日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

神の門の前に立つ喜び

2021-08-30 10:11:21 | 礼拝説教
2021年8月29日(日)

大塚平安教会 礼拝説教

聖書箇所 詩編122編1~9節 
     ヨハネの手紙三 1~8節

説教題 「神の門の前に立つ喜び」

説 教  菊池丈博牧師


神の門の前に立つ喜び



以下 原稿になります。


 新型コロナウィルス感染拡大という状況を受けて、私達の礼拝はこれまで短縮した、極めてシンプルな形にした礼拝を守って参りました。けれど、今、神奈川県にも緊急事態宣言が出され、少なくとも9月12日までは続くと思われますがその期間、礼拝は休まないと決めましたけれど、同時に会衆皆で讃美歌を歌わず、奏楽者の演奏を聞くこととしました。
 
 もともと讃美歌は、神様の恵みに対する私達の応答として礼拝に組み込まれるものです。礼拝の区切りとして讃美歌を入れているわけではなく、最初に神の招きの詞、招詞があり、その招きの応答として讃美歌が歌われます。聖書朗読があり、その応答として讃美歌が歌われます。説教の後に、その応答として讃美歌が歌われます。人間の側の応答の役割を担うのが讃美歌です。それを十分に讃美出来ない状況は、まさに緊急事態であろうと思います。

 とはいえ、歌わないから応答をしないわけでもありません。子ども讃美歌の10番に「ことりたちは」という讃美歌がありますが、その歌詞に「歌の声は小さくても、よろこびなさる 神様」とありました。この歌詞に、私はとても慰めを受けます。私たちは十分に声を出せなくとも私達の心はあなたを慕い、あなたを求め、あなたに感謝している、神よ、その思いを喜んでください。いや、既に神様は喜んでおられるはずだ、そう思えると心がスッと楽になります。ですから、奏楽者の演奏に私たちは心を載せて祈りを込めて過ごしていきましょう。

 礼拝がシンプルになる、シンプルが悪いとは言い切れませんけれど、そうせざるを得ない理由がコロナウィルス感染拡大ですから決して良いわけではありません。仮に、この礼拝がもっとシンプルになり、一つだけ残るとしたら、何が残るだろうかと言えば、疑う余地なく聖書朗読です。聖書に記される神の御言葉が読まれる所としてこの礼拝堂はあります。御言葉が読まれ、祈りが献げられるのであれば、それだけでも、私は礼拝が成り立つと思います。
と同時に残るのは奉献です。聖書が記される前の時代、創世記のアブラハム、イサク、ヤコブの時代の礼拝は、人がは外に出て石を築き、祭壇を造り、祈って献げものを献げました。一方的で、圧倒的で、無尽蔵な神の恵みに対して、人間が出来る最大限の応答として神に対する献げ物として奉献があります。
 
 なら、説教はどうか、案外しぶとく残るかもしれません。説教は特に宗教改革後のプロテスタント教会が大切にしてきた歴史があります。自分達の国の言葉で、聞く会衆がわかる言葉で福音が告げられる礼拝を献げよう。それがプロテスタント教会の始まりでもあります。以来説教を特にプロテスタント教会は大切にしてきた歴史があります。

 本来、説教はユダヤ教の礼拝においても大切にされてきたことは間違いありません。主イエスが会堂にお入りになって、御言葉が記された巻物を受け取り、それを朗読し、その後会衆に対して神の御言葉について話をされた箇所が聖書にもあります。そのように御言葉の取り次ぎは行われていました。御言葉に不足があるわけでもなく、欠けを補うわけでもありません。でも、聞く一人一人に祝福が告げられるように、御言葉の取り次ぎが行われるのです。
 
 先日、ある本を読んでいましたら、説教について興味深い話が記されていました。

 キリスト教はその最初の時代から長く迫害を受けて来ましたが、それでも神の福音を信じる者が途絶えることはありませんでした。その迫害は紀元320頃まで続きます。 しかしその頃に、迫害は急に終わりを迎えます。時のローマの皇帝 コンスタンティヌスがキリスト教を公認して、その後に続く皇帝は、ついにキリスト教を国教にしました。これまで迫害していた人々でさえ、教会へと向かい、堂々とした礼拝堂が幾つも建てられ、優れた礼拝が執り行われるようになった。その優れていると言われる礼拝には人気がある説教者がいたそうです。人々は御言葉の取り次ぎの言葉に、ヤンヤと拍手、喝采し、手を打ち、足を踏んで喜んで聞いていたそうです。けれど、一方において人気のない説教者のところには中々人が集まらないのです。
 
 なぜ人気がないのか、説教が下手であったと言えるかもしれません。説明が不足していたのかもしれません。けれどまた、聞く会衆にとって、出来れば聞きたくないと思える説教をしたのかもしれません。あのバブテスマのヨハネのように、人々に悔い改めを迫り、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と迫る説教は、聞く人々にとって心地よいものではありません。人間が聞いて、優れていると思える説教は果たして本当に優れているのでしょうか。
 少なくとも神の御言葉を取り次ぐものにとって、人から人気が出るという誘惑に打ち勝たなければならなかったことは確実だと思います。

 神の福音を宣べ伝えるためには、時にはこの世の感覚と対立する御言葉を告げなければならないでしょう。争いや大きな悲惨、悲しみの中にあって、神の福音と喜びを告げなければならないかもしれません。そう思うと説教者は、孤独に耐える覚悟も必要であるかもしれません。しかし、それにも増して、説教者は神の宮に集う人々が励ましを受け、喜びを受け止め、聖霊の御力に満たされる礼拝へと導く必要があろうと思います。
 
 今日は詩編122編を読みました。都に上る歌、巡礼の歌として記されている詩編122編、その1節、2節を読みますとこうあります。「主の家に行こう、と人々が言ったとき、わたしはうれしかった。エルサレムよ、あなたの城門の中に、私達の足は立っている。」とあります。
 
 希望を持ちつつ、巡礼の旅をした人々が、ついにエルサレムの城門の中に立っているのです。幾日も、何度も心に思い、夢にまで見たエルサレムの町の門に立っているのです。ついに到着した、その喜びは何ものにも代えがたいものであったでしょう。
 
 神学生の時に、私に礼拝を教えて下さった今橋朗先生は、会衆の礼拝は、家を出た時から既に始まっていることを忘れないようにと教えてくださいました。時として、牧師館は会堂と同じ建物であったり、棟続きだったりします。そうすると牧師は大雨の日でも、風の日でも、雪の日でも、外に出ることなく、濡れることもなく、礼拝の準備を行えます。そしてそれがいつの間にか当たり前になるのです。
 けれど、礼拝に集われる皆さんは、どんな日であろうと、家を出て礼拝会堂へと向かう、主の家に行こう思い、まっすぐに進んでこられます。毎週が小さな巡礼だと言えるかもしれません。そのようにして、教会が守られていることを牧師は忘れてはならないと教えられました。確かなことだと思います。

 なぜ、教会へと向かうのか、主なる神こそが私達の魂の牧会者だからです。ヨハネの手紙、三と言う箇所を読みました。長老職であったヨハネが、ガイオと呼ばれる人に対して手紙でもって文書を記しています。ガイオがどこの誰なのか、良く分かっていません。けれど、長老ヨハネが信頼を置いていた人であり、恐らく異邦人教会の霊的な指導者であったと思われます。
 
 2節に「愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。」と記されています。ガイオはもしかしたら健康面に不安があったかもしれないとも考えられますけれど、それにも増して「あなたの魂が恵まれている」とあるように、主にあって魂が健やかな人であったのでしょう。 
 
 ガイオは、神を思い、主イエスにあって魂が恵まれていました。そのような人が教会にいる。それはどんなにか幸いだと思います。
 
 私たちは魂の健やかさを求めて、教会に集いつつ、その救いを誰かに人にもとめていないでしょうか。あの人なら私の話を聞いてくれると思いながら来ているとしたら、魂の牧会者である神を見失うかもしれません。神に祈り、神を求め、神を賛美することです。神様、私の思いを分かって下さるのは主なる神よ、あなたのみです。それが神の門に立てる者の姿であろうと思います。だから、そこに喜びが現れてくるのでしょう。

 主なる神よ、あなたにわたしたちは礼拝を献げます。この人間の僅かな営みでしかない礼拝を主よあなたが喜んでくださることこそが、私の喜びです。告白しながら、過ごして行きましょう。

 お祈りします。


 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

うめきの中から

2021-08-22 14:12:44 | 礼拝説教
2021年8月22日(日)

大塚平安教会 礼拝説教

聖書箇所 ハバクク書3章17~19節
     ローマの信徒への手紙8章18~25節

説教題 「うめきの中から」

説教 杉野信一郎神学生(日本聖書神学校4年生)

うめきの中から



以下、原稿になります。

1 失われた日常の中で

「いちじくの木に花は咲かず ぶどうの枝は実をつけず オリーブは収穫の期待を裏切り 田畑は食物を生ぜず 羊はおりから絶たれ 牛舎には牛がいなくなる。」

預言者ハバククは、これまで、ごく当たり前のように受けてきた自然の恵みが絶たれ、生きていくための糧が絶たれ、不安と絶望の淵に置かれた状況を嘆いています。

今日示されましたハバクク書は、普段、あまり礼拝で読まれる機会が少なく、馴染みがありませんが、実際のところ、ハバククがどのような預言者であったのか、いつの時代を生きた預言者であったのかということについても、あまり正確には知られておりません。おそらくは、紀元前7世紀の終わり頃、預言者エレミヤと同時代を生きた預言者であったろうと考えられています。ハバククがここで嘆いたような状況が、ユダ王国が北から迫るアッシリアに脅かされている只中での出来事であったのだとすれば、それは、神に信頼することを忘れたユダヤの民の不信仰に対する神の罰だと映ったかもしれませんが、ここで語られているのは、それとは異なる時代、異なる状況の中で起こったことかもしれません。
しかし、ハバククは、そうした状況を嘆く一方で、希望を失いません。「わたしは主によって喜び/わが救いの神のゆえに踊る」と歌うほどに、主なる神に対して絶対的な信頼を置いています。そのため、このハバククの言葉は、その後のユダヤの礼拝の中で信仰の書として、よく読まれていたようであります。

今日は、もう一箇所、ローマの信徒への手紙の8章が示されましたが、この手紙を書いたパウロも、このハバクク書の影響は強く受けていたようでありまして、ローマ書1章17節の「正しい者は信仰によって生きる」という有名な言葉は、ハバクク書2章4節から引用されたものであります。

さて、ハバククが嘆いた状況は、時代を超えて、私たちが生きる現在の状況にも通ずるように思われます。2011年3月11日の東日本大震災に伴って起きた福島の原発事故によって帰還困難区域とされた地域では、10年経った今も、除染の方針すら立っておらず、農地は、誰も手を入れることができないまま、荒廃の一途を辿っています。また、全世界的に被害が広がる新型コロナウイルスの拡大も、農作物の被害ではありませんが、これまでごく当たり前のように思っていた日常が失われてしまったという点では、ハバククの嘆きと相通ずるところがあるように思います。そして、この新型コロナウイルスの問題よりも、はるかに深刻な問題として私たちの前に立ちはだかるのが、地球温暖化による環境破壊の問題です。

今月の9日、国連の気候変動に関する政府間パネルIPCCが、地球温暖化に関する重大な調査結果を公表しました。それは、世界の気温が産業革命前の水準と比べて2040年までに1.5度上昇することが予測されるというものです。しかも、その気温上昇には人間活動が影響していることは疑う余地がないということが今回初めて公表されました。1.5度というと、大したことないという印象を持たれるかもしれませんが、気象や生態系の変化、そしてそれらが及ぼす人間生活への影響は計り知れません。例えば、最近、異常気象が増えてきていますが、世界の平均気温が1.5度上昇すると、熱波などの異常気象の発生率は8.6倍に増え、農業に被害を及ぼす干ばつの発生も2倍になると予測されています。

また、南極や北極の氷が解けて世界の海面が上昇し、沿岸部の水害発生の危険が増したり、太平洋上の島国の中には、国土全体が水没してしまうことも懸念されています。私たちの身近なところでは、丹沢山地の美しいブナ林が気温上昇によって生育出来なくなって、全滅してしまうと言われています。さらに、この気温上昇は、1.5度で止まることはなく、むしろある限界を超えると温暖化のスピードが一気に加速して、このままいくと今世紀の終わりには、世界の平均気温は、なんと4.4度も上昇してしまうだろうと予測されています。そうなると、人類はおろか、地球上の生物は全滅という日がやってくるかもしれません。もはや、私たち人類に希望はないのでしょうか。ハバククは、そのような状況を目の当たりにしても、神に信頼を寄せ、希望を語りましたが、私たちも、そのように希望をもつことが出来るのでしょうか。

2 うめきの中にある被造物

さて、このような現代の状況の中で、今日読まれましたローマ書8章18~25節は、わたしたちに特別のメッセージを伝えています。ローマ書は、パウロが書いた最後の手紙で、「救い」とは何か、信仰によって認められる「義」とは何かといったことについて論理正しく解き明かしたパウロの神学の集大成ともいうべき書簡です。そして8章、とりわけ今日読みました箇所は、将来現れるはずの主イエス・キリストの栄光と、それにより与えられる永遠の命を待ち望む希望に支えられて、現在の苦しみを忍耐して、それと闘って生きるキリスト者の生き方を示す、いわばローマ書の頂点とも言える箇所です。しかし、ここで、パウロは、突然、唐突に被造物の救済のことを語ります。これまで、長い教会の伝統の中では、人間の罪と、罪を負った人間の救いこそが重要な関心事であって、人間以外の被造物のことなどは、枝葉の問題として見過ごしてきましたけれども、先ほどお話してきたような今日の状況の中では、それは今までになく重要な意味合いをもって私たちに語りかけているように思えるのです。

それにしても、自然破壊などさほど問題となっていなかったであろう当時において、パウロは、何故、ここで被造物の救いについて語ったのでしょうか。「信仰によって義とされる」いわゆる信仰義認論を展開したパウロが、何故、ここで、信仰を告白する術を持たない人間以外の被造物の救済を問題にしているのでしょうか。「被造物が神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいる」というのは、どういうことなのでしょうか。「被造物が虚無に服している」、また、「同時に希望も持っている」、「滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる」とは、いったい、どういうことなのでしょうか。

それを読み解く鍵は、20節にあります。20節には「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり」とあります。これは、いったいどういう意味でしょうか。パウロがここで「被造物」という言葉を引き合いに出した時、念頭にあったのは、創世記3章に記されている人類最初の罪といわれるアダムが犯した罪のことであろうと思われます。最初の人間アダムとその妻エバが、蛇の誘惑によって、神の命令に背いて、食べてはいけないと言われていた「善悪の知識の木」の実を食べた。それは、彼らが、神に従うことをやめて、自分が主人になって、自分の思いによって生きていこうとした、ということです。その罪の結果、神は次のように裁きを告げられました。「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。」この言葉は、楽園から追放された人間に対しては、男は、生涯、荒れ野のようなこの世界で、顔に汗を流して働かなければ、食べるものを得られず、女は産みの苦しみを味わう者となり、共に最後は死んで土に還るものとされた、ということを告げるものです。しかし、それだけでなく、人間の罪の結果、土に代表されるこの世界の被造物全体が呪われ、人間と同じく死に支配されるものとなった、ということが語られています。パウロは、そのことを「被造物が虚無に服している」と言っているのです。そして、さらに「被造物はすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」と言います。

パウロは、コリントの信徒への手紙二の5章でも、キリスト者が、この地上において重荷を負ってもだえ苦しんでいることを、この「うめく」という言葉を使って表していますが、その「うめく」という言葉、それと「産みの苦しみを味わう」という言葉に「共に」という接頭辞をつけた言葉は、今日のこの箇所でしか用いられていない言葉です。ですから、この「共に」という言葉は、今日の箇所を読み解く重要な言葉です。そこには、二つの重要な意味が込められています。
一つは、被造物は、人間と共に、神の裁きを受けて、もだえ苦しむ存在にされているということです。もっと言えば、人間の犯した罪の連帯責任を負わされて苦しんでいるということです。人間の犯した罪とは、先ほども申しましたように、神に従うことをやめて、自分が主人になって、自分の思いによって生きていこうとした、ということです。

もっと具体的に言うと、こういうことです。この世界は、神様がお造りになった被造物であって、神様のものです。人間も、その被造物の一部であるわけですが、ただ、他の被造物と違う点は、人間は、神様のものであるこの地上の世界を、神様の御心に従って管理し、守る者として、神様ご自身のお姿に似せて造られ、そして、そのための権限を与えられた存在であるということです。それは、創世記1章28節に「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這う生き物をすべて支配せよ。」という神様のお言葉が記されているとおりです。ところが、人間は、神様のこの言葉を自分たちの都合のよいように解釈して、自らの欲望に任せて被造物を搾取してきたのです。神様をないがしろにして、自分たちがこの世界の王であり所有者であるかのようにふるまってきたのです。神様との関係を断ち切り、他の被造物とも、本来あるべき関係を見失いました。これこそ罪です。私たちは、現実に、自然環境が悶え苦しんでいる姿を目の当たりにして、人間の身勝手な振舞い、人間の罪の結果を思い知らされているわけですが、パウロは、そのことを聖書に記されている神の言葉によって、被造物全体が虚無に支配された状態にあることを聞き取ったのです。

さて、「共に」という言葉の、もう一つの重要な意味でありますが、それは、人間と他の被造物とは、共に生きていくように造られた存在だということです。裏を返して言えば、人間は、人間だけでは生きていくことの出来ない存在だということです。人間だけではありません。それは、他の被造物すべてに言えることです。そのような関係性は、今日の科学では、生態系という言葉で言い表されています。人間以外の被造物が滅びる時は、人間が滅びる時です。逆に、人間が救われて永遠の命を得て生きていくためには、他の被造物が人間と共に救われて、人間と共に永遠に生きていくものとされることが必要なのです。何故なら、キリスト者に将来の救いを保証するために与えられている聖霊は、キリスト者の霊を肉体から分離することを求めないのと同様に、人間を他の被造物から分離することを求めていないからです。むしろ、人間を他の被造物との連帯の関係に招き入れるのです。それゆえ、被造物は、神の子たちが現れるのを、希望をもって、待ち望んでいるのです。神の子供たち、すなわち、イエス・キリストを信じ、キリストと結ばれ、霊の初穂を頂いているわたしたちキリスト者が、将来、体が贖われ、永遠の命を頂くとき、私たち以外のすべての被造物も、私たちと共に、神の子供たちとしての栄光に輝く自由に与れるのです。それは、神は、自らが創造された全地のすべての被造物を愛されており、その救済を望まれているということなのです。
神の救済の計画は、キリスト者だけに、また、人間だけに留まるのではなく、人間以外のすべての被造物にまで及ぶものであり、万物を罪の縄目から解放し、神の国を完成なさるのです。

3 キリスト者の使命と希望

では、私たち、今の時代を生きるキリスト者は、どのように生きることが求められているのでしょうか。私たちキリスト者は、将来の救いを保証する聖霊を与えられてはいますが、今は、しかし、肉の体を持ち、死の滅びが支配する世界にあって他の被造物とともにうめき苦しんでいる罪深い存在です。そして、この罪に陥っている私たちは、他の被造物に対して適切に振舞うことが出来なくなっています。他の被造物は、何も自然だけではありません。肉に支配された私たちは、他の人間、隣人に対しても適切に振舞うことが出来ない存在です。自分にとって益になる者、益になる時だけ愛し、利用価値がない者は無視し、切り捨ててしまう。そのように、隣人を選別し、切り捨て、傷付けてしまう存在です。そのことが、自然に対する振舞いにも表れているのです。しかし、そのような自己中心的な生き方を悔い改め、神の子とされて生きることが私たちキリスト者の望みです。悔い改めとは、ただ反省するということではなく、それまでの生き方を大きく方向転換することです。自分本位の生き方を捨て、神様と向き合い、隣人と共に生きるものとなることです。それは、自らの努力で出来ることではなく、ただ、神から与えられる聖霊の働きによって可能となるのです。
ですから、私たちは、苦しみに満ちた現実の中にあっても、神が私たちに与えてくださった聖霊の働きを求めつつ、神が共に生きるものとされた隣人のために祈り、すべての被造物と共に生き、苦しみを共にし、共に滅びから解放される希望をもって歩んでまいりましょう。



祈ります。
万物の造り主である父なる神様、御言葉の励ましに感謝します。私たちが生きているこの世界には、戦争や暴力、差別や搾取、貧困や病など、様々な悪が蔓延り、多くの人々が苦しみ悶えています。
そればかりではありません。私たちが暮らしの豊かさや快適さを追求する陰で、世界の至る所であらゆる被造物が呻き声をあげています。
主よ、どうか、そのような他者のうめきに鈍感な私たちを憐れんでください。
そして、自らを王とするような生き方を悔い改め、この世にあってうめいている者たちと共に生き、共にキリストの栄光のうちに招き入れられる日を待ち望む希望をもって歩む者としてください。
主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元気が出る言葉 第9回

2021-08-21 15:29:38 | コラム
 みなさん、こんにちは、大塚平安教会牧師の菊池丈博です。今日の人生これからメッセージは、旧約聖書 詩編104編19節の御言葉です。

 「主は月を造って季節を定められた。太陽は沈む時を知っている。あなたが闇を置かれると夜になり 森の獣は皆、忍び出てくる。」

 最近、コロナ禍の中で家に引きこもりがちになって過ごしていますが、先日は家内に、座間の知り合いの花屋に行きたいと言われて車を出しました。到着して、ご主人から真っ赤な袋を付けた「ホオズキ」の枝をいただきました。
 私はその時、改めて、今は夏の終わりに向かう季節だったと感じました。この8月、夏を過ごしてきましたが、コロナ禍の影響で夏の花火大会やお祭りといった声も聞かず、長雨の被害が各地で起こり、季節を感じるどころではなかったなぁって思わされました。

 その夜の夕食で、なぜか家族で河童の話になりました。河童は妖怪なのか神様に近いのか。息子が妖怪ではないか、だから捕まえようと主張したので、それはダメだよ河童は大切にしなきゃと私は返事しました。多分子どもの頃からの感性とか、思いからそう言ったのでしょう。

 河童の季節を考えると、やはり夏だと思います。きゅうりの季節ですから(笑)

 私達は、夏は夏、秋は秋と言った季節を感じながら過ごします。服装にも季節感が出ます。そんな私たちが感じている季節感と、聖書の御言葉が一致してくると、聖書はより身近に感じるのではないかって思いました。
 
 随分前ですが、スイスの教会の礼拝に出席しました。10月頃だったと思います。礼拝ではスイスの民謡でもあるヨーデルの聖歌隊が美しい歌声を響かせていたことを思います。ヨーデルはアルプス地方の民謡ですから、本来キリスト教と重なっているわけではないでしょう。でも、礼拝とヨーデルは良く似合うと思います。似合うように構築されてきたのでしょう。

 私は、日本の民謡と礼拝もきっとよく似合うと思います。聖歌隊が主なる神に向かって民謡でもって賛美する。そんな日が来た時、きっと、ずっと多くの方々が教会に集っているのではないかって思ったりしています。

 河童と聖書はなじむかどうか、分かりません。でも私達が感じる季節の中で、聖書を読み信仰が養えるとしたら、私たちはより一層の喜びを得られそうだと思うのです。色々なことを考えながら、将来は夢で一杯です。皆さん人生は、これからですよ~。

 ※ このメッセージはラジオトークで聞くことが出来ます。牧師が直接語りかけています。興味のある方は「ラジオトーク 人生これからメッセージ」で聞いてみてください。教会のHPからスキャンで入ると楽です。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

気前の良さををねたむのか

2021-08-15 16:09:28 | 礼拝説教
2021年8月15日(日)
大塚平安教会礼拝説教

聖書箇所 マタイによる福音書20章1~16節

説教題 「気前のよさをねたむのか」

説教 大矢真理牧師

気前の良さををねたむのか


以下 原稿になります。


 私は神学校へ入学する前に2つの会社に勤めました。旅行会社に10年間、生活協同組合が出資した会社で生鮮食品の仕分けをする会社に3年間勤めました。

 労働基準法第24条で「賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない」とあり、更に「賃金は、毎月一回以上、一定の期日を定めて支払わなければならない」と法律で決まっています。

 仕事の形態は大きく分けて、2種類に分類出来ると言えます。一つは正規雇用、非正規雇用の違いはありますが、一定の期間働いて、給料として決まった金額をもらう形態。もう一つはパートタイマーです。私は2つの会社とも正規雇用で働きましたが、給料体系は全く違いました。旅行会社では、旅行業務全般をしましたが、会社との契約は「営業職」で、歩合制でした。基本給が少ないので、営業成績が悪いと、給与が手取りで8万円ぐらいの時がありましたが、営業成績が良いと、手取りで60万円ぐらいの時がありました。
 年収にすると、営業成績が良かった時は、額面で600万円ぐらいでした。ただ、営業職には時間外、残業代がなかったです。添乗員で同行する時は、1日1500円から2000円の手当がつきました。旅行業界では、概ね朝8:00から夜8:00までが添乗業務となっていましたが、24時間、添乗員として拘束されているのが、実際の状況でした。

 一方、生活協同組合関係の仕事は、基本給がある程度決まっていて、朝8:00から夕方5:00までが就業時間で、夕方5:00以降は、時間の上限がありましたが、残業代がありました。仕事の内容は、生鮮食品の管理と、パートタイマーの労務管理です。
 パート、アルバイトの経験がある方は、ご存じだと思いますが、時給があり、働けば働くほど稼ぐことができるのが、パートタイマーと考えて良いでしょう。
 会社によって、パートタイマーの規則がありますが、パートタイマーは、正規雇用、非正規雇用をとは違い、極論で言えば、決まった日に出勤する義務がなく、働きたい時に、働きたい時間を働けば良い雇用形態です。
正規雇用、非正規雇用、パートタイマーの働き方については、特に正規、非正規で同じ仕事をしているのに、給与が違ったり、福利厚生で差があったりと問題になっていることはありますが、雇用形態の違いがあっても言えることは、多くの時間を働いた人が、その対価としてそれに応じた給与をもらえる。
 
 営業職の場合は、営業成績が良ければ、それに見合った給与がもらえる。営業職がそれなりの給与を得るためには、多くの時間を費やす場合がほとんどだと言えます。

 今日の聖書箇所の見出しには「ぶどう園の労働者」とたとえとあります。

 当時のユダヤ地方の労働時間は、今で言えば、朝の6:00から夕方の6時までと言われています。労働条件は2節にあるように、「1日1デナリオン」です。現在の給与形態で言えば、1日いくらの日雇い仕事があてはまります。

 1デナリオンが今の価値でどれくらいなのか?具体的な金額は不明ですが、当時のユダヤを占領していたローマ帝国の兵隊の給料が「1日1デナリオン」で、ユダヤの人々が1デナリオンあれば、何とか家族が一日生活出来る金額だったと言われています。

 主人が最初に送った労働者は、具体的な時間が聖書には記述がありませんが、当時の風習を考えると、午前6:00から夕方6:00までの12時間労働です。3節には主人が9:00頃に広場に行って、広場にいる人たちに、20:4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言っています。

 この時の人たちは9時間労働ですが、主人はふさわしい賃金を払ってやろうと言って、具体的にいくらかを言っていません。更に主人は12:00と午後3:00にも出かけ20:5同じようにしました。労働者とのやり取りはないですが、同じようにしたとあるので、20:4 『ふさわしい賃金を払ってやろう』と言われたのでしょう。6時間、3時間労働です。

 主人は間もなく1日の仕事が終わる午後5時にも、誰からも雇われなかった人たちにがいるのを見て、20:7『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。1時間労働です。20:4 『ふさわしい賃金を払ってやろう』とも主人からは言われていません。

 この日の労働時間が終了後、20:8ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言いました。最後に来て、1時間だけ働いた人たちに、1デナリオンが支払われました。

 この時、1デナリオンを貰った人たちにすれば、寝耳に水の思いだったでしょう。午後3:00、午後12:00、午前9:00から働いた人たちの反応は聖書にはありませんが、寝耳に水に感じた人たちも、午後5時から働いた人と同じ日給なのは、ちょっと納得できないけど、まあ、1デナリオンもらえたから良しとするか。そのような思いだったのではと想像します。

 最後に朝6:00から働いた人たちが日給を貰う時が来ました。

 20:10最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。20:11それで、受け取ると、主人に不平を言った。20:12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。
まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』

 私が神学校に入学する前に働いていた2つ会社、給与形態を話しましたが、世の中の報酬は、多くの会社が、多くの時間を働いた人が、その対価としてそれに応じた給与をもらえると言いました。

 しかし、今日の聖書箇所は、労働時間に対する報酬と言う点から見ると、世の中で常識と考えられている事に対して反対の事が書かれています。今日の説教題は15節の聖書箇所から「気前のよさをねたむのか」にしましたが、副題をつけるなら、人間の常識は神の非常識、神の常識は人間の非常識です。本当はこちらを説教題にしたかったです。

 1デナリオンが現在の貨幣価値で具体的にいくらぐらいかは不明、と言いましたが、仮に朝6:00からぶどう園で働いた人たちの日給が1万円と主人と契約したとします。9:00、午後12:00、午後3:00、それぞれの時間から働いた人たちの20:4 『ふさわしい賃金』が、主人にとっては1万円ということになります。

 1時間しか働かなかった人々の20:4 『ふさわしい賃金』も、主人にとっては1万円と言うことになります。午後5:00に来た人達が1万円を貰った。皆さんが朝6:00から働いた人だと考えて下さい。午後5:00に来た人達が1万円貰うのを見てどう感じるでしょう?

 これは、1デナリオンにイロを付けて、主人は給与を貰えるだろうと思う方が多いのではないでしょうか。しかし、もっと貰えるだろうと思っていた人たちに支払われた賃金は1デナリオンだったのです。

 朝6:00から働いた人たちは、主人に不平を言いました。1時間しか働かなかった人たちと、丸1日暑い中を辛抱して働いた私たちと同じ扱いにするとは。世の中の常識で考えれば夜明けから働いていた人々が言った不平、1時間しか働かなかった人の賃金が1日働いた人と同じである事は確かに不公平である。夜明けから働いた人の言い分は労働時間に対して賃金を決めるのが公平だということです。

 しかし、主人は言います。20:13『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。』

 イエス・キリストは天の国のたとえ話でぶどう園で働く労働者を雇った主人のことを話します。ぶどう園の主人は神様です。神様は1時間しか働かなかった人に対して、1デナリオンを支払った慈しみ、神様の愛が実践される所が天の国である。6:00から働いた人の労働時間が賃金の基準であると考え、神様の慈しみ、愛を忘れて物事を考えてしまう事が無いであろうか。

 ぶどう園の主人、神様は目に見えるもの、今日の聖書箇所の例で、労働時間を基準とせずに慈しみ、愛を基準に平等に1デナリオンの賃金を働いた労働者全てに支払いました。

 ぶどう園の主人、つまり神様はご自身のものを自由にする権利を言われます。そして更に言われています。「わたしの気前のよさをねたむのか。」イエス・キリストは救いへと導くことに、何か条件があったでしょうか。

 条件無しに、慈しみ、愛によって私達を救いへと導いて下さったのではないでしょうか。

 アメリカのD.R.A.ヘアという神学者は次のように書いた本で言っています。「全ての人々が、事実上自分達は5時頃に雇われた労働者の様なものである、と謙虚に認めなければならない。」私たちは不平を言われても仕方がない立場、赦される立場でないにも拘らず、イエス・キリストの十字架により一方的に救って頂き罪赦された、午後5:00に雇われた労働者ではないのでしょうか。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

助けはどこから来るのか

2021-08-09 10:21:57 | 礼拝説教
2021年8月8日(日)
大塚平安教会主日礼拝

聖書箇所 詩編121編1~8節 ヨハネによる福音書15章16~17節

助けはどこから来るのか 菊池丈博牧師



以下原稿です。
詩編121編1~8節
ヨハネによる福音書15章16~17節
「助けはどこから来るのか」

 先週詩編120編を読み、今週は121編となりました。120編に続きまして、121編もタイトルが「都に上る歌」とあります。イスラエルの何か特別な祭の折であったかもしれません。エルサレムの神の神殿を目指して、人々が巡礼の旅をする、そういう習慣があったものと思われます。
 神の神殿を目指して旅をスタートする、一人でというより、恐らく数人での旅であったと思います。数人で行きますと、困った時に互いに助け合い、支え合うことが出来ますから、心強い思いがするでしょう。共にこれから進む道を見つめつつ、目を上にあげると、遥か向こうに大きな山々が聳え立っている。
 
 あの山の向こうには目指す所のエルサレムがあるなと思いながら、どうぞ神様、この巡礼の旅をお守りください、あなたこそがわたしの助け、遥かに広い空も、あの高い山も造られたのは主なる神、あなたこそが私の助けと祈るのが1節、2節。3節からは、恐らく一緒の仲間に対して、神様、どうぞ仲間の一人ひとりを見守って下さい、支えてください、と祈り願っている、というスタイルで記されています。祈りの中で、心を整えて巡礼の旅をスタートしたと思われます。

 我が家で一緒に住んでいる長男が大学生の時に、スペインのサンチャゴ巡礼の旅をしました。大学2年の終わりの春、3年の終わりの春と2年かけて、数百キロを歩きました。良い体験をしたと思いますが、写真家としても知られる桃井和馬先生が責任者として、学生と一緒に歩き続けられました。フランス側からスペインに向かってスタートするわけですが、国境沿いにピレネー山脈があります。
 山登りではありませんので出来るだけ低いところを通るようですが、大分大変だった、寒くて死にそうになったとも聞きました。スタートしてすぐが、凄く大変だったとも聞きました。
 でも、もっと大変だったことがあって、仲間との関係だったそうです。

 巡礼の旅と聞きますと、どこかロマンがあると思ったりもしますが、実際はひたすら歩くだけですし、毎日の目的地は、30キロ先、時には40キロ先の町の宿で、一日かけてそこまでたどり着かなければなりません。ラグビーをやって屈強の強さを持っていた友が泣き言を言ったり、次々と風邪を引いたり、体調を崩したりしたそうです。更に朝は一緒にスタートしますけれど、長い道のりを一緒に歩くわけでもありません。自分のペースを守りながら、自分の速さで進んでいく訳ですから、スタートは一緒でも、結局は一人ひとりの距離が遠く離れてしまうそうです。
 そうなると、最初は互いに助け合おう、支え合おうと思いながら始まったとしても、皆が、自分のことで精一杯となって、楽しいおつきあいどころではなくなり、どんどん互いの仲が悪くなるのだそうです。
 
 それが一番辛いことであったと聞きました。桃井先生も心配して、宿に着いた後に、グループを半分半分にして、二グループに分けて、夕食作りコンテストをしたそうです。二つのグループが相談して、料理を作って、出来た食事を一緒に宿泊している他の巡礼のグループに試食してもらい、どっちが美味しいかを決めて、楽しんだりしたそうです。一緒に食事を作るには協力しあわなければなりませんし、会話もしなければなりません。そうやって仲間意識を高め合う、でも、苦肉の策であったとも聞きました。

 一緒に旅をする。言葉だけ聞くと何かロマンがあるなと思いますけれど、車や電車に乗るわけでもなく、ガイドさんがいるわけでもなく、駅弁があるわけでもなく、毎日自分の重い荷物をしょって、歩くだけですから、現実は大分辛かったろうと思います。ましてや、聖書の時代、巡礼の旅に出る、その旅の先々で、何が起こるか予想もつかない、具合が悪くなっても薬があるわけでもなく、時には野宿であったかもしれません。毎日が危険と隣り合わせという感覚ではなかったでしょうか。
そのような状況にあって、目を上げて、山々を仰ぎ、神様、天と地を造られた創造主なる主なる神よ、どうぞ、この私を助けてくださいと祈る祈りは、どんなにか真剣であり、必死であったかと思うのです。

 この詩編121編において、特徴的なのは、「見守る」という言葉が6回記されています。昼も夜も見守って下さい。災いを遠ざけ、魂を支えてくださいと祈っています。5節に「主はあなたを見守る方」とあります。英語で読みますと「Keeper」とありました。今日で、オリンピックも最終日ですが、私はサッカーのゴールキーパーを思いました。ボールが入らないように、最後の砦としてのキーパー、チーム全体としても要であり、守りの中心です。そのようにして私の人生を支え、守ってくださいと願っているのだと思います。

 巡礼の旅は、私達の人生の歩みに似ているとも言われます。私達が子どもの頃のキーパーは、何といっても自分の両親です。父親がいて、母親がいて、二人がいて、どんな時も自分を守り、支えていている。それはあまりのも当たり前のことであって、子どもは親に対する疑いを持つことさえありません。親に対する100%の信頼を持って、子どもは成長する、それこそ健やかな成長へと導かれる大切なところでしょう。
けれど、確かな成長をしつつ、いよいよ社会に出ることになる、社会、この世は、自分の人生を見守ってくれるわけではありません。むしろ、社会は人生の荒波であり、時には壁であり、時には敵でもあります。昔のことわざに「男は敷居を跨げば七人の敵あり」とあります。「女三界に家無し」という言葉もあるようですが、どちらにしても、人の世は、安心して過ごせる場所は無いという意味のようです。
ですから、男も女も互いに安心して過ごせる場所として、互いが互いを求め、互いが助け合う存在としての一人がいないかと求めるのでしょう。出会いがあり、互いが互いのkeeperとなれるような家庭を築いていこうとするのではないでしょうか。

 結婚、家庭、ここにこそ最も自分が安心できる場所がある、はずだと思って結婚するわけですが、家庭はいつの間にか、この世よりも大変な修羅場となる場合もあると(笑)幼稚園の「聖書に親しむ会」に集まって下さる方々の話を聞いていると思う時もあります。(笑)

 勿論、修羅場ではない家庭のほうがずっと多いと思いわけですけれど、それでもいつの間にか自分も年を重ね、連れ合いも同じように年を重ね、健康面においても、生活においても、互いが互いのkeeperとなりきれない状況になることもありますし、思いがけない状況はいつでもやってくるのです。
 
今、私たちはコロナ禍の中にあって、自分達が思う通りに動かないとは、まさにこのような状況だと誰もが思っています。総理大臣を始め、政府の責任ある立場のある方々はどんなにかそう思っていることでしょう。何をやっても、責められ批判されてしまう、こんなはずではなかったと思っていることでしょう。けれど何があるとしても、最終的には、また、究極的には 誰であろうと、人は人を守り切れることは無いのだと思います。誰もが守ってあげたい、愛してあげたいと思うとしても、守り切れるものではない。人としての限界があると思わされます。

 わたしの助けはどこから来るのか、人生という巡礼の旅に生きる私達の本当の助け主は、天地を造られた主なる神、主イエス・キリストにこそある。それこそが聖書が一貫して伝えようとしている神の福音の正体であろうと思います。
主イエスは、神の子でありながら、人となられ、人となられただけでなく、弟子達に対して、そして、わたしたちに対して「わたしがあなたがたを選んだ」と告げてくださいました。わたしたちの人生の子どもの時も、社会に出た後も、結婚しても、病気の時も、苦悩の時も、絶望しそうになっても、尚、私があなたを選んだ、だから、いつも見守って下さる方としてこの方がおられるのです。

 この方こそが私たちの助け主です。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」と主イエスは話してくださいました。この方にこそつながって生きていきましょう。この方につながって、隣人と共に生きていきましょう。この方につながって、そして互いに励まし合って、力付け合って過ごして参りましょう。この8月、緊急事態宣言の中にあっても、尚、希望をもって過ごして参りましょう。
お祈りします。



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする