだろうか、冷や汗が出て来たことを思い出しますね。でも、後になって気が付きました。これが年を取ったということだとわかりました。最近では毎日物忘れをしていますから、名前が出ないのなんて当たり前で、冷や汗は出ません。ため息は出ますが(笑)

 私も60歳となり、教会以外の所では十分な年齢となりました。子どもの頃のように成長することは無くなりました。お腹周りの成長以外は全て止まったようなものです。

 でも、聖書は「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい」とあります。人は幾つになっても成長するものがあるようです。一つは恵みにおいて、もう一つは知識において、成長するようです。

 今回は特に恵みについてですが、神様は私達すべての人に自然の恵みを与えてくださいました。丁度今は秋ですけれど、秋と言えば食欲の秋、ぶどうも美味しいし、おイモも美味しいし、昨日はとれたてのカブを食べたら美味しかったです。神様はそのようにして自然の恵みを沢山、私達に備えてくださいます。

 神様は正しい者にも正しくない者にも、雨を降らせてくださり、太陽を昇らせてくださる。その人が何をしているのか、していないのかは、関係ありません。人だけでもなく、どんな動物にもどんな植物にも、雨を降らせ、太陽を与えてくださり、あなた方は生きていきなさいよ、と教えておられるわけです。

 更に、何が恵みかと言うと、神様は私達に、救いの恵みを与えてくださいました。救いというのはね、助けてくださったということです。
 
 病気の人は病気が治るように病院に行きます。そこに医者がいて助けてくれます。生活に困っている人は、困らないように役所に行って相談するわけです。私も私の母親、認知症になって長く病院にいますが、困ってしまって市役所に行き相談したことがありました。人は人と時々、喧嘩しますけれど、人間関係で悩み続け、関係が良くなりますようにと祈り続けることも良くあるのではないでしょうか。
 
 人は色々なところで困るのです。先日亡くなられた瀬戸内寂聴さんが言っていました。皆さん、人生は坂があります。でも一番困るのは「まさか」という坂です。上手い事言うと思って聞きました。

 生きていくのに辛い、苦しい、そういう時があります。そんな時に、本当に助けてくださるのは、主なる神様ですよ。私達のどんな時も助けてくださる。どんな時もですよ。

 イエス様は「人にはできないが、神にはできる」と話されました。私達は、自分達で思っているより出来ないことが多くあるのです。でも、神にはできる。そう信じていると、神様は、「まさか」という坂さえも、乗り越えることができる、そのような救いを見せてくださいます。

 これは本当に凄いことです。私はあなたを絶対に見捨てないよって神様だけがそう伝えてくださいます。神様の恵みをしっかり受けて、私たちは年齢によらない成長を遂げることができるようです。60歳でも、70歳でも、80歳でも、90歳でも、皆さん!人生これからです。!

 ※このメッセージは、スマホのラジオトークで聞くことができます。牧師が直接語りかけています。興味がある方は「ラジオトーク 人生これからメッセージ」を聞いてみてください。大塚平安教会のHPからQRコードをスキャンすると、楽です。

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「永遠の命を生きる」

2021-11-07 16:48:04 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書17章1~5節】


 2021年度、召天者記念礼拝を迎えました。本日の説教題を「永遠の命を生きる」と致しました。キリスト教はその教えの中で、「永遠の命」という言葉を用います。
 
 永遠の命と聞くとすぐにいつまでも死なない命、と連想しますけれど、少なくとも物理的には不可能ですし、そのような意味を持つものでもないと思います。
 
 では、どのような意味を持つのか、色々な意味が込められていると思います先ほど、読まれましたヨハネによる福音書17章3節にはこう記されています。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」

 この御言葉は、永遠の命とは、一つは主なる神を知ること。もう一つは主イエス・キリストを知ること。この二つを知ることだと伝えています。永遠の命は主なる神の内にこそあり、私達人間にはありません。だから、神を知り、主イエスを知る、それによって神の永遠の命の内に入れられる者となって生きてく、それがまた、信仰を持つ者の生き方ではないでしょうか。

 では、一体どのようにして主なる神、また、主イエス・キリストを知るのだろうか。あるいは何を持って神を、キリストを知ったと言えるのでしょうか。先に答えを言うとすれば、それは人の努力によるのではありません。努力して、苦しみながら聖書を読み、御言葉と格闘することは求められるでしょう。肉体的鍛錬、修行、断食、祈りの中から神を見いだすことも、勿論あると思います。
 
 けれど、もしそのような人の努力によらなればならないのなら、きっと僅かな人のみが知ることが出来る神であり、僅かな人のみが知りえる主イエス・キリストとなってしまいます。先週の日曜日は10月31日、宗教改革記念日でもありましたが、宗教改革の先駆者であるルターは、日々の聖書朗読、厳しい終業を重ね、重ねながら神の恵みを得たいと願い日々生きるなかで、尚、神にある平安には至りませんでした。その中である時に気が付いた。主にある平安は、人の努力によるものではない、そうつくづくと感じた、それが宗教改革の始まりでもありました。

 先ほど、召天者のお名前を朗読いたしました。大塚平安教会今年で創立72年目を過ごしていますが、この2021年度は、71名の方々のお名前を読み上げました。今日の礼拝ではそれぞれにご遺族の方々もおられますし、この礼拝を大切にしておられるご家族もおられます。けれど特に何人かの方々は、教会というよりは、綾瀬市にあります、知的障害を持つ方々の施設である、綾瀬ホーム、さがみ野ホームにおいて長く生活されながら、教会とつながり神様とつながって生きて来られた方々も少なくありません。ホームに関わって来られた方であれば懐かしいお顔であると思います。

 この一年半以上、コロナ禍の中にあって、綾瀬ホーム、さがみ野ホームでの礼拝もままならない状況が続いていました。けれど先月10月初旬から少しずつ平常へと戻りつつありまして、先週の金曜日のさがみ野ホームの礼拝は、もういつ以来であったか忘れてしまう程に久しぶりに、一番大きな部屋で全員が集まって礼拝を献げることが出来まして、感謝でありました。
 
 綾瀬ホーム、さがみ野ホームの礼拝のお役も、私がこの教会に来まして以来ですからいつの間にか12年目となりますが、今でも最初の礼拝は忘れられません。何が忘れられないかというと、何を話せば良いのか、非常に困ったということでありました。それまで岩手の教会で、あるいは東京、町田の教会で牧師として勤めて参りました。時には海外の教会での礼拝奉仕もありました。

 それまで牧師として、十分ではないにしても経験から来る知識もあり、皆さんの前で御言葉の解き明かしの役割を担わせていただいていました。でも、そういった経験からくる知識は、ほとんど役に立たないのではないか、誰も聞いてくれないのではないか、そんな恐れがありました。
 
 今でも慣れたということはありませんけれど、でも、私も慣れて、聞かれる皆さんも慣れてこられた。そういう関係性を築いて来られたことがまさしく救いになっていることは間違いありません。

 先週の金曜日、さがみ野ホームで「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」という御言葉から、神様につながっていましょうと話をしました。神様につながっているとそこに平安がありますよと話しました。でも、その繋がりを阻むものが二つあります。一つは体、一つは心ですよと話しました。私達が地上で命与えられて生きていく中で、命は体と直結します。

 自分の体は自分の体ですけれど、思うようにいかないのも自分の体です。男性であれ、女性であれ、もっと筋肉がついていればとか、もっとスタイルが良かったなら、顔がこうであったら、その思いは尽きません。あるいはもっと健康な体であったらとか、丈夫であったなら、胃腸が丈夫であったなら、もっと器用であったらとか、足が長かったら、これまで何度そう思ったことでありましょう。
 
 あるいは、人には一人一人タラント、能力と言われるものも違います。教会員のKさんは、オーケストラの指揮者として知られています。こんど11月27日に海老名のホールで、ヘンデルのメサイヤの指揮をされますけれど、ある時にKさんに聞いたことがありました。すごく失礼だったと思いますけれど、オーケストラの楽器の音が一度にジャンと鳴って、それが一度に全部分かるのですかって聞きました。そしたら、当然でしょう。それが聞こえてこなかったから指揮は出来ませんと即答でした。私などではもはや理解できない研ぎ澄まされた「耳」を持っておられるのだと思います。

 耳だけでもなく、目も人は全員が違うと言われます。リンゴの赤を見ても、皆が赤だと理解しても、その赤の色は全員が違う色に見えているそうで、だから色彩感覚もそれぞれに皆が違っている。
 
 運動能力に至っては、人は全く違っているわけで、運動会が大好きな人もいれば、運動会来なければ良いなと思っている人も少なくないと私は思います。人の能力の違いは計り知れないものがあります。

 そのような違いによって、それがものすごく違うとそうでもないのですが、実際は皆似たり寄ったり(笑)でも、違いが、妬みになったり、悔しさになったり、怒りになったり、自己嫌悪になったすると、心にも大きく影響して、がっかりしたり、つまらない人生だ自分とを否定したり、面白くないと思ったり、つまり、不安を生きてしまうのです。

 なぜそうなるのか、人は自分の目線で物事を見て判断するからですよ。だから、大事なことは神様の目線ではどうなのだろうと考えてみることです。聖書が告げる神様の目線は幾つもあるわけではありません。むしろ神様の目線は一つしかない。それは、あなたは私の最高傑作だという目線です。あなたはあなたが自分で思う何倍も、そのままのあなたが素晴らしいという目線ですよ。私は世の光であると言われる主イエスが、その光の中にあなたも、あなたも集まって来なさい。ここに光の暖かさがある、ここに神の明るさがあるのだからと皆を招いておられるのです、と申し上げました。

 「わたしに従って来なさい」と言われる主イエスの招きに、私たちは「はい、わかりました」と立ち上がることです。立ち上がって主イエスの歩みに従っていく。その時、私達の人生は大きく変わるのではないですか。

 永遠の命とは、神を知ること、そして主イエスを知ることと申しました。けれど、本当は二つではありません。一つのことです。主イエスを知ればそれはそのまま主なる神を知ることになるのです。
 
 スイスのポール・トゥルニエという精神科医は「人生が人生となるためには、対話する者にならなければならない。」と教えています。それは関わりを持つ者という意味でしょう。対話する者という意味でありましょう。主なる神は、そのような一人一人との対話を望まれて、独り子である御子イエス・キリストを人の世の、人が地上で生きるただ中に誕生させてくださいました。
 
 御子イエスと私たちが具体的に関わりを持ち、人間のあらゆる苦しみや嘆きや恐れを分かち合ってくださるために、主イエス自らも苦しまれながら、しかし、神の愛を示し続けてくださいました。

 主イエス・キリストを知り、主イエス・キリストに触れ、主イエス・キリストの愛によって生かされて生きてこられた方々がおられます。信仰の先達です。この先達の生き方に倣い、私たちも神の愛に包まれて、新しい一週間を過ごして参りましょう。

 お祈りします。
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