日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

至福の安息への招待

2021-05-30 16:51:00 | 礼拝説教

【マタイによる福音書11章28~30節】

中心聖句  11:28「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」


 先週、5月23日は、聖霊降臨日、ペンテコステの礼拝でありました。そして、それに続く今日の聖日は、教会暦では「三位一体主日」と定められ、今日からアドヴェントまでの約半年間は「三位一体節」と呼ばれています。これとは別に、前週のペンテコステからアドヴェントまでの期間を聖霊降臨節とも呼び、最近はこちらの方が一般化しているようです。いずれに致しましても、待降・降誕から十字架の受難、復活と昇天、そして聖霊降臨に至る半年間がキリストの生涯を覚えて歩む「主の半年」と呼ばれるのに対して、今日からの半年間は、聖霊の導きと支配のもとに宣教に励む「教会の半年」と言われています。新型コロナウイルスの蔓延状況が長期化し、各地の教会は、様々な感染防止対策を講じながら礼拝を守ろうと苦闘しておりますが、中には、毎週の礼拝を守ることも困難な教会も少なくありません。そうした中、いや、そうした厳しい状況の中だからこそ、主イエス・キリストの招きに応え、聖霊の励ましを頂いて、礼拝を守り、力強く宣教の業に励んでいきたいと願っています。今日は、このことを覚えつつ、聖書の御言葉に耳を傾けたいと思います。


 さて、本日示されました御言葉は、日本基督教団の聖書日課から示されました。正確には、マタイによる福音書11章25節から30節が本日示された福音書のテキストとなっています。ここは短いテキストですが、実は、3つの部分からなっていて、最初の25~26節は、イエスの父なる神への祈りで、真ん中の27節「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」という言葉は、初代の教会の信徒たちが、イエスこそが神の独り子であり、世の初めから父なる神とともにおられた方である」という、三位一体の神、特に、第二格の子なる神であるイエス・キリストについての信仰告白であると考えられています。それで、この箇所が三位一体主日である今日の聖書日課として示されているのだろうと思いますが、今日、私たちは、それに続く28~30節の御言葉から励ましを受けたいと思います。


 28節の「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」という御言葉は、大塚平安教会の、この会堂が献堂されたときに、日頃の生活に疲れ、渇きを覚えているこの地域の多くの方々に、主イエス・キリストの招きをお伝えしたいとの気持ちから、教会の看板に掲げているものです。私自身、毎週の仕事や家庭生活の中で疲れを覚えたときに、この看板を見ますと、ああ、神さまは、この私に、慰めの言葉を掛けてくださっているのだなあと感じることが出来ます。このように、この言葉は、何の説明も必要としないくらい、この御言葉単独で、一人ひとりの心の奥底に語りかけてくる、力のある言葉だなあと思います。

 それで、この御言葉を看板に掲げている教会は少なくないのですが、そのことは、現代社会の中で、疲れている人がどれだけ多いことかということを端的に現しているように思います。栄養ドリンク剤を片手に仕事や受験勉強に鎬を削る競争社会も、最近は大分変ってきたように思いますが、それでも、昨今は、ブラック企業のような劣悪な雇用条件の下で働かざるを得ない若者は少なくありませんし、そうでなくても、明日は月曜日、また仕事だと思うだけで何かもう疲れた気分になってしまう人もいるでしょう。また、最近では家族の介護に疲れている人も増えて来ていますし、そういう肉体的な疲ればかりでなく、どろどろとした人間関係の疲れ果ててしまった人、病気に苦しむ人、果ては、生きることに疲れてしまったという人もいたりします。そして、今日、疲れた人、重荷を負っている人は、特別な人というわけではなくて、多かれ少なかれ、私たちの誰もが疲れを覚えており、しかも、自分がこんなに疲れ、苦労しているのに誰も本当にわかってくれないと不満を覚えることも多いのではないでしょうか。こんな世の中だからこそ、「疲れている人、重荷を負っている人」と呼びかけるこの言葉が、自分に向けられて語られているように思えるのでしょう。実際、この御言葉は「すべて疲れた人、重荷を負っている人は」と語りかけているのですから、疲れ、苦労としている自分に対する呼びかけだと考えて頂いてよろしいのですが、ただ、この御言葉の真意を理解するためには、この御言葉が誰に対してどのような状況で語られたのかを文脈の中から読み取る必要があるでしょう。

 では、イエスが「疲れた者、重荷を負う者」と呼びかけている相手は誰なのでしょうか。マタイによる福音書の文脈でみれば、直接的には「イエスの弟子たち」を指しています。イエス様は、バプテスマのヨハネから洗礼を受け、荒れ野で四十日間悪魔の試練を受けた後、ガリラヤ中で、宣教の御業に取り組まれました。そして、十二人の弟子を呼び寄せてユダヤの町々へと派遣し、イエス様ご自身も方々の町で教え、宣教されましたが、その結果は、一言で言って惨憺たるものでありました。イエス様や弟子たちは、行く先々で、語る福音の言葉を拒絶されたのです。しかも、それは、神を知らない異邦人や、神を度外視している罪人と呼ばれる人々からではなく、神に忠実に従い、仕えていると言われる人々からの拒絶であったのです。その上、イエス様ご自身が最も力ある働きをされた三つの町、カファルナウム、コラジン、ベトサイダで拒絶されたのですから、弟子たちのみならず、イエス様ご自身も相当に疲れを覚えておられたことでしょう。しかし、イエス様は決して窮しませんでした。人が福音を受け入れるか入れないかは、すべて父なる神次第なのだ、結果は父なる神に委ねるしかないのだということがわかっておられたからです。それでイエス様はこの時、弟子たちに対して「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と語られたのです。

 さて、イエス様がここで「疲れている人、重荷を負う者」と呼びかけている相手は弟子たちだけであったかというと、そうではありません。この時、イエス様の目に「疲れている人、重荷を負う人」と写っている人たちがほかにいました。それは、「地の民」、ヘブル語で「アム・ハーアーレツ( לְעַם־הָאָ֖רֶץ)」と呼ばれる貧しさのゆえに律法を厳格に守ることの出来ない人達でした。彼らは、モーセの律法を守れない人は救われないと説くファリサイ派の人々から軽蔑されていました。彼等にとって、ファリサイ派が教える律法は、守ろうと思っても守れない重荷以外の何物でもなく、「自分たちは到底救われない」、「神は我々を見放した」と絶望していたのでした。そんな彼らに対して、イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」と呼びかけられたのです。彼らにとって、イエス様が語るこの言葉は、どれだけ慰めとなったことでしょうか。彼らは、このイエスの呼びかけに応え、聞き従いました。それは、25節、26節に記されている「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」というイエス様の祈りにはっきりと表されています。このことは、マタイによる福音書の18章3節に記されている「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」とのイエスの言葉とも響き合っています。


 ところがイエス様は、「休ませてあげよう」という言葉に続けて、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」と続けます。これは、いったいどういうことでしょう。軛というのは、牛に畑を耕させるために、横に並んだ2頭の牛の首の上のところに掛ける横木のことです。それを首に掛けられることによって、牛は畑の中をまっすぐに進むことが出来るのです。イエス様は、「休ませよう」と言った舌の根も乾かぬうちに、畑仕事の重労働をさせようと言うのでしょうか。ここには、何か深いわけがありそうです。実は、軛に繋がれた2頭の牛には役割分担があって、1頭がリーダーで、もう1頭はリーダーに従ってついていくというのです。重量は必然的にリードする牛の方にかかります。イエス様が「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われますのは、イエス様がリードする牛となって、一緒に軛を負ってくださるということなのです。重量は当然にイエス様の方に掛かりますから、荷は軽くなります。イエス様がリードしてくださるので、どっちに進んだらよいのか迷うこともありません。イエス様と軛でしっかり繋がっていますから、迷子になることもありませんし、少し苦しくなっても、すぐ横にイエス様が寄り添ってくださっているので安心です。イエス様と軛で繋がって進む姿は、ちょうど、母親に手を引かれて歩く幼な子の姿のようでもあります。

 先日、幼稚園では、親子遠足で、海老名の相模三川公園まで出かけました。幼稚園から海老名駅までは、親子一緒に歩いていくのですが、海老名駅からは子どもたちは親と別れて、子ども同士で手を繋いで親の待つ公園まで歩いて行きます。年中や年長の子どもたちは、子ども同士、手を繋いで楽しそうに歩いていきますが、初めて遠足に参加した年少の子どもの中には、お母さんの手から離れた瞬間、わっと泣き出して、その場に座り込んでしまう子もいます。先生たちは、そういう子の手を取って、「お母さんは、公園に先に言って待っているから、先生と手を繋いで歩いて行きましょう。」と言って、一緒に歩き出すのですが、少し進んでは立ち止まり、また、少し進んでは立ち止まりといった按配で、なかなか進みません。そんなとき、やっぱりお母さんの力というのはすごいなと思わされます。小さな子どもは、お母さんと手を繋いでいるだけで、歩く元気が出てくるようです。イエス様と軛で繋がって歩くというのは、そういうことなのではないでしょうか。

 もう一つ、ここで注目しなければならないことは、イエス様が「わたしは柔和で謙遜な者だから」と言っておられることです。それは、私と一緒に軛を担いでくださるイエス様が、幼子の手を引く母親のように心優しい方だからということもありますが、何よりも、イエス様が罪深い私たちを救うために、天上の高みからこの世に下られ、それも、弟子たちの足を洗うほどに徹底的に御自身を低くされた、そして、自らの頭を垂れて軛を負われる方なのだということです。軛は、先ほど申しましたように横木です。それは、イエス様が死刑判決を受けてゴルゴタへの道を歩んだ時に背負った十字架の横木を想い起させます。イエス様が背負ったその十字架は、私たちの罪を肩代わりして負ってくださったもの、本来であれば、私たち自身が負わなければならない十字架です。それを、私の軛といって一緒に背負ってくださるのですから、私たちの肩に圧し掛かっていた重圧は無くなった同然です。だから、イエス様の軛は軽いのです。


 さて、イエス様の軛は負いやすく、軽いとしても、では、イエス様は、どのようにして私たちを休ませてくださろうとしているのでしょうか。ここで「休ませてあげよう」と訳されている原文のギリシア語を調べてみますと、ἀναπαύω(アナパウオー)という単語が使われておりまして、これは、「休ませる」というほかに、「元気づける」とか「リフレッシュさせる」という意味合いを持つ言葉だということがわかります。つまり、イエス様が与えてくださろうとしている休みとは、ただの休憩や休息というのではなくて、「新しい、新鮮ないのちの力を与える」というようなものなのです。イザヤ書49章10節では、預言者は「憐み深い方が彼らを導き 湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。」と言ってバビロンに捕囚されたイスラエルの民を励まし、破壊されたシオンの回復と、そこへの帰還を促していますが、そこで記されているように、イエスが語る「休ませてあげよう」という言葉は、重荷を負いながら長い旅を続けている者が、新鮮な水がほとばしり出る泉を見つけ、そのほとりに腰を下ろして一休みしながら、一杯の水で喉を潤す。すると、それまでの疲れが吹っ飛んで、元気が湧いてくる。まさに、そのような休みなのです。

 私たちは、この後、讃美歌432番を歌いますが、その2節では「「渇いている者、疲れた者、誰でも来なさい、ためらわずに」。いのちの主イエスに私は行く。生きたその水を飲みほすため。」と歌います。軛をともに担ってくださるイエス様は、進むべき道をよくご存知です。私たちには、砂漠のようにしか見えない荒れ野を進むときでも、私たちを的確にオアシスに導いてくださいます。そこで疲れた体を癒し、再び歩み出す勇気が湧いてきます。「わたしのもとに来なさい。」と私たちを招くイエス様に従うことは、このようにして、イエス様とともに人生の旅を歩んでいくことなのです。そして、イエス様は、安息日の主でもあられます。主が賜る永遠の安息の日に至るまで、イエス様にすべてを委ね、イエス様から差し示された軛をイエス様とともに担いつつ、イエス様とともに歩んでまいりましょう。


 祈ります。
 
 主なる神様、御言葉の励ましに感謝します。私たちは、弱く、日々の生活、この世の中で負わされた務めに悩み、その悩みに打ち勝とうとして苦しみ、もがくことの多い者です。どうか、そのような私たちを憐れんでください。私たちを苦しみの中から召し出してください。そして、すべてをあなたに委ね、あなたから示された軛を担いつつ、主とともに歩む者としてください。主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン

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元気の出る言葉 第4回

2021-05-28 16:37:50 | コラム
【浅はかな者は浅はかであることに愛着をもち 不遜な者は不遜であることを好み】 箴言1章22節

 みなさん、こんにちは、大塚平安教会牧師の菊池丈博です。今日の人生これからメッセージは、箴言1章22節です。
「浅はかな者は浅はかであることに愛着をもち、不遜な者は不遜であることを好み」

 私たちは誰もが 「浅はかでないように生きたい」と願っています、出来るならば思慮深く生きたいと願っています。ところがなかなかそう生きていけないところもあります。
 金のガチョウの話があります。一日一個、金の卵を産むガチョウによって金持ちになった農婦が、欲を出して、ガチョウのお腹には沢山の金があるに違いないと思い、ガチョウのお腹を裂いてみたら、何も入っていないし、ガチョウは死んでしまうし、もとの貧乏になりましたという話です。私達も気を付けなければなりません。
 
 私は2年程前に、そろそろ健康に気を付ける年齢だと思い、ジムに通うようにしました。月謝を払い熱心に通いました。その甲斐があってか自分の人生でこんなに筋肉がついたことが無いと思える程になりました。ところが、コロナ禍となり、パンデミックとなり家での自粛となりました。ジムも長く休みましたが、次第にもとに戻り、今はマスク着用、会話禁止で行っています。

 ジムはそれで良いのですが、私の体は結局もとの体です。戻ったというよりリバウンドして人生でこんなに脂肪だらけの体と思える状況となりました。
 数か月前、礼拝前にある女性がまじまじと私の体を見てこう言いました。「先生、言っていい、太ったんじゃない」もう、大分ショックでした。

 それから思い直してジムに通ったり、通わなかったり、通わなかったり、、、、で、一行に効果が出ません。

 そこで改めて考え直しました。朝のラジオ体操をやろう、家から2キロ程の公園で、6時30分からラジオ体操をしています。ジム以前は時々いっていました。それを復活させよう、以来6時に起きて歩いて公園、ラジオ体操して、帰宅、一週間で体がちょっと細くなったことに気が付きました。今3週間程、毎日通っていますが、ベルトの穴の位置が元に戻ってきました。

 朝の空気も気持ちよく、幸せを感じます。
 コロナが悪いと言えば、それまででしょう。でも、結局は毎日の良い習慣が心も体も健康にさせるように思います。必要以上にお金をかけることなく、十分充実した思いになれるようです。

 ジムは止めようと思っています。既に投資ではなく浪費ですから、皆さん、浅はかに生きないように気をつけて行きましょう。人生これからです。

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闇の中に昇る光

2021-05-23 15:28:56 | 礼拝説教
詩編112編1~10節
使徒言行録2章14~21節
「闇の中に昇る光」

 今日は聖霊降臨日、ペンテコステ礼拝です。昨年のペンテコステ礼拝は5月31日、5月最後の礼拝でした。7週間に亘る第一回目の緊急事態宣言が終了して、最初の会堂での礼拝がペンテコステ礼拝でした。
 昨年は「聖霊を受けると人生が変わる」という説教題で話をしています。

 主イエスと共に歩んだ弟子たちでしたけれど、思いがけなく主イエスが捕らえられ、十字架刑に処せられる。これで全てが終わったと思っていたのに、三日後に復活された主イエスが弟子たちの前に現れてくださった。なんという奇跡、弟子たちは驚きと共に、多いに力付けられたでありましょう。
 
 主は40日に亘り、弟子たちと共におられましたが、その後天に昇っていかれます。この時も弟子たちは随分と力を落としたであろうと思います。神が我らと共におられないわけですから、その喪失感は大きかったでしょう。
けれど、主は弟子たちに約束したように、天に昇られてから10日後、つまり主の復活から50日目、(ペンテコステとは50番目、50日目というギリシャ語です。)弟子たちが一つになって集まり、祈りを献げていた時に、天から炎のような舌が分かれ分かれに現れて、一人ひとりに上に留まりました。

「すると一同は聖霊に満たされて、霊が語らせるままに、ほかの国の言葉で話しだした」とあります。

 聖霊に満たされて、すなわち、どんな時も主イエスが我らと共におられるという信仰を再び取り戻し、確かな確信、喜びを感じ、喜びを自分だけのものとするのではなく、この喜びを人々に語り伝えたい、分かち合いたいと思い、立ち上がり、しかもただ語りだすだけでなく、それぞれの国の言葉で語りだしたわけでした。。聞いていた人々は、自分達の故郷の言葉で福音を伝えられるものですから、驚いたことでしょう。でも自分の国の言葉で話される、そのよく分かる御言葉は一人ひとりの心の奥まで届いたのではないでそしょうか。
 
 そのようにして神の福音の宣べ伝えが開始されたところから、ペンテコステは教会の誕生日とも言われます。教会はペンテコステの出来事から始まった。ですから私たちもまた新しい思いを持って、この一年も、状況に寄らず、主の御言葉を語り告げていきましょう、と心新たにする時でもあると思います。
 
 今、私達が生きる社会は、コロナ感染予防の対策の為に大変な状況です。緊急事態宣言が東京をはじめとする10の都道府県に出されています。ワクチンの接種は始まりましたけれど、中々進んでいない上に、今の状況は一年前と変わらないというよりは、もっと悪くなっているかもしれません。

 先日、ある外国の方と話をしていましたら、「新型コロナ感染予防」を英語で一体なんと言えばよいのか、訳が分からず困りました。 

 迷っていましたら、直ぐに教えて下さった。「パンデミック」でしょ。世界ではパンデミックと言うようです。

 パンデミックとは、感染症の世界的大流行という意味です。100年前にスペイン風邪と言われるインフルエンザが世界的に広がり、パンデミックになりました。それ以前にも、コレラ、ペストをはじめ、伝染病が大流行した時代もあり、当時は私達が想像出来ない程の世界的な大混乱になったと思います。更にそのような病気は人間社会の考え方や、生き方を大きく変えて来たとも言われます。今の時代も一つの時代の変わり目となると思います。

 弟子達が神の聖霊を受けて、力強く立ち上がり主の御言葉を宣べ伝えて教会が誕生しました。誕生した教会は、当初は厳しい迫害を生きながらも生き延びるだけでなく、歴史的な経緯は省きますが、世界中の人々に宣べ伝えらえることになります。そして、勿論、人の社会の中で、幾多の戦争に巻き込まれ、時には戦争を引き起こす原因ともなりました。欧米では宗教改革と呼ばすにただ改革と言う程に、社会の変化をもたらした時代もありました。時代、時代において人は時には戦争、時には飢饉、時にはパンデミック、と言った、生きるのが困難な時代を潜り抜けて来ました。私はその都度に、教会も大きな変化が求められつつ、社会の人々と共に歩んで来たと思います。
 
 今のこの時代も、特にパンデミックが治まった後には、社会が更に変化していくでしょうし、教会もその変化に対応することが求められるであろうと思います。聖書には、「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」とありますように、どのような社会になろうとも、主の御言葉が変わることは無いと思います。

 どのような時代であっても、人は神の御言葉のうちに人の命を見いだして、力を得て人生を歩みだし、その歩みに主が伴って下さるだけでなく、毎週、毎週の礼拝へと力を得るために帰ってくる。基本的にはそこは変わらないだろうと思います。

 けれど、教会はその時代、時代において、神の御言葉の前に、様々に変化しながら歩んで来ました。国の特性や、自然環境、民族性といったことも多きく影響していると思いますが、まさに聖霊に満たされて熱狂的に、踊ったり歌ったりする、教会も多くあります。一方においては、聖書を重んじ、聖書の御言葉を学び、御言葉に厳格な信仰、厳格な礼拝を守り続けている教会もあります。あるいは、社会的な問題に注目し、差別問題に、社会、経済、政治と深く関わりを大切にして歩む教会もあります。

 私は、そのどれが良くてどれが悪いということではなく、どんなタイプの教会もその生きる社会において求められている必然の姿だと思います。
 
 アメリカの黒人が多く集まる地域の教会に、世界的に有名な牧師が招かれて、一時間伝道説教をしたそうです。そしたらその後に、その教会の責任ある牧師が、更に一時間続けて説教したそうです。招かれた牧師は驚いて終わった後になんで話したのと聞いたら、集まっている一人一人が生活に困窮している、仕事もなく、でも家族を守り、健康を支えていかなければならない、その日その日を生きていかなければならない厳しい状況を生きる彼らが、元気になって、よし生きていこうと思うまでに、一時間では足りません、と答えたそうです。

 私は、社会状況が教会を変えることもあると思うし、教会が社会を変えるそういう時代もあると思います。どちらが大切かというよりは、どちらにしても、変化するには痛みが伴い時もあり、闇の中に迷い込む時もあり、全てが上手くいく訳でもなく、予定通り、予測通りに変化してきたということも無いと思います。
 
 それだけに大切なことは、私達の力はどこから来ているのか、どこから来るのかを忘れてはならないと思うのです。私達の力は、神の聖霊の力です。聖霊が働くときに私達の働きも祝福され、聖霊が働かない時には、私達の働きも実り少ないものになるでしょう。
 
 更に言えば、時代、状況の中で、私達が計画を立て遂行しようとする時に、それが本当に主の御旨に叶っているのか、叶っていないのか私達には分かりません。私達の計画に対して神様が現れてくださり、「よしきた」と計画書の裏に、神様がサインしてくださるわけではありません。
 
 それならどうするのか、答えは動き続けていくしかないということではないでしょか。今の時代、最初からあきらめて何も動こうとしない若者が増えていると言われます。失敗すればそれなりに傷つきますから、傷つかないほうがましだと考えているようです。傷はつかないと思いますけど将来は見通せません。それよりも舟を漕ぎだしてみよう。竿を川の流れに、海の波の中にさしてみようとする努力が求められているのではないでしょうか。

 もがくようなものかもしれません。前に全然進まないかもしれません。依然として闇の中かもしれません。

 でも、今日読みました詩編には「まっすぐな人には闇の中にも光が昇る」と記されています。必ず神の光が昇る時があって、そしてそれは神の聖霊の力が確かに私達の上に働いた時であろうと思います。
 
 聖霊が私達の上に注がれ、パンデミックの中で、苦しんでいる一人一人の上に注がれるように祈り、神様の御計画に感謝しながら、今週も過ごして参りましょう。

 お祈りします。
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言葉が通じ合う時

2021-05-22 11:47:44 | コラム
【使徒言行録2章1~4節】

 英語に限らず、ほかの国の言葉を勉強する際に、お勧めは口に出すという勉強法です。特にアルファベットを使用する言語は、強弱の波を気にしたり、川が流れるような感じになるまで読み続けたりすると、いつの間にか文章を理解出来る!ということがあります。

 脳の中には日本語を司る箇所があるそうですが、英語を覚えて来ると英語を司る別の箇所が出来るそうです。同じ箇所で考えているわけではないようです。日本語を話して疲れている時、英語で話すと元気が出る!ということもあります。脳の違う場所が活性化してリフレッシュするからでしょう。

 いずれにしても、どの国の言葉でも、話せるとしたらどんなに嬉しいことでしょうか。昔、フランスのある家庭にホームステイをしたことがありました。全然話せませんでしたが、単語でやり取りするうちに知っている単語が出て来て、理解出来た時本当に嬉しかった。心と心がつながった!と思えたからです。言葉は互いの心と心をつなげる大切な道具です。

 神の聖霊が降り、弟子たちは聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだしました。自分の故郷の言葉が話されるのを聞いた人々はどんなに驚いたことでしょう。でも、嬉しかったでしょう。心と心が通じ合う経験だからです。心が通じ合う言葉で、主イエスの福音が宣べ伝えられたので、人々の心は大きく開いたのだと思います。

 わたしたちも聖霊に満たされて人に語りかけるならば、神様の力が働いて、相手と知り合いになり、仲間となり、親友になっていくのだと思います。
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元気の出る言葉 第3回

2021-05-21 13:03:24 | コラム
 【わが子よ ならず者があなたを誘惑しても くみしてはならない。】(箴言1章10節)
 
 説教を考えている時に、急に思いたったことがありました。

 それは、人は皆、「そうだね~」と言ってもらいたいのだということです。殆ど確信的にそう思いました。

 家に帰って、食事をしながら、妻や子どもたちに話しました。「人は誰もが、そうだね~」って言ってもらいたいだよ。そしたら、家族が一斉に、「そんなの当たり前じゃない、お父さん、今頃気が付いたの」と言って来たのです。その言葉に、私はより確信をもって、「人は誰もがそうだね~」と言ってもらいたいのだと思いました。分かりますでしょうか。

 でも、自分の周りに「そうだね~」というイエスマンだけがいるのも良くないようです。聞いた話ですが、今の総理大臣の周りにはイエスマンしかいない。なぜなら意見した人は他所に飛ばされてしまう!なんてことを聞きました。人は意見されると腹が立つものです。でも、意見してくれる人の言葉こそ、辛いけれど、本当は大切だったり、当たっていたりしているのではないかと思います。

 「そうだね~」という言葉はもしかしたら、誘惑かもしれません。今の時代、何が本物で何が本物でないか、難しい時代です。でも、きっと本物だけが残っていくのではないでしょうか。

 2000年以上に亘って、人の歴史の中に残り続けたイエス様の教えを頼りにしてわたしたちは過ごして参りましょう。

 皆さん、人生これからです。
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