日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

キリストの体として生きていこう

2020-07-27 10:34:21 | 礼拝説教
【詩編68編18~19節】
【エフェソの信徒への手紙4章7~16節】

 2月、3月から流行り始めた新型コロナウィルスの拡大が、一時収まりかけましたように思いましたが、今、また拡大の方向に向かっています。私も改めてここ2週間程は、出来るだけどこにも出ないようにと過ごしております。教会の行事の多くもストップしていますが、唯一週の真ん中の水曜日の午前の祈祷会だけは、なんとか継続しております。
これからもなんとか続けていければと願います。その祈祷会では、今、旧約聖書の創世記を読んでいますけれど、そこに登場するヤコブの生き様について学んでおります。
 
 旧約聖書では、主なる神を「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と表現されることがあります。信仰の父と呼ばれるアブラハム、その息子のイサク、更にその息子のヤコブ、アブラハムの孫となるヤコブですが、ヤコブは双子の兄弟エサウがいました。双子でも、長男がエサウ、次男がヤコブでありました。
 
 この二人の間に、長男の権利について争いが起こりました。長男は、父親の財産を、権利として引き継ぐことが出来る。その権利が欲しくてたまらないヤコブは、母親のリベカと結託して、目が見えづらくなっていた父のイサクをだまし、エサウのいない時に、長男に与えられる祝福を頂いて、長男の権利を受け取りとるわけです。この時、ヤコブは上手くいったと思ったことでしょう。

 けれど、してやられた側のエサウは激怒しまして、年寄りのお父さんが死んだ後には、ヤコブを殺してしまうと考えたというのです。それを知ったヤコブは恐ろしくなり、結局一人寂しく家を出ることになります。夜となり、野宿を強いられ、石を枕に寝ていたところに、主なる神が現れてこう告げます。
「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、父イサクの神、主である。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこに行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまでは決して見捨てない。」

 絶望しかけたヤコブにとって、この御言葉はどんなに励みとなったでしょう。神の御言葉に力を得てヤコブは、更に旅を続け、妻となるラケルと出会います。けれど、また試練が与えられて、ラケルと結婚する為には14年のただ働きを強いられたり、一生懸命に働いて、財産も増え、子どもも誕生し充実した歩みを続けながらも、数々の困難も与えられたり、波乱万丈の人生を歩むことになります。特にヤコブにとって最大の試練は、家を出てから20年後、ついに兄のエサウと再会する場面でありました。
明日エサウ兄さんに会うという場面では、恐ろしくて夜も寝られない中でオロオロしていました。そこに主なる神が現れて、一晩かけてヤコブと格闘します。相撲を取ったと記される聖書もあるようです。

 ヤコブはこの方にこそ、祝福をいただこうと必死に闘い、ついに神のほうが負けそうになって、あなたはもはやヤコブではない、イスラエルであると祝福を与えて下さった。神と相撲を取ったのは、聖書の中で唯一、ヤコブだけでありましょう。
 ヤコブは、祝福を得て、力を得て、エサウと合い、和解することになるわけです。

 ヤコブの話はまだまだ続きますが、ヤコブに限ることではなく、私たち一人一人の人生といいますか、歩みにしても実に多様ではないでしょうか。先週は幼稚園で、卒業していった子ども達の同窓会がありました。小学校、中学校、高校の新一年生が集まって下さいました。今年高校に入った子どもたちは、私がこの教会に来たときの、年長さんでした。その子どもたちがいつのかにか、高校生となっている。その間、わずかな時間というべきではないでしょう。でも、思い起こせばあっという間の10年であったと思います。
 その間、東日本大震災をはじめとする様々な自然災害が起こりました。そのような影響を受けてということもあり、私たちの教会は願っていた会堂建設を行いました。
今、前の会堂を知らない方も大勢おられますが、冬の寒い日に、石油ストーブをいくら炊いても、足元が寒いと言われたことを覚えています。礼拝の間、足が寒いと訴えられる、説教だけでは暖めることは出来ませんでした。(笑)
懐かしい会堂です。

 あの会堂で信仰が養われた方も少なくないと思います。何人もの方が、信仰を養い、決心し洗礼を受けられ、教会で結婚式をされたご夫妻もおられます。実に様々な人生のドラマが展開されたであろうと思います。

 幸せという言葉は英語でいえばハッピーです。ハッピーと言う言葉と、同じ語源をもつ言葉で、ハプンと言う言葉があります。「起こる、生じる」という意味ですが、このハプンからハプニングと言う言葉が作られます。ハプニングとは思わぬ出来事です。思ってもみなかった出来事、しかし、それが良い出来事であったなら、どうでしょうか。ハッピーになるのです。幸せだなと感じることでしょう。
  
 教会というところは、どういう所ですか?と聞かれるとしたら、幸いを受けるところです。と答えることが出来るでしょう。教会は、結婚した時も、子どもが誕生した時も、子どもが進学や就職した時も、結婚し、孫が生まれた時も、天に召される時も、嬉しい時は、共に喜び、悲しくて涙する時は、大いに慰めを得て、幸いを受けて、その一人一人の人生と共に歩むところだと言えるでしょう。一人ひとりの人生と共に歩むために、教会は、組織が作られます。
エフェソの信徒への手紙を読みましたが、そこにあるように、「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされて」とあります。その人、その人に相応しい役割が与えられるという意味でしょう。

 今年度も私たちの教会では新しい役員が選出されましたし、子どもの教会の担当者や、奏楽者のみならず、それぞれに与えられている役割があります。昨日の朝、壮年会の方々が会堂掃除に来られましたが、掃除をする役割を担って下さる、それもまた教会の大切な役割です。一人ひとりが、教会という体全体を補い合うことによって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、それぞれに応じて働いて体を成長させる、教会が教会として存続するためには本当に必要な事柄でありましょう。

 でも、尚、それだけでは足りません。組織が教会を作り上げているわけではありません。読んだエフェソ書には「キリストの体」とあります。「頭であるキリスト」ともあります。「キリストにより」ともあります。

 私たちはイエス・キリストという方を信じる信仰共同体です。最初にヤコブの話を致しました。ヤコブは人生の困難に至った時、最も困難だと感じる時、いつも一人になりました。家族とも離れ、財産からも離れ、この世の頼りになると思われるものから離れてしまいます。しかし、そこで思わぬ形でいつも主なる神との出会いが与えられます。石を枕として寝た時も、兄のエサウと会う前の夜も、一人になった時に、そこに主なる神が現れて下さいました。

 そこで、誰でもない、この自分と向き合い、一晩中でも格闘し続けて下さるほどの愛を持って、神はヤコブと共にいようとして下さる。ヤコブはこの方によって力与えられ、励まされて、様々な困難を克服し、そして信仰を培いました。

 ヤコブが与えられた信仰は、そのようにしてハッピーな時も、ハプニングに襲われている時も、その出来事、出来事を通して尚、主なる神が、いつも共におられる、そういう幸いが与えられているという確信であったと思います。

 主なる神は、そのような愛の姿として、主イエスを私たちのこの世に遣わしてくださいました。改めて「教会というところは、どういうところですか」と問われるとした、神の愛に包まれるところですと答えることが出来るでしょう。

 私たちは、いつの間にか、人が思うところの教会に生きてしまっているところがあるかもしれません。信仰とは何か、教会とは何か、とつい議論してしまう私たちがいるかもしれません。そうしなければ信仰にたどり着けないと思っている私たちがいるかもしれません。

 けれど、主なる神は、神のままでおられることを良しとされず、主イエス・キリストを私たちのこの場に送って下さり、神の愛を示して下さいました。私たちはその愛の中にこそ生きていく道を見いだし、愛が教会を生み出したことを忘れずに、そこに連なることが許されている幸いに感謝しながら、今週一週間も過ごして参りましょう。
お祈りいたします。

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御顔の輝きをもとめて

2020-07-20 09:46:09 | 礼拝説教
【詩編67編1~8節】
【ルカによる福音書24章13~35節】

 先週の火曜日、今年度になって初めて、幼稚園のお母さん方と一緒に「聖書に親しむ会」を行いました。8名の方が来られて良い時間を過ごしました。
 幾つかのご家庭では、新型コロナウィルスの影響で、ご主人が自宅で仕事をするようになったそうです。あるご主人は、会社のパソコンを家に持って来て、一切会社に行かなくなった様子なども伺いました。
 私もコロナウィスルの影響でもないですが、家と教会とを、なんだかウロウロして、仕事もしているのか、していないのかと申しましたら、あるお母さんから「先生は、何もしなくてもここにいるだけで、なんだか、ホッとしますよ」と言われて(笑)大変励まされる思いが致しました。
 別に何もしてない訳でもありませんが、存在を肯定してもらえるというのは、大きな励ましです。今日は存在が肯定されることを考えたいと思います。

 旧約聖書、創世記は天地創造から始まります。主なる神が天と地を造られた。光あれと言われてこの私たちの世を作り始められて、二日目には水と空が出来て、三日目には陸と海に別れて、四日目には太陽と月と星、五日目には、海は魚、陸には動物、空に鳥を作られました。そして六日目には主なる神によく似た者として、土の塵から人間を造られたとあります。天地創造の出来事を通して、聖書が私たちに伝えているのは、神の創造の出来事は、「良かった」ことであり、何よりも、人間が造られた時、主なる神は「極めて良かった」と言われたと記されています。ここに記されていることもまた、神のこの世に対する、私たちに対する存在の肯定であろうと思います。
 私たちに命を与え、人生を与えて下さる神は、私たちの存在を喜んで下さっている、忘れてはならないことだと思います。

 けれど、ご存知のように、創世記の3章になりまして、蛇の誘惑の場面が記されます。今日の週報の表紙の絵は、蛇の誘惑というタイトルの絵です。エバのところに、蛇がやってきて唆します。「決して死ぬことはない、それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」と、園の真ん中にある木の実を食べるようにと促すわけです。エバはその誘惑に乗って、つい木の実を取って食べ、一緒にいたアダムにも取って渡して、二人は食べてしまいました。すると、二人の目は開けて、自分達が裸であることを知って、二人はいちじくの葉を綴り合せて、腰を覆うものとした。とあります。
その同じ日、風の吹くころに、神が園の中を歩いてこられた、その音が聞こえて来た時に、アダムとエバは、主なる神の顔を避けたとあります。なぜ、避けたのか、自分達が、神に対して罪を犯したことを理解したからでしょう。

 罪を犯すと、人は相手の顔を見られなくなる、「顔向けできない」という言葉がありますが、その通りの様子が記されています。まさに顔向けできない二人を見て、主なる神は二人を園から追い出してしまい、そこから人間の新たな歴史が始まったと言えるでありましょう。
 ここでいう罪とは、主なる神が、天地創造の世界のその全てを「良し」とされた、その存在の肯定を、人が善悪を知る木を食べて、そして自らの存在を肯定できなくなったところです。自分を見つめると、裸の自分で良かったのに、これも足りない、あれも不足していると、マイナス面が見えてくる。これも出来ない、これも良くないと、神の祝福を受け止めきれず、自らが顔を背け、神から離れようとする。
罪とは「「的外れ」という意味ですよ、といつも申し上げますが、神様からみれば、イスラエルの歴史は自分を否定して、的から外れようとする、それを神自らが戻そうとされた、そういう歴史と出来事が綴られるのが、旧約聖書と言うことも出来るでありましょう。
 ですから、主なる神が、自分達にその顔を向けて下さるかどうか、イスラエルの民の信仰にとって、それは大きな課題でもありました。

 これまでずっと礼拝では詩編を読んでいますが、詩編の中にも、神の御顔を求める御言葉を数多く見つけることが出来ます。詩編4編には「主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください」という御言葉があります。11編には「主は正しくいまし、恵みの業を愛し 御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる」とあります。27編には「わたしの顔を尋ね求めよ」とあります。

 先ほど読みました67編は短い詩編ですが、神の祝福を希う詩編であることはすぐにわかります。作物の実りを求め、平和が備えられ、祝福を願う、その最初に「神がわたしたちを憐れみ、祝福し、御顔の輝きを わたしたちに向けて下さいますように」と祈りを献げています。私たちとありますから、礼拝において歌われ、祈られた詩編でありましょう。

 人が機会を得て、主なる神を知り、主なる神によって生きていこうと決心する、その前の人生はなんと暗かったかと思っている方多いと思います。私自身、二十代前半までの人生が、どれほど暗い人生であったか、自分を蔑み、社会を恨み、どれほど厭世的な歩みを歩んでいたことかと思います。あたかもそれは、太陽を背にして歩んでいるようなものです。いつも自分の影を見ながら、いつも暗いなぁと思いながら、思い切って180度回転して、太陽の方向を見つめれば、光の中を歩めるのに、それに気が付かないように、神から離れ、神の御顔を見ようとしない人生は、いつも的をはずし、自らを肯定出来ず、それ故に、祝福に預かれない歩みではないでしょうか。

 主なる神の御顔を見つめるために、これまでの歩みから離れ、神と共に歩むために必要なことは、御顔の輝きを理解し、受け止めることでありましょう。そして、主なる神が最もその光を私たちに照らして下さったのは、私たちの信仰からすれば、主イエス・キリストという方を通してでありましょう。

 御子イエスが、私たちのこの世に誕生された。クリスマスの出来事は、世界中でお祝いされます。神の光、御計画が実行されたことに対する喜びです。けれど、これだけで計画が完成した訳ではありません。成長された御子イエスは、バブテスマのヨハネが捕らえられたと聞いた時、ガリラヤへ行き「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われて、この世に対して神の福音を宣べ伝える働きをされました。多くの人々に喜びがもたらされ、主の不思議な業とその御言葉によって、町中の人々が戸口に集まり、その評判はたちまちガリラヤ地方の隅々にまで広がっていきます。神が一人ひとりを肯定された出来事が続きます。けれど、それでも、十分ではありませんでした。

 時の権力者であった、祭司長、律法学者たちが、主イエスを妬み、いつか殺してしまいたいと思う程となり、ついには捕らえ、十字架刑に処せられます。 
十字架の意味は、私たち立ちに対する完全な罪の赦しとしての姿でありました。しかし、尚、それで完成した訳ではありません。十字架だけでは、弟子たちや、人々を散らしてしまう、いわば人間の最大の罪であったとも言えるでしょう。けれど、それらすべての出来事を越えて、十字架の死から三日後に、主イエスは復活され、弟子達の前にあらわれて下さった。

 主の復活こそが神の御光の現れです。ルカによる福音書24章を読みました。

 主の二人の弟子が、希望の光を失い、自分達の故郷であるエマオに帰ろうとしている場面です。太陽を背にしての歩みであったかもしれません。トボトボとした歩みであったでしょう。けれど、そこに復活の主イエスが現れて下さいました。当初、二人の目は遮られていて、イエスだとは分かりませんでした。
 主は「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と聞いた時、二人は暗い顔をして立ち止まりました。なぜ暗い顔であったのか、主イエスは十字架の前に何度も、弟子たちに対して、御自分の死と復活についてお話になり説明されました。
 けれど弟子たちにはその意味がわかりませんでした。神の御言葉を理解し、受け止めることは出来ませんでした。

 二人と共に歩んだ主は、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」とあります。その話を聞きながら、二人は自分を顔が持ち上がって来たことを感じたでありましょう。「宿に着き、食事の席に着き、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになったとき、二人の目が開けた」とあります。ついに、ここで二人は、心を、神の顔の光に向けることが出来たわけでした。そして、「道で話しておられる時、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合い、時を移さず出発して、弟子たちが待つ、エルサレムに戻っていくのでありました。その足取りは、来た道とは違い、どれほど力強い歩みであったでしょう。神の御顔の光を知った者の歩みでありました。
 
 皆さん、私たちの歩みものそのようなものでありたいと思います。新型コロナウィルスの拡大が言われています。まだまだ予断が許されない状況が続いています。雨も降り続き災害が心配されています。様々な不安と、また、忍耐が求められる時を、私たちは生きておりますが、こんな時代なら尚更、神の御顔の光を見つけて、右にも左にもそれないで、歩んで参りましょう。
 人の暗さの中に埋没するのではなく、神の光の中を歩んで参りましょう。光の子として進んで参りましょう。そここそが自分の存在が確かに肯定される場所であると私は思っております。

 お祈りします。
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死ぬはずの体が生きる

2020-07-13 09:55:22 | 礼拝説教
【詩編66編1~9節】
【ローマの信徒への手紙8章1~11節】


 連日の雨により、九州北部の地域また、岐阜、長野と川が氾濫し、多くの方が亡くなられ、被災され、困難を極めている状況が報道されています。新型コロナウィスルの感染リスクが少しも減らない中で、この豪雨、氾濫とどんなに気持ちが沈んでいるかと思います。でも昨日見ていたニュースの中で、ある旅館の女将さんが出ていまして、新型コロナウィルスの影響によって、数ヶ月の間旅館を閉めて、耐えて過ごし、一月前にやっと再開したばかりだったのに、この雨と川の氾濫で旅館がすっかり泥だらけとなってしまったというのです。ですから、どんなに落胆していることか、もう諦めましたと言うのかなと思ってみていましたら、その女将さんは、これから一年かけて旅館を修復して、また来年再開できるように頑張ります、と話された。その言葉を聞きまして、見ているこっちが励まされる思いが致しました。
 その話を聞いて、そうか、自分も前向きな考え方をもって人生を歩んで行きたいな、と思えた一瞬でありました。
 
 私たちが前を向いて歩んで行こうと決心する「時」があると思います。私たちの信仰からすれば、例えば、それは洗礼を受けた時と言えるでしょう。

 欧州やキリスト教国と呼ばれる国の子どもたちは、生まれてすぐに幼児洗礼を受けて、中学、高校の年齢になりますと、殆ど漏れることなく信仰告白をするという習慣があります。
信仰告白をするまでは、ゴットファザーや、ゴットマザーと呼ばれる信仰の導き手がいまして、誕生日や受洗記念日などには教会に連なるようにという思いを込めて、プレゼントを一生懸命贈ります。子ども達も楽しみにするわけですが、信仰告白をするとプレゼントは終わり、子ども達も信仰告白すると教会に行かなくなるという話を聞いたことがありまして、それが教会の悩みになっているということのようです。ある意味においては、幼児洗礼、信仰告白があまりにも習慣化している弊害があるのだと思います。

 けれど私たちの国においては、洗礼を受けるという思いに至るまでには、恐らく多くの方々が、何らかの試練であるとか、挫折であるとか、苦悩といった何らかの出来後の、その先に主なる神を見いだし、神の救いを感じ、「神、我と共におられる」という信仰に至り、強い決心を持って洗礼を受ける、そういった方々が多いのではないでしょうか。
私も、これまで牧師として歩む中で、数えたことはありませんが、多くの方が洗礼を受けられる幸いが与えられ、その司式をする幸いを得てまいりました。
その中の二人の方は、決心をされて神学校に入り、既に卒業されて牧師として歩まれておりますし、大変熱心な思いを持って礼拝生活を送っておられる方が大勢おられます。

 私たちが礼拝を重んじ、神に祈り、教会生活を歩むのはなぜなのか、読みましたローマの信徒への手紙8章10節にこうあります。「キリストがあなたがたの内におられるのならば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています。」
 ここでいうキリストとは、復活された主イエスです。なぜ、主イエスは十字架にかけられなければならなかったのか、それは私たちの罪の故です。私たちの罪の全てを背負って下さって主は十字架に死なれました。
借金だらけの私たちの人生を、借金だらけで、もはや自力では返すことが出来ない程の私たちの罪を、ただ一人、借金の無い方である主イエスが、御自分の体でもって罪を引き受け、あなたはもはや借金無しとして下さった。それが主の十字架の意味でしょう。

 でも、それで終わるのではなく、三日後に復活された主イエスは、私たちと共におられるために、霊、聖霊の力となって、私たちの命となって下さった。だから私たちも、主と共に、過去の自分に生きていくのではなく、すっかり新しくされて、神の命を生きることが出来ると信じ、信仰を得て洗礼を受けた。そうではないですか。そうであろうと思います。

 詩編66編を読みました。この詩編は久しぶりにダビデの詩ではありません。詠み人知らずの詩でありますけれど、内容からすれば、エルサレム神殿において主なる神を讃えて歌った讃美歌であろうと言われています。今日は9節まで読みましたが、4節までは主なる神を讃える言葉、5節から9節は、より具体的な神の働きを記しています。
 6節に「神は海を変えて乾いた地とされた。人は大河であったところを歩いて渡った。」とあります。この御言葉ですぐに思いますのは、出エジプト記に記される、奴隷であったイスラエルの民がエジプトから脱出した場面でありましょう。
 出エジプトの指導者はモーセです。モーセが引き連れてエジプトを出ることが出来た。しかし神の過越しによって恐れをなし、それを許したエジプトのファラオは、すぐに奴隷がいなくなることに後悔して、連れ戻そうとして自ら軍勢を率いて追いかけました。イスラエルの民は、前に海、後ろにエジプト軍という絶体絶命の場面で、神は海を分けて、道を作り、渡らせ、命を守りました。その後もイスラエルは何度も危機を迎えることになります。食べ物がないと叫べば、天からマナを降らせたり、うずらの群れがやって来たり。飲む水が無いと願えば岩から水がほとばしったこともありました。
 イスラエルの民は、エジプトの奴隷の時は、生きていても死んだようなものだったでしょう。けれど荒野に出た後も、まさに生きているとは言い難い試練があったと思います。その厳しい自然環境を経験しては、泣き言を連ね、神に訴え、時には神に背くことさえしました。でも、主なる神は、そのようなイスラエルに対して、恨むでもなく、詰るでもなく、じっと耐え続け、イスラエルを愛し、本来なら死ぬはずの体の全てを支え、守り、神を信じる信仰共同体として育て、祝福を与え続けました。
 
 そのことを思い、詩編の作者は心を込めて「神は我らの魂に命を得させて下さる。我らの足がよろめくのを許されない。」と綴ったと思います。
 
 時として、人としての私たちの足はよろめきます。旧約聖書は、イスラエルの民の、そのよろめきの姿を現しているとも言えるでしょう。
 主イエスは、そのよろめきを「ブドウ園のたとえ」でもって例えられました。一人の主人がぶどうを作って旅に出た。収穫の時になったので、収穫を納めさせるために、僕を農夫たちの所へ送った。ところが農夫たちはこの僕を袋叩きにして、何も持たせないで追い返した。別の僕を送ったら、農夫はこの僕をも袋叩きにして追い返した。三人目の僕には、傷を負わせてほうり出した。そこで農夫は困り果てて、自分の愛する息子ならと送った所、農夫たちは相談して、「これは跡取りだから、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」
 
 ブドウ園を作った主は神、農夫はイスラエル、僕は神の預言者、息子は主イエスの姿です。この「たとえ」を聞いていた律法学者や祭司長たちは、自分達への当てつけだと気がついて、捕らえようとしたけれど、民衆を恐れたとあります。
 律法学者や祭司長の姿を見て、笑ってはいられません。私たちもいつの間にか、気がつかない内に、私たちの一歩、一歩が右に左に大きくよろめいているかもしれません。
 
 けれど、改めて思うことは、主なる神がどれほど忍耐をして、私たちと共におられようとしたかであります。主イエスは神から送られてきた息子として、命をかけて、私たちに神の愛を示して下さいました。
 その愛によって、十字架の死から復活した主イエスが、私たちのうちにおられる。私たちもまた、死ぬはずの体をまとってこの世を生きています。この世を生きていると、時にはつまずき、時にはつるりと滑り、時にはよろめきの一歩一歩でありましょう。
 
 病気なることもあり、どんなに気を付けていても、病気が感染してしまうかもしれません。それでも尚、私たちはこの死ぬはずの体の中に、永遠に死なない神の復活の霊をうちに持って、死を恐れて生きる以上に、今日という日を喜び、前向き、肯定的に、復活の命を歩み続けていけるのではないでしょうか。
 心も体も自分のものでありながら、神のものとして、感謝して過ごしましょう。 お祈りしましょう。
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過ぎ行かれる跡には

2020-07-07 09:45:17 | 礼拝説教
【詩編65編1~14節】
【ルカによる福音書7章36~50節】

 教会総会が無事終わりまして、先週の礼拝後に、新しく選出された役員と共に役員会を開催しました。いよいよ新しい年度の歩みが本格的に始まったと言えるでしょう。力強く歩んで参りたいと願ってはいますが、今年度は新型コロナウィルスの影響により、行事を立てることも難しいかもしれません。
 役員会においても、引き続き7月、また8月は、このまま短縮された礼拝の形で過ごして行きましょうとなりました。
 今、私が思っておりますことの一つは、せめて、クリスマス礼拝には、安心して大勢の方々と共に、この会堂に集い、大きな声で賛美し主に感謝できる。その位の思いをもって、この年度は過ごさなければならないのではないかと思います。これまでと同様に、これからも引き続き、忍耐をもって過ごす期間であろうかと思いますが、また、このような時期は静かに、御言葉を聞き続ける時として過ごしていければと思います。

 言うまでもなく、礼拝は神の御言葉を聞く時であります。礼拝は牧師が一人で話している時間ではありません。礼拝の中心はどこにあるのかと言えば、一つ明らかなのは、聖書の御言葉が読まれるところにあると言われます。
私が神学生の時に教わった中の一つに、礼拝の司式者は、心を込めて、また読み間違えることなく聖書を読むことが大切と教わりました。読まれる御言葉を会衆が耳を澄まして聞いている。だから、大事に、大切に読んでいきなさいと教わりました。

 また礼拝は、主なる神こそが、私たちの思いを聞いておられる時とも言えるかもしれません。
 
 今日は、詩編の65編を読みました。この詩編は、古来、第七の月の十日に行われていた大贖罪日と呼ばれる特別な日の礼拝で読まれた詩編ではないかと考えられています。
 その日、人々は雄牛、雄山羊、羊等を献げ、また、断食をして、自らの罪の悔い改めの為に集いエルサレムの神殿で礼拝を献げ、心から祈り、主に罪の赦しを願ったと言われます。今日は7月5日、七月最初の主日礼拝ですから、丁度、この礼拝で詩編65編が読まれるに相応しい礼拝であったと思います。

 詩編2節からを読みますとこうあります。「沈黙してあなたに向かい、賛美を捧げます。シオンにいます神よ。あなたに満願の献げ物をささげます。祈りを聞いてくださる神よ、すべて肉なるものはあなたのもとに来ます。罪の数々がわたしを圧倒します。背いた私たちをあなたは贖ってくださいます。」とあります。礼拝において主なる神が私たちの罪を贖って下さる、どのようにしてか、献げ物によってとも言えますが、3節に「祈りを聞いてくださる神よ」とあるように、私たちの思いを主はしっかりと聞いてくださる方だということでしょう。私たちが主の御言葉を、心を込めて聞く以上に、もっと深く主なる神が私たちの思いを聞き取って下さる。

 ただ聞くだけではなく、そこにおいて罪を赦し、贖って下さって下さる、贖いとは買い戻して下さるということです。大贖罪日には多くの犠牲の献げ物を献げることによって、罪が赦されたと言われたように、しかし、新約聖書となり、主イエス・キリストは神の子の身分でありながら、己を低くされて、自らが犠牲の献げ物となられて、私たちの罪をすっかり洗い清められた。ここに神の確かな福音が告げられたと言っても良いでしょう。
 
 主なる神は、私たちの思いを聞いてくださいます。どのようにしてか、豆腐を水からそっと、掬いあげるようにして私たちの心をそっと、しっかりと包み込み、崩れないように、そして、全てを聞き取って下さるのです。
 
 世の中においても、人の世を生きていくには、人の話を聞くことが大切だと言われますし、そう教わります。けれど、時として私たちは間違えてしまう時があります。なるほど、聞くことが大切だと教わった人が、早速自分の子どもが帰ってきたので、こう聞いたそうです。「今日は学校で何があった」「それからどうした」「そんなことしちゃダメじゃない。どうしてそうしたの」これは、確かに聞いてはいますが、尋問しているようなもので、水の中の豆腐が、掬う前にもう潰れてしまうようなものです。
 そうではなく、聞くとは、聞く相手の思いをそのまま受け止め、相手の立場を理解し、あるいは語っていない、けれど、心で語っている言葉を聞き取れる心、これは中々大変で、人は完全には出来ないものでありましょう。けれど、主なる神、主イエス・キリストはそのようにして、人々を神の掬いへと導いてくださいました。

 先ほど、ルカによる福音書から「罪深い女を赦す」という箇所を読みました。主がファリサイ派のシモンの家で食事をしていた時、町一番の罪深いと目された女性が入って来ました。手には香油の入った石膏の壺を抱えていました。女性は主イエスの足元に近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗ったというのです。
 その様子に、シモンは恐らく、あからさまに嫌な顔をしたことでしょう。けれど主はそのようなシモンに対して金貸しの譬を話しながら告げました。「あなたは足を洗う水もくれなかったのが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油をぬってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。」
 そして最後に女性に対して「あなたの罪は赦された」と告げるのです。同席の人たちは「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考えたとありますが、「罪まで赦される方」として、主イエスの姿が良く現されている出来事であろうと思います。
 なぜ「あなたの罪は赦された」と言えるのか、主が女性の心の隅々までをもご存知で、なぜ町一番の罪深いと言われていたのか、女性がどんな思いをもって過ごしていたのか、なぜ、主の元にやって来て、涙でもって主の足をぬぐったのか、その全てを理解し、全てを受け入れて下さったからでしょう。だから主は赦しの宣言をされたのでしょう。女性は一言も語っていないとしても、主はしっかりと聞いてくださったのだと思います。
 このようにして、罪の赦しは、咎めることでもなければ、償いを求めるものでもなく、世の中の常識に添ったものでもないと思います。けれど、そのようにして罪赦された者にとって、何にも勝る神の福音ではないでしょうか。

 皆さん、今日の説教題を「過ぎ行かれる跡には」と致しました。詩編65編12節の御言葉から取りました。「あなたは豊作の年を冠として地に授けられます。あなたの過ぎ行かれる跡には油が滴っています。」
 あなたの過ぎ行かれる跡、わたしはこの御言葉に惹かれました。あなたとは、主イエスと読みかえても許されると思います。主イエスが過ぎ去った跡には、いつも油が滴っている。豊作を意味する豊かなオリーブの油で溢れているというのです。
 主の足をぬぐった女性も、主イエスが去った後にはどんなに晴れ晴れとした思いを持って歩みだしたことでしょうか。

 この2020年度という年、新型コロナウィルスによって強い影響を受けて、私たちの人生も、私たちの教会も、思うような歩みを歩めないかもしれません。けれど、どのような状況にあっても、必ず主は、私たちの思いを聞きとり、私たちの思いを受け入れ、そして、私の歩んだ足跡にそって生きていきなさいと言われているように思います。
 主の思いに添って、神の教会はこれからも罪の赦しと、確かな祝福を告げ知らせて参りたいと願います。私たち一人一人の人生が主の御心に適い、主が備えて下さる油によって潤され、豊かに滴っているようにと切に願いながら、主に従って歩んで参りましょう。
 
 お祈りします。



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