日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

2021年2月28日(日)ビデオ礼拝 説教題 「われらは主のもの」

2021-02-28 09:30:00 | 礼拝説教
2021年2月28日(日)【受難節 第2主日 悪と戦うキリスト】

黙 祷

招 詞 イザヤ書30章15節
「お前たちは、立ち帰って 静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある。」

讃 美 306番「あなたもそこにいたのか」 菊池典子姉



聖 書 詩編100編1~5節

1 【賛歌。感謝のために。】全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
2 喜び祝い、主に仕え 喜び歌って御前に進み出よ。3 知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民 主に養われる羊の群れ。
4 感謝の歌をうたって主の門に進み 賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。5 主は恵み深く、慈しみはとこしえに 主の真実は代々に及ぶ。


説 教 「われらは主のもの」 菊池丈博牧師



以下、原稿となります。

「我らは主の民」

 おはようございます。3月7日までの非常事態宣言も、あと一週間となりました。恐らく3月7日には解除となり、14日からは会堂での礼拝を再開出来ると思います。その時までもう少し私たちは、より慎重に行動しながら、願わくはコロナにかからないように、祈りつつ過ごして行きましょう。

 今日の礼拝は、詩編100編を読みました。今、私たちの教会の礼拝は、旧約聖書の詩編を読みながらの説教を続けていますが、詩編100編となり、150ある詩編の三分の二を読み進んだことになります。詩編100編は私たちに馴染みのある詩編です。どこに馴染みがあるかというと礼拝の最初の招きの言葉、招詞に用いられる詩編として知られます。
特に1節、2節の御言葉「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え 喜び歌って御前に進み出よ。」この御言葉は、礼拝の最初に司式者によって読み上げられ、その御言葉が礼拝堂に響いて、礼拝がスタートします。華やかで、晴れやかな御言葉ではないでしょうか。この詩編100編そのものも、短い詩編でありながら、礼拝において喜びの詩編として読み継がれ、愛されてきた詩編だと言えます。

 3節には「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」と続きます。この詩編から、私たちが改めて知らされることは何かというと、一つは「主こそ神である」。二つ目は「主は私たちを造られた」。三つめは「私たちは主のもの、その民」でありましょう。

 今日はこの3節の御言葉について、改めて心に受け止めていきたいと願いますが、「主は私たちを造られた」とあります。私たちは造られた存在です。これまで礼拝で何度も申し上げていますけれど、私たちは生まれたくて生まれて来たわけではありません。気が付けば、男として、女として、誕生し、気が付けば親がいて、兄弟がいて、家庭があり、気が付けば日本語を話し、気が付けばこの時代に生きている。江戸時代が良かったな、とか、あと100年遅かったら良かったなとか、思ってもそうはいきません。
 
 私たちはこの時代のこの地域で、ここに生きています。でも、生きているというより私たちは神によって生かされている存在です。
そこでは私たちが何かを選択する領域はありません。神の領域だと思います。私たちの選択は生まれた後に、どのように生きていくのか、その選択は任されているとしても、自分は神に造られていないとは言えません。
勿論、人生という船の船長は自分です。でも、その船を持っている船主は、神様です。ですから、いつか、その船は返さなければなりません。返すまでの時間が地上の生涯となるわけです。そのようにして主は私たちを造られました。

 私たちを造るにあたって、主なる神は「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろうと言われました。ですから私たちは神様の姿に似ていると思います。似ているとはどういうことかというと、似ているけれど、神様ではないということです。
 詩編8編に「神に僅かに劣るものとして人を造り」と記されていますが、神様の完全の前においては、私たちは不完全であり、でも、その不完全さによって、いつも完全なる神を見上げて生きるようになっているのだと思います。でも、その不完全が悪いのかというと、そうでもありません。

 我が家に昔、ネットオークションで、数千円で購入した、ねじ巻きの古い柱時計があります。一月に一回ねじを巻かなければなりません。でも、正常に稼働しますとありましたので気に入って購入したのですが、家族には評判が悪い、何故かというと一つはうるさい、一時間置きにボーンと時間を知らせ、30分おきにもボーンとなりますからね、慣れるまではうるさいと良く言われました。けれど、それよりも評判が悪いのは、時間が合っていないという所です。一月に普通に10分から20分は狂います。でも、きっと、昔は、十分に許される範囲内だったのでしょう。

 隣の台所の部屋には、ビバホームで購入した電波時計があります。その時計はさすがに電波時計ですから一秒の狂いも無いでしょう。時計ですから、勿論時間が正確なのに越したことはありません。
でもね、私はいつも10分、20分進んでいる柱時計も良いなと思うのです。私たちはいつの間にか、時間、時間で動くようになり、学校も職場も、家庭も、電車も社会全体が時間で動き、時間通りが当たり前、時間にルーズな者は評価されないとか、社会で生きていけないとか言われたりもしますが、柱時計を見ていると、本当にそれほど、時間が大切かと思う時があります。

 私たちの社会はいつのまにか正確さが評価対象となっていますが、私たち自身の内にある不完全さは、それをストレスと感じているのではないでしょうか。

 主なる神は、私たちを主に似せて造って下さいました。だから、私たちを見ると、神が分かるとも言われますけれど、それは私たちの完全さによって分かるのではないと思います。私たちは決して電波時計のように正確な時刻を刻みながら生きられません。
 むしろ、ずっと柱時計のようにして生きているはずです。でも、それなら私たちのどこが、主なる神に似ているのでしょうか。それは、主なる神が徹底的に私たちを愛して下さったように、人と人が互いに愛する存在として造られている、という点ではないでしょうか。私たちは神に少し劣る、だから人には特に愛が必要なのだと思います。

 以前、聞いた話ですが、アメリカでの話です。一人の泥棒がある家に侵入しました。若い夫婦の家でした。その夫婦は夜のパーティに呼ばれ出かけた後に、それを確認してから家に侵入しました。誰もいないと思って入ったのですが、頼まれていたのでしょう。ベビーシッターと幼い赤ちゃんがいたそうです。
泥棒は一瞬驚きましたが、よく見てみると、ベビーシッターがグウグウいびきをかいて寝ていました。だから安心して、家の高価な宝物を物色して、そろそろ帰ろうとした時に、ふと見たらベビーシッターは相変わらず寝ていましたが、ベビーベットに寝かされた赤ちゃんが、まん丸の目で泥棒を見ていたというのです。

 あまりにかわいい顔でこちらを見ているものですから、思わず手を差し伸べたら、口でチュウチュウと泥棒の指を吸って来るではありませんか、そこには疑いとか、怒りとか、悲しみといった言葉ではなく、たった一つ、信頼という言葉の世界がありました。指を吸われた泥棒は、自分の子どもの頃の出来事を思い浮かべました。
 子どもの頃、教会にいっていたな、「主われを愛す」って歌っていたな、幸せだったなぁ、そのことを思い浮かべているうちに、心を取り戻し、何も取ることをしないで家から出たそうです。

 人の中で赤ちゃんほど不完全な脆い存在はありません。一切の何も出来ません。でも、その赤ちゃんが泥棒の心に与えたもの、それは圧倒的な人に対する信頼ですよ。

 その信頼は、主なる神が私たちを造られ、造られただけでもなく、御自分の一人息子である主イエス・キリストを送って下さり、主イエスによって神の愛が知らされたように、神は、私たち一人一人を信頼しておられる。そのことを知らされる度毎に、私たちは確かな心を取り戻すのではないでしょうか。神は私たちに完全であれ、と求めているのではなく、欠けがあるとしても互いに、信頼し、互いに愛することを求めておられる、そのような愛のある場面でこそ、私たちは愛を通して、神を見る思いがするのではないでしょうか。

 神によって造られた私たちの、すべてが主のものです。「私たちは主のもの、主の民」と詩編に記されているように、全てが主のものです。
ローマの信徒への手紙の中14章8節に「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」とあります。

 私たちの人生の生きるにしても、死ぬにしても、全ては主のもの、生きているといつの間にか、どこか調子が悪くなる時があります。時には転ぶこともあり、怪我をしたり、思いがけない病気になったり、あるいは今の時代のように、感染症の病気が流行ったり、先日の地震のように自然災害が起こったり、私たちはいつ死んでもおかしくない程に、様々な出来事を経験しながら、しかし、今を生きています。けれど、その人生は頑張って生きても100年です。その100をどう生きていきますか。生きようとしていますか。いつ死ぬか、いつ死ぬかと怯えて生きるよりも、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のもの、全ては主のものと、与えられ、生かされている命を、精一杯生きていきましょう。そのような前向き、肯定的な人生が、人を神に向かわせると私は思っています。

お祈りします。








 
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2021年2月21日(日) ビデオ礼拝 説教題「応答される神」

2021-02-21 09:30:00 | 礼拝説教
2021年2月21日【受難節第1主日 荒野の誘惑】

黙 祷

招 詞 詩編118編22~23節

「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業 わたしたちの目には驚くべきこと。」

讃 美 509番「光の子になるため」 菊池典子姉




聖 書 

旧約聖書 詩編99編1~9節

1 主こそ王。諸国の民よ、おののけ。主はケルビムの上に御座を置かれる。地よ、震えよ。2 主はシオンにいまし、大いなる方。すべての民の上に高くいます。3 御名の大いなること、畏るべきことを告白せよ。主は聖なる方。

4 力強い王、裁きを愛し、公平を固く定め ヤコブに対する裁きと恵みの御業を 御自ら、成し遂げられる。5 我らの神、主をあがめよ。その足台に向かってひれ伏せ。主は聖なる方。

6 主の祭司からはモーセとアロンが 御名を呼ぶ者からはサムエルが、主を呼ぶと 主は彼らに答えられた。
7 神は雲の柱から語りかけ 彼らに掟と定めを賜り 彼らはそれを守った。
8 我らの神、主よ、あなたは彼らに答えられた。あなたは彼らを赦す神 彼らの咎には報いる神であった。
9 我らの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かってひれ伏せ。我らの神、主は聖なる方。

新約聖書 テサロニケの信徒への手紙一 5章12~15節

12 兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、13 また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい。14 兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。15 だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。

説  教  「応答される神」 菊池丈博牧師



以下 原稿となります。

応答される神

 今週もコロナウィルス感染予防の観点からビデオ礼拝という形で、私たちの教会は礼拝を守ります。映像を通してという礼拝ですが、その場、その場にあって神様の恵みがしっかりと与えられますように願っています。

 今週は詩編99編から「応答される神」というタイトルとしました。私たちの問いかけに対して応答して下さる神の姿、それは主なる神を信じる者にとって何よりの力となり、何よりも励ましとなるのだろうと思います。

 先日、私は家内と共に市役所に行ってきました。ここのところ説教で何度か話しをしていますが、私の母親が家で転びまして、大腿骨を折って入院しました。それで毎月の入院費用やら、介護の問題やら、相談にと思いまして二人で出かけました。
 最初に、この課であろうと思う箇所で相談しましたら、入院費用の件でしたら、違う番号の所に行ってくださいと言われ、そうですか分かりましたと言われた番号の所で相談をしました。
話を聞いてくださった方が、それなら手続きすれば幾らか補助が出ますよということで、書類を用意していただいた。用意するのに時間が少しかかりますと言われて、介護保険の相談もあるのですがと、話しましたら、それはこの課ではありませんから、違う所に行ってくださいと言われて、そうですか分かりましたと、家内に行かせまして、私は書類を待っておりました。
暫く待って呼ばれて、よく調べたら補助は出ませんでしたと言われ、驚いて家内の所に行きましたら、介護の部署で話をしておりました。
そこで一通り説明を受けた後に、母親の今後の生活について相談しようとしましたら、その相談はここではなく、あちらの番号の箇所に行ってくださいと言われ、そうですか分かりましたと、言われた所に行って、母親の状況を話しながら、困っていますと相談して来ました。そこで相談を受けた方は、親身になって聞いてくださいましたけれど、結局のところ、私たちが知っている知識以上のことは何も得ることが出来ず、大分長く市役所にいましたけれども、来た時の状況と一つの変化もなく家に帰って来たわけであります。

 帰りの車の中で、一人の母親について、何か所も行かなければならないんだねと笑って話しました。また、改めて老後のための蓄えとか備えが必要だということだけは良く分かりました。

 とはいえ、今日申し上げたいことは、縦割り行政がどうの、という問題とかではなく、どの箇所に行っても、対応して下さった方が、親切だったなあと思うのです。今はそういう時代なのかもしれません。きっと優しく対応するような教育を受けているのかもしれません。

 こちらとしては、困っているわけですから、時には厳しい言葉も出たりします。つい感情的になることもあります。そんな人たちが恐らく毎日来るであろうとも思います。でも、感情的にならずに、一生懸命に対応して下さろうとする姿は、ちょっとだけでも癒された思いで帰ることが出来ました。

 悩みが解決するかどうかも大切ですけれど、解決しないとしても話を聞いてもらえる、きちんと応答してもらえる、それだけでも随分と心が軽くなると改めて思います。

 神様をたとえるならば父親のようだと言われます。神様の愛は、母親の愛に一番近いとも言われます。元気な頃の母親は、子ども達に、時々、お父さん、お母さんって本当にいいんだろうねぇと言っておりました。
母親は幼い頃に父を亡くし、母を失い、祖父に育てられていましたから、父の愛、母の愛を知りません。近所の友達を見て、母親がいる、父親がいる家庭を見ていて、羨ましかっただろうと思います。何が羨ましいかというと、お父さんと呼ぶと、「何だい」と答えてくれる。お母さんと声をかけると「なあに」と答えてくれる、これが本当に羨ましかっただろうと思うのです。
父がいて、母がいる、私たちは普段それが当たり前だと思っています。でも当たり前には感動が生まれず、感謝することもありません。誰かが、「親の老後を見るというのは、命をかけた親の最後の子育てだ」と話していました。それも一理あるかなとは思います。当たり前が当たり前ではなく、ありがたいと思いながら、これからも、母親を見ていければと今は思っています。

 人はそのようにして、「何だい」、「なあに」と言って、自分に応答してくれる人を探しながら、生きているのではないでしょうか。
主なる神は天地創造に際して、アダムを造り、アダムに応答する者としてエバを造られました。私はそのことはとても大切だと思っています。

 先週はオリンピック、パラリンピック組織委員会の会長選出の問題が、ホットな話題でした。発端は森会長の不用意な発言から始まりました。女性を蔑視するような発言だと大分騒がれました。思っていることと、話していることは一致していると考えれば、騒がれても仕方ないかと思います。けれど、森会長の存在をも否定するようなコメントも多かったのではないでしょうか。コロナ禍の中で、今、日本中の人々が、世界中の人々が、ギリギリを生きている状況で、誰もが上手な応答が出来なくなってきているのかもしれません。

 だからこそ、主なる神を信じる私たちは、父親のように、母親のようにして、私たちの思いと言葉にしっかりと応答して下さる方の思いを受け止めて、今の時代を生きていく大切さを思います。

 今日、与えられた詩編99編6節から改めで読みます。「主の祭司からはモーセとアロンが、御名を呼ぶ者からはサムエルが、主を呼ぶと主は彼らに答えられた。神は雲の柱から語り掛け 彼らに掟と定めを賜り 彼らはそれを守った。我らの神、主よ、あなたは彼らに答えられた。あなたは彼らを赦す神 彼らの咎には報いる神であった。」

 モーセは出エジプト記に登場するイスラエルの指導者です。主なる神に見出されて、怯むモーセに対して、神みずからがモーセを励まし、力を与え、勇気を与え、そして兄のアロンと共に、エジプトで奴隷とされ苦労していたイスラエルを導き、出エジプトを果たし、その後40年に亘って、荒野の中、イスラエルを導きました。しかし、その導きは主なる神の御言葉なしには、なし得ない働きであったことに間違いはありません。
祭司サムエルは、イスラエルの人々が願い求めた、イスラエルの王、最初の王となるサウルに油を注ぎ、また二代目の王となるダビデを見いだし、油を注ぎました。偉大な祭司として知られていますが、また、サムエルの働きも主なる神の御言葉なしにはなし得ない業であったと思います。

 モーセ、アロン、サムエル、旧約聖書に生きた彼らは主なる神の直接的な御言葉を聞きました。その御言葉によってどんなに励まされたかしれません。困った時、悩んだ時、主なる神がしっかりと応答して下さる。これ以上の安心は無かったでしょう。
 今、私たちはそのようにして主なる神の御言葉を聞くことは滅多にありません。私にも主なる神が直接的に語り掛けてくれないかな、と思うことは時々ありますが、聞こえることはありません。
でも、だから、主なる神は主イエス・キリストを私たちに与えてくださり、この方を通して、もっと具体的には聖書の御言葉を通して、私たちに応答されているのではないでしょうか。

 その応答の、より具体的には詩編99編8節にある御言葉「あなたは我らを赦す神」とあります。赦す神の姿こそ、主イエスの姿だと私は思います。なぜ神の愛はお父さんのようで、お母さんのようだと説明するのか、それは、その人が何をしているのか、何をしていないのかで判断するのではなく、その人の存在そのものを愛する、そのような愛だからです。

 私たちはその人が何を言ったのか、何をどう思っているのかで判断してしまいます。正しいか正しくないかを判断するのです。自分は判断出来る、そういう資格を持っていると誰もが自分のことを思う必要もないほどに、そう思っているのです。それが私たちです。人の失言はとても気になりますし、自分はそれを批判出来る立場にあると当然のように思っているのです。それが私たちです。あるいは、反省して悔い改めたら許すかな、そう思っているところもあるではないでしょうか。
 
 聖書が示す愛、主イエスが示すところの愛も、赦す神としての姿です。でもその赦しは、人が思うところの赦しとは全く違った次元ではないかと私は思っています。
カトリック教会のある神父は、「赦しとは水に流すこととは違う」と説明されました。その深い意味を私は理解しきれていないと思いますけれど、そこには悔い改めへと導く大切さが示されているのかもしれません。けれど、あえて申しますけれど、自分の罪を、罪として認めたところから神の赦しが発出されるのではないと私は思っています。
主イエス・キリストが伝えようとする赦しは、きっともっと違うところにあって、たとえるなら、主イエスの服の裾にさえ触れれば、あるいは癒されるかもしれないと思い、そのことをした女性が癒されたように、姦淫の罪で連れて来られた女性に対して、最後には誰も石を投げないようにしたばかりか、主イエスも自分も投げないと言って下さったように、神の赦しは、その人が何をやっているのか、何をどう思っているのかではなく、圧倒的で、一方的で、決定的な、そして十字架刑という命がけの「赦し」なのです。
 そのような赦しの体験を通して、人は神の愛を知るのではないでしょうか。

 その赦しは、恐らく人には出来ない業であるかもしれません。でも、人には出来なくとも神には出来ると主は教えておられました。だから私たちは主なる神の確かな赦しの「応答」を受けて、そこから、そうかまた生きていける、そうか、また元気にやっていこう、と何度転んでも、転びそうになっても、立ち上がってまた一歩を歩いていけるのです。

 そのようにして、私たちは元気に過ごして参りましょう。お祈りします。



  

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2021年2月14日(日)ビデオ礼拝 説教題「主を愛する人の生き方」

2021-02-14 09:30:00 | 礼拝説教
2021年2月14日(日)【降誕節第8主日  奇跡を行うキリスト】

黙  祷

招  詞 詩編104編 33~34節
 「命ある限り、わたしは主に向かって歌い 長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。どうか、わたしの歌が御心にかなうように。わたしは主によって喜び祝う。」

讃  美 讃美歌140番 「み神のすまいは」 菊池典子姉



聖  書 

旧約聖書 詩編97編1~12節

1 主こそ王。全地よ、喜び躍れ。多くの島々よ、喜び祝え。

2 密雲と濃霧が主の周りに立ちこめ 正しい裁きが王座の基をなす。3 火は御前を進み 周りの敵を焼き滅ぼす。4 稲妻は世界を照らし出し 地はそれを見て、身もだえし5 山々は蝋のように溶ける 主の御前に、全地の主の御前に。6 天は主の正しさを告げ知らせ すべての民はその栄光を仰ぎ見る。

7 すべて、偶像に仕える者 むなしい神々を誇りとする者は恥を受ける。神々はすべて、主に向かってひれ伏す。8 シオンは聞いて喜び祝い ユダのおとめらは喜び躍る 主よ、あなたの裁きのゆえに。9 あなたは主、全地に君臨されるいと高き神。神々のすべてを超え、あがめられる神。

10 主を愛する人は悪を憎む。主の慈しみに生きる人の魂を主は守り 神に逆らう者の手から助け出してくださる。11 神に従う人のためには光を 心のまっすぐな人のためには喜びを 種蒔いてくださる。12 神に従う人よ、主にあって喜び祝え。聖なる御名に感謝をささげよ。

新約聖書 マタイによる福音書22章34~40節

34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』38 これが最も重要な第一の掟である。39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

説 教 「主を愛する人の生き方」




以下、原稿です。


「主を愛する人の生き方」

 皆さん、おはようございます。新型コロナウィルス感染予防の為の緊急事態宣言が3月7日まで延長となりました。毎日の感染者数は減少傾向のように感じますし、気候も徐々に暖かくなり、ウィルスが活発に動く季節も終盤のように感じます。更に、ワクチンが輸入されて、日本でもワクチンの接種がはじまろうとしています。そういう状況でなんとか早く緊急事態宣言が解除となって、感染予防しつつも、会堂での礼拝を再開できますように心から願います。
とはいえ今は、慌てずもう暫くこの状況を守りつつ、静かに過ごしていきましょう。

 今日の礼拝で読まれましたのは詩編97編です。この97編は、内容的にも主なる神を讃え、主に感謝する、先週の96編に続く詩編となります。

 紀元前500年代にイスラエルはバビロニアとの戦争に敗れ、その結果50年に亘るバビロン捕囚、捕虜として、奴隷のような生活を過ごさなければなりませんでした。その辛い50年を過ぎた位で、状況が変わりまして帰還命令が出され、やっと自分達の故郷に帰れる、自分達の場所に帰れる、人々は喜びに満ちて故郷、エルサレムに帰りそこで礼拝を献げ、神に感謝した。そのような喜びが記されているのが詩編97編となります。

 久しぶりに帰ってきた故郷、人々はどんなに嬉しかったことでしょうか。

 話は変わりますが、今、座間の病院に入院している私の母親が、認知症となって大分経ちますけれど、3月、4月までは入院となると思います。今、こういう状況ですから、お見舞いにも行けません。聞く話では、症状が大分進んできているようです。家に帰りたいというようです。けれど、私の家ではありません。自分が生まれた実家に帰りたいと言うのです。

 母親が言うところの、家には、自分が幼い頃に育った頃の様子が映し出されているようです。とうに亡くなっているおじいちゃんが元気にしている、いつも世話をしてくれていたお兄さんが一緒にいる、聞くと恐らく10歳になるか、ならないか位の頃の風景のようです。
 それ以降の、例えば自分が18歳で結婚したとか、4人の子どもを出産して育て上げたとか、お金が無くて苦労したとか、そう言ったところの殆ど全ては、忘れているか、どうでも良いのか、わからなくなっているのか、とにかく、10歳位の自分がいて、そこに帰りたいというのです。家でもずっとそう言っておりましたが、病院でも同じ話をして看護師さんを困らせているようです。

 今、教会での祈祷会もお休みしていますが、昨年暮れまで、創世記を読んでおりました。創世記の最後はいわゆるヨセフ物語りですが、兄たちの謀によって、エジプトに売られたヨセフでしたが、そこで夢を読み解く能力を発揮し、 エジプトの大臣となり、大活躍して七年間の飢饉を乗り越えます。

 家族をエジプトに呼び寄せ、そして最後は110歳で召されるのですが、召される時に、自分の亡骸は、自分の故郷である土地、主なる神がアブラハム、イサク、ヤコブに誓ったあの土地に葬って欲しいと願って召されていきます。
私はこれまで何気なく読んできましたが、ヨセフが故郷に住んだ期間は17年、エジプトには93年、でも、どうしてもエジプトが故郷にならないということを、改めて思わされました。

 ヨセフの頭の中には、幼い頃の記憶があって、元気で丈夫な父親がいて、やんちゃな兄弟がいて、じゃれあって遊んだあの場所というより、あの頃が、故郷なのだろうと思いました。だから死んだらそこにと言ったのだろうと思います。私たちが頭で感じているところの故郷とは場所もそうですが、あの時、あの頃、という時間を示しているのかもしれません。

 戦争に負け、バビロンに連行されて50年、そして解放されて帰還したイスラエルの人々はどんなに自分達の故郷に恋焦がれていたことでしょう。生きているうちに一度でいいから帰りたいと願って召された方々も少なくないと思います。
けれど、ついに願いが叶い、自分達の故郷に帰ることが出来た喜びと、そして故郷の土地に立って、これまで導いてくださった神に感謝の礼拝をささげ、「主こそ王。全地よ、喜び踊れ。多くの島々よ、喜び祝え」と声高らかに詩編97編が朗読されるのです。

 この詩編は12節までの短い詩編ですが、内容としては1節から9節までは、天地創造なる神の偉大さと、その神を讃える御言葉が綴られ、10節から少し変わりまして、神を愛する人とはどういう人か、あるいはその人の生き方はどういうことかが記さます。
 10節「主を愛する人は悪を憎む」11節「主は神に従う人の為には光を、心のまっすぐな人のためには喜びを 種まいてくださる。12節「神に従う人よ、主にあって喜び祝え。聖なる御名に感謝をささげよ。」と記されます。

 今日の説教題を「主を愛する人の生き方」としました。私たち主イエス・キリストを主とし、人生の歩みを生きる者の故郷はどこか、というと、勿論主イエスがそうだと話されるでしょう。神の恵みを受けて、神を信じ、主に従うと決めた時、洗礼を受けた時、そういった神の時、その時々に信仰の故郷、信仰の原風景があると言えるかもしれません。

 信仰生活を生きる中で、迷いを感じたり、時には疲れを覚えたり、人と人との関係の中で、生きづらさを感じるような時に、いつも戻れる所がある、新たな力をいただいてまた力強く生きていこうと決心出来るところ、そこが信仰の原風景、私たちの故郷ではないでしょうか。

 その故郷は、何も神とは何か、教会とは何か、信仰とは何か、罪となにか、と色々と複雑で、時にはよく分からない神学や哲学といった学問というよりは、もっと単純で素朴なものであるかもしれません。
今日の詩編を読む中にあっては、「主を愛し、悪を憎むこと」、「神の光と喜びを生きること」、「感謝すること」といった御言葉が単純素朴さを上手く表しています。

 主イエスは、人々に対して「主なる神を愛する事」、「隣人を愛する事」律法の中で、この二つが最も大切な教えだと話されました。大切な教えであればある程に、案外単純、明快なのかもしれません。

 神を愛し、人を愛するには、どうすれば良いのか、私たちはいつもそこで悩み、問いを立てて、集会を開き、議論します。勿論それも大事なことでしょう。

 けれど、私はこの詩編を読んで、愛することは、「喜ぶこと」だと思わされました。詩編97編の中で6回も喜びという御言葉が使われています。
 神を喜び、自分を喜べる人こそが、隣人をも喜べる人ではないでしょうか。

 先日、家で夕食を食べていた時に、「陰キャ」と「陽キャ」という言葉が出ました。若い世代では普通に使われている言葉のようですが、陰キャとは暗いキャラクター、暗い性格、陽キャとは明るいキャラクター、陽気な性格ということようです。
 菊池家は殆ど皆が、陰キャだよね、と笑って話しましたが、その時、私は「菊池家だけでなく、殆どの人が陰キャではないか、どんな時も陽気で明るいという人はそんなにはいないと思うよ」と話しましたら、なんだか皆が納得しているようでした。

 人はそうそう明るく生きていけません。子どもの頃から勉強、受験、就職、結婚で悩み、結婚しても、子育て、仕事で悩み、そして病気、老後、考えてみればいつもどこかで、思い悩み、人生は苦労の連続だと言えるかもしれません。

 それを明るく陽気に生きていける人、本当は少ないかもしれません。むしろ、一つ一つの課題に頽れそうになる、倒れそうになる、絶望しそうになる、そんな状況を生きている人のほうがずっと多いと思います。
 
 そうであるとすれば「喜ぶこと」は、自然に出来ることではありません。喜んで生きるためには、自分はそう生きるという決心が必要だと思うのです。そして、そう生きるようにと決心を促して下さり、導いてくださるのは、主なる神、主イエス・キリストです。
 主こそがあなたは神を愛し、隣人を愛せ、それはなにより「喜ぶ」ことだと、告げておられるのだと私は思います。

 コロナウィルス感染が一年以上も続く中で、多くの家庭、職場の危機が叫ばれる中でも、尚、私たちは喜んで行きましょう。そのような決心をして生きていきましょう。初めて神とふれあった喜び、洗礼を受けた日、そのような新鮮で、生き生きとした信仰の原風景を生きていきましょう。

 テレビ、報道で今見られる殆どのことは、批判と不安と不満です。自粛生活が長引く中で体調を崩している方も少なくありません。けれど、私たちは、それでも主にあって喜んで生きていきましょう。それが主なる神を愛するものの生き方であろうと思います。 お祈りしましょう。

黙  祷





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すべての人が食べて満足した

2021-02-10 09:07:05 | 子どもたちに福音を
ヨハネによる福音書6章11節
「すべての人が食べて満足した。」

 今日は、イエス様がなされた奇跡のお話です。奇跡とは信じられない出来事です。どんな信じられない出来事が起ったかというと、イエス様の回りに沢山の人々がいました。少しでもイエス様の近くにいて、イエス様のお話を聞きたい、イエス様の声を聞いていたい、そう思って沢山の人々がいました。どの位の人がいたのかというと、男の人だけで5千人であったと書かれてあります。ですから、女性の人とか、子どもの数を合わせると1万人以上イエス様の回りにいたのかもしれません。そんなに沢山の人たちがイエス様の回りにいたわけです。

 だから、きっとイエス様は一生懸命、みんなに神様のお話をしただろうと思います。神様の国のお話や、みんなが元気になるお話、嬉しくなるお話をしたと思います。みんなもいつまでも聞いていたいと思いながら聞いていたでしょう。
 ところが、段々太陽が傾いて来て、夕方になって来ました。夕方になってお腹が空いて来ました。弟子達もお腹が空いて来ました。それで、そっとイエス様に話しかけました。「イエス様、イエス様、そろそろお腹も空いて来ましたし、終わりにしないと、みんなが帰ってご飯を食べなければならない時間になりましたよ。」
 
 そうしたら、イエス様は、「あれ、そうかい、そんな時間ならみんなを帰らせましょう」というかと思ったら、そうは言わないで、弟子達に話しました。「あなた方が食事の準備をすればいいでしょう。」弟子達はびっくりです。「え~、私達が食事の用意をするのですか、だって1万人位は人がいますよ。どうやって食事の用意をするのですか、そんな、無理なことは言わないで下さい。どこかお店に行くと言っても、お金もそんなにありませんよ。」と答えました。

 そこで、イエス様はどうしたのか、というと、「それでは、ここに何か食べ物がありますか?」と聞いたら、弟子達は「はい、ここに五つのパンと二匹の魚があります。でも、これを少しずつ分けても、ほんのちょっぴりしか食べられませんから、やっぱり無理ですよ」と答えました。

 それでもイエス様は、それではその五つのパンと、二匹の魚を持って来なさいと言いました。そしてパンと魚を手に持って、天を見ながら、イエス様はお祈りしました。そうしたらなんと、その手から幾つも幾つもパンが出て来て、幾つも幾つも魚が出て来て、このパンと魚を皆に分けなさいと弟子達に渡しました。弟子達は次から次へと出て来るパンと魚を沢山の人々に分け与えて、なんと、そこにいた女性も男性も、子どもも大人も、ついに、みんながお腹一杯になったそうです。残ったパンと魚がある程、みんな満腹したそうですよ。それは、イエス様がなされた奇跡の業、私達には信じられないお話です。

 でもね、このお話は聖書の中に4回も同じようなお話がありますから、きっと聖書を書いた弟子達は、本当に忘れられない出来事だなぁって思いながら、この話は絶対聖書に書いていつまでも、忘れないで欲しいって思いながら、書いたんだろうって思います。

 みなさん、お腹が満腹する、お腹が一杯になるということはとても、大切です。今、世界の中で、8億人以上の人が、食べ物が無くて困っているそうです。食べ物が無いと、病気になったり、大きくなれなかったり、そして、もった大変なのは、食べ物が無いと、人はイライラして来て、ムカムカしてきて、ちょっとの事でも喧嘩をしたり、争いとなったり、最後には戦争になります。戦争になると、もっと沢山の人が死んで行きます。今も戦争をしている国が沢山ありますね。
食べ物が無くなって、イライラして戦争するでしょ、でも、戦争をすると、野菜やお米を作る人がいなくなって、更に食べ物が無くなってしまいます。食べ物が無くなると、もっと、イライラするので、もっと戦争をしてしまうかもしれません。

 だから、お腹が一杯だなぁって、とっても大切なことです。お腹が一杯だとイライラしません。安心します。幸せだなぁって感じます。幸せだな~って思う人は、喧嘩しません。みんな平和に暮らせます。だから、イエス様はみんなが満腹になって、良かったって思えるようにして下さったと思いますよ。皆さんも、食事をしっかりとって満腹して、心は神様のお話を聞いて良かったなと思って下さって、しっかりと幸せを生きて行きましょう。
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2021年2月7日(日)ビデオ礼拝 説教題「「人の歴史の中で」

2021-02-07 09:30:00 | 礼拝説教
2021年2月7日(日)【降誕節第7主日 いやすキリスト】

黙 祷

招 詞 ヘブライ人への手紙1章2b~3節
 「神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。」

讃 美 452番「神は私を救い出された」 菊池典子姉

神は私を救い出された



聖 書 旧約聖書96編1~13節

1 新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。2 主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。3 国々に主の栄光を語り伝えよ 諸国の民にその驚くべき御業を。4 大いなる主、大いに賛美される主 神々を超えて、最も畏るべき方。5 諸国の民の神々はすべてむなしい。主は天を造られ6 御前には栄光と輝きがあり 聖所には力と光輝がある。

7 諸国の民よ、こぞって主に帰せよ 栄光と力を主に帰せよ。8 御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて神の庭に入り9 聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ。10 国々にふれて言え、主こそ王と。世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない。主は諸国の民を公平に裁かれる。

11 天よ、喜び祝え、地よ、喜び躍れ 海とそこに満ちるものよ、とどろけ12 野とそこにあるすべてのものよ、喜び勇め 森の木々よ、共に喜び歌え13 主を迎えて。主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き 真実をもって諸国の民を裁かれる。

新約聖書 マタイによる福音書18章18~20節

18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

説 教 「人の歴史の中で」



祈 祷

黙 祷

以下原稿になります。
「人の歴史の中で」

「人の歴史の中で」

 皆さん、おはようございます。新型コロナウィスルの感染予防の観点から、2月7日、今日までの緊急事態宣言でしたが、現状としては解除に至らないということで、更にもう一か月延長となりました。私たちの教会は緊急事態宣言の間は、礼拝を執り行わないで過ごしております。先日、役員会を開き再確認しましたが、もう暫く、ビデオ礼拝という形での礼拝が続くことになりました。
途中で解除された場合には、次の日曜日から会堂にて礼拝を執り行うことも確認しました。それまでの間は、もう暫く皆で耐えながら過ごして参りましょう。

 今日は詩編の96編を読みました。「新しい歌を主に向かって歌え」という御言葉で記される詩編です。最近の説教でお気づきの方がおられるかもしれませんが、最近の説教は礼拝について話をする機会が増えています。というのも、詩編の90編を過ぎたあたりから、詩編の内容が、礼拝で主なる神を賛美する、喜びと感謝を持って主を仰ぎ、主を讃える、そういった御言葉がぐんと増えています。
この96編も、礼拝において、人々が喜びをもって賛美し、御名を讃える、といった御言葉が綴られる詩編です。

 直接、聖書を見ておられる方は気が付かれたかもしれませんが、この詩編にはタイトルがついていません。けれど、後の時代にタイトルが付けられました。それは「捕囚の後、家が建てられた時」というタイトルです。

 捕囚と言うのは、バビロン捕囚のことを指します。当時イスラエルは、強国として世界に君臨していたバビロニアとの戦争に負け、首都エルサレムは陥落し、国は壊滅的な状況となります。しかも生き残った多くの人々は捕虜として連行され、バビロンと呼ばれる地域に移住させられる、だけでなく、強制労働、奴隷のような生活を強いられたと思われます。

 先日、何かのテレビを見ておりましたら、第二次世界大戦が終わった後に、シベリヤに抑留された方々のみならず、これまであまり知られてこなかったようですが、モンゴル抑留についての番組を見ました。戦後、モンゴルの首都ウランバートルに抑留された人々、凡そ一万六千人いたそうですが、連行された人々の手によって、ウランバートルの大きな建物が建設されたそうです。勿論、強制労働によってです。生きて日本に帰って来た方々の多くも既に高齢となっています。今、存命の方でも90歳を超える年齢、そのような方の貴重なインタビューなどを聞き、また、僅かに残る映像資料などが映し出されました。その言葉とその映像は、捕虜の生活がどれほど過酷で悲惨であったかを知らしめるインパクトのあるものでした。

 抑留されている時には、食料もなく、栄養失調と寒さと、過酷な労働によって次々に人が死んでいったそうです。「次に死ぬのは自分かなと思った」という言葉が印象的でした。

 バビロンに捕囚された人々も、そのような過酷さを生きなければならなかったでしょう。その期間は少なくとも50年は続きます。50年の歳月を経て後、バビロニアを破ったペルシャの王が、イスラエルの人々に、あなたがたは自分達の故郷に帰って良いという帰還命令を出します。苦役を生き延びた人々は喜んで帰還し、荒れ果てていたエルサレムに家を建て、新たな生活をはじめ、そして主なる神に対して礼拝を献げることが出来る。その幸い、喜び、心を込めて「新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。主に向かって歌い、御名をたたえよ」という御言葉でもって、喜びを歌いあげている様子がよく分かります。それが詩編96編の内容です。

 後半の11節、12節には「天よ、喜び祝え、地よ、喜び踊れ 海とそこに満ちるものよ、とどろけ 野とそこにあるすべてのものよ、喜び勇め 森の木々よ、共に喜び歌え」と天地創造の神を崇め、心が高ぶり、人々の心が一つとなってピークを迎える、そんな様子が連想できる美しいとさえ感じる御言葉で綴られています。

 戦争に負け、捕虜となり、奴隷の扱いを受ける、なぜ、自分達はこんなにも辛い経験をしなければならないのか、捕囚されていた時、彼らは何度も振り返って考えたことでしょう。振り返りつつ、自分達の歴史を思い起こしていたのではないでしょうか。
 信仰の父と呼ばれるアブラハム、その後に続く、イサク、ヤコブ。ヤコブの12人の子ども達、また、何といっても出エジプトの出来事を思ったことでしょう。自分達の先祖が奴隷としてエジプトで苦労した、そのことを改めて考えていたのではないでしょうか。しかし指導者モーセ、その後のヨシュアによってカナンの土地へと向かった出来事。更にはサウル王、ダビデ王、ソロモン王、これらの人々の名前は、信仰の先達として、イスラエルなら誰もが知る名前であったでしょう。名前を聞けば、説明無しで、その人の人生がわかり、歩みが分かる程に馴染んだ名前であったと思います。

 そのような人々を思い起こしつつ、人々が改めて思ったことは、主なる神を信じるとはどういうことなのか、ではないでしょうか。

 神の民であったはずなのに、バビロニアとの戦いに敗れ、捕囚の民となりました。勿論、国の大きさ、戦力の違いは明らかだったでしょう。けれど人々の思いはそこではなかったと思います。
ソロモン王の後、後継者争いから国が二つに分かれてしまいます。北イスラエルと南ユダという国となる、一つの国が二つになる、それだけで、国の力が二つ割れる、それは勿論ですが、人々の信仰のあり方についても、大きな変化があったと思います。国が分かれるという意味は、これまで主なる神を信じて生きてきたイスラエルが、主なる神以外の神を受け入れるようになったという意味ではないでしょうか。

 主なる神が排除されて、他の神に信仰が移っていった、と言うよりも、主なる神を信じる人々と、それ以外の様々な神を信じる人々になっていった、国が二つになった意味は、人が二つに分かれたというよりも、もっとバラバラになっていったということではないでしょうか。
 イスラエルの人々は、神が自分達を選んでくださり、自分達は神の民であるという思いがあったでしょう。けれどいつの間にか、人が神を選び、選んだ神を自分たちの都合の良いように仕立ててしまっていた。そのように、地理的に分かれる以上に、人の心がバラバラになった状態で、戦いが出来るはずがない、自分達はなんと愚かであったかと、悔やんでいたのではないかと思うのです。

 聖書が示す「罪」とは私たち人間の存在が罪である、というわけではなく、主なる神を否定するところにあります。そのことに改めて気づいた人々の心には、自分達はどれほど「罪」を犯してきたか、イスラエルから遠く離れた苦難の地で思い起こしていたのではないでしょうか。

 そして、そのような苦難の中で、改めて人々は主なる神に帰ろう、この方の元に帰ろう。50年の歳月をかけて、人々の心は主の元に集められていったのだと私は思います。
 
 皆さん、今、私たちの教会は会堂で礼拝を行っておりません。毎週お会いしていた皆さんと共に顔を合わせて、賛美し祈りを献げられない状況です。けれど、皆さん、今、ここで私たちに問われていることは、それぞれの場にあって、過ごしながらも、体はそれぞれにバラバラでも、心は主にあって一つであるという思いだと思います。

 主イエスは「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」と教えられました。心を一つにして求めるなら、です。
 
 大切なのは、場所的に一つとなる以上に、どの場所であろうとも、主なる神、主イエスを信じる私たちが心を一つにすることだと思います。
 
 イスラエルの民は、出エジプトの後、40年荒野を彷徨いました。バビロン捕囚は50年奴隷の生活を強いられました。しかし、その時の苦労さえ、主なる神は決して無駄にはされなかったと思います。思えば、キリスト教の信仰の歴史は、苦労の連続の、その先に祝福が与えられてきた歴史です。 

 だから、私たちは、このような状況を通しても、尚、その先により一層信仰が強められ、より一層、苦難に耐えられる忍耐力と、その先にある神の宝を見つめていけるようになるはずです。もう暫く辛抱しながら、体を大切にしながら、心を一つにして感謝してこの2月も過ごして参りましょう。

 お祈りします。








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