【詩編71編1~6節】
【ガラテヤの信徒への手紙1章11~17節】
今日は「生まれる前から」という説教題を付けました。読みました詩編71編から付けた説教題ですが、71編6節をもう一度読みますと、こうあります。「母の胎にあるときから あなたに依りすがって来ました。あなたは母の腹から、わたしを取り上げてくださいました。わたしは常にあなたを賛美します。」
ここで、気が付くのは何かというと、「あなた」と「わたし」という言葉です。ここで言う、あなたは神様であり、私は私です。
ドイツのマルチン・ブーバーという哲学者は「我と汝」という言葉でもって、世の中を説明しようとしました。私には何回読んでも、よく分からないところもあります、何回読んでも難解な本ですが、でも、読み解く鍵は「関係」という言葉だと思っています。
我は私、汝はあなた。私は一人称ですが、汝は二人称です。一人称の「私」と二人称「あなた」の間に、何があるのかというと、ある人は1.5人称があると説明しました。
1.5人称とは何かというと、「関係」だというのです。この世は関係で成り立っているということです。
ある人が、子どもが家に引きこもっていて大変心配して、ご夫揃って私の尊敬する牧師の所へ相談に行ったそうです。色々と話をする中で、過去のあの事が原因だ、この事がなかったらと過去を振り返ってもあまり有益ではないので、未来を見て、希望を持っていきましょうと励ましを受けて、一緒にお祈りをしたそうです。ご主人は、一生懸命に息子が仕事について一人前になって、社会の役に立つようにと祈りを献げて、その後で奥さんが祈りました。
どうぞ、夫との関係が良くなりますようにと祈ったそうです。その祈りを聞いて、全ての問題の根源が分かったという話のようですが、皆さん、私たちは夫婦で過ごしていても、そこに愛があると思っているので、コミュニケーションを取らないところがあります。愛があるからコミュニケーションを取れると思っているところがあります。
でも、むしろコミュニケーションがあるから、そこに愛が生まれるのではないでしょうか。そのコミュニケーションが1.5人称という説明であって、そこが豊かであればある程に、良い人生を送れるのであろうと思うのです。
人と人との関係もそうですが、「我」と「汝」、まず、私と神様という関係も確かであることが求められるのだと思います。
聖書が告げるところの主なる神は、何より天地万物の造り主、創造者として告げられています。けれど、エフェソ書1章4節には「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」とあります。主なる神は、天地創造の前から既に、私たちを選び、私たちを聖なるものとし、キリストにおいて神の子としてつながるようにとそのように計画して下さった、というのです。
そのような関係を神は作られた。それは、私たちが何をしているのかとか、成績はどうだとか、収入はどうだということで測るのではなく、私たちの存在そのものを祝福してくださっている、その証しとして、主イエスをこの世に誕生させて下さったというのです。
以前にも話しましたが、私の母親の認知症がさすがに進んで来まして、ここの所、毎日のように「家に帰りたい」と話して来ます。いつまでも世話になっていられないし、岩手の実家に帰りたいと言うのです。そう聞きますと当初は、本当に驚いて、我が家が嫌になって来たのかショックを受けましたが、認知症の勉強をしますと、典型的な病気の症状のようで、ネットではその話を本気で信じて、実家に連れて行っても、そこでも同じように「家に帰りたい」と言うのだそうです。場所的な認識や、歴史的、時間的な認識がどんどん無くなっていく途中に起こる症状のようです。
それでも、覚えていることはありまして、それは母のお母さん、私から見れば、祖母になるわけですが、母が小学生低学年の時に、結核で亡くなるのですが、その時のことは忘れないのでしょう。毎日初めて話すかのように、同じ話をしています。
でも、それ程に、どこまで行っても記憶が無くならない。今は1分前のことも忘れますが、忘れない記憶、きっと子どもにとっての母の死は、自分の存在をも否定されてしまうかのようなショックだったのだろうと思います。
神様の愛は、母親の愛に似ていると言われますが、何をしているのか、どう生きているのかを越えて、自分の存在そのものを愛してくださる方がおられる。この方が自分の為に、人となって、私たちの世界に現れて下さり、神の愛を示して 下さり、今もいつも共におられる。
この方との「私」と「あなた」の絆、関係を良好に保ち、この方との信頼、そして聖書を読み、祈りを献げるという関係、コミュニケーションを深めれば深める程に、私たちは信仰を強め、希望を持って、愛の人としてこの世を力強く生きていけるのではないでしょうか。
そして二つ目は、詩編に、「母の胎にあるときから あなたに依りすがってきました。あなたは母の腹からわたしを取り上げて下さいました。」とありますように、主なる神こそが、私たちが生まれる前から既に私たちをご存知であり、私たちに命を与え、この世に誕生させて下さったということでしょう。
次男が生まれた時の話ですが、岩手の花巻教会の当時の牧師館、一階には四畳半一間と台所と風呂場、それが全てでした。その四畳半で、助産婦さんに来て頂いて、次男が誕生しました。四キロで生まれた次男でしたが、年配の助産婦さんが、よく使い込んだハサミを私に渡して、へその緒を切りなさいというのです。簡単に切れるかと思いましたら、案外、思っていたよりずっと丈夫でそれが中々切れなくて、大変な思いをして切ったことを思い出します。
子どもが誕生する、生れる前は、子どもはへその緒でもって、母親と繋がり、別々であっても、一つとして生きているのだと思います。
けれど、母の胎から誕生する、そして、へその緒が切られた途端に、一つが二つになって、母と子として、別の人格を歩みだします。別の人格とは「私」と「あなた」という人格、関係が生まれるということです。子どもは自分のものではないし、神様からの預かりものです。子育てにも求められるのは、主なる神がそうさせたのだと信じる信仰であろうと思います。
先ほど、ガラテヤの信徒への手紙を読みました。使徒パウロがガラテヤの教会に対して、自分がなぜ使徒とされたのか、なぜ主イエス・キリストの福音を宣べ伝えているのかを記している箇所でもあります。
「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされた」とあります。啓示とは、人間の側から考え、思考しながら、神とはどういう方なのかと導きだすことではありません。
一方的に神の恵みとしての主イエスが、救い主キリストがこの世に誕生され、福音を宣べ伝え、十字架と復活の出来事を通して、神が愛を示して下さった、神様の側からの印、それが啓示の出来事と言います。
そのことによって、パウロはこれまでユダヤ教徒として、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとさえして、これまでの伝承を守り、熱心にユダヤ教を守ろうとしていたけれど、神はそのような私をも、恵みによって召し出して、ついに迫害する者から、福音を宣べ伝える者として立てて下さったというのです。
しかも、その御計画は、母の胎にある時からの神様の御計画であったと告げています。
主なる神は、パウロだけでなく、私たち一人一人を、母の胎にある時から選び、神の民として生きるようにとして下さっている。パウロがユダヤ教から主の御言葉を宣べ伝える者へと変えられていったように、私たちもこの国においては、生れながらのというよりは、日本の宗教からキリスト教へと導かれた方の方が圧倒的に多いかもしれません。
そこでより確かなことは主なる神が、私たちの人生と深く関わりを持たれているということであり、しかもそれは、私たちが生まれる前から既に、選ばれ、神の恵みに生きるようにとして下さっているということでありましょう。
そのような方との、大切なものは、「私」と「あなた」という関係です。神と私との関係がより深く、より確かであればある程に、この世の噂や、妬み、悪口、怒りから解放され、更に私と私との関係においても、自分で自分を祝福し、励まし、力付けることが出来るようになるでありましょう。
そして、私と、あなた、人と人との人間関係においても、パウロのように祝福を宣べ伝え、神を指し示す人としての生き方を、生きていけるのではないでしょうか。
生まれる前から、自分はそのようにして生かされている、その喜びを私たちはこれからも生きて参りましょう。
お祈ります。
【ガラテヤの信徒への手紙1章11~17節】
今日は「生まれる前から」という説教題を付けました。読みました詩編71編から付けた説教題ですが、71編6節をもう一度読みますと、こうあります。「母の胎にあるときから あなたに依りすがって来ました。あなたは母の腹から、わたしを取り上げてくださいました。わたしは常にあなたを賛美します。」
ここで、気が付くのは何かというと、「あなた」と「わたし」という言葉です。ここで言う、あなたは神様であり、私は私です。
ドイツのマルチン・ブーバーという哲学者は「我と汝」という言葉でもって、世の中を説明しようとしました。私には何回読んでも、よく分からないところもあります、何回読んでも難解な本ですが、でも、読み解く鍵は「関係」という言葉だと思っています。
我は私、汝はあなた。私は一人称ですが、汝は二人称です。一人称の「私」と二人称「あなた」の間に、何があるのかというと、ある人は1.5人称があると説明しました。
1.5人称とは何かというと、「関係」だというのです。この世は関係で成り立っているということです。
ある人が、子どもが家に引きこもっていて大変心配して、ご夫揃って私の尊敬する牧師の所へ相談に行ったそうです。色々と話をする中で、過去のあの事が原因だ、この事がなかったらと過去を振り返ってもあまり有益ではないので、未来を見て、希望を持っていきましょうと励ましを受けて、一緒にお祈りをしたそうです。ご主人は、一生懸命に息子が仕事について一人前になって、社会の役に立つようにと祈りを献げて、その後で奥さんが祈りました。
どうぞ、夫との関係が良くなりますようにと祈ったそうです。その祈りを聞いて、全ての問題の根源が分かったという話のようですが、皆さん、私たちは夫婦で過ごしていても、そこに愛があると思っているので、コミュニケーションを取らないところがあります。愛があるからコミュニケーションを取れると思っているところがあります。
でも、むしろコミュニケーションがあるから、そこに愛が生まれるのではないでしょうか。そのコミュニケーションが1.5人称という説明であって、そこが豊かであればある程に、良い人生を送れるのであろうと思うのです。
人と人との関係もそうですが、「我」と「汝」、まず、私と神様という関係も確かであることが求められるのだと思います。
聖書が告げるところの主なる神は、何より天地万物の造り主、創造者として告げられています。けれど、エフェソ書1章4節には「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」とあります。主なる神は、天地創造の前から既に、私たちを選び、私たちを聖なるものとし、キリストにおいて神の子としてつながるようにとそのように計画して下さった、というのです。
そのような関係を神は作られた。それは、私たちが何をしているのかとか、成績はどうだとか、収入はどうだということで測るのではなく、私たちの存在そのものを祝福してくださっている、その証しとして、主イエスをこの世に誕生させて下さったというのです。
以前にも話しましたが、私の母親の認知症がさすがに進んで来まして、ここの所、毎日のように「家に帰りたい」と話して来ます。いつまでも世話になっていられないし、岩手の実家に帰りたいと言うのです。そう聞きますと当初は、本当に驚いて、我が家が嫌になって来たのかショックを受けましたが、認知症の勉強をしますと、典型的な病気の症状のようで、ネットではその話を本気で信じて、実家に連れて行っても、そこでも同じように「家に帰りたい」と言うのだそうです。場所的な認識や、歴史的、時間的な認識がどんどん無くなっていく途中に起こる症状のようです。
それでも、覚えていることはありまして、それは母のお母さん、私から見れば、祖母になるわけですが、母が小学生低学年の時に、結核で亡くなるのですが、その時のことは忘れないのでしょう。毎日初めて話すかのように、同じ話をしています。
でも、それ程に、どこまで行っても記憶が無くならない。今は1分前のことも忘れますが、忘れない記憶、きっと子どもにとっての母の死は、自分の存在をも否定されてしまうかのようなショックだったのだろうと思います。
神様の愛は、母親の愛に似ていると言われますが、何をしているのか、どう生きているのかを越えて、自分の存在そのものを愛してくださる方がおられる。この方が自分の為に、人となって、私たちの世界に現れて下さり、神の愛を示して 下さり、今もいつも共におられる。
この方との「私」と「あなた」の絆、関係を良好に保ち、この方との信頼、そして聖書を読み、祈りを献げるという関係、コミュニケーションを深めれば深める程に、私たちは信仰を強め、希望を持って、愛の人としてこの世を力強く生きていけるのではないでしょうか。
そして二つ目は、詩編に、「母の胎にあるときから あなたに依りすがってきました。あなたは母の腹からわたしを取り上げて下さいました。」とありますように、主なる神こそが、私たちが生まれる前から既に私たちをご存知であり、私たちに命を与え、この世に誕生させて下さったということでしょう。
次男が生まれた時の話ですが、岩手の花巻教会の当時の牧師館、一階には四畳半一間と台所と風呂場、それが全てでした。その四畳半で、助産婦さんに来て頂いて、次男が誕生しました。四キロで生まれた次男でしたが、年配の助産婦さんが、よく使い込んだハサミを私に渡して、へその緒を切りなさいというのです。簡単に切れるかと思いましたら、案外、思っていたよりずっと丈夫でそれが中々切れなくて、大変な思いをして切ったことを思い出します。
子どもが誕生する、生れる前は、子どもはへその緒でもって、母親と繋がり、別々であっても、一つとして生きているのだと思います。
けれど、母の胎から誕生する、そして、へその緒が切られた途端に、一つが二つになって、母と子として、別の人格を歩みだします。別の人格とは「私」と「あなた」という人格、関係が生まれるということです。子どもは自分のものではないし、神様からの預かりものです。子育てにも求められるのは、主なる神がそうさせたのだと信じる信仰であろうと思います。
先ほど、ガラテヤの信徒への手紙を読みました。使徒パウロがガラテヤの教会に対して、自分がなぜ使徒とされたのか、なぜ主イエス・キリストの福音を宣べ伝えているのかを記している箇所でもあります。
「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされた」とあります。啓示とは、人間の側から考え、思考しながら、神とはどういう方なのかと導きだすことではありません。
一方的に神の恵みとしての主イエスが、救い主キリストがこの世に誕生され、福音を宣べ伝え、十字架と復活の出来事を通して、神が愛を示して下さった、神様の側からの印、それが啓示の出来事と言います。
そのことによって、パウロはこれまでユダヤ教徒として、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとさえして、これまでの伝承を守り、熱心にユダヤ教を守ろうとしていたけれど、神はそのような私をも、恵みによって召し出して、ついに迫害する者から、福音を宣べ伝える者として立てて下さったというのです。
しかも、その御計画は、母の胎にある時からの神様の御計画であったと告げています。
主なる神は、パウロだけでなく、私たち一人一人を、母の胎にある時から選び、神の民として生きるようにとして下さっている。パウロがユダヤ教から主の御言葉を宣べ伝える者へと変えられていったように、私たちもこの国においては、生れながらのというよりは、日本の宗教からキリスト教へと導かれた方の方が圧倒的に多いかもしれません。
そこでより確かなことは主なる神が、私たちの人生と深く関わりを持たれているということであり、しかもそれは、私たちが生まれる前から既に、選ばれ、神の恵みに生きるようにとして下さっているということでありましょう。
そのような方との、大切なものは、「私」と「あなた」という関係です。神と私との関係がより深く、より確かであればある程に、この世の噂や、妬み、悪口、怒りから解放され、更に私と私との関係においても、自分で自分を祝福し、励まし、力付けることが出来るようになるでありましょう。
そして、私と、あなた、人と人との人間関係においても、パウロのように祝福を宣べ伝え、神を指し示す人としての生き方を、生きていけるのではないでしょうか。
生まれる前から、自分はそのようにして生かされている、その喜びを私たちはこれからも生きて参りましょう。
お祈ります。