日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

生まれる前から

2020-08-17 11:06:09 | 礼拝説教
【詩編71編1~6節】 
【ガラテヤの信徒への手紙1章11~17節】

 今日は「生まれる前から」という説教題を付けました。読みました詩編71編から付けた説教題ですが、71編6節をもう一度読みますと、こうあります。「母の胎にあるときから あなたに依りすがって来ました。あなたは母の腹から、わたしを取り上げてくださいました。わたしは常にあなたを賛美します。」
 ここで、気が付くのは何かというと、「あなた」と「わたし」という言葉です。ここで言う、あなたは神様であり、私は私です。

ドイツのマルチン・ブーバーという哲学者は「我と汝」という言葉でもって、世の中を説明しようとしました。私には何回読んでも、よく分からないところもあります、何回読んでも難解な本ですが、でも、読み解く鍵は「関係」という言葉だと思っています。
 
 我は私、汝はあなた。私は一人称ですが、汝は二人称です。一人称の「私」と二人称「あなた」の間に、何があるのかというと、ある人は1.5人称があると説明しました。
 1.5人称とは何かというと、「関係」だというのです。この世は関係で成り立っているということです。
 
 ある人が、子どもが家に引きこもっていて大変心配して、ご夫揃って私の尊敬する牧師の所へ相談に行ったそうです。色々と話をする中で、過去のあの事が原因だ、この事がなかったらと過去を振り返ってもあまり有益ではないので、未来を見て、希望を持っていきましょうと励ましを受けて、一緒にお祈りをしたそうです。ご主人は、一生懸命に息子が仕事について一人前になって、社会の役に立つようにと祈りを献げて、その後で奥さんが祈りました。
 どうぞ、夫との関係が良くなりますようにと祈ったそうです。その祈りを聞いて、全ての問題の根源が分かったという話のようですが、皆さん、私たちは夫婦で過ごしていても、そこに愛があると思っているので、コミュニケーションを取らないところがあります。愛があるからコミュニケーションを取れると思っているところがあります。
 
 でも、むしろコミュニケーションがあるから、そこに愛が生まれるのではないでしょうか。そのコミュニケーションが1.5人称という説明であって、そこが豊かであればある程に、良い人生を送れるのであろうと思うのです。
 
 人と人との関係もそうですが、「我」と「汝」、まず、私と神様という関係も確かであることが求められるのだと思います。
 聖書が告げるところの主なる神は、何より天地万物の造り主、創造者として告げられています。けれど、エフェソ書1章4節には「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」とあります。主なる神は、天地創造の前から既に、私たちを選び、私たちを聖なるものとし、キリストにおいて神の子としてつながるようにとそのように計画して下さった、というのです。

 そのような関係を神は作られた。それは、私たちが何をしているのかとか、成績はどうだとか、収入はどうだということで測るのではなく、私たちの存在そのものを祝福してくださっている、その証しとして、主イエスをこの世に誕生させて下さったというのです。

 以前にも話しましたが、私の母親の認知症がさすがに進んで来まして、ここの所、毎日のように「家に帰りたい」と話して来ます。いつまでも世話になっていられないし、岩手の実家に帰りたいと言うのです。そう聞きますと当初は、本当に驚いて、我が家が嫌になって来たのかショックを受けましたが、認知症の勉強をしますと、典型的な病気の症状のようで、ネットではその話を本気で信じて、実家に連れて行っても、そこでも同じように「家に帰りたい」と言うのだそうです。場所的な認識や、歴史的、時間的な認識がどんどん無くなっていく途中に起こる症状のようです。
 それでも、覚えていることはありまして、それは母のお母さん、私から見れば、祖母になるわけですが、母が小学生低学年の時に、結核で亡くなるのですが、その時のことは忘れないのでしょう。毎日初めて話すかのように、同じ話をしています。
 
 でも、それ程に、どこまで行っても記憶が無くならない。今は1分前のことも忘れますが、忘れない記憶、きっと子どもにとっての母の死は、自分の存在をも否定されてしまうかのようなショックだったのだろうと思います。
 神様の愛は、母親の愛に似ていると言われますが、何をしているのか、どう生きているのかを越えて、自分の存在そのものを愛してくださる方がおられる。この方が自分の為に、人となって、私たちの世界に現れて下さり、神の愛を示して 下さり、今もいつも共におられる。

 この方との「私」と「あなた」の絆、関係を良好に保ち、この方との信頼、そして聖書を読み、祈りを献げるという関係、コミュニケーションを深めれば深める程に、私たちは信仰を強め、希望を持って、愛の人としてこの世を力強く生きていけるのではないでしょうか。

 そして二つ目は、詩編に、「母の胎にあるときから あなたに依りすがってきました。あなたは母の腹からわたしを取り上げて下さいました。」とありますように、主なる神こそが、私たちが生まれる前から既に私たちをご存知であり、私たちに命を与え、この世に誕生させて下さったということでしょう。
 
 次男が生まれた時の話ですが、岩手の花巻教会の当時の牧師館、一階には四畳半一間と台所と風呂場、それが全てでした。その四畳半で、助産婦さんに来て頂いて、次男が誕生しました。四キロで生まれた次男でしたが、年配の助産婦さんが、よく使い込んだハサミを私に渡して、へその緒を切りなさいというのです。簡単に切れるかと思いましたら、案外、思っていたよりずっと丈夫でそれが中々切れなくて、大変な思いをして切ったことを思い出します。
 子どもが誕生する、生れる前は、子どもはへその緒でもって、母親と繋がり、別々であっても、一つとして生きているのだと思います。
 けれど、母の胎から誕生する、そして、へその緒が切られた途端に、一つが二つになって、母と子として、別の人格を歩みだします。別の人格とは「私」と「あなた」という人格、関係が生まれるということです。子どもは自分のものではないし、神様からの預かりものです。子育てにも求められるのは、主なる神がそうさせたのだと信じる信仰であろうと思います。
 
 先ほど、ガラテヤの信徒への手紙を読みました。使徒パウロがガラテヤの教会に対して、自分がなぜ使徒とされたのか、なぜ主イエス・キリストの福音を宣べ伝えているのかを記している箇所でもあります。
 「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされた」とあります。啓示とは、人間の側から考え、思考しながら、神とはどういう方なのかと導きだすことではありません。

 一方的に神の恵みとしての主イエスが、救い主キリストがこの世に誕生され、福音を宣べ伝え、十字架と復活の出来事を通して、神が愛を示して下さった、神様の側からの印、それが啓示の出来事と言います。
 そのことによって、パウロはこれまでユダヤ教徒として、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとさえして、これまでの伝承を守り、熱心にユダヤ教を守ろうとしていたけれど、神はそのような私をも、恵みによって召し出して、ついに迫害する者から、福音を宣べ伝える者として立てて下さったというのです。

 しかも、その御計画は、母の胎にある時からの神様の御計画であったと告げています。
 主なる神は、パウロだけでなく、私たち一人一人を、母の胎にある時から選び、神の民として生きるようにとして下さっている。パウロがユダヤ教から主の御言葉を宣べ伝える者へと変えられていったように、私たちもこの国においては、生れながらのというよりは、日本の宗教からキリスト教へと導かれた方の方が圧倒的に多いかもしれません。
 そこでより確かなことは主なる神が、私たちの人生と深く関わりを持たれているということであり、しかもそれは、私たちが生まれる前から既に、選ばれ、神の恵みに生きるようにとして下さっているということでありましょう。
 
 そのような方との、大切なものは、「私」と「あなた」という関係です。神と私との関係がより深く、より確かであればある程に、この世の噂や、妬み、悪口、怒りから解放され、更に私と私との関係においても、自分で自分を祝福し、励まし、力付けることが出来るようになるでありましょう。
 そして、私と、あなた、人と人との人間関係においても、パウロのように祝福を宣べ伝え、神を指し示す人としての生き方を、生きていけるのではないでしょうか。
 生まれる前から、自分はそのようにして生かされている、その喜びを私たちはこれからも生きて参りましょう。
 お祈ります。
 
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貧しさと、豊かさと

2020-08-17 10:59:45 | 礼拝説教
【詩編70編1~6節】
【コリントの信徒への手紙二 8章8~10節】


 もう、大分前の話になりますが、私が神学生で、ある大学でアルバイトをしていた時のことでした。ご存知の方もおられると思いますが、当時、東京の阿佐ヶ谷教会で牧師をしておられた大宮傅先生が大学の礼拝説教者として来られて説教していただきました。

 私は、洗礼を受ける前に、大宮傅先生が記した薄い冊子で、信仰について、キリスト教について学んでいたものですから、話を聞くのを楽しみにしておりました。説教題をよく覚えておりまして、「周辺と中心」というタイトルであったと思います。
 タイトルは覚えているのですが、話の内容をしっかり覚えているわけではありません。けれど、とても心に響く良い解き明かしをして下さったという思いがあります。
 で、これから申し上げることは、必ずしも大宮先生の意図とは違っているかもしれません。けれど私が、長い間受けとめていることとして申し上げますが、マルコによる福音書によると、主イエスは、「ヨハネが捕らえられた後、ガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。』と言われた」とあります。

 主イエスはベツレヘムに生まれ、ナザレという実に小さな村で育ち、近くのガリラヤという地域で宣教を始められました。つまり、主イエスは中心として栄えていたエルサレムではなく、エルサレムから見たら完全に田舎で、さびれたとまでは言えないかもしれませんが、田舎の、つまりは周辺の地域で宣教を開始されました。
 主イエスは、ヨハネによる福音書によれば三回、他の福音書では一回、イスラエルの中心であるエルサレムで宣教された場面が記されていますが、エルサレムの宣教は上手くいきませんでした。エルサレムには神殿があり、そこには律法学者、祭司長、長老、ファリサイ派、サドカイ派といった、宗教的、政治的指導者が沢山いました。その中での主イエスの宣教は、必ずしも上手くいきませんでした。何よりも、捕らえられて裁判にかけられ、十字架刑にされる、その出来事はユダヤの人々から見れば、中心であるエルサレムでの出来事です。

 そう思うと、主イエスの宣教活動は、中心というよりは、周辺と言える、ガリラヤの地域、ガリラヤ湖一体の地域でこそ、実り多いものだったと言えるでしょう。そこから見えてくるものは、中心とは「豊かさ」であり、周辺とは「貧しさ」と言えるかもしれません。しかも、周辺に住む貧しい人々は、当時、最も神から遠いと言われていた人たちでありました。そのような神の祝福から、はずされていると見なされた人々に対して、特段の愛の眼差しを主は示して下さったとも言えるでしょう。大宮先生はそのようなこと話されたように、記憶しています。

 この世的に栄えているところ、繁栄しているところでは、主イエスの御言葉が伝わらない傾向があるように思います。そこは人々が飢え、渇いているわけではありません。
 
 先ほど、コリントの信徒へ手紙の8章の箇所を読みましたが、「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」とありました。

 コリントの町はギリシャにあります。当時はアテネに次いで、二番目に大きな町としてギリシャ経済を牽引していたと言われます。そんな街に使徒パウロはやって来まして、一年半、滞在してコリントの教会を立ち上げました。
 けれど、その後パウロが去った後に、指導者としてやって来た使徒が、パウロの信仰のあり方ちがっていたと思われるふしもあって、教会内で分派争いが起こり、纏まらなくなっていたようです。それを心配して、パウロは一所懸命に手紙を記した、その手紙が残って、ついに聖書となったわけですが、なぜコリントの教会がまとまらないのか、主の貧しさによって、教会が豊かになるというよりは、彼らは元々豊かだったのではないかと思われます。
 
 豊かさとか、貧しさとは相対的なものですから、客観的に測るわけにはいきませんが、少なくともコリントの町は貿易で栄え、人々の出入りも多く、経済的、物質的に豊かな町であって、そこの住んでいる人々の集まりですから、やはり豊かさはあったと思います。今日読みました箇所も、実は、コリントの教会に献金をお願いしたいと記している箇所でもあります。
他のもっと貧しい教会は一生懸命に献金しているのだからというパウロの思いが言葉のはじに滲み出ています。
 
 豊かな教会は、その豊かさ故の苦労もあると言えるでしょう。けれどその豊かさ故に、あるいはギリシャという学問的に進んでいた地域であるだけに、「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。」という主の御言葉を素直に受け止めきれない思いがあったかもしれません。
 
 旧約聖書からは、詩編の70編を読みました。詩編70編は1節から6節までの短い詩編ですが、そこに記されている詩は、神よ、自分のこの苦しみから救い出して下さいと願い続けている詩です。具体的な苦しみがどういうものであったのかはよく分かりません。けれど、その最初から終わりまで、神に何とかして欲しいと願い続けている、その様子は既に自分の力、自力ではどうしようもない状況であったと思います。

 敵がいるとか、裏切られたとか、辛い病気であったかもしれません。

 目に留まる御言葉は6節の御言葉です。「神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください。」
 「私は貧しく」とあります。この場合、貧困という意味ではありません。状況的に追い詰められているということでしょう。
 
 先ほど、主イエスがガリラヤで宣教するにあたって、「ヨハネが捕らえられた後、ガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。』と言われた」という箇所を紹介しましたが、主イエスの宣教はバプテスマのヨハネが捕らえられた後に始まりました。ヨハネと主イエスは親戚でもあり、親しかったと言われます。けれど、捕らえられた牢の中で主イエスの宣教活動を聞いたヨハネ、実際、ヨハネも詩編の作者と同じように、追い詰められていました。
 ヨハネは弟子を送って、主にこう尋ねさせました。「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、他の方を待たなければなりませんか。」その答えとして主はこう伝えます。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」
 
 この御言葉は主イエスの宣教の姿をより明らかにしているように思います。社会的にも、信仰的にも、経済的にも貧しい、周辺世界への神の福音宣教の姿を見て取れると思います。
 
 皆さん、ここで改めて思います。私たちは中心に生きているのか。周辺に生きているのでしょうか。ここで場所的な意味で、この地域が中心か、周辺かということばかりでなく、私たちはもっと周辺に気を使って、宣教しなければならないという宣教の姿勢というわけでもなく、私たちが金持ちなのか、貧乏なのかという問いかけでもありません。

 主は、あなたの宝のあるところに、あなたの心もあると教えられました。貧しい一人のやもめがレプトン銅貨2枚を献金して祈っている姿を見られた主イエスは、「この貧しいやもめは、だれよりも沢山入れた。」と話して下さいました。
一方においては、金持ちの男が、全てを捨てきれずに諦めて主のもとから去ったという話しもあります。
 
 ここで、私たちの心が問われているとも思います。すなわち、生き方が問われているとも思います。新型コロナウィルスの感染拡大の中で、私たちは、いわゆる新しい日常を生きておりますが、このような時代は、誰もが心の不安定を感じ、噂一つでさえ、大きく動揺し、心が揺さぶられてしまう、非常に敏感に受け止め、感情的にさえなる、そのような時代です。神を中心とするなら、社会は周辺とも言えるでしょう。だからこそ、私たちは周辺だけに気を取られ、社会の感情に流されないようにしたいと思います。

 私たちは主なる神を頼りに、主に心を定めて、中心も周辺もあまねく世の光となって下さった方を頼りに、過ごして参りましょう。

 お祈りします。
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大水の深い底から

2020-08-02 16:10:34 | 礼拝説教
【詩編69編1~16節】 
【ヨハネによる福音書2章13~22節】

 昨日の土曜日、8月に入ってやっと梅雨が明けました。今年の梅雨は九州、長野、岐阜、先日は東北の山形でも洪水、氾濫が起こりました。多くの犠牲者と、被災された方々がおられます。思いがけない程の大雨と大洪水の恐ろしさを実感した梅雨でありました。ここ数年、毎年、異常気象と言われていますが、毎年、毎年、規模が大きく、強くなって来ているように感じるのは私だけではないと思います。
 洪水はいきなりやって来るものではありません。雨が降り少しずつ水位があがり、そして、どこかの時点で、堤防の一番低い所を超えるか、脆いところが壊れます。わずかな一部が壊されて、そして、そこから大きく壊れていく。そして町を飲み込み、人の命を飲み込みます。

 私たちの体にも、体を守るための堤防があると言えるでしょう。健康を守るためには、体力、気力、免疫力を強めましょうと言われます。私は二年程前から自分の体を守るためにジムに通っています。人生100年と言われる今、丈夫な体とまでは言えずとも、健康で長生きをしたいと思いまして割合に熱心に通っています。今の時代はコロナウィルス感染予防の観点からも、健康に関する意識が高まっていると思います。手洗い、マスクに気を付けていても、体が弱っていれば、その弱いところから病が侵入してくるかもしれません。
 ですから、体全体を守るためにも、食事、睡眠、運動、今、非常に意識が高くなっているのではないでしょうか。
勿論、体と深く関わりがある私たちの心にも心を守るための堤防があると言えるでしょう。心は人の目に見えるわけではありません。ですからお互いに人の心は慎重に扱わなければなりません。私たち人間は、主なる神によって、神様が造られた被造物の中で、最も優れた者として造られました。幸いだと思います。しかし、詩編8編には「神に僅かに劣るものとして人を造り」とありますが、その神に劣る点の一つは、人は一人では生きていけないという点であろうと思います。
 私たちは、一人では生きていけませんから、古い時代から共に寄り添い合って生きる術を手にいれました。互いに協力しながら家畜を飼い、農業を行い、集落をつくり、町を作り、集まることによって生きてきました。けれどまた、そこでは、人と人との摩擦が必ず起こります。人と人との関わり、一言で言えば、人間関係です。人の歴史は人間関係の歴史と言えるでしょう。
その歴史は、時には助け合いの歴史でありながら、多くは戦い、争いの歴史とも言えます。人と人がいるところでは、殆ど必ず、人と人との摩擦の中で、妬んだり、憎んだり、苛立ったり、競い合ったり、攻撃したりの繰り返しです。時には 人の命さえ奪い合う歴史が繰り返されます。それは「地獄」であると、武田泰淳という作家が表現しました。

 今日は、詩編69編を読みましたが、詩編の作者の具体的な状況は分かりませんが、作者自身が苦境に立たされていることは確かです。思いがけず敵から襲撃されたか、あるいは仲間からの裏切りにあったのか、敵意あるものに囲まれ、滅ぼされそうな恐怖、底なしの深い沼にはまり込んだように、もがいても、自分の力では抜け出すことが出来ず、必死に主なる神に願い求めて、「大水の深い底から助け出してください」と祈り続けています。
この詩編にも人と人との摩擦によって生まれる苦しみ、互いに分かり合えない悲しみが記されていると言えるでしょう。

 敵は楽々と、自分の体の、自分の心の堤防、防波堤を乗り越えてやってきた、もう自分ではどうしようもなくなり、詩編の作者は、必死になって主なる神に祈り続けています。
けれど、先ほど読みませんでしたが、後半31節からの箇所を読みますと、一転して、主なる神に感謝し、主を賛美する詩編となります。ですから、詩編の作者の祈りは聞き入れられ、主なる神は底なし沼から引き上げて下さり、祝福を与えて下さったものと思われます。苦しい状況から逃れられ、良かったと心から思ったことでしょう。
 けれど、このような深い淵を経験したものは、その後どうするのか、考えられる一つの策は、次は決して壊されないように、もっと強い防波堤を作ろうとするのではないでしょうか。もっと強く、もっと高く、もっと頑丈な防波堤を作ろうとするのだと思います。もう9年前となりましたが、東日本大震災が起こり、大きな津波が福島を中心とする東北、関東の沿岸に押し寄せました。

 その高さは、それまで想定されていた高さを遥かに超えて大きく、30m、40mと言われます。多くの人々の命を飲み込むものでありました。どれほどの方が大水の深い淵へと引きずり込まれてしまったことか、ですから、津波を経験した地域は、これまでにない更に大きく、高い防波堤を作ろうとしている所もあるでしょう。けれど同時に、どんなに高いものを作ったとしても、それで本当に安心なのかという問いかけがあるのではないでしょうか。

 心の防波堤も同じようなもので、一度壊された、だから次は壊れないように、飲み込まれないように強く、高く、頑丈にしようとするとそこに何が起こるかと言えば、人と人との関係が作られなくなるということです。自分を守るために一人になれば、確かに傷はつかないかもしれません。しかしそこで人と人との関わりがありませんから、やはり空しいものとなるのではないでしょうか。 
 ですから津波の防波堤は高くするそれは一つの方策かもしれませんが、心の防波堤は高くするだけでは解決しないところがあると思います。
 
 今日はヨハネによる福音書の2章を読みました。そこは主イエスがエルサレムの神殿にやって来た時、神殿の様子をご覧になり、その様子を見て嘆かれた場面です。神殿の境内で牛や羊や鳩を打っている者や、両替をしている者たちをご覧になり、彼らを強硬な行いで神殿から追い出してしまいました。この出来事は、他の福音書にも記されていますが、ヨハネによる福音書は主の福音宣教の初めにその様子が記されているのが特徴でます。なぜ、この出来事を、宣教の初めに記されているのか、多くのことを申し上げる暇はありません。
 
 一言だけ申し上げますが、主イエスは神殿の様子をご覧になり、「わたしの父の家を商売としてはならない」と言われた、この御言葉が鍵となると思います。「わたしの父の家」父なる神の神殿が、神の思いを表していないということではないでしょうか。
 なぜ、表していないと感じられたのか、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」とあります。神殿が建てられ、祭司が働き、律法学者が人々を導き、礼拝が執り行われている。集まる人々の為に必要なものが全て揃うようにと、犠牲の動物を売る者、両替商もいる。良く考えられ組織が整い、日々の信仰の営みが行われている。そのような熱意をもって神殿が運営されていたに違いありません。
 しかし、それの何が良くないと言われたのか。たった一つです。そこに確かな福音が告げられていたのか。人々が容易に礼拝に臨める仕組みはあっても、民の心を溶かす御言葉と、神に向かって全てのしがらみから解放を告げる確かな福音が告げられていたのか。
 むしろ、神殿が高くそびえるようにして、律法こそが、高い防波堤、隔ての壁となり、神を見えづらくし、理解しがたくして、また人を差別し、ユダヤ人と異邦人、男性と女性、子どもと老人、の間に高い防波堤を築き、乗り越えられない壁を造り、尚、それで良しとしていたのではないでしょうか。果たして神の律法はそのような高い壁を作るために与えられた法であるのか、いや、違うだろうと、人々に問いかける思いを持って、主は働かれたのではないでしょうか。
 
 主イエスが宣べ伝える福音は、私たちがどうしても作ってしまう、目に見えない壁、防波堤を取り除き、全てが見えるところでこそ、告げ知らされるものではないかと思います。

 今日のこの礼拝は、教会の創立記念礼拝でもあります。教会は、神と人との間にあった隔たり、その壁の全てを取り壊されて、人となられた主イエス・キリストを宣べ伝える場としてこの世にあります。
自然災害や、コロナウィルスの感染拡大と私たちは、辛い時代を通過していますけれど、このような出来事によって、より明らかになるのは、人と人との間にある摩擦であり、高い隔たりかもしれません。そのような隔たりに陥ることなく、私たちは最も謙り、謙遜に生きられた神、主イエス・キリストを頼りに、この一週間も過ごしてまいりましょう。

 お祈りします。
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