【詩編68編18~19節】
【エフェソの信徒への手紙4章7~16節】
2月、3月から流行り始めた新型コロナウィルスの拡大が、一時収まりかけましたように思いましたが、今、また拡大の方向に向かっています。私も改めてここ2週間程は、出来るだけどこにも出ないようにと過ごしております。教会の行事の多くもストップしていますが、唯一週の真ん中の水曜日の午前の祈祷会だけは、なんとか継続しております。
これからもなんとか続けていければと願います。その祈祷会では、今、旧約聖書の創世記を読んでいますけれど、そこに登場するヤコブの生き様について学んでおります。
旧約聖書では、主なる神を「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と表現されることがあります。信仰の父と呼ばれるアブラハム、その息子のイサク、更にその息子のヤコブ、アブラハムの孫となるヤコブですが、ヤコブは双子の兄弟エサウがいました。双子でも、長男がエサウ、次男がヤコブでありました。
この二人の間に、長男の権利について争いが起こりました。長男は、父親の財産を、権利として引き継ぐことが出来る。その権利が欲しくてたまらないヤコブは、母親のリベカと結託して、目が見えづらくなっていた父のイサクをだまし、エサウのいない時に、長男に与えられる祝福を頂いて、長男の権利を受け取りとるわけです。この時、ヤコブは上手くいったと思ったことでしょう。
けれど、してやられた側のエサウは激怒しまして、年寄りのお父さんが死んだ後には、ヤコブを殺してしまうと考えたというのです。それを知ったヤコブは恐ろしくなり、結局一人寂しく家を出ることになります。夜となり、野宿を強いられ、石を枕に寝ていたところに、主なる神が現れてこう告げます。
「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、父イサクの神、主である。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこに行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまでは決して見捨てない。」
絶望しかけたヤコブにとって、この御言葉はどんなに励みとなったでしょう。神の御言葉に力を得てヤコブは、更に旅を続け、妻となるラケルと出会います。けれど、また試練が与えられて、ラケルと結婚する為には14年のただ働きを強いられたり、一生懸命に働いて、財産も増え、子どもも誕生し充実した歩みを続けながらも、数々の困難も与えられたり、波乱万丈の人生を歩むことになります。特にヤコブにとって最大の試練は、家を出てから20年後、ついに兄のエサウと再会する場面でありました。
明日エサウ兄さんに会うという場面では、恐ろしくて夜も寝られない中でオロオロしていました。そこに主なる神が現れて、一晩かけてヤコブと格闘します。相撲を取ったと記される聖書もあるようです。
ヤコブはこの方にこそ、祝福をいただこうと必死に闘い、ついに神のほうが負けそうになって、あなたはもはやヤコブではない、イスラエルであると祝福を与えて下さった。神と相撲を取ったのは、聖書の中で唯一、ヤコブだけでありましょう。
ヤコブは、祝福を得て、力を得て、エサウと合い、和解することになるわけです。
ヤコブの話はまだまだ続きますが、ヤコブに限ることではなく、私たち一人一人の人生といいますか、歩みにしても実に多様ではないでしょうか。先週は幼稚園で、卒業していった子ども達の同窓会がありました。小学校、中学校、高校の新一年生が集まって下さいました。今年高校に入った子どもたちは、私がこの教会に来たときの、年長さんでした。その子どもたちがいつのかにか、高校生となっている。その間、わずかな時間というべきではないでしょう。でも、思い起こせばあっという間の10年であったと思います。
その間、東日本大震災をはじめとする様々な自然災害が起こりました。そのような影響を受けてということもあり、私たちの教会は願っていた会堂建設を行いました。
今、前の会堂を知らない方も大勢おられますが、冬の寒い日に、石油ストーブをいくら炊いても、足元が寒いと言われたことを覚えています。礼拝の間、足が寒いと訴えられる、説教だけでは暖めることは出来ませんでした。(笑)
懐かしい会堂です。
あの会堂で信仰が養われた方も少なくないと思います。何人もの方が、信仰を養い、決心し洗礼を受けられ、教会で結婚式をされたご夫妻もおられます。実に様々な人生のドラマが展開されたであろうと思います。
幸せという言葉は英語でいえばハッピーです。ハッピーと言う言葉と、同じ語源をもつ言葉で、ハプンと言う言葉があります。「起こる、生じる」という意味ですが、このハプンからハプニングと言う言葉が作られます。ハプニングとは思わぬ出来事です。思ってもみなかった出来事、しかし、それが良い出来事であったなら、どうでしょうか。ハッピーになるのです。幸せだなと感じることでしょう。
教会というところは、どういう所ですか?と聞かれるとしたら、幸いを受けるところです。と答えることが出来るでしょう。教会は、結婚した時も、子どもが誕生した時も、子どもが進学や就職した時も、結婚し、孫が生まれた時も、天に召される時も、嬉しい時は、共に喜び、悲しくて涙する時は、大いに慰めを得て、幸いを受けて、その一人一人の人生と共に歩むところだと言えるでしょう。一人ひとりの人生と共に歩むために、教会は、組織が作られます。
エフェソの信徒への手紙を読みましたが、そこにあるように、「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされて」とあります。その人、その人に相応しい役割が与えられるという意味でしょう。
今年度も私たちの教会では新しい役員が選出されましたし、子どもの教会の担当者や、奏楽者のみならず、それぞれに与えられている役割があります。昨日の朝、壮年会の方々が会堂掃除に来られましたが、掃除をする役割を担って下さる、それもまた教会の大切な役割です。一人ひとりが、教会という体全体を補い合うことによって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、それぞれに応じて働いて体を成長させる、教会が教会として存続するためには本当に必要な事柄でありましょう。
でも、尚、それだけでは足りません。組織が教会を作り上げているわけではありません。読んだエフェソ書には「キリストの体」とあります。「頭であるキリスト」ともあります。「キリストにより」ともあります。
私たちはイエス・キリストという方を信じる信仰共同体です。最初にヤコブの話を致しました。ヤコブは人生の困難に至った時、最も困難だと感じる時、いつも一人になりました。家族とも離れ、財産からも離れ、この世の頼りになると思われるものから離れてしまいます。しかし、そこで思わぬ形でいつも主なる神との出会いが与えられます。石を枕として寝た時も、兄のエサウと会う前の夜も、一人になった時に、そこに主なる神が現れて下さいました。
そこで、誰でもない、この自分と向き合い、一晩中でも格闘し続けて下さるほどの愛を持って、神はヤコブと共にいようとして下さる。ヤコブはこの方によって力与えられ、励まされて、様々な困難を克服し、そして信仰を培いました。
ヤコブが与えられた信仰は、そのようにしてハッピーな時も、ハプニングに襲われている時も、その出来事、出来事を通して尚、主なる神が、いつも共におられる、そういう幸いが与えられているという確信であったと思います。
主なる神は、そのような愛の姿として、主イエスを私たちのこの世に遣わしてくださいました。改めて「教会というところは、どういうところですか」と問われるとした、神の愛に包まれるところですと答えることが出来るでしょう。
私たちは、いつの間にか、人が思うところの教会に生きてしまっているところがあるかもしれません。信仰とは何か、教会とは何か、とつい議論してしまう私たちがいるかもしれません。そうしなければ信仰にたどり着けないと思っている私たちがいるかもしれません。
けれど、主なる神は、神のままでおられることを良しとされず、主イエス・キリストを私たちのこの場に送って下さり、神の愛を示して下さいました。私たちはその愛の中にこそ生きていく道を見いだし、愛が教会を生み出したことを忘れずに、そこに連なることが許されている幸いに感謝しながら、今週一週間も過ごして参りましょう。
お祈りいたします。
【エフェソの信徒への手紙4章7~16節】
2月、3月から流行り始めた新型コロナウィルスの拡大が、一時収まりかけましたように思いましたが、今、また拡大の方向に向かっています。私も改めてここ2週間程は、出来るだけどこにも出ないようにと過ごしております。教会の行事の多くもストップしていますが、唯一週の真ん中の水曜日の午前の祈祷会だけは、なんとか継続しております。
これからもなんとか続けていければと願います。その祈祷会では、今、旧約聖書の創世記を読んでいますけれど、そこに登場するヤコブの生き様について学んでおります。
旧約聖書では、主なる神を「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と表現されることがあります。信仰の父と呼ばれるアブラハム、その息子のイサク、更にその息子のヤコブ、アブラハムの孫となるヤコブですが、ヤコブは双子の兄弟エサウがいました。双子でも、長男がエサウ、次男がヤコブでありました。
この二人の間に、長男の権利について争いが起こりました。長男は、父親の財産を、権利として引き継ぐことが出来る。その権利が欲しくてたまらないヤコブは、母親のリベカと結託して、目が見えづらくなっていた父のイサクをだまし、エサウのいない時に、長男に与えられる祝福を頂いて、長男の権利を受け取りとるわけです。この時、ヤコブは上手くいったと思ったことでしょう。
けれど、してやられた側のエサウは激怒しまして、年寄りのお父さんが死んだ後には、ヤコブを殺してしまうと考えたというのです。それを知ったヤコブは恐ろしくなり、結局一人寂しく家を出ることになります。夜となり、野宿を強いられ、石を枕に寝ていたところに、主なる神が現れてこう告げます。
「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、父イサクの神、主である。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこに行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまでは決して見捨てない。」
絶望しかけたヤコブにとって、この御言葉はどんなに励みとなったでしょう。神の御言葉に力を得てヤコブは、更に旅を続け、妻となるラケルと出会います。けれど、また試練が与えられて、ラケルと結婚する為には14年のただ働きを強いられたり、一生懸命に働いて、財産も増え、子どもも誕生し充実した歩みを続けながらも、数々の困難も与えられたり、波乱万丈の人生を歩むことになります。特にヤコブにとって最大の試練は、家を出てから20年後、ついに兄のエサウと再会する場面でありました。
明日エサウ兄さんに会うという場面では、恐ろしくて夜も寝られない中でオロオロしていました。そこに主なる神が現れて、一晩かけてヤコブと格闘します。相撲を取ったと記される聖書もあるようです。
ヤコブはこの方にこそ、祝福をいただこうと必死に闘い、ついに神のほうが負けそうになって、あなたはもはやヤコブではない、イスラエルであると祝福を与えて下さった。神と相撲を取ったのは、聖書の中で唯一、ヤコブだけでありましょう。
ヤコブは、祝福を得て、力を得て、エサウと合い、和解することになるわけです。
ヤコブの話はまだまだ続きますが、ヤコブに限ることではなく、私たち一人一人の人生といいますか、歩みにしても実に多様ではないでしょうか。先週は幼稚園で、卒業していった子ども達の同窓会がありました。小学校、中学校、高校の新一年生が集まって下さいました。今年高校に入った子どもたちは、私がこの教会に来たときの、年長さんでした。その子どもたちがいつのかにか、高校生となっている。その間、わずかな時間というべきではないでしょう。でも、思い起こせばあっという間の10年であったと思います。
その間、東日本大震災をはじめとする様々な自然災害が起こりました。そのような影響を受けてということもあり、私たちの教会は願っていた会堂建設を行いました。
今、前の会堂を知らない方も大勢おられますが、冬の寒い日に、石油ストーブをいくら炊いても、足元が寒いと言われたことを覚えています。礼拝の間、足が寒いと訴えられる、説教だけでは暖めることは出来ませんでした。(笑)
懐かしい会堂です。
あの会堂で信仰が養われた方も少なくないと思います。何人もの方が、信仰を養い、決心し洗礼を受けられ、教会で結婚式をされたご夫妻もおられます。実に様々な人生のドラマが展開されたであろうと思います。
幸せという言葉は英語でいえばハッピーです。ハッピーと言う言葉と、同じ語源をもつ言葉で、ハプンと言う言葉があります。「起こる、生じる」という意味ですが、このハプンからハプニングと言う言葉が作られます。ハプニングとは思わぬ出来事です。思ってもみなかった出来事、しかし、それが良い出来事であったなら、どうでしょうか。ハッピーになるのです。幸せだなと感じることでしょう。
教会というところは、どういう所ですか?と聞かれるとしたら、幸いを受けるところです。と答えることが出来るでしょう。教会は、結婚した時も、子どもが誕生した時も、子どもが進学や就職した時も、結婚し、孫が生まれた時も、天に召される時も、嬉しい時は、共に喜び、悲しくて涙する時は、大いに慰めを得て、幸いを受けて、その一人一人の人生と共に歩むところだと言えるでしょう。一人ひとりの人生と共に歩むために、教会は、組織が作られます。
エフェソの信徒への手紙を読みましたが、そこにあるように、「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされて」とあります。その人、その人に相応しい役割が与えられるという意味でしょう。
今年度も私たちの教会では新しい役員が選出されましたし、子どもの教会の担当者や、奏楽者のみならず、それぞれに与えられている役割があります。昨日の朝、壮年会の方々が会堂掃除に来られましたが、掃除をする役割を担って下さる、それもまた教会の大切な役割です。一人ひとりが、教会という体全体を補い合うことによって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、それぞれに応じて働いて体を成長させる、教会が教会として存続するためには本当に必要な事柄でありましょう。
でも、尚、それだけでは足りません。組織が教会を作り上げているわけではありません。読んだエフェソ書には「キリストの体」とあります。「頭であるキリスト」ともあります。「キリストにより」ともあります。
私たちはイエス・キリストという方を信じる信仰共同体です。最初にヤコブの話を致しました。ヤコブは人生の困難に至った時、最も困難だと感じる時、いつも一人になりました。家族とも離れ、財産からも離れ、この世の頼りになると思われるものから離れてしまいます。しかし、そこで思わぬ形でいつも主なる神との出会いが与えられます。石を枕として寝た時も、兄のエサウと会う前の夜も、一人になった時に、そこに主なる神が現れて下さいました。
そこで、誰でもない、この自分と向き合い、一晩中でも格闘し続けて下さるほどの愛を持って、神はヤコブと共にいようとして下さる。ヤコブはこの方によって力与えられ、励まされて、様々な困難を克服し、そして信仰を培いました。
ヤコブが与えられた信仰は、そのようにしてハッピーな時も、ハプニングに襲われている時も、その出来事、出来事を通して尚、主なる神が、いつも共におられる、そういう幸いが与えられているという確信であったと思います。
主なる神は、そのような愛の姿として、主イエスを私たちのこの世に遣わしてくださいました。改めて「教会というところは、どういうところですか」と問われるとした、神の愛に包まれるところですと答えることが出来るでしょう。
私たちは、いつの間にか、人が思うところの教会に生きてしまっているところがあるかもしれません。信仰とは何か、教会とは何か、とつい議論してしまう私たちがいるかもしれません。そうしなければ信仰にたどり着けないと思っている私たちがいるかもしれません。
けれど、主なる神は、神のままでおられることを良しとされず、主イエス・キリストを私たちのこの場に送って下さり、神の愛を示して下さいました。私たちはその愛の中にこそ生きていく道を見いだし、愛が教会を生み出したことを忘れずに、そこに連なることが許されている幸いに感謝しながら、今週一週間も過ごして参りましょう。
お祈りいたします。