【詩編76編1~13節】
【ルカによる福音書20章9~19節】
先週の主の日の礼拝の後に、9月の定例役員会が行われました。コロナウィスルの感染予防の為にも、出来るだけ短時間で話していきたいと思っていましたし、役員の皆さんも大変協力的に話を進めて下さいましたので、1時間半で全ての話し合いが終了しました。これまで四時間、時には五時間の役員会を行っておりましたが、それほどまでに時間を費やす必要があったのかと改めて思わされる思いがしています。
それでも時間短縮するために、内容を薄くしているわけでもありません。特に慎重に話を致しましたのは、これまでコロナウィルスの感染予防の観点から、3月より礼拝時間を短縮した形で行い、また教会の行事の多くも予防の観点から多くを行わない方向でこの年度を歩んで参りましたが、来月からは10月となります。政府が東京を加えて「Go to キャンペーン」を行いますとか、東京都も、夜10時までとしていた飲食店の営業を終わりにしますとか、という状況で、私たちの教会、これからどうするのか。この点については特に時間を割いて話をしました。
結果的には、礼拝の形式、また、教会の行事は、まだ元に戻したり、再開したりする時期ではないだろうとなりまして、来月10月も現在のような形で礼拝を守ることとなりました。
更に慎重に話し合いましたのは、3月に行って以来、執り行っていない聖餐式についてでありました。聖餐式は執り行えるのではないだろうか、私は内心そのように思いながら、話を進めました。役員の皆さんもそれぞれに真剣に考えて下さり、聖餐式は丁寧に準備するなら、行えるのではないかという意見や、少しでも不安がある状況で本当に行えるのか、心からパンと杯を受け取ることが出来るのだろうか、という意見まで色々と出されました。
結論としては、10月の聖餐式は、見送ることとして行わないとなりました。私は個人的には聖餐式を行わない、これはまことに残念な思いでしたけれど、それより嬉しく思っていますのは、役員の皆さんの真剣さです。
教会というところは、ともすれば牧師が中心となって物事を進める、という考え方がどうしてもあります。ともすれば牧師自身も、自分の意見はいつでも通るものと思うところがあります。けれど、それは決して良いことではない、と私は思う。私は、この教会に招かれまして、この9月で丸10年となりました。10月からは11年目になります。その前は〇〇〇教会で奉仕させていただいていました。
その教会は、今、会堂建築を進めています。是非、祈りに覚えていただきたいと思います。私がおりました時に、教会と言うよりは、付属の幼稚園がありまして、その幼稚園、園児が激減しておりまして、これからどうするのか、教会が決定しなければなりませんでした。細かい話は省きますけれど、A案と、B案と、それぞれ全く逆の2つの案が出されていました。
2つの案のどちらにするのか、長く話し合いをしていましたし、教会の祈りの課題でありましたが、ついにA案にするということで教会総会を開きました。ほぼ満場一致でA案が可決して進められました。けれど、そのようにして進めている中で、私はむしろB案が良いのではないかと思ってしまいました。
その後も悩みましたけれど、悩んだ末に、もう一度教会総会を開きまして、B案でやりたい旨を話しました。その後採決となりまして、なんと、その時もほぼ満場一致でB案が通ったのです。その様子を見て、逆に私はしまったと思いました。教会の皆さんは、A案、B案の2つ以上に、牧師をたてようとして下さっていた、そのことがよく分かった瞬間でもあり、牧師がぶれたり、迷ったりする、けれど人間ですから、そんなことはしょっちゅうですが、でも、そのこと故に役員会の皆さんはとても苦労されたことを思いますし、何よりもA案で進めていた役員の皆さんは、あたかも牧師に裏切られたという思いがあったと思います。私自身、今でも、そのことを思い出しますと辛い思いになることがあります。どこかで自分が傲慢になっていた、と思います。
時として、人は人の意見を聞かなくなる時があります。聖書はそれを「傲慢」だと教えていますが、年を取ると頑固になると言われることもありますが、いつかの礼拝で、年を取るから頑固になるのではなく、頑固な人は若いころから頑固のようですと話したことがありましたが、最近、私も歳をとって来て分かったことがあります。それは、歳を取ると、案外わがままが通じるようになるということです。いつの間にか、子どもの学校に行きましても、最近では担任の先生どころか、校長先生まで歳下になりました。病院に行きましても、ほぼ多くの医者が年下になりました。処方する薬も、こっちで選んでこれが欲しいと言うと、わかりましたと医者がやたら素直になりました。でも、そうなると何となく偉くなったかのように思う。そんなことが起こって来ますと、歳をとると生きるのが楽になるなと本人は思うのですが、周囲の人たちには、大分迷惑をかけているかもしれません。
主イエスは、「腹の中に入るものではなく、人から出て来るものこそ、人を汚す」と教えられました。それは、人の心から、悪い思いが出て来るのである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、そして傲慢です。
人間はいつの間にか傲慢になり、頑なになる、しかし、そのことに気が付かないと時として人を人と思わず、神を神と思わず、愛を失った生き方をしてしまうのではないでしょうか。
そのような様子を、主イエスは、先ほど読みましたルカによる福音書20章、「ぶどう園と農夫」のたとえとして、話されました。特に民衆と共に聞いていた、祭司長、律法学者、長老たちに対して話されました。たとえの内容を改めてここで説明しませんが、分かりにくいたとえではありません。ぶどうの収穫の時となって、収穫を分かち合うために、主人が僕を送ったが、農夫たちは僕を受け入れず、袋叩きにしたり、傷を負わせたりして、返してしまったというのです。困ってしまった主人は、自分の一人息子なら敬ってくれるだろうと息子を送ったところ、農夫は「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」そういって、ぶどう園の外にほうり出して、殺してしまったというのです。
このたとえを聞いて、律法学者や祭司長たちは、自分たちへの当てつけた、たとえ話と気がつき、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れたとあります。あなた方はいつのまにか、傲慢になっていると言われていることには気が付いたのでしょう。
最初にぶどう園を借りた時は、主人の僕や息子を殺して、とは思っていなかったでしょう。仕事が与えられて良かった。精一杯頑張ろうと思っていただろうと思います。けれど、働くうちにいつの間にか、ぶどう園は主人のものではなく、自分たちのものという思いが強くなって来て、次第に、自分達こそ本物の主人であると思って来くるようになって、そして人は頑固になるのです。
主イエスに当てつけられて、あ~そうか、自分達はなんと頑固であったかと後悔し、悔い改める余地など無い程にすっかり頑固の塊となり、悪いのは相手であって、自分達ではないと思うと、そこに起こるのは争いです。やるかやられるか、という世界に入っていくのではないでしょうか。
このぶどう園の譬は、ルカによる福音書の中では、主イエスが話された、最後のたとえ話であります。このたとえが最後となる、それは、その頑なさ、頑固さの中で、主イエスを捕らえて殺す計画が計られ、実行されることになるからです。人の頑なさは、自分を守るためには、人の命さえ奪う恐ろしさがある。しかも、それは正しいことだとさえ思うのです。
主なる神は、主イエス・キリストはそのような私たちの心の内にある頑固さ、頑なさを砕かれるために、私たちの世界へとやって来て下さいました。
先ほど読みました詩編76編4節には「そこにおいて、神は弓と火の矢を砕き 盾と剣を、そして戦いを砕かれる。」とあります。人と人が争い、傷つけあうことがないように、人と人とが憎しみあい、信頼を失うことが無いように、何よりも、人の頑なさ、頑固さを砕いて下さるために、主なる神の御計画は、私たちに主イエスを示されることでありました。この方こそが、私たちの心を砕き、柔らかくし、潤いを与え、湧き出る泉の水のように、尽きることの無い、神の恵みを示して下さいました。
私たちは、この方を見上げ、この方に従いながら、この一週間も過ごして参りましょう。
お祈ります。
【ルカによる福音書20章9~19節】
先週の主の日の礼拝の後に、9月の定例役員会が行われました。コロナウィスルの感染予防の為にも、出来るだけ短時間で話していきたいと思っていましたし、役員の皆さんも大変協力的に話を進めて下さいましたので、1時間半で全ての話し合いが終了しました。これまで四時間、時には五時間の役員会を行っておりましたが、それほどまでに時間を費やす必要があったのかと改めて思わされる思いがしています。
それでも時間短縮するために、内容を薄くしているわけでもありません。特に慎重に話を致しましたのは、これまでコロナウィルスの感染予防の観点から、3月より礼拝時間を短縮した形で行い、また教会の行事の多くも予防の観点から多くを行わない方向でこの年度を歩んで参りましたが、来月からは10月となります。政府が東京を加えて「Go to キャンペーン」を行いますとか、東京都も、夜10時までとしていた飲食店の営業を終わりにしますとか、という状況で、私たちの教会、これからどうするのか。この点については特に時間を割いて話をしました。
結果的には、礼拝の形式、また、教会の行事は、まだ元に戻したり、再開したりする時期ではないだろうとなりまして、来月10月も現在のような形で礼拝を守ることとなりました。
更に慎重に話し合いましたのは、3月に行って以来、執り行っていない聖餐式についてでありました。聖餐式は執り行えるのではないだろうか、私は内心そのように思いながら、話を進めました。役員の皆さんもそれぞれに真剣に考えて下さり、聖餐式は丁寧に準備するなら、行えるのではないかという意見や、少しでも不安がある状況で本当に行えるのか、心からパンと杯を受け取ることが出来るのだろうか、という意見まで色々と出されました。
結論としては、10月の聖餐式は、見送ることとして行わないとなりました。私は個人的には聖餐式を行わない、これはまことに残念な思いでしたけれど、それより嬉しく思っていますのは、役員の皆さんの真剣さです。
教会というところは、ともすれば牧師が中心となって物事を進める、という考え方がどうしてもあります。ともすれば牧師自身も、自分の意見はいつでも通るものと思うところがあります。けれど、それは決して良いことではない、と私は思う。私は、この教会に招かれまして、この9月で丸10年となりました。10月からは11年目になります。その前は〇〇〇教会で奉仕させていただいていました。
その教会は、今、会堂建築を進めています。是非、祈りに覚えていただきたいと思います。私がおりました時に、教会と言うよりは、付属の幼稚園がありまして、その幼稚園、園児が激減しておりまして、これからどうするのか、教会が決定しなければなりませんでした。細かい話は省きますけれど、A案と、B案と、それぞれ全く逆の2つの案が出されていました。
2つの案のどちらにするのか、長く話し合いをしていましたし、教会の祈りの課題でありましたが、ついにA案にするということで教会総会を開きました。ほぼ満場一致でA案が可決して進められました。けれど、そのようにして進めている中で、私はむしろB案が良いのではないかと思ってしまいました。
その後も悩みましたけれど、悩んだ末に、もう一度教会総会を開きまして、B案でやりたい旨を話しました。その後採決となりまして、なんと、その時もほぼ満場一致でB案が通ったのです。その様子を見て、逆に私はしまったと思いました。教会の皆さんは、A案、B案の2つ以上に、牧師をたてようとして下さっていた、そのことがよく分かった瞬間でもあり、牧師がぶれたり、迷ったりする、けれど人間ですから、そんなことはしょっちゅうですが、でも、そのこと故に役員会の皆さんはとても苦労されたことを思いますし、何よりもA案で進めていた役員の皆さんは、あたかも牧師に裏切られたという思いがあったと思います。私自身、今でも、そのことを思い出しますと辛い思いになることがあります。どこかで自分が傲慢になっていた、と思います。
時として、人は人の意見を聞かなくなる時があります。聖書はそれを「傲慢」だと教えていますが、年を取ると頑固になると言われることもありますが、いつかの礼拝で、年を取るから頑固になるのではなく、頑固な人は若いころから頑固のようですと話したことがありましたが、最近、私も歳をとって来て分かったことがあります。それは、歳を取ると、案外わがままが通じるようになるということです。いつの間にか、子どもの学校に行きましても、最近では担任の先生どころか、校長先生まで歳下になりました。病院に行きましても、ほぼ多くの医者が年下になりました。処方する薬も、こっちで選んでこれが欲しいと言うと、わかりましたと医者がやたら素直になりました。でも、そうなると何となく偉くなったかのように思う。そんなことが起こって来ますと、歳をとると生きるのが楽になるなと本人は思うのですが、周囲の人たちには、大分迷惑をかけているかもしれません。
主イエスは、「腹の中に入るものではなく、人から出て来るものこそ、人を汚す」と教えられました。それは、人の心から、悪い思いが出て来るのである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、そして傲慢です。
人間はいつの間にか傲慢になり、頑なになる、しかし、そのことに気が付かないと時として人を人と思わず、神を神と思わず、愛を失った生き方をしてしまうのではないでしょうか。
そのような様子を、主イエスは、先ほど読みましたルカによる福音書20章、「ぶどう園と農夫」のたとえとして、話されました。特に民衆と共に聞いていた、祭司長、律法学者、長老たちに対して話されました。たとえの内容を改めてここで説明しませんが、分かりにくいたとえではありません。ぶどうの収穫の時となって、収穫を分かち合うために、主人が僕を送ったが、農夫たちは僕を受け入れず、袋叩きにしたり、傷を負わせたりして、返してしまったというのです。困ってしまった主人は、自分の一人息子なら敬ってくれるだろうと息子を送ったところ、農夫は「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」そういって、ぶどう園の外にほうり出して、殺してしまったというのです。
このたとえを聞いて、律法学者や祭司長たちは、自分たちへの当てつけた、たとえ話と気がつき、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れたとあります。あなた方はいつのまにか、傲慢になっていると言われていることには気が付いたのでしょう。
最初にぶどう園を借りた時は、主人の僕や息子を殺して、とは思っていなかったでしょう。仕事が与えられて良かった。精一杯頑張ろうと思っていただろうと思います。けれど、働くうちにいつの間にか、ぶどう園は主人のものではなく、自分たちのものという思いが強くなって来て、次第に、自分達こそ本物の主人であると思って来くるようになって、そして人は頑固になるのです。
主イエスに当てつけられて、あ~そうか、自分達はなんと頑固であったかと後悔し、悔い改める余地など無い程にすっかり頑固の塊となり、悪いのは相手であって、自分達ではないと思うと、そこに起こるのは争いです。やるかやられるか、という世界に入っていくのではないでしょうか。
このぶどう園の譬は、ルカによる福音書の中では、主イエスが話された、最後のたとえ話であります。このたとえが最後となる、それは、その頑なさ、頑固さの中で、主イエスを捕らえて殺す計画が計られ、実行されることになるからです。人の頑なさは、自分を守るためには、人の命さえ奪う恐ろしさがある。しかも、それは正しいことだとさえ思うのです。
主なる神は、主イエス・キリストはそのような私たちの心の内にある頑固さ、頑なさを砕かれるために、私たちの世界へとやって来て下さいました。
先ほど読みました詩編76編4節には「そこにおいて、神は弓と火の矢を砕き 盾と剣を、そして戦いを砕かれる。」とあります。人と人が争い、傷つけあうことがないように、人と人とが憎しみあい、信頼を失うことが無いように、何よりも、人の頑なさ、頑固さを砕いて下さるために、主なる神の御計画は、私たちに主イエスを示されることでありました。この方こそが、私たちの心を砕き、柔らかくし、潤いを与え、湧き出る泉の水のように、尽きることの無い、神の恵みを示して下さいました。
私たちは、この方を見上げ、この方に従いながら、この一週間も過ごして参りましょう。
お祈ります。