日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

神のもおは神に返しなさい

2020-06-28 17:15:45 | 礼拝説教
【詩編64編1~11節】 
【ルカによる福音書20章20~26節】

 私たちの教会の、教会員であるUさんが新しく本を出されまして、先日、私の手元にも一冊頂戴致しました。Uさんは長年に亘り、多くの会社の経営コンサルタントとして、これまで2,000社以上の会社に関わりを持たれて来られたと聞いています。今も、現役で活躍されていますが、最近は腰痛とか、持病の病に悩まされて少し大変になって来られたとも伺っています。覚えてお祈り下さいますようお願いします。
 しかし、そんな中で出版されたと伺いました。「最高のリーダーは自ら動く」というタイトルでありまして、勿論、会社経営についての本ですが、タイトルを見まして、そうか、最高のリーダーは自ら動くのか、自分はどうだろうかと振り返ったり、このタイトルからすると、イエス様のことを言っているのかなとか、色々と思い巡らしたりしながら、読んでおります。
 読んでわりとすぐの所に、昔の中国、楚の国の荘王と、ある賢人が問答する話がありました。荘王は「国を守る方法を学びたい」と一人の賢人に何度も問います。
 賢人は、当初、私は国を治める方法など分からないと答えますが、しつこく問われたので、こう答えたそうです。
 「君主の身が治まって、国が乱れたという話は聞いたことがありません。また、君主の身が乱れて、国が治まったという話を聞いたことがありません。」
 つまり、上に立つ者が、身辺清浄であり正しい行いを行っていれば、おのずと国は保たれ、そうでないとすれば、国は乱れていくもの、という事でありましょう。当たり前と思えることを当たり前に行うことが大切という意味なのかもしれません。

 振り返ってみまして、今、私たちの国のリーダーはどうでしょうか。パソコンで毎日ニュースを見ますけれど、毎日のように、元法務大臣の夫婦が、選挙で多くの人々を買収をして、逮捕されたニュースが流れます。その買収の基となったお金の出どころは、もしかしたら総理官邸ではないのかなどと言われています。ここの所、国の責任を負う者としての総理の行いはどうのか、と問われるニュースが後を絶ちません。いつの間にか大きな権力のもとで、身が乱れてきているのではないか。新型コロナウィスルの心配も未だに解消されず、不安な日々を過ごしている私たちですが、こういう時にこそ、君主の身が治まり、国も治まって欲しいという願いは、誰もが心に持っていることではないでしょうか。

 今日は、ルカによる福音書の20章、主イエスが「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われた箇所を読みました。
 これまで、何度か話しましたが、私は尊敬する信仰の先輩から教わったことの一つに「権力とお金には気を付けなさい」という言葉があります。
人は、謙遜に生きているとしても、あるいは世の為、人の為と思いながら生きるとしても、いつの間にか自分の身に「権力」、「お金」が回るようになると考え方も変わり、自分の身が乱れダメになっていく、「権力」と「お金」は、人を成長させる力でありながら、一方では人を貶めていく力もある、だから気を付けるように、よくよく言われました。私自身忘れられない教えです。

 主イエスの元にやって来た人々がいました。彼らは神殿の祭司長や律法学者たちから遣わされてやって来ました。しかも正しい人を装いながら、主イエスの言葉じりをとらえて、主イエスをローマの総督の支配と権力に渡そうとする計画を持ってやって来ました。外国語の聖書ですと彼らはスパイであったとあります。
 ですから用意周到に主イエスに尋ねます。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておれることを知っています。」こう話します。主を褒めているようにしか読めない言葉ですが、「真理に基づいて神の道を教えている」と私たちには分かっている。神の義については、私たちは良くわきまえて、理解している。その自分達の正しさによって判断すると、あなたは正しいと分かると言っているのです。自分はどこまでも上からの目線で、会話しているようです。
 そこで、改めて問うことがあって、「わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」この言葉でもって、罠を仕掛けた訳でありました。
皇帝は、ローマの皇帝です。神の民であるイスラエルの人々にとって、今置かれているローマ帝国の支配は、何といっても耐え難いものでありました。ですから、人々はこの状態を解放してくれるメシアを長い間、待ち望んでいました。多くの人々はそのメシア像を主イエスに重ねて見ていたと思います。

 けれど、スパイである彼らは、ローマに納める税金は律法に適っているのか、適っていないのか」と問いかけた。律法はユダヤ人にとって神様から与えられた法であり、特別な教えです。もし、主イエスが、税金は律法に適っていないから納めなくて良いと言えば、逆によし来たということで、ローマの権力のある所に行って、この男はこの世の秩序を乱す不届きものであると、告げることが出来ます。
し かし、逆に律法に適っていると言うとすれば、この男は神の義に背く、偽の指導者であるとユダヤの人々に告げることが出来ます。どちらを答えても、主イエスを陥れることが出来る、よく考えられた問いであったと思います。

 祭司長や律法学者たちは、なぜ、このように計画を立ててまで、主イエスを陥れようと思ったのかと言えば、何よりも自分達がこれまで培っていたイスラエルの指導者という立場、その権力を守るためでした。私たちはこの出来事を聖書箇所の一つとして、案外さらりと読んでしまうかもしれない、けれど、ここで繰り広げられる一言ひとことの会話は、主イエスを殺してしまうとする念入りに計画された言葉でもあります。

 自分達の権力を守るためには、神の子さえも殺してしまいたい、殺してもかまわない、そう思うところに、人間のどうしようもない罪があるのではないでしょうか。
先ほど、詩編64編を読みました。そこに記されている御言葉は、スパイとして送り込まれた彼らの心を告げているようにも思います。

 64編4節から読みますが「彼らは舌を鋭い剣とし 毒を含む言葉を矢としてつがえ
 隠れた所から無垢な人を射ようと構え 突然射かけて、恐れもしません。彼らは悪事にたけ、共謀して罠を仕掛け 「見抜かれることはない」と言います。巧妙に悪を謀り「我らの謀は巧妙で完全だ。人は胸に深慮を隠す」といいます。」
主イエスに対して仕掛けた人々の思い、そのままの姿ではないかと思います。

 その罪故に、後に主イエスは十字架に付けられることになるわけですが、今、この場面においては、主イエスは、この言葉のたくらみを見抜いて彼らに告げました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
皇帝のものとは、ここではデナリオン銀貨が一つの象徴です。この世の富と言っても良いでしょう。この世の働きによって得た富は、やはりこの世に返さなければならないと思います。私たちの生涯は限られ、頑張って生きても100年です。 その100年の間に、この世で得た富を死んで神の国に持って行くことは出来ません。全てはこの世に返していく、そんな生き方が求められているのだとも思います。

 しかし、更に「神のものは神に」と主は言われました。この御言葉も大切です。神のものとは何か、もともと、この話の始まりは、祭司長、律法学者たちが、神殿で自由に振舞っている主イエスを見て、腹を立てて、誰の権威によって、あなたは話をしているのかと問いただす所からが始まります。
 誰の権威かと問うているのは、自分達にはその権威があると思っているからでしょう。
 その自分達に断りなく、好き勝手させないという思いが、怒りとなり、怒りは増長されて、殺してしまえという今日のこの場面となっているわけです。
 けれど、主は、神のものは神にと告げられました。それは、もともと神のものであるところの権威を、あなた方は自分のものにして、神のものも自分のもの、人のものも自分のものとして、全てを自分の手もとにかき集めようとしているあなた方よ、権力者はローマ皇帝だけではない、あなた方もこの世の権力者として生きている。都合の悪いものは殺してしまえとさえ思う。
その思いは、ただ一人の権威者である主なる神を忘れ、主なる神に対して、畏れ敬い、頭を下げる思いがどこまであるのか、神のものは神に返すべきであるという主イエスの思いを込めた御言葉ではないでしょうか。

 私たちもまた、この世を生きています。この世を生きるとは、与えられた状況や、環境の中で、物事を考え判断しているということです。しかし、この世の価値観の中でばかり生きていると、いつの間にか私たちも神を忘れ、神に頭を下げることを忘れているかもしれません。しかし、そのような私たちでさえ、主は愛してくださることを忘れてはならないと思います。神の愛を忘れるところに、怒りは怒り、怒りは人の命さえ狙うようになる。この世のものはこの世に返し、神のものはしっかりと神に返す生き方を喜んで生きていきましょう。

 お祈りします。

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どこを見つめて生きるのか

2020-06-22 10:21:17 | 礼拝説教
【詩編63編1~12節】
【コリントの信徒への手紙一 10章1~10節 】

 ここの所、毎週新型コロナウィルスの話をしていますが、3月頃から、日本国内でも、急速に新型コロナウィルスが蔓延し始め一挙に緊張した状態となりました。
 
私たちの教会でも緊急事態宣言が出されてから、凡そ2ケ月の間、この場所で礼拝を守ることが出来ませんでした。今から75年前の第二次世界大戦の折には、戦禍の中でも、警察に睨まれながらも、礼拝を続けたという話を良く聞いていましたし、どんな状況でも礼拝を中止するなんてとんでもないという思いがありました。2月の末に神奈川教区総会が開催されましたが、普段の総会ですと、午後4時まで、ギリギリまで行うのですが、感染予防の観点から午前中で終了となりました。
 その際、帰りしなに 何人かの牧師に、これ以上感染が広がったら礼拝はどうしますかと尋ねてみましたら、その時は殆どの牧師が礼拝を中止するなんてあり得ない、という答えでした。ですから私も出来るだけ続けようと思って帰りました。
 でも、それからすぐ、3月に入りましてからは、礼拝を中止した教会もあると聞いていますし、私たちの教会も4月に入ってから、特に緊急事態宣言後には、この場に集う危険性を思うと、とても無理と判断して暫くこの会堂での礼拝を行わないとなりました。
 聞いた話ですが、隣の教会は、緊急事態宣言の中でも礼拝を行っていたようですし、日本キリスト教団の中でも地域差や教会の規模もありますが、近隣の教会でも礼拝を中断しなかった教会は幾つかあるようです。また、逆に今日の主日礼拝から再開という教会もあると聞いていますし、まだ再開に至っていないという教会もあるようです。
 
 単純に礼拝を止めた方が良いとか、止めない方が良いとかではなく、新型コロナウィルスに対する対応は、それぞれの教会が与えられた状況で、良く考えて行われているであろうことは確かで、また、こういう時期ならではの、教会が進歩した点もありました。
 一つは何といってもインターネットの活用です。幾つかの教会は、たとえ人が集まらなくても礼拝を献げられるように、ビデオ礼拝を始めたり、ユーチューブという動画で、ライブ映像を流したりしたようです。私たちの教会もなんとか行いました。社会的に見ても、通勤しないで自宅で仕事を行うとか、テレビ会議を行う、私も綾瀬ホームの礼拝は一時期ですが、牧師室からネットで行ったこともありました。コロナによって、こういった分野は大きく成長したのではないでしょうか。

 私が、今ここで申し上げたいと思っていることは、私たちに与えられている状況を、どう受け止めて、どう考え、どう行動するのか、そのことによって、私たちの人生と言いますか、生き様が大きく違ってくるのではないかという点であります。
 今日は詩編の63編を読みました。63編の表題には「ダビデがユダの荒れ野にいたとき。」とあります。これまで何度も申し上げて来ましたが、詩編50から60前後の詩編は、ダビデがサウル王の追っ手から逃げて、荒野をさまよい、時には洞穴に隠れ、時には敵であるペリシテの領地にまで入り、なんとかして命をつないでいた、そのような状況で読まれた詩とされています。
 63編の詩編も、状況としては同様だと思います。ダビデは追っ手を逃れるようにしてユダの荒野を彷徨っていました。2節には必死に主なる神を求める様子が記されます。「神よ、あなたは私の神。わたしはあなたを探し求め わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは、乾ききった大地のように衰え 水のない地のように渇き果てています。」荒野で、水を求めるようして、私は神を求める、切実な願い、必死の思いであったでしょう。
 
 けれど、続く4節には「あなたの慈しみは命にもまさる恵み。わたしの唇はあなたをほめたたえます。」と記され、この御言葉は、ダビデの神に対する、揺るぎのない信頼を表している御言葉だと思います。ダビデは、自分に与えられているところの問題に対してではなく、与えられている恵を見続け、主我と共にいますという信仰を生き、主を賛美し続けるのです。
 
 先週の礼拝で、私は少し愚痴のようにして、自分の母親の事を申し上げました。認知症の症状が大分進んで大変だと話しましたが、その後、原稿を教会のホームページに入れて誰でも読めるようにしておいたのですが、水曜日の昼頃でしたか、家におりました時に呼び鈴が鳴りまして、出ましたら幼稚園を卒業した子のお母さん、良く知っている方でしたが、手に一杯岩手の羊羹と梅酒を持って立っておられて、どうしましたと聞きましたら、私の説教を読んで、私の母親のことを思って持ってきたというのです。ビックリしました。説教を読んだのですか?思わず二度聞いてしまいました。(笑)
でも嬉しかったですね。一人でも読んで下さる方がおられると思うと、どんなに勇気が与えられることか、あまりに嬉しいので、それから、何か母親に対する当たりが柔らかくなって、優しく接するようになりました。(笑)

 与えられている状況をどう受け止めて、どう対応しようとするのか、それは人の心の中によると思います。

 今日は、新約聖書からは、コリントの信徒への手紙を読みました。そこに記されているのはモーセによって、エジプトを出たイスラエルの民がどうしたのかという内容です。彼らは皆、雲の下におり、海を通り抜け、洗礼を授けられとあります。
 古来、割れた海を通り抜けたことは、洗礼を授かったという考えた方があったようです。霊的な食べ物を食べ、これはマナという食べ物ことでしょう。霊的な飲み物、岩から水がほとばしり、人々の喉を潤したという出来事もありました。
けれど、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。なぜか、彼らは悪をむさぼったというのです。偶像を礼拝し、「座って飲み食いし、立って踊り狂った」とあります。モーセがシナイ山に登って、主なる神から十戒を受け取っている時に、山の麓で待っていた人々は、待ちきれずに金の子牛を造って、それを拝み、献げものを献げ、その後、それを取って飲み食いし、踊ったというのです。
 聖書は更に続いて、みだらな行いをした者、キリストを試みた者、不平不満をつぶやいた者の皆が、それによって滅びの道を歩んだと記されています。
 
 皆さん、荒野での場面は、状況としては先ほどのダビデに与えられた状況とよく似ていると思います。
 出エジプトの民も、主なる神とモーセの働きによってなんとかエジプトを脱出しました。雲の柱に導かれ、割れた海を通り抜け、やっと荒野に到着することが出来たのです。しかし到着した途端に、今度は食べ物が無い、飲み物がない、最後は目に見える神様が欲しい、神様の像が欲しいと訴え、不平、不満の嵐をぶつけるのです。
同じ状況であっても、一方は、主を讃え、主を賛美し、「主よ、あなたの慈しみは命にもまさる恵み」と主への信頼を表し、一方は不平不満の嵐を生きるのです。
 
 コリント書を記したのは、使徒パウロです。パウロがコリントの町を訪ねて、苦労に苦労を重ねて教会を立ち上げ、しかし、一年半の後にパウロはまた他の場所での福音伝道を目指しますが、その後の、パウロが去った後のコリントの教会は、随分と大変でした。色々な指導者がやって来ては、パウロと違う福音を告げたり、時にはパウロを非難したり、教会の中が混乱して、不満を言う者もいれば、派閥争いに走る者もいて、少しもまとまりませんでした。その様子を心配して、パウロは手紙を記し、主にある平和と平安、また、キリスト・イエスによってまとまるようにと心を込めて、必死に手紙を記したと言われます。

 振り返って考えると、私たちの教会も今、試練の時が与えられていると思います。例年であれば4月末には教会総会ですが、ずれにずれて本日の礼拝後教会総会となりました。しかも、お知らせしていますように書面総会という形といたしました。総会資料を読まれた方も多いと思いますが、今年度の教会の歩みの計画や、今年度の教会会計も、コロナ前の頃に作成したものを、ほとんどそのまま総会資料といたしました。
 大きく予定を変更する案も出ましたが、今年度は、恐らくこれからも不安定な状況が続き、社会状況を考えながら、歩み続けるしかありません。安定してスタート出来るのは早くても秋口位かもしれません。しかし、それすらも確定しているわけではありません。暫くはずっと不安的なままを覚悟しなければなりません。
 
でも皆さん、大切なことは、与えられている状況から、出エジプトの不平不満、つぶやきは幾らでも出て来ますが、そうではなく、ダビデのようにどんな時も主を讃え、主を賛美するその口が備えられ、祝福を頂けるようにと願い、祈り続けることだと思います。確かな光が必ず与えられると信じて、喜びを持って生き続けることだと思います。そのようにして生きる時、主の祝福は更に加えて与えられることであろうと思います。

 お祈りします。
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私は決して動揺しない

2020-06-14 14:03:54 | 礼拝説教
【詩編62編1~13節】
【ヨハネによる福音書14章1~14節】

 新型コロナウィルスの影響により、凡そ2か月の間、私たちの教会はこの場での礼拝を行えませんでしたが、過ぎる5月31日のペンテコステ礼拝から、恐る恐る、でも新たな思いを持って2020年度を歩みだしました。
6月も中旬なり少しずつでも日常生活を取り戻しているかのように感じます。

 先週の木曜日は、久しぶりに綾瀬ホームで朝の職員礼拝と、その後に続く利用者の皆さんと一緒に礼拝を守りました。梅雨に入る前の良い天気でした。
綾瀬ホームでは今、ルカによる福音書をずっと読みながら礼拝を守っています。

 先週はルカの18章35節以降に記される「エリコの近くで盲人をいやす」という箇所から礼拝を守りました。
 主イエスが、いよいよ決意されて御自分の十字架を見つめつつ、エルサレムに向かっている途中、エリコの町の近くを通られたところに、一人の盲人が物乞いをして座っていました。
 主イエスの一行はエルサレムに到着した際、エルサレムの人々は棕櫚の葉をかざして大いに喜んで、ホサナと叫び 英雄のようにして迎え入れた訳ですが、エルサレムに向かっている一行の周りには、人も大勢いて賑やかだったと思います。
ですから、盲人の前でも騒がしい音がする。その音を聞きつけて、何事かと思って聞いてみると、「ナザレのイエスのお通りだ」と答えが返って来たわけです。この方なら自分の目を見えるようにしてくれるのではないか、盲人は必死に叫びました「ダビデの子、イエスよ、わたしを憐れんで下さい」何度も叫び続けました。
その声を聞いた主は盲人の側によって来て、「何をして欲しいのか」と聞くと、彼は「主よ、目が見えるようになりたいのです」と答え、主は「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と言われ、彼は見えるようになり盲人ではなくなったという出来事であります。
 私は、この話を読みながら、改めて思わされたことがありました。それは人の正しさ、あるいは正義はどこにあるのかということです。

 先日、アメリカのミネアポリスという町で、フロイドさんという黒人男性が白人警官に膝で圧迫死させられたという出来事が起こりました。このことが大きく報道され、また、コロナウィルスによって亡くなった方の割合が、白人より、多くのアジア系民族、アフリカ系アメリカ人と言われる社会的、経済的に弱いと認識される人々のほうがずっと多かったと言われていますが、そのような緊張感とストレスの中で過ごしていた人々の怒りが爆発したのでしょう。
アメリカのみならず、多くの西欧の国において、社会的民族差別に対する講義デモ、集会、時には暴動にさえなりました。
私たちの国ではそのようなことは、少なくとも表面上は起こりませんが、どれほど人の、人に対する差別意識が根強いのか、改めて思わされる思いがしたわけでありました。

 話はコロコロ変わりますが、私の母親が、私の家に来まして7~8年になりますが、この所、認知症の症状が進んで来ていることはあきらかです。ここ2か月あまり、家族全員が家に居続けるといった状況は、母親にとってはより良くなかったのかもと思いますが、自分が何処にいるか、今、何歳なのか、時間的、空間的な認識が随分と弱くなりました。毎日のように家に帰ると言うようになりました。家ってどこって聞くと、自分の生まれた家に帰るというのです。ここには長くお世話になったから、家族の所に帰るというのです。すぐそこだから、荷物をまとめて帰るから、猫も抱っこして帰るから、と言ってきます。一日何回もそう言って来るわけで、これは中々大変で、母親に言われれば言われるほど、こっちがイライラしてくるのがよく分かります。
 一度、ゆっくり落ち着いて状況を説明するとしても、その時はそれなりに納得する時もありますが、一時間後には元に戻るわけで、母親が悪いのではなく、病気がそうさせているだけだと思っても、つい大きな声が出たりもする。

 何を話しているのかというと、アメリカの黒人差別問題に対しては、自分としてはどんなに立派なことも言えるなと思います。人が人を差別するなんて、とんでもない、主イエスは、どんな人に対しても愛の眼差しを向けられたわけだし、私たちに対する神の愛をしっかりと受け止めて、少なくとも私たちはそういった差別意識無く、過ごして行きましょう。と言えると思いますが、一方においては、自分の母親に対して、つい邪見に扱う自分の姿を思うと、一体、人が思っているところの正義とは何か、人が思う正しさはどこにあるのか、自分で自分が悲しくなってしまう程だと思うのです。

 そこで、改めて思わされたのは、道端に座っていた物乞いの盲人に対してさえ、主イエスは愛の眼差しを向けられました。だから私たちも主に倣い、そのような思いを持って人に接していきましょうという読み方もあるでしょうが、むしろ、自分は、道端に座っている盲人と幾らも変わることなく、ただ主イエスに対して「わたしを憐れんで下さい」と願い続ける者ではないのか、つい、自分には分かっている、自分には見えていると思っている事柄の一つ一つは、少しも見えていないし、分かっていないのではないのか、改めて思わされる思いがしているわけであります。

 今日の説教題を「私は決して動揺しない」といたしました。読みました詩編62編2節からを読みますとこうあります。「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない」
 私たちは、日常生活の中で起こる出来事の一つ一つに、動揺しないようにと切に願いながら、実際は毎日のように何らかの出来事というより、それぞれが抱える様々な重荷によって動揺し続けているのではないでしょうか。
それらの出来事に対して、いつの間にか自力でなんとしかよう、なんとかしよう、もがきながら、しかしなんともならずに落胆しているような者ではないでしょうか。

 主イエスは、山上の説教の最後にこう言われました。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても倒れなかった。岩を土台としていたからである。」
 必要なことは、主の御言葉を、信仰をもって、祈りをもって聞き続け、神の御言葉を土台とすることだと教えて下さいました。主イエスは、何度も何度も弟子たちに動揺しないようにと話されていたに違いません。
読みました、ヨハネによる福音書14章でも、主イエスは、いよいよ御自分が捕らえられ、十字架に付けられる時が近づいていることを理解されて、だから一生懸命に弟子たちに教え続け、話し続けられました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」
 なぜ、そう言われたのか、神を信じきれず、主イエスを信じ切れていない弟子たちがいたからです。弟子たちは主の言葉を聞いて、主がどこかに行かれるのかと思って、慌てて聞き返します。トマスは「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちにはわかりません」と伝えました。フィリポは「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足です。」と告げました。この時、弟子達の心は騒ぎ、動揺していたことは明らかです。

 この後、ユダの裏切り、捕らえられ、裁判、十字架刑、と続く中で、弟子達の心は大騒ぎとなり、動揺し続けたことでありましょう。その心が収まったのは、三日の後の復活と、40日後の主の昇天と、更に10日経ったペンテコステの時、神の聖霊が弟子達のもとに降って来た時でありました。
 弟子たちは神の聖霊に満たされ、神の力を受けて、自分達が進むべき道が備えられ、神の御言葉を力強く語り始めました。ついにペトロは弟子たちと共に立ち上がり、キリスト教の教会、最初の説教とも言える、御言葉を力強く告げ始めました。
 
 十字架に架けられ、復活された主イエスこそ、私たちの主であり、救い主、メシアである。この方こそ、自分達を確かな歩みに導いてくださるのだと、これまで人に見せたことの無い程に、自信にあふれた口調と、話ぶりであります。
その説教の中でも、ペトロは詩編を引用しながら「わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない」と告げています。
 私たちが生きている中で体験する騒ぎ、動揺の一つ一つ、人の力では解決しそうもないと思える程の出来事の一つ一つ、その騒ぎを落ち着かせ、安定させるのは、自分の力ではなく、主なる神の聖霊によらなければならないのだと思います。そのような心を持ってこそ、人類の将来が開かれていくように思います。

 今、この世は、人の世は、世界的にも不安定な社会へと移行しています。人と人とが主張しあい、互いに自分の立場から物を言い続け、共に歩もうとしない空気や雰囲気がとても強くなっています。
 そのような不安定さの中にあって、私たちはより一層、神を土台として生きましょう。人が神を造ったのではなく、神が私たちを造られ、命与え、全ての人々が幸いに生きられるようにと導いてくださっていることを忘れず、永遠に変わることの無い御言葉によって過ごして参りましょう。

 お祈りします。

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挫けそうなときにこそ

2020-06-07 12:03:00 | 礼拝説教
【詩編61編1~9節】
【マルコによる福音書13章24~26節】

 新型コロナウィルスの影響により、緊急事態宣言は解除されましたが、その後も東京、神奈川では、引き続きある程度の感染者の人数が報告がされています。このような状況が暫く続くかと思われます。先週、礼拝後に役員会を開催しまして、6月の礼拝は、これまでに引続き緊急短縮された礼拝を執り行うこととしました。

 私たちはまだまだ緊張感を保ちながら、もう暫く過ごしていかなければならないと思われます。今日の説教題を「心挫けそうなときに」としましたが、今、世界中の多くの方々が、コロナウィルスにより、また、それに伴う経済的困窮により、心挫けている方、挫そうな方が大勢おられると思います。

 昨日までの統計を見ましたら、世界中の感染者人数は650万人、亡くなった方は38万人を超えていました。一口に亡くなった方は何人ですと報告されますが、そのような時は良くない時代だと思います。死者の悲しみが数値化されて公表される。ご家族を失った方、愛する人を失った方々の嘆きは数字ではありません。更には仕事を失った方、収入が無くなった方、生きる術を見出せない方、自分の思い描いていた人生がそうでなくなった方が大勢おられ、どんなにか心挫けているかと思います。
 
 今日読みました詩編61編はその表題に短く「ダビデの詩」と記されています。ダビデが本当に記したのかどうかはともかく、ビデオ礼拝を含め、これまでの礼拝で、詩編を読みながら、何度もダビデの苦難の場面を読み、話して参りました。特にダビデがサウル王に命を狙われ、逃げる様子を何回か話しをしましたが、時には洞窟の中に隠れて、じっと祈っている様子。時には、逃げたその先が敵のペリシテの土地であり、捕らえられてしまった様子。その時ダビデは、機転を利かせて、気がおかしくなった人のように振舞い、困難を逃れたという場面もありました。
 後にイスラエルの王となるダビデでありますが、それまでの間、何度も、何度も、命の危機があり、心挫けそうになる状況が続いていたことは確かです。

 心が挫けてしまう。言い換えるならば、「もう、無理」、「なす術なし」という状況です。自分はこう生きていこう、このようにして生活していこう、様々な計画を立てながら、私たちは生きています。けれど、それがことごとく上手くいかない時があります。
 自粛期間中に、私は中国の時代劇のドラマにはまりまして、さがみ野駅にあるツタヤに行きまして、少しずつ観ておりました。いつも一週間借りて、観て返すのですが、この間、丁度一週間だと思って返しに行ったら、数時間遅れたようで、延滞料金が必要です、と言われてビックリしました。良くみたら確かに私が一日間違えていたようで、腹が立ちましたが止む無く支払をして、続きを見たいものですから、その続きを借りようとしたのです。そしたら今度はカードの期限が切れていますから、作り直すのにまた費用が必要です。と言われまして、もう更に腹が立って仕方ない。こんな些細なことでも、ことごとく上手くいかないとなると、心が挫ける思いがします。
実はこの話は家内には話しておりませんでした。ちょっと恥ずかしかったし、あんた何やってるの、と更に責められたら、更に心挫けてしまう。と思うと中々話せないものだなと思います。
 
 ある文書に心が心挫けやすい人の特徴は、「一人で問題を抱え込んでしまう人」だとありました。4月のことでしたか、コロナウィスルによる自粛中の中、トンカツ屋のご主人が、店を閉めるだけでなく、廃業に追いやられて、ついに自ら命を断ったという話がニュースに流れました。誰もが考えもしない、思ってもみなかったようで、それだけにご家族も、近隣の方々も驚きであったようですが、色々と一人で抱え込んでしまっていたのかなと思います。
 ですから、皆さん、挫けない為にも、挫けそうなときの備えとしても、大切なことは一人で抱え込まないことです。
 ダビデは、サウルから追われ、逃げまどい、野をさまよい、時には洞窟、時には敵陣の中、でもダビデが心挫けなかったのは、どの場面も一人ではありませんでした。いつもダビデと共にいた仲間がいました。その時、その時の辛さを分かち合える仲間がいると思うと、その人を孤独にすることなく、その人を生かすものであると思います。

 そして何よりも、挫けないために必要なことは、主なる神がこの自分と共にいて下さるという信仰です。61編3節をもう一度読みます。「心が挫けるとき、地の果てからあなたを呼びます。高くそびえる岩山の上に わたしを導いてください。」
 
 挫けないためにも、仲間の存在はかかせません。私たちは一人では生きていけません。礼拝もビデオ礼拝では限界があり、やっぱりこうして目と目、顔と顔を合わせながら共に礼拝を献げられる、ここに信仰共同体としての私たちの人生があり、生き様があると言ってもいいでしょう。
けれど、時としてそのような大切な仲間でありながらも、人の集まりですから、罪人の集まりでもありますから、全てが上手くいくわけでもありません。

 使徒言行録21章には、使徒パウロが、異邦人伝道旅行に区切りをつけて、使徒として派遣されるにあたり、エルサレム教会に献金を届けるという約束を守るために、仲間と共にエルサレムに向かっていた途中の出来事が記されています。パウロの仲間は、エルサレムではパウロを良く思っていない人々がいて、帰ってきたら捕まえて殺してしまおうと考えている人々のうわさを知っていたのでしょう。
なんとかしてパウロをエルサレムに向かわせないようにと頑張るのです。けれど、その様子に、パウロは「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスのためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです」と仲間を叱った場面があります。
誰もが、パウロを思っての行動でも、パウロにとってみれば、自分の心を挫こうとしている様子と思ったのでしょう。人の思いは、完全は人に伝わるものではありません。

 だから、何が大切かと言えば、例え誰が伴わなくとも、主なる神が自分と共にいて下さるという思いでありましょう。詩編の作者は「心が挫けるとき 地の果てからあなたを呼びます」と祈りました。
地の果てとは、英語の聖書では、The end of the earth とありました。ジ、エンド、まさに世の終わりを象徴するかのようにも思います。私たちが挫ける時、それは、も終わりだ、世の終わりのようだとどんなにしょげかえるのか、自力でなんとかしようとしたけれど、既になす術なく、お終いだと思う、その状況から神を求め、神を呼ぶとしても、必ず、主は私のもとへとやって来て下さり、高くそびえる岩山の上に、わたしを導いてくださる、つまり、自分の行くべき道筋を示し、照らし、将来の希望を見せてくださる、それが私の神だというのです。
先ほど、マルコによる福音書13章を読みました。「人の子が来る」というタイトルが付けられています。主イエス・キリストの再臨の場面であると言われます。主なる神は、私たちの苦しみや辛さ、挫ける思いを知っておられて、そしてその日、その時を待って、やって来られるというのです。27節にこうあります。「そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
 再臨の神は、地の果てから天の果てまで、私たちがどこにいようとも、私たちを忘れることなく、しっかりと神のもとへと呼び集めてくださるというのです。だから、私たちは、たとえ誰がいないとしても、主なる神がおられるならば、決して絶望しないし、状況に飲み込まれてしまうのではなく、状況をしっかりと受け止め、尚、そこにおいて絶望せず、挫けず生きていけるのです。

お祈りします。
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