日本キリスト教団 大塚平安教会 

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千日にまさる恵み

2020-11-30 11:32:31 | 礼拝説教
【詩編84編1~13節】
【エフェソの信徒への手紙2章7~10節】

 この2020年も皆様と共に、御子イエス・キリストの誕生を祝う時、クリスマスに向かう、アドベントが与えられました。アドベントは到来という意味があります。私たちが神様のところにいくことが出来ません、だから神様が私たちの所へと向かってぐんと近づいて来られた。それが御子の誕生となりますが、その到来を心待ちにして私たちは、この時期を過ごしていきたいと思います。
 その第1アドベントの礼拝に読みましたのが詩編84編です。11節にこうあります。「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは わたしの神の家に門口に立っているのを選びます。」 
 この詩編は、エルサレムの神殿を目指してやってきた巡礼者の祈りではなかったか。あるいはバビロン捕囚の時に、捕虜として連れて行かれた人々が、神殿での礼拝を思って祈った詩編ではなかったか、と言われています。
 
いずれにしても、エルサレムの神殿を慕う、また、その神殿の前庭で礼拝を行う、そこで主なる神と出会える。その喜びが表現されている詩編だと思います。
その喜びの表しとして「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵み」と祈っている訳です。

 私たちの人生はあっという間です。先日、田舎から電話がありまして、私の従妹が亡くなったというお知らせでした。私と同い年の60歳でした。元々体の弱い方でしたが、子どもの頃は良く遊んだ記憶があります。
現代では60代、70代で亡くなりますと、まだまだ若いのにと言われます。80年、90年、100歳は既に夢の年でもなくなりました。でも、それでも100まで生きたとしても、振り返ればあっという間ではないでしょうか。まるで一日のようだと思うことがあるかもしれません。だとすれば、私たちは今日という一日が、あたかも自分に与えられている千日分として生きていこう、怒ったり、イラついたり、悲しんだりすることもありますけれど、喜んで生きていこう、笑顔で生きていこう、そう決めて、前を向いて生きていきたいと思うのです。

 一日は千日のように、千日が一日のように生きていく、それが信仰を持つ者の生き方だと聖書は伝えているのでしょう。

 では、具体的にはどう生きていくのか、ある牧師は、一日が千日、千日が一日、それは「生き方の量」が変わると教えておられました。
 
 僅かなものが多くなる生き方、あるいは、逆の多くのものが少なくなる生き方があると教えています。僅かなものが多くなる、私たちはやっぱり、収入が増えていけばいいなと思います。学生であれば成績が上がる、仕事をしていれば多く成果を上げる、そのようにして増えていく生き方は大切です。 

 主イエスは、五つのパンと二匹の魚でもって、四千人、五千人の空腹を満たしてくださった、だけでなく、残ったパンは12の籠一杯でありました。そのようにして神様は少ないところから、多くのものを示して下さる方であると信じて生きていく。
 あるいは、多くのものが少なくなる恵みもあります。神を知ると何が変わるかというと、あのマリアの所にやって来たガブリエルが「おめでとう恵まれた方」と伝えた時に、マリアは一体何のことか不安に思ったとあります。
その不安に対して「恐れることはない」と告げられたように、主が共におられるので、恐れることはない、と告げる神の御言葉によって不安が減っていく、だけでもなく、主イエスは、何よりも病の中にいた人々、目が見えない人、手が、足が動かない人、皮膚病によって社会から隔離されていた人々を具体的に癒してくださったように、自分にとって重いなぁ、辛いなぁと思えるあの事、この事が軽くなっていく。
 
 私たちは自分で何かをなそうとすると、やっぱり目に見えるものに頼ります。これしかありませんよ、更に、課題はこんなにもありますよ、となるようです。
 
 誰ということでもありませんが、時々教会を心配して話してくださる方がいます。先生、私たちの教会、こんなに年配の方がいて、若い人はさっぱりいない、だから10年後、20年後不安です。心配です。大丈夫でしょうか。私はいつでも大丈夫ですよ、と言うのですが、いや大丈夫じゃないでしょう。だって若い人は少ないんですよ、年寄りは多いんですよ、まあ年に数回は、こんな話をします。
 でも、皆さん、私たちが信じる神様は、僅かなものを大きく、大きなものを少なくして下さる方です。やっぱりその方を信じて、信じ切って生きていきたいものだと思います。
 
 そしてまた、神様の恵みは量が変わるだけでもなく、またその質においても変わります。主イエスが世に出て、最初にされた奇跡は何かというと、カナでの結婚という場面で、水をワインに変えて下さり、結婚式の危機を救ったという話がありました。
 水とワイン、その量においては変わることは無くとも、質が変わる、本質が変わると言っても良いかもしれません。しかも今自分が必要なものへと神は変えて下さると言うのです。水とワインの話は、私が結婚式の司式を行う際に話すこともありますが、結婚式に臨んでいるお二人よ、今、人生の中でも最良の日、最高の幸せだと思っていることでしょう。でも幸せはこんなものではありません。これから日を追う毎に幸せが積み重なっていきますよ。

 一年後、二年後、三年後、ますます神様の恵みありますよ。そのことを忘れないようにと話をすることがあります。
 
 信仰者として生きるということも、同じではないでしょうか。受洗した時が最高ではありません。それはスタートでしかありません。神を信じて生きていく者が受洗一年、良い一年であった、受洗5年、更によい歩みであった、というように、勿論、良い事ばかりではないかもしれませんが、僅かなものからでも満たす方であり、背負わなければならない重荷を軽くして下さる方を知った者の歩みは、量だけでなく、質的にもすっかり変わって、これまでなら、もうダメだと思っていた、こうなったら怒り爆発していた、でも質的に変わってどんどん、良い人生を歩むことが出来ているなぁと実感できる、そのような歩みを私たちは生きていきたいものだと思います。
 
 そして三つ目、一日が千日のように、千日が一日のように、神の恵みは量を変え、質を変え、そして、一人ひとりの中身そのものを変えてしまう力があります。
 先ほど、エフェソの信徒への手紙を読みました。
 
 2章10節の御言葉、「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。」私の頭の中では、どうしても口語訳聖書の御言葉になりますが、そこには私たちは神の作品だとあります。あなたも、わたしも神様の作品、それは、だれとも代えがたい、だれとも代えられない、他の人には申し訳ないけれど、神様は、この私を誰よりも愛して下さっていると、一人ひとり皆がそう思ってしまう程に「自分が神の作品とされている。

 この御言葉を記した使徒パウロこそ、パウロの人生の中身、全てが変わった人でありました。

 「生れて八日目に割礼を受け、ベニヤミン族出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人、律法に関してはファリサイ派、熱心さにおいては教会の迫害者、律法については非の打ちどころがない」人として生きて来たパウロが、主イエス・キリストに出会うことによって、その中身がすっかり変えられて、これまで大切だと思って大事に持ってきたキャリアさえも、必要なくなって、ただひたすらに主イエスの福音を宣べ伝える者となっていったように、全く新しい人生を喜びをもって歩みだす、それが信仰者として生きる者の歩みではないでしょうか。

 一日が千日のように千日を一日のように、神殿に集い、神の御前にぬかずき、神を神として讃えることが出来るこの幸い、詩編を記した作者の思いを感じる取ることが出来るように思います。

 この年のアドベント、クリスマスはいつもの年とは全く違う礼拝になると思います。恐らく、この2020年という年は、これから100年後も、200年後も、更にその先にまでも、語り継がれていく年となるでしょう。歴史に大きく記される年となることでしょう。つまりは、色々な制限が与えられ、規模を縮小しての礼拝となることでしょう。

 けれど、それだけに、独り子を賜る程に愛された神の愛の中で過ごして行きましょう。その愛に包まれて、しっかりと量的に質的に、そして中身をそっくり変えられた者として、感謝をもって、喜びの中で過ごして参りましょう。

 お祈りいたします。
 
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わたしの名によって集まるところには

2020-11-23 11:01:22 | 礼拝説教
【詩編83編1~5節】
【マタイによる福音書18章15~20節】


 読みました詩編83編の状況は、いつのどの時のことかといった時代背景を探るのは難しいようです。けれど状況は、敵がイスラエルを囲み、これから一戦交えようとしている状況だと思われます。イスラエルは四面楚歌、非常に厳しい状況に置かれている。
 
 そのような中で「神よ沈黙しないでください」という祈りから詩編83編は始まります。沈黙しないでくださいという言葉は、現代語的に言えば、「神よ、怠けないでください」という意味だとありました。こんなに大変な状況にあって、休んでいる場合ではないでしょう、そんな切実な思いで祈っているというのです。

 3節、続く4節には「ご覧下さい、敵が騒ぎ立っています。あなたを憎む者は頭を上げています。あなたの民に対して巧は謀をめぐらし、あなたの秘蔵の民に対して共謀しています」緊迫した状況が繰り返されています。

 この詩編でイスラエルが敵と目しているのは誰か、それが7節以降に記されている民族となるわけです。エドム人、イシュマエル人、モアブ、ハガル人、以下続きますが、これまで礼拝において、詩編を読み続けて参りましたが、このような状況のイスラエルの姿をこれまで幾度も読んで来たようにも思います。幾度も読むうちに、分かって来たこととして、一つのパターンがあるように思います。
 
 神の民としてのイスラエルが危機に陥っている、イスラエルを取り囲む敵がいる、必死に祈るイスラエル、私たちはあなたの民、もはや、あなたの力無くしてはこの状況から逃れられないでしょう。どうぞ神よ、あなたの民を救ってくださいと願い求める、そういったパターンがあるように思います。
 
 イスラエルは神の民であるという事実は、旧約聖書を読む者にとっては疑いようがありません。毎週水曜日、午前に行われる祈祷会では創世記を読み続けていますが、そこには、天地創造の神である主なる神が、アブラハムを選び出し、イスラエルの基としされて、その子であるイサク、更にその子であるヤコブを通して、神が働かれる姿が記されています。
 
 続く出エジプト記には、イスラエルの指導者モーセの元に現れた神は、自らを指して「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と告げています。こう告げる神のもとにイスラエルは主エジプトを果たし、40年荒野を旅して、カナンの土地を目指しました。この方無くしてはイスラエルの歴史を語ることはできない、聖書を読む者は自明のこととして受けとめる事実でもあります。

 けれど、今日、改めて思わされていることは、イスラエルの神である、主なる神は、イスラエルだけの神であって、イスラエルの敵は、同時に主なる神の敵でもあるのか、それは確かなのかということです。
 
 83編7節以降に、イスラエルの敵が記されて、最初はエドム人とあります。エドム人とはどういう人たちかというと、その先祖は、ヤコブの双子の兄であるエサウであると聖書に記されています。エサウの血筋を受け継ぐ人々がエドム人です。
 続く、イシュマエル人は、アブラハムと女奴隷のハガルという女性との間に宿ったアブラハムの長男イシュマエルの名前そのものです。モアブ人の祖先はアブラハムの甥にロトという人がいて、そのロトの子孫がモアブであり、アンモンです。これ以上の説明は致しませんが、ここに記されているイスラエルの敵として記される多くは、もとを辿っていくとすれば、イスラエルとどこかで血縁であり、親戚であり、家族でもありました。もともと仲間であったと言っても良いでしょう。
 
 もともと仲間であったにも関わらず、人の歴史において、いつかの時点で別の歴史を歩み、別の歴史の中で敵対する者となり、今イスラエルを囲んでいる状況となっている。そこで改めて思わされるのは、イスラエルが「神よ、沈黙しないでください。黙しないでください。静まっていないでください」と祈る神は、イスラエルのだけの神であって、イスラエルの敵は神の敵であると、果たして神様は本当に判断するのだろうかということなのです。

 もしかしたら、イスラエルだけが神の民であり、敵対する民族は神の民ではないと思うのはイスラエルの考え違いなのではないか、イスラエルの勝利だけが神の願い、という考え方は主なる神の思いと重なるのかどうか、イスラエルは思い違いをしているということはないのだろうか、と私は思いながら読みました。

 私たちの事を申し上げれば、私たちもまた主なる神を信じる者として生きています。私たちは神の民、その共同体の一人一人です。そこに揺らぎはありません。

 けれど、例えば日本では、中々キリスト教徒が増えて行かない現実もあり、今、全ての教会がその課題と向き合っているわけですが、もし伝道、宣教するなかで、私たちが「自分達は神様の側にいるけれど、あなたがたは神様の側にいない」とか「私達には神の真理に生きているけれど、あなたがたは神の真理に生きていない」とか、「わたしたちは救われたが、あなた方は救われていない」という思いを強く持っているとしたら、もっと言えば、「私たちは正しく、あなたがたは正しくない」ということでしょう。そういう思いでもって、宣教、伝道するとしたら、神の救いに導こうとする熱心さが、敵を作り続ける逆の方向にベクトルが動く、そんなふうになってはいないか良く顧みなければならないと思うのです。

 私たちが最も犯しやすい罪の一つは、自分が中心になることです。自分が中心になると、自分の周りにいる殆どの人は「変な人」になります。あの人は変わっている、この人の変わっていると思う。なんでそう考えるのだろう、なんであのように言うのだろうと思う。なぜなら自分が正しいからです。正しいと思っているからです。正しいと思えば思う程、周囲の人々が気になり、気になる人は気に入らないとなります。

 主イエスは、そのようにして信仰を自分中心に用いないように、よくよく注意をするようにと話をして下さいました。先ほどマタイによる福音書18章から「兄弟の忠告」という箇所を読みました。
 
 「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。なた、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたがうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
 
 毎週日曜日、主の日に行われる礼拝は、私たちにとって心が一つになれる時でもあります。ここに集う一人一人が神の民として生きようとしている、いや、生きておられる。自分もまたその中の一人、私たちのアイデンティティが確かめられる時でもあります。けれど、一週間の多くの時間を、私たちは信仰者ではない方々と共に過ごしています。隣近所が既にそうです。職場においても、学校においても、ご家庭においてもそうだという方も多いはずです。けれど主イエスは、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいると言われました。」

 私としては、二人または三人の中の一人でも信仰に生きている人がおられるなら、そこにも主イエスはともにおられると思う。信仰に生きているか、信仰に生きていないか、その判断は主なる神がなさることであって、私たちが判断する必要はありません。むしろ、私たちが恐れなければならないのは、「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」という御言葉ではないでしょうか。信仰を持つ者の役割は、地上でつなぐことではないでしょうか。
 
 信仰をもって、敵を作るのではなく、信仰をもって、より仲間として、より信頼しあえる友として、共に生きようとするところで、しっかりとつながりあうところで、神様が天上でもつながれるのだと思います。
 
 神を信じる者が、しかし、神様よ、怠けないでください。あの人も、この人も敵だから、静まってないでやっつけて下さいと、もし願っているとしたら、その願いは本当に神様の願いなのかどうか、考えてみる必要があるのではないでしょうか。
 
 今日は、ご覧の通り、秋の収穫を祝っての収穫感謝礼拝を守っています。秋の豊かな収穫はこれから一年の命を守って下さる証しとして、人の歴史の中で、恐らくほぼ全ての宗教で守られている大切な祝いの時です。収穫は神様の恵みであると同時に、人々が一つになってこその収穫であることを思わされます。決して一人で出来ることではありません。改めて主の収穫を喜び、また、私たち自身が神の喜びの収穫として、素敵に伸びやかに生きて参りましょう。

 お祈りします。
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神の子 主イエス

2020-11-15 14:41:12 | 礼拝説教
【詩編82編1~8節】
【ヨハネによる福音書10章31~42節】

 詩編82編を読みました。この詩編を読んでオヤッと思われた方も多いと思います。「神は神聖な会議の中に立ち 神々の間で裁きを行われる。」ここに神々という言葉が記されています。神様はお一人ではなかったのか、複数の神が記されているとはどういうことなのか、すぐに思わされます。この問いは歴史の中で繰り返し問われてきたようですが、これが正しいという答えはないようです。
 一つの考え方としては、神々とは、神様が造られた天使たちではないか、神様が天の国で会議を開いた。その会議に、この世に遣わされていた天使たちが集められてやって来たというのです。実際のところ、天使かどうかは分かりません。しかし、会議の内容については良く分かります。2節からの御言葉を読みますとこうあります。
 「いつまであなたたちは不正に裁き 神に逆らう者の味方をするのか。弱者や孤児のために裁きを行い 苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。弱い人、貧しい人を救い神に逆らう者の手から助け出せ。」

 主なる神が、会議に集まった者に怒りを露わにしている様子がわかります。神様が開く会議に集められわけですから、当然神様の思いを知っている者たちとなるでしょう。しかも良く知っていたでありましょう。
例えば、創世記には天地創造の物語があります。主なる神は六日かけてこの世界を創造されました。光あれと言われ光が現れ、水と空を分け、海と陸を分け、太陽と月と星と造られ、空には鳥、陸には動物、海には魚、そして、六日目に神は人間を造られました。その天地創造の一つ一つで、神は「良かった」と言われ、特に人を造られた時には「極めて良かった」と言われた。主なる神は天地創造によって良い世界を造ろうとされた、これは明らかなことだと思います。
 ところが、そのような世界を造ろうとされたのに、どうも上手くいかない。アダムとエバのところにヘビがやって来たのが悪かったのか、ノアの時代では「世の中に悪が増した」とありますが、世界を造った神様は洪水という思いきった手を用いられたりもしました。神様もあの手、この手を用いられたのでしょう。そのようにして、しかし「極めて良い」世界を作り出すために色々な働きをされていた。
けれど、その神の働きの為に、この世に遣わされていた神々と呼ばれていた者たちが集められて叱られているのです。

 あなたがたよ、あなた方はなぜ神に逆らう者の味方となるのか。弱者や孤児や苦しむ人、乏しい人たちの助けにならないのか。弱い人、貧しい人を救おうとしないのか。そう問われているのです。問われている者は先ほど、天使ではないかと申しましたが、どうも天使ではありません。では誰かというと7節に一つの答えが記されています。

「しかし、あなたたちも人間として死ぬ。」とあります。神々と言われている者は、どうも人間のようです。しかも、神の思いを良く知る人間です。それは一体誰なのか。

 その一つの思いとして、新約聖書からはヨハネによる福音書10章から読みました。途中から読みましたけれど、「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。」とあります。
どうして主を石で打ち殺そうとしたのか、この場面は、エルサレムで神殿奉献記念祭という特別の礼拝があった時の話です。主イエスがその記念祭に来ておられた。ユダヤ人の宗教的な指導者が主の周りに集まって来たのでしょう。彼らが主イエスに話しかけました。「いつま、わたしたちに気をもませるのか。もし、メシアなら、はっきりそう言いなさい。」と詰め寄ったというのです。
私たちはあなたに期待している、という思いから話しかけたのでしょう。
 
けれど、主は「私が行う業は、父なる神から来るものであって、私は父と一つである」と言ったものですから、カッとなって石を取り上げ打ち殺そうとしたというのです。
 なぜ、カッとなったかというと、主イエスは、自分は父なる神と一つだと言ったからです。イスラエルの人々は長い間、メシアを待ち望んでいました。自分達の国に、神の救いの現れとして、メシアがやって来こられる。そのような信仰に生きていました。
 
だかこそ、主イエスにあなたこそメシアではないのか、そうならそうだと言っていれ、切実な思いを持って問うたかもしれません。でもなぜそう聞いた人々が石を持ったのか、主イエスは自分がメシアだとは答えませんでした。そうは答えないで、私は父と一つだと答えたのです。自分は神と同等だという意味を持った言葉です。だからつい、怒って石で打ち殺そうとした。

人々が望むメシアの姿は神様ではなく、人間です。人としての救い主です。いわば、この世の英雄、ヒーローです。そのような人が現れると信じていたのに、主イエスにその思いを告げたのに、私は父と一つだと言われた、私は神だと言われたようなものです。なんと神を冒涜した言葉だと思ったのでしょう。 
そんな輩は石で殺さなければならないと思ったのでしょう。
 
 けれど、裏を返せば、それほどまでに私たちは神を知っている、神について、神の思いを分かっている、という事ではないでしょうか。だから、主イエスは詩編82編の先ほどの御言葉を用いたのだと思うのです。「神の言葉を受けた人たちが「神々」と言われている」と話しかけました。律法によって、神の言葉を受けたあなたがたよ、神々と言われる程のあなたがたよ、しかし、詩編82編を知る者は、これだけで、主イエスが自分達に何を言いたいのかをも理解したでしょう。

 神の思いを知っているなら、なぜ、神の思いを行わず、いつまであなたがたは不正に裁いて、神に逆らう者の味方をするのか。弱者や孤児の為に裁きを行い、苦しい人、乏しい人の正しさを認めることこそ、神の思いではないのか、あなたがたはそれを行っているのか、と問われていることを悟ったのだと思います。だから、余計に怒りが増したのではないでしょうか。
彼らは捕らえようとしましたが、主は難を逃れて離れていくことが出来ました。
 
 皆さん、神を良く知る者が神々と呼ばれるのです。その神々とさえ呼ばれた詩編に記された旧約聖書に登場する指導者たちは、神の思いを知っているはずなのに、主なる神から離れ、神に対し、また神の民に対しても罪を重ね、不正に裁き、弱い者を迫害しました。
その為に、主なる神は、時には王を立て、時には祭司を用いて、また、何より神の御言葉を告げる預言者によって神の民を「良い世界」に導こうとしました。それが旧約聖書に記されている内容です。けれど、そのような神の思いはついに顧みられることはありませんでした。だから、神はどうしたのか、主なる神は、自分の独り子である、主イエス・キリストをこの世に誕生させてくださいました。この御子イエスなら人々は敬ってくれるだろう、そのような御計画の中で、御子イエスは誕生されたのだと思います。

 しかし、主イエスの地上での神の御言葉を告げる生涯は、この世の神々、つまり、新約聖書にしるされる指導者たちは、主イエスが民衆から愛される姿を見るにつれ、妬みを持ってつぶそうと謀り、作戦は成功し、主は捕らえられ、裁判にかけられ、十字架刑に架けられることになります。人々はそれで全てが終わったと思ったでしょう。けれど、神の御計画は終わりませんでした。三日後に主イエスは復活され、弟子達の前に、人々の前に現れてくださり、復活の主イエスを体験した人々によって、神の御計画は成就していくことになります。

 皆さん、私たちは主イエス・キリストを通して神の福音を受け取り、主イエスを神の子と信じ、このように教会に集い礼拝を献げています。
 今日与えられている聖書から言えば、私たちもまた神々と呼ばれる、神の思いを良く知る者の1人ではないでしょうか。教会はこの世に対して、神の思いを知る者としての責任を持つのだと思います。しかし、それは人を裁くための責任ではありません。 
人の思いが正しいかどうか、正しく無いのかどうかを判断する責任でもありません。
 誤解を恐れずに言うとすれば、政治的指導者が人を正しく導いているかどうか判断する責任でもなく、人々の苦しみ悩みから救い出す働きをするための責任でもないと思います。
 
 勿論、この世にある教会が、そのように働くことは大切ですし、この世から求められていることでもあり、目に見える教会の働きであろうと思います。

 でも、恐らく、そのようにして、私たちこそ、神の思いを知っている者の1人であると信じて働く時、教会は教会を正しいものとしてしまう、自らを正しいとしてしまう、そういう危険があると思います。
正しいのは主なる神であり、主イエス・キリストです。私たちはその方にこそ従って生きていきたいものだと思います。私たちを徹底的に赦してくださり、神の御前に立てる者として下さった方の、御声に聞き従い、謙遜のうちに生きていきたいものだと思います。 お祈りましょう。
 
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祝福で満たされるために

2020-11-13 11:36:34 | 礼拝説教
【詩編81編1~11節】
【マルコによる福音書1章35~39節】

 本日の説教題を「祝福で満たされるために」としました。私たちは、日頃、生活を送りつつ、どこかに「祝福」が落ちてやしないか、どこかで祝福が自分の方にやって来ないだろうかと思っているところがあるのではないでしょうか。
 例えば、漠然と祝福はなによりも健康だと思う。最近朝に見ているテレビで、巷で流行っていると思いますが、家で行う体操とか、家で行うストレッチとか、体のあちこちを伸ばして健康になる、3分、5分で健康になるといったものを毎日見ています。
 毎日見ながら、なるほど、そうするのかと思いながら、毎日見ていると、なんだか自分も一緒になってやっている気分になります。実際は少しも動いていないわけですから、何の役にもたたない。それでも、やっぱり毎日健康でいたいと思います。
 健康だけでもなく、なんとなく、お金持ちにならないかなとかね、でも思うだけで、お金もちになった人はいないでしょう。
 昔から夜空を眺めて、流れ星を見つけたら、星が流れている間に願い事を願えば叶うと言われたりします。でも、大体は星を見つけても、願う前に消えてしまいます。漠然とした願いですと、私の願いはなんだと思っている内に大体消えてしまうものです。
 
 あるいは「祝福がやってこないかな」と思っている人との所へ、やってくる祝福は、どうも偽物の祝福が多いようです。「飲むだけで痩せる」とか、「必ず儲かる」とか、上手い話をしては、人をだます手口は後を絶ちません。
 後を絶たないのは、楽して儲かりたいと思っている人も多いからでしょう。そんな人の心を狙って、まるで本物のようにしてやって来るからでしょう。世の中は偽物のほうが、本物よりも本物のようになっているかもしれません。

 先ほど読みました詩編81編9節からを読みますとこうあります。「わたしの民よ、聞け、あなたに定めを授ける。イスラエルよ、わたしに聞き従え。あなたの中に異国の神があってはならない。あなたは異教の神にひれ伏してはならない」ここでいう異国の神、異教の神とは簡単に言えば「偽物」という意味でしょう。
 偽物のほうがどうも本物に見えてきて心が惹かれてしまう。でも偽物から本物の命が与えられないように、自分達の人生が祝福で満たされることはない、だからイスラエルよ、わたしに聞き従えと、主なる神は告げておられるわけです。続く11節を読みますが「わたしが、あなたの神、主。あなたをエジプトの地から導き上った神。口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう」
 
 「口を広く開けよ」は聞きなれない表現ですが、この御言葉が今日のポイント、鍵となる、祝福を受けるに大切な御言葉です。口を広く開けよ、この意味は三つ、一つは、神に祈り求めなさい。二つ目は神を賛美しなさいと。三つめは、しっかり食べることだというのです。
 この三つによって「わたしはそれを満たす」と主なる神は告げられました。

 祝福で満たされるために必要な一つ、神に祈り求めることです。主イエスはある時に「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」弟子たちにたとえ話をされました。ある町に神を畏れず、人を人とも思わない裁判官がいた。ところがそこに、一人のやもめがやって来て訴えました。当初裁判官は取り合おうともしなかったが、やもめが何度もやって来ては訴えるので、ついに「あのやもめはうるさくてかなわないから、彼女の為に裁判をしようと」決めたというのです。そのようにして、神は昼も夜も叫び求めている人々を放っておかれるはずはない、だから熱心に、繰り返し祈ることだと教えられたたとえ話です。
 
 これまで、何度かお話しましたが、私は牧師になるために神学校に入学したのは29歳でした。それまでの人生、自分は一体どう生きようか、どう生きていけば良いのか迷いました。何しろ、体力もない、財力もない、学力もない、ないものが服を着て歩いているような20代、でも当然と言えば当然なのです。ずっと迷っていたようなものです。自分の人生に迷いがある時は偽物に心が持ってかれますし、方向が定まりませんから、右にそれ、左にそれるのです。 
 でも、主イエスの「わたしに従いなさい」という御声に従おう、そう思わされた時、「神様、私はあなたの前に何もありません。でも、この体一つで従いますから、どうぞ導いてください」と祈りました。その祈りから2年、3年経って、神学校に入学することが許されて、今があるなぁと思います。
 
 神様の導きによって、大塚平安教会に導かれてやって来ました。来てすぐに、ある方に聞いてみました。「礼拝で新来者は何人ぐらい来られますか?」そしたら、一人も来ませんと言われて驚きました。そんなことは無いだろうと思っていましたが、だんだん言われた言葉の意味が分かって来ました。確かに新しい方はまあ滅多に来られませんでした。
 でも、それから暫くして、会堂建築が始まり、新しい会堂が完成しました。この会堂の為にもずっと祈り続けてきた訳ですが、建てられてから5年経ちましたけれど、その間に私たちの教会は、本当に祈ること、祈り続けること、願い続けることを学んで来たのではないでしょうか。御心に適う本気の祈りは必ず適えられる、そのことを、体験してきたのではないでしょうか。祈り求め続けるところにこそ、祝福が満ちるのだと思うのです。
 
 口を広く開けよ、その二つ目は神を賛美することです。賛美の歌声を響かせることです。声に出すことです。先週ある方から「声に出して読みたい聖書」という本を頂戴しました。喜んで読みましたが、そこには主イエスの「生の声」を、声を出して読むことの大切さが記されてありました。
 今小学校の授業でも、大切にされているのは音読です。声に出して読むことがどんなに大切か、私も全くそう思います。外国語を学ぶ時も声に出すことだと思います。
 
 神を賛美する。美しい歌声でもって神を賛美する、そこは祝福で満たされる場となるのは当然のことです。でも、それだけでもありません。神を賛美する、それはそのような心を持って生きるということであろうと思います。
 私たちは与えられた状況によって心が大きく左右されるものです。あんなに、元気一杯だったトランプ大統領も、選挙で負けそうになってすっかりしょげているように見えます。

 そりゃ、しょげてしまうよね。それはそうだろうと思いますけれど、でも、神の祝福で満たされるために必要なことは、状況によらず、です。ヨハネの手紙にはこうあります。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対する私たちの確信です。」
 神は私たちの願いを聞き入れて下さる。そういう確信を持っているというのです。

 ただし条件が一つだけあります。「神の御心に適うなら」です。私たちは神様、どうぞ四角をお願いしますと祈る、でも、与えられたのは三角だった。神様、私は四角を願いました。どうして三角ですか、と思う事もあるでしょう。でも、状況によらず、あ~そうか、神様は、私には三角の方が良いのだと示して下さったんだなぁ、そのようにして神を賛美する時、与えられた三角がなによりも素晴らしいものとして受けとめられるのでありましょう。皆さん、状況に寄らず、神を賛美し続けることです。
 
「口を広く開けよ」その三つめは、しっかり食べることと申しました。詩編81編は、イスラエルの祭りの時に用いられた詩編と言われます。

 イスラエルには年に三回大事な祭りがありまして、それぞれイスラエルの歴史と深く関わりを持つ祭りですが、けれど、基本的には収穫感謝の祭りでもあります。収穫感謝とはこれからも食べていける、食料が確保された喜びです。まさに祝福で満たされた祭りであったでしょう。食料は命に直結し、その命を守るのは主なる神、だからあなたがたは口を広く開けなさい、私はそれを満たそうと主は告げられました。

 主イエスは、実に多くの人々と共に食事をされたと思います。時には五つのパンと二匹の魚でもって、五千人の人々と共に、時には特に社会的に差別されていたり、弱いと見なされていた人々と共に食事をされました。そのようにして町を、村を巡り歩き、御言葉を宣べ伝えられました。それは、あなたがたの一人一人もまた大切な神の子だというメッセージを携えて巡られました。口を大いに開けて、共に食事をされた、その場は神の祝福の場面であることは間違いありません。

 私たちも主なる神に対して、祈り願い、状況によらず賛美の心を持って、そして食べることによって健康が守られて過ごして参りましょう。11月の冬に向かっていこうとする時期の中で、主の恵みをしっかりと受けて、喜びに満ちたこの一週間でありますように。
 お祈りします。
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新しい革袋に入れる意味

2020-11-01 16:50:19 | 礼拝説教
【詩編90編1~12節】
【マタイによる福音書9章14~17節】


 本日は2020年度の召天者記念礼拝となりました。この礼拝では既にお分かりのように両側の柱にそってこれまで信仰を持って歩んで来られた方、教会と深く関わりを持って下さっていた方々の写真が飾られています。
お手元には召天された方々のお名前が印刷されている紙が配られていますが、その人数は数えますと66名です。
 写真は両側に60名程の写真が飾られていますので、既に写真を飾る限界が過ぎております。ですから来年からはどのようにしようか検討しなければなりません。
 礼拝前まで、プロジェクターで召された方々の写真を映しておりましたが、そのような処理の仕方ならともかく、物理的に写真を飾り続けるのは毎年難しくなって来ております。お写真は減ることがありません。必ず増え続けていくことになります。
 
 このことは、改めて申し上げる必要もありませんが、人は必ず死を迎える日がやってくるということです。
 
 人の誕生について申し上げれば、私たちは誰も生またいと思って生まれた訳ではありません。女性で生まれたいとか、男性で生まれたいとか、こんな家族が良いとか、こんな親が良いというように、選ぶことも出来ません。親も子を選ぶことは出来ません。
 しかしまた、たまたま生まれてしまったとか、偶然でもなく、私たち信仰を持つ者にとって、人の誕生は、主なる神の愛の中でこそ起こるものと信じているわけです。
 
 けれど、また健康について考えてみても、人によっては丈夫な人もおられますし、そうでない方もおられる、病気がちの人もいれば、病院に行ったことはないという方もおられるでしょう。生まれながらの体質ということもあるわけです。
 
 先日、我が家の娘が食事の席で、自分は冷え性だからと話していたら、長男が自分もそうだと話しておりました。そんな会話を聞いていた家内は、手足が冷えるなんて分からないと言っておりました。そんな会話を聞いていると、ならば、手足が冷えるのは私の体質を受け継いでいるわけで、なんだか申し訳ないなと、謝りたい思いに駆られました。でも、良く考えてみますと、私もそういった体質を受け継いでいるわけで、隣で知らん顔して食事をしている母親が悪いかなとか、責任を押し付けたくなったりしました。でも、きっと母親のせいにしたところで何か変わるわけでもありません。
 
 健康面に限るだけでもなく、家庭において、社会の中で、人と人の関係の中で、私たちはそれぞれにきっと、自分ならではと言いますか、生まれ持った時からもあるし、生きていくにつれてということもあるし、自分に与えられている多くの重荷を抱えながら生きているのではないでしょうか。
 
 けれど、重荷はまた、自分にとっては大きな重荷でありますけれど、隣人からすれば案外気が付かないものです。気が付いているとしてもそれほど関心を持たないかもしれません。重荷について、時として親切な人が熱心に話を聞いてくれるということもあるでしょう。励ましてもらえるということもあるでしょう。力付けられるということもあるでしょう。
 でも、究極の所は、自分の重荷を別の人に担ってもらうことは出来ません。自分の重荷は自分の重荷であって、上手く解決するなら何よりと思いますが、多くの場合は、上手く折り合いをつけながら生きていくしかありません。
 
 でも、そうようにして生きていく中で、ある時には少し疲れたなと思うこともあるのではないでしょうか。若い者も、年配の者も、年齢に関係なく、何が危機かと言えば、自分の人生に疲れを感じる時、そういう時がやって来ますと人生の危機だと言えるかもしれません。
 
 そのような人生の危機、人生の疲れから解放されるためにも、私は私たちの創り主である神を信じる、信仰が求められると思います。
 
 私は、正しい信仰とか、正しくない信仰という言葉はあまり使用しないようにしていますけれど、けれど、あえて正しい信仰とは何かというと、命と関わりを持つ信仰、人の命は限られていると言える、あるいはその言葉を受け止めることが出来る信仰はではないかと思います。

 神を信じるとは命と関わることです。人は普段の生活の中で、命に関わる事は避けようとします。私たちはその日の糧や、富、安全、といったことには大いに関心があるのですが、自分の死について正面から考えることは滅多にありません。そんなことを考えるなんて、おかしな人だと言われかねません。
 でも、神を信じるとはそういうことだと思うのです。
 
 命に関わるとは、自分もまた召されていく時があり、最初に申し上げましたように、飾られている写真を見る側ではなく、見られる時がやって来ることを受け止めることが出来る、自分の命は限られていて、その限られている命をどのように生きるのか、神様から問われていると気が付かされるということではないでしょうか。
 そして、人は自分もいつか、死を迎える日があるということを、心から受け止めることが出来た時、死を心配しながら生きるのではなく、今生きている命が、どんなにかかけがえのないものであると感じるようになるのだと思います。
 
 その時に、重荷と思っていた重荷の疲れからでさえ解放され、解放された心で前を向いて、状況に寄らずに元気に生きていこうとするのではないでしょうか。

 昨年の11月の召天者記念礼拝の時から、一年、私たちの教会は、三名の方を天に送りました。伊藤Tさん、大矢Yさん、吉田Kさんの三名であります。
 今日はご家族、近親の皆様もお出で頂いております。今、この礼拝でお一人、お一人についてお話をする暇はありません。どの方も全く違った人生があり、違った生き方があり、晩年の生き方も全く違っています。私もそれぞれの方に多くの思い出があり、時間が許せば話たくなる思いがいたします。
 
 けれど、三人の方々に共通している点もある。それは三人の方々がそれぞれに、それぞれの重荷を負いながら生きて来られたという点です。長く病と闘っておられた方もおられ、病の家族を支え、見つめながら生きてこられた方もおられます。それぞれにそれぞれの人生の戦いがあったと言えるでしょう。けれど、もう一つの共通点は、その重荷を重荷としながらも、いつも前を向いて、確かな歩みを歩み続けてこられていたという点であったと思います。
 
 今日はマタイによる福音書から「断食についての問答」という箇所を読みました。

 そこで主イエスは「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば革袋は破れぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長持ちする。」と教えられました。
 
 「新しいぶどう酒は新しい革袋に」とは、聖書の言葉の中から、既にことわざとしても用いられていますが、新しいぶどう酒は暫くの間発酵しますから、古い革袋にいれると駄目になってしまう、そういう理由から新しい革袋に入れる、ビンやボトルが無かった時代、革袋に入れて液体を保存していた時代の話ですから、誰もが実感として良くわかる話だったと思います。
 
 ここで大切なことは、新しいぶどう酒とは何か、新しい革袋は何か、というところがポイントでしょう。それについて一つに絞ることはできないかもしれません。けれど、あえて絞るとしたら、新しいぶどう酒とは、主イエス・キリストが告げて下さった「神の国の福音」です。人は神の前において誰もが平等であり、誰もが愛されていて、誰もが祝福されている、神が自分の死をかけてまでも、私たちを愛して下さったという祝福です。
 では新しい革袋とは何か、これは聖書の文脈から考えなければなりませんが、ある牧師は、新しい革袋、それは「共に食べること」であると記してありました。
 
 主イエスは、当時一般的に行われていた断食や、罪人とは一緒に食べないといった、当時の習慣を破ってまで、誰とでも一緒に食べて、誰とでも一緒にぶどう酒をのんで、誰とでも一緒に生きることを喜んで下さった。そのようにして新しい革袋は、共に食べることだと教えておられました。私もそう思います。そう思うだけでなく、さらに私が思いますのは、きっと、このようにして教会に集う信仰共同体こそが、新しい革袋なのではないかと思うのです。
 
 主なる神を中心とする人生を、信仰共同体の仲間と共に、それぞれに与えられている重荷を負いながら、でも、新しい神の国の福音を携えて、一緒に歩んでいく。そのようにして生きてこられたのが、三名の共通するところであったと思うのです。
 しかし、それはこの三名に限ることでもなく、今ここに写真として飾られている一人一人、信仰の先達もの一人一人も同じことであり、今、地上に生きている私たちもまた、同じでありたいと切に願います。私たちに与えられている命を、人生を、新しい革袋しての信仰共同体として、これからも神様に守られて、しっかりと生きて参りましょう。

 お祈りします。 
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