【詩編84編1~13節】
【エフェソの信徒への手紙2章7~10節】
この2020年も皆様と共に、御子イエス・キリストの誕生を祝う時、クリスマスに向かう、アドベントが与えられました。アドベントは到来という意味があります。私たちが神様のところにいくことが出来ません、だから神様が私たちの所へと向かってぐんと近づいて来られた。それが御子の誕生となりますが、その到来を心待ちにして私たちは、この時期を過ごしていきたいと思います。
その第1アドベントの礼拝に読みましたのが詩編84編です。11節にこうあります。「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは わたしの神の家に門口に立っているのを選びます。」
この詩編は、エルサレムの神殿を目指してやってきた巡礼者の祈りではなかったか。あるいはバビロン捕囚の時に、捕虜として連れて行かれた人々が、神殿での礼拝を思って祈った詩編ではなかったか、と言われています。
いずれにしても、エルサレムの神殿を慕う、また、その神殿の前庭で礼拝を行う、そこで主なる神と出会える。その喜びが表現されている詩編だと思います。
その喜びの表しとして「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵み」と祈っている訳です。
私たちの人生はあっという間です。先日、田舎から電話がありまして、私の従妹が亡くなったというお知らせでした。私と同い年の60歳でした。元々体の弱い方でしたが、子どもの頃は良く遊んだ記憶があります。
現代では60代、70代で亡くなりますと、まだまだ若いのにと言われます。80年、90年、100歳は既に夢の年でもなくなりました。でも、それでも100まで生きたとしても、振り返ればあっという間ではないでしょうか。まるで一日のようだと思うことがあるかもしれません。だとすれば、私たちは今日という一日が、あたかも自分に与えられている千日分として生きていこう、怒ったり、イラついたり、悲しんだりすることもありますけれど、喜んで生きていこう、笑顔で生きていこう、そう決めて、前を向いて生きていきたいと思うのです。
一日は千日のように、千日が一日のように生きていく、それが信仰を持つ者の生き方だと聖書は伝えているのでしょう。
では、具体的にはどう生きていくのか、ある牧師は、一日が千日、千日が一日、それは「生き方の量」が変わると教えておられました。
僅かなものが多くなる生き方、あるいは、逆の多くのものが少なくなる生き方があると教えています。僅かなものが多くなる、私たちはやっぱり、収入が増えていけばいいなと思います。学生であれば成績が上がる、仕事をしていれば多く成果を上げる、そのようにして増えていく生き方は大切です。
主イエスは、五つのパンと二匹の魚でもって、四千人、五千人の空腹を満たしてくださった、だけでなく、残ったパンは12の籠一杯でありました。そのようにして神様は少ないところから、多くのものを示して下さる方であると信じて生きていく。
あるいは、多くのものが少なくなる恵みもあります。神を知ると何が変わるかというと、あのマリアの所にやって来たガブリエルが「おめでとう恵まれた方」と伝えた時に、マリアは一体何のことか不安に思ったとあります。
その不安に対して「恐れることはない」と告げられたように、主が共におられるので、恐れることはない、と告げる神の御言葉によって不安が減っていく、だけでもなく、主イエスは、何よりも病の中にいた人々、目が見えない人、手が、足が動かない人、皮膚病によって社会から隔離されていた人々を具体的に癒してくださったように、自分にとって重いなぁ、辛いなぁと思えるあの事、この事が軽くなっていく。
私たちは自分で何かをなそうとすると、やっぱり目に見えるものに頼ります。これしかありませんよ、更に、課題はこんなにもありますよ、となるようです。
誰ということでもありませんが、時々教会を心配して話してくださる方がいます。先生、私たちの教会、こんなに年配の方がいて、若い人はさっぱりいない、だから10年後、20年後不安です。心配です。大丈夫でしょうか。私はいつでも大丈夫ですよ、と言うのですが、いや大丈夫じゃないでしょう。だって若い人は少ないんですよ、年寄りは多いんですよ、まあ年に数回は、こんな話をします。
でも、皆さん、私たちが信じる神様は、僅かなものを大きく、大きなものを少なくして下さる方です。やっぱりその方を信じて、信じ切って生きていきたいものだと思います。
そしてまた、神様の恵みは量が変わるだけでもなく、またその質においても変わります。主イエスが世に出て、最初にされた奇跡は何かというと、カナでの結婚という場面で、水をワインに変えて下さり、結婚式の危機を救ったという話がありました。
水とワイン、その量においては変わることは無くとも、質が変わる、本質が変わると言っても良いかもしれません。しかも今自分が必要なものへと神は変えて下さると言うのです。水とワインの話は、私が結婚式の司式を行う際に話すこともありますが、結婚式に臨んでいるお二人よ、今、人生の中でも最良の日、最高の幸せだと思っていることでしょう。でも幸せはこんなものではありません。これから日を追う毎に幸せが積み重なっていきますよ。
一年後、二年後、三年後、ますます神様の恵みありますよ。そのことを忘れないようにと話をすることがあります。
信仰者として生きるということも、同じではないでしょうか。受洗した時が最高ではありません。それはスタートでしかありません。神を信じて生きていく者が受洗一年、良い一年であった、受洗5年、更によい歩みであった、というように、勿論、良い事ばかりではないかもしれませんが、僅かなものからでも満たす方であり、背負わなければならない重荷を軽くして下さる方を知った者の歩みは、量だけでなく、質的にもすっかり変わって、これまでなら、もうダメだと思っていた、こうなったら怒り爆発していた、でも質的に変わってどんどん、良い人生を歩むことが出来ているなぁと実感できる、そのような歩みを私たちは生きていきたいものだと思います。
そして三つ目、一日が千日のように、千日が一日のように、神の恵みは量を変え、質を変え、そして、一人ひとりの中身そのものを変えてしまう力があります。
先ほど、エフェソの信徒への手紙を読みました。
2章10節の御言葉、「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。」私の頭の中では、どうしても口語訳聖書の御言葉になりますが、そこには私たちは神の作品だとあります。あなたも、わたしも神様の作品、それは、だれとも代えがたい、だれとも代えられない、他の人には申し訳ないけれど、神様は、この私を誰よりも愛して下さっていると、一人ひとり皆がそう思ってしまう程に「自分が神の作品とされている。
この御言葉を記した使徒パウロこそ、パウロの人生の中身、全てが変わった人でありました。
「生れて八日目に割礼を受け、ベニヤミン族出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人、律法に関してはファリサイ派、熱心さにおいては教会の迫害者、律法については非の打ちどころがない」人として生きて来たパウロが、主イエス・キリストに出会うことによって、その中身がすっかり変えられて、これまで大切だと思って大事に持ってきたキャリアさえも、必要なくなって、ただひたすらに主イエスの福音を宣べ伝える者となっていったように、全く新しい人生を喜びをもって歩みだす、それが信仰者として生きる者の歩みではないでしょうか。
一日が千日のように千日を一日のように、神殿に集い、神の御前にぬかずき、神を神として讃えることが出来るこの幸い、詩編を記した作者の思いを感じる取ることが出来るように思います。
この年のアドベント、クリスマスはいつもの年とは全く違う礼拝になると思います。恐らく、この2020年という年は、これから100年後も、200年後も、更にその先にまでも、語り継がれていく年となるでしょう。歴史に大きく記される年となることでしょう。つまりは、色々な制限が与えられ、規模を縮小しての礼拝となることでしょう。
けれど、それだけに、独り子を賜る程に愛された神の愛の中で過ごして行きましょう。その愛に包まれて、しっかりと量的に質的に、そして中身をそっくり変えられた者として、感謝をもって、喜びの中で過ごして参りましょう。
お祈りいたします。
【エフェソの信徒への手紙2章7~10節】
この2020年も皆様と共に、御子イエス・キリストの誕生を祝う時、クリスマスに向かう、アドベントが与えられました。アドベントは到来という意味があります。私たちが神様のところにいくことが出来ません、だから神様が私たちの所へと向かってぐんと近づいて来られた。それが御子の誕生となりますが、その到来を心待ちにして私たちは、この時期を過ごしていきたいと思います。
その第1アドベントの礼拝に読みましたのが詩編84編です。11節にこうあります。「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは わたしの神の家に門口に立っているのを選びます。」
この詩編は、エルサレムの神殿を目指してやってきた巡礼者の祈りではなかったか。あるいはバビロン捕囚の時に、捕虜として連れて行かれた人々が、神殿での礼拝を思って祈った詩編ではなかったか、と言われています。
いずれにしても、エルサレムの神殿を慕う、また、その神殿の前庭で礼拝を行う、そこで主なる神と出会える。その喜びが表現されている詩編だと思います。
その喜びの表しとして「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵み」と祈っている訳です。
私たちの人生はあっという間です。先日、田舎から電話がありまして、私の従妹が亡くなったというお知らせでした。私と同い年の60歳でした。元々体の弱い方でしたが、子どもの頃は良く遊んだ記憶があります。
現代では60代、70代で亡くなりますと、まだまだ若いのにと言われます。80年、90年、100歳は既に夢の年でもなくなりました。でも、それでも100まで生きたとしても、振り返ればあっという間ではないでしょうか。まるで一日のようだと思うことがあるかもしれません。だとすれば、私たちは今日という一日が、あたかも自分に与えられている千日分として生きていこう、怒ったり、イラついたり、悲しんだりすることもありますけれど、喜んで生きていこう、笑顔で生きていこう、そう決めて、前を向いて生きていきたいと思うのです。
一日は千日のように、千日が一日のように生きていく、それが信仰を持つ者の生き方だと聖書は伝えているのでしょう。
では、具体的にはどう生きていくのか、ある牧師は、一日が千日、千日が一日、それは「生き方の量」が変わると教えておられました。
僅かなものが多くなる生き方、あるいは、逆の多くのものが少なくなる生き方があると教えています。僅かなものが多くなる、私たちはやっぱり、収入が増えていけばいいなと思います。学生であれば成績が上がる、仕事をしていれば多く成果を上げる、そのようにして増えていく生き方は大切です。
主イエスは、五つのパンと二匹の魚でもって、四千人、五千人の空腹を満たしてくださった、だけでなく、残ったパンは12の籠一杯でありました。そのようにして神様は少ないところから、多くのものを示して下さる方であると信じて生きていく。
あるいは、多くのものが少なくなる恵みもあります。神を知ると何が変わるかというと、あのマリアの所にやって来たガブリエルが「おめでとう恵まれた方」と伝えた時に、マリアは一体何のことか不安に思ったとあります。
その不安に対して「恐れることはない」と告げられたように、主が共におられるので、恐れることはない、と告げる神の御言葉によって不安が減っていく、だけでもなく、主イエスは、何よりも病の中にいた人々、目が見えない人、手が、足が動かない人、皮膚病によって社会から隔離されていた人々を具体的に癒してくださったように、自分にとって重いなぁ、辛いなぁと思えるあの事、この事が軽くなっていく。
私たちは自分で何かをなそうとすると、やっぱり目に見えるものに頼ります。これしかありませんよ、更に、課題はこんなにもありますよ、となるようです。
誰ということでもありませんが、時々教会を心配して話してくださる方がいます。先生、私たちの教会、こんなに年配の方がいて、若い人はさっぱりいない、だから10年後、20年後不安です。心配です。大丈夫でしょうか。私はいつでも大丈夫ですよ、と言うのですが、いや大丈夫じゃないでしょう。だって若い人は少ないんですよ、年寄りは多いんですよ、まあ年に数回は、こんな話をします。
でも、皆さん、私たちが信じる神様は、僅かなものを大きく、大きなものを少なくして下さる方です。やっぱりその方を信じて、信じ切って生きていきたいものだと思います。
そしてまた、神様の恵みは量が変わるだけでもなく、またその質においても変わります。主イエスが世に出て、最初にされた奇跡は何かというと、カナでの結婚という場面で、水をワインに変えて下さり、結婚式の危機を救ったという話がありました。
水とワイン、その量においては変わることは無くとも、質が変わる、本質が変わると言っても良いかもしれません。しかも今自分が必要なものへと神は変えて下さると言うのです。水とワインの話は、私が結婚式の司式を行う際に話すこともありますが、結婚式に臨んでいるお二人よ、今、人生の中でも最良の日、最高の幸せだと思っていることでしょう。でも幸せはこんなものではありません。これから日を追う毎に幸せが積み重なっていきますよ。
一年後、二年後、三年後、ますます神様の恵みありますよ。そのことを忘れないようにと話をすることがあります。
信仰者として生きるということも、同じではないでしょうか。受洗した時が最高ではありません。それはスタートでしかありません。神を信じて生きていく者が受洗一年、良い一年であった、受洗5年、更によい歩みであった、というように、勿論、良い事ばかりではないかもしれませんが、僅かなものからでも満たす方であり、背負わなければならない重荷を軽くして下さる方を知った者の歩みは、量だけでなく、質的にもすっかり変わって、これまでなら、もうダメだと思っていた、こうなったら怒り爆発していた、でも質的に変わってどんどん、良い人生を歩むことが出来ているなぁと実感できる、そのような歩みを私たちは生きていきたいものだと思います。
そして三つ目、一日が千日のように、千日が一日のように、神の恵みは量を変え、質を変え、そして、一人ひとりの中身そのものを変えてしまう力があります。
先ほど、エフェソの信徒への手紙を読みました。
2章10節の御言葉、「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。」私の頭の中では、どうしても口語訳聖書の御言葉になりますが、そこには私たちは神の作品だとあります。あなたも、わたしも神様の作品、それは、だれとも代えがたい、だれとも代えられない、他の人には申し訳ないけれど、神様は、この私を誰よりも愛して下さっていると、一人ひとり皆がそう思ってしまう程に「自分が神の作品とされている。
この御言葉を記した使徒パウロこそ、パウロの人生の中身、全てが変わった人でありました。
「生れて八日目に割礼を受け、ベニヤミン族出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人、律法に関してはファリサイ派、熱心さにおいては教会の迫害者、律法については非の打ちどころがない」人として生きて来たパウロが、主イエス・キリストに出会うことによって、その中身がすっかり変えられて、これまで大切だと思って大事に持ってきたキャリアさえも、必要なくなって、ただひたすらに主イエスの福音を宣べ伝える者となっていったように、全く新しい人生を喜びをもって歩みだす、それが信仰者として生きる者の歩みではないでしょうか。
一日が千日のように千日を一日のように、神殿に集い、神の御前にぬかずき、神を神として讃えることが出来るこの幸い、詩編を記した作者の思いを感じる取ることが出来るように思います。
この年のアドベント、クリスマスはいつもの年とは全く違う礼拝になると思います。恐らく、この2020年という年は、これから100年後も、200年後も、更にその先にまでも、語り継がれていく年となるでしょう。歴史に大きく記される年となることでしょう。つまりは、色々な制限が与えられ、規模を縮小しての礼拝となることでしょう。
けれど、それだけに、独り子を賜る程に愛された神の愛の中で過ごして行きましょう。その愛に包まれて、しっかりと量的に質的に、そして中身をそっくり変えられた者として、感謝をもって、喜びの中で過ごして参りましょう。
お祈りいたします。