日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

行き詰まらない生き方

2020-12-29 09:15:14 | 礼拝説教
【詩編88編1~8節】
【ヨハネの手紙一 4章7~10節】


 本日、この礼拝が12月最後で2020年最後の礼拝となりました。この年はあたかも、コロナウィルスで始まり、そのままコロナウィルスの心配を抱えたまま暮れとなり、来年に持ち越すことになりそうですが、そんな中でもクリスマス礼拝、聖夜礼拝と、多くの制限の中で、執り行うこととなりましたが無事に行えましたことは感謝でありました。
 
 先日、25日クリスマスの夜、コロナ禍の中にあっても一つ良いことがありました。私が仲良くしていただいている教会の牧師で、山形県に田中先生という先生がおられます。。恐らく東北では一番大きい位の教会だと思いますが、25日の夜、今年はライブ放送で、全国に向けてクリスマス礼拝を開催しますというお知らせが来ていました。
私は忘れていましたが家内が覚えていて、夕食時に、私と家内と娘の三人で礼拝に参加しました。
 
 田中先生とは、ここ数年お会いする機会もありませんでしたが、久しぶりに画像で見て、説教を聞いて、聞いて行くうちに私は勝手に感動して泣きそうになっていました。
 
 何に感動したかというと、上手に話しをされる先生ですが、説教の内容に感動した訳でもなく、話しに引き込まれた訳でもなく、田中先生が元気に牧師をしておられる、70歳を越えておられるはずですが、一所懸命に話しておられる、その姿を見ていたら、という訳でもない、何に感動したかというと、田中先生の存在、そのものというか、先生がおられる、元気に話しておられるともう感動してくるわけです。
 
 私が学校を卒業して最初の任地として、岩手県の教会に赴任して、数年、まだまだ新米牧師でしたが、教会の中が少しギクシャクしたことがありました。
 原因は簡単で、田中先生の教会で信仰を養った方が教会に来られて、私の所に来ては向こうの教会では「こうやっている、あ~やっている」と言って来られるのです。今思うと、むしろ一生懸命に親切心から言われたのだと思いますけれど、そのころ、私も牧師として数年、3年位は過ぎていましたから、段々とプライドのようなものも成長しておりまして、すっかり自分も一人前のように思っていたと思います。
 
 ですから、聞けば聞くほど、内心では「うちはうちのやり方がある」と思う訳ですよ。そう思いながら聞いている訳ですから、腹が立つ、どうしようもなく腹が立つものですから、直接田中先生の所に電話しまして、相談があるのですが、と下手に出たつもりで電話しましたが、八割ぐらいは文句言いたかったわけで、それで文句を言ったわけです。

 お宅の人が来て困っています。どうすれば良いですか。そんな思いで電話をしました。先生は暫く電話を聞いておられましたが、おもむろに「いや~、菊池先生よ。あんたは立派だな~」って言われました。私はびっくりしました。「まだそんなに若いのに、大したものですよ。今からそうだと、10年後、20年後は、私よりも良い働きが出来ますよ」と言って来られた。

 向こうは大教会の牧師ですからね。そういう先生から褒められる、と言うよりも、文句の言葉を聞きながら、その言っている相手を褒めて、あんたは立派だと言えるその気持ちの持ち方に本当に驚きました。
 
 行き詰まって電話して、文句を言ったとしても、その文句に対する反論は簡単に言えたでしょう。私をやり込めることなんて簡単だったでしょう。でも、勝った、負けた、の世界とか、正しい、正しくないという世界でなく、そういう世界から離れて尚、相手も、自分も、誰もがより豊かに成長できる領域がある、そのことを僅かの電話の会話でさえ教えて下さったと思います。

 それから、私は田中先生の著書を読んだり、直接教わったりしながら、誰もが豊かに成長できる領域があって、何よりも、行き詰まらない生き方があることをずっと教わって来たように思っています。
 
 でも、一緒に礼拝を聞いていた娘は「わたしはさっぱり分からない」とつまらなそうに言っていました。それも、きっとそうだろうと思います。なぜ分からないと思うのかというと、関わりが違うからです。これまで、その人と、どのように関わってきたのか、どんなふうに互いの時間を過ごしてきたのか、そういった一つ一つが、娘には全くありませんから、クリスマスの説教を聞いた、しかも知らない牧師がなにか訳の分からないことを言っている、これしか感じなかったろうと思います。
 そんな娘の言葉を聞きながら、より確信的に感じたのは、行き詰まらない生き方を生きるために大切なこと、それは「関わり続ける」とことだと思いました。

 今日読みました詩編の88編は、まさに「行き詰まり」を感じて、その状況を訴え続けている詩編です。「主よ、わたしを救ってくださる神よ 昼は、助けを求めて叫び 夜も、御前におります」という御言葉で始まり、4節には「わたしの魂は苦難を味わい尽くし 命は陰府に臨んでいます。」6節は「汚れた者と見なされ 死人のうちに放たれて 墓に横たわる者となりました」とあります。

 詩編の作者は恐らく病気を患っていたであろうと思われます。しかも「汚れた者」と見なされているのですから、重い皮膚病とか、伝染性の病であろうと思われます。
 
 コロナウィルスの何が怖いのかと言えば、伝染する、感染するという点です。感染して、しかも死に至る場合がある、と言われると、予防の為には感染した人に近づかないことです。だから密にならないように、私たちは毎日気を付けながら過ごしておりますけれど、気を付ければ気を付ける程に、なにしろ近づかなければ良いわけですから、互いに関らない生き方のほうが良いわけで、病気にならない為には確かにそうかもしれませんが、でも、今度は人と関わらない生き方を生きると、暫くするとどうも「行き詰まる」のです。
 
 詩編の作者の病は、体の病もそうですが、詩編の後半を読みますと「わたしは若い時から苦しんで来ました」とありますし、それ故に、「愛する者も友も、あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。」と記されていますが、病も大変な上に、自分の周りの人々も去っていた、その悲しみと絶望の中で打ちひしがれている、まさに行き詰まりを感じる状況であり、もはやどうすることも出来ない悲しみを詩として記し、神様に訴え続けているのだと思います。

 このような訴えに対して、主なる神がアクションを起こしてくださった。そのアクションは私たちの社会に御子イエスが誕生されるというクリスマスの出来事であります。主なる神が、私たちとどこまでも、関わりを持って下さる決意をされた印としてのクリスマスであります。
 
 誕生された御子イエスが、成長してこの世に現れて、弟子達を集め、その後、汚れた霊に取りつかれていた人を癒し、重い皮膚病の人を癒し、中風で動けなくなっていた人を癒し、手の萎えた人を癒し、ガリラヤ中の会堂に行って、宣教し、悪霊を追い出されました。一人ひとりの悲しみに深く関わりを持たれて、そして希望を与え続けられたと思います。
 
 先ほどヨハネの手紙4章を読みました。9節から読みますがこうあります。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
 
 御子イエスの誕生は、神が私たちを愛する故の出来事です。詩編の作者のみならず、私たちの一人ひとりが行き詰まらないように、真剣に関わり続けようとされて、神の愛を携えて御子イエスは誕生されました。
 
 私たちは自分が大切にされていないと思うと行き詰まりを感じます。自分が必要とされていないと感じると生きるのが辛くなります。愛されていないと思うと涙が出て来るものです。でも、そうではない、誰に嫌われようとも、主なる神は、この自分を大切にして下さり、愛して下さり、いつでもどんな時でも祝福を下さる、文句を言っても、褒めて下さり、怒りを表しても、将来が楽しみだと告げて下さるのです。愛があるからです。
 
 私たちが行き詰まらない生き方を生きるために、どうしても必要なことは、愛を持って生きていくということでしょう。愛とは、「ずっと関わり続ける」とうことかもしれません。昆虫や魚が明かりのあるところに集まって来るように、人は愛があるところに集まって来るのだと思います。
 
 田中先生の教会は山形県の割と田舎の町にあります。どこから向かうにも中々、大変な所に立てられています。でも人が集まってくるのです。つくづくと場所ではないなと思います。この大塚平安教会も、この教会があって良かったと来る方がそう言われるように、これからも尚一層愛のある教会として、行き詰まらない教会として 新しい年も歩んで参りましょう。そのようにして過ごして参りましょう。

お祈りします。
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信じて生きる

2020-12-21 10:53:12 | クリスマス
【詩編87編1~7節】
【ルカによる福音書2章8~20節】


 皆様、クリスマスおめでとうございます。

 2020年のこの一年は、新型コロナウィルスが世界中に広がり、昨日までの報告では世界中の約7500万人が感染し、160万人が亡くなったとありました。これまで経験したこととは全く違う大変な一年を過ごして参りました。これからも更に暫くの間、私たちは感染予防に気をつけながらの生活です。
 それでも、そのような中にあって、クリスマス礼拝を献げられる幸いを感謝して、過ごして参りたいと思います。
 
 毎年行われるクリスマス、御子イエスの誕生を喜び、主なる神に感謝する時でもありますが、今日は「羊飼いと天使」という箇所を読みました。クリスマスの時期に最も多く読まれる箇所の一つです。
聖書に即して読みますと、御子イエスが誕生された夜、母のマリアと父のヨセフ以外で、最も早く御子の誕生を知らされた人たちが羊飼いでした。
彼らは夜通し羊の群れの番をしていました。焚火をして暖をとりながら、羊たちが泥棒や野生の熊、狼に襲われないように気を付けながらの夜通し見守っていたのでしょう。
 
 そのような彼らの所に、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしました。羊飼いたちは驚きましたが、天使は「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」と告げたわけでありました。
 その後、天の大軍がやって来て、神を賛美します。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」羊飼いたちは相談しました。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」

 羊飼いたちは神の御言葉を信じてベツレヘムに向かいました。今日の説教題を「信じて生きる」としました。それは羊飼いたちが神様の言葉を信じてベツレヘムに向かった、この様子を思い巡らしたからです。主の天使は羊飼いたちに、「今日、ダビデの町に救い主がお生まれになった。この方こそメシアであり、飼い葉桶の中に寝かされている」と伝えましたが、御子の生まれた場所を、この宿屋のこの馬小屋だよと教えたわけではありません。あなたがたは会いにいかなければならないと言ったわけでもありません。

 でも、羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムに行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合いました。羊飼いたちは、立ち上がり、真っすぐベツレヘムに向かったと思います。
 けれど、そこから先、寝静まっている夜の夜中、生れたばかりの御子を探して、誰かに聞くことも出来ず、簡単には探せない状況の中で、ついに飼い葉桶の乳飲み子を探し当て、喜びに満たされたわけでありました。

 皆さん、羊飼いの所に現れた天使は、神の御子の誕生を知らせました。羊飼いたちはその声を聞いて、御子イエスのもとへと向かいました。御子イエスに出会い、神をあがめ、賛美しながら帰っていきました。私たちも私たちのところに天使が来てはくれまいか。と思うところがあります。でも、天使との出会いは恐らく無いかもしれません。 
 けれど、主なる神は、天使ではなく、私たちが生きていく中で経験する、実に様々な出来事を通して御子イエス・キリストのもとに向かうようにと示し続けてくださっているのではないでしょうか。

 そのように促されているのではないでしょうか。けれど、どうも「なるほど」と喜んで、実際に決心して行動に移す人はそう多くはありません。なぜかでしょうか。一つは勇気と決断が求められるからです。羊飼いたちがベツレヘムに向かった、その姿は日常から離れたという意味でしょう。人が日常の生活から離れるには、多くのものや、多くの事を手放さなければなりません。手放してまで行こうとする勇気が求められると思います。

 主イエスと金持ちの青年との会話で、あなたに足りない物が一つあると言われました。彼が持っていた財産でした。それを手放しなさい、金持ちの青年は悲しみながら主のもとを去っていきました。私たちは自分の日常を手放す勇気と決断がどこまであるのか、なかなか難しいと思います。
 行動を阻害する二つ目に、知識が邪魔をするかもしれません。羊飼いたちは毎日羊と共に過ごしていたでしょう。羊についての知識は沢山あったと思いますが、世の動き、政治、経済について殆ど知る術も無かったのではないでしょうか。だから逆に、素直に御子イエスの元へと向かえたとも言えるでしょう。心の内に様々な知識や、経験がありますと、それらが邪魔をする時があります。
 主イエスは「自分を捨てて私について来なさい」と教えられましたが、能力があればあるほどに捨てられない、と思うのかもしれません。

 三つ目に、私たちが経験する出来事が、一体何故に、それが起こっているのか、その訳が分からない、なぜこんなことが起こるのか、どう考えても理由が分からないし、理不尽だと思う、例えば、病気なるとかね、事故に遭うとかね、そんな出来事を通して神様に向かう、そんなことはありえないと思うし信じて生きていけない、信じてなんになるのかと思うこと、多いのではないでしょうか。

 私たちは、今コロナウィスル感染の恐ろしさの中で過ごしています。今年の2月、3月には大変な騒動となっていましたから、この一年、コロナウィスルとの戦い続けて来たことになります。これからも暫く続くと思われます。多くの人々が亡くなり、病院は悲鳴を上げ、政治は混乱しています。コロナウィルスは忖度してくれませんから、政府も大変だと思います。これのどこに神の光を見いだせるのか多くの人は思っていることでしょう。私もそう思います。

 感染症の特徴は人を選ばないことです。国を選ぶこともなく、民族を選ぶことも無く、男女差で違うわけでもないでしょう。若い人は症状が軽いと言われますけれど、それは恐らくどの国、どの地域でも同じことでしょう。
そこで改めて思わされるのは、私たちが日ごろ意識している、していないに関らず、私たち人間が、今こそ一つになって生きていこうとしなければ解決しない問題なのだろうと思います。今ここで国の優劣とか、民族の違い、イデオロギーの違いを越えて、政治の違い、考え方の違いを越えたところで一つにならなければ、みんなで助け合っていかなければ解決していかない、そういう課題だからと一つになる、そのことが求められているように思います。

 今日は、詩編の87編を読みました。短い詩編ですが、それだけに特徴も明らかです。詩編の中にラハブという言葉が出てまいりますが、ラハブとはエジプトを意味するとどの注解書にも記されています。ですから87編に記されている、ラハブ、バビロン、ペリシテ、ティルス、クシュ、これらの国の特徴はすべてイスラエルの敵国とみなされている点にあります。多くの詩編では、このような敵国に対して、主よ、あなたが先頭に立って、滅ぼして下さいとか、あなたを憎むものが屈服しますように、との祈りが多いなかで、87編は、これらの諸国の民も皆、シオンで生まれた、つまりエルサレムで生まれた人々だと告げ、全ての人々が、共に歌い、共に踊り、敵、味方ではなく、仲間となって私たちの基は主なる神、あなたにあると告げる、そういう日がやって来ると示す詩編であります。

 今日、このクリスマスの礼拝に、この詩編はなんとも相応しい箇所であろうかと思いました。

 羊飼いの所に現れた天使は、「わたしは、民全体に与えられる大きな喜び」を告げました。民全体とは、イスラエルだけではありません。民全体、世界に住む一人一人、国を越えて、民族を越えて、御子イエスの誕生は民全体の喜びだと告げているのです。
 勿論、私たちもその中のメンバーです。御子イエスの誕生の喜び、それは教会の中だけの喜びではなく、地域、社会、国、世界全体の喜びとなれる時であろうと思います。

 だから、私たちは「信じて生きて」生きましょう。勇気と決断を持って、神の業は人の知識を超えることを知って、どんな出来事の中にも、神の宝物が隠されていると信じて、「信じて生きて」いきましょう。
主イエスは、目の見えない人に対して、この人を通して神の業が実現すると言われました。それは、過去に原因を探すのではなく、これから将来において、神様の業が明らかにされるという意味でありました。今、与えられている状況だけで判断するのでなく、必ず将来に神の祝福がある、だから希望を持って生きていきましょう。

 羊飼いたちが、立ち上がってベツレヘムに向かったように、私たちも主なる神から力を得て、信じて生きて参りましょう。
 
 お祈りします。
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しるしを求めて

2020-12-14 10:19:15 | 礼拝説教
【詩編86編11~17節】
【ルカによる福音書1章39~45節】

詩編86編17節に「良いしるしをわたしに現わしてください。それを見て わたしを憎む者は恥に落とされるでしょう」とあります。私たちはいつでも「良いしるし」を求めながら生きています。

車の運転で大切なしるしは、道路標識です。標識通りに走れば良いのですが 一方通行の道路を逆に走ったり、速度制限を越えたり、駐車違反をしたり、違反すると罰金を取られることもあります。

もうすぐ受験シーズンとなりますが、試験を受けて、合格証を貰う、それも嬉しいしるしです。学校を卒業となり卒業証書をいただく、それもしるしです。

私もほぼ不要と思われる教員免許証がありますが、でも幼稚園からそれが補助金の関係で必要ですと言われますと、取得しておいて良かったと思ったりします。
電気工事が出来る人はその為の資格が必要ですし、医者も弁護士も正当な資格、しるしが求められます。

具合が悪くて病院に行きますと、大概血液検査となって、採血されて色々と調べられます。内臓機能や、脂肪、血圧、血糖値、ほぼ全てが数値化されていまして、今回は肝臓機能が良かったとか、血圧が高くて心配とか、素人でも大体のことは分かるようになっています。医者もそういった「しるし」を見ながら、薬を処方したり、処置したり、回復しましたと言ったりできるのでしょう。
 
教会のしるしは、言うまでもなく十字架です。知らない場所に行っても、十字架が掲げられている建物を見ると、ここに教会があったと嬉しく思うことがあります。
 「しるし」とは、時には標識であり、資格であり、数値であり、看板でもあって、それぞれに大切な役割があり、私たちが生きている社会が形成されるためにも、大切な役割を担っていると言えるでしょう。

 けれど、何より私たちが何より求めるしるしは、生きるにあたっての人生のしるし、人生の道標ではないでしょうか。この道を歩むならば、健やかで、平安な人生を歩める、主なる神が与える神の道標を見たいと思うし、示して欲しいと願う、そんな思いは誰もが抱いているのではないでしょうか。
 
 新約聖書はルカによる福音書1章「マリア、エリサベトを訪ねる」という箇所を読みました。先週の礼拝は今日の前の箇所、マリアの所に天からの遣いである天使ガブリエルが現れて「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」と告げた箇所を読みました。マリアは驚き、戸惑い、抵抗を見せますが、「神にできないことは何一つない」という御言葉に圧倒されるようにして、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」とマリアが答え、天使は去っていきました。

 その後、マリアはどうしたのか、夫となるヨセフの所に行って相談したわけではありません。先ほどの箇所となりますが、急いでザカリアの家にいたエリサベトの所に向かいました。エリサベトはマリアの親戚です。エリサベト叔母さんが、もう子どもは授からない年齢なのに、身籠ったらしい、と聞いていたかもしれません。マリアにすれば、驚いたと思いつつ、自分には関係ないと思っていたでしょう。けれど、天の遣いはそのこともまた神様の業であると言うのです。だから、マリアはどうしてもエリサベトに会いたかったのだと思います。神の業のしるしを自分の目で見て、言葉で会話して確かめたいと思ったのではないでしょうか。
エリサベトの家に着き、挨拶すると、エリサベトの胎内の子が喜んで踊りました。エリサベトは聖霊に満たされて声高らかに、主を賛美する言葉をマリアに告げました。「あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」その言葉を聞いたマリアは、決定的な神のしるしを感じたのではないでしょうか。このしるしは、マリアにとっても神が示した道標となり、自分の身にも起こっている祝福であると受け止めたに違いありません。
 
 詩編に戻りますが、詩編86編は「祈り、ダビデの詩」という表題が付けられています。今日は11節から読みましたけれど、86編全体に亘って、この詩編は祈りの詩編です。特に願い求める詩編だと言われます。「主よ、わたしに耳を傾け、答えて下さい」で始まり、「わたしの魂をお守りください」「あなたの僕をお救いください」「主よ、わたしの祈りを聞いてください」「あなたの道をお教えください」「一筋の心をわたしにお与えください」「わたしに御顔を向け、憐れんでください」多くの願い求めがあって、最後の17節に「良いしるしをわたしに現わしてください。」との祈りとなります。

 ダビデはこの時、どのような状況であったのか、詳細はわかりません。けれど、政治的にか、生きることにおいてか、非常に厳しい状況におかれていたことは間違いありません。

 一つ一つの祈り願いについて考える暇はありませんが、あえて一つにまとめるとすれば、願い求めているのは、「主よ、本当にあなたは私と共にいて下さるのですか、それは間違いの無いのですか」という問いかけではないでしょうか。

 自分の人生に主なる神が伴ってくださっているのかどうか、そのしるしが欲しい、どこかにしるしはないかと求める思い、特に与えられている状況が厳しければ厳しいほど、また、決断する、判断が迫られている。そうなればなるほど、自分に神が伴っておられるかどうか不安と共にしるしを求めたくなるのでありましょう。
 
 その思いは、主イエスを目の前にしても尚、人々が求めた思いでありました。ルカによる福音書の11章では、主イエスに対して「先生、しるしをみせてください」と詰め寄った人々の姿が記されています。あなたはメシアなのか、そうならそのしるしを見せて欲しいと人々は迫りました。けれど、主はその求めに対して、「今の時代の者たちはよこしまだ」つまり悪い時代だと答えられました。

 なぜ、主イエスはそう答えたのでしょうか。改めて考えてみて、思いましたことは、しるしは、一つの基準となり得る、そういう特徴があるということです。最初に道路標識の話をしましたが、赤信号は止まれです。お年寄りだろうと子どもだろうと、事情がどうであろうと、全員が止まれです。理由を聞く必要もありません。止まらなかったら危険だからですけれど、信号はそれでよいかもしれませんが、でも、多くの場合、信号が基準となるように、しるしは基準となり得るのです。血圧が120台なら健康、130台なら高いと言われるように、記しは基準となるものですから、時には人を裁く道具に用いられてしまうことさえあるのではないか。主イエスにしるしを求めた人々は、マタイによる福音書では、律法学者とファリサイ派の人々であったと記されていますが、彼らは、主がなさるしるしを用いて、基準を示して人を裁く道具にしたかったのではないかとも思います。

 自分達の教え、導きは、しるしが証明している。だからその教えを聞かなければ、裁きが与えられる、そのような用い方を求めていたのかもしれません。

 主イエスのしるしとしての奇跡の業、その基準は裁きではなく、愛でありました。主はしるしを求める人々に対して、「預言者ヨナ以外のしるしあたえられない」と答えられた。その意味は主の死と復活を意味するようですけれど、
ヨナは、預言者としてニネベの町に遣わされました。あなたがたは罪ばかり犯しているから町は滅びると告げるためでした。そう告げろと神に言われた。いやいやながらも、その言葉を話したところ、その言葉を聞いてニネベの人々は悔い改めたというのです。神は滅ぼすことをしませんでした。

 ヨナはそれに腹を立てるのですが、なぜ、腹が立つのか、自分が言った言葉の通りにならなかったからです。滅びるという言葉が基準となっていたからです。神は、ニネベの人々の思いを大切にして、滅ぼさなかった、ここに神の愛が示されているのではないでしょうか。

 主なる神が与えられる基準は裁きの道具ではありません。むしろ、愛という姿で私たちに与えられるところの基準だと思います。

 詩編の作者が祈り求めていたしるしの形も、愛という形で結実しました。主イエスは特に病気で困っている人々、悪霊によって悩まされている人々、罪人だと言われ、社会的に弱い立場の人々に対して愛は届けられ、多くの祝福がもたらされました。その愛の形、愛のしるしとして御子イエスは誕生されました。だから私たちはクリスマスを喜ぶのです。

 この年、特に心配な状況が続いていますけれど、状況がどうであっても、神の愛は、私たちに与えられた確かなしるしです。この方の愛によって教会は営まれてきましたし、愛によって私たちは生きていきましょう。それ以外のしるしに影響されることなく、この方が神ともにいますしるしであることを忘れずに、過ごして参りましょう。             

 お祈りしましょう。
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希望を失うことなく

2020-12-07 10:20:11 | 礼拝説教
【詩編85編1~14節】
【ルカによる福音書1章26~38節】


 12月の最初の主日礼拝、第二アドベントの日に与えられました聖書は、詩編85編という箇所です。2節に「主よ、あなたは御自分の地をお望みになり ヤコブの捕らわれ人を連れ帰ってくださいました。」とあります。
 
 イスラエルという国が、バビロニアと呼ばれる大きな国との戦争によって滅んだのが紀元前587年、エルサレムは破壊され神殿も崩壊し、国は壊滅状態となります。イスラエルの中心的な人々は捕虜として連行されて、バビロン捕囚と呼ばれる50年を過ごすことになります。
 
 見知らぬ土地、荒れた土地が与えられ、最低限の生活の中で過ごしていた50年、もはや故郷に帰る希望もなく、将来に対する夢も失い、このまま自分達は死んでいくのみと思っていたでしょう。
けれど、世界情勢が変わり、バビロニアがペルシャに敗れて滅び、ペルシャの王様が、イスラエルに対して宣言します。「あなたたちの中で主の民に属するものは誰でも、エルサレムにいます、イスラエルの神、主の神殿を建てるため、ユダのエルサレムに上っていくが良い」
 
 人々はどんなに喜んだことでしょう。その喜びが今、読みました2節、3節、4節と続いている「主よ、あなたは御自分の地をお望みになり、ヤコブの捕らわれ人を連れかえってくださいました。御自分の民の罪を赦し 彼らの咎をすべて覆ってくださいました。怒りをことごとく取り去り 激しい憤りを静められました。」

 人々はどんなにか喜んで帰還していったかと思います。けれど、50年という年月は決して短い時間ではありません。土地の多くは荒れ果てていたでしょうし、見知らぬ人々、異邦人がやって来てすっかり自分の土地として生活をしている。そんな状況だったと思います。それでも人々はそこで、希望を持って、土地を買い戻して、耕し、畑を作り、整備して、また町を作ろう、元気で過そう、神殿を建てようと願っていました。
 
 けれど、現実は楽ではありません。町を整備し、神殿を建てようにも、元々人も資材も十分ではないわけですから、度々の中断となり進展しない、だけでもなく、飢饉となって食べる物も無くなる、イスラエルが元気になることを喜ばない隣国からは、嫌がらせ、妨害が続くことになります。
 そんな現実を前にして、人々は急速に力を失い、やる気がそがれ、神に対して呟きが増えていくのです。それが6節、7節に記されています。「あなたはとこしえにわたしたちを怒り、その怒りを代々に及ぼされるのですか。 再びわたしたちに命を得させあなたの民があなたによって、喜び祝うようにしてくださらないのですか。」

 人は物事がうまくいかない時、自分の努力が足りないとは思いつつも、誰かのせいにしたいものです。こんな社会だから、家族がこうだから、この状況では無理、そして最後には神様が悪いと神様のせいにしてしまう、それが人の姿であろうと思います。

 今日は、9時からの子どもの教会「ファミリー礼拝」の聖書箇所はイザヤ書の後半、59章という箇所でした。イザヤ書の後半に記されている預言は、詩編85編と同じように、イスラエルの人々がバビロン捕囚から帰って来た、その頃の時代に神の御言葉を受けたイザヤが人々に告げたものであろうと考えられています。

 59章1節にはこうあります。「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。」

 人々はいつの間にか与えられた状況で、「神様、どうしてあなたの手は短いのか、神様、どうしてあなたの耳は聞こえないのか」そんなふうにつぶやくようになっていたのでしょう。その思いに主は、それは違うぞと言っているのがこの箇所です。私の手は短くはないし、耳もよく聞こえているというのです。むしろ、原因はあなた方の側にあるのではないか、あなた方の悪が、あなたがたの罪が、つぶやきとなっているのではないかと告げています。

 今を生きる私たちも、与えられている状況につぶやくこと多いのではないでしょうか。新型コロナウィルスの拡大が衰えません。医療現場ではもうギリギリ、満床だとも言われます。一方では、「Go to キャンペーン」が行われています。旅行に行くことを促進しているわけでしょ。人が動けば感染が広がるのではないかと思いますけれど、経済を動かすことも、私たちが生きていく中では大切なのでしょう。

 けれど、状況としてはひっ迫した状態が続いていますから、誰もが余裕が無く、誰もが誰かの批判を繰り返し、攻撃し、更に不安を掻き立てているように思います。どうしても、誰もがつぶやくようになって来ているように思えてなりません。
 人は与えられている状況だけを見て判断すると、どうしてもつぶやきが増えていくのではないか、だから、神を信じる私たちに大切なのは、今の状況を見据えながらも、その先にある将来を見ていく思いが大切なのではないでしょうか。
 
 先にある将来を見るために必要な思いとは、希望を持つことです。希望を持つために、詩編85編の作者は、後半の9節から、作者自身が登場してきます。「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます ご自身の民に、主の慈しみに生きる人々に 彼らが愚かなふるまいに戻らないように」
 
 詩編の作者が告げたかったのは、「神の平和」の宣言です。「彼らが愚かなふるまいに戻らないように、それを告げるというのです。愚かなふるまい、それは現実を見て、それが全てと判断し、更にその判断からつぶやきがでてしまう、そういうふるまいではないでしょうか。主なる神が私と共におられる、だから、大丈夫という心を失う思いではないでしょうか。

 いつの間にか、そのように生きていく私たちにとって、このアドベント、クリスマスの時期は、私たちの思いではなく、神の御計画を見る時、そして心を取り戻す時として与えられているのだと思います。
 
 新約聖書はルカによる福音書から、おとめマリアの所に天の使いが登場する場面を読みました。クリスマスの時期に必ず読まれる聖書箇所だと思います。
 
 マリアがどういう人であったのか聖書は記していません。なぜ、神はマリアを選ばれたのかも聖書は記していません。しるしているのは、ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであり、ナザレという町に住んでいた女性、これだけです。
 けれど、なぜマリアであったのか、マリアに現れた天使は「おめでとう、恵まれた方」と告げました。この言葉にマリアは戸惑い、どういうことかと考え込むと、「マリア、恐れることはない、あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身籠って男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」というのです。この言葉はマリアにとって驚き以外の何もない、とんでもない言葉だったでしょう。「どうして、そのようなことがありえましょうか」天使に訴えようとする思いはよく分かります。
 
 天使は更に「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。あから、生れる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。神に出来ないことは何一つない。」
 この御言葉は、マリアにとって、マリアの都合からすれば、何一つ受け入れがたいものとしか思えません。神様に苦情を申し立てて、私の思いとは全く違うと訴えたくなるような状況ではないでしょうか。
 
 けれど、なぜ神様がマリアを選んだのか、それは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり。この身になりますように。」と祈ることが出来る女性だからだったかだと思います。
 マリアは現実だけを見るのではなく、きっと現実のその先にある将来、希望を見つめることが出来る女性であったろうと思います。なぜ、希望を見つめることが出来たのか、神の計画は、愛の計画であるという信仰に生きていたからだと思います。
 キリスト教が宣べ伝える神の姿は、神の愛の姿です。私たちに与えられている状況は実に様々です。一人ひとりがそれぞれに重荷を抱え、毎日の生活を生きています。
 
 その生活に疲れて聖書を読む、聖書を読むと段々わかってくることがあって、ある箇所は右だと告げているけれど、別の箇所は左だと告げているように思える。ある箇所では上を見てと書いてあるけれど、ある箇所では足もとを皆さいとある、一体どれが正しいのかと思うことがありますが、私はどれも正しいと思います。
 
 なぜなら神は愛だからです。神は愛の方である、一人ひとりに伴うためにはどれも正しいのです。神の愛は時には激しいこともあるでしょう。優しいばかりではないかもしれません。でも、神の愛に生きる人は、愚かなふるまいに陥ることなく、そこでつぶやくことなく、希望を持って、将来を見つめていきている人だと思います。私たちもそのような一人一人であることを感謝しながら、過ごして参りましょう。

 お祈りします。
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