日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

喜びの歌と共に刈り入れる

2021-09-26 19:18:18 | 礼拝説教
2021年9月26日(日) 聖霊降臨節第19主日  労働の意味

大塚平安教会 礼拝説教

聖書箇所  詩編126編1~6節
      ヨハネによる福音書16章16~24節

説教題 「喜びの歌と共に刈り入れる」

説 教 菊池丈博牧師

喜びの歌と共に刈り入れる



以下 原稿になります。

 今日は詩編126編を読みました。この詩編も、120編から続く「都に上る歌」とされていますが、これまでの詩編は少し状況が変わっていまして、状況はバビロン捕囚からの解放と、自分達の土地、カナンの土地への帰還が叶いそうだという内容が歌われていることが分かります。
 
 短い詩編ですが、1節、2節は、カナンの土地へ帰れると聞いて喜んだ様子。3節、4節はこれからカナンの時、具体的にはエルサレムに、巡礼の旅と言うよりは、難民が命がけの帰還ですから安全を願い、祈っている様子が記され、5節、6節は、自分達の故郷エルサレムで、「種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌とうたいながら帰ってくる」であろうと、自分たちの将来に夢を見ている様子がわかります。
この詩編を読みまして、思わされたことがありました。それは、一言で言えば神を信仰する者の生き方でありました。

 今週は9月最後の主日礼ですが、私が大塚平安教会に参りまして丸11年が過ぎ、来月10月からは12年目になります。この11年を振り返り、特に辛い状況であったのは、何よりもコロナ禍に見舞われてからの1年半でありました。でありましたというより、状況が好転していく予兆がありますけれど、依然として継続中であります。

 何しろ、積極的に教会の礼拝においでくださいとお勧めが出来ません。先日も、ある女性の方が平日にやって来られて、礼拝に出席したいという思いで来られた方でしたから、是非とお勧めしましたけれど、その後、また、連絡がありまして、コロナ禍が落ち着いてからと家族に言われましたということでした。そんな状況は何も私達の教会だけで起こっているわけでもないと思いますけれど、教会からすれば伝道、宣教が困難な状況が続いていると言えるでありましょう。
でも、そういう時期こそ、私たちは改めて神を信じる者の生き方について思いを寄せてみたいと思うのです。
 
 私がこの11年の間、大塚平安教会において、何人かの方に洗礼を授け、洗礼式を執り行いました。洗礼式に臨む前に洗礼準備会を数回行いますが、そこで話す、信仰者の生き方、心構えは三つです。一つは、「過去を許すこと」、二つ目は「現在を褒めること」、三つめは「将来を励ますこと」この三つです。

 神を信じる者は過去を許し、現在を褒め、将来を励ます。この三つの生き方で信じる者として過ごしていきましょうと話します。
 
 一つ目、「過去を許すこと」詩編126編の1節、2節が丁度、その箇所になります。

 紀元前587年という年に、イスラエルは大国であったバビロンとの戦いに敗れ、国が滅び、更に生き残った人々は、バビロン捕囚。いわば捕虜として、労働者として、奴隷として、バビロンに連行されていきました。
 当初、すぐに帰れるだろうと楽観的であった人々もいたようですが、結局バビロンでの生活は50年も続くことになります。
 その時の、苦労、困難を告げた御言葉は沢山ありますが、例えば詩編22編、1節の書き出しは「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」という御言葉で始まり、7節からは「わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い 唇を突き出し 頭を振る。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら 助けてくださるだろう。」と記されています。

 預言者エレミヤが記した哀歌という箇所がありますが、バビロン捕囚の時代に作られたと言われていますけれど、どの箇所を取っても捕囚時代の苦しみが記されています。
哀歌1章18節にこうあります。「主は正しい。わたしが主の口に背いたのだ。聞け、諸国の民よ 見よ、わたしの痛みを。わたしのおとめらも、若者らも、捕らえられ、引かれて行った。」 

 ここに「主は正しい。わたしが主の国背いたのだ」とあります。

 イスラエルの民は、自分達が神のみ言葉に背き、従わなかったので、今、こうしてバビロン捕囚が起こっていると、そう思い、そう受け取っています。

 勿論、そういった一面があると思います。けれど、主が正しければ正しい程に、だから自分達に罪があった、自分達が悪い、自分のせいだと、いつも自分を責めてしまうことになります。自分を罰し、自分で自分を苦しめてしまうのです。そこに救いがありません。神の愛を知らない、キリストの救いを知らない多くの人々は、何か良くないことが起こると、自分を罪人とし、自分で自分を苦しめてしまう傾向にあると、私は思っています。

 詩編126編 1節、2節は、そのような人々に、救いをもたらす神の救いのみ言葉として書き出しました。「主がシオンの捕らわれ人を連れて帰られると聞いて わたしたちは夢を見ている人のようになった。」とあります。
このみ言葉は、具体的にはバビロンとの戦いに勝利したペルシャの王様が、「あなたがたは帰って良い」という命令を出したことによるものですが、しかし、それを神の赦しとして受けとめて詩編に記したわけでありました。

 私たちが苦しむとき、このようなコロナ禍にあって、教会だけに限らず、飲食、観光、交通、芸術、イベントといった業種の方々は、殆ど壊滅的な打撃を受け、いつ店を閉めようか、店閉めるだけでなく、首まで絞めたくなるほどに、辛い思いをしている方々多くおられると思います。
 
 自分達がもっと何かしなければならなかったのではないか、自分のせいではないかと自分を責め、自分で苦しんでいる方々本当に多いと思うのです。けれど、そこに赦しがありませんよ。そうではなく、あなたはこの中にあっても一生懸命やっているよ、だから、何も苦しむ必要がないよ、と言ってくれる方が必要なのです。
 
 神を信じる者の生き方は、主なる神こそが、過去のあの事、この事に苦しむ一人一人を赦し、あなたは主なる神の民、私はあなたに光を与え、あなたの足元に灯をともし、自分の罪に苦しまなくて良いと、完全な赦しを与えてくださる方であると知る生き方なのです。

 二つ目は「現在を褒める」です。詩編126編3節、4節の箇所となりますが、4節にこうあります。「主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように わたしたちの捕らわれ人を連れ帰ってください。」
ネゲブという土地は荒れ野であり、砂漠であると言われます。普段は川の流れなど無い土地です。けれど、特に過去の赦しを経験した人々は、過去から解放され、今与えられている現在をしっかり見つめることが出来、このネゲブの土地でさえ、主なる神なら川をも流す力を持っておられる方だと信じることが出来るのです。主なる神は不可能を可能にされる方だと信じる力が復活してくるのです。
50年もの間、不可能としか思っていなかった。この状況がほぼ永久に続くであろうとしか思えなかった。しかし、今、主に励まされ、過去から解放されて、光与えられ、エルサエムに帰還できる。勿論、帰還までの労苦は、更に多く、更に重いものであるとしても、尚、それに耐える力を主は与えてくださるに違いない、なぜなら主こそがわたしたち捕らわれ人を連れ帰ってくださるのだからと祈っているのです。現在をしっかり生きる力を回復していることが良くわかります。


 そして三つ目、「将来を励ます」場面が5節、6節となります。「涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い 喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」
昔の時代ですから、農耕器具も十分でなく、石地だらけ、水の乏しい地域に種を蒔くまでの苦労はどれ程であったかと思います。それだけに石をどけ、土を耕し、苦労して種を蒔いた者だけが知る収穫の喜びがあったと思います。
そのようにして苦労多く、困難を経験した者だけが経験できる、喜びの歌と共に刈り入れる時、束ねた穂を背負って、喜びの歌を歌いながら帰ってこられる時のように、必ず自分の将来はそうなると、そうなる前から信じられる信仰に生きる。それが将来を励ます姿なのです。過去を許されず、現在を褒めることが出来ない者が、自分の将来をはげますことは出来ません。過去を許し、現在を褒めてこそ、自分の将来を力強く励ますことが出来るのです。

 新約聖書からはヨハネによる福音書16章から読みましたが、主イエスは人々に対して告げています。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」と教えられました。主を信頼し、願い、祈ることだと主は告げています。

 私達も祈りましょう。私達の過去の全てが許され、現在が褒められ、将来が励まされますように、捕囚の民が、解放されて、自分達の故郷へ戻っていったように、そして、また、力強くイスラエルを再建したように、困難な状況に嘆かず、将来を力強く歩んで参りましょう。神の光を見つめて参りましょう。

 お祈りします。


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揺らぐことなく

2021-09-19 16:04:01 | クリスマス
2021年9月19日 (日)聖霊降臨節第18主日 新しい戒め

大塚平安教会 礼拝説教

聖書箇所 詩編125編1~5節
     ヤコブの手紙1章2~8節

説教題 「揺らぐことなく」

説 教 菊池丈博牧師


揺らぐことなく


以下 原稿になります。

 本日の礼拝説教を「揺らぐことなく」としました。先ほど読みました詩編125編1節にこうあります。「主に依り頼む人は、シオンの山 揺らぐことなく、とこしえに座る」
私たちの人生において、時に「揺らぎ」を覚える時があります。「揺らぎ」とはたとえるならば不安です。私達の国ばかりでもなく、新型コロナウィスル感染の猛威が世界を覆っていますが、先日、政府の新型コロナ対策分科会の尾身会長が今後の見通しを聞かれて、この状態が落ち着くまでは、「2~3年プラス」と答えていました。

 日本の現在の状況は感染者数が減って来てきますが、既に年末頃を想定した第6派の対策を考えなければならないと専門家と呼ばれる方々が話しています。まだ暫くの間は、コロナ感染による私達の社会の揺らぎは終息しそうにありません。

 あるいは、今、国の総理大臣が変わろうとしています。これまでの菅総理は、退陣を表明しましたので必ず変わります。国と国民に対して責任を持つ者が変わる、政治、経済だけではなく、変わることによる影響は大きいと思います。あるいは衆議院選挙もすぐに控えているわけで、私達の国がどのように変わっていくのか、これは期待と不安と両方とも言えますけれど、毎日の生活の中で揺らぎを感じないわけにはいきません。

 あるいは、昨日まで、台風が日本に来ていました。土曜日の朝方から断続的な雨が続きまして、朝になりましたら大和市の川が氾濫しそうだなどと報道されて緊張しました。台風に限ることなく特に近年、私たちは毎年のように自然災害による、大きな不安、揺らぎを感じ続けているとも言えるでしょう。

 あるいは社会というよりも、自分自身に対する「揺らぎ」を感じる時があります。

 何週間か前の土曜日のことでしたが、礼拝の準備をしておりましたら、詳しい話はともかく、いきなりだったのですが、前触れもなく泌尿器のあたりが腫れて来たことを感じて慌てました。理由も分からないまま、暫く様子を見ていましたけれど、土曜日ですから、病院は午前中しか診察していないと思い直して、急いでネットで病院を探して海老名の泌尿器科に自分で運転して行きました。
 
 微熱も少しあるかなと思いながら、診察を受けたら、38度5分もありました。
 
 私も医者も驚いて、とりあえずすぐ点滴しましょうとなって、大分大袈裟なことになりまして、点滴を受けて、薬を貰って帰宅したのですが、次の日曜日には熱も下がって安心したのですけれど、前立腺炎ではないかと言われました。でも、一週間してもう一度行きましたら、完治しましたと言われましたので安心していますが、人間の体温は大体36度から高くても37度です。普通は極めて安定しています。そこに揺らぎはありません。だから安心なのに、それが38度5分などと聞かされると、途端に病人になったりするのです。心が揺らぐものです。

 何よりも自分自身の健康の不安、揺らぎ、経験したことが無いという方はおられないと思います。

 人は依存している対象によって動かされるとも言われます。お金に依存している人はお金に影響されるのです。社会的地位に依存している人は、その地位の変化によって影響を受け、人に依存している人は、依存している人に影響を受けるのです。

 先月、8月の末に、キリスト教保育連盟金川支部会の講習会がありました。今は、大勢が集まることが出来ませんので、ZOOMというかネットでの講習会となりました。 
 
 私は、講習会に先だって、開会礼拝の役割をさせていただきましたが、その際、キリスト教保育とは、具体的には一体どういうことであるのか考えました。

 準備する中で話しましたのは、人に依存するのではく、神にこそ依り頼むことが大切なのではないかと話しました。私たちの人生で揺らぎを感じる、それは政治、経済によって、自然災害によって、あるいは自分の健康によって、揺らぎを感じるのですが、でも、何よりも心が揺らぐのは人と人との関係ですよ。
 例えば、幼稚園に限るわけでもありませんが、頼りにしていた先輩から厳しい一言を言われたとか、今日の園長は機嫌が悪かったとか、主任がイライラしていたとかだけでも、心が揺れ動くものですし、全く逆に、園長だからと言って、職場の先生方や保護者の皆さんの顔色一つで、心の中はヒヤヒヤ、ドキドキしているものだと思います。といった話を致しました。
 だから、大切なことは、人に依存するのでなく、主なる神に依り頼むことがどんなに大切かと思います、それがキリスト教保育の根幹になるのでないか、と申しました。

 主に依り頼むとは、揺らぐことなく、つまり、疑わないということです。

 主イエスは、信仰にあって、疑わないことの大切さを何度も教えておられます。

 弟子達がガリラヤ湖で船に乗っているところに、主イエスが湖の上を歩いて来られた。その姿を見たペトロは、私も水の上を歩いてそちらにいくことが出来るでしょうか、と尋ねると、主は「来なさい」と言われたので、ペトロは船から降りて、水の上を歩いて進んだけれど、風が吹いてつい怖くなり、沈みかけて「主よ、助けてください」と叫びました。主は手を差し伸べて、「ペトロよ、信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と話された場面があります。(マタイ14章)
 
 マルコによる福音書11章23節では、「はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい「立ち上がって、海に飛び込め」と言い、少しも疑わず、自分の言うところになると信じるならば、そのとおりになる」と教えておられます。
 十字架の死の、三日の後に、弟子達に復活の主が現れた時に、弟子たちは恐れおののきました。しかし、主は「なぜ、うろたえているのか、どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足をみなさい。まさしくわたしだ。」と話されました。

 これらの聖書箇所は皆、少しも疑わず、主なる神にこそ信頼し、依り頼むことの大切さが記されています。社会でもなく、経済でもなく、お金でもなく、地位でもなく、人と人との関係でもなく、今日には信頼できると思う、けれど、次の日には揺れ動き、疑いを持つような事柄、ヤコブの手紙では「疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です」とありますように、私たちは主なる神にこそ信頼し、依り頼んでいきましょう。
 
 なぜ、主なる神なのか、主なる神こそが、天地創造の始めから今に至るまで、少しも揺らぐことなく私達と共におられるからです。
私たちの人生は、何かの拍子で物事がとてもうまく進むことがあります。そうすると人は調子にのって高ぶりを覚えます。けれど、また逆に困難や試練の嵐に生きる時もあり、ひどく落ち込み、気が沈むこともあるのです。
 
 教会の宣教活動にあっても同じだと私は思います。5年前に会堂建設を行った。その後暫くは、毎週の礼拝に多くの方々が集まって下さいました。クリスマス、聖夜礼拝となれば80人、時には100人を超える礼拝出席者がおられました。
 しかし、その後コロナ感染拡大となり、昨年の三分の一の礼拝は休むことになりました。今も、緊急事態宣言の下、ギリギリの状況での礼拝です、時には20人代、30人代の方々で礼拝を守っています。
 
 でも、順調であるときも、困難に遭遇するとしても、揺らぐことのない主なる神に信頼し、あなたがたは岩の上に建てた教会だ、岩の上に建てた人生だ、だから、私にしっかりと繋がって、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する心を私たちは育んでいきましょう。主われらと共におられる、主に信頼し、祝福を受けて、今週も進んで参りましょう。お祈りします。
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敵意の炎 驕り高ぶる大水

2021-09-12 15:24:06 | 礼拝説教
2021年9月12日(日)聖霊降臨節第17主日 隣人

大塚平安教会 礼拝説教

聖書箇所 詩編124編1~8節
     ペトロの手紙一 2章9~10節

説教題 「敵意の炎 驕り高ぶる大水」

説 教 菊池丈博牧師
 

敵意の炎 驕り高ぶる大水



以下 原稿になります。

 先日、家内が助手席に座って、私が運転しておりました時に、何気ない会話をしながら、ある拍子で私が、「自分はポンコツだから」と話しました。あまり表現が良くないかなと自分でも思ったのですが、つい、言ってしまいました。
すると、家内から「自分はポンコツだ、なんて言っていると本当にポンコツになるから言わないほうが良いんじゃない」と言われ、そうだなと思いまして、言わない方が良いねと返事をしました。少し反省しました。
 
 けれど、その後に改めて思わされた所がありました。先週、木曜日に、コロナ禍ではありますけれど、月に一度の「発展・聖書に親しむ会」を行いました。 
手指消毒・マスク・換気に気を付けて行いました。久しぶりに教会に来られた方もいて、開催するとやって良かったと思います。短い礼拝を献げて、それぞれが一言ずつ話すのですが、ある方がこんな話をされました。子どもがスポーツクラブに入っていて、自分は親としてそのクラブのお世話をしているけれど、新しく変わったコーチと中々上手くいかないというのです。
新しいコーチには、コーチなりの考え方があって、自分はこうしますと主張してくるというのです。けれど、クラブのこれまでの流れもあるし、子ども達のためにも、コーチとの関係を良くするためにも、意志の疎通を良くしたいと思いながら、話をしたり、メールをしたりしているそうですが、中々思うようにいかないし、受け入れてくれないというのです。
 
 ところが、自分ではなく、違う子どものお母さんが意見したところ、その意見がすぐに受け入れてくれたというのです。同じ意見なのに、なんで私がダメで、あの方なら良いのか。と少し憤慨していました。どう受け止めたら良いでしょうか。と言われるものですから、私も困りました。

 それで思い出したのが、先ほどのポンコツの話でした。家内との会話を紹介しながら、自分はポンコツだと言うのも良くないけれど、でも、自分はポンコツだからと心で受け止めて、結果としては良かったのだから全て良しと受け止められたら良いかもしれません、と話しましたが、恐らくあまり理解されず、受け入れられなかったかもしれません。

 話は変わりますが、先週の礼拝に久しぶりにK先生が出席されました。K先生は上倉田教会の牧師で、大塚平安教会出身教職でもありますから、久しぶりにお会い出来て、会話が弾んだ方もおられると思います。礼拝が終わりまして、私も少し話をしました。「菊池先生、今日の説教、とっても良かったですよ」と言われまして、私も調子に乗って「いつも言われますよ」と答えましたら、大笑いされて背中を叩かれました。勿論、お世辞だと分かっていても、お世辞でも嬉しいものです。いずれにしてもあの牧師の説教はポンコツだ、と出来れば言って欲しくないと、どの牧師も思っているでありましょう。

 何を申し上げたいのかと言いますと、私たちは、誰であっても他人から良い評価を得たいと思っていますし、あの人は、一丁前だ、一角の人だと言われたいものです。そう思うのが普通で、あの人はポンコツだなどと聞こえてきたら、どんなに憤慨し、また落胆するでありましょうか。ましてや、自分はポンコツだなどと思いたくもないし、思わないものです。
 
 今日はペトロの手紙一2章から読みました。主イエスの弟子として、また、聖霊を受けて立ち上がった使徒として、1章1節にありますように「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている」人々に対して、生き生きとした主にある希望を伝えるために記された手紙としてペトロの手紙があります。ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニア、この名前は都市の名前ではありませんで、地域の名称です。日本で言えば、相模の教会の皆さんへ、駿河の教会の皆さん、武蔵の教会の皆さんへという感じであろうかと思います。

 更に、その後に、「各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。」と続きます。大切なところは「選ばれた人たち」という御言葉です。
 
ペトロは意識してこの言葉を使ったのではないかと思います。ペトロは漁師でした。ガリラヤ湖のほとりで網を繕っていたところに、主イエスが現れて「わたしについて来なさい」という言葉を聞き、網を捨て、主イエスに従った人でありました。ですから、神に選ばれた人だと言えるでしょう。
 その後、ペトロは主イエスの一番弟子として活躍することになりますが、時々ヘマをして主に叱られたりする場面があることを私たちは知っています。

 主イエスが私を何者だと言っているのかと尋ねた時、ペトロは「あなたこそ、メシアです。」と答えた場面があったかと思うと、直ぐに主が御自分の死と復活の話をされて、脇へ呼んで、主イエスをいさめ、逆に「だまれ、サタン」と言われた場面は良く知られています。
 
 主イエスが捕らえられる前夜、最後の晩餐のおりに、主イエスはペトロに話しかけました。「シモンよ、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」その言葉を聞いたペトロは「主よ、ご一緒になら、牢に入っても、死んでもよいと覚悟しております。」とその信仰の決意を告げました。けれど、実際は、その後主イエスが捕らえられ、裁判に架けられている様子をそっと見ていた時、側にいた人々に、あなたも仲間だと指摘された言葉に恐ろしくなり、「わたしはあの人を知らない」と三度も否定するのです。しかも前もってそう言うよと主イエスに指摘されていたことを思い出して、激しく泣いたというのです。
今日の言葉で言えば自分のポンコツさに涙が溢れでた場面でありましょう。

 主イエスを信じるという信仰はどこからやって来るのでしょうか。ペトロは「自分は死んでもついていきます」と言いました。裁判の席で、あなたも弟子の一人だと指摘されたら、その通り、私は主の弟子ですと言って、共に十字架に付けられる覚悟はありますと立ち上がった、としたら、その様子を見た主イエスは喜んだでしょうか。
 私たちはそのようなペトロの姿を期待するかもしれません。私達にも分かりやすいからです。信仰はどこからやって来るのか、信仰は何よりも、自分の努力、聖書を読み、祈り、礼拝に駆け付け、何を起ころうと、雨が降ろうと槍が降ろうとも、私は神様から離れません。という思いによって守られるものなのでしょうか。

 もし、そうだとしたらペトロは信仰者失格となるのではないでしょうか。しかし、ペトロは失格者とされませんでした。なぜか、信仰とは、神の前にいかに、自分が力なく、欠け多く、つまずきやすい者であるかを知らされるところからのスタートだからではないですか。そのような自分を、自分の行動や自分の能力や功績によらず、ペトロの手紙にありましたように神の「選び」によって神の民とされ、神の愛に招かれ、自力では神に従えない、そんな弱さしか持ち合わせていないこの自分を無尽蔵に愛してくださり、十字架の死と復活を通して、神の愛の業を示して下さり、神の聖霊を授けてくださった。

 神の選びの理由は、こちら側には何も持ち合わせていないにも関わらず、神の選びがあったことをペトロは心から感じたに違いありません。
だから、選ばれた人々よと、ペトロの手紙の最初で記したのだと思います。

 先ほど詩編124編を読みました。1節からこう記されています。「イスラエルよ、言え。「主がわたしたちの味方でなかったなら 主がわたしたちの味方でなかったなら わたしたちに逆らう者が立った時 その時、わたしたちは生きながら 敵意の炎に飲み込まれていたであろう。そのとき、大水がわたしたちを押し流し 激流がわたしたちを越えて行ったであろう。」
 
 私達の人生は、その歩みの内に、時には敵意の炎が、時には大水が、私達に襲い掛かる時があります。そのような事態が起こると、体や生活、つまり見える外側にも影響を受けて、自信を無くしますし、心の見えない内側にも影響を受けて、自分を自分で蔑むようなことをして、自分で自分を価値無しとしてしまう、としたら、その時、まさにポンコツとなります。
 
 けれど、そのような者をもあなたは主の愛する大切な人だよ。あなたは値高く、誰のも変えられないかけがえのない一人だと告げて下さる方がおられるのです。だから救い主ですよ。
 人の評価はあまり当てにしてはなりません。時には高く評価されるし、時にはポンコツ扱いされるのです。一年前にはあれほど期待された総理大臣が、一年後には辞めることになったように、人の評価は移り行き、変わり続けるのです。

 私たちは出来るならば、人の評価によってではなく、神様が価値あり、と評価されるその愛によって、御霊の力を得て、元気をいただきつつ、過ごして参りましょう。

 お祈りします。

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主に目を注いで

2021-09-05 18:38:21 | 礼拝説教
2021年9月5日(日)聖霊降臨節第16主日 教会の一致と交わり

大塚平安教会 礼拝説教

聖書箇所  詩編123編1~4節
      コリントの信徒への手紙二 4章16~18節

説教題  「主に目を注いで」

説 教  菊池丈博牧師


主に目を注いで



以下 原稿になります。

 本日は詩編123編を読みました。詩編120編から続きまして「都に上る歌」とタイトルが付けられています。エルサレムから遠く離れた所に住んでいる人々が、巡礼の旅をしてエルサレムの神殿に向かう過程において読まれた歌であろうと考えられます。
 
 詩編の読み方にも依るわけですが、一つの読み方として、詩編120編はこれから始まる巡礼の旅が安全で、無事に到着しますようにとの願いが込められた詩編。121編は、時が来て、いよいよ出発、「目をあげて、山々を仰ぐ」とありますが、あの山の向こうにはエルサレムがある、遥かに望みみて歩みだした様子が記されている。122編は旅が終わりに近づき、ついにエルサレムの町の門をくぐり、城門の中に入って来た喜びが記されて、そして本日の123編エルサレムの神殿において礼拝を献げる様子が記されている、そのように考えることも出来ると思います。

 長い旅の後、ついにこのエルサレム神殿で礼拝を献げている「目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます。」とあります。2節には「わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ 憐れみを待ちます。」とあります。
礼拝とは「目を上げて、主なる神を仰ぎ見る」ことです。半年近く前になりますが、今年の4月3日、イースター礼拝の前の日でありましたが、この礼拝堂で結婚式を挙げました。式の前の日は準備のために、会堂に花を飾り綺麗に整えました。その状態で写真を撮って、知り合いの方々にも見てもらおうと思いまして、パソコンのFacebookにあげました。知り合いや、教会員の方、何人も見てくださった方おられるでしょう。

 見た方の中に、友人の牧師が写真を見て、コメントを入れてくださった。「しかし、素敵な礼拝堂ですね」短いですけれど、この言葉は心からの言葉だと感じました。私達の教会、礼拝堂が建てられたのは2015年です。いつのまにか丸六年が過ぎています。六年過ぎましたけれど、この礼拝堂がどんなに素敵であって、見事なものであるのか、私たちはどこかで慣れてしまっていますけれど、初めてこの礼拝堂を見る方は大きな感動を感じる方とても多いと思います。

 西欧の教会を尋ねた方も多くおられると思いますが、長い歴史を経て立ち続けている教会は、ほぼ例外なく空に向かう高い塔が目印で、大きく美しいステンドグラスが窓にはめられ、私達が頭で想像する教会の規模を大きく上回り、圧倒される思いがした方も多いと思います。まさに「目を上げて、わたしはあなたを仰ぎ見る」という御言葉に相応しい会堂を建てようとしたそんな人々の思いを感じることが出来ます。

 しかし、建物よりも更に大切なことがある。それは礼拝そのものです。ある牧師先生が、礼拝とは何か信仰とは何かという問いに対して「驚き」であると答えておられました。

 天地創造の神であり、私達に命を、人生を与えてくださった方が、御子イエス・キリストをこの世に送ってくださり、送られただけでなく、この方の命を持って、私達の罪を贖い、十字架にかけられ死に、しかし、そこで終わりではなく三日後に死に打ち勝ち、復活されて弟子達に現れてくださった。更に、神の聖霊を受けた弟子達は、この方こそ、私達の真の神であり、この方こそが、私達の真の救い主であると受け入れ、感動を持って、すなわち「目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます」という思いを持って、世界中の人々に対して福音の宣教を始めました。どこで宣教したのか、街の中で、道路で、広場において宣教活動したでありましょう。けれど、どこよりも宣教の場となったのは、会堂における礼拝であったと思います。

 礼拝に集いつつ、弟子達が話す言葉と、主イエスを通して示された神様の御計画を知らされ、多くの人々が主イエスを受け入れました。なぜ受け入れたのか、説明を受け入れたのではなく感動したからですよ。人は驚き、感動する事柄に影響を受けるのです。礼拝は神の業が示される驚きの場所であると私も思います。

 では礼拝で一体何に驚くのか、主なる神が自分と共におられる、その確信に至る、ことに驚くのではないでしょうか。礼拝は驚き、感動するのです。

 建物に感動する、それも大事でしょう。でも、その何倍もの驚きを持って「神、我らと共におられる」インマヌエルの主が自分と共におられると信じられる所では、どこであろうとも礼拝は出来るとも言えるでしょう。
 
 創世記28章に「ヤコブの夢」という箇所があります。アブラハムの孫であり、イサクの息子であったヤコブは、双子の弟で、双子の兄はエサウという名前です。エサウが兄ですから、エサウがイサクの後を継いで家や財産を守る。それは既に決まっていることでありました。
 けれど、母のリベカは兄のエサウより弟のヤコブを気に入っていて、目がよく見えなくなっていたイサクをだまし、イサクは弟のヤコブに家督を継ぐ祝福を与えてしまいました。勿論、兄のエサウは怒り、父イサクもだまされたわけですから、ヤコブは家を継ぐどころか、ついには逃げるようにして一人家を出るという結果となるのです。
 
 家を出たヤコブは、旅をするにはあまりにも少ない荷物で、連れもなく一人とぼとぼと歩いていたことでしょう。日が沈み、夜となり、しかし宿を取る家もなく、ついに野宿を決心するわけです。勿論、寝袋のようなものも無かったでしょう。側にころがっていた石を取って、それを枕に横たわりました。
 しかし、その夜ヤコブは夢を見ました。先端が天まで達する階段が、地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしている夢でありました。更に、主が傍らに立ってヤコブに話しかけました。
 「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。」とヤコブを祝福するのです。
 
 家族をだまし、祝福を得たまでは良かった、けれど、結局は家を追い出され、あんなことしなければ良かった、これからどうやって生きていこうかとどんなにか落胆し、力を失っていただろうヤコブの所に、兄のエサウの所ではなく、追い出された自分のところに主なる神がやって来られて、あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなると祝福の約束を示して下さったのです。

 ヤコブは飛び起きました。そして、まことに主がこの場所におられたことを知り、恐れ戦き、枕にしていた石を取って記念碑として立てて、先端に油を注いで、礼拝を献げその場所をベテル(神の家)と名付けたのです。

 ヤコブが絶望の中でこそ、主なる神が自分の所におられる、主我ともにおられることを知り、驚き、恐れ、しかし、それは神の民となる瞬間でありました。
 
 皆さん、礼拝において、主なる神が自分と共におられると知ることです。自分の行いによるのでもなく、自分の信仰によるのでもなく、絶望の中にいようと、落胆していようと、主なる神がこの自分と共におられる、その驚きを、礼拝を通して体験することです。そして、目を上げて、わたしはあなたを仰ぎますと祈ることです。
 
 主我と共におられることを知る時、何が起こるのか、先ほどコリント書を読みましたが、そこには落胆しない人生を生きられるとあります。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。外なる人とは、目に見える部分です。美しい礼拝堂もどんなに頑張っても残念ながら古くなって、傷んでくることでしょう。西欧の教会では、毎年莫大な補修費が必要だとも言われます。
 そのようにして外なる人は衰えていくのです。けれど、私たちの「内なる人」は日々新たにされていく、毎日、新たにされていく、目を上げて、主なる神をしっかりと仰ぎ見ることです。礼拝において神我と共におられることを確認することです。

 時の総理が変わることになっても、コロナ禍の中で緊張状態が続いているこの時代であろうとも、外なる人は変わりゆきます。そのような状況に押し流されることなく、私たちは、主を見上げて、主を仰いで、この一週間も過ごして参りましょう。

 お祈りします。
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元気が出る言葉 第10回

2021-09-04 09:03:29 | コラム
 みなさんこんにちは。大塚平安教会牧師の菊池丈博です。今回の人生これからメッセージは、新約聖書ルカによる福音書19章5節の御言葉です。

「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」

 イエス様がエリコという町に入った時のお話です。エリコの人々はイエス様が来たと大喜びで道に出て出迎えました。イエス様も喜んだと思います。ふと上を見上げると桑の木があって、その木からザアカイという名の人がイエス様を見ているではありませんか。
 
 徴税人のザアカイは、自分もイエス様を一目見たいと思って道端に行ったのですが、仕事柄、街の嫌われ者だったザアカイに誰も場所を譲ってくれる人もなく、仕方なく桑の木に登ったわけでありました。

 そんなザアカイを見上げながらイエス様は話されました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい」この言葉はザアカイにとってどんなに驚きと共に喜びであったでしょうか。
 
 その日の晩には、ザアカイと一緒にイエス様、お弟子さんたち、食事をしながら笑顔と何よりも沢山の会話で大いに盛り上がったことでしょう。

 コロナ禍によるパンデミックの状況が一年を越え、一年半を越えようとしています。いつになったら平穏な状態になるのか、私たちはまだまだ不安と不満の中で過ごしています。私達の教会も昨年は何週にも亘って礼拝を休みました。コロナ禍の中で何が辛いかというと、人と接する機会、人と話をする機会が随分と減ったことです。
 
 人は一人では生きていけません。生きていけないので人は集まって、家族となり、社会を造り、コミュニティとなって生きているのです。つまり会話というより、言葉を発して自分の気持ちを伝えながら生きているのです。
 人と接する機会が減り、会話する時間が無く気持ちを伝えられない状況は人を不健康にします。コロナにならなくても体の調子を崩している方も多いかもしれません。
 
 ザアカイも人との会話不足、関係作り不足による不満や不安を生きていたでしょう。そこにイエス様が通りかかりました。

 皆さん、こんな時代に会話が足りないと思っている方気を付けましょう。まずは神様との会話祈ることです。元気になります。元気になったところで、家族との会話、夫婦で会話、仲間との会話、近所の方々とのおしゃべり、そうやって自分を解放していきましょう。閉塞感の強いこの時代に、マスクはしっかり付けて、でもどんどん会話していきましょう。とても元気になるはずです。。元気になってこの時代しっかり生きていきましょう。

 会話、足りないなぁと思う方、ぜひ、教会においでください。いつでも沢山出来ます。(笑)

 皆さん、人生これからです。

 ※このメッセージはスマホのラジオトークで聞くことが出来ます。牧師が直接語りかけています。興味のある方は「ラジオトーク 人生これからメッセージ」を聞いてみてください。大塚平安教会のHPからスキャンで入りますと楽です。
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