日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

霊に燃えて

2020-10-27 16:07:18 | 礼拝説教
【詩編80編1~20節】
【ローマの信徒への手紙12章9~12節】


 昨年末に発生した新型コロナウィルスの感染拡大は、私たちの予想を超えて終息の傾向が見られないどころか、世界的な規模でいえば、更に拡大を見せている状況です。先週木曜日にはWHOが特に北半球では、危機的な状況となっていると警告を出しましたし、欧米においては最悪な状況、日本においてもそのリスクが低いわけではないと思います。
 当初、夏には収まるであろう、秋には終息の傾向が見られるであろうと、希望的観測をしておりましたが、これから冬に向かって更に気を付けなければならない状況かもしれません。
 安全なワクチンが完成し、インフルエンザのように感染予防に注意しながらでも、普通の生活が出来るようになるまで、まだ暫くの時間が必要であろうと思います。

 今、「普通の生活」と申しましたが、恐らくコロナウィルスの危機を克服したとしても、私たちの日常生活はコロナウィルス前の生活に戻るということは無いと思います。今、この出来事を通して、社会が大きく変化しています。

 先週、幼稚園のお母さん方と共に聖書の会を行いました。火曜日と木曜日と行いましたが、話題となったのは、ご主人が家で仕事をしているという話題でした。テレワーク、リモートワークと言われて、これまでなら朝には家を出て仕事をして家に帰って来るという当たり前とされていたことが、出社しないで家で仕事をするようになった。通勤が無くて楽になったと言える反面、家庭内での混乱も見られるようです。
 あるお母さんは、家にこもって仕事している夫が、少し鬱っぽくなって来たように思うと話しておりましたし、あるお母さんは、夫が仕事をしているのに、家でくつろいだり、外出したりすることが出来ずに、辛いとも話していました。それぞれの家庭でこれまでとは全く違った状況が生まれて来ているのだと思います。

 社会変革と言えば大袈裟かもしれませんが、仕事だけでなく、家庭だけでなく、学校教育や、社会全体の人の生き方や、考え方に大きな影響や変化が出て来るかもしれません。少なくとも、コロナ前の状況に戻ることが良いこと、という考え方はやめた方が良いかもしれません。
 むしろ、時代は流れ、社会は移り行くものです、教会も社会の中に建っている以上、変化に対応する必要も求められるでしょう。そのような時に、私たちは一体何を変えて、しかし、時代の流れの中にあっても何を変えないのか、改めて問うことは大切ではないでしょうか。

 今日読みました詩編80編が記している時代はいつの時代かというと、サウル王、ダビデ王、ソロモン王と続いたイスラエルがソロモンの後に後継者問題が起こり、北イスラエルと南ユダに分裂してしまうのですが、その200年後、北イスラエル大国アッシリアの攻撃に遭い陥落して、滅びた後、その悲惨な状況の中で、この詩編80編が記されたものと言われています。
 3節に、「エフライム、ベニヤミン、マナセ」とあります。いずれもイスラエルの12部族に由来する名前です。特にエフライム族、マナセ族は北イスラエルの中心的な部族として大切な役割を担っていました。その北イスラエルが破れたのです。アッシリアは手に入れた土地に対して、積極的に人々を移民させる政策をとりましたので、北イスラエルのも多くの異邦人が入り込み、異邦人との結婚が進むことによって、後にこの地域は、ユダヤ人から軽蔑され差別される地域となりました。

 戦争に敗れる、日本は1945年という年にその経験をしました。今から75年前となります。その時の日本がどれほど、悲惨であったのか、戦争は一体どれほど、人の幸せを奪うものなのか、体験として生きた人は、少なくとも80歳以上の方となりました。直接にその経験をしていない人々が国の政治を動かすようになりました。軍事力は強化される一方、一部の人たちは戦争前の時代に戻ろうとする、そんな国造りをしようとする人々も現れて来ています。詩編の作者も、アッシリアに敗れる前の時代に戻ってという思いが滲み出ていると思います。

 9節からを読みますとこうあります。「あなたはぶどうの木をエジプトから移し、多くの民を追い出して、これを植えられました。そのために場所を整え、根付かせ この木は地に広がりました。その陰は山々を覆い 枝は神々しい杉をも覆いました。あなたは大枝を海にまで 若枝を大河にまで届かせました。

 この場面は出エジプトから40年の荒野の旅の後、イスラエルがカナンの土地に入って行った様子が記されます。イスラエルは400年間エジプトにおりました。ですからカナンの土地は、400年前は自分達の土地であったと主張するのはさすがに厳しいと思いますけれど、それでも、イスラエルはこの土地こそ、神様が与えて下さった土地と信じて、カナンの土地に移り住み、そこに根付き、土地を広げていったのです。その様子を、ぶどうの木に例えて、その木が枝を伸ばし、大河にまで届かせた。この大河はユーフラテス川だと言われます。領土が大きく拡大したイスラエル、この時が最も良き時代があったのです。
 そのような歴史を思いながら、15節に、「万軍の神よ、立ち帰ってください。天から目を注いでご覧ください。このぶどうの木を顧みてください。」と、必死に願い祈る様子が伺えます。廃墟となった神殿の上で、生き残った者が、主なる 神に願っているそのような状況かもしれません。

 幸せなあの時代、あの頃に戻りたい、と私たちも思うことがあります。私は町田の教会におりました時には、幼稚園の園長もしておりました。その幼稚園で次男と長女は育ちました。自分の子どもが通っている幼稚園ですから、父親としても、集まる園児たちが、どんな遊びが流行っているか、どんなテレビを見ているのか、何に興味があるのか、大体のことは分かりました。その時の親御さんとも本当に親しくなって、今でも消息を確かめ合っている家族が幾つもありますが、
 その頃からいつの間にか、20年近く経ちました。この間聞いた話ですが、幼稚園の園児が車に乗って帰ろうとした時に、私が道を歩いていたそうです。私を見つけたその園児は、「あ、神様が歩いている」(笑)と言ったそうです。あ~、とうとう神様と言われるような見た目になったのかな(笑)と複雑な思いがしております。
 あの頃は良かったなと思うことが多くなってきたら、それは年を取った証拠かもしれません。

 けれど、皆さん、時間を止めることは出来ませんし、元に戻すことも出来ません。詩編の作者が、あの頃を思って、神よ、私たちを顧みて下さいと願う思いは私にも良く分かるように思いますけれど、時は元に戻りません。
だからどうするのか、私たちは神と共に前を向いて歩むしかない、と思うのです。

 主イエスは「私に従って来なさい」と言われました。この言葉に漁師であった、ペトロ、アンデレ、ヤコブとヨハネは網を捨てて従いました。徴税人のマタイは座っていた椅子から立ち上がって、主イエスの後に従いました。椅子から立ち上がるとは、前の自分には戻らないという覚悟を持った行為だと言われます。
 そのようにして、主イエスのもとに集い、主イエスに従った人々によって主イエスの福音は世界中に宣べ伝えられ、今も神の恵みが宣べ伝えられています。
 私たちが戻るべきところは、あの良かった時代でもないし、前の自分でもなく、場所でもありません。戻るべきところは、主なる神、主イエス・キリストのもとへと戻っていくのです。

 新約聖書から今日はローマの信徒への手紙12章を読みました。ローマの信徒への手紙は、使徒パウロが信仰に燃えて、福音宣教の願いをもって、まだ会っていないけれど、ローマの教会の人々に対して、自分の信仰を言い表し、信仰によって義とされた者の喜びが記されている手紙です。更にローマの教会の人々よ、私はローマを拠点として、更に世界の果てと言われていたエスパニアにまで行って、福音宣教の働きをしたいという願いを持って記したものです。
このロ―マ書は、これまで2000年以上に亘り、多くの神学者が愛読し、この手紙によって導かれた書でもあります。アウグスティヌスも、ルターも、20世紀最大の神学者と言われる、カール・バルトもローマ書によって、主イエスに従う新たな歩みを歩き出したと言われています。

 先ほど読みました12章9節からの箇所は、愛の十戒と呼ばれる箇所であります。
 愛に偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛を持って互いに愛し、怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。
 
 そのようにして、昨日も、今日も、明日も、これからも生きていきたい、そう願いつつパウロは記したと思います。私たちも霊に燃えて、神の御国に向かって、前を向いて進んで参りましょう。

 お祈りします。
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祝福の倍返し

2020-10-19 12:13:16 | 礼拝説教
【詩編79編12~13節】
【マタイによる福音書15章21~28節】

 先週の主日礼拝の後に、短い時間でしたが、久しぶりに各部集会が開催できました。婦人会、青年会と行いました。

 青年会は、わずか三名でしたが、19世紀のデンマークの神学者として知られるキルケゴールが記した文章の中から、「神の国と神の義を求めなさい」と主イエスが教えられた御言葉について考えました。

「神の国と神の義を求めなさい」と言われた人が、それを聞いて、わかりました。才能や能力に応じて、それを全うすれば良いのですかと聞くと、いや、「まず神の国と神の義を求めることだ」と言われる、それを聞いて、わかりました。それなら、全財産を貧しい人々に施せば良いですねと言うと、いや、「まず神の国と神の義を求めることだ」と言われる。なるほど、それなら私は世間に出ていってこの教えを伝えれば良いのですかと言うと、いや、「まず神の国と神の義を求めなさい」と言われる。聞いていた人は困ってしまって、それなら何をすればよいのですかと聞くと、あなたは神の前に無となり、口をつぐむことを学ぶべきで、沈黙の中に始まりがある、それが神の国を求めるということだと教えられた箇所を読みました。
 
 神の国と神の義を求めなさいと言われると、私たちはやはり何をすればよいかと考えますし、何かをしなければならないと思わされますし、何等かのアクションがなければと感じます。けれど、どうもそうでもないようです。

 文書を呼んでいきますと、キルケゴールは徹底して神の前に沈黙すべきであると記しています。私たちは話したくなります。動物は話が出来ません。人間だけが会話が出来る、そういう優越性というものがあります。けれど、神の前に至っては、私たちはあれが出来る、これが出来るといったおしゃべりはやめて、ただ沈黙が求められるのだと記してありました。

 その沈黙の姿勢の表れとして、私たちは、毎週日曜日、礼拝を献げるこの時間が与えられていると言えるかもしれません。礼拝は極めて宗教的な儀式です。無駄口を話す余地は殆ど与えられません。

 人は気持ちがリラックスした時ほど、その人の実力が出ると言われます。音楽でも、スポーツでも、体に力が入っている状態は自分の力が出ません。だから緊張しないように、競技する直前まで好きな音楽をイヤホーンで聞いている選手の姿を見たりします。けれど、礼拝は逆です。神の御前に体をこわばらせ、緊張を持って礼拝を献げるものかもしれません。

 礼拝の中で小さい子が走り回る、それも許されると私は思いますけれど、その子もいつの日か神の前に緊張して、心してこの場に座れるようにと祈りながら見守るものだと思います。

 けれど、人はどんなに緊張しているとしても、頭の中で思考を止めることは出来ません。沈黙が強いられる礼拝においても、祈りの中でさえも、説教中ではなおさら、頭の中はクルクルと色んな思いが出ては消え、出ては消えるものです。
どんなに集中して意識して話を聞こうとしても、いつの間にか昼ご飯は何を食べようか、午後は何をして過ごそうか、説教とは全く関係無い事柄を考えたりするものです。私の経験からしても間違いないことであります。

 キルケゴールが、また違う文章の中で、礼拝について記している箇所がありました。礼拝の場所はなんと人を落ち着かせ、何と心をなごませる所であろうか、と記しつつ、しかし、なごませるだけの礼拝を鋭く批判して、その礼拝で牧師が語る説教はいつの間にか聞く人々の要求を満たそうとするかのようになり、聞く人々は牧師の説教を聞きながら、できれば信仰深くなるよりは、世俗的で信仰の薄いままでいたいと思っている、としたら、それは弾力がなくなってしまったバネのような礼拝ではないかともありました。礼拝はもっと覚醒的、つまり、目が覚めるようなものではないのか、そのよう問いかける内容の文章がありました。時代は違っても、礼拝の危機はいつでもあるものだと思います。

 けれど、人間はいつも覚醒的な、目が覚めるような、もっと言えば修羅場と言えるような礼拝を求めているわけでもないと思います。修羅場とは自分の力では如何ともしがたい激しい状況に追い込まれている状態です。修羅場のような礼拝は避けたいと思う、それが本音かもしれません。

 けれど、修羅場だと思える時にこそ、主なる神との出会いが与えられるのであろうとも思います。

 先ほど読みました、カナンの女の信仰、主イエスが思わず「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように。」と告げる程の信仰、なぜこの婦人はそう言われたのか、この女性は今が修羅場でありました。修羅場のまま主イエスの前に立たされていました。この婦人は、多くの人々が主イエスの力ある言葉に魅了されて、この人は立派な人だとか、この人はこの国の指導者となる方だとか、いや、この方こそメシアかもしれないと、語り合う中で、それらの誰よりも主イエスに対して、修羅場であるがゆえに熱心でありました。
 なぜ熱心なのか、この女性には主を前にして明確な願いがありました。明確な願いが与えられている人には迷いがありません。迷いがない人は強さを持っていると思います。
 今日のお昼何にしようか、カツ丼がいいか、カレーにしようか、そういう迷いは、十分に迷っても良いと思いますけれど、でも、このカナンの女性は、迷っている暇はありません。

 恐らく主イエスのもとに来る前も、あの医者は治せるようだよとか、あの人の祈りは大したものだから祈ってもらってと聞けば、悪霊に苦しめられていた娘の為にとあっちに行き、こっちに出向き、しかし、ことごとく娘が癒されることは無かったのでしょう。もはや、自分の力ではなんともしがたい、と思う中で、最近、世間の人々が神の子だと噂している主イエスが自分達のところにやって来たというのです。

この方なら、娘の病を癒して下さるに違いない。是非にも癒して頂きたいと明確な目標をもって主の元にやってきたわけでありました。けれど、修羅場というのは、物事がうまく進まない、思ったようにならないから修羅場となるように、主のもとにやってきた婦人に対して、弟子たちは「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」と嫌がり、その言葉に答えるようにして主イエスは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と答えられるのです。
 でも、彼女はそれぐらいのことでは諦めませんでした。

 婦人はさらにひれ伏し、主の前に土下座して、必死になって「主よ、どうかお助けください」と願うのです。この姿は神の御前に礼拝する姿として見ることが出来るでしょう。けれど、そのような婦人に対し、主はさらに決定的とも思える御言葉「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」と言われた。子犬とは異邦人のことです。イスラエルの祝福を異邦人のあなたがたには与えることはできない。と言われた。これはね、なかなか冷たい御言葉だと思います。普通ならここで諦めるかもしれません。

 でも、この婦人は明確な目標がある上に、その目標は自分以外の誰も出来ないものだと良く分かっていたのでしょう。何よりも娘の病気が今、ここでこの場面でこそ癒されると思ったのでしょう。

 主の御言葉を受けてもなお、「主よ、ごもっともです。」と受け止ます。神様あなたの言う通りだ、あなたはイスラエルの民の中に遣わされた方でしょう。でも、「子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と告げたわけでありました。
 皆さん、ここにこの婦人の信仰の強さがあります。イエス様が人々に与える祝福、綺麗に整い、テーブルの上に備えられ、素敵な皿の上に美味しそうに盛り付けられている祝福をイスラエルの人々はいただくのでしょう。
でも、私はそのパンの屑で十分だと言ったのです。なぜなら、テーブルの上だろうが、食べこぼして落ちてしまったものであろうが、中身は何も変わらず、味も栄養も変わらず、何も変わらないことを私は知っていますと、そう言ったのです。これを食べさえすれば、娘は癒されることを私は知っていると言えたのです。そう言える程に神を求める心がこの婦人にありました。

 その答えを聞いた主は、大したものだ、あなたの信仰は立派だ。「あなたの願通りになるように」と言われたわけでありました。

 主イエスは神の国と神の義を求めなさいと言われました。この女性は見事にその求めに答えて見せたのではないでしょうか。私たちは冷たい言葉を聞くと、腹が立ち、倍にして返したいと思うものです。詩編79編はイスラエルが敵国の脅威の前に、徹底的に敗北して、敗北するなかで神に祈り、相手に対して7倍の恨みを返して欲しいと願っている箇所でありました。私たちは、このような思いはよく分かるのです。

 でも、皆さん、主イエスはやられても、どんな状況においても神の国と神の義を求め続ける信仰を求めておられます。テモテへの手紙一 2章4節にはこう記してあります。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおらます。」

 主イエスはイスラエルのみならず、全ての人々が救いに招かれるようにと望んでおられる。私たちもそのような救いに預かりながら歩んで参りましょう。

 お祈りします。
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信仰を語り継ぐ

2020-10-13 09:36:10 | 礼拝説教
【詩編78編1~8節】
【エフェソの信徒への手紙1章3~7節】


 毎週水曜日の朝は、幼稚園の子どもたちと一緒に礼拝を守っていますが、先週の礼拝の聖書箇所が使徒言行録の20章35節「受けるよりは与える方が幸いである」と言われた言葉を思い出すように、と記したパウロの御言葉について話しました。
 
 毎週子どもたちにどのようにして話をすれば良いか頭を悩ます訳ですが、以前に聞いた話しを思い出しました。イエス様が働いておられた地域には、二つの湖がありまして一つはガリラヤ湖、もう一つは死の海と書いて死海です。
 この二つはどちらも湖ですが実際は大分違います。ガリラヤ湖は死海の半分程の大きさですけれど、山からの水が川となって注がれます。注がれながら湖となり、それが溢れて更にヨルダン川となり死海へと注がれていきます。ヨルダン川以外にも違う地域に向かう川などがあるかもしれません。いわゆる一般的な湖と言っていいでしょう。

 ガリラヤ湖の湖畔は、豊かな水がありますから、大勢の人々が住んで生活を営み、湖では漁を行い、魚をとり、カニやエビ等もいたことでしょう。水があるところには畑もあり、穀物、野菜を育てることが出来たでしょう。
更には水によって緑が茂り、牧草が育ち、羊、山羊、牛とった家畜を飼っていたことでしょう。水がある場所はどれ程幸いかと思います。

 一方、死海はどうか、湖の名前が既に死の海ですが、死海は塩分が濃い湖です。直接行って来た方もおられると思いますけれど、塩分が濃いのはなぜか、ガリラヤ湖のように、出て行く川が無いからです。注ぎ込まれるだけで出て行かない、その理由は死海の海抜がマイナス430m、海よりも低い場所で水の出口がありません。ただ溜まる一方で、水が蒸発するだけ、蒸発するだけの湖ではいつの間にか塩分が海水の8倍程の濃度となり、飲むことも危険なようです。 
生物も殆どいない、つまり、その湖の周囲に人は集まりません。水があっても生活が出来ない、多くの植物も育ちません。現在の写真を見てみましても、植物らしいものは殆ど見当たりませんでした。

 子どもたちにはボードで絵を描きながら、だからガリラヤ湖のように、湖の水が川となって出て行くことがとても大切だと思いますよ。受けるだけでなく、与えることも大切ですよと話しをしました。どこまで分かって貰えたのか、分かりませんが、なんとなく理解してくれたことを願います。
 
 受けるよりは、与える方が幸い、皆さん、この御言葉は主イエスがそう教えられた御言葉だと聖書にあります。福音書には記載されていませんが、しかし、良く知られていた主イエスの御言葉だっただろうと言われています。
 
 今日の説教題を「信仰を語り継ぐ」としました。神から受けた恵、その恵をどのように理解するのか、また理解するだけでなく、どのように語り継いでいくのか、ガリラヤ湖のように、新しい川となって流れていく、生きる信仰となるために、どのような信仰を示そうとするのか、私たちに与えられている一つの課題だと思います。

 神の祝福を語り継いでいく、それほど容易ではないかもしれません。

 先ほど詩編78編を読みました。この詩編は長い詩編で、119編の次に長い詩編です。なぜ長いのか、イスラエルの歴史が記されているからです。
 特に出エジプトの出来事からカナンの土地へと導かれて行った出来事を中心にして、最後にはダビデ王朝に至るまでが記されていますから長くなるのも当然です。  

 この詩編の作者は、ダビデ王朝以降、更に国が二つに分かれた後のことも触れていますから、そのような出来事を良く知った者が記したと思われます。その内容をここで詳しく述べる暇はありませんけれど、しかし1節から8節がこの詩編を知るそうとした意図が記されている大切な個所でもあります。

 4節には「子孫に隠さず、後の世代に語り継ごう 主への賛美、主の御力を 主が成し遂げられた驚くべき御業を」とあります。8節にはこうあります。「先祖のように頑な反抗の世代とならないように、心が確かに定まらない世代、神に不忠実な例の世代とならないほうに。」
 この御言葉からも分かりますように、この詩編は神の恵みを書き記すだけでなく、培ってきた歴史の中で、イスラエルの民がどれほど神に反抗し、時には文句を言い、時には異教の神を拝む、そのようなことを繰り返してきたのか、しかし、それにも関わらず、主は諦めずに、忍耐を持ってイスラエルの人々を支えて来たのか、隠すことなく書き記そうとした思いが伝わる詩編となっています。

 この詩編を読む、次の世代の方々よ、どうか、私たちの歴史を知り、先祖の罪を自分の罪として受けとめ、神の祝福を生きていって欲しいと願いながら記されたのだと思うのです。
 
 今、先祖の罪を自分の罪とすると申し上げましたが、詩編78編の主題の一つは、先祖が犯した罪を記し、読み聞かせることにあります。
なぜそれが大切なのか、読むあなたがたよ、あなたがたにその罪を繰り返して欲しくないからだという思いでしょう。歴史は繰り返すと言われますが、なぜ歴史を学ぶ必要があるのか、繰り返さない為です。あるいは戻らない為です。
川の水が湖となって、また新たな川がそこから流れ出るように、そうでなければ湖が湖として生きてこないように、あなたがたよ、ただ受け取るだけでなく、川の流れのように、確かな信仰を培っていって欲しい、そう思いながら記したのではないでしょうか。
 
 私の手元に「語り継ぐ信仰」という本があります。1957年に大阪の教会で始まった朝の祈りの会が成長しまして、朝祷会全国連合会という組織になりました。その朝祷会に集っている方々の何人かが証し集としてまとめられて5年前に出版されました。
 その中に野口和子さんという方が記している文章を紹介したいと思いますが、こう記されてあります。

 「私は高校時代に、父から「共産主義社会の実現が、人類の最終目標で、そのために献身することが最高の生き方なのだ」と聞かされました。それ以来、私も共産主義に関する本を読み始め、学習会にも出席するようになりました。 
 しかし2年目頃から具体的な政治活動に巻き込まれて行くと、あっけなく脱落しました。しかもそういう弱い自分が許せなかったのです。
 病院勤務医だった父はそのような政治活動に熱中し、それを冷ややかに見る母や私の兄をなじりました。兄はうさ晴らしに私や弟をいじめるという具体で、家族関係はまさに冷戦状態でした。父は、よりよい社会の実現を願うと言いながら、その一方でなぜ家族の気持ちに鈍感でいられたのでしょうか。」
 
 このような書き出しで記されてあります。社会の平和を願って活動する人が、なぜ家庭は冷戦のような状況なのか、辛い経験として記されてありました。

 その後、野口和子さんは、成長して、結婚し、自らが子どもを育てる中で、教会と出会うのですが、共産主義者が言いそうな、「神は人が作った産物だ」と思っていたようです。けれど、自分が子育てをする中で、次第に心が溶かされて、溶かされるだけでなく徹底的な神の愛を受け止め、受洗して信仰者としていくことになった、そういう証しが、記してありました。

 なぜ、心が溶かされていったのか、一言でいえば「神の愛」を知る経験をしたからです。人は育てられたように子を育てると言われます。冷戦状態のような家庭で育ったこの方の家庭もあるいは、いつのまにそうような家庭であったかもしれません。いつの間にか、自分も同じように子どもを育てていることに気が付いたかのかもしれません。

 人は、同じ罪を繰り返します。だから主イエスを信じる者は、過去の自分に死んで、復活の主と共に新しい自分を生きなさいと言われるのです。過去のあのこと、この事を思いながら、しかし、それを繰り返さないで、川の水が流れでるように、流れ出て決して戻らないように、あなたの信仰も確かな流れにのって新しい自分を生きることに徹することです。

 神は天地創造の前から、既に私たちを愛し、神の御前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。

 この御言葉は、私たちの人として生きる中での罪を超えて、圧倒的な神の愛があると告げています。その愛を受け止めてこの礼拝に集っているのが私たちです。
私たちはその祝福を受けている。祝福を受け継いだのであれば、祝福をこそ与えて参りましょう。しかも説明ではなく、私たちの生き方で伝えていきたいと思います。ガリラヤ湖が生きた湖なのは、受けた水をしっかりと流し続けているからです。そのようにして私たち受けた祝福を、与える者としていきましょう。これからの世代の一人一人に語り継いでいきたいと願います。

 お祈りします。

 参考資料 「語り継ぐ信仰」 東海林昭雄編 キリスト新聞社 2015年
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神の右の御手

2020-10-05 10:19:21 | 礼拝説教
詩編77編1~21節
マルコによる福音書10章13~16節
「神の右の御手」

 昨日の土曜日は、ドレパー記念幼稚園の運動会が行われました。新型コロナウィルスの感染予防に配慮しながら、ご家族の人数制限などあったと思いますし、時間もいつもより短縮された運動会でした。大声の応援も控えて、拍手の応援でした。けれど、それだけに余計に子どもたちが跳ねたり、踊ったり、走ったりする姿が輝いて見えました。
 特に、年長さんが行った全員リレーは、走る子ども、見守る先生も、ご家族も心が一つになる瞬間で、見ていて感動して泣けてきました。
走った子が次の友達にバトンを渡す、またその次の子にバトンを渡す、さらにバトンを渡す。その様子を見ながら、私はきっと信仰生活にとって大切なこと、それはきっと自分達の信仰を次の世代にバトンを渡すことであろう、改めて思いながら子ども達の様子を見ておりました。

 信仰の継承についての話は、実は来週話をする予定ですから、是非、来週もお出で下さればと思います(笑)けれど、私たちが読んでいる聖書は、もともと聖書として記されたわけではありません。時代時代において信仰の道標のようにして必要だった記録や手紙、それが編纂されて聖書となりました。編纂された理由の大きな目的の一つは、やはり次の世代へと信仰の継承の為であったのは間違いありません。
 旧約聖書は、イスラエルの人々が主なる神に導かれ、自分達は神に選ばれた民として歩んで来た、その歴史を次の世代に語り継いでいく、決して平穏ではなかった自分達の歴史を、しかし、主なる神の守りがあったことを、子どもたちに、子孫に語り継ぐために、新約聖書もまた、主イエス・キリストが神の子として誕生され、神の福音を宣べ伝え、祝福を語り、しかし、捕らえられ、十字架刑となったこと。けれど、その三日の後に復活されて、弟子たちに、人々に現れて下さったこと。神の力として聖霊が弟子たちに降った時に、弟子たちは神の力が与えられて、生涯をかけて神の福音を宣べ伝えたこと。その出来事を決して忘れないように、次の世代へと語り継ぐために記され、編纂されたこと、それは確かだと思います。
 
 けれど、自分達の信仰を次の世代に語り継ぐだけではなく、信仰そのものを伝える、バトンを渡していく、それは容易なことではありません。
9時から子どもの教会の礼拝を行っています。こころの所、毎週10人前後の子ども達が集まって下さる。その子ども達と一緒に親御さんも来て下さっています。けれど、必ずしも信仰を持って子ども達を連れてきているわけでもありません。むしろ、親も子も求道者と言っても良い状況です。その一人一人と、子どもの教会の担当者の皆さんは良く、関わりを持って下さり、毎週良い働きをされていますけれど、信仰を語り継ぐのは容易ではないということを、体験として理解しておられるかもしれません。
 
 しかし、それは今のこういう時代だからということでもないと私は思います。恐らくいつの時代も、今も、昔も聖書に記された時代であっても、信仰を次の世代に伝えるのは容易ではなかったと思います。

 なぜ、容易ではないのか、信仰を持った家庭に生まれようとも、そうでなかろうとも、人生のいつかの時点で、信仰を自分のものとする、信仰体験というものを経験する、そのような体験は決定的に大切だと思いますけれど、これは説明や言葉では伝えることが中々難しい、むしろ言葉で説明すればするほど、上手く伝えられない、そういう歯がゆい思いがするものです。

 けれど、だから大切なことがある。神様、神様というけれど、信じたからといって、何か良いことがあるだろうか、と思う人の心を溶かすのは、むしろ人の力ではなく、主なる神がなされることである、このこと忘れてはならないと思います。

 今日は詩編77編を読みました。長い箇所を読みましたが、読みまして分かることはこの詩編の作者は、何らかの苦難を体験していたということです。特に前半を読みますと、「神に向かって声をあげ 助けを求めて叫びます」と、神に助けを求めている様子がわかります。
 その声に「神はわたしに耳を傾けてくださいます」とありますから、神様は聞いておられ、なんらかの慰めを与えられたと思われます。でも、その慰めは詩編の作者にとっては慰めではなかったようです。

 更に苦しみは続き、8節からは「主はとこしえに突き放し 再び喜び迎えてはくださらないのか。主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。約束は代々に断たれてしまったのであろうか。神は憐れみを忘れ 怒って、同情を閉ざされたのであろうか。」といった嘆き、呻きの思いが綴られている、神は何の解決も与えて下さらないと恨みがまし言葉と言っても良いかもしれません。
 
 けれど、この詩編は11節が一つの山場となります。「わたしは言います。『いと高き神の右の御手は変わり わたしは弱くされてしまった。』この御言葉が一つの鍵となるようです。「神の右の御手は変わり、私は弱くされてしまった」この御言葉をどう読むのか、一見しますと更に悪い方向に向かっているかのようにも読めます。
 けれど、12節以降からは、明らかにこの詩編の作者の思いは変わり、前向きで、希望のある御言葉へと変わっていきます。神の右の御手、この右の御手の意味は何か?

 今日は詩編77編全部を読みましたが、17節以降に記されている出来事は、指導者モーセによって出エジプトを果たしたイスラエルの民が二つに割れた海を渡った場面が記されています。20節に「あなたの道は海の中にあり あなたの通られる道は大水の中にある。」と記されます。
 
 この海を渡った時、神はどうされたか、出エジプトを果たしたイスラエルの民、しかし、出たのは良いが、いつのまにか前には海が、後ろからは、エジプトのファラオの軍団が、前にも行けない、後ろにも戻れない、絶体絶命の時、神はモーセに伝えました。「あなたのその手に持つ杖を高く上げて、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。」モーセが言われた通りにしたら海が分かれ、イスラエルは海の道の道を渡り始めました。前には神の御使い、後ろには雲の柱に守られて進むことが出来たとあります。
 
 全てが渡り終えた時、モーセは上げた手を降ろし、その時海が戻り、そしてエジプト軍は海に飲み込まれ、一人も残りませんでした。

 その後で、モーセとイスラエルの民は神を賛美して喜び歌いました。その讃美の御言葉の中に、「主よ、あなたの右の手は力によって輝く。主のあなたの右の手は敵を打ち砕く。」とありますが、神の右の御手、それは神の力、敵をも打ち砕く神の力という意味があります。この神の右の手、神の力はまた、別の聖書箇所では「神の守り」、「神の救い」として記されている箇所もあります。
 
 詩編に戻りますが、詩編の作者は、あたかもこの神の右の手が変わったので、私はすっかり弱くされてしまったと嘆いていたのだと思います。けれど、この時、気が付いた、神の右の御手が変わったのではなく、様々な出来事の故に、自分の心が折れ、自分の心が神から離れ、いつのまにか自分自身がすっかり弱くなってしまった。変わったのは神ではなく自分自身であったと気が付いた時、神のあの海が割れる出来事を思い起こしたのではないでしょうか。
 
 自分の人生に、前には海、後ろにはエジプト軍といった、もはやどう見ても、どう考えてもどうにもならないと思うしかない、その時こそ、神の右の御手が高く上げられ、道を備えて下さっていたと思い起こし、そして新たな思いを持って、主を賛美し、神に信頼を置き、心を取り戻していく、その様子が詩編77編に記されている内容です。
 
 主イエスは、幼子を招いて、抱き上げ祝福して話されました。あなたがたも、この幼子のようにならなければ神の国に入ることはできない。昨日の幼稚園の運動会、コロナによる制限の中で行われましたけれど、子どもたちは状況に寄らず、毎年行われる運動会と少しも変わらず全力で走っていました。その笑顔と元気さは、状況に寄らず、です。
 
 主なる神に対する信頼とは、きっと状況によらず、です。どんな時も、神に信頼し、どんな状況でも神に感謝し、生きていく、そのような姿勢を保ち続けていきたいものだと思います。そのような姿勢こそが、次の世代の信仰を確かに育む生き方なのだと思います。私たちも与えられている状況の中で、神を愛し、神を讃え、主の右の御手に信頼し、この新しい一週間を過ごして参りましょう。  お祈りします。
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