日本キリスト教団 大塚平安教会 

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信じる生き方

2021-06-27 15:33:06 | 礼拝説教
信じる生き方

※ ビデオのラスト30秒ほどが切れています。文字でご確認ください。

【詩編116編1~11節】
【コリントの信徒への手紙二 12章7~10節】

 今日の説教題を詩編116編10節の御言葉から「信じる生き方」としました。神を信じる者の生き方があると私は思います。特にそれは、人生の後半に大きく変わってくると思います。
昨日の土曜日、の午前中、壮年会の方々が教会に来て掃除をして、今日の備えをして下さいました。掃除の後、お茶をしたのですが、口々に自分達は年を取ったという話をしておられた。「耳が遠くなった」とか「同じ姿勢だと腰が動かなくなる」とか、「もはや、壮年会ではない」とか色々言っておられました。でもね、そんな会話を皆さんが笑顔で、笑いながらしておられるのです。私はその笑顔を見ながら「信じる者の生き方」があると思わされました。

 世の中はコロナ禍が続き、パンデミックが続いています。日本だけでなく、世界中に様々な分断やひずみが生まれています。経済活動も弱まり、昨年は子どもの出生数も過去最低とありました。先日、私が関わっている町田の保育園で理事会がありましたが、今は、待機児童ゼロだと聞きました。

 待機児童ゼロが示していることは、幼稚園、保育園のどの園も、定員を満たしていないと意味だそうです。私達の教会も、ドレーパー記念幼稚園がありまして、佐竹和平園長をはじめとして、励んでおられますけれど、どうぞ、覚えてお祈り下さい。
 
 そのような厳しい状況ですが、私達の国では、50年連続上昇している数字がありまして、それが何かというと、100歳以上の方の人数です。 昨年9月に、100歳以上の方が8万人を超えたとありました。綾瀬市の人口が8万3千人ですから、綾瀬市と大体同じ位の方が100歳を超えています。

 人生100年と言われる時代になりました。先ほど人生の後半と申し上げましたが、人生は60歳が分岐点だそうです。20歳から60歳までの40年と、60歳から100歳までの40年があるというのです。ですから60歳が丁度折り返し地点となります。そう聞きますと、私は、今、人生の後半40年の最初の一年を生きているわけで、いよいよ人生これからだと思うのですが、前半の40年と後半の40年の違いは何かというと、20歳から60歳までの40年、この時代の方々は、いわば右肩上がりということでしょう。

 二十歳前後で学校を卒業し、就職、仕事を始め、更にパートナーが与えられて、家庭を築く。体も元気ですし、多少の失敗があっても、年齢でカバーできますし、やり直すことも出来ます。
 それぞれに夢があって、地面に夢の種を植えるわけですよ。20代、30代の方々は、自分はどう生きていこうかと考えながら、自分の「夢」という種を埋めるのです。その「夢」が芽を出して、「希望となり」葉が出て、成長していく、上手に成長させるが、30代、40代、成長した夢は確かな幹となり、枝を大きく伸ばし、そして花を咲かせる。更に花が実となり、実を結ばせるのが、40代、50代、そんな風に考えることも出来るでしょう。右肩上がりの人生ですから、実を結ぶまでを一生懸命に生きていけます。

 となると、その「希望」の実りをどう生かするのか、という課題が与えられるのが後半の40年かもしれません。その実り、リンゴならリンゴだとすると、一個の実り、けれどその中に種があるわけで、その種を数えるとすれば数えることは出来るでしょう。でも、種を地面に植えて、芽を出し、成長しリンゴとなると考えれば、もはや無限です。
 後半の40年がなすべきことは、そのようにして無限の世界、数えきれない世界、目に見えない世界、もっと言えば、「夢」が「希望」となり、「希望」が結実して「信仰」の世界をどう生きるのかが問われているだと思います。

 20歳からの40年の人生で成長させる希望は、多くの場合、世の目に見えるものです。人によってそれは財産、富かもしれませんし、社会的地位かもしれません。そして、それは多くの場合、人間の知恵や努力によって結実して、その結実こそ幸いだと自分も人も思うでありましょう。人の目から見るとどうしてもそう思うのです。

 でも、それらの世の富はいつか消えて無くなりますし、神の目から見たら果たしてどうでしょうか。

 ある牧師が旧約聖書に登場するダビデ王について記しました。「一人の牧童から一国の王となったダビデの最大の業績は王国の建設にあったと当時の人は思っただろう。しかし神の目から見ると、彼の業績は別のところにあった。」

 ダビデは、イスラエルの歴史から見ても、誰よりも多くの領土を広げ、誰よりも富を築き、国民から愛されました。後の時代に至るまで、ダビデの末から救い主が誕生するとさえ言われる程の人になりました。でも、ダビデの最も優れた、そしてかけがえのない業績は、何かというと、「詩編」だというのです。

 聖書に150ある詩編の中で、ダビデの詩編と呼ばれる詩編、ダビデと関係すると考えられる詩編は半分近くの73の詩編がそうだと言われます。

 これまで礼拝において長く詩編を読み進めて参りましたが、ダビデの詩編の特徴の一つは、ダビデが王になる前に、サウル王に妬まれ、嫉妬され、命を狙われ、逃亡生活を強いられて、苦悩の中で神に叫び、神に祈り、神を願い求めた心の叫び、それが詩編となっているということです。

 ダビデが一代で築いた富、優れた王国、地位、それらすべては滅びましたが、ダビデが残した「詩編」は今も、人々の心を捉え、世界中の信仰者を励まし、力付け続けている。皆さん、「希望」が「信仰」になる瞬間、それは見えるものを越えて、見えないもがいつまでも残る時なのかもしれません。

 今日は詩編116編を読みました。この詩編はダビデの詩編ではありませんが、詩編の前半で、詩編の作者は神に必死に祈り続けています。病気であったのか、敵との戦いの中だったのか、詳細はわかりません。でも3節には「死の綱がわたしにからみつき」、とあり、「陰府の脅威にさらされ 苦しみと嘆きを前にして」とあります。4節には「どうか主よ、わたしの魂をお救いください」と記されています。苦しみの様子がわかります。けれど8節になりますと「あなたはわたしの魂を死から わたしの目を涙から わたしの足を突き落とそうとする者から助け出してくださった。とありますから、命の危機から逃れ、健康を取り戻したか、敵から逃れられたのでしょう。喜びを込めて10節で「わたしは信じる「激しい苦しみに襲われている」と言うときも 不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも」と続きます。

 年を重ねる、長く生きていますと、詩編の作者が記しているように、壮年会に限るわけでもありませんが、激しい苦しみに襲われたり、不安がつのったり、する時があるものです。皆が元気に年を取りたいと願いつつも、いつまでも若い頃のように動けるわけではありません。人生の後半70歳、80歳、90歳と次第に思うように動かなくなる箇所も増え、思うように機能しない箇所も増えていくのです。

 人生の前半の40年が、手に入れる、集める、増やす生き方だとすれば、人生後半の40年は手放す、失う、減らす生き方だと言えるでしょう。でも、手放し、失い、減らす中にあって、本当に大切なものだけが残り続けるのではないでしょうか。健康を失うとしても、大切な何かを手放すとしても、体力を失としても、尚、残り続けるものがある。何が残るのか、「信仰」こそが残る、とも言えますが、死信仰、希望、愛、この三つはいつまでも残る、しかし、その中で最も大いなるものは愛だとあるように、「神の愛」が残るのでしょう。神様の愛は、減るどころか、年々増えて、私達の人生を益々幸いへと導いて下さる神の力、神の印であろうと思います。

 先ほど、コリントの信徒への手紙を読みました。使徒パウロが神様に祈ったようすが記されています。一つのとげが与えられ、何度も祈ったとあります。 

 けれど、主は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」と言われたというのです。
 主なる神の愛、主イエスが教えて下さる愛の形は、今、あなたにとってそれは十分だという「恵み」だと思います。時として神様、私はこんなに辛い思いをしているのに、神様、こんなに激しい苦しみに襲われていますと、思うことがあります。年を重ねれば、重ねる程にその回数が増すかもしれません。右手が痛いと思っていたら、左手も痛くなる。左足が動かないと思っていたら右足も動かなくなる、でも、そこでこそ信じる者の生き方がある、それは私の恵はあなたにとって十分だと告げられる神の御言葉です。

 人の思いから見れば失うものばかり、でも、尚、神様は私を忘れておられず、神の愛の中に招き、神の愛を生きる者として下さっている、この状況でも、尚神の愛が確かに与えられていると信じて生きていける。年を重ねれば重ねる程に、笑顔が絶えず、祝福に生きられる生き方があるに違いないと私は思います。

 そのようにして、私たちは、主に愛されて、主を愛し、主に祝福されて、隣人を祝福し、神の恵みをしっかりと受け止めて、今週も過ごして参りましょう。

お祈りします。
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何を土台とするのか

2021-06-26 15:23:35 | コラム
「そこで、わたしの言葉を聞いて行う物は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」【マタイによる福音書7章24~25節】

 人生は何を土台とするかで決まります。

 私は高校を出てすぐ仕事に就きました。家が貧しく進学を考える余地はありませんでした。心の中は「親の為に自分が仕事をしなければ」という思いでした。親を土台として生きていこうとしました。

 でも、長くは続きませんでした。その後、考えを変えて、やっぱり自分が喜ぶように生きたいと考え直しました。でもそれも長く続きませんでした。自分を土台とすると、実力がありませんから、社会の色々な壁にぶつかり、そこから進めなくなるのです。

 上手くいかないと、社会を恨み、人のせいにして卑屈になります。
 
 その後、聖書を読み、親でも自分でもなく、神様を土台する生き方を学ぶことになります。神様を土台にして生きていこうと決心した途端に、自分の周りの全てのものがグルグルと動き出しました。全てのものが与えられたと思います。驚きました。自分が考えていた自分の未来像の何倍も素晴らしい人生を歩んでいるように今も感じています。

 今の時代、多くの人は何を土台として生きているのでしょうか。学歴を土台にしている人、財産を土台にしている人、社会的地位を土台にしている人がいることでしょう。でも、神様以外の何かを土台としないことです。その土台に振り回されて、自分を見失ってしまうかもしれません。

 自分の人生が、何か上手くいかない!と思っている人がいたら、自分は何を土台としているのかを確認してみることをお勧めします。
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大きな人も小さな人も

2021-06-20 15:47:41 | 礼拝説教
【詩編115編12~18節】

 先週、教会である方と話をしていました時に、当然のように、コロナ禍の話になりまして、これから先どうなっていくのか、心配ですねと話す中で、その方がふいに、1月、2月、3月と神奈川県に緊急事態宣言が出されていた時のビデオ礼拝が良かったという話しをして下さいました。
 何が良かったかというと、最初に家内が讃美歌を賛美して、それから牧師が説教する。夫婦で一緒にしているのが良かったというのです。
なるほど、そういう風に考える人もいるんだと思って聞いていました。出来れば、コロナが治まって二度とすることが無いように、とは願いますが、それとは別にしても、これからの時代を考えますと、ネット配信という形の礼拝を、考えていかなければならないとは思います。

 ビデオ礼拝の準備していました時のことですが、家内が賛美する様子を私が撮影するわけです。1回目は練習のようにして、それからテイク2,テイク3と、何回か録画して見る、私の耳は音楽にあまり向いてないようで、聞いていると、一回目も、二回目も、三回目もあまり変わらないように聞こえてくるものですから、一回目ので、良いじゃないと言っても本人は納得しないわけです。ですから二回、三回と撮り直してOKとなるわけで、次に私の説教を家内が撮影する番になります。
 説教し終わると、私ももう少し工夫してこうすればとか、あ~すればと、思うわけですから、二回目どうかなと聞きますと、とんでもない! 長いし、二回目も変わらないわよ(笑)そう言われるものですから、いつも一回目のものを流しておりました。

 何を申し上げたいのかと言いますと、私たちは何が気になるかと言うと、何よりも「自分」が気になるということです。教会でも幼稚園でも、時々全体写真を撮りますが、出来上がって来た写真を見て、何よりもまず自分がどう映っているか、それが気になるわけです。自分の顔より、隣の人の方が気になる、という方はいません。私たちは自分がとても気になるし、気になるだけでなく、自分がどう映っているか、人からどう見られているか、とても気にするものではないでしょうか。

 幼稚園のお子さんに、寝る前に絵本を読んでいるお母さんがおられました。その家に、同い年の姪っ子が遊びに来ていたそうです。それで夜になって、今日は二人に絵本を読んであげましょうと二人を集めて、絵本を読んだそうです。読んでいるうちになんだか、姪っ子が落ち着かないでワサワサしているのが気になりながら読み終わりました。
 そしたら姪っ子が言ったそうです。「おばちゃん、今度は私の為に読んで」
 
 今読んでいるのは、自分のためではないと思っていたのでしょう。ですから次は自分のためにと思ったのでしょう。そのように、子供だけではなく、年齢に関係なく、私たちは、誰よりも自分の為に、何よりも自分の方に向いて欲しいと願いながら生きているのではないでしょうか。

 イエス様が100匹の羊の譬を話されました。「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。」
 良く知られているたとえ話ですが、この話をどう読むのか、多様な読み方があると思いますけれど、もし、迷いでた一匹が自分だったとすればどうでしょうか。必死になって泣き声をあげるのではないですか。見つけてくれ、見つけてくれ、自分はここにいるよ、自分を見てくれ、だから、私たちは、自分が呼び求める声、見つけてくれと願う声を聞いて、必ず捜し出してくれる方が必要なのだと思います。必ず見つけてくれる方がいる。それがどれほど私達に平安をもたらしているでありましょうか。

 今日は詩編115編を読みました。12節から読みましたが、もう一度12節、13節を読みますとこう記されています。「主よ、わたしたちを御心に留め 祝福してください。イスラエルの家を祝福し、アロンの家を祝福しください。主を畏れる人を祝福し、大きな人も小さな人も祝福してください。」

 この箇所は読んですぐ分かりますように、神に祝福を求める箇所です。「わたしたち」とはイスラエル全体です。イスラエルの家、アロンの家、イスラエル全体です。特に「大きな人も小さな人も祝福してください」とあります。
具体的には、老若男女、富んでいる者も、貧しい者も、大人も、子供も、社会的な立場の違いや、様々な違いを乗り越えて、大きな人も小さな人も祝福してくださいと願っている訳です。

 ある牧師は、ここに聖書が示す神の価値観と、私達人間が思う価値観の違いがあると説明しました。私達人間の価値観は、「比べる価値観」だと説明しています。私たちは意識する、しないに関らず、人と比べます。大きいのか、小さいのか、早いのか、遅いのか、上なのか、下なのか、自分より下だなと思うと、ホッとするけれど、自分より上だと思うとシッとする。ホットしても、シットしても比べてしまうからそう思うのです。

 人と比べて、比べながら思い悩むところもあります。明日の事で何を食べようかと思い悩み、昨日のことは引き摺りながら、あの人の言葉に惑わされ、この人の言葉に左右され、そして思い悩むのです。
なぜ思い悩むか、自分の心の中に自分の物差しがあって、自分の物差し、自分の秤、そんな物が自分の内にあるとは到底信じられないと思う程に、自分によく馴染んでいる物差し、秤があって、その物差しで人を計りはじめると、なんと世の中は、変わった人ばかり、気になる人ばかりだと思うのです。そして、自分の目の中の梁には気づかず、あの人の目の中の塵を取ってあげなければそう思う人が多いのではないでしょうか。

 聖書が示す価値観は「大きな人も小さな人も」です。人が見て、大きすぎるとか、小さすぎるという判断と違い、「大きな人も小さな人も」どんな人も、そしてどんなことも、「全ての物が相働きて、万事が益」となり、あるいは、イザヤ書43章には「わたしの目にはあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し」ていると記されてあります。神様が示して下さる物差しは、こういうことでしょう。

 主イエスは「わたしはまことのぶどうの木」と話して下さいました。私につながっていなさいと話して下さいました。私たちは生きていると、色々な経験をします。その経験は必ずしも、喜ばしいものではなく、時には辛い、時には恐れ、時には苦しい経験もあります。でも、その経験の一つ一つがそうだな、このことがあってまた一つ宝物が増えたなと、思えるためには、まことのぶどうの木である主イエスとつながることです。つながり続けることですよ。
私たちは横を見てホットしたりシットしたりしないで、前を向いて、神を見上げて生きていきましょう。

 昔、山と山との間に、深い谷があるような所に、どうやって橋を架けていったかというと、最初は紐をつけて凧を飛ばすのだそうです。凧が向こう側に付いたら、向こう側でも紐をつけて飛ばす、それを何回か繰り返すうちに、いつのまにか、細い紐がロープとなり、ついにはロープに滑車を付けて、滑車に荷物を入れて、互いにやり取りしながら、ついには人が通れるほどの強固なつり橋が出来上がるのだそうです。
 
 私達の信仰生活もそのようなものではないでしょうか。最初は一本の紐のように、弱く、プツンと切れてしまいそうなものかもしれません。でも、たとえ、切れるとしても、また結び付ければ良いではありませんか。また結び付けて、そして、少しずつ、強く、確かな信仰、神我と共にいます、という確信、喜びを得ていくのだと思います。

 私たちは「大きな人も小さな人も」祝福してくださる方と出会いました。この方と出会って今こうして礼拝を守っています。この世は、ワクチン接種が進んでいますけれど、未だ新型コロナウィルスの感染不安は払拭されず、毎日が不安と戦きの中で私達は過ごしています。コロナの影響は、私達の生活にも直接的な影響を及ぼしています。不安は怒りとなり、怒りは争いを呼び起こすのです。
でも、皆さん、そのような世の流れに乗ることなく、私たちは「大きな人も小さな人も、」そして、どのような事をも、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生んで、私達の宝となることを忘れないで生きていきましょう。
昨日でも明日でもなく、今日一日という日を、主の祝福の内に、喜びを持って過ごして参りましょう。

 お祈りします。
 
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岩を水に変える方

2021-06-13 12:14:55 | 礼拝説教
【詩編114編1~8節】
【ヨハネによる福音書4章7~15節】

 今日読みました詩編114編は、先週読みました詩編113編と共に、出エジプト記に記されるイスラエルの民の出エジプトの出来事が記されている詩編です。113編は主の過ごしの出来事に触れ、114編は出エジプト直後の民の様子について記されています。
 
 イスラエルの民は、430年に亘り言葉の違うエジプト人と共に住み、しかし、ついには奴隷とされてしまいます。その労働の故に助け求める彼らの叫びを聞いた神がモーセを指導者として立て、出エジプトの出来事は起こりました。モーセはエジプトのファラオのもとへ行き、自分達を解放するように何度も掛け合います。けれど、なんとしてもエジプトを出て行くのは許さないファラオでしたが、主の過越しの出来事によってファラオに勝利し、イスラエルの民、男性だけで60万人といわれる人々がエジプトを出て行くことになります。この出来事はイスラエル民族にとって、決して忘れられない特別な出来事であり、神我らと共におられると感じられる、喜びの出来事でありました。

 先週の水曜日に行われる祈祷会では出エジプト記の13章を読みました。そこにはこう記されていました。「昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することが出来た。」イスラエルは神の印として示された雲の柱、火の柱によって荒れ野を進みました。
 
 雲の柱、火の柱は人々を力付け、喜びに満たし、安心を与えたことには間違いありません。けれど、安心が与えられた所で、イスラエルの民は荒れ野の旅に不満がありました。

 雲の柱、火の柱は安全に、あるいは、近道をして約束の地、カナンに向かったわけではありません。柱が向かった先は荒れ野でありました。

 その為、どうなったのか、イスラエルの脱出を許したファラオは、直ぐに心が変わり、後悔し、彼らを連れ戻すために軍勢を率いてイスラエルを追いかけます。「エジプトの戦車の全てを動員し」とありますから、エジプト全軍でもって追いかけたのでしょう。彼らはイスラエルの民の姿を捉えました。

 驚いたのはイスラエルの人々です。荒れ野に導かれ、行き詰まり、前には葦の海、後ろにはエジプト軍、もはや絶体絶命です。人々はモーセに訴えかけます。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓が無いからですか。荒れ野で死なせるためですか、一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。」「我々は荒れ野で死ぬよりはエジプトに仕える方がましです」とまで言い出す始末です。

 モーセは人々を落ち着かせ、海に向かって自分の手にある杖を上にあげると、海が二つに分かれて、人々は別れた道を進むことが出来ました。彼らとエジプト軍との間には雲の柱が立ち、イスラエルを守った様子も記されています。
エジプト軍との危機を逃れた彼らは、今度こそ安心して進みだしたのかというと、荒れ野の中を進む彼らは、今度は「お腹が空いた」と訴えました。「エジプトには肉もあったし、パンもあった。今、我々は飢えで死にそうだ」と不平不満を訴えます。

 その訴えに、モーセは人々に対して、神は夕方には「うずら」の肉を、朝にはマナと呼ばれる白いウェハースのような食べ物を用意して下さると告げ、そのようになり、人々はお腹を満たします。けれどすぐに、イスラエルは「喉が渇いた」と訴えるのです。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺す為なのか」とモーセを打ち殺しそうな勢いで迫るのです。モーセは慌てて主に祈り、求めたところ、主なる神は、ホレブの岩を杖で打てば、水がほとばしるであろう、と告げられ、言われた通りにすると岩から水が出て、人々は喉を潤すことが出来、難の逃れることが出来ました。

 この様子について、ある牧師は、この姿は私達の信仰生活のようであり、私達の人生のようでもあると説明しました。

 私たちは、人生のある時点で信仰を得て、神我と共におられると信じて洗礼を受けます。洗礼を受けた時は本当に嬉しいものです。自分が受ける時には緊張してよく覚えていないという方もおられますが、後で別の人の洗礼式を見て大きな感動に包まれる時があります。この場に主が共にいてくださっていると新たな確信が生まれて、主にまた自分も生きていこうと心が改まる思いがする。
 けれど、そのような感動が長く続かず、いつの間にか世の中の思い煩いに飲み込まれて行く、飲み込まれながらつい不平不満をつぶやく、主なる神は本当にいて下さるのかと思う。与えられた状況に翻弄されて、神様どころではないなどと思ったりする。それが私達の歩みかもしれません。

 先日、我が家に私の母親の年金給付書というものが届きました。それを見た家内がまた減額されていると私に見せてくれました。私は母親が幾ら年金を貰っているかも詳しくは知りませんでしたが、もともと生きていくためにも全く足りない額でしかないのに、そこから更にまた減額されていると聞いて本当に驚きました。驚くだけでなく、だんだんと腹が立って来ました。国は人ひとりの命を本気で守ろうとしているのだろうか。腹が立つだけでもなく、悲しくなりました。

 けれど、問題は母親のことではなく、自分達は大丈夫だろうかと、それから暫く家内と話し込みました。一体自分達はどうなるのか。これまで家内の母親の世話も含め、親の介護を通して、介護保険であるとか、介護度の違いであるとか、デイサービスのこととか、老健とか、特養とか、ある程度は分かるようになりましたが、自分達の年金はどうなっているのか、これまで殆ど考えたこともありませんでした。
ですから家内と話した後に、本屋に行きましてその仕組みについて記されている本を今呼読んでいます。本当に年を取った時に、自分達はどのように生きていけば良いのか、自分で理解出来ていなければならないと思ったからです。イスラエルの民のように、困った時になると、出来事に翻弄されて、不平不満をぶちまけ、愚痴を言うだけにならないようにしなければなりません。

 それでも尚、人間の努力には限界がありますし、どんなに備えたとしても予期せぬ出来事はいつでもあって、病や怪我はいつも心配ですし、私達の国は自然災害も頻繁にあります。今、私達が直面しているコロナウィスルの世界的大流行は、私達がどんなに予防策を練っていたとしても、尚、困難があるという事実を表しているかのようです。ここまで考えてしまうと、殆ど諦めに近い感覚にさえなります。

 でも、皆さん、大切なことは、それでも尚、主なる神は私達と共におられるということではないでしょうか。出エジプトを果たしたイスラエルが、しかし、その後どんなに不平不満を告げて、腹が減ったの、喉が渇いたの、と言っても主なる神は怒るでもなく、呆れるでもなく、海を二つに割り、鶉を与え、マナを与え、岩から水がほとばしる、人には出来ないその一つ一つの業がなぜ起こったのか、主なる神が、イスラエルを愛しておられたからでしょう。そして、主はどんな時でも、共にいてくださるという信仰をイスラエルの民が、民の全体が養うためでもあったと思います。その信仰の養いとして荒野の40年という時間が用いられることになるのです。

 詩編114編の7節には「地よ、みもだえせよ、主なる方の御前に」とあります。「みもだえ」とは「震える」という言葉です。あなたがたは神の御前に礼拝する中で、神の御前に震える思いを持って礼拝せよ、しかし、その震えは怖さ故の震えではなく、圧倒的な喜びの故にですよ。

 人の業においてはもはやこれまで、万策尽きて、打つ手無しとなるとしても、神は硬い岩を水の溢れる泉とする方であった。この方が共におられた。だからまだあきらめないでいきていけると、私たちは希望をもつことが出来るのです。

 私たちの雲の柱、火の柱は、主イエス・キリストです。この方が私達の人生を導いてくださり、私達と共におられる方です。主イエスは「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と話されました。
硬い岩から泉になるほどに水を出してくださる方のその水をどれほど飲んだとしても、人々はまた喉の渇きを覚えたことでしょう。けれど、主イエスが与える水は、渇くことのない永遠に至る水であります。一時だけでなく、命の水として、永遠に主が私達と共におられる。だから、私たちは私達が生きるこの世を、確かな足取りでもって生きていきましょう。私は既に世に勝っていると告げる主にのみ頼り、状況に負けずに進んで参りましょう。

 お祈りします。
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元気の出る言葉 第6回

2021-06-12 09:03:50 | コラム
 みなさん、こんにちは、大塚平安教会牧師の菊池丈博です。今日の人生これからメッセージは、旧約聖書 箴言2章1~5節です。

「わが子よ わたしの言葉を受け入れ、戒めを大切にして 知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら 分別に呼びかけ、英知に向かって声をあげるなら 銀を求めるようにそれを尋ね 宝物を求めるようにそれを捜すなら あなたは主を畏れることを悟り 神を知ることに到達するであろう。」 

 今、私の母親が認知症と骨折で入院しています。家内の母親は、90歳を過ぎて近く施設にお世話になっています。私も今年で60歳になりました。
 
 そんな具合で最近色々と考えることの一つは老後問題です。世の中でもいよいよ「段階の世代」と呼ばれる方々が後期高齢者になると言われていますが、老後にどう過ごすのか、考えなければならないなと思っております。
 
 牧師に老後があるのかと突っ込まれそうですが、あると仮定して考えてみようと思いました。そこで牧師の悪い癖で、老後に備えるため、世の中のしくみはどうなっているのか知ろうと思い本を買ってみました。
 
 介護保険と労災保険とか公的年金制度のしくみ、老後給付のしくみ 読みますと、最者からつまずきました。「介護保険は40歳以上の人で、第1号被保険者と第2号被保険者に分けられます。」第1号と第2号の違いって何?いちいち、調べなければなりません。国民年金は職種によって第1号被保険者、第2号被保険者、第3号被保険者の3つの種別に区分されます、とありました。どんな区分けなの?
 
 読んでいくと、私は本当に薄い知識しか持ち得てなく、これはまずいと慌てました。
 
 教会の説教では、この世の支配は神の支配とは違いますとか、この世の考え方に染まらないようにとか、よく話しますけれど、具体的にこの世の仕組みが分からないまま、勢いで話していたかもしれません。この世が敵だとしたら、敵の知恵を知らずして、神の知恵を示すことは出来ません。
 
 最近、「安全、安心」という掛け声だけの言葉を聞きますが、掛け声だけの言葉は力になりません。神様の御言葉を、銀として、宝物として用いるためにも、神様の知恵を自分のものとするためにも、世の知恵を知り、知るだけでなく、それを上手に用いながら、神の知恵によって幸いを生きていきましょう。
 
 皆さん60歳でも、70でも、80でも、90でも 100歳になってもまだ、人生これからです。!

 元気の出る言葉は「ラジオトーク」で配信しています。「人生これからメッセージ」を検索して聞いてみて下さい。

 元気が出ますよ。(笑)
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