日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

争いを砕かれる神

2020-09-28 09:42:31 | 礼拝説教
【詩編76編1~13節】
【ルカによる福音書20章9~19節】

 先週の主の日の礼拝の後に、9月の定例役員会が行われました。コロナウィスルの感染予防の為にも、出来るだけ短時間で話していきたいと思っていましたし、役員の皆さんも大変協力的に話を進めて下さいましたので、1時間半で全ての話し合いが終了しました。これまで四時間、時には五時間の役員会を行っておりましたが、それほどまでに時間を費やす必要があったのかと改めて思わされる思いがしています。
 
 それでも時間短縮するために、内容を薄くしているわけでもありません。特に慎重に話を致しましたのは、これまでコロナウィルスの感染予防の観点から、3月より礼拝時間を短縮した形で行い、また教会の行事の多くも予防の観点から多くを行わない方向でこの年度を歩んで参りましたが、来月からは10月となります。政府が東京を加えて「Go to キャンペーン」を行いますとか、東京都も、夜10時までとしていた飲食店の営業を終わりにしますとか、という状況で、私たちの教会、これからどうするのか。この点については特に時間を割いて話をしました。
 結果的には、礼拝の形式、また、教会の行事は、まだ元に戻したり、再開したりする時期ではないだろうとなりまして、来月10月も現在のような形で礼拝を守ることとなりました。
 
 更に慎重に話し合いましたのは、3月に行って以来、執り行っていない聖餐式についてでありました。聖餐式は執り行えるのではないだろうか、私は内心そのように思いながら、話を進めました。役員の皆さんもそれぞれに真剣に考えて下さり、聖餐式は丁寧に準備するなら、行えるのではないかという意見や、少しでも不安がある状況で本当に行えるのか、心からパンと杯を受け取ることが出来るのだろうか、という意見まで色々と出されました。
結論としては、10月の聖餐式は、見送ることとして行わないとなりました。私は個人的には聖餐式を行わない、これはまことに残念な思いでしたけれど、それより嬉しく思っていますのは、役員の皆さんの真剣さです。
 
 教会というところは、ともすれば牧師が中心となって物事を進める、という考え方がどうしてもあります。ともすれば牧師自身も、自分の意見はいつでも通るものと思うところがあります。けれど、それは決して良いことではない、と私は思う。私は、この教会に招かれまして、この9月で丸10年となりました。10月からは11年目になります。その前は〇〇〇教会で奉仕させていただいていました。
 その教会は、今、会堂建築を進めています。是非、祈りに覚えていただきたいと思います。私がおりました時に、教会と言うよりは、付属の幼稚園がありまして、その幼稚園、園児が激減しておりまして、これからどうするのか、教会が決定しなければなりませんでした。細かい話は省きますけれど、A案と、B案と、それぞれ全く逆の2つの案が出されていました。

 2つの案のどちらにするのか、長く話し合いをしていましたし、教会の祈りの課題でありましたが、ついにA案にするということで教会総会を開きました。ほぼ満場一致でA案が可決して進められました。けれど、そのようにして進めている中で、私はむしろB案が良いのではないかと思ってしまいました。
 その後も悩みましたけれど、悩んだ末に、もう一度教会総会を開きまして、B案でやりたい旨を話しました。その後採決となりまして、なんと、その時もほぼ満場一致でB案が通ったのです。その様子を見て、逆に私はしまったと思いました。教会の皆さんは、A案、B案の2つ以上に、牧師をたてようとして下さっていた、そのことがよく分かった瞬間でもあり、牧師がぶれたり、迷ったりする、けれど人間ですから、そんなことはしょっちゅうですが、でも、そのこと故に役員会の皆さんはとても苦労されたことを思いますし、何よりもA案で進めていた役員の皆さんは、あたかも牧師に裏切られたという思いがあったと思います。私自身、今でも、そのことを思い出しますと辛い思いになることがあります。どこかで自分が傲慢になっていた、と思います。
 
 時として、人は人の意見を聞かなくなる時があります。聖書はそれを「傲慢」だと教えていますが、年を取ると頑固になると言われることもありますが、いつかの礼拝で、年を取るから頑固になるのではなく、頑固な人は若いころから頑固のようですと話したことがありましたが、最近、私も歳をとって来て分かったことがあります。それは、歳を取ると、案外わがままが通じるようになるということです。いつの間にか、子どもの学校に行きましても、最近では担任の先生どころか、校長先生まで歳下になりました。病院に行きましても、ほぼ多くの医者が年下になりました。処方する薬も、こっちで選んでこれが欲しいと言うと、わかりましたと医者がやたら素直になりました。でも、そうなると何となく偉くなったかのように思う。そんなことが起こって来ますと、歳をとると生きるのが楽になるなと本人は思うのですが、周囲の人たちには、大分迷惑をかけているかもしれません。
 

 主イエスは、「腹の中に入るものではなく、人から出て来るものこそ、人を汚す」と教えられました。それは、人の心から、悪い思いが出て来るのである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、そして傲慢です。

 人間はいつの間にか傲慢になり、頑なになる、しかし、そのことに気が付かないと時として人を人と思わず、神を神と思わず、愛を失った生き方をしてしまうのではないでしょうか。
 そのような様子を、主イエスは、先ほど読みましたルカによる福音書20章、「ぶどう園と農夫」のたとえとして、話されました。特に民衆と共に聞いていた、祭司長、律法学者、長老たちに対して話されました。たとえの内容を改めてここで説明しませんが、分かりにくいたとえではありません。ぶどうの収穫の時となって、収穫を分かち合うために、主人が僕を送ったが、農夫たちは僕を受け入れず、袋叩きにしたり、傷を負わせたりして、返してしまったというのです。困ってしまった主人は、自分の一人息子なら敬ってくれるだろうと息子を送ったところ、農夫は「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」そういって、ぶどう園の外にほうり出して、殺してしまったというのです。
 このたとえを聞いて、律法学者や祭司長たちは、自分たちへの当てつけた、たとえ話と気がつき、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れたとあります。あなた方はいつのまにか、傲慢になっていると言われていることには気が付いたのでしょう。

 最初にぶどう園を借りた時は、主人の僕や息子を殺して、とは思っていなかったでしょう。仕事が与えられて良かった。精一杯頑張ろうと思っていただろうと思います。けれど、働くうちにいつの間にか、ぶどう園は主人のものではなく、自分たちのものという思いが強くなって来て、次第に、自分達こそ本物の主人であると思って来くるようになって、そして人は頑固になるのです。
 主イエスに当てつけられて、あ~そうか、自分達はなんと頑固であったかと後悔し、悔い改める余地など無い程にすっかり頑固の塊となり、悪いのは相手であって、自分達ではないと思うと、そこに起こるのは争いです。やるかやられるか、という世界に入っていくのではないでしょうか。
 
 このぶどう園の譬は、ルカによる福音書の中では、主イエスが話された、最後のたとえ話であります。このたとえが最後となる、それは、その頑なさ、頑固さの中で、主イエスを捕らえて殺す計画が計られ、実行されることになるからです。人の頑なさは、自分を守るためには、人の命さえ奪う恐ろしさがある。しかも、それは正しいことだとさえ思うのです。
 
 主なる神は、主イエス・キリストはそのような私たちの心の内にある頑固さ、頑なさを砕かれるために、私たちの世界へとやって来て下さいました。
 
 先ほど読みました詩編76編4節には「そこにおいて、神は弓と火の矢を砕き 盾と剣を、そして戦いを砕かれる。」とあります。人と人が争い、傷つけあうことがないように、人と人とが憎しみあい、信頼を失うことが無いように、何よりも、人の頑なさ、頑固さを砕いて下さるために、主なる神の御計画は、私たちに主イエスを示されることでありました。この方こそが、私たちの心を砕き、柔らかくし、潤いを与え、湧き出る泉の水のように、尽きることの無い、神の恵みを示して下さいました。
 私たちは、この方を見上げ、この方に従いながら、この一週間も過ごして参りましょう。

 お祈ります。
 
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杯は主の御手にある

2020-09-22 10:18:16 | 礼拝説教
【詩編75編1~11節】
【ルカによる福音書22章14~23節】

 先週の火曜日、2か月ぶりに幼稚園のお母さん方と一緒に、聖書に親しむ会を行いました。先週の礼拝で取り上げました詩編74編の16節の御言葉「昼はあなたもの、そして夜もあなたのものです。」という箇所から礼拝を行いました。
 私たちの人生は、昼と呼んでも良い明るい、健やかな時があります。このような時は中々、神様を呼び求めることはないでしょうし、求めることもしないでしょう。
 けれど、私たちの人生には、夜と呼んでもよい、辛い時、苦しい時があるものですし、それはいつでも思いがけない時と言えるでしょう。そのような夜と思われるような時期をどう生きていくのか、「夜もあなたのもの」という思いでもって生きていけるかどうかが、問われるのではないでしょうかと申し上げました。
 そのような礼拝を守った後に、3年、4年と聖書の会に出ておられるお母さんの1人が、幼稚園での話ですが、というのです。名前は分かりませんが、AさんとBさんと一緒に何か幼稚園の役割を担っているというのです。でも、Aさんと、Bさんの仲が良くないというか、Bさんがいつも、否定的な意見を出されるものだから、話が混乱してしまって困ってしまいます、と言うのです。だからどうすれば良いでしょうかと、言うのです。

 私には、Aさんが誰で、Bさんが誰なのかもわからず、何の役割をしているのか、何の話をしているのかもわからず、どうしましょうと言われてもと思いましたが、でも、具体的な話をすれば、誰なのか分かってしまうからという配慮があったのでしょう。周りにお母さん方も笑って聞いていましたから、あるいは私以外の皆には、良く知られている話かもしれません。私には分からないことばかりでしたが、でも、答えました。

 Bさんがいつも否定的な意見を話されるのは、物事を慎重に考えていると考えることも出来ますし、あるいはBさん自身の中に、何等かの悩みを持っているかもしれません。今は何か夜の時期を過ごしておられるかもしれません。でも、例えば、10キロの否定的な思いでもって話して来られたとする。聞いている人が昼を生きていても、5キロの昼の力で生きていたとしたら、否定的な10キロに引っ張られてしまって、夜に引きずり込まれてしまいます。でも30キロの力で昼を生きていたら、10キロの夜の意見を聞いても、動じることなく、あなたもこっちの昼においで、安心してこっちに来られますよって引っ張ってあげることは出来るのではないですかと申し上げました。

 あなたは否定的だから、もっと肯定的に考えたらと言っても中々、変わるものではありませんから、そうではなくて、大丈夫、心配ないと励まして、力付けてあげて下さいと申し上げました。なるほど自分が変わるのですね。分かりましたと言われましたが、更にもう一言続きました。先生は一体どこからそういう力を得ているのですか。というのです。

 びっくりしました。(笑)今、聖書の時間を過ごしているでしょう。(笑)神様からですよと答えましたが、3年、4年と一緒に聖書を読んでいる方でしたけれど、中々、聖書とか、神様という概念といいますか、その一番伝えたい大切なところが、伝わって行かないものだとも思います。でも、だから、更にやりがいがあるとも思います。

 私たちは今、礼拝に集っています。毎週主の日、日曜日の朝に、こうしてコロナ感染の予防、対策をしながら、なんとか礼拝を守り、献げています。なぜ礼拝を献げているのかと言えば、主なる神に対して、昨日までの自らの罪を悔いて、また赦しを得るために、何よりも主なる神に与えられている人生、それぞれに与えられている歩みに感謝するためと言えるでしょう。

 けれど、正直に申し上げれば、先ほどの方ではありませんが、主なる神とはどのような方か、と問わるとしたら上手く答えられないかもしれません。

 先週は私たちの国では大きな動きがありました。国の総理大臣が変わりました。安倍総理から菅総理大臣になりました。例えば、菅総理大臣が総理になったからお礼がしたいとこの教会に挨拶に来ます、来週、礼拝に出ますと言われたらどうでしょうか。自分の横に総理大臣が座ることになるかもしれません。
 私はもしかしたら、ガウンを着るかもしれませんし、皆さんも普段は着ないような、一張羅を羽織って来られるかもしれません。きっとそうなるかもしれません。でも、毎週の礼拝で、神様との出会いの為にはどうでしょうか。総理が来るほどは、緊張しないものです。

 けれど、神様と総理大臣のどちらが崇高ですかと問われるとしたら、どうでしょうか。私たちは間違いなく神様のほうが、ずっと崇高ですと答えるでしょう。神と人とを比べること自体がおかしいと言われるかもしれません。それほど、主なる神は崇高な存在として確かにおられます。

 けれど、崇高さとは「距離と深く関係する」とある本(キルケゴール著)に記されていました。主なる神は、相手が総理大臣であろうと、天皇であろうと、圧倒的に崇高であって、しかも天におられる。天とは私たちが想像できない程に、遠くにおられるということです。

 けれど、そのように私たちから遥かに遠くにおられる方が、私たちの力、努力では到底自分から近づけない程遠くにおられる方が、私たちを愛するあまり、私たちのこの世界に人の子として誕生して下さいました。それがクリスマス、御子イエスが誕生されたということです。

 この世に誕生された主イエスは、その地上での生涯を、この世の一人一人を思い、悩みを聞いては祈り、また、癒し、時には奇跡の業を示され、また神の国の福音を告げて下さいました。更に、そのような働きに妬みを持った者によって捕らえられ、裁判にかかり、十字架に処せられた。私たちの知るところであります。しかし、それからが、真の神の業として、三日の後に甦り、弟子達に現れ、励まし、神の聖霊を与えて下さった。   

 聖霊の力は何よりも、復活された主イエスがいつでも、どんな時も、私たちの近くにおられるということです。いつも一緒にいる家族よりも近くに、夫や妻よりよりも近くに、誰にも話していない、話すことはないだろうあの事、この事さえ主なる神は御存知であり、一張羅を着るとしても、外側の見栄えではごまかすことも出来ない程に、深く私たちの心にまでおられる方として、おられる。それが崇高なる神の正体だと言ってもいいかもしれません。

 しかし、旧約聖書に見る神の姿、神に対する思いはどうかと言えば、今日は詩編75編を読みましたが、そこに記されている神の姿は、何よりも裁かれる神の姿です。
 3節では、主自らが「わたしは必ず時を選び、公平な裁きを行う」と言われています。その御言葉に答えるようにして、8節では「神が必ず裁きを行い ある者を低く、あるものを高くなさるでしょう。」と詩編の作者は応答しています。更に9節では「すでに杯は主の御手にあり」と記されます。ここでいう杯とは、神の裁きを意味する言葉です。神は裁かれる方である。これがこの詩編の作者の思いでもあります。
 
 旧約聖書全体を考えても、神はイスラエルを愛する姿が描かれる一方においては、容赦ない裁きの場面がいくつも記されます。神に背くイスラエルには預言者が立てられ、なんども神に立ち帰るように促す姿が幾度となく記される、それが旧約聖書の神の姿でありましょう。
 
 しかし、人として誕生された主イエスの裁きの姿は、人を裁くのでなく、主自ら、神の前に裁かれ、それ故に私たちは赦されて、完全に赦されてこうして礼拝を守る祝福に預かれている。その赦しの印として、主イエスは、最後の晩餐において、神の杯と神のパンを弟子達の前で感謝の祈りを献げて、それを裂き、弟子達に配って下さいました。その杯は裁きの印ではなく、神の徹底的な謙りと、愛の印であったと思います。その愛の印としての杯が、主なる神の御手にある限り、私たちは絶望しなくて良いのです。私たちの人生の昼の時は勿論のこと、たとえ、今は夜だと思うとして、尚、その夜にさえ主なる神は降ってきて下さり、試練だと思う、出来事を共に分かち合って下さって、支えて下さる、それが聖書に記される神様の姿ではないでしょうか。
 
 私たちは、神の愛に支えられ、この方にこそ望みを置いて、新しい一週間も確かな歩みを歩んでまいりましょう。
 お祈りします。
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いつでも、どんなときも

2020-09-14 09:49:29 | クリスマス
【詩編74編1~17節】
【ペトロの手紙一 3章13~17節】

 牧師が礼拝で説教する。それは当たり前のことです。私は神学校を卒業して教会に派遣され、数えると25年目を迎えております。25年の中で、来週の礼拝を休みますと告げたことは、恐らく無かったと思います。10数年前に、町田の教会で、幼稚園の運動会で金曜日に足を骨折して、そのまま病院に運ばれて入院したことがありました。

 土曜日の内に、信頼のおける牧師に電話して礼拝説教をお願いしたことがありました。大塚平安教会では、四、五年前にインフルエンザと分かったのが金曜日、朝に病院に行きましてインフルエンザと診断されて、そのまま教会に向かって、週報を作り終えて力尽きました。後はもう寝ているしかありませんでした。
 その時は、教会の役員のどなたかに代わりに説教を受け持っていただこうと思いまして、電話しようとしましたが、誰もが驚き、誰もが断るだろうと推測して、きっと断らないだろう人がいる。今、神学校に通っておられるSさんに、説教してと、無理にお願いして、引き受けますと、言われてからは、安心して、ぐっする寝ることが出来ました。特別伝道礼拝の日に、説教者が来なかった、遅れて来ましたけれども、そんなこともありました。
 
 色々なことがありましたが、礼拝そのものを行わない、そういう時が来るとは思ったことはありませんでした。風邪のような症状が出て、金曜日にPCR検査を受けて、検査結果が月曜日、ですからどうしても礼拝を行うことが出来ないであろう。そのように考えまして、役員の皆さんに協力していただき休みとさせて頂きました。結果としては月曜日の朝に、陰性ですということでホットしたわけですが、でも、その金曜、土曜、日曜と生きているここちがない訳です。
 体の具合も良くなるわけでもなく、特に夜になるとまさに、まんじりともしない。夜、布団に寝ながら、もし陽性ですと言われたらどうなるのかな。
どう見ても軽症でだろうから、病院ではなくホテルに連れて行かれるだろうか、ホテルのご飯は美味しいのだろうか、でも、家族はどうなるのか、教会はどうなるのか、まあ気持ちが落ち着かない。祈って心を落ち着かせる以外にないわけです。
 昔の偉い学者は「牧師は礼拝で説教する。しかし、神は生活の現実の中で説教する」と記しました。その人、その人に与えられているその場所、状況の中で、主なる神がそこで説教して下さる。それは私たちにとって幸いなことだと思います。
 
 今日は詩編の74編を読みました。その16節にこうあります。「あなたは、太陽と光を放つ物を備えられました。昼はあなたのもの、そして夜もあなたのものです。」
 天地創造の神は、私たちに昼も夜も造って下さった。日曜日の朝、昼の時間に私たちは礼拝を守ります。コロナウィルスの感染拡大を防ぐ努力を行いながらも、静かなこの明るい昼の時間に、穏やかな空気が流れる、初めて来られる方には木の香りがするとさえ言われる礼拝堂で礼拝を献げることが出来る。まことに幸いなことだと思います。神がこの場におられる、そのように感じながら過ごせる礼拝です。

 勿論、ここにも主なる神はおられます。しかし、ここにだけにおられるわけではありません。私たちの生きるその場所、その状況の中におられる。しかも、私たちの昼の人生、すなわち、幸いな時に共にいてくださるのは勿論ですが、しかし、最も神様が共におられるのは、私たちの人生の夜、辛い時、苦しい時にこそおられるのではないでしょうか。
 
 先ほどの学者はこうも伝えました。「病人が深夜12時に寝ている、その病床の夜の時間は、どんな偉大な説教者よりも、神は強力に説教するのである。」
 私はこの言葉が良くわかるような思いがします。私たちの人生の夜にこそ、主なる神は直接的に私たちに語り掛けて下さるのだろうと思います。
 
 私たちの人生の歩み、誰もが願うことですけれど、昼の間、光の中で、光の子として歩んでいけるならばまことに幸いです。しかし、必ずと言える程に、私たちには夜だな、暗いな、先が見えないなと思う時がやって来ます。
 コロナの影響を強く受けながら、今、世界中が混乱の中にある、こんなことになるとは誰も想像していませんでした。旅行関係の会社、レストラン、食堂、ホテル、観光業界の方々などは、経済的にやっていけるかどうか、というところまで追い込まれていると言われます。命の危機とも言えるでしょう。

 それは他人事でもなく、私たちの人生にも大きく影響しているとも言えるでしょう。だから主よ、どうか、私たちに夜を与えないでくださいと祈る必要もあるかもしれません。

 でも、聖書を読みますと「昼はあなたのもの、そして夜もあなたのものです」とあります。「夜もあなたのもの」それは、たとえ、夜が与えられるとしても、夜もまた、主が備えられたものとして、しっかりと夜を生きなさい、ということではないでしょうか。

 しかしなぜ、私たちの人生に夜がやってくるのか、エフェソ書3章には16節にパウロが祈っている御言葉があります。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めてくださるように。」私たちの内なる人が弱る時、内なる土台が弱る時、その人に夜がやって来るのだろうと思います。
 
 先週の礼拝で、韓国の方で、御家族3人がやって来られた。
 その前の前の週にもやって来られましたが、私が具合悪くなる前でしたけれど、電話がありまして、いつも仕事で教会の前を車で通っているから、いつか礼拝に来たいと思っていたというのです。
是非、お出で下さいと申し上げましたが、でも、話を聞いていきますと、どうもコロナの影響で仕事が無くなったというのです。それは大変ですねと申し上げましたら、それで相談ですが、先生、教会でキムチ売れますか?と聞いてくるわけです。キムチですか、まあ、その流れでダメですとも言えず、礼拝終わったら売れると思うから持って来てみてと申しましたら喜んで来て下さいました。皆さん買って下さって、優しいから、喜んで先週も来られました。今日は来てません。
毎週来たら、売れるものも売れなくなるからと、話しましたら、他所の教会でにも行って見ると話していました。

でもね、先週の方々に限らず、教会というところには、色々な人がやって来られます。先日は他所の教会に行っていたけれど、そこで辛い目にあって相談に来ましたという方もおられました。今朝ほども、あるお母さんから、「相談があります、時間ありますか」と言われました。あまり詳しく話せませんけれど、実に色々な方がこの場にやって来られます。なぜやって来られるのか。内なる土台が弱って来るからです。内なる土台が崩れそうになっているからです。
 
 そんな一人一人がやって来られた時に、皆さんならどうされますか?どうぞ、この昼の明るい教会にお出で下さいましたと話されるでしょう。

 先ほど、ペトロの手紙というところを読みました。3章15節にこうあります。「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい、」とあります。
 
 皆さんなら「夜だな、暗いなと思っている方よ、ここに来ればキリストを主とあがめる希望があるよ」と伝えて下さるでしょう。主イエス・キリストは人間の最大の夜である、死という暗闇から復活という希望を示して下さいました。人の目から見たら完全にお終いだと思える死、のその先にもまだ希望があると教えて下さいました。
 
 夜だな~と思っている人の多くは希望を見失っています。将来が見えなくなっています。もう無理だと思っています。人はそういった罪を背負っていると言ってもいいかもしれません。神様と出会う前には、私もそういった夜を、ずっと過ごしていました。

 でも、その夜のその先に、神の光を見つけ、昼の明るい礼拝堂でこうして礼拝を献げることが出来る幸いを生きていますと、私たちは伝えることが出来るでありましょう。あなたも共に喜びの笑顔を生きることができると、主にある希望を伝えることが出来るでありましょう。昼も夜も、どんな時も私たちは主の恵の中を過ごして参りましょう。

 お祈りします。
 
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私の心の岩

2020-09-07 09:05:32 | 礼拝説教
【詩編73編21~28節】
【マタイによる福音書16章13~20節】


 先週、ついに礼拝を開催することが出来ませんでした。教会の皆様にはお詫びしなければならないと思います。遡って水曜日の午前中から、体の調子がいつもと違うと感じておりました。体が熱ると言いますか、背中がゾクゾクする感じがありまして、しかも倦怠感が強くあり、嫌な感じを過ごしました。熱は殆ど出なかったのですが、これは、もしかしたらと最悪の事態を想定するわけで、次の日の木曜日、調べて「帰国者、接触者相談センター」に電話して相談しましたら、かかりつけの医者に診て貰って下さいと言われまして、金曜日に通っているクリニックに電話しました。
 そこで、海老名で検査をしている病因を紹介していただきまして、迷うことなく、直ぐに検査を受けました。ただ結果が週明けの月曜日になるかもしれませんと言われまして、なんとか土曜日にとお願いしたのですが、土曜日には結果の連絡は来ず、日曜日を挟んで月曜日となりました。
 
 そのために日曜日の礼拝は思い切って休みとしました。不安ですが、やりますという訳には行きませんし、検査を受けたことを黙っているわけにもいきません。体の調子もそれほど良くなった感じもありませんでした。
 
 月曜日の朝、9時過ぎに病院から電話がありまして、陰性であることが告げられて想定していた最悪の事態には至りませんでした。しかし、快復にするには更に二日、三日、調子がおかしくなってまるまる一週間必要となりました。
 原因はよく分かりません。医者が言うには夏風邪でしょうということでしたけれど、そうかもしれません。
 
 ただ、ハッキリわかることは、今、体の調子が少しでも悪くなると、大変な緊張状態となり、些細な症状の殆ど全てが、新型コロナウィルスと関係があるのではないかと考えてしまうということです。更に遡れば数週間前から目がかゆくなっていました。その痒さは時々体全体に及ぶこともありました。その際にも調べますと、新型コロナウィルスの初期には、結膜炎になる症例が乗っているわけです。あ、これかもしれないと思いますと、もう病気よりも先に心が病んでいきます。眼医者に行きましたら、目は綺麗ですよ、アレルギーですから点眼薬を出しますと言われても、医者が間違っているのではないかと勝手に思うのです。
 体が熱っていると思うと、それが夏の暑さからなのか、熱があるからなのか、体温を測っても37度には一度もなりませんでしたが、体温計が壊れているのではないかと思うのです。家にある3本の体温計の全部を調べても、36度台、でも3本とも壊れているのではないかと思うのです。
 私自身、小心者でありますけれども、神様に祈りを献げつつも、心が晴れ渡るわけではありません。先週は、高校生の娘には、前期の期末試験があると言われ、息子には職場に行けないと言われ、どんどん追い込まれそうになります。自分の体も、自分の心も、精神的にも負けそうになる一週間であったと思います。

 箴言16章9節に「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えて下さる」とあります。私たちは、私たち一人ひとりの人生設計があります。この学校に入りたい。この会社に入りたい。この人と結婚したい。このような家庭を築いていきたい。と、人はそれぞれに計画を立てます。その計画がどこまで具体的なものかはわかりません。けれど内心は、大体このような環境で、このようにして生きていきたいと思うものではないでしょうか。そんな思いに添って生きていけているならば、人はそれほどの悩みが無いかもしれません。
けれど、なんとなくでも立てている計画のうちに、全く当てはまらない状況が与えられるとするならば人はそこで、どれほど悩み、また苦しむであろうかと思います。

 三浦綾子さんという作家は、キリスト教の信仰を持った作家でありました。もともと小学校の先生をしておられた、けれど、第二次世界大戦、太平洋戦争が敗戦となり、自分が子ども達に教えていた教えが正しかったのかどうか、深く悩むようになります。結果的には学校の先生を辞めてしまうのですが、更に彼女は、その後重い病気となり、結核を患い長い闘病生活を送らなければなりませんでした。戦争に負けて、物事の考え方が変わる、また、病気にかかる、それらの出来事は、自分の頑張りとは違うところで、しかも、自分の人生に与えられた、自分の計画には無かった事柄でしょう。
自分が思い描いていた人生とは全く違い、しかも自力ではどうしようもありません。なんとも辛い歩みとしか思えません。けれど、その一つ一つを通して、三浦綾子さんは、神様と出会っていくことになります。神様と出会うとしても、それすらも三浦綾子さんが願い歩もうとしていた歩みではなかったでしょう。
 けれど、いつかの時点で、神様の道と三浦綾子さんの歩む道が交差して、その交差する所で、キリストの十字架を見いだしたのではないでしょうか。
 
 キリストの十字架を見上げた時に、そこにおられたのは、人の絶望のさらにその先にある希望を示し続けておられた主イエス・キリストの確かな光ではなかったでしょうか。
 
 先週の一週間、私は寝込むまではいきませんでしたが、家にいて、一つの小説を読みました。

 窪 美澄という方が記した小説です。タイトルが「やめるときも、すこやかなるときも」、タイトルだけで買ってみた小説です。少し厚い本でしたので丁度良いと思って読んでおりました。読むとキリスト教とは全く関係の無い、若い青年男女の出会いと別れと、結婚といういわば純愛小説と言っても良いかもしれません。時間がありませんので、内容は割愛しますけれど、この小説を記した作家は、人間は「貝のむき身」のようだと表現した下りがありました。

 人は社会生活を送る上では、無用に傷つかないように、普段は固い殻でもって、柔らかい中身を覆って生活をしている。けれど、愛する人の前では、殻だけではなく、貝のむき身のような自分をさらけ出さなければならない。しかし、そのむき身の部分は、少しの衝撃でも傷がつくし、無傷の人はだれもいないし、人はむき身の自分に、多くの傷を抱えながら、歩んでいると、と言った具合の箇所がありました。
 
 健やかなときには、現れてこない、けれど、病めるときにこそ、むき身の傷が現れてくるのかもしれません。病める時、それを病気の時だけと限定する必要はないでしょう。今日は詩編73編を読みました。73編26節にはこうあります。「わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが、神はとこしえにわたしの心の岩」
 
 人の人生の中で病める時、時には戦争と言えるかもしれません。時には病気と言えるかもしれません。裏切られた、だまされたと思う時かもしれません。人はそれぞれに「病める時」を生きることがあるのだと思います。
けれど、そのような時にこそ、神は深い関わりを持って、自分と交差するようにして出会って下さるのかもしれません。
 
 神はとこしえに私の心の岩、心の岩という言葉は、口語訳聖書を見ますと心の力とありました。力とはエネルギーです。わたしたちの病める時、それは色々な意味でエネルギー不足となります。
エネルギー不足は、時として命の危機となり、精神的にも否定的、後ろむきになり、尽き果てそうになるのです。
 
 けれど、神は私の心の岩。あのペトロが主の十字架の裁判の時には、あなたもあの人の仲間であったと言われた時に、必死に逃げて、わたしはあんな人を知らないと言ったのに、けれど、そんなペトロが、主イエスの復活の業を体験したときに、神のエネルギーとしての聖霊を受けて、心が変えられ、命がけで主イエスの福音宣教に乗り出していったように、地上の主イエスが「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と告げた言葉通り、神から、主イエス・キリストから沢山のエネルギーを貰って、神の祝福を心一杯に受けとって、立ち上がってからのペトロに迷いがなかったように、私たちもそう生きていけるはずです。

 わたしたちの肉も心もいつかは朽ちていく、尽きていく時があるでしょう。けれど、主なる神は、どこしえに私の岩、力、わたしの尽きることの無いエネルギー、神の聖霊が私たちを包み込み、人がもうダメだ、もう終わりだと思うようなその中にあって、大丈夫、心配ないと言える。
 
 神様としっかり交差し、十字架の光を知る者として祝福を告げられる、安心と平安を生きることが出来る。そのような者として、私たちは生きてまいりましょう。

 お祈りします。

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