日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

神の正しさを知る時にこそ

2021-10-17 15:45:59 | 礼拝説教
【詩編129編1~8節】
【ルカによる福音書18章9~14節】

 本日は詩編129編を読みました。1節、2節に同じ御言葉が繰り返されます。「イスラエルは言うがよい。わたしが若いときから 彼らはわたしを苦しめ続けたが、 わたしが若い時から 彼らはわたしを苦しめ続けたが 彼らはわたしを圧倒できなかった」
 この御言葉をどう読むのかが一つのポイントですが、「わたし」はイスラエルの国といいますかイスラエルの民、彼らとは一言でいえばイスラエルの周りの異民族と考えられます。
 
 今、毎週水曜日の祈祷会では旧約聖書の出エジプト記を読んでいますけれど、イスラエルの異民族として、代表的な民族はエジプトです。

 創世記のヨセフ物語り以降、イスラエルの民は400年に亘りエジプトに住みました。大臣ヨセフがいた頃は、丁寧な扱いを受けていましたが、時代が進み、イスラエル人が増えて、エジプトはイスラエル人を厭うようになり、ついにイスラエルは奴隷とされ強制労働が強いられることになります。

 労働のゆえに助けを求めた叫びが主なる神に届き、出エジプトの出来事となります。

 それから40年、荒野の旅を経て、主なる神がアブラハム、イサク、ヤコブに約束された土地、カナンの土地に到着します。しかし、その土地には既に多くの異民族が住んでいるわけで、主なる神はモーセに「それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と密の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る」と告げましたが、カナンの土地に進み入るためには、多くの異民族との争いは避けられませんでした。
 
 しかし、それだけでなく、その後も混乱が続き、士師記という箇所では、士師ギデオンとミディアン人との戦いが記され、力持ちのサムソンはペリシテ人と戦い、少年ダビデが戦った3mもあったと言われるゴリアトもペリシテの戦士でした。
 その後、ダビデが王となり、息子ソロモンが後を継いだ頃、イスラエルが最も繁栄をきわめたわけですけど、その繁栄も長くは続かず、ソロモンの後の後継者争いによって、イスラエルは北と南の二つに別れ、北イスラエルは、その後メソポタミアから出たアッシリアとの戦いに敗れ、更に南ユダも更にその後、強国バビロンに滅ぼされ、捕囚の民となるわけです。
 
 更に50年後、ペルシャがバビロンを破り、捕囚の民は、イスラエルに戻り神殿を建て、イスラエルは復興していきますけれど、ペルシャの次にはアテネを中心としたギリシャが台頭してきて、大きな争いが起こり、ギリシャが世界を支配し、アレキサンダー大王と呼ばれる王が出た時には、ペルシャを破り、エジプトを支配し、当時の西欧世界の殆どを支配するのです。

 しかし、その次にはローマが現れてくるといった、高校の世界史のような話となりましたが、つまりは、イスラエルはほぼ全ての時代にあって、詩編129編の「彼ら」異民族との争いが続き、多くの時代は異民族に支配され、「わたしが若いときから、彼らはわたしを苦しめ続け」とありますようにイスラエルは「苦しみ」続けたのです。そのような歴史をイスラエルは生きて来ました。

 3節に「耕す者はわたしの背を耕し 畝を長く作った」とありますが、聖書の他の箇所にはない独特な表現だと言われます。旧約聖書学者の権威ある先生によれば「敵による強奪・蹂躙を意味する」と記されていました。
イスラエルを囲む異民族の強奪、蹂躙によって、幾度も血を流し、土地を追われ、時には捕囚の民とされた苦しい歴史を生きて来ました。

 でも、詩編は何を伝えたのかというと、2節にある御言葉です。「彼らはわたしを苦しめ続けたが 彼らはわたしを圧倒できなかった」これが詩編の作者の伝えたいところでありましょう。

 続く4節に「主は正しい。主に逆らう者の束縛を断ち切ってくださる。」と記されてありますように、天地創造の主であり、私達の命の主である方、主なる神の正しさによって、どのような力、どのような支配、どのような束縛でさえ、その縄目から断ち切って下さる方がおられる。我らはこの方にこそ、従って生きていこう。そう告げるのが詩編129編です。

 この詩編は都に上る歌、巡礼の歌の一つとされているわけですが、エルサレムの神殿に向かう巡礼の人々が、この詩編を口ずさみながら、礼拝で唱えながら、「主は正しい。主に逆らう者の束縛を断ち切ってくださる」と共に唱和しながら、歩む様子を思い浮かべる事が出来るでありましょう。

 このような歴史を歩みつつも尚、詩編の作者が私達に伝えようとしていること。それは主の正しさです。「主は正しい」この御言葉をですね、私たちはしっかりと受け止めたいと思うのです。

 私は明日の月曜日、町田市にある「保育園」で礼拝を頼まれています この保育園は、キリスト教の教えを大切にしながら歩み続けている保育園で、私が町田の教会におりました時から20年近くの関わりを持っているのですが、コロナ禍により、ここ数ヶ月は伺うことも適いませんでした。

 先日、久しぶりに電話がありまして、お出でくださいと連絡がありまして、伺うことにしました。聖書箇所はどこですかと聞きましたら、ダニエル書をお願いしますというのです。ダニエルがライオンの洞穴に入れられても、噛み殺されずに生きて出て来たところをお願いしますと言われました。4歳、5歳の子ども達にダニエルについて話すのは中々、勇気と根気が要りますが、それでも子どもたちは熱心に聞いてくれますので、ありがたいと思っています。

 ダニエルは、バビロン捕囚の時代に生きた人です。10歳の時に、国がバビロンに負けて、捕虜として連れていかれますが、能力が高いことを認められ、後には何十年にも亘り、バビロンで大臣にまでなった人です。けれど、それだけに周りからは妬まれ、嫉妬されて、妬んだ人々によってダニエルを陥れる策略が練られます。バビロンの王は神と等しいから、王様以外のものを拝み、礼拝してはならないそういう勅令が出されるのです。

 ダニエルは10歳でバビロンに連れて来られてから、何十年間、一日も欠かさず行っていたことがありました。それは家の窓を開けて、エルサレムの方向を向いて、朝に、昼に、夕に、一日三回、神に祈りをささげることでありました。それだけは一度も欠かしませんでした。王様以外のものを拝み、礼拝してはならない、ダニエルは大臣ですから、そのことを知っていました。

 でも、主なる神に対する祈りを止めることはありませんでした。しかし、その様子を見て、直ぐに王にその様子が知らされ、罰としてライオンの洞穴行きが決定されるのです。ダニエルを信頼する王のほうが、謀られたことを知り、しまったと思うのですが、時既に遅く、ダニエルはライオンの洞穴です。けれど、一晩たち、食事もしないで王はダニエルの様子を見にいくのですが、ダニエルは傷一つなく洞穴から出てきて、逆に策略を仕組んだ人々が捕まり、ライオンにかみ殺される結果となるのです。

 皆さん、どんな状況にあっても、ダニエルはエルサレムの方向を向き、神に祈り、神を信頼し、神によって生かされる喜びを生きました。戦争に負けても、家族と離れたバビロンにあっても、出世しても、大臣になっても、妬まれても、策略に会っても、それは変わることがありませんでした。なぜか、ダニエルは主なる神こそ、正しい方だと信じて疑わなかったからだと思います。主なる神以外のどんな束縛にも束縛されることなく、しかも、王からも多くの人々からも信頼され、でも、状況によらず神を礼拝していました。

 そのような神に対する信仰、神に対する深い信頼、イスラエルの人々は、そのような主に信頼する人々の生き方によって、歴史の中にあっては、真に翻弄されながらも、しかし、主なる神こそ私達の導きて、主は正しいと、信じて生きて来たのです。

 先ほど、ルカによる福音書から読みました。主イエスが話してくださった「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえです。二人が神殿に上った。一人はファリサイ派の人、一人は徴税人です。ファリサイ派の人が祈りました。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。また、週に二度の断食、収入の十分の一を献げています。」と心の中で祈りました。徴税人は遠くに立ち、目を上げようともせず、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈ったのです。主は「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、徴税人のほうだ」と話されました。

 その理由は難しいわけではありません。人は神の御前にあって、どれほど罪深く、神に対して、「どうぞわたしを憐れんで下さい」と祈るしかない、そのような存在です。神の前に神ではなく、自分が正しくなる時、神ではなく自分を称賛しているようなものです。

 徴税人は、自分がいかに罪深い者であるかを仕事柄からして、良く知っていたことでしょう。けれど、もっとよく知っていたのは、神は正しい方である、という一点ではないでしょうか。ダニエルにしても同じだったと思います。神は正しいかたである。この信仰と信頼に生きることだと思います。

 私達が生きる時に、神様、なぜですかと叫びたくなる場面がいくらでもあります。思いがけない病気、怪我、事故、不幸と思われる出来事は数限りなくあります。そして、その都度に、多くの人々は、神様なんてと思うのです。神様がいるのだったらこんなことは起こらないはずだと思い、神様なんて当てにならないと思うのです。

 いや、そんなことはない、主なる神はおられ、私達を必ず守ってくださっていると信じる私たちも、いつのまにか神の前に自分の正しさを示したくなる、そのような誘惑に惑わされることもしばしばかもしれません。

 けれど、なお、そのような傲慢になりそうな私達を、しっかりと支え、状況に依らず、支え続けてくださる方がおられ、私達と共に歩んで下さっている方おられます。この方こそ正しい方、そのような信頼を持って、私達は歩んで参りましょう。                      
 お祈りします。
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狭い門から

2021-10-16 16:02:26 | コラム
「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」(ルカによる福音書13章24節)

 ある時にイエス様に聞いた人がいました。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか。」その問いに答えたのが今回の聖書の御言葉です。「狭い戸口から入るように努めなさい。」
 
  狭い戸口というと、茶室を思い起こします。茶室の入り口は「にじり口」といって、身をかがめなければ通り抜けられない程小さい入口です。千利休というお茶の先生が考えたといわれています。
 例えば刀は武士の魂と言われるように、武士はいつも刀を腰に差していました。けれど茶室に入るには刀をはずさなければ入れなかったといわれます。つまり、千利休は、茶室に入る時は、なにも持たず、皆が平等の立場で平安にお茶をいただくのが良いと考えたのだと言われます。

 一説には千利休はクリスチャンであったとも言われています。茶室を霊性豊かな場所にと考えたのかもしれません。
 
 さて、狭い門とはなんでしょうか。最初に戻りますが「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と問われました。「救われる者」とは「神様を信じる者」のことです。神様を信じるために大切なことは、自分の手に握っている物を手放なすことです。握っているものはひとりひとり違います。財産、健康、社会的立場、家族、自分のもっとも大切なものを人は自分の手に握っているのです。それをも神様に委ねられるかどうかが鍵になります。

 委ねようと決心する人は少ないのです。だから戸口は狭いと主は教えられたのではないでしょうか。私たちは出来るなら全てを主に委ねて、神を信じ、希望をもって歩んでいきましょう。
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幸いに生きるために

2021-10-10 11:47:19 | 礼拝説教
【詩編128編1~6節】
【ルカによる福音書11章27~28節】


 今日の説教題を「幸いを生きるために」としました。私たちは誰もが、出来れば「幸いを生きていきたい」と願います。けれど、幸いとはどういう状態なのかと問われるとすれば、具体的にこういう状態と答えるのは難しいかもしれません。
 世界に有名な「幸福論」という著書が三つあるそうですが、フランスのアランという人が記した「幸福論」によると、人はいつも気分が悪いのだそうです。何か不幸なことがあったわけでもないのに、常に気分が悪く、機嫌が悪い人が多い。人は意識せずに、自然に任せておくと次第に不幸な感情に取りつかれてしまうようです。私はそれが良く分かるような気がします。
 
 
 私たちは何かを考えている時、かなりの確率が悩みであり、不安ではないでしょうか。私は最近、家を出て教会に向かう時に、なぜか必ず忘れ物があって途中で戻るのです。今朝もそうでした。
 血圧の薬を朝食の後に飲むのですが、朝食の後、薬を飲もうと思って立ち上がって、なぜか洗面台に行って歯を磨いていたり、着替えたりしているうちに、あれ!薬は飲んだのか、飲まなかったのか分からなくなったりします。そんなことをしていますと、自分も歳を取ったな、なんて思ってがっかりするわけです。

 だから余計に気を付けなければならないのですが、何に気を付けるのかというと「自分は幸せを生きていくぞ」という意識を持ち続けることだとアランは教えました。あるいは「幸福であることは人間の義務」だとも告げています。
人は不幸な人、不機嫌な人の側に近寄りたいとは思いません。ですから私達が出来る、人に対する親切は何かというと、何かをするよりも、機嫌良く生きる、それだけで大分人に対しては親切だと思います。大切なことではないでしょうか。

 今日読みました詩編128編も、人が幸いであるとはどういう状態なのかを記している詩編だと言えるでしょう。2節にこうあります。「あなたの手が労して得たものはすべて あなたの食べ物となる。あなたはいかに幸いなことか いかに恵まれていることか。」海や湖に出る漁師であれば魚を獲る。農家であれば土を耕し、水を注ぎ穀物、野菜を育てる。山に向かう猟師であれば、鹿やウサギを狩る猟をする。あるいは、街に出かけて行って何等かの商売をする。大工したり、道路を作ったりする。そういった労働の末に、手に入れた食糧がある。今日の一日の糧がある、それはなんと幸いであろうかと伝えます。
3節には「妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木、食卓を囲む子らは、オリーブの若木。」この箇所は家庭における幸いを記しているのだと思われます。今の時代は、妻も夫も働きに出るのが普通であって、時代遅れだとか、妻が家の奥にいるなんて、女性蔑視だといった見方はしなくて良いと思います。

 先ほど、結婚という讃美歌を歌いまして、驚いた方がいたかもしれませんけれど、私はこの104番の讃美歌は好きな讃美歌の一つです。スコットランドの古くからの民謡に、牧師である以上に讃美歌作家として知られているイギリスのブライアン・レンが讃美歌の歌詞をつけて作った讃美歌です。
「愛する二人に、あふれる喜び 造られた神を たたえて歌おう」と歌いだしますが、家庭の基礎、土台は結婚する二人から始まります。二人で家庭を築き、幸いにも子供に恵まれる。勿論、生活する中で、色々な困難を経験するとしても、二人で協力しながら生活を営んでいるある日、夫が家の奥にいた妻を見つめて気が付くのです。 
 笑顔で、明るい家庭の中で食卓の準備をしている、その様子はまるで、実り豊かなぶどうの木のようで、その食卓を囲んで子どもたちがやって来る、その様子はオリーブの若木のようにしなやかで希望に満ちているな、なんという幸いなことであろうか。と普段の何気ない風景を見ながら、しかし、そこに与えられている幸せを見つけて喜んでいる場面、それが128編3節です。
人々の多くは幸いが、自分の所にやって来ないだろうかと幸いを待っているところがあります。でも、外からやってくる幸いはきっとまた、どこかに行ってしまいますよ。外ではなく、自分の内に幸いを見つけられる人こそ、まことに幸いだと思います。

 5節、6節にはこう記されています。「シオンから 主があなたを祝福してくださるように。命のある限りエルサレムの繁栄を御 多くの子や孫を見るように。」この箇所は、長寿であるということと、幸いが結びついています。一月ほど前になりますが、さがみ野ホームにおられた大森操さんという男性の方の納骨式を執り行いました。式のためにホームから送られてきた資料を読んでビックリしました。大正12年生まれとありました。98歳の方でした。さがみ野ホーム最長老だったそうです。7月に召された方ですが、亡くなる2か月前の5月には庭に出て、ビールを飲んで、プリンを食べていたそうですから更に驚きました。元気で長寿である、それは神様の祝福を感じます。自分も出来ればそのように生きていきたいと思います。でも、詩編は長寿だけではなくて、

 「多くの子や孫を見るように」とも記されています。自分の子ども達がそれぞれに家庭を築き、その家庭でも子どもに恵まれて、気が付けば自分達は多くの孫に囲まれている。長く生きて来て良かったなぁとつくづくと思う、そんな情景が記されていると思うのです。

 そのようにして詩編128編は、「幸い」とは、まず、日毎の糧がしっかりと与えられる。そして家庭が守られ、家族が幸せである。更に長寿が与えられ孫に囲まれる。人の幸いとはこのようなものではないかと伝えているのだと思います。
 
 そして、「幸い」に生きるために必要なことは何か。それが1節に戻りますが、こうあります。「いかに幸いなことか 主を畏れ、主の道を歩む人よ。」あるいは4節「見よ、主を畏れる人はこのように祝福される。」と記されています。私たちが幸いに生きるためにも「主を畏れ、主の道を歩む」これが真に幸いに生きる秘訣であると詩編は伝えているのです。

 先ほど、新約聖書からルカによる福音書11章を読みました。短く読みましたが、主イエスが口を利けなくする悪霊に取りつかれた人を癒している場面です。悪霊を追い出したところ、口の利けない人が物を言いだしたので、周りの群衆は驚いた。驚いただけでなく、主イエスを怪しむ人もいたり、試そうとしたりする人も出てくるのです。

 けれど、主イエスの業と言葉を聞いて、感動した一人の女性が「なんと幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」と主を讃えたのです。直接主イエスを褒めて、讃えるのではなく、間接的に、主イエスの母であるマリアを褒める、母親の幸いを告げることによって、より効果的な誉め言葉となっているかもしれません。
けれど、主はこう答えました。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」主なる神の言葉を聞いて、聞くだけでなく、それを守る人たちにこそ、幸いだと告げたのです。ここで言う神の言葉とは具体的には主イエスの言葉です。

 主イエスが語る祝福の言葉を聞くことです。主が告げる祝福の言葉とは、招きの言葉です。言うまでもなく神の救いへの招きであり、神の国への招きです。

 先日、夕食の際にふいに、長男が話しかけて来て、「お父さんは、説教した後に、周りの人がどう思っているのか気にならないの?」と聞かれました。私はその問いに関しては明確な答えがありまして、「自分からは絶対に説教の評価を求めない」ということにしているよと答えました。評価を聞かない、それは多くの先輩の牧師からも教えられたことでもあります。上手くいったと思う説教も年に何回かはありますが、むしろ何とか話しきったと思う時も多く、全くダメだったと思う時も多いのです。でも、時として自分の評価とは全く違う思いで受け止めてくださる方も多く、時として自分では上手くいったと思っても、全く分かりませんでしたと言われたこともあり、その逆も良くあるのです。
勿論、どんな評価をされるとしても受け止めなければなりません。けれど、説教もまた神の国への招きであり、神の救いへの招きです。あなたも、あなたも神の救いへ導かれて欲しい、もっと具体的には、特に洗礼を受けておられない方々には、そのような道筋を辿って欲しいと心から願っています。

 更に、何よりも主イエスが話される御言葉、救いへの招きのみ言葉を是非、受け止めて欲しいと願います。それが、人が「幸いに生きるために」どうしても必要だと私は思っています。聖書を読み、主イエスの御言葉を読み、感動する人は多いことでしょう。御言葉に励まされ、喜び主を讃える方々も多いことでしょう。でも、そこまでで、終わってしまう方々も少なくありません。

 詩編128編は「いかに幸いなことか 主を畏れ、主の道に歩む人よ」とあります。主を畏れ、主の道を歩む人となる。主を自らの神とし、この方を自分の人生の中心に据えて、主に従って生きていこうと決心する人となる。それがどんなに幸いなことなのかを詩編の作者は伝えているのです。ここにこそ、人が生きる幸いがあるのです。

 週に一度の礼拝、いつもの礼拝であり、普段と変わらない礼拝であるかもしれません。でも、この礼拝において、神の聖霊が働き、私達はその方によって、目が開かれ、ついつい霞んでしまいそうになる目が清くなり、よく見えるようになって、私たちは新しい一週間を歩むのです。
 見える目に映ってくるのは、どんな場面においても神の幸いでありましょう。神の祝福でありましょう。そのようにして私たちは生きて参りましょう。幸いを生きて参りましょう。

 お祈りします。

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神が建ててくださらなれば

2021-10-03 10:02:37 | 礼拝説教
【詩編127編1~5節】
【マタイによる福音書7章24~27節】

 本日は「神が建ててくださらなければ」という説教題としました。マタイによる福音書7章24節以下の箇所を読みましたが、この箇所は、主イエスが多くの人々を前にして話をされた「山上の説教」と呼ばれる箇所の、締めくくりとして話された箇所となります。
 二人の人が登場して、一人は岩の上に家を建てた人、一人は砂の上に家を建てた人、その結果はすぐにわかりますように、雨が降り、川があふれ、風が吹いても岩の上に家を建てた人の家は倒れず、砂の上に建てた人の家は倒れたというのです。
 
 二日前の金曜日は、首都圏に大きな台風が近づきまして、この地域も雨風の激しい状況でした。時として、そのような嵐が私達の人生の上にもやって来ることがあります。そんな時、何が大切かというと、家というよりも土台ですよ。見える部分ではなく、見えない部分だということでしょう。
 目に見えるわけではないけれど、土台となるところが岩なのか、砂なのかによって、その人の人生は大きく変わるというのです。
 岩を土台とするとは、言うまでもなく、主イエス・キリストのみ言葉を聞き、メシアとする信仰、主なる神が自分と共におられるという信仰に生きているかどうかが問われるということでしょう。

 もう一度申し上げますが、主イエスは、山上の説教で人々に、長い時間をかけて、心を込めて神の愛と、神の教えと、神を信じる者の生き方を示してくださいました。その締めくくりで岩を土台とする者と、砂を土台とする者のたとえを話されました。
 主イエスが話す言葉を聞いて、あなたがたはどのように聞き、どのように生きようとするのか、と問われたのだと思います。

 今日は10月となり、最初の礼拝でもあります。長く続いていたコロナ禍による緊急事態宣言が解除されて最初の礼拝でもあります。私たちはこれまで讃美歌を歌わない礼拝を続けて参りましたが、今月からは、マスクをしたままでも賛美する、に戻しました。未だ、コロナ前の礼拝に戻すまでにはいかず、少なくとも今月一杯は出来ないかなと思っておりますけれど、それでも僅かな光が射し込み、その光は確かな希望となっていると感じます。
 
 私たちは、これまで一年半以上に亘るコロナ禍での礼拝で、短縮された礼拝を執り行って参りましたが、短縮したとしてもはずすことの出来ない物は何かがより明らかにされたとも思います。その一つに何よりも聖書朗読があります。礼拝において御言葉が読まれる。いつかの説教で申し上げましたが、聖書朗読は礼拝の中心です。私たちは御言葉による礼拝を重んじています。礼拝が最も短縮されたとしても、聖書朗読は必ず残ると私は思います。
 
 それから説教。御言葉の取り次ぎ、短縮した礼拝だとしても大切にされてきました。聖書のみ言葉を聞き、御言葉を取り次ぐ者を通して、聞く一人一人に対して、主なる神は何を、どう語り掛けてくださっているのか。神の言葉を聞く者は自ずと背筋が伸びることでしょうし、語る者はまさに一週間をかけて、何をどう語ろうとするのか毎日が問われていると思いながら過ごします。私などは、気持ちが小さいものですから、牧師として25年を過ぎようとしていますけれど、未だに土曜日の夜は、寝つきが悪く、眠りが浅く良く寝られません。緊張しているのが原因だと思います。日曜の夜はぐっすり寝られますので間違いありません。
 
 それはともかく、毎週執り行われる礼拝は、キリスト者にとって、聖書の御言葉、また御言葉の取り次ぎによって、私達の生活の土台に、目に見えない部分に神の聖霊が送り込まれ、力を得て生きていく、いわば原動力となる時でもあります。
 ある時、主イエスと弟子たちがエルサレムを歩いていると、弟子の一人がエルサレムの神殿を見て、主に話しかけました。「先生、ご覧下さい。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」けれど主はこう答えられました「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石も崩されずに他の石の上に残ることはない」

 また、ある時、一人のやもめが神殿にやってきて、レプトン銅貨二枚を入れて祈りをささげている時に、主イエスは弟子達を呼び寄せて話をされました。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。この人は乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部いれたからである。」
皆さん、目に見える神殿は、いつかは無くなるのです。でも、目に見えない信仰、信頼、祈りは、いつまでも残るのではありませんか。名も記されていない一人のやもめの行動は、長い時を越えて、私達に感動を与え続け、語り継がれていくのではありませんか。

 今日は、詩編127編を読みました。短い詩編ですが、大切な御言葉が告げられています。「主御自身が建ててくださるのでなければ 家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ 町を守る人が目覚めているのもむなしい。朝早く起き、夜おそく休み 焦慮してパンを食べる人よ それは、むなしいことではないか 主は愛する者に眠りをお与えになるのだから」とあります。
3節以降は読みませんが、子どもは神の嗣業であることが記されています。ある牧師はこの詩編は「仕事と家庭」について伝えていると教えておりました。自分達の仕事と家庭、それは人生そのものだと言ってもよいかもしれません。

「主御自身が建ててくださるのでなければ」で始まる1節、2節の特徴は、「むなしい」という言葉が三度、用いられている点です。
「主御自身が建ててくださるのでなければ」、「主御自身が守ってくださるのでなければ」そうでなければむなしいというのです。「朝早く起きて、夜遅く休む人よ、焦慮してパンを食べる人よ」それはむなしいことではないかと言うのです。

 私たちは「仕事と家庭」において目に見える部分で成功したいと願います。その為に、目に見える建物、目に見える自分の能力、目に見える仕事、目に見える財産を、なんとしても手に入れたいと願います。けれど、いつの間にかそれらのものを手に入れようとしながら、肝心の土台が砂だとしたら、それはどんなにかむなしいことだと詩編の作者は伝えているのではないでしょうか。

 私たちが良き人生、良き歩みを生きていくために、確かな土台、硬い、強いというだけでもなく、より深い土台を築いていかなければなりません。

 先日、私が尊敬する熊本で伝道されている米村英二牧師の説教集を読んでおりましたら、哲学者の西田幾多郎が自分の息子に送った手紙を紹介していました。私もそれを引用して読みますけれどこう記されています。「人は真摯に努力すべき目的なきより、淋しいものはない。すぐ人に迷うてはならぬ。人の甘い言葉はなににもならぬ。深いまじめな努力をせねばならぬ。それがなく、薄っぺらな生活から心の淋しさが生じてくる。大きい、深い人にならねばならぬ。君には、何とかしてただ一つのまじめな目的に向かって邁進してもらいたいとのみ、私は思うている」深く生きる事の大切さを記していると思いますし、また、西田幾多郎に限ることなく、親としては誰もが、自分の子どもに対して同じように思っているのだと思います。

 そうでなければ「むなしさ」に飲み込まれてしまう、そしてその空しさは、主なる神を頼るのでなく、自分を頼り、自分で頑張るとしてもどうしても感じてしまうところの空しさなのです。自分自身で、自分に岩の土台を築くことが出来ないのです。

 太宰治が記した短い小説で「トカトントン」という小説があります。ある青年が四年間の軍隊生活を経て、終戦となる。敗戦の時、玉音放送を聞いている時どこかで「トカトントン」という大工が金槌で釘を打っている音が聞こえてきて、その音を聞いたら、自分は何をしているのだろうとやる気がなくなって、空しくなって、地元青森に帰って、郵便局に勤めるのです。
郵便局に務めながら、小説家を目指して小説を書き始めるのですが、完成間近となった時にどこからか「トカトントン」と音が聞こえてきて、空しくなって小説をやめてしまいます。その後政治運動にのめり込み、熱心に参加するのですが、「トカトントン」と聞こえてくると、気持ちが冷めてやめてしまい、花江という女性に恋をして、ある時、海辺に二人となって、ついに思いを打ち明けようとするのですが、「トカトントン」と聞こえてきて、空しくなって別れてしまうのです。
 そんな具合で、何か新しいことをしようとしても、トカトントンと聞こえると、空しくなる、火事があって、人助けと思っても「トカトントン」で止めて、酒を飲んでもトカトントン、最後には自殺をしようとしても「トカトントン」と空しくなるのです。
 全ての事が「トカトントン」と聞こえてくると空しくなる。これは一体なんなのか、という悩みを友達の作家に相談している全体としては手紙となっている短い小説です。

 手紙を読んだ友は、こう答えました。あなたに必要なものは叡智よりも勇気である。それから、マタイによる福音書10章28節の御言葉を記しました。

 「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことの出来る方を恐れなさい」
 
 私たちは、何に恐れていますか、体を殺す者どもを恐れるとしたらそれは空しいかもしれません。私たちは、魂も滅ぼす方をこそ恐れる必要があるのではないですか。けれど、その方は滅ぼすのではなく、私達を生かすために、十字架という命がけの業によって、私達の人生の土台となって下さり、私の人生を建ててくださり、どんな時も共にいて励まし、力付けてくださっているのです。主イエスの愛を知る時、前を向くときに、もはや空しくない人生を確かに生きていけるのではないでしょうか。
 
 お祈りします。
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