日本キリスト教団 大塚平安教会 

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1月31日(日)ビデオ礼拝 説教題「主の声に聞き従おう」

2021-01-31 09:30:00 | 礼拝説教
2021年1月31日(日)【降誕節第6主日 教えるキリスト】

黙 祷

招 詞 ヨハネによる福音書2章11節
「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」


讃 美 479番 「喜びは主のうちに」 菊池典子姉




聖 書 

旧約聖書 詩編95編1~11節
1 主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。2 御前に進み、感謝をささげ 楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。3 主は大いなる神 すべての神を超えて大いなる王。
4 深い地の底も御手の内にあり 山々の頂も主のもの。海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。6 わたしたちを造られた方 主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。7主はわたしたちの神、わたしたちは主の民 主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。
8 「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように 心を頑にしてはならない。9 あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。10 四十年の間、わたしはその世代をいとい 心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。11 わたしは怒り 彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」

新約聖書 ルカによる福音書9章57~62節
57 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。58 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
59 そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。60 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」
61 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

説教 「主の声に聞き従おう」


以下 原稿です。
「主の声に聞き従おう」

 説教の準備をしていますと、良くあることですが、行き詰まる時があります。それが何時間も続いた後で、新たな発見と言いますか、ひらめきと言いますか、突然のように頭に浮かんでくることがあります。

 先日も、そんなひらめきを感じたことがありました。それは、「人は誰でも、『そうだねぇ』と言ってもらいたいと思っている」ということでありました。

嬉しくなりまして、家に帰って食事をしながら喜んで家族に話してみました。「人は誰でも『そうだねぇ』って言ってもらいと思うよ」そう話しましたら、家族全員で、お父さん、今頃そんなことわかったの、誰でもそんなことは知っているよ。当たり前だよ。と、総攻撃を受けてしまいました。
 ですから余計にその時に確信しました。なるほど、滅多なことでは、「そうだねぇ」と言ってもらえないから、やっぱり、人は「そうだねぇ」って言ってもらいたいのだ、そう思いました。お分かりでしょうか。(笑)
 
 私たちは誰もが「そうだねぇ」と言ってもらいたいと思います。これは案外大きな問題です。教会の隣に幼稚園があります。幼稚園では毎日、先生方が集まって、実に丁寧に子ども達の成長について話し合いをしています。一人一人の子ども達に目が行き届くようにと一生懸命にしておられます。子ども達一人一人に「そいうだねぇ」という声でもって返しておられるのを見ることがあります。
 幼子が、健やかに成長するために必要な一つは、親や、家族、幼稚園の先生や友達といった人々が「そうだねぇ」という声でもって、幼子の言葉を受け入れることでありましょう。
 
 私たちは人の話を聞くときに、会話の中で、それが正しいのか、間違っているのか、〇なのか、×なのか、あるいは、必要な話か、不必要な話か、を思い巡らしながら聞いているのではないでしょうか。そうすると「そうだねぇ」という言葉が出て来ないものです。あるいは「そうだねぇ」と言うと、こちらが負けてしまうような気持ちになるのかもしれません。あるいは聞いている方にある程度の余裕がなければ出てこない言葉なのかもしれません。

 今、私たちは、コロナ感染予防の為に、緊急事態宣言の中で過ごしていますが、こんな時は特に余裕がありません。時間的な余裕というより、精神的な余裕がありません。「そうだねぇ」となかなか言えない状況を生きているわけで、健やかに過ごせません。余裕どころか、自分の「存在」が危機に瀕しているような状況ですから、むしろ追い詰められているかのようにも感じます。
コロナは私たちの人生に対して、私たちの命に対して「そうじゃない」、「そうじゃない」と「存在を否定する戦い」を挑んでいるかのようで、戦いですから、勝つか、負けるかいった類のものですから、私たちは休まる暇がなく、家にいて休んでいるのに、疲労が蓄積されるばかりで疲れを覚えている方も多いと思います。

 そのような時にこそ、私たちはどこで、どのようにして休息を取るのかが、問われるわけですけれど、何も「Go toなんとか」を使って出かける必要もないかもしれません。創造主なる神を信じる者の特権の一つとして、私たちには聖書が与えられている、ということでしょう。
 聖書は、勿論人の手によって記されたものでしょうけれど、主なる神が直接に関わりをもって、そしてあたかも、温かなお父さんの手紙であるかのように、私たち一人一人に神様の手紙として与えられている書物です。
 
 神の御言葉でもって、私たちの心を温めて下さり、生きる力を与えてくださいます。人間の社会や、コロナウィルスがどんなに存在を否定しようとも、この世界を造り、命を作ってくださった方が、私たちの存在そのものをしっかりと包んで下さっていると感じることが出来る、そのような力があると思います。

 今日はルカによる福音書から「弟子の覚悟」という箇所を読みましたが、三人の人が主イエスと会話をしている場面でありました。
 一人目の人が「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言うと主は「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と言われた。
二人目は、主が「わたしに従いなさい」と言われたのに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と答えたところ、「死んでいる者に、自分達の死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と言われた。
三人目は「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」と頼むと、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた、この三人との会話が記されているわけです。
 
 この三人との会話についてについて、もしかしたら私は一時間でも二時間でも話しが出来るかもしれないと思うところがあります。
「人の子には枕する所もない」という御言葉を読みますと、必ず思い出すことがあって、二十代前半に私が教会の礼拝に出席するようになっていた時の、ある時に牧師に相談というか、愚痴をこぼしたことがありました。私の家は貧しくて、小さな借家に住んで、子どもの頃から財産も無く、私は体力も無く、学力もありません。そう愚痴を言ったところ、流石に「そうだねぇ」とは言われず、「そうですか、でもイエス様は枕するところもありませんでしたよ」そう言って下さった。その言葉を聞いて、イエス様こそ、本当に私の神様としておられる方なんだなぁとつくづく思いながら、力を得て家路についたことがありました。この思い出は生涯忘れることも無いでしょう。
 けれど、皆さん、このような話をしだすとしたら、いつまでも終わらないでしょう。今日申し上げたいことは、一つです。

 わたしに従いなさいと主イエスは話しておられる。今日与えられた箇所は、従う者の覚悟の持ち方を読み取れると思いますが、その覚悟はどういうことか、それは「後ろを振り向かない」ということではないかということです。
主なる神を信じるとは、後を振り向かないということです。後ろを振り向くと、過去のあのこと、このことがどんなにか恐れとなって自分を閉ざしてしまうかもしれません。
 使徒パウロはそれを「奴隷」という言葉で説明しました。ガラテヤ書というところにこんな御言葉があります。「キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」
 後ろを振り向いて、恐れを見つけ、恐れが自分を包むと、恐れの奴隷となってしまって前に進めません。
 自分の過去のあのこと、このことが自分の将来を束縛して、自分の将来をつぶそうとする、そういう力が後ろを振り向くと襲い掛かって来ることがあるのです。
 自分の家が借家であろうが、財産が無かろうが、体力が無かろうが、学力がなかろうが、それが自分の将来になんの関係があるのですか。多くの方は、つまり、世の中は、それは関係があると言うのです。時には家族さえもそう言いますよ。あんたは体が弱いから無理だよ、あんたの成績ではこんなもんだよ。

なにより決定的なのは、自分でも全くそうだと思ってしまうのです。自分でもそうだと思ってしまうと、決して前には進んでいかないでしょう。

 私たちの人生は一度切りで、決して過去に戻らないのに、気持ちが前に進まない、心だけが過去に生きている、そういうことが時としてあるかもしれません。

 でも、皆さん、主イエスの「わたしに従いなさい」という声は、聖書に登場する三人だけに届く声ではありません。
今の時代を生きる私たちにも届けられる声でもあります。その声をしっかり聞き取ることです。何よりも、自分が神様から見捨てられてはいない、自分は神の民として生き、生かされていることを思い起こすのです。どんな状況にあっても、自分の存在が肯定される世界があることを思い起こすのです。

 あなたはもはや、過去のあのこと、このことの奴隷ではない、あなたは神の御前に自由となって、大きくあなたの人生を生きてご覧と主は励まし、力付けているのです。

 先ほど、詩編95編を読みました。この詩編は主の御前に、自分が肯定され、祝福されている状態を、喜びをもって歌い上げている詩編です。自分がどこに所属しているのか、はっきりと認識しながら歌いあげていると思います。
95編7節を読みます。「主はわたしたちの神、わたしたちは主の民 主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。」

 私たちもまた、主の民であり、主に養われる群れです。その方が、私たちと共におられます。共におられるだけでなく、私たちの思いに「そうだねぇ」と肯定して下さり、どんな時も前を向いて生きるようにして下さっています。だからこそ、恐れ、不安、不満が世界を覆う状況の中で、自分を見失わず、神の民として、私たちは生きていけます。感謝を持って今週という未来をしっかりと過ごして参りましょう。

 お祈りします。




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1月24日(日)ビデオ礼拝 説教題 「主の安息日に」 

2021-01-24 10:00:00 | 礼拝説教
2021年1月24日(日)【降誕節第5主日 宣教の開始】

黙  祷
招 詞 ルカによる福音書13章29~30節
「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

讃美 546番 「主の招く声が」 菊池典子姉


聖 書 
旧約聖書 詩編93編1~4節

【賛歌。歌。安息日に。】
2 いかに楽しいことでしょう/主に感謝をささげることは/いと高き神よ、御名をほめ歌い3 朝ごとに、あなたの慈しみを/夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは4 十弦の琴に合わせ、竪琴に合わせ/琴の調べに合わせて。

新約聖書 マルコによる福音書3章1~6節

1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。
4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。5 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。6 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

説教 「主の安息日に」 菊池丈博牧師


以下 原稿です。
「主の安息日に」

 皆さん、おはようございます。
 先ほど読みました、詩編92編2節に「いかに楽しいことでしょう 主に感謝をささげることは」と記されています。この言葉についての解説を読みましたら、楽しい、というヘブライ語は「トーブ」という言葉とありました。「トーブ」という言葉を読んですぐに思いついたのは、私の故郷の岩手の花巻では知らない人はいない、宮沢賢治です。宮沢賢治は「イーハトーブ」という言葉を作りました。「理想郷」という意味があります。ヘブライ語の「トーブ」は楽しい、それなら、もしかしかたらイーハトーブに関係するのではないかと思いました。そこから関係性を見いだせたら、もしかしたら文学上の大発見となって、花巻の歴史に私の名前が残るのでは、と期待したのですが、残念ながら私の勉強不足でよく分かりませんでした。

 よく分かりませんでしたが、トーブは良い、楽しいという意味をしっかりと覚えました。なぜ楽しいのか、また、大切なのか、それは「主に感謝をささげる」からです。
 92編1節には、賛歌、歌、安息日にという表題がついています。詩編の中で安息日という言葉はここにしか出て来ないとありました。
 安息日とは休みの日であると同時に、礼拝を献げる日という意味です。礼拝をささげる為に、共々に会堂に集い、地域の仲間と共に礼拝を献げる、この時がなんと楽しいことかと詩編の作者は告げています。賢治の言葉を借りるとすれば、礼拝はイーハトーブ「理想郷」の世界のようだと言えるかもしれません。

 けれど、皮肉なことに、コロナウィスル感染予防の為に、今、会堂で礼拝を献げられません。しかし、共々に教会に集い、日曜日の午前中に礼拝を献げる、それがどんなに喜びであるのか、どんなに大切であるのか改めて思わされる時でもあり、詩編の御言葉は心を捉えるものがあります。

 改めて「安息日」について思わされます。ユダヤ教の安息日は元々土曜日です。ですから日曜日は平日であったと思います。その平日に礼拝を守り始めた、それがキリスト教の最初の礼拝の姿でした。週の初めの日、朝早く主イエスが復活された、そのことを忘れないためにという思いがありました。
 けれど勿論、安息日は何曜日が正しいのか、という問題ではなく、大切なのは安息日が意味しているのは何かということでしょう。
 
 詩編の作者は心と思いを込めて、主に感謝をささげることはなんと楽しいかと告げています。御名をほめ歌い、朝も、夜も、琴の調べに合わせて主を賛美する、それがなんと素晴らしいことか、神の創造を喜び、15節には「白髪になってもなお実を結び 命に溢れ、いきいきとし」とありますが、神の民として生きる「命の泉」がこの礼拝にこそある、喜びに溢れて告げるのです。礼拝とは本来そういう場所であり、そういう時なのだと思います。
 
 今、私たちは教会に集まれません。ビデオを通しての礼拝です。恐らくまだ暫くはこのような状況が続くと思われます。けれど、皆さん、私たちはこのような経験を通して、再び会堂に集い、共に顔と顔を合わせて礼拝を守れるようになった時に、更に神の愛に溢れ、喜びに満ちた一人一人、そのような信仰共同体として歩んでいきたいと改めて思います。この詩編の作者に負けず、劣らず、声高らかに賛美の歌声を響かせていきたいものだと思います。
 
 集まっての礼拝が停滞するとしても、信仰が停滞しなければ心配はありません。むしろ信仰が停滞する、そのような時にこそ私たちは心配しなければなりません。 
安息日という言葉の根本的な意味は、「やめる」という意味です。主なる神に賛美と感謝を献げるために、日常の全ての作業をやめて、喜びを持って全ての人々が会堂に集うのです。
 けれど、いつの間にか、その喜びが喜びでなくなる、そのような時こそ、信仰の危機と言えるでありましょう。
 
 新約聖書はマルコによる福音書3章を読みました。主イエスが安息日に礼拝を守るために会堂に入られた。するとそこに片手の萎えた人がいました。 人々は主イエスが安息日にこの人の病気を癒されるかどうか、注目していました。
 
 安息日は、仕事をやめなければなりません。けれど、主は注目している人々をご覧になって、手の萎えた人を真ん中に立たせ、改めて人々に聞きました。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」人々は黙っていたとあります。なぜ黙っていたのか、既にこの時、喜びが消えた安息日、礼拝を人々は生きていたようです。
 
 安息日の喜びが消えると、どうなるのか、一つは義務的になります。義務感から礼拝に行こうと考えるとしたら、それがどれほど重荷となるでしょうか。私たちの教会では見られることではありませんが、日曜日に、辛い思いをして、渋い顔をしてため息をついて、礼拝に向かう夫、あるいは妻、がいるとしたら、家族の誰もが自分も行ってみようと思わないでしょう。
この時間がやっと来たかと、ニコニコして、心弾むような思いを持って「行って来るよ~」と明るいトーンで告げてこそ、家族はそんなに嬉しいなら、自分も一度は行って見たいと思うのではないですか。そのような教会、礼拝にこそ、人は集って来るというものでしょう。義務感からは良いものがあまり生まれないかもしれません。

 安息日の喜びが消えると、どうなるのか、二つ目は、正義と悪が登場します。ご存知のように安息日は、十戒の中にも記されているように、主なる神が人に対して与えて下さった教えです。人々は喜んでその教えを生き、守ったでありましょう。けれど、いつの間にか、安息日が一つの基準とされてしまいました。 守らない人は罪人である。守っている人は正義の人である、となってしまいました。しかも神様の目線からでなく、人からの目線で判断されるようになってしまったようです。
 そのような人の目線は、安息日に仕事をしようとした主イエスに対して、例え人の命を救っても、安息日を守らない悪のカテゴリー、罪人とする目線であったようです。

 罪人なら処罰されて当然、処罰する方からすれば、自分達はどこまでも正義です。正義であればある程、やましい思いすら無かったでしょう。
先日の礼拝で、人は、自分が犠牲者だと思うから怒りが出る、と申し上げました。
今回申し上げたいのは、人は、自分が正義だと思うから怒りが出る、とも言えるということです。
主イエスは、人が定めた人の正義という基準のもとで、十字架に付けられ、死なれたことを思います。
 何も礼拝だけに限るわけでもありません。物事を義務として捉えると喜びが消えます。子どもたちは学校の勉強がつまらないと言います。義務だからです。有無を言わさずさせるからです。そこからは滅多に喜びが出てきません。

 更に何よりも自分中心に生きてはなりません。自分が基準となって人を見るからです。いつの間にか、自分が裁判官となり、正しい者と正しくない者を分けることが出来ると思ってしまう、そこにこそ大きな罪があると気が付かなければなりません。

 その為にも大切なのは、喜びを失わないことです。どんな時も詩編の作者のように、主を見上げ、御名をほめたたえ、あなたこそが私たちを生かす命の光、あなたの御業はなんと美しいかと感謝と喜びを持って生きていきましょう。すなわち、本当の安息日を生きるしか道はありません。

 本当の安息日、本当の礼拝は何でしょうか。礼拝が始まる、礼拝が行われる時、多くの皆さんはこの礼拝で何か与えられるのではないか、何か役に立つことがあるのではないか、生きる知恵が与えられるのではないか、そう思いながら礼拝に来られるかもしれません。それは間違いではないかもしれません。

 でも皆さん、礼拝は人の目線ではなく、神様の目線です。神様が、集まった一人一人をご覧になって、あなたはこの大変な時代に、大変な状況にあって、なんと立派に、一生懸命にやっていることかと、全てを受け入れ、全てを赦し、全ての出来事を祝福へと導こうとされている、そのことを確認する場こそが礼拝です。自分は神様から見捨てられていない。それどころか、こんなにも期待されていたのか、と心で受け入れ、そして人生を取り戻すことが出来る。それが本当の安息ではないですか。主イエスはそのことを人々に告げようとされたのではないですか。

 このような時代です。心を失い、心を凍らせている方、悲しみに打ちひしがれている人、多くおられます。そのような人と共に歩んで行くためにも、私たちは喜びと、柔らかな心を持って、元気に過ごして参りましょう。
 お祈りしましょう。


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2021年1月17日(日)ビデオ礼拝 説教題「人生の使命を生きる」

2021-01-17 10:00:00 | 礼拝説教
2021年1月17日(日)【降誕節第4主日 最初の弟子たち】

黙 祷

招 詞 マタイによる福音書9章37~38節

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

讃 美 453番 「何ひとつ持たないで」 菊池典子姉


聖 書 

旧約聖書  詩編92編 1~4節 12節
1 いと高き神のもとに身を寄せて隠れ 全能の神の陰に宿る人よ 2 主に申し上げよ 「わたしの避けどころ、砦 わたしの神、依り頼む方」と。3 神はあなたを救い出してくださる 仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。4 神は羽をもってあなたを覆い 翼の下にかばってくださる。神のまことは大盾、小盾。

12 彼らはあなたをその手にのせて運び 足が石に当たらないように守る。13 あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり 獅子の子と大蛇を踏んで行く。

新約聖書 ルカによる福音書 4章 1~13節
1 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、2 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。3 そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」
4 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。5 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。6 そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。7 だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」
8 イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、 ただ主に仕えよ』 と書いてある。」
9 そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。10 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、 あなたをしっかり守らせる。』11 また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、 天使たちは手であなたを支える。』」12 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。
13 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

説教 「人生の使命を生きる」 菊池丈博牧師


以下 原稿です。

「人生の使命を生きる」

 皆さん、おはようございます。昨年の暮れ、というよりクリスマスの朝でしたが、母親が家で転倒して、大腿骨を骨折してしまいました。そのまま救急車で病院に運ばれて手術しました。お蔭様で少しずつ元気になってきています。それで二日前の金曜日に、リハビリを集中して出来る病院に転院しますからとお知らせが来ておりました。

 ですから、準備した沢山の書類を持って、夫婦二人で朝の9時前に病院に行きました。新しい病院に行って落ち着くまでは半日はかかりますと言われておりましたから覚悟して出かけたわけです。

 それで病棟の前のナースステーションの所で待っていたのですが、急に担当の方が青い顔して飛んで来まして、今日の転院がダメになりましたと言うのです。何が何やらと思っていましたら、どうも、母親が数日前に熱を少し出したらしい、そのことを転院する先の病院に伝えていたようですが、それで急に、もう少し待ってくれないか、とさっき連絡が入ったというのです。今、どこの病院もコロナ感染がありますから、緊張してピリピリしているのだと思います。
すぐその後には、担当の医者も慌ててやって来まして、二人で一生懸命に言い訳というか、謝ってくるわけです。でも、良く考えると病院に落ち度があるとも思えませんし、今日はだめでも、また改めて仕切り直しをすれば良いわけで、そんなに謝らなくても良いのではと思いながら、それならまた来ますと、出来るだけ明るく対応して、帰宅しました。

 帰り道に、なんだか一生懸命に謝っていたね、と二人で話をしたのですが、このような緊急事態宣言という社会状況にあって、しかも、病院の中ですから、誰もが緊張し、疲れを感じ、はたから見ていても大変そうだと思いました。

 緊急事態宣言が発令されまして一週間経ちました。その間、少しでも状況が良くなってくれたらと願っていましたが、現在は緊急事態宣言が出された地域が11都府県と拡がりました。これからも更にそういう地域が増えていくのではないかと予測されます。
 コロナ感染拡大は、昨年の1月15日から始まったそうです。ですから、丁度1年過ぎました。これまでの一年間、私たちの生活はコロナに振り回されているかのようでしたし、恐らくこれからも暫くは続くものと思われます。
 終息しそうな兆候も感じられず、むしろ状況がどんどん悪くなっているように思える。病院で働いておられる方々は勿論のことですが、経済的には飲食業の方、観光業の方は壊滅的なダメージを受けておられますし、間接的には、多くの方々が、生活の危機に瀕していることは確かです。教会も他人事ではありません。集まっての礼拝、集会が行われていません。そういう意味では直接的なダメージを受けていると言えるでありましょう。

 このことは日本に限るわけではありませんが、いよいよコロナ感染がすぐ近くまで来ているという緊迫感が強くなって来ていますし、緊張や疲労、不安な生活が続いています。忍耐が求められるわけですが、こんな状況になりますと、人は「怒り」の感情が強くなって来ているのではないでしょうか。
 
 そのような怒りがどこに向けられるのかと言えば、今、テレビ、報道では政治、政府に向けられています。首相に向けられています。若者に向けられ、夜の町に向けられ、そして次には、誰にでも向けられるかもしれない。
病院に務めて、病の病を治し怪我を治して、世話をしている人たちが、ちょっとの失敗で一生懸命に謝って来る、手術失敗しましたというわけでもなく、死んでしまいましたというわけでもないのに、一生懸命に謝って来るのは、これまで何度も、人から「怒り」を受けて来ていたからでしょう。
 
 皆さん、「怒り」の正体はなんだと思いますか。なぜ人は怒るのか、そんなに難しくはありません。怒りの正体は自分が被害者だと思うからです。被害を被った、犠牲を被ったと思うと、怒るのは当然の権利だと感じるのです。
 
 親が子どもを叱る、夫婦の間での喧嘩、友達同士でも同じですが、自分が被害を受けたと思うから喧嘩になるのです。だってこんなに自分は傷ついているし、私は少しも悪くはないし、相手が悪い、しかも、それは誰がどう見るとしても、動かしがたい事実である、と思うのです。

 国民は政府に対して、例えば菅総理に対して怒っていますけれど、多分総理もまた、自分はなんでこんなに怒りを受けるのか、自分こそ被害者だと思っているかもしれません。だって、自分はこんなに頑張っているのに、国のために働いているのに、と思っていると思います。

 今日は、詩編の91編を読みました。91編3節にこうあります。「神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。」
 私たちが生きている中で、時々あたかもサタンの仕業ではないかと思える程に、仕掛けられた罠があり、陥れる言葉があります。
 
 新約聖書からはルカによる福音書4章から、主イエスがサタンの誘惑を受けた場面を読みました。主イエスが荒れ野で40日間の断食をされて、悪魔の誘惑を受けました。悪魔は主イエスのもとにやって来て「神の子なら、この石にパンになるにように命じたらどうだ」と尋ねる。二つ目は「もし、私を拝むなら、この国々の一切の権力と繁栄を与えよう」と告げる。三つめは神殿の屋根の端に立たせて「飛び降りてみたらどうだ。あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」と聞いて来ました。
 
 この三つ目の誘惑が、詩編91編の御言葉に記されています。「彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」91編12節に記されています。
 けれど、主イエスは「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている。」と告げて悪魔の誘惑を退けた訳でありました。

 悪魔の誘惑に仕掛けられた罠は何か、便利なのが良い、簡単が良い、財産も、権力もあった方が良い、健康が良い、何よりも生きていくのに困らないのが一番だよ、楽した方がいいに決まっている。そういう仕掛け、そういう罠、言葉ではないでしょうか。
 
 便利な生活、豊かな富、健康、私も皆欲しいと思いますけれど、でもこれらのものの特徴は一言でいうとすれば、「欲」という言葉です。人は欲を持たないと生きていけないとも言われます。確かに食欲とか睡眠欲とか、人は欲が無くなれば死んでしまうかもしれません。

 でも、欲の何がいけないのかというと、物欲とかはね、もっともっと果てしないわけで、これも厄介ですが、でも、もっと厄介なのは自分自身に対する欲望です。
 つまり、こんな自分じゃだめだ、こんな自分じゃだめだと思い続けている人、こんな自分がダメで、自分が嫌いであればある程に、それと同じ量で、人を嫌いになりますから、自分が嫌いな人は、同じ位、他人も嫌いなのです。

 更に、そういう人は、こんな自分になっているのは、親のせいとか、社会のせいとか、自分以外の誰かのせいにする傾向があるようです。つまり、自分は被害者だから怒るのは当然、となるわけです。
 
 皆さん、あたかもサタンが仕掛けたと思われる罠に、あるいは人を陥れる言葉に、躓かないことです。怒りが出るとしたら、それ誰かが仕掛けた罠かもしれない。サタンの業ではないかと用心しなければなりません。

 罠に陥らないために必要なことが、詩編91編4節に記されています。

 「神は羽をもってあなたを覆い 翼の下にかばってくださる。神のまことは大盾、子盾」。主なる神は、あたかも母鳥が雛を翼で守るように、あなたを神の翼の中に包み、暖め、時には盾となって守って下さるというのです。なぜ、守って下さるのか、あなたを誰よりも愛しているからです。あなたは誰よりも、何よりも大切だと、そういう思いを持って、神が接して下さるというのです。

 主イエス・キリストの十字架は、私たち一人一人に対して、私たちが心に持つ「怒り」に対して、怒りを引き受け、引き受けるだけでもなく、なお赦してくださった印です。主なる神は、人の欲望や怒りや、憤りをすべて引き受けて、十字架で死んでくださいました。

 そのような方を信じる私たちは、主イエスと共に十字架で死んで、更に復活の新しい命を生きる者となりました。だから、大丈夫、私たちは主なる神と共に生きていける、神の愛に包まれて生きていける、怒りを愛に変えて、私たちに与えられている使命を生きていけるのです。

 「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と告げられる方が共におられるなら、大丈夫。主なる神を見つめながら、勇気を持ってこの一週間も過ごして参りましょう。

 お祈りしましょう。




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2021年1月10日(日)ビデオ礼拝 説教題「今日という日」

2021-01-10 10:00:06 | 礼拝説教
2021年1月10日(日) 【降誕節第3主日 イエスの洗礼】

黙 祷

招 詞 ヘブライ人への手紙 4章15~16節

「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」

讃美歌21 125番「いかに幸いなことだろう」 菊池典子姉


聖 書 

旧約聖書 詩編90編10~12節
「人生の年月は七十年ほどのものです。健やかな人が八十年を数えても 得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれて あなたの憤りをも知ることでしょう。生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。 

新約聖書 コリントの信徒への手紙二 12章9~10節
 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

説教「今日という日」 菊池丈博牧師



以下原稿です。

詩編90編1~12節
コリントの信徒への手紙二 12章1~10節


 新型コロナウィルス感染拡大により、先週の木曜日、政府より「緊急事態宣言」が出されました。大塚平安教会はすぐに役員会を開催しまして、この事態にどう対応しようかと話し合いました。
 集まった役員の中でも意見は大きく割れました。このような事態となっても、礼拝は継続すべきではないかという意見がありました。高齢者が多い中で無理して行わない方が良いという意見もありました。人数制限をしたり、一日に何回かに分けての礼拝をするのはどうかという意見もありました。私も悩みました。けれど、当たり前ですが、誰もがこれこそ正しいという主張は出来ませんでした。
 
 当然のことながら、礼拝は「不要不急」ではありません。不要の反対は「必要」です。不急の反対は「緊急」とか、「至急」という言葉が当てはまるようです。「火急」という言葉もあります。どれも「急ぐ」という意味です。礼拝はかならずしも急ぎではないと思いますけれど、決して不要ではありません。
 
 役員会で話を詰めていく中で、行きついた先に、「礼拝とは一体何か」という問いが出されました。私はこのような問いが出された役員会を少し誇らしくさえ思います。けれど、その問いはとても重く、深いものです。今、このような時にこそ、改めて私たちは礼拝そのものについて考えてみる機会が与えられているのだと思います。
 「礼拝とは何か」と問われて、私がすぐに思い起こすのは、使徒言行録20章7節からの箇所です。聖書をお持ちの方は是非開いて見て下さると良いと思います。
 
 週の初めの日、つまり日曜日に人々はパンを裂くために集まっていました。パンを裂くとは聖餐式を行うためという意味でしょう。つまりここで人々は礼拝を行っていたと思います。パウロがその場面を取り仕切っていたと思われます。パウロは人々に神の福音を宣べ伝えていました。けれど、恐らく思いがけない程に、パウロの話が長くなり、夜中まで続いてしまいました。礼拝は朝ではなく夕方から始まっていたかもしれません。
 そこで一つの事件が起こります。礼拝に参加していたエウティコという青年が、窓に腰かけてパウロの話を聞いていたのですが、眠気を催し、眠りこけて、三階の窓から落ちてしまい、慌てて起こしてみると死んでいたというのです。
 けれどパウロが行って、彼の上にかがみ込み、抱きかかえながら「騒ぐな、まだ生きている」と告げて皆が安心したとあります。礼拝中に眠りこけるなんて、エウティコは愚かだなと思いますか。

 私たちの教会では滅多にありませんが、礼拝中に寝ている方がいたります。ある時に、ある方から相談を受けました。「先生、後ろの方がいつも寝ているのですが、注意してください」それで、少し注目していましたら、分かりました。寝ていたのではなく、鼻の呼吸が荒いという事が分かり思わず笑ったことありました。

 礼拝中に寝て良いのか、寝てはいけないのか、これはまたいつかの機会にさせて頂きますが、この聖書箇所から、大切なことは、説教はやっぱり短い方が良い、といことでもなく、大切なことは窓から落ちたエウティコが死んだのではなく、生きていたという点だと思います。死んだかと思ったけれど気を失っていたのかもしれません。あるいは、本当に死んだけれど、パウロを通して神様の力が働いてエウティコは生き返ったのかもしれません。詳細は分かりません。でも、大切なのはこの点です。

 「礼拝とは一体何か」それは今日の説教題からすれば、今日という日を生きるためです。私たちは緊急事態宣言が出される程に、新型コロナウィルスを恐れています。なぜ、恐れるのか、答えは明らかで、感染して死ぬかもしれないと思うからです。
 私は昨年の夏の終わりに熱を出しました。すぐにコロナウィルスに感染したのではないかと思いました。病院に行きましてPCR検査を受けました。幸い陰性でしたが、検査結果が分かるまでは生きた心地がしませんでした。やっぱり最悪の結果を予想してしまうからです。
 これが、所謂普通の風邪であったなら、なんとも思わなかったことでしょう。あるいはインフルエンザであったなら寝込んでしまったでしょうけれど、それ程心配しなかったかもしれません。なぜなら、まず死ぬことはないと思っているからです。
 
 10年以上前になりなりますが、私は足を骨折して、1か月程入院しました。けれど、病室にいた方の多くは、整形外科の患者さんでしたが、必ずしも暗いわけではありませんでした。なぜなら病気というよりは怪我だからです。このことによって死ぬことはない、少しずつでも回復していくと思っているからです。
 人が何より恐れるのは、その出来事の向こう側に「死」を見るからです。それが現実に迫っていると感じると時の恐れは、特別な恐れなのです。新型コロナウィスルを恐れるのは、感染のその先に死を見るからです。毎日これだけの感染者が出ても、まず死ぬことはないのだとしたら、緊急事態とはならないと思います。
 私たちの恐れは、出来事の、その先に死が待ち構えている、そういう出来事なのです。それは例えば、病気で言えば、癌を告知されるとか、そういった類の恐れなのだと思います。そのような恐れに対して人はどのようにして対応し生きて来たのか。勿論、医学の進歩はそのような恐れを克服するためであったとも言えるでしょう。けれど、尚、完全に克服出来た、という所からは、遠く及びません。それが現実だと思います。

 ならば、やっぱり宗教に頼るしかないのか、一か月以上前でしたか、コロナ対策に窮した担当大臣が「神のみぞ知る」という言葉を使っていました。その通りだと思いますが、違和感を感じた方も多かったでしょう。大臣は人の手には限界があると伝えたかったのだと思いますけれど、時に人は限界を感じると盲目的になることがあります。盲目的に宗教に頼る人は残念ながら現代でも多くみられる現象です。キリスト教世界に限るわけでもなく、幸い日本では殆ど聞きませんけれど、神様を信じていればマスクは入らないとか、自分達だけはコロナに感染することはない、などと言いだすグループがいるとすれば、非常に危険な状況に陥ることでしょう。誰からも信頼を失うことになるでしょう。けれど、どうも多くの日本人は宗教とはそういうものだと思っているところがあります。だからあまり近づかないほうが良いと思っているのでしょう。
 
 でも、本当の宗教とは、信じると奇跡が起こるとか、幸運がやって来るということもあるでしょうが、それが本質的なところではありません。むしろ、神を信じる者はどのように考え、どのように生きようとするのかが、問われてくるのだと思います。

 そして、それが「礼拝とは何か」という問いと重なるのだと私は思います。礼拝とは、人が、死を向こう側に見るとしても、尚、元気に生きていこう、尚、希望を持って生きていこう、神の愛に包まれて生きていこう、そういう励ましが与えられる所なのだと思います。

 礼拝において、神の御言葉が宣べ伝えられる、神との確かな交わりを感じる、会衆と心と心が通じ合うのです。普段は、表に出すこともない誰にも告げられない不安や悩みや、苦悩が、礼拝において解放される、礼拝に集う人々と共に分かち合える。
 自分の思い、恐れ、不安、嘆きを主なる神は分かっていて下る、だから大丈夫と、顔を前に向くことが出来る、そのような所、そのような時が、礼拝の持つ力、エネルギーだと私は思います。言うなれば、死んだと思っていた自分が、礼拝に出ることによって、生き返ったと言える。エウティコのようにもはや、誰もが死んだと思っていたのに、尚、神様の目から見たら、あなたは生きていけるよと、そういう励ましを受けることが出来る場所、時、それが、礼拝が持つ力なのです。

 読みました詩編90編は、人の命がいかにうつろいやすく、儚いものであるか、恐れを感じながら神に訴えている詩編です。しかし、同時にそのような人の命を思いつつ、けれど、主よ、あなたは、私が生まれる前から私を知っており、私が生まれる前からあなたは神であり、だから命も死もあなたのもの、せめて生涯の日を正しく数えるように教えて下さい、そのような知恵を与えてくださいと願いながら、神に祈っている、そんな詩編です。生涯の日を数えることがもし出来たとすれば、その日までの間は、病気になろうと、怪我をしようと、大丈夫平安かもしれません。けれどもしそのようなことが起こりえるとすれば、死までの日を毎日指折り数えて生きるしかありません。むしろ、分からないことほうが祝福ではないでしょうか。

 けれど、だから大切な事がある、昨日でもなく、明日でもなく、今日という確かな日を生きていこう、そのようにしてあなたも、あなたも生きていきましょう。一緒に生きていきましょうと互いに確かめ合うことです。私たちは一人ではありません。神を信じ、互いに支えながら、互いに励まし合いながら、一緒に生きていきましょう。会堂で行える礼拝を思いつつ、だから希望を持って、病にならず今日を生きて参りましょう。 

 お祈りします。


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神の選びの中で

2021-01-04 11:46:57 | 礼拝説教
【詩編89編20~30節】
【コリントの信徒への手紙一 1章26~31節】

 2021年最初の礼拝では、詩編89編が与えられました。詩編は53節まである割合に長い詩編となっています。内容としては三つに分けられまして、1~19節が神様に対する賛美と感謝、20~38節までは、主なる神の言葉、神の意志、神の祝福が告げられます。39節からは内容が大きく変わり神の怒り、憤りが記されて締めくくられることになります。
 
 今日、最初に申し上げたいと思いますのは、私たちが信じるところの神の姿は「天地創造なる神」であるということです。89編12節以降を読みますとこうあります。
「天はあなたのもの、地もあなたのもの。御自ら世界とそこに満ちるものの基を置き、北と南を創造されました。タボル山、ヘルモン山は御名を喜び歌います。あなたは力強い業を成し遂げる腕を備え 御手の力を振るい 右の御手を高く上げられます。」
 
 この世の天も、この世の地も、世界とそこに満ちるもの、海も山も主のものと詩編の作者は記します。聖書は天地創造の場面から記されますが、その意味はこの世は神様、それはあなたのものですという意味でしょう。
私たち人間は、神の創造の最後に、もっとも神に似た者として、しかし、神にわずかに劣るものとして造られました。
 
 けれど僅かに劣るとしても、この世で唯一、世を造られた神を認識し、神から与えられた世界の管理者としての責任を持ち、何よりも主なる神の思いに応答する者としての役割が与えられているのだと思います。
 応答する者として、神はアブラハムを選び、その子イサク、更にその子のヤコブ、ヤコブの12人の子ども達、そして、出エジプト記に入り、モーセ、ヨシュアといったイスラエルの指導者たちをはじめとする、それぞれの時代の祭司、王、預言者、神に応答する者の歴史が旧約聖書に記されている内容と言っても過言ではありません。

 そして今日読みました詩編89編20節からは、イスラエルの二代目の王として、人々から愛されたダビデについて記されています。
 
 20節、21節を読みます。「あなたの慈しみに生きる人々に かつて、あなたは幻によってお告げになりました。「わたしは一人の勇士に助けを約束する。わたしは彼を民の中から選んで高く上げた。わたしはわたしの僕ダビデを見いだし、彼に聖なる油を注いだ。」

 ダビデ王はイスラエルの歴史の中で、人々から愛された王として、最も栄えた時代の王として知られています。主イエスの父ヨセフもダビデ家の家に属する者でありました。ダビデの家柄である、ユダヤの人々にとっては一つの誇りであったと思います。

 ダビデは主なる神から選ばれ、祭司サムエルによって油注がれ王となりました。けれど、ダビデも人の子ですから、人としての失敗や過ちがあり、人の妻であったバトシェバと懇ろになるという出来事が記されているように、少しも完全ではなく、罪人としてのダビデの姿も聖書には記されています。
 けれど、ダビデは、その生涯において、何度失敗しても、尚主なる神に応答しようとする王でありました。その姿に人々は自分もこのようにして生きていきたいと思わせるものがあったと思います。
 主なる神を見上げて生きたダビデがいかに主なる神から愛されていたかが、詩編89編の中盤に記されている内容となります。
 
 後半31節からは、それにも関わらず神の怒りが表されます。31節~33節を読みますとこうあります。「しかし、彼の子らがわたしの教えを捨て、わたしの裁ききによって歩まず わたしの掟を破り わたしの戒めを守らないならば 彼らの背きに対しては杖を 悪に対しては疫病を罰として下す。」
 
 ダビデ王の息子であるソロモン王の時代までは、イスラエルは割合に良い時代でありました。けれどソロモン王の次の時代からは後継者問題が発端となり、イスラエルが二つに別れてしまう。そして、そこから以降、立てられた王の多くは、主の御旨に叶わない王として記されています。
 
 人が王となる。その意味は権力を持つということです。富を持つということです。家臣や部下や国民が自分の思い通りに動くようになるのです。その誘惑がどれほどのものでありましょうか。

 主イエスは福音書の中で「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑をとらせてください』 とどうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。」と話されました。

 誰が王様に、「王様、王様の目の中におが屑がありますから、取らせてください」と言うでしょうか。おが屑ならまだしも、明らかに丸太が入っているとしても、「王様、丸太がありますから取らせてください」と誰が言うでしょうか。いつの間にか、誰も、リスクを冒してまで、言おうとしなくなっていくでしょう。多くの場合、自分に厳しい人の意見や、言葉こそがその人を成長させるものですが、王様は逆にそのような人を排除することでしょう。

ダ ビデは、バトシェバと関係を持った後、バトシェバが子を宿しましたと告げたものですから、彼女の夫のウリヤとの子にしようと策を練りましたが上手くいかず、ウリヤを戦いの最前線に出して、戦死させてしまいます。しかし、その後預言者ナタンがやって来てダビデよ、それは正しいことなのかと迫った時に、ダビデはすぐに罪を認め「私は罪を犯しました」と自らの罪を認め、悔い改めました。
当たり前の事のように記されていますが、それ以降に立った国王の中で、果たして預言者の言葉をダビデのように、受け止めた国王はいなかったのではないでしょうか。

 逆に自分にとって都合のよい預言者を重宝し、厳しい言葉を告げる預言者は排除されて行ったと言えるでありましょう。

 何よりいつの間にか、自分が王ではなく、神のようになり、真の神の御言葉を軽んじて、罪を重ねるようになっていったのではないでしょうか。

 そのような状況は何もイスラエルだけの話ではありません。どこの国においても起こることですし、主イエスが、ファリサイ派、サドカイ派といった宗教的指導者に厳しくあたったのも、あなたがたは神の御名を用いて、神のように振舞い人を裁いている、それは神を軽んじていることなのだと告げたかったのだと思うのです。

 新しい2021年という年が始まりましたが、この世の状況はコロナウィルス感染が治まりません。そんな中にあって、この世の風潮としては政府に対する批判が高まっていることは確かでしょう。感染が治まらない中で、近い将来に私たちの地域は緊急事態宣言地域となる可能性がありますが、仮にそうなったとしても、遅すぎるとか、もっと素早い対応を、と言った批判が繰り返されるだろうと思われます。 

 けれど、大切なのは、誰かの批判、批評に終始しないということではないでしょうか。あの人、この人と私たちが自分以外の誰かを批判、批評しているとしたら、十分に気を付けなければならないと思います。自分がいつの間にか王になってはいないだろうか。
 繰り返し申し上げますが、ダビデが愛されたのは、悔い改めることが出来る人であったからです。そのような者こそが、神の選びの民とされている。
 
 詩編89編は時として、クリスマスの時期にも読まれる詩編です。20節に記される「わたしは一人の勇士に助けを約束する。わたしは彼を民の中から選んで高く上げた。」という御言葉があります。一人の勇士とは、ダビデのことですが、キリスト教の信仰を持つ者にとって、この御言葉は、主イエス・キリストを示していると受け止めて考えるからです。

 ダビデ家の血筋として誕生された御子イエスは、その宣教にあたり、私たち一人一人も神の選びにある一人一人だと告げられました。私たちが神を選んだのではなく、主なる神が私たちの一人ひとりを選び、神の民としてくださいました。そのことは私たちにとって喜びであり、誇りでもありますが、しかし一方においては、コリント書にあったように「神は世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられているものを選ばれました。それは誰一人、神の前で誇れることが無いようにするため」でもありました。

 新しい年を、神の御前に謙遜となって、与えられている人生に感謝して希望を持って過ごして参りましょう。

 お祈りします。
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