【詩編64編1~11節】
【ルカによる福音書20章20~26節】
私たちの教会の、教会員であるUさんが新しく本を出されまして、先日、私の手元にも一冊頂戴致しました。Uさんは長年に亘り、多くの会社の経営コンサルタントとして、これまで2,000社以上の会社に関わりを持たれて来られたと聞いています。今も、現役で活躍されていますが、最近は腰痛とか、持病の病に悩まされて少し大変になって来られたとも伺っています。覚えてお祈り下さいますようお願いします。
しかし、そんな中で出版されたと伺いました。「最高のリーダーは自ら動く」というタイトルでありまして、勿論、会社経営についての本ですが、タイトルを見まして、そうか、最高のリーダーは自ら動くのか、自分はどうだろうかと振り返ったり、このタイトルからすると、イエス様のことを言っているのかなとか、色々と思い巡らしたりしながら、読んでおります。
読んでわりとすぐの所に、昔の中国、楚の国の荘王と、ある賢人が問答する話がありました。荘王は「国を守る方法を学びたい」と一人の賢人に何度も問います。
賢人は、当初、私は国を治める方法など分からないと答えますが、しつこく問われたので、こう答えたそうです。
「君主の身が治まって、国が乱れたという話は聞いたことがありません。また、君主の身が乱れて、国が治まったという話を聞いたことがありません。」
つまり、上に立つ者が、身辺清浄であり正しい行いを行っていれば、おのずと国は保たれ、そうでないとすれば、国は乱れていくもの、という事でありましょう。当たり前と思えることを当たり前に行うことが大切という意味なのかもしれません。
振り返ってみまして、今、私たちの国のリーダーはどうでしょうか。パソコンで毎日ニュースを見ますけれど、毎日のように、元法務大臣の夫婦が、選挙で多くの人々を買収をして、逮捕されたニュースが流れます。その買収の基となったお金の出どころは、もしかしたら総理官邸ではないのかなどと言われています。ここの所、国の責任を負う者としての総理の行いはどうのか、と問われるニュースが後を絶ちません。いつの間にか大きな権力のもとで、身が乱れてきているのではないか。新型コロナウィスルの心配も未だに解消されず、不安な日々を過ごしている私たちですが、こういう時にこそ、君主の身が治まり、国も治まって欲しいという願いは、誰もが心に持っていることではないでしょうか。
今日は、ルカによる福音書の20章、主イエスが「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われた箇所を読みました。
これまで、何度か話しましたが、私は尊敬する信仰の先輩から教わったことの一つに「権力とお金には気を付けなさい」という言葉があります。
人は、謙遜に生きているとしても、あるいは世の為、人の為と思いながら生きるとしても、いつの間にか自分の身に「権力」、「お金」が回るようになると考え方も変わり、自分の身が乱れダメになっていく、「権力」と「お金」は、人を成長させる力でありながら、一方では人を貶めていく力もある、だから気を付けるように、よくよく言われました。私自身忘れられない教えです。
主イエスの元にやって来た人々がいました。彼らは神殿の祭司長や律法学者たちから遣わされてやって来ました。しかも正しい人を装いながら、主イエスの言葉じりをとらえて、主イエスをローマの総督の支配と権力に渡そうとする計画を持ってやって来ました。外国語の聖書ですと彼らはスパイであったとあります。
ですから用意周到に主イエスに尋ねます。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておれることを知っています。」こう話します。主を褒めているようにしか読めない言葉ですが、「真理に基づいて神の道を教えている」と私たちには分かっている。神の義については、私たちは良くわきまえて、理解している。その自分達の正しさによって判断すると、あなたは正しいと分かると言っているのです。自分はどこまでも上からの目線で、会話しているようです。
そこで、改めて問うことがあって、「わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」この言葉でもって、罠を仕掛けた訳でありました。
皇帝は、ローマの皇帝です。神の民であるイスラエルの人々にとって、今置かれているローマ帝国の支配は、何といっても耐え難いものでありました。ですから、人々はこの状態を解放してくれるメシアを長い間、待ち望んでいました。多くの人々はそのメシア像を主イエスに重ねて見ていたと思います。
けれど、スパイである彼らは、ローマに納める税金は律法に適っているのか、適っていないのか」と問いかけた。律法はユダヤ人にとって神様から与えられた法であり、特別な教えです。もし、主イエスが、税金は律法に適っていないから納めなくて良いと言えば、逆によし来たということで、ローマの権力のある所に行って、この男はこの世の秩序を乱す不届きものであると、告げることが出来ます。
し かし、逆に律法に適っていると言うとすれば、この男は神の義に背く、偽の指導者であるとユダヤの人々に告げることが出来ます。どちらを答えても、主イエスを陥れることが出来る、よく考えられた問いであったと思います。
祭司長や律法学者たちは、なぜ、このように計画を立ててまで、主イエスを陥れようと思ったのかと言えば、何よりも自分達がこれまで培っていたイスラエルの指導者という立場、その権力を守るためでした。私たちはこの出来事を聖書箇所の一つとして、案外さらりと読んでしまうかもしれない、けれど、ここで繰り広げられる一言ひとことの会話は、主イエスを殺してしまうとする念入りに計画された言葉でもあります。
自分達の権力を守るためには、神の子さえも殺してしまいたい、殺してもかまわない、そう思うところに、人間のどうしようもない罪があるのではないでしょうか。
先ほど、詩編64編を読みました。そこに記されている御言葉は、スパイとして送り込まれた彼らの心を告げているようにも思います。
64編4節から読みますが「彼らは舌を鋭い剣とし 毒を含む言葉を矢としてつがえ
隠れた所から無垢な人を射ようと構え 突然射かけて、恐れもしません。彼らは悪事にたけ、共謀して罠を仕掛け 「見抜かれることはない」と言います。巧妙に悪を謀り「我らの謀は巧妙で完全だ。人は胸に深慮を隠す」といいます。」
主イエスに対して仕掛けた人々の思い、そのままの姿ではないかと思います。
その罪故に、後に主イエスは十字架に付けられることになるわけですが、今、この場面においては、主イエスは、この言葉のたくらみを見抜いて彼らに告げました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
皇帝のものとは、ここではデナリオン銀貨が一つの象徴です。この世の富と言っても良いでしょう。この世の働きによって得た富は、やはりこの世に返さなければならないと思います。私たちの生涯は限られ、頑張って生きても100年です。 その100年の間に、この世で得た富を死んで神の国に持って行くことは出来ません。全てはこの世に返していく、そんな生き方が求められているのだとも思います。
しかし、更に「神のものは神に」と主は言われました。この御言葉も大切です。神のものとは何か、もともと、この話の始まりは、祭司長、律法学者たちが、神殿で自由に振舞っている主イエスを見て、腹を立てて、誰の権威によって、あなたは話をしているのかと問いただす所からが始まります。
誰の権威かと問うているのは、自分達にはその権威があると思っているからでしょう。
その自分達に断りなく、好き勝手させないという思いが、怒りとなり、怒りは増長されて、殺してしまえという今日のこの場面となっているわけです。
けれど、主は、神のものは神にと告げられました。それは、もともと神のものであるところの権威を、あなた方は自分のものにして、神のものも自分のもの、人のものも自分のものとして、全てを自分の手もとにかき集めようとしているあなた方よ、権力者はローマ皇帝だけではない、あなた方もこの世の権力者として生きている。都合の悪いものは殺してしまえとさえ思う。
その思いは、ただ一人の権威者である主なる神を忘れ、主なる神に対して、畏れ敬い、頭を下げる思いがどこまであるのか、神のものは神に返すべきであるという主イエスの思いを込めた御言葉ではないでしょうか。
私たちもまた、この世を生きています。この世を生きるとは、与えられた状況や、環境の中で、物事を考え判断しているということです。しかし、この世の価値観の中でばかり生きていると、いつの間にか私たちも神を忘れ、神に頭を下げることを忘れているかもしれません。しかし、そのような私たちでさえ、主は愛してくださることを忘れてはならないと思います。神の愛を忘れるところに、怒りは怒り、怒りは人の命さえ狙うようになる。この世のものはこの世に返し、神のものはしっかりと神に返す生き方を喜んで生きていきましょう。
お祈りします。
【ルカによる福音書20章20~26節】
私たちの教会の、教会員であるUさんが新しく本を出されまして、先日、私の手元にも一冊頂戴致しました。Uさんは長年に亘り、多くの会社の経営コンサルタントとして、これまで2,000社以上の会社に関わりを持たれて来られたと聞いています。今も、現役で活躍されていますが、最近は腰痛とか、持病の病に悩まされて少し大変になって来られたとも伺っています。覚えてお祈り下さいますようお願いします。
しかし、そんな中で出版されたと伺いました。「最高のリーダーは自ら動く」というタイトルでありまして、勿論、会社経営についての本ですが、タイトルを見まして、そうか、最高のリーダーは自ら動くのか、自分はどうだろうかと振り返ったり、このタイトルからすると、イエス様のことを言っているのかなとか、色々と思い巡らしたりしながら、読んでおります。
読んでわりとすぐの所に、昔の中国、楚の国の荘王と、ある賢人が問答する話がありました。荘王は「国を守る方法を学びたい」と一人の賢人に何度も問います。
賢人は、当初、私は国を治める方法など分からないと答えますが、しつこく問われたので、こう答えたそうです。
「君主の身が治まって、国が乱れたという話は聞いたことがありません。また、君主の身が乱れて、国が治まったという話を聞いたことがありません。」
つまり、上に立つ者が、身辺清浄であり正しい行いを行っていれば、おのずと国は保たれ、そうでないとすれば、国は乱れていくもの、という事でありましょう。当たり前と思えることを当たり前に行うことが大切という意味なのかもしれません。
振り返ってみまして、今、私たちの国のリーダーはどうでしょうか。パソコンで毎日ニュースを見ますけれど、毎日のように、元法務大臣の夫婦が、選挙で多くの人々を買収をして、逮捕されたニュースが流れます。その買収の基となったお金の出どころは、もしかしたら総理官邸ではないのかなどと言われています。ここの所、国の責任を負う者としての総理の行いはどうのか、と問われるニュースが後を絶ちません。いつの間にか大きな権力のもとで、身が乱れてきているのではないか。新型コロナウィスルの心配も未だに解消されず、不安な日々を過ごしている私たちですが、こういう時にこそ、君主の身が治まり、国も治まって欲しいという願いは、誰もが心に持っていることではないでしょうか。
今日は、ルカによる福音書の20章、主イエスが「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われた箇所を読みました。
これまで、何度か話しましたが、私は尊敬する信仰の先輩から教わったことの一つに「権力とお金には気を付けなさい」という言葉があります。
人は、謙遜に生きているとしても、あるいは世の為、人の為と思いながら生きるとしても、いつの間にか自分の身に「権力」、「お金」が回るようになると考え方も変わり、自分の身が乱れダメになっていく、「権力」と「お金」は、人を成長させる力でありながら、一方では人を貶めていく力もある、だから気を付けるように、よくよく言われました。私自身忘れられない教えです。
主イエスの元にやって来た人々がいました。彼らは神殿の祭司長や律法学者たちから遣わされてやって来ました。しかも正しい人を装いながら、主イエスの言葉じりをとらえて、主イエスをローマの総督の支配と権力に渡そうとする計画を持ってやって来ました。外国語の聖書ですと彼らはスパイであったとあります。
ですから用意周到に主イエスに尋ねます。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておれることを知っています。」こう話します。主を褒めているようにしか読めない言葉ですが、「真理に基づいて神の道を教えている」と私たちには分かっている。神の義については、私たちは良くわきまえて、理解している。その自分達の正しさによって判断すると、あなたは正しいと分かると言っているのです。自分はどこまでも上からの目線で、会話しているようです。
そこで、改めて問うことがあって、「わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」この言葉でもって、罠を仕掛けた訳でありました。
皇帝は、ローマの皇帝です。神の民であるイスラエルの人々にとって、今置かれているローマ帝国の支配は、何といっても耐え難いものでありました。ですから、人々はこの状態を解放してくれるメシアを長い間、待ち望んでいました。多くの人々はそのメシア像を主イエスに重ねて見ていたと思います。
けれど、スパイである彼らは、ローマに納める税金は律法に適っているのか、適っていないのか」と問いかけた。律法はユダヤ人にとって神様から与えられた法であり、特別な教えです。もし、主イエスが、税金は律法に適っていないから納めなくて良いと言えば、逆によし来たということで、ローマの権力のある所に行って、この男はこの世の秩序を乱す不届きものであると、告げることが出来ます。
し かし、逆に律法に適っていると言うとすれば、この男は神の義に背く、偽の指導者であるとユダヤの人々に告げることが出来ます。どちらを答えても、主イエスを陥れることが出来る、よく考えられた問いであったと思います。
祭司長や律法学者たちは、なぜ、このように計画を立ててまで、主イエスを陥れようと思ったのかと言えば、何よりも自分達がこれまで培っていたイスラエルの指導者という立場、その権力を守るためでした。私たちはこの出来事を聖書箇所の一つとして、案外さらりと読んでしまうかもしれない、けれど、ここで繰り広げられる一言ひとことの会話は、主イエスを殺してしまうとする念入りに計画された言葉でもあります。
自分達の権力を守るためには、神の子さえも殺してしまいたい、殺してもかまわない、そう思うところに、人間のどうしようもない罪があるのではないでしょうか。
先ほど、詩編64編を読みました。そこに記されている御言葉は、スパイとして送り込まれた彼らの心を告げているようにも思います。
64編4節から読みますが「彼らは舌を鋭い剣とし 毒を含む言葉を矢としてつがえ
隠れた所から無垢な人を射ようと構え 突然射かけて、恐れもしません。彼らは悪事にたけ、共謀して罠を仕掛け 「見抜かれることはない」と言います。巧妙に悪を謀り「我らの謀は巧妙で完全だ。人は胸に深慮を隠す」といいます。」
主イエスに対して仕掛けた人々の思い、そのままの姿ではないかと思います。
その罪故に、後に主イエスは十字架に付けられることになるわけですが、今、この場面においては、主イエスは、この言葉のたくらみを見抜いて彼らに告げました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
皇帝のものとは、ここではデナリオン銀貨が一つの象徴です。この世の富と言っても良いでしょう。この世の働きによって得た富は、やはりこの世に返さなければならないと思います。私たちの生涯は限られ、頑張って生きても100年です。 その100年の間に、この世で得た富を死んで神の国に持って行くことは出来ません。全てはこの世に返していく、そんな生き方が求められているのだとも思います。
しかし、更に「神のものは神に」と主は言われました。この御言葉も大切です。神のものとは何か、もともと、この話の始まりは、祭司長、律法学者たちが、神殿で自由に振舞っている主イエスを見て、腹を立てて、誰の権威によって、あなたは話をしているのかと問いただす所からが始まります。
誰の権威かと問うているのは、自分達にはその権威があると思っているからでしょう。
その自分達に断りなく、好き勝手させないという思いが、怒りとなり、怒りは増長されて、殺してしまえという今日のこの場面となっているわけです。
けれど、主は、神のものは神にと告げられました。それは、もともと神のものであるところの権威を、あなた方は自分のものにして、神のものも自分のもの、人のものも自分のものとして、全てを自分の手もとにかき集めようとしているあなた方よ、権力者はローマ皇帝だけではない、あなた方もこの世の権力者として生きている。都合の悪いものは殺してしまえとさえ思う。
その思いは、ただ一人の権威者である主なる神を忘れ、主なる神に対して、畏れ敬い、頭を下げる思いがどこまであるのか、神のものは神に返すべきであるという主イエスの思いを込めた御言葉ではないでしょうか。
私たちもまた、この世を生きています。この世を生きるとは、与えられた状況や、環境の中で、物事を考え判断しているということです。しかし、この世の価値観の中でばかり生きていると、いつの間にか私たちも神を忘れ、神に頭を下げることを忘れているかもしれません。しかし、そのような私たちでさえ、主は愛してくださることを忘れてはならないと思います。神の愛を忘れるところに、怒りは怒り、怒りは人の命さえ狙うようになる。この世のものはこの世に返し、神のものはしっかりと神に返す生き方を喜んで生きていきましょう。
お祈りします。