日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

私の魂よ、主を讃えよ

2021-03-29 11:53:32 | 礼拝説教
【詩編104編1~12節】
【ルカによる福音書23章39~43節】

 先日、車の点検してもらいました。その間、一時間半かかるというので、その間に本を読もうと思いまして、家の本棚にあった本を持っていきました。文庫本ですが、タイトルが「下流志向」とありました。
内田樹という神戸女子学院の先生をしておられる方で、大学の先輩にあたる方なのですが、私は購入した覚えもありませんし、なぜ、置いてあるかなとちょっと不思議でしたが、娘か誰かが買って読んでいたのだと思います。

 サブタイトルが「学ばない子ども達、働かない若者たち」とありました。長く教育現場で働いておられる内田先生が、自分の学校の学生たちもそうだし、中学、高校生、いや小学生でさえも、勉強意欲を失っていると感じる。学校を出た若者が働く意欲を失っていると思われる。それはなぜなのか、内田先生なりの掘り下げ方で記してありました。 

 例えば、小学生の子どもが先生に質問するそうです。「先生、なぜ、勉強しなければならないのですか」小学生の子どもが本当にそんな質問をするのだろうかと思いますが、でも、するのでしょう。あるいは少し荒れている中学では、先生が教室に入って来ても、勉強意欲の無い子どもたちは、無視して話していたり、立って歩いていたりしているそうです。先生が「聞いているのか」と怒ると、逆に「聞いているよ」と怒鳴り返される、そんなことが普通にあるそうです。

 義務教育という言葉がありますが、子どもたちはあたかも苦痛を伴う義務としてやらされていると思うのではないか、あるいは逆に最近は「自己責任」とか「自己決定」という言葉があって、自分の人生を自分で責任をもって、自分で決めていくようにと言われますけれど、そうすると自分の役に立つのか、立たないのか、自分で決めて、役に立ちそうもない勉強はしなくて良いと考えて、正当化してしまうということもある。

 あるいは、なぜ子ども達がいつも不機嫌そうにしているのかというと、不機嫌でいる方が周囲を支配出来ると考えているからではないかともありました。 現代社会は、一か月の労働の見返りとして給料が銀行の口座に振り込まれます。
それは親が親として威厳を保つ時が薄れている、そうすると親が威厳を保つためには家に帰って来て、どれだけ疲れたかをアピールすることになって、不機嫌そうに振舞うと周囲が気を遣うわけです。そんな様子を見ている子ども達も、いつの間にか不機嫌そうに振舞ったほうが自分にとって都合が良かったりするのではないか、一時間半では、本の半分までも到達しませんでしたが、大分納得したり、影響を受けて家に帰ったわけでありました。

 家に帰って来て、家内に読んだことを色々と話しました。なぜ子どもたちは不機嫌なのか、自分が周りを支配できるからだそうだよ、すっかり啓蒙された私は自信をもって話しました。家内もなるほど~と言うのではないか。ところが、答えはどうだったかというと「そんなのばかじゃないの。不機嫌より機嫌が良い方がずっといいじゃない。楽しい方がずっといいじゃない。」そう言ったわけでした。

 私は逆に驚きましたが、でも直ぐに全くそうだと思いました。不機嫌でいるより、機嫌が良い状態がどんなに良いか、一度切りの人生を大切な時間を不機嫌で過ごすなんて、なんと空しく、もったいないかと改めて思いました。90分の学びが、一分で打ち砕かれたわけでありました。
 
 今日は一年の中にあっても、特別な日曜日です。コロナ禍の中で、本当に久しぶりの礼拝を執り行っていますが、この一週間は受難週であり、主イエス・キリストの十字架の死を特に心に留める一週間となります。聖書箇所も主が十字架に磔にされた場面を読みました。本来なら神学的には主イエス・キリストの十字架の意味をここで語り、主イエスの贖いの業、私達の罪を赦そうとする愛の思いを語り告げることが求められているのかもしれません。
 
 けれど、今日は、主イエスと共に十字架刑とされた二人の犯罪人について告げられている箇所を読みました。一人は共に磔になっている主イエスに対して、あざ笑いののしりながら「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と揶揄している。けれど、その様子を見たもう一人の犯罪人がそれをたしなめました。「お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と主に告げたわけでありました。

 私は、この二人の姿、この会話を読みながら改めて思いました。どんなに究極な場面においても尚、人を貶め、辱めようとする人と、全く同じ状況にあって、そこから神を見上げながら、会話できる人がいるということをです。
 
 私たちは、この時期主イエスの十字架刑について聖書では読みますけれど、実際には見たことがありません。それがどんなに残酷な処刑であるかと、よく説明されますけれど、体験することもありません。なぜ、体験しなくて良いのか、全て私達の罪を主イエス一人が負って下さり、私は死ぬけれど、あなた方は生きろとそんな思いでもって十字架に架けられたからだと教えられますし、私もそう話しますし、そう思います。
でも尚、そこにどこまでそういうリアリティがあるかとも思う。リアリティは現実性とか真実性と訳しますが、どこまで自分達が神の十字架を自分のものとしているのか、いつも問われているのだと思います。

 先ほどの内田先生は、子どもたちが「どうして勉強しなければならないのか」と聞いてくる子ども達は、世界の多くの国々で、勉強したくても勉強できずにいる子ども達がどれほどいるのか、ペンの代わりに武器を持たなければならない子ども達がどれほどいるのかについては何も知らないといった事柄を記していました。そうったリアリティを感じられないから、勉強は喜びとならず、させられている感が強く、苦痛でしかないのかもしれません。

 今日は、詩編104編を読みました。1節の「わたしの魂よ、主をたたえよ」という御言葉から始まるこの詩編は、神の天地創造の業を思い、神を賛美し、神の造られた世界に感謝している詩編です。光、雲、風、地面、水、泉、山々、野の獣、空の鳥、草木、そしてぶどう酒、パン、油、月、太陽、次々とはそれらを記しては神に感謝を献げている。読めば読むほどに、喜びに満ちている詩編だとも思います。

 けれど、この詩編はイスラエルの民が捕囚の民として、凡そ50年に亘るバビロン捕囚から解放され、自分達の国にやっと帰って来た時に感謝と喜びを込めて歌ったであろうと考えられています。戦争に敗れ、捕虜となった民が、生きて自分達の故郷に帰って来られた。これまでの主なる神の守りに感謝しつつ歌い上げているのです。私はそのことを知ると、詩編にはイスラエルの人々リアリティがあるなと改めて感じました。

 私たちは、過ぐる1月3日にこの会堂で礼拝を献げて以来、実に2か月半に亘って、礼拝を献げることが出来ませんでした。今日は2020年度最後の礼拝でもあります。これまでの間、お互いに会うことさえもはばかられる状況にあって、コロナ禍の中を過ごして参りました。未だに、決して安心できる状況ではありません。でも、この二か月半を過ごして、良かったと思うことは何かと考えると、会堂で礼拝を献げることさえ、決して当たり前ではなかったと改めて思っています。本当に久しぶりの礼拝をこうして今、献げることが出来る。この喜びを忘れないようにしたいと思います。そして、どのような状況であろうと、状況によらずに、私たちは神の民として、神の家族として、不機嫌になるのではなく、つぶやくのでもなく、ののしるのでもなく、どんな状況にあっても、主よ「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言えた犯罪人のように、主イエスがそれに答えて「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言ってくださるような生き方を、生きていきたいと思います。神の確かな救いをしっかりと自分達の人生に刻み付けて、魂を込めて、主を讃え続け、この受難週を歩んで参りましょう。

 お祈りします。
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2021年3月21日(日)ビデオ礼拝 説教題「神の慈しみに生きる」

2021-03-21 09:30:00 | 礼拝説教
2021年3月21日(日)【受難節第5主日  十字架の勝利】

黙 祷

招 詞 ゼカリア書9章9節
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗ってくる 雌ろばの子であるろばに乗って。」

讃美歌69番「神はそのひとり子を」 菊池典子姉



聖書 旧約聖書詩編103編 1~10節

1 【ダビデの詩。】わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって 聖なる御名をたたえよ。2 わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。3 主はお前の罪をことごとく赦し 病をすべて癒し4 命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け5 長らえる限り良いものに満ち足らせ 鷲のような若さを新たにしてくださる。

6 主はすべて虐げられている人のために 恵みの御業と裁きを行われる。7 主は御自分の道をモーセに 御業をイスラエルの子らに示された。8 主は憐れみ深く、恵みに富み 忍耐強く、慈しみは大きい。9 永久に責めることはなく とこしえに怒り続けられることはない。10 主はわたしたちを 罪に応じてあしらわれることなく わたしたちの悪に従って報いられることもない。

新約聖書 ヨハネによる福音書8章1~11節

1 イエスはオリーブ山へ行かれた。2 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕

説 教 「神の慈しみに生きる」 菊池丈博牧師



以下、原稿です。
「神の慈しみに生きる」

 皆さん、おはようございます。今日、3月21日で二か月半に及んだ緊急事態宣言が解除されることになりました。来週3月28日の礼拝から会堂での礼拝を再開します。とはいえ、コロナ感染の不安が消えたわけではありません。
依然として感染予防に留意しなければなりません。暫くの間はコロナ前の礼拝に戻れないと思いますが、それでも、久しぶりに皆さんと共に同じ場所で礼拝を献げられる幸いを過ごしたいと思います。
 
 今日をもってウーバー週報の役割は一旦終了となります。ウーバー週報で案外、評判が良かったのは、表紙に記載した「小さな美術館」でした。楽しみですと言って下さった方が何人もおられました。
 
 今日の週報の表紙は、マグダラのマリアにしました。聖書を読んでいる方であれば、マグダラのマリアは良く知る女性の一人でしょう。ルカによる福音書の8章に「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラのマリア」と記されています。ですからマリアは何らかの重い病にかかっていたのかもしれません。古来、病気は悪霊によって引き起こされるとか、その人の罪の結果であると考えられていました。

 七つの悪霊の意味は、命に関わる程の重い病気ということかもしれません。そのような危険な状況を救って下さったのが主イエスだったのでしょう。
主に癒され、元気になったマリアは主イエスに従い、主イエスと共に歩み、最後まで主の十字架に寄り添い、復活の墓に向かったのも彼女でした。それ故に誰よりも早く主イエスの復活を知らされたのも、彼女でありました。
 
 聖書では重要な役割を担ったマリアですが、マリアとは一体誰なのか、様々な考え方があります。例えば、ベタニア村のマルタ、マリア、ラザロの三人兄弟、姉妹のマリアが実はそうだと言われたり、主イエスの足元に来て、泣きながら高価な香油を塗った女性がそうだとも言われたりします。
 あるいは、今日読みました、ヨハネによる福音書8章の、「罪を赦された女性」がそうだとも言われます。
この女性は姦淫の罪を犯し、捕らえられ、主イエスのもとに連れて来られました。連れて来た人々は、主イエスを訴える口実を作るために、この女を石で打ち殺したほうが良いのか、そうしない方が良いのかと主に問いかけました。

 主が「殺してはならない」と言えば、この男は神の律法を守らないと言えるし、「殺してしまえ」と言えば、この男が伝えている「愛」の教えは、形だけでしかないと、あざ笑うことが出来る、どちらにしても主イエスを窮地に追い込めるだろうと考えたのでしょう。
 けれど、主は「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と答えられた。人々はその答えに驚き、暫くすると年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってしまったとうのです。誰もいなくなった時に、主イエスは身を起こして言われました。「婦人よ、誰もあなたを罪に定めなかったのか。」女は「主よ、だれも」と答えると、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と告げられたわけであります。

 このようにして、女性が主イエスから赦されていく、「これからは、もう罪を犯してはならない」と言われていますから、やっぱりこの女性は姦淫の罪を犯しているのです。主イエスは、それを無かったことにしようとか、水に流すから、と告げたわけではありません。罪を罪と知った上で、「わたしもあなたを罪に定めない」と告げられたのです。

 この御言葉によって、この女性は自分を取り戻し、主の歩みに寄り添うことを願ったと思われます。そして、実際に主に従ったであろうこの人こそ、マグダラのマリアではないかと古来、言われてきました。その真偽はわかりません。 
けれど、私はここに、主イエスが告げた福音とは何かを見るような思いがするのです。
 神の福音とは徹底的な赦しです。赦しとは一体なにか、どのような意味なのか、その人が何か罪を犯したとか、犯していないとか、正しい人か、正しくない人かとか、何をしている人か、していない人かとか、健康なのか、病気なのかとか、頭が良いのか、そうでもないとか、収入があるのか、ないのかとか、私たちはいつも、そのようにして人を判断するところがあります。でも、そういった判断は、結局は赦しへと繋がっていかないのだと思います。

 今、既に三月も後半となります。この2020年度の締めくくりの時を過ごしています。この年度はコロナで始まり、コロナで終わろうとしていると言っても良いでしょう。私達の教会も緊急事態宣言下では、人の命を最優先と考え、会堂礼拝を行わないで過ごしました。これまで経験したことが無い状況でした。
けれど、新しい2021年度、ワクチンが接種されて、次第にこの騒動も少しずつ静まるだろうと希望的観測をしていますが、そうであれば、いよいよ2021年をどう過ごすのか、教会はどのようにして福音宣教を成し遂げようとしているのか、3月の役員会でも、何よりも牧師の思いに添った計画を立てましょうと、役員の皆さんが言って下さいました。ありがたいと思います。
 
でも、実の所、叱られるかもしれませんが、これをするといった確かな計画があるわけでもありません。じゃ、何もしないのかと言われると、そんなことでもありません。
 
 大分昔になってしまいましたが、先輩の牧師から、「教会の会話は、全てが祈りに向かって、祈りで終わるような会話でなければ」と教えられました。その牧師に会いに行きますと、本当に歓迎してくださり、楽しい時間を過ごし、帰る時には必ず玄関まで送って下さいました。こんな牧師になれたらと心から思ったものです。今でもそう思っています。
ですから、私は祈りに始まり、祈りに終わる教会を目指したいと思います。でも、もしそう決めると、今度は恐らく祈ったか、祈らなかったか、やったか、やらなかったかが問われるかもしれません。果たしてそれが赦しへと繋がっていくのでしょうか。

 今、私が思うのは、目標を立てて、達成したかどうかよりも、「神の赦し」に生きていきたいということです。赦しとは愛とも言えるし、今日は詩編の103編を読みましたが、103編の御言葉から考えると、「憐れみ」とか「慈しみ」という御言葉と重なります。
 詩編103編を読みますと、状況としては、詩編の作者は、恐らく重い病気を患っていたと思われます。病はその人の罪から来ると考えられていました。病を患っている人は、神から遠い所にいる人であり、それ故に、罰を受けていると考えたかもしれません。
 けれど、病が回復し、健康を取り戻した。神様、あなたは私を見捨てたわけではなかったのですね、と喜びの中で「わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって 聖なる御名をたたえよ。私の魂よ、主をたたえよ。」と歌いだすのです。

 8節から読みますとこうあります。「主は憐れみ深く、恵みに富み 忍耐強く、慈しみは大きい。永久に責めることはなく とこしえに怒り続けられることはない。主はわたしたちを 罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない。」ここに、「憐れみ」、「慈しみ」という御言葉が記されています。
特に「慈しみ」はヘブライ語で「ヘセド」という言葉ですが、ヘセドを訳すると、慈しみの他に「愛」、「真実」、「恵み」、「憐れみ」、それらの全ての意味を含んだ言葉となるようです。
それらの全部を合わせて「慈しみ」です。神の「慈しみ」によって、私たちは命が与えられ、神の「慈しみ」によって今日を生き、生かされている。それが詩編の作者の思いであったでしょう。

 改めて思う私の願いは「慈しみ」に生きる教会、「赦し」に生きる教会、「憐れみ」に生きる教会、そして「愛」に生きる教会です。
新しい年度になるにあたり、改めてそう思います。でも、それは次年度の達成目標とか数字に表されるものでもないでしょう。というより、教会は二千年以上に亘り、そのような教会像を描き、そのような礼拝を求め、人々の霊性が高められるようにと願い、平和な世界を祈り続けてきたのではないでしょうか。

 キリスト教の歴史を顧みますと、その実態は、平和から遠く、時には戦争、時には権力争い、時には腐敗、実に人間臭い一面があることを否定出来ません。否定できないどころか、教会は人間臭さの中を歩んで来たとも言えるでしょう。
でも、そんな状況でも、主なる神は私達に対して、「憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、」そして、あたかも罪を犯した女性を赦されたように、慈しみの眼差しをもって、私たちを見つめ続けてくださっているのだと思います。

 神の赦し、神の慈しみは、私達を包み込み、生きる力を与え、勇気を与えてくださいます。私たちは、神の力によって元気に過ごしてまいりましょう。教会のエネルギーは、主なる神、主イエス・キリストです。この方から、しっかりと愛を受け取り、神の力を与えられて、今日も、また今週も、そして、新しい年度に向かって、生きて参りましょう。

 お祈りします。

黙 祷







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2021年3月14日(日)ビデオ礼拝 説教題 「神を賛美するために」

2021-03-14 09:30:00 | 礼拝説教
2021年3月14日(日)【受難節第4主日 主の変容】

黙 祷

招 詞 ヨエル書2章12~13節
主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ 断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け。」

讃美歌 476番「あめなるよろこび」 菊池典子姉


聖 書 旧約聖書 詩編102編1~19節

1 【祈り。心挫けて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩。】
2 主よ、わたしの祈りを聞いてください。この叫びがあなたに届きますように。3 苦難がわたしを襲う日に 御顔を隠すことなく、御耳を向け あなたを呼ぶとき、急いで答えてください。

4 わたしの生涯は煙となって消え去る。骨は炉のように焼ける。
5 打ちひしがれた心は、草のように乾く。わたしはパンを食べることすら忘れた。
6 わたしは呻き 骨は肉にすがりつき 
7 荒れ野のみみずく 廃虚のふくろうのようになった。
8 屋根の上にひとりいる鳥のように わたしは目覚めている。
9 敵は絶えることなくわたしを辱め 嘲る者はわたしによって誓う。
10 わたしはパンに代えて灰を食べ 飲み物には涙を混ぜた。
11 あなたは怒り、憤り わたしを持ち上げて投げ出された。
12 わたしの生涯は移ろう影 草のように枯れて行く。

13 主よ あなたはとこしえの王座についておられます。御名は代々にわたって唱えられます。14 どうか、立ち上がって シオンを憐れんでください。恵みのとき、定められたときが来ました。15 あなたの僕らは、シオンの石をどれほど望み 塵をすら、どれほど慕うことでしょう。

16 国々は主の御名を恐れ 地上の王は皆、その栄光におののくでしょう。17 主はまことにシオンを再建し 栄光のうちに顕現されます。18 主はすべてを喪失した者の祈りを顧み その祈りを侮られませんでした。

19 後の世代のために このことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」
 
新約聖書 コロサイの信徒への手紙3章12~17節

12 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。13 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。14 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。15 また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。16 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。17 そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。


説 教 「神を賛美するために」



以下 原稿です。
「神を賛美するために」

おはようございます。今日与えられた詩編は102編です。詩編102編は色々と特徴がある詩編です。一つ目の特徴は、なんと言いましても、102編19節の御言葉です。

こう記されています。「後の世代のために このことは書き記されねばならない。「主を讃美するために民は創造された。」

 この御言葉は、私達が使用している「讃美歌21」の最初のページの、一行目に記されている御言葉でもあります。
 その後に文章が続いていますので少し読みます。

「神の民の歴史は讃美歌と共にありました。キリスト者たちは讃美歌によって神の御名と御業の偉大さをたたえ、主イエス・キリストを告白してきました。讃美の声があるところにはいつも聖霊が働き、信仰の交わりが与えられてきました。讃美歌は私たちを信仰に導き、養い育てます。また困難や苦しみ、寂しさを乗り越えさせ、それに立ち向かう勇気を与え、宣教の奉仕へと送り出す力となります。」

 更に文章が続きますが、是非、時間のある時にでも、この文章を御自分で味わいつつ読んでいただきたいと思います。改めて讃美歌の大切さ、賛美する喜びが感じられると思います。
 
 今、私たちはコロナ禍にあり、首都圏の地域は緊急事態宣言が延長されて、私達の教会も、更に2週間、会堂での礼拝再開が延期となりました。
 今、私は本当に、この会堂で皆さんと共に心を込めて、共に讃美の歌声を響かせたい、それだけが今の私の願い、とさえ言えるかもしれない程、その時を心待ちにしています。主を賛美するために創造された私たちが、集まって神を賛美する。それは実に当たり前のことなのではないでしょうか。

 「主を讃美するために民は創造された」この御言葉が詩編102編の中に記されている、とするならば、さぞ詩編102編は神をたたえ、神を喜び、神を信頼する御言葉で溢れているであろうと思うのですが、この詩編の特徴の二つ目は、150ある詩編の中で、特に「七つの悔い改めの詩編」と呼ばれる詩編の一つということです。
 私たちは、この時主イエスの十字架を思う受難節、レントの時を過ごしていますが、古来レントの時にこそこの詩編は読まれてきました。
 悔い改めという言葉は、ヘブル語でメタノイアという言葉です。その意味は、方向を変える、向きを変えるという意味です。
 
 先週、3月11日は、東日本大震災が起こってから10年目の日となりました。テレビを見ていましたら特集の中で、何度も何度も津波の映像が流れていました。この10年間、私たちは折に触れて、そういった映像を見て参りましたが、何度見ても、慣れることなく心が震え、津波がどんなに恐ろしいものかを知らされます。右から水が来たので左に逃げたら、左からも水がやって来る、後ろに逃げようとすると後ろからもやって来る、必死になって逃げても、逃げる方向から水がやってくる。生きるか死ぬかの瀬戸際、ギリギリで映像を取り続けたカメラマンの貴重な映像なども映しだされていました。

 どこに向かえば良いのか分からなくなる、これは本当に恐ろしいことです。
 詩編の作者が抱えていた問題は、自然災害ではありませんが、紀元前587年からのバビロン捕囚の出来事と深く関係していると思われます。
 イスラエルが強国バビロンとの戦いで、破れ、多くの民が捕囚の民として連行されていく、そのような最中にあって、もはや生きていても死んだような状態、全てを失い、明日への希望もなく、打ちひしがれている様子が読み取れます。
 「主よ、わたしの祈りを聞いてください。この叫びがあなたに届きますように。」という御言葉から始まり、「苦難がわたしを襲う日に 御顔を隠すことなく、御耳を向け あなたを呼ぶとき、急いで答えてください。」と続きます。
 
 更に、この詩編の特徴の三つ目ことは、「わたし」という言葉が連続的に続きます。「わたしの生涯は煙となって消え去る」、「わたしはパンを食べることすら忘れた」、「わたしは呻き、骨は肉にすがりつき 荒れ野のみみずく、廃墟のふくろうのようになった」。荒れ野のみみずく、廃墟のふくろうとは、わたし以外の他には誰もいない、わたしを支えるものはなく、孤独に打ちひしがれている様子を表しています。
 「わたしはパンに代えて灰を食べ 飲み物には涙をまぜた。あなたは怒り、憤り わたしを持ち上げて投げ出された。わたしの生涯は移ろう影 草のように枯れていく。」

 このように続きます。「わたし」という詩編の作者が、自分の状態を延々と綴っています。わたしがどんなにみじめで、わたしがどんなに苦しく、わたしがどんなに孤独でいるのか、そして、その原因は「あなたが怒って、わたしを持ち上げて投げ出された」からだと言うのです。原因は「わたし」ではなく、「あなた」である。悪いのは「わたし」ではなく「あなた」である。
 そんなふうに告げているようにも思われます。
 
 私たちも、このような精神状態に追い込まれることが時としてあるかもしれません。
 私自身、牧師として様々な方々の話を伺ったり、相談を受けたりすることが
ありますが、その話や相談とは勿論、多く場合が、悩み、苦しみの相談です。
話す中で、解決するとまではいかないとしても、良い方向に向いていくか、向
いていかないかの分かれ目、分岐点があって、その分岐点に何があるかというと、「わたし」に気持ちが向かっている人と、「わたし」から隣人へと向こうとする人との違いかもしれないと思っています。

 あるいは、「わたし」にのみ気持ちが向かっている人は、悲しみ、辛さのピークと言えるかもしれません。このような時は、「わたし」しか見えませんし、自分の悲しさに自分が飲み込まれていると言えるかもしれません。でも、そのような時期を越えようとする時、気持ちが自分だけに留まらないで、周りに一緒にいてくれた仲間、家族、隣人の姿が目に入って来る。そうなって来た時に、あ~、そうか、自分は一人ぼっちだと思っていたけれど、こんなに一緒にいてくれる人がいたのかと分かって来る、そうすると、状況が大きく変わってきたりするのです。

 ましてや、主なる神が、こんな状況の最中でも、自分と共にいて下さったと思えるとしたら、圧倒的な力となることでしょう。

 信頼出来る人は誰もいない、でも、神様、あなたが共にいて下さったのですね。詩編102編の作者は、後半になればなるほどに、そのような思いが込み上げて来て、先に申し上げたように、「主を賛美するために民は創造された」とまで、心が持持ち上がっていくのです。
心が持ち直し、その人が向かおうとする向きが自分から主なる神へ、そして、仲間へ、隣人へと方向が変わっていくのです。
 
 新約聖書はコロサイの信徒への手紙の3章という箇所を読みました。12節から読みますとこうあります。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に付けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」
今、ここで多くのことを申し上げるつもりはありませんが、愛されているとは、赦されているとイコールなのではないでしょうか。

 人が「わたし」にのみ「自分」にのみ気持ちが向かっている時、恐らくそこに赦しはありません。こうなったのは、私以外の誰かのせいであり、神様のせいですらあります。原因はけっして「わたし」ではありません。
けれど、そのような者さえも、主なる神はしっかりと赦してくださっていた、私は愛されていた、見捨てられていなかった、一人ではなかった、と思えた時、自然と口から讃美のメロディが流れ出るようにして、生きる方向が、自分に対してではなく、主なる神に対して、そして隣人に対して向き、新鮮な空気を思いっきり吸い込んで、気持ちの良い深呼吸をするようにして、吐き出す息と共に大きな讃美へと変えられていくのです。「わたし」から「わたしたち」へと変えられ、孤独から解放されていくのです。
 皆さん、私たちは、それぞれの場でそれぞれの事情を抱えながら過ごしています。健康状態や、不安や恐れ、あるいは喜び、それぞれにおありでしょう。
でも、わたしたちは、「わたし」ではありません。孤独ではありません。主なる神の民としてこの世を生きています。感謝を持って、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しながら、元気に過ごして参りましょう。

 お祈りします。

黙 祷


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2021年3月7日(日)ビデオ礼拝 説教題 「完全に一つとなる」

2021-03-07 09:30:00 | 礼拝説教
2021年3月7日(日)【受難節第3主日 受難の予告】

黙 祷

招 詞 イザヤ書55章6~7節

「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ 悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば 豊かに赦してくださる。」

讃美歌 495番 「しずけきいのりの」 菊池典子姉



聖 書 旧約聖書 詩編101編1~8節

【ダビデの詩。賛歌。】慈しみと裁きをわたしは歌い/主よ、あなたに向かって、ほめ歌います。
 2 完全な道について解き明かします。
 いつ、あなたは/わたしを訪れてくださるのでしょうか。わたしは家にあって/無垢な心をもって行き来します。3 卑しいことを目の前に置かず/背く者の行いを憎み/まつわりつくことを許さず
4 曲がった心を退け/悪を知ることはありません。5 隠れて友をそしる者を滅ぼし/傲慢な目、驕る心を持つ者を許しません。
 
 6 わたしはこの地の信頼のおける人々に目を留め/わたしと共に座に着かせ/完全な道を歩く人を、わたしに仕えさせます。7 わたしの家においては/人を欺く者を座に着かせず/偽って語る者をわたしの目の前に立たせません。8 朝ごとに、わたしはこの地の逆らう者を滅ぼし/悪を行う者をことごとく、主の都から断ちます。

  新約聖書 ヨハネによる福音書17章20~22節

20 また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。21 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。22 あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。

説 教 「完全に一つになる」 菊池丈博牧師



以下、原稿となります。

 「完全に一つとなる」

 おはようございます。先週、「キリスト教文化の歴史」という本を読んでおりましたら、興味深い言葉がありました。それは「薄い皮一枚」という言葉です。
 
 キリスト教の歴史は、イスラエル、エルサレム教会からスタートします。
 その後古代の主要な教会が五つとなります。エルサレム教会、アンテオケア教会、トルコのコンスタンティノープル、アフリカのアレクサンドリア教会、そしてイタリアのローマ教会です。

 けれど、エルサレム教会は次第に衰退し、コンスタンティノープルの教会は正教会となり、ローマ教会はカトリック教会の中心となります。仏教は、インド発祥ですが、インドには殆ど残らず、周辺地域に派生していったように、キリスト教もエルサレムよりは、周辺地域、とりわけヨーロッパ地域において進歩、発展していったことは皆さんもご承知の通りです。
 ヨーロッパはエルサレムから見れば異教徒の地となりますが、そこに福音を宣べ伝えた最初の人が新約聖書に記されているように使徒パウロでした。
 
 今、ヨーロッパは異教徒の地、と申しましたが、パウロによってキリスト教が宣べ伝えられる前にも、西洋のそれぞれの地域に、あるいは民族毎に、様々な信仰の形があったに違いありません。彼らが以前から信じていたところの信仰が、どのようにしてキリスト教の信仰へと移り代わっていったのか、歴史的にも興味深い分野ですが、きっと多くの事柄があり、様々な事件があり、穏便に変化していったということは、少ないかもしれません。

 けれど、どうも、キリスト教が入って来た、だから前の宗教は無くなった、といった単純なことではなく、キリスト教が入って来て、前からあった宗教と上手く融合しながら、次第に地域の人々がキリスト教を受け入れて来たというのが本当ではないかと思われる。そのような意味において前の宗教に「薄い皮一枚」分が重なって、キリスト教が広がっていた、そんな文脈で「薄い皮一枚」という言葉が使用されていて、「なるほど」と私は、非常に納得したような思いになっております。

 20代の頃に、教会に通い始めた頃に、当時の牧師が、こんな話をしました。

 「山に登る道は、色々とあるが、どの道も山頂を目指している、だから、どんな道を歩んでも山頂に到着するように、どんな宗教を信じても、山頂に到着する、ということはありません。キリスト教を信じなければ、山頂には到着しません。」私は、なるほど、そうですかと答えましたが、その時以来、ずっとその言葉にはどこかで違和感がありました。

 本当にそうだろうか、山頂とは何かということは、横に置いておくとしても、キリスト教だけが山の頂に登頂出来て、他は出来ないとはどんな意味なのか、他の宗教と比較すると、抜きんでているとか、優れている、と言えるのだろうか。キリスト教だけが、それ程に崇高なのだろうか。
 私自身が牧師でありながら、そんなことを言うと叱られてしまうかもしれませんが、私は、何かしっくりこないものを感じておりました。
 
 そのしっくりこないものの正体が「薄い皮一枚」という言葉ではなかったかと思ったのです。どのような宗教であろうと、過激的、反社会的な宗教、金銭目的の宗教と呼ばれる偽物を除いてですが、私はどれも基本的には、人の幸せを求め、人に安心を与え、人と人とが平安に過ごせるようにと願い、求めているのではないかと思います。

 私自身、仏壇に手を合わせ、神棚に水を供える両親のもとに生まれました。子どもの頃からそのような姿を見て来ました。子ども心には、そんなことをして何の役に立つのかと思い眺めていたように思いますが、歳を取ると、人の力は、自分が思っていたよりずっと少なく、ずっと弱いものであることが分かったような気がして、両親が見せていた姿は、正しかったかどうかはともかく、間違っていたわけではないと思います。

今思うと、「キリスト教を信じなければ山頂に登れない」と言われた時、自分の過去の全てを否定されたようで悲しかったかもしれません。けれど、だから同時に、悲しいから両親の信仰のように生きたいとは全く思いませんでした。
むしろ、既にその時、自分には主イエス・キリストしかおられないという思いは動かしようもない程に、確信を持っていました。

 でも、それはなぜかというと、日本の文化、伝統、宗教の上に育った私に、主なる神が「薄い皮一枚」のキリスト教を重ねてくださったからだと思います。わずかに「薄い皮一枚」です。されど「薄い皮一枚」です。私は皮一枚の違いであるとしても、それこそが、決定的に大切だろうと思うのです。

 娘が高校を卒業しました。なんとか進路も決まりホッとしていますが、先日、娘が卒業アルバムを見ながら、ポツリと語り掛けてきました。「写真映りが悪い人っているよね。」どうも、自分の写真が気に入らなかったようです。いると思うよ、と言ったら満足そうにしていました。
 考えて見ると、私たちの顔も、体も、皆が似ているようで、皆が違っています。でも何が違っているかといえば、皮一枚分の違いでしかないと言えるかもしれません。体の表面の数ミリ、わずかな違いです。

でも、それが実に決定的な違いであるように、自分達の生き方、私たちの人生も、僅かに、薄い皮一枚分の違いが、圧倒的で、決定的に違うのではないでしょうか。

 今日は詩編101編を読みました。この詩編は久しぶりに「ダビデの詩」というタイトルが付けられていますが、読みますと、ダビデが王として即位した時の詩と言われています。特徴は「完全な道」という言葉が二回登場します。
ダビデは王として、神に対して、またイスラエルの民に対して、完全でありたいと願ったのではないかと思います。最後の8節には「朝ごとに、わたしはこの地の逆らう者を滅ぼし 悪を行う者をことごとく、主の都から断ちます。」と、ダビデがそのように決心した様子を読むことが出来ます。
優れた、良い王でありたい、完全でありたいという思いが滲み出ているように感じます。

 けれど、勿論、私たちは神の御前では完全ではありません。先週も話しましたが、私たちは不完全な者でしかありません。主なる神は、神に僅かに劣る者として人を造られました。この「僅かに劣る」という言葉は、私が持っている聖書の一つに「殆ど天使と同じ程に」と訳されている聖書もありました。
私たちは、天使と変わらない程に、神に愛され造られた存在です。でも、僅かに劣っている、その「僅か」は「薄い皮一枚」分かもしれません。でも、その違いが決定的であって、私たちは、 決して完全にはなれません。
その不完全さは、時には仏壇に手を合わせ、時には神棚に水を供えてしまうような不完全さというよりは、私たちは神に造られ、命与えられ、限りある地上の生涯を生きる人間としての不完全さだと思います。

 キリスト教だけが山頂にと言っても、そのキリスト教ですら、なぜカトリック教会があり、プロテスタント教会があり、正教会があるのか、更には、数えきれない程に、世界中に建てられている教会の礼拝のあり方も、信仰のあり方も、同じ聖書を用いながらも、大きく違いますし、違うだけでもなく、その違いによってどれほど、人の血を流して来たかとも言えます。同じ信仰であるはずなのに、同じ信仰でも、薄い皮一枚の違いが、どれほど人の心を傷つけ、怒りと怒りが衝突してきたかとも言えます。

 そのような私たちにとって、何よりの拠り所は、主イエス・キリストというこの方なのです。この方が誕生され、この方が福音を宣べ伝えられ、この方が十字架に架けられて、この方が復活されたのです。このことを信じる一人一人こそが、どんな地域であろうと、どの国であろうと、どの民族であろうと、どんな風習、習慣であろうと、この方の完全さの前に、一つとされて、神の子どもとされ、神の家族とされている。今日は、新約聖書から、主イエス・キリスト御自身が祈っておられる箇所を読みました。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。」と祈って下さいました。

 不完全な私たちは完全にはなれません。でも、この方の完全な祈りが、私たちを一つにして下さり、私たちを本当の幸いに導いて下さるのです。神が人の為に、命を惜しまない程に愛して下さった。血を流し、十字架にかけられる程に、慈しんで下さった。やっぱり、私はこの方無しには、生きる術がない、と思うのです。

 お祈りしましょう。

黙 祷



 
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