日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

淵の底で見える光

2021-10-31 12:27:45 | 礼拝説教
【詩編130編1~8節】 
【ルカによる福音書5章12節】


 本日は10月最後の主日礼拝であり、10月最後の日であり、宗教改革記念日であります。1517年10月31日、ドイツのマルティン・ルターによって宗教改革がスタートした記念日でもあります。

 ルターが21歳、ドイツで最も古い大学の一つであるエアフルト大学の学生として、自分は将来法律家として身を建てて行こうと考えていた矢先、人生が変わる出来事が起こります。一つは落雷でした。雷に打たれた。けれど九死に一生を得て、自分は生きているというより、大いなる方に生かされていると思う経験をしたと言われます。
 また、同僚の学生が突然に亡くなり、また法学部の教授三人が相次いで亡くなったそうです。あるいは当時、ペストが流行っていたとも言われます。人は死ぬという、当然ですけれど、でもリアリティとして死の恐怖を感じたと言われます。
 そのような体験を通して「人が救いを得る前に死んだなら、どうなってしまうのか」といった思いを深くして、周囲からすれば突然の回心と言われていますけれど、法学部から神学部、そして修道院へと生きる方向を変えたわけでありました。
 修道院での生活は、毎日、聖書、特に詩編の朗読や聖歌、祈祷、夜明けの時間から始まり、日に六回の祈りの時間を過ごし、一年の三分の二は、一日一食という断食を過ごし、沈黙の時を守り、徹底的に自分の内面と向き合う生活を過ごします。

 毎日の祈りの生活が自分の血となり肉となる、そのような修道院生活にあって、ルターはそれでも平安を得られず、いよいよ悩みが深くなっていきました。
人を裁き、人を罰する神の眼差しの前で、人はいかにして義であり得るのか問い続けました。どんなに規則を守り、誰よりも敬虔な生活を過ごし、生活を営んでも、自分が神の前に義とされたという思いには至りません。
神の最後の審判において、永遠の死としての地獄と、永遠の命としての天国に分けられるその時に、自分が義とされて天国にいけるという思いには至らないのです。

 そのような悩みと向き合い、ルターは更に聖書を徹底的に読み、学び、祈り求めました。その熱心さは、修道院の中にあっても際立っていて、その姿が上司の目に止まり、ビッテンベルグ大学で聖書を教える職が与えられます。
学生に聖書の御言葉の解き明かしをする授業を通して、特にローマの信徒への手紙を読みながら、ルターはついに問い続けていた答えが与えられました。
人は人の努力によって罪人から義人となっていくのではなく、主なる神が、罪人の人間を捕らえ、賜物として神の義を与え、人は義とされる。そう信じることによって人は義とされる、私達の教会も大切に守り続けている「信仰義認」という答えが与えられたわけでありました。
 
 ローマ書の3章27,28節にこうあります。「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」ここに人が義とされるのは信仰によると記されます。人は信じることによって、「信仰のみ」で、神の救いに預かることが出来る。これがルターに与えられた答えでありました。
 
 ルターがこのような救いに導かれて行ったのは、私達プロテスタント教会にとって実に幸いであったと思います。
 
 けれど、ルターがこのような思いに至るまで、どれだけ「深い悩みの淵」を過ごしていたであろうかと思います。ルターは詩編を特に愛していたようでありますけれど、今日読みました詩編130編も良く知っていたでありましょう。
 「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください」という必死の祈りの御言葉を何度祈ったことであろうかと思います。続く3節には「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら 主よ、誰が耐ええましょう。」この御言葉こそ、あたかもルターが罪の赦しについて悩み尽くした御言葉を表しているとも言えるでしょう。

 中世と呼ばれる時代のカトリック教会は、教会が世の中の富を言わば独り占めにしたり、免罪符という札を発行して、これを購入すれば人の罪は赦されると教えていたりしました。あるいは祭司の権利なども売買の対象となるほどに、いわば教会内の堕落もあったと言われます。
 
 そのような有様を目の当たりにして、これが本当に神の国を表すものであるのかとルターは悩みに悩んだのでしょう。悩み続け、しかし諦めずに聖書を読み、問い続け、祈り続けた末にたどり着いた、神との出会い、宗教改革へと辿る道筋は、ルター自身の魂の解放への道筋でもあったと思われます。

 詩編130編の「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」
 
 「深い淵の底」が何を意味するのか、ルターにとってみれば、「信仰のみ」へと辿り着くまでの苦悩と言えるでありましょう。

 私たちも、私達の人生において、殆ど絶望的と思われるような、深い苦悩を味わう場面を過ごすことがあります。その苦悩から、深い淵の底から、主よ、どうぞ持ち上げてください。救い出してくださいと願い祈る、詩編の作者の思いを私達も理解出来るのではないでしょうか。
 
 けれど、深い淵の底と思える場所、それは人によって大きく違います。病気で苦しんでいる人であれば、主よどうぞこの病から救い出してくださいと願いますし、人間関係の悩みであれば、神様、どうか、その人との関係が修復されますようにと願いますし、経済的な困難であれば、神様、どうかお金を工面できますようにと願うことでしょうし、試験に受かりますようにと祈ることもあるかもしれません。それぞれに生きている場面において「深い淵の底」は違います。
 
 ルターは、自ら修道士、祭司として、主なる神のまことの救いを求めました。。主なる神が自分達に示しているところの本物の福音とは何か理解できない。それこそ深い淵の底だと感じていたかもしれません。

 皆さん、教会の中で時に応じて、「証し」をお願いすることがあります。その人の信仰について、生き様について証ししていただく、礼拝の中で、また何かの集会のおりにお願いすることがあります。聞く私たちは時に感動し、時に心動かされる証をこれまで、何度も聞いて参りました。神の救いによって重い病から解放された。家庭に幸いが戻りました。商売がうまくいくようになりました。色々な「証し」があります。
 
 でも、時として、人の証しを聞きながら、どうも自分とは違うなと思ったり、証ししている方は熱心に話しているけれど、その熱心がなぜか伝わってこないと感じたり、そう思った経験があるのではないでしょうか。
 
 なぜかというと、人はそれぞれに「深い淵の底」が違うからです。深い淵の底だと感じる経験など本来しなくて良いと思います。でも、時として神様はそのような「絶望の淵」へと私達を連れ出すこともあるのも事実でしょう。
 けれど、人は様々な絶望の淵へと連れ出され、そこでもがく中で、神様の光を見つけ、神の救いに感謝しつつ力を得て、淵から連れ戻される、あの出来事が信仰者への歩み、信仰の養いの場であったと、後に理解する方も多いのではないでしょうか。
 でも、それぞれに「深い淵」が違いますから、主なる神との出会いは、一人ひとりが全く違う時、違う場面で主なる神と出会うのです。皆が同じ過程を踏んで神と出会うわけでありません。

 その場での神との出会いは、神と私との出会いであって、神と私達の出会いではありません。ですから、自分には自分の「深い淵の底」において、神と出会い、そこであなたならではの救いがもたらされるのだと思います。
神様との出会い、それは主なる神が自分と共におられたと知る時でもあります。

 詩編130編の4節「しかし、赦しはあなたのもとにあり」それから7節「慈しみは主のもとに」つづいて「豊かな贖いも主のもとに」とあります。「もとに」という言葉が3回この詩編で記されている。このもとにと言う言葉は、「イム」という言葉だとありました。そしてこの「イム」はインマヌエル、主我と共におられるの「イム」だとありました。
 
 重い皮膚病にかかった人が主イエスを見てひれふしました。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と主イエスに全てを願い、祈り求めた声に主イエスは「よろしい、清くなれ」と話されました。この人に主が共におられた場面だと思います。
 私たちが、それぞれの人生の深い淵の底から、主よと願い求める時、主はその人に最も相応しい応答をもって、赦しを備え、慈しみを示し、贖ってくださる。私達の人生に神の光を必ず見せてくださいます。光を見た者は、神を見た者として新しい人生を力強く歩みだしていけるでありましょう。感謝して新しい一週間を過ごしてまいりましょう。

 お祈りします。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

助け手を授けてくださる神

2021-10-25 10:05:51 | 礼拝説教
1 二つの創造物語

 今日は、降誕前第9主日、ペンテコステの翌週から始まり、22週間、約5ケ月の長きにわたって続いた聖霊降臨節が先週で終わり、教会の暦の上では、今日から新しい一年が始まります。そして、日本基督教団か定める教会暦の最初の主日の聖書課題は、毎年、「創造」がテーマとなっています。

 皆さんもよくご存知かと思いますが、聖書には、二つの創造物語が記されています。

 一つは、神が天地万物を七日間で造られたという天地創造の物語で創世記1章1節から始まり、2章4節の「これが天地創造の由来である。」という言葉で締め括られています。そして、それに続く2章4節の後半から始まるアダムとエバの物語が二つ目の創造物語で、3章には、アダムとエバが蛇に騙されて、神が「決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と言われた善悪の知識の木から食べて、エデンの園から追放されてしまうという、有名なお話が記されています。今日は、その前の2章の部分がテキストとして示されました。
 ここでは、天地万物の中でも、特に、人間の創造について焦点を当てて語られています。今日は、このテキストから、人とは何か、人はどのようなものとして造られたのかということについて、示されてまいりたいと思います。

2 人はどのようなものとして造られたのか

 初めに、「主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。」と記されています。「地と天を造られた」という言い方には、この物語を語り伝えた人々の関心が、遠い天よりも、自分たちが生きるこの地上世界に置かれていたことが如実に表されているように思います。しかし、その地上の世界は、はじめは木も草も生えていない、荒涼とした世界であったと言います。そして、その原因として、物語の書き手は、二つの事柄を上げています。

 一つは、「主なる神が地上に雨をお送りにならなかったから」だということです。私は、最初に、二つの創造物語と申しましたが、1章の天地創造の物語と2章の人間創造の物語の間には、色々と矛盾する記述が見られますし、創造の業や創造主である神、造られた被造物である人間や地上の世界についてのイメージもかなり違っているように感じられます。例えば、今ここで問題となっている「水」についても、1章の天地創造物語では、「水」は、人間が住む乾いた地を取り囲む「海」として記され、その海は、大きな怪物やうごめく生き物が生息する恐ろしい所として描かれています。それに対し、2章の人間創造の物語では、「水」は、神が雨として地上に送ってくださり、地下からも湧き出て、土の上をすべて潤し、命あるものすべてに潤いを与える恵みとして描かれています。

 そして、もう一つの要素として上げられているが「人」です。「土を耕す人もいなかった。」だから地を覆う木や草が育たなかった。ここでイメージされている木や草は、熱帯のジャングルのような、人を寄せ付けない原生林では決してなく、人の手が入ることによってより良く育つ緑、日本の国土で言えば里山や田畑の緑であり、聖書の世界で言えば、まさにエデンの園の緑がイメージされています。そのエデンの園の土地を耕し、木や草を手入れし、守り、育てることこそ、神が人に与えられた務め、人の使命なのだと、この人間創造の物語は伝えているのです。

 先ほど、創世記1章と2章の創造物語には色々と矛盾があると申し上げました。確かに1章では地を覆う草や木は第3日に造られ、人間は、それより後の第6日に造られていますが、2章では、その順序は逆になっています。また、2章では、人間の使命は耕すことだと伝えていると申しましたが、1章では、人間の使命について、28節で「地を従わせよ。海の魚、空の鳥、家畜、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」と、全く違った言われ方がされています。1章に記されているこの支配命令をめぐっては、西欧の産業近代化の歴史の中で、人間は、人間以外の生き物や自然環境を我が物のように自由に貪ることが許されているのだというふうに解釈され、そうした誤った理解が、近代の産業振興や地域開発を後押ししてきた半面、今日の地球環境破壊を助長することになったのだと言われています。確かに「従わせる」、「支配する」という言葉には、元々、王の国民に対する強権的な力をイメージさせる意味合いもありますが、本来、王の権力は、国民の生活を守るためのものですから、1章で使われているこの言葉は、地上のすべての生き物や自然環境を主権者である神の意志に基づいて正しく管理し、統治しなさいということを意味しているのです。

 一方、2章で使われている「耕す」という言葉は、元々、奴隷や僕を表す名詞と同じ根を持つ言葉で、「働く」、或いは「仕える」というのが本来の意味です。ですから、創世記1章、2章を通じて、人間の使命は何かといえば、神が創造された地上のすべての被造物を神の意志に基づいて適正に管理することだと言えますが、そのやり方について、1章では、王に与えられているような管理権限が強調されているのに対し、2章では、大地に雨を降られる神と、大地に仕えて耕す人間との共同作業という側面が強調されているように思います。

 このように、神様は人間をご自身のパートナーとしてお造りになったわけですが、どのように造ったかのというと、7節に「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」と記されています。つまり、神様は、人間を、陶器師が土を捏ねて陶器を作るようにして、人間を造られたというわけですね。このことは、一つには、人間は、その存在とその形態を神に負っているのだということ、それと同時に、人間は大地に属する者なのだということを表しています。元々、大地の塵にしかすぎなかった人間は、神様が息を吹き込むことによって、生きる者とされました。けれども、この段階では、人間はただ生きているだけで、まだ、真の意味での人間にはなっていません。そのため、8節では「人をそこに置かれた」と、まるで物のように表されています。人は、人間単体があるだけでは人間たり得ず、生活空間や食料、労働、共同体といった、人間の様々な生活諸相を伴ってはじめて真の意味で人間となるのです。それで、「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされ」ました。また、人はエデンのすべての木から取って食べることを許されましたが、ただ、食べるだけでなく、神様は、人に、園を耕し守るという仕事、使命も与えられたのです。

3 助け手とは

 しかし、これでもまだ、人は孤独な存在でした。食べる喜びを分かち合う友もいませんし、労苦を共にする仲間もいません。人間らしい喜怒哀楽もまったく感じられません。神様はこのような人間の有様をみて、物足りないと思われたのでしょうか。それとも、哀れに思われたのでしょうか。いずれにしても、このままではいけないと思われたのでしょう。それで、主なる神は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と思い立って、人間のパートナーとして、様々な獣や鳥を、人間と同じように土を捏ねて造られ、それを人のところに持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶかを見ておられました。「おい、羊。」とか、「おい、クマさん。」とか呼んだのでしょうか。その呼びかけがすべてその動物や鳥たちの名前になったと言います。名前を付けるということは、日本でも「名は体を表す」と言いますが、イスラエルの人々にとっても、名前はその人の全人格を代表するものでした。それゆえ、名前を付けるという行為は、創造の業の一環であり、造られた者の存在を意味づけることであって、名付けた対象を自らの支配下に置くことにほかなりません。しかも、人が彼らに名前を付けて呼びかけても、彼らは人に通ずる言葉を持ち合わせていないので、相互のコミュニケーションには限界があります。

 私が犬を飼っていることはご存知かと思いますが、彼にCocoと名前を付け、呼び掛ければ反応してくれますし、彼の方からも、お腹がすいたとか、遊びたいとかの意志は示してきて、ある程度、気持ちが通じ合うことはありますが、基本的には従属的な存在です。猫の場合は、事情は少し違うかもしれませんが、人格的な関係を持った対等なパートナーとはなり得ないということでは変わりないでしょう。聖書の物語でも、人は結局、動物たちの中からは、自分に合う助け手を見出すことができなかったと記されています。そこで、主なる神は、人を深い眠りに落とされて、人のあばら骨の一部を抜き取って女を造り上げ、彼女を人のところに連れて行ったのですね。そうすると、人は「ついに、これこそ/わたしの骨の骨。わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」と、歓呼の声を上げます。ヘブライ語の語呂合わせもあって、わたしたちには何だか訳の分からない表現ではありますが、それまで全く沈黙してきた人が、小躍りしながら発した心からの喜びの声だと思います。
 人は、遂に彼に合った助け手と出会うことができたのです。しかも、ここで言う「助け」とは、「わたしの父の神は、わたしの助け」というように、聖書の中では、神の助けというようなところで使われている言葉ですから、単なる補助的なお手伝いのことではありません。英語圏では、自分の妻のことを敬意をもってベターハーフ、つまり一つの夫婦の内のよい方の半分と呼ぶことがありますが、人は、そのような、自分と対等かそれ以上の真の助け手として女を受け止めたのだと思います。

 では、何故、人は、女を自分に合う助け手として受けとめることができたのでしょうか。女も彼と同じく、言葉を喋れて人格的な会話が出来たからでしょうか。それもあったかもしれませんが、聖書は別にそのことには触れていません。私は、ここで聖書が伝えている大事なメッセージが、女が人の体の一部から取られて造られたというところに隠されていると思うのです。あばら骨を取られる前の人アダムがどんな存在であったかを考えてみましょう。彼は、実は、はじめの段階では男ではありません。えっと思われるかもしれませんが本当です。何故なら、人は神にかたどられて造られた存在だからです。私たちは天地万物を創造された主を「父なる神」と呼びますが、それは神の父性的な特性に注目して「父」と呼んでいるだけで、神に性別があるわけではないのです。その神にかたどられて造られた人は、当然、男でも女でもないのです。彼は、男女の別のない孤立した存在です。彼には欠けはなく、すべてを満たされていたので、誰かの助けを必要としませんでした。そのため、彼は、神に対して従順ではありましたが、ただそれだけで、本当の意味での神との交わりというものはありませんでした。
 
 こうした状況をみて、神は、人が独りでいるのはよくないと思われたのです。それで、神は人の体から、あばら骨の一部を取り出しました。これによって、人は、欠けのある存在となりました。人はそのことによって初めて、満たされないということを、身をもって知りました。自らの欠けたる状況を知って、それを補ってくれる助け手を求める気持ちが生ずるのです。そこに、彼の欠けをちょうどぴったり補う存在が現れました。それが、彼のあばら骨から造られた女であったのです。人は、女との出会いを通して、自らが初めて欠けのある存在、つまり男であることを自覚しました。そして、男と女は、互いに真正面から向き合い、一つとなりました。人は、また、この経験をきっかけとして、やがて善悪の知識の木から取って食べ、罪を負い、救いを必要とする者となって、本当の意味で神と向き合う存在へと導かれていくのです。


4 向き合って生きる

 さて、ここまで人類最初の人間と言われるアダムとエバの創造が描かれた創世記2章の物語を辿ってきましたが、この物語は、これまでしばしば、結婚について、或いは男と女について語る物語として読まれてきました。実際、新約聖書においても、この箇所を引き合いに出して結婚のこと、男女の役割ことについて語っている箇所がありますので、そのような読み方は間違った読み方だとは言えませんが、旧約聖書のこの箇所は、人間についてのもっと幅広い事柄について書かれた物語なのです。現代社会において、例えば、性の問題一つをとって見ても、単純に女と男の問題と捉える伝統的な理解によっては、そのことによって傷つき、苦しみに陥れられてしまう方が沢山いらっしゃる、そうした画一的な聖書理解、人間理解は、聖書が語る人間理解を狭く貧しいものにしてしまう危険があるということ、聖書が示す人間理解は、もっと豊かで、愛情に満ちたものなのだということを私たちは見失ってはならないと思うのです。

 大事なことは、人は、自分一人で生きる者としては造られていないということです。どんなに豊富な知識や経験があり、知恵や才覚があり、力や行動力があったとしても、土から造られた被造物である限り、持っている能力も全能ではありません。病気にもなるし、思いもかけない災難に見舞われるかもしれません。経営コンサルタントをしている私の友人がある経営者からこんなつぶやきを聞いたそうです。「君にだから言うけれど、僕は、自分の会社の経営に関して、人の意見を聞いたり、相談したりするのは、本当は必要ないんじゃないかと思っている。自分で判断して即行動するほうがいいんじゃないかとね。」と。クリスチャンである私の友人は、この経営者は自分を過信していて、自分のことが見えていないんじゃないか。自分のことを客観的にみて忠告してくれる人の有難さをわかっていないんじゃないかと思ったそうです。

 自分と真正面から向き合ってくれる友がいて、自分が欠けたる存在であることに気付かされる。窮地にあっては、欠けたるところを補ってもくれる友の有難さ。その友がいて、初めて人は真の人、一個の人となれるのではないでしょうか。真の友によって、自分が欠けたる存在であり、友の助け、そして、それ以上に神の助けを必要とする存在に気付くことが出来る。心から神と向き合うことも出来るようになる。そのように思うのです。

 その友は、必ずしも結婚のパートナーであるとは限りません。男女の性別も重要な問題ではありません。関係はどのようなものであっても、心から向き合って、心底助け合える友がいて、その友と共に神の前に立って生きていくことができる。生き生きと生きていくことができる。神様は、わたしたちをそのような存在として造ってくださり、そのことのために、尽きることのない愛をもって、手を尽くしてくださる方なのです。



 祈ります。

 万物を創造し、被造物であるわたしたち一人ひとりを愛し、初めより終わりに至るまで世を支配なさっている父なる神様、御言葉の励ましに感謝します。あなたは、私たち一人ひとりに必要な助け手を授けてくださり、互いに向き合い、支え合って生きていくことが出来るよう、深い愛をもって支えてくださる方です。
 今、長引くコロナ過の中で、人と人との交わりが制約され、互いに助け合い、支え合っていくことの難しさが増しているのを感じます。
 主よ、どうか、こうした状況の中にあって、人の助けを求めておられる方々のところに、必要な助け手を送り届けてください。この感染過の中で、苦しみの内にあるすべての者を憐れみ、助けてください。

 そして、一日も早く、平穏な日常生活を取り戻し、愛する友と共に、あなたの御前に立って生き生きとした日々を送ることが出来ますように。この祈り、主イエスキリストの御名によってお献げします。アーメン

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神の正しさを知る時にこそ

2021-10-17 15:45:59 | 礼拝説教
【詩編129編1~8節】
【ルカによる福音書18章9~14節】

 本日は詩編129編を読みました。1節、2節に同じ御言葉が繰り返されます。「イスラエルは言うがよい。わたしが若いときから 彼らはわたしを苦しめ続けたが、 わたしが若い時から 彼らはわたしを苦しめ続けたが 彼らはわたしを圧倒できなかった」
 この御言葉をどう読むのかが一つのポイントですが、「わたし」はイスラエルの国といいますかイスラエルの民、彼らとは一言でいえばイスラエルの周りの異民族と考えられます。
 
 今、毎週水曜日の祈祷会では旧約聖書の出エジプト記を読んでいますけれど、イスラエルの異民族として、代表的な民族はエジプトです。

 創世記のヨセフ物語り以降、イスラエルの民は400年に亘りエジプトに住みました。大臣ヨセフがいた頃は、丁寧な扱いを受けていましたが、時代が進み、イスラエル人が増えて、エジプトはイスラエル人を厭うようになり、ついにイスラエルは奴隷とされ強制労働が強いられることになります。

 労働のゆえに助けを求めた叫びが主なる神に届き、出エジプトの出来事となります。

 それから40年、荒野の旅を経て、主なる神がアブラハム、イサク、ヤコブに約束された土地、カナンの土地に到着します。しかし、その土地には既に多くの異民族が住んでいるわけで、主なる神はモーセに「それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と密の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る」と告げましたが、カナンの土地に進み入るためには、多くの異民族との争いは避けられませんでした。
 
 しかし、それだけでなく、その後も混乱が続き、士師記という箇所では、士師ギデオンとミディアン人との戦いが記され、力持ちのサムソンはペリシテ人と戦い、少年ダビデが戦った3mもあったと言われるゴリアトもペリシテの戦士でした。
 その後、ダビデが王となり、息子ソロモンが後を継いだ頃、イスラエルが最も繁栄をきわめたわけですけど、その繁栄も長くは続かず、ソロモンの後の後継者争いによって、イスラエルは北と南の二つに別れ、北イスラエルは、その後メソポタミアから出たアッシリアとの戦いに敗れ、更に南ユダも更にその後、強国バビロンに滅ぼされ、捕囚の民となるわけです。
 
 更に50年後、ペルシャがバビロンを破り、捕囚の民は、イスラエルに戻り神殿を建て、イスラエルは復興していきますけれど、ペルシャの次にはアテネを中心としたギリシャが台頭してきて、大きな争いが起こり、ギリシャが世界を支配し、アレキサンダー大王と呼ばれる王が出た時には、ペルシャを破り、エジプトを支配し、当時の西欧世界の殆どを支配するのです。

 しかし、その次にはローマが現れてくるといった、高校の世界史のような話となりましたが、つまりは、イスラエルはほぼ全ての時代にあって、詩編129編の「彼ら」異民族との争いが続き、多くの時代は異民族に支配され、「わたしが若いときから、彼らはわたしを苦しめ続け」とありますようにイスラエルは「苦しみ」続けたのです。そのような歴史をイスラエルは生きて来ました。

 3節に「耕す者はわたしの背を耕し 畝を長く作った」とありますが、聖書の他の箇所にはない独特な表現だと言われます。旧約聖書学者の権威ある先生によれば「敵による強奪・蹂躙を意味する」と記されていました。
イスラエルを囲む異民族の強奪、蹂躙によって、幾度も血を流し、土地を追われ、時には捕囚の民とされた苦しい歴史を生きて来ました。

 でも、詩編は何を伝えたのかというと、2節にある御言葉です。「彼らはわたしを苦しめ続けたが 彼らはわたしを圧倒できなかった」これが詩編の作者の伝えたいところでありましょう。

 続く4節に「主は正しい。主に逆らう者の束縛を断ち切ってくださる。」と記されてありますように、天地創造の主であり、私達の命の主である方、主なる神の正しさによって、どのような力、どのような支配、どのような束縛でさえ、その縄目から断ち切って下さる方がおられる。我らはこの方にこそ、従って生きていこう。そう告げるのが詩編129編です。

 この詩編は都に上る歌、巡礼の歌の一つとされているわけですが、エルサレムの神殿に向かう巡礼の人々が、この詩編を口ずさみながら、礼拝で唱えながら、「主は正しい。主に逆らう者の束縛を断ち切ってくださる」と共に唱和しながら、歩む様子を思い浮かべる事が出来るでありましょう。

 このような歴史を歩みつつも尚、詩編の作者が私達に伝えようとしていること。それは主の正しさです。「主は正しい」この御言葉をですね、私たちはしっかりと受け止めたいと思うのです。

 私は明日の月曜日、町田市にある「保育園」で礼拝を頼まれています この保育園は、キリスト教の教えを大切にしながら歩み続けている保育園で、私が町田の教会におりました時から20年近くの関わりを持っているのですが、コロナ禍により、ここ数ヶ月は伺うことも適いませんでした。

 先日、久しぶりに電話がありまして、お出でくださいと連絡がありまして、伺うことにしました。聖書箇所はどこですかと聞きましたら、ダニエル書をお願いしますというのです。ダニエルがライオンの洞穴に入れられても、噛み殺されずに生きて出て来たところをお願いしますと言われました。4歳、5歳の子ども達にダニエルについて話すのは中々、勇気と根気が要りますが、それでも子どもたちは熱心に聞いてくれますので、ありがたいと思っています。

 ダニエルは、バビロン捕囚の時代に生きた人です。10歳の時に、国がバビロンに負けて、捕虜として連れていかれますが、能力が高いことを認められ、後には何十年にも亘り、バビロンで大臣にまでなった人です。けれど、それだけに周りからは妬まれ、嫉妬されて、妬んだ人々によってダニエルを陥れる策略が練られます。バビロンの王は神と等しいから、王様以外のものを拝み、礼拝してはならないそういう勅令が出されるのです。

 ダニエルは10歳でバビロンに連れて来られてから、何十年間、一日も欠かさず行っていたことがありました。それは家の窓を開けて、エルサレムの方向を向いて、朝に、昼に、夕に、一日三回、神に祈りをささげることでありました。それだけは一度も欠かしませんでした。王様以外のものを拝み、礼拝してはならない、ダニエルは大臣ですから、そのことを知っていました。

 でも、主なる神に対する祈りを止めることはありませんでした。しかし、その様子を見て、直ぐに王にその様子が知らされ、罰としてライオンの洞穴行きが決定されるのです。ダニエルを信頼する王のほうが、謀られたことを知り、しまったと思うのですが、時既に遅く、ダニエルはライオンの洞穴です。けれど、一晩たち、食事もしないで王はダニエルの様子を見にいくのですが、ダニエルは傷一つなく洞穴から出てきて、逆に策略を仕組んだ人々が捕まり、ライオンにかみ殺される結果となるのです。

 皆さん、どんな状況にあっても、ダニエルはエルサレムの方向を向き、神に祈り、神を信頼し、神によって生かされる喜びを生きました。戦争に負けても、家族と離れたバビロンにあっても、出世しても、大臣になっても、妬まれても、策略に会っても、それは変わることがありませんでした。なぜか、ダニエルは主なる神こそ、正しい方だと信じて疑わなかったからだと思います。主なる神以外のどんな束縛にも束縛されることなく、しかも、王からも多くの人々からも信頼され、でも、状況によらず神を礼拝していました。

 そのような神に対する信仰、神に対する深い信頼、イスラエルの人々は、そのような主に信頼する人々の生き方によって、歴史の中にあっては、真に翻弄されながらも、しかし、主なる神こそ私達の導きて、主は正しいと、信じて生きて来たのです。

 先ほど、ルカによる福音書から読みました。主イエスが話してくださった「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえです。二人が神殿に上った。一人はファリサイ派の人、一人は徴税人です。ファリサイ派の人が祈りました。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。また、週に二度の断食、収入の十分の一を献げています。」と心の中で祈りました。徴税人は遠くに立ち、目を上げようともせず、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈ったのです。主は「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、徴税人のほうだ」と話されました。

 その理由は難しいわけではありません。人は神の御前にあって、どれほど罪深く、神に対して、「どうぞわたしを憐れんで下さい」と祈るしかない、そのような存在です。神の前に神ではなく、自分が正しくなる時、神ではなく自分を称賛しているようなものです。

 徴税人は、自分がいかに罪深い者であるかを仕事柄からして、良く知っていたことでしょう。けれど、もっとよく知っていたのは、神は正しい方である、という一点ではないでしょうか。ダニエルにしても同じだったと思います。神は正しいかたである。この信仰と信頼に生きることだと思います。

 私達が生きる時に、神様、なぜですかと叫びたくなる場面がいくらでもあります。思いがけない病気、怪我、事故、不幸と思われる出来事は数限りなくあります。そして、その都度に、多くの人々は、神様なんてと思うのです。神様がいるのだったらこんなことは起こらないはずだと思い、神様なんて当てにならないと思うのです。

 いや、そんなことはない、主なる神はおられ、私達を必ず守ってくださっていると信じる私たちも、いつのまにか神の前に自分の正しさを示したくなる、そのような誘惑に惑わされることもしばしばかもしれません。

 けれど、なお、そのような傲慢になりそうな私達を、しっかりと支え、状況に依らず、支え続けてくださる方がおられ、私達と共に歩んで下さっている方おられます。この方こそ正しい方、そのような信頼を持って、私達は歩んで参りましょう。                      
 お祈りします。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

狭い門から

2021-10-16 16:02:26 | コラム
「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」(ルカによる福音書13章24節)

 ある時にイエス様に聞いた人がいました。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか。」その問いに答えたのが今回の聖書の御言葉です。「狭い戸口から入るように努めなさい。」
 
  狭い戸口というと、茶室を思い起こします。茶室の入り口は「にじり口」といって、身をかがめなければ通り抜けられない程小さい入口です。千利休というお茶の先生が考えたといわれています。
 例えば刀は武士の魂と言われるように、武士はいつも刀を腰に差していました。けれど茶室に入るには刀をはずさなければ入れなかったといわれます。つまり、千利休は、茶室に入る時は、なにも持たず、皆が平等の立場で平安にお茶をいただくのが良いと考えたのだと言われます。

 一説には千利休はクリスチャンであったとも言われています。茶室を霊性豊かな場所にと考えたのかもしれません。
 
 さて、狭い門とはなんでしょうか。最初に戻りますが「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と問われました。「救われる者」とは「神様を信じる者」のことです。神様を信じるために大切なことは、自分の手に握っている物を手放なすことです。握っているものはひとりひとり違います。財産、健康、社会的立場、家族、自分のもっとも大切なものを人は自分の手に握っているのです。それをも神様に委ねられるかどうかが鍵になります。

 委ねようと決心する人は少ないのです。だから戸口は狭いと主は教えられたのではないでしょうか。私たちは出来るなら全てを主に委ねて、神を信じ、希望をもって歩んでいきましょう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸いに生きるために

2021-10-10 11:47:19 | 礼拝説教
【詩編128編1~6節】
【ルカによる福音書11章27~28節】


 今日の説教題を「幸いを生きるために」としました。私たちは誰もが、出来れば「幸いを生きていきたい」と願います。けれど、幸いとはどういう状態なのかと問われるとすれば、具体的にこういう状態と答えるのは難しいかもしれません。
 世界に有名な「幸福論」という著書が三つあるそうですが、フランスのアランという人が記した「幸福論」によると、人はいつも気分が悪いのだそうです。何か不幸なことがあったわけでもないのに、常に気分が悪く、機嫌が悪い人が多い。人は意識せずに、自然に任せておくと次第に不幸な感情に取りつかれてしまうようです。私はそれが良く分かるような気がします。
 
 
 私たちは何かを考えている時、かなりの確率が悩みであり、不安ではないでしょうか。私は最近、家を出て教会に向かう時に、なぜか必ず忘れ物があって途中で戻るのです。今朝もそうでした。
 血圧の薬を朝食の後に飲むのですが、朝食の後、薬を飲もうと思って立ち上がって、なぜか洗面台に行って歯を磨いていたり、着替えたりしているうちに、あれ!薬は飲んだのか、飲まなかったのか分からなくなったりします。そんなことをしていますと、自分も歳を取ったな、なんて思ってがっかりするわけです。

 だから余計に気を付けなければならないのですが、何に気を付けるのかというと「自分は幸せを生きていくぞ」という意識を持ち続けることだとアランは教えました。あるいは「幸福であることは人間の義務」だとも告げています。
人は不幸な人、不機嫌な人の側に近寄りたいとは思いません。ですから私達が出来る、人に対する親切は何かというと、何かをするよりも、機嫌良く生きる、それだけで大分人に対しては親切だと思います。大切なことではないでしょうか。

 今日読みました詩編128編も、人が幸いであるとはどういう状態なのかを記している詩編だと言えるでしょう。2節にこうあります。「あなたの手が労して得たものはすべて あなたの食べ物となる。あなたはいかに幸いなことか いかに恵まれていることか。」海や湖に出る漁師であれば魚を獲る。農家であれば土を耕し、水を注ぎ穀物、野菜を育てる。山に向かう猟師であれば、鹿やウサギを狩る猟をする。あるいは、街に出かけて行って何等かの商売をする。大工したり、道路を作ったりする。そういった労働の末に、手に入れた食糧がある。今日の一日の糧がある、それはなんと幸いであろうかと伝えます。
3節には「妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木、食卓を囲む子らは、オリーブの若木。」この箇所は家庭における幸いを記しているのだと思われます。今の時代は、妻も夫も働きに出るのが普通であって、時代遅れだとか、妻が家の奥にいるなんて、女性蔑視だといった見方はしなくて良いと思います。

 先ほど、結婚という讃美歌を歌いまして、驚いた方がいたかもしれませんけれど、私はこの104番の讃美歌は好きな讃美歌の一つです。スコットランドの古くからの民謡に、牧師である以上に讃美歌作家として知られているイギリスのブライアン・レンが讃美歌の歌詞をつけて作った讃美歌です。
「愛する二人に、あふれる喜び 造られた神を たたえて歌おう」と歌いだしますが、家庭の基礎、土台は結婚する二人から始まります。二人で家庭を築き、幸いにも子供に恵まれる。勿論、生活する中で、色々な困難を経験するとしても、二人で協力しながら生活を営んでいるある日、夫が家の奥にいた妻を見つめて気が付くのです。 
 笑顔で、明るい家庭の中で食卓の準備をしている、その様子はまるで、実り豊かなぶどうの木のようで、その食卓を囲んで子どもたちがやって来る、その様子はオリーブの若木のようにしなやかで希望に満ちているな、なんという幸いなことであろうか。と普段の何気ない風景を見ながら、しかし、そこに与えられている幸せを見つけて喜んでいる場面、それが128編3節です。
人々の多くは幸いが、自分の所にやって来ないだろうかと幸いを待っているところがあります。でも、外からやってくる幸いはきっとまた、どこかに行ってしまいますよ。外ではなく、自分の内に幸いを見つけられる人こそ、まことに幸いだと思います。

 5節、6節にはこう記されています。「シオンから 主があなたを祝福してくださるように。命のある限りエルサレムの繁栄を御 多くの子や孫を見るように。」この箇所は、長寿であるということと、幸いが結びついています。一月ほど前になりますが、さがみ野ホームにおられた大森操さんという男性の方の納骨式を執り行いました。式のためにホームから送られてきた資料を読んでビックリしました。大正12年生まれとありました。98歳の方でした。さがみ野ホーム最長老だったそうです。7月に召された方ですが、亡くなる2か月前の5月には庭に出て、ビールを飲んで、プリンを食べていたそうですから更に驚きました。元気で長寿である、それは神様の祝福を感じます。自分も出来ればそのように生きていきたいと思います。でも、詩編は長寿だけではなくて、

 「多くの子や孫を見るように」とも記されています。自分の子ども達がそれぞれに家庭を築き、その家庭でも子どもに恵まれて、気が付けば自分達は多くの孫に囲まれている。長く生きて来て良かったなぁとつくづくと思う、そんな情景が記されていると思うのです。

 そのようにして詩編128編は、「幸い」とは、まず、日毎の糧がしっかりと与えられる。そして家庭が守られ、家族が幸せである。更に長寿が与えられ孫に囲まれる。人の幸いとはこのようなものではないかと伝えているのだと思います。
 
 そして、「幸い」に生きるために必要なことは何か。それが1節に戻りますが、こうあります。「いかに幸いなことか 主を畏れ、主の道を歩む人よ。」あるいは4節「見よ、主を畏れる人はこのように祝福される。」と記されています。私たちが幸いに生きるためにも「主を畏れ、主の道を歩む」これが真に幸いに生きる秘訣であると詩編は伝えているのです。

 先ほど、新約聖書からルカによる福音書11章を読みました。短く読みましたが、主イエスが口を利けなくする悪霊に取りつかれた人を癒している場面です。悪霊を追い出したところ、口の利けない人が物を言いだしたので、周りの群衆は驚いた。驚いただけでなく、主イエスを怪しむ人もいたり、試そうとしたりする人も出てくるのです。

 けれど、主イエスの業と言葉を聞いて、感動した一人の女性が「なんと幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」と主を讃えたのです。直接主イエスを褒めて、讃えるのではなく、間接的に、主イエスの母であるマリアを褒める、母親の幸いを告げることによって、より効果的な誉め言葉となっているかもしれません。
けれど、主はこう答えました。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」主なる神の言葉を聞いて、聞くだけでなく、それを守る人たちにこそ、幸いだと告げたのです。ここで言う神の言葉とは具体的には主イエスの言葉です。

 主イエスが語る祝福の言葉を聞くことです。主が告げる祝福の言葉とは、招きの言葉です。言うまでもなく神の救いへの招きであり、神の国への招きです。

 先日、夕食の際にふいに、長男が話しかけて来て、「お父さんは、説教した後に、周りの人がどう思っているのか気にならないの?」と聞かれました。私はその問いに関しては明確な答えがありまして、「自分からは絶対に説教の評価を求めない」ということにしているよと答えました。評価を聞かない、それは多くの先輩の牧師からも教えられたことでもあります。上手くいったと思う説教も年に何回かはありますが、むしろ何とか話しきったと思う時も多く、全くダメだったと思う時も多いのです。でも、時として自分の評価とは全く違う思いで受け止めてくださる方も多く、時として自分では上手くいったと思っても、全く分かりませんでしたと言われたこともあり、その逆も良くあるのです。
勿論、どんな評価をされるとしても受け止めなければなりません。けれど、説教もまた神の国への招きであり、神の救いへの招きです。あなたも、あなたも神の救いへ導かれて欲しい、もっと具体的には、特に洗礼を受けておられない方々には、そのような道筋を辿って欲しいと心から願っています。

 更に、何よりも主イエスが話される御言葉、救いへの招きのみ言葉を是非、受け止めて欲しいと願います。それが、人が「幸いに生きるために」どうしても必要だと私は思っています。聖書を読み、主イエスの御言葉を読み、感動する人は多いことでしょう。御言葉に励まされ、喜び主を讃える方々も多いことでしょう。でも、そこまでで、終わってしまう方々も少なくありません。

 詩編128編は「いかに幸いなことか 主を畏れ、主の道に歩む人よ」とあります。主を畏れ、主の道を歩む人となる。主を自らの神とし、この方を自分の人生の中心に据えて、主に従って生きていこうと決心する人となる。それがどんなに幸いなことなのかを詩編の作者は伝えているのです。ここにこそ、人が生きる幸いがあるのです。

 週に一度の礼拝、いつもの礼拝であり、普段と変わらない礼拝であるかもしれません。でも、この礼拝において、神の聖霊が働き、私達はその方によって、目が開かれ、ついつい霞んでしまいそうになる目が清くなり、よく見えるようになって、私たちは新しい一週間を歩むのです。
 見える目に映ってくるのは、どんな場面においても神の幸いでありましょう。神の祝福でありましょう。そのようにして私たちは生きて参りましょう。幸いを生きて参りましょう。

 お祈りします。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする