日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

あなたの重荷を主にゆだねよ

2020-04-26 10:00:01 | http://www.ohtsukaheian.jp/
2020年4月26日(日) 復活節第3主日 (労働聖日)

黙 祷
 
招 詞 イザヤ書49章13節
    「天よ、喜び歌え、地よ、喜び踊れ。山々は歓声をあげよ。主はご自分の民を慰め その貧しい人々を憐れんでくださった。」
 
讃美歌 18番「心を高くあげよう!」



聖 書 詩編55編23~24節 
    マタイによる福音書11章25~29節
   「あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え どこしえに動揺しないように計らってくださる」

説 教 「あなたの重荷を主にゆだねよ」菊池丈博牧師



詩編55編23~24節
マタイによる福音書11章25~29節
「あなたの重荷を主にゆだねよ」


 皆さん、おはようございます。
 新型コロナウィスル拡大防止の為に4月7日に政府より緊急事態宣言が発令されました。それまで、なんとかギリギリで礼拝を守ってまいりましたが、いよいよそういう訳にもいかず、決断して4月12日のイースター礼拝の日から礼拝をお休みにいたしました。
 4月19日の礼拝も、今日4月26日の礼拝も礼拝堂での礼拝が行えません。

 緊急事態宣言は、5月6日までですから、予定では来週の5月3日の主日礼拝まで礼拝を行わないこととしています。
 けれど、今の状況では、5月6日から、更に延長される可能性があるのではないでしょうか。

 私たちが思っていた以上に、感染拡大は終息しません。いよいよ更に、テレビ、報道では「外に出ないように」「人と会わないように」という声が高くなっています。そんな中で、なんとかそれぞれのご家庭で礼拝を守ることの助けとなればと、パソコンの機能を使って、こうして礼拝ができるようにと考えました。

 4月12日のイースター礼拝の場面も、是非、ご覧下さればと思います。

 今日、与えられました聖書箇所は詩編55編です。
 23節「あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたを支えてくださる。 主は従う者を支え とこしえに動揺しないように計らって下さる」とあります。

 今、私たちに与えられている重荷、何と言っても、新型コロナウィスルこそが、そうだ。と誰もがそう思われるでしょう。私もそう思います。この感染する病の拡大がとにかく収まって欲しいと願わずにはいられません。願いつつ、祈りつつ過ごしております。その為に、多くの方々がテレワークといった家での仕事をされたり、学校も休みですから親も子供も家で過ごされたりする機会が大いに増えています。

しかし、そんな中、時折、家庭内暴という言葉が聞こえるようになりました。
朝から、晩まで夫婦が、家族が家で顔を合わせている、それが重荷となっているということでしょうか。
しかし、恐らく家族が一緒にいることが重荷、というよりは、夫の、妻の仕事と言いますか、収入の大幅な減少とか、減少ならまだしも、負債の返済の目途さえ立たない、そういう状況の方が増えているのではないでしょうか。
「あなたの重荷」とありますが、重荷、違う言葉で言えば、心配事、事気がかりな事と言うことも出来ます。

 これだけ長く家にいると、運動不足の不安、朝、昼、晩三食作らなければならない不安もあるでしょうけれど、もっと、根源的な、生活がままならない、そんな思いからついイライラ、ムカムカとなって、つい言葉がきつくなって、つい手が出てという方も多いのかもしれません。

 実は、先日、神奈川県の中央部を範囲としているローカルのFMラジオがあるのですが、そこで仕事をしている方から連絡がありまして、ラジオに出て下さいというのです。ラジオの司会者、今はパーソナリティというのでしょうか。女性の方ですが、20分位話しをして下さいというのです。綾瀬市に住んでいる方々の紹介のような番組のようでした。
いいですよと簡単に引き受けましたが、後から、あまり宗教色は出さないでくださいとか、色々言われまして、まあ、何とかなるかなと思いながら、打ち合わせは殆どなく、いきなり本番でした。
はじまる3分前位に教会に電話がありまして、司会者と話しをする、教会がどこにあるのかとか、牧師さんって、日頃は一体何をしているのかとかそんな話をしたわけですけれど、当然、コロナウィルスの話にもなりまして、更に、家族が皆、家にいる状態の辛さなどもお話しを致しました。
 そしたら、その司会者が食いついて来まして、彼女はお子さんが何人もいるというのです。それで、少しもいう事も聞かない、勉強もしない、寝てばかり、一体どうすれば良いですか、なんだかラジオで、個人的な相談みたいになりました。

 結果的にはとっても喜んで下さって、私も良かったなと思っています。でも、皆さん、実際、コロナウィスルだけではなく、このウィルスの重荷があろうと、例えなかったとしても、実際には、実に様々な重荷、心配事、気がかりなこと、一人ひとり抱えているのではないでしょうか。

 そのような重荷をどうするのか、聖書には「あなたの重荷を主にゆだねよ」とあります。主にゆだねる、神様にゆだねる、このゆだねるという言葉は、託すとか、任せるという意味の言葉です。もっというと、「下に降ろす」とか、少し強い言葉では「投げ捨てる」という言葉にもなります。

 自分が抱えている重荷を神様のもとに降ろすことだと聖書は伝えるのです。それが大切だというのです。そうすると、「主はあなたを支えてくださる」と続き、「動揺しないように計らってくださる」と続きます。

 では、具体的にはどのようにして支え計らってくださるのでしょうか。

 私たちは一体、何を重荷とするのか、一つは、先ほども申し上げました通り、生活に必要なお金や物、これが無い、揃わない、支払いが滞る、こんな状態は、家庭内暴力とか、人間関係、いたるところで問題が起こり、抱え込んでしまいますから重荷となります。ですから、政治世界もこのことが気がかりとなり、マスク2枚の配布はともかく、中小企業に対する融資を手厚くとか、国民一人当たり10万円ずつという結果に至りました。
なんとか皆で重荷を取り除こうとしているわけです。

 でも、テレビ、報道、あるいは医療機関で働かれている方々の声は、何よりも人の命です。これまで、どれだけの方がウィスルにかかり、命を失われたか、私たちは毎日悲痛な思いでもって、知らされ、情報を得ています。とにかくどこにも出ていかないでと、報道は訴えていますし。何より命が大切。これは誰もがうなずくのではないでしょうか。

 けれど、あえて言いますが、命が大切と思うと、病気が怖くなり、死ぬのが怖い、自分も死に巻き込まれてしまうのではないかという恐怖と不安で、外に出るのも怖く、人と会うことも怖く、命を守るためとはいえ、日々の暮らしもままならなくなっていく、そういう方々もおられるのではないでしょうか。楽観的過ぎるのはよくないと批判されますが、この状況を恐れすぎて、メンタルが持たない方々のことも思うのです。

 多くの方がご存知ですが、星野富弘さんという方がおられます。星野さんは、体育の先生をしていました。ある時生徒の手本にと鉄棒をしていて、落ちてしまい、体が動かなくなってしまいました。話すことも出来て、脳も確かなのに、全く体が動かない、もう生きているのに、死んでいるようなものだと思いながら、長く過ごす中で、キリスト教との出会いがあり、神様の福音にふれて、こう思うようになったそうです。
「命が一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。命より大切なものがある)と知った日、生きるのが嬉しかった。」星野さんは命よりも大切なものがあると知った時、苦しい人生を、しかし、でも生きていこう、そう思えるようになったのでしょう。

 皆さん、今、命を守ることが求められています。それは確かなことです。けれど、神を信じる信仰者として、そのような極限の中にあっても、尚、生きて、生かされていることを感謝しながら、自分の命にしがみつくようにしてではなく、重荷を神様のもとに降ろして、安心して、だからこそ、しっかりと予防して、手洗い、マスクをして、しかし心は笑顔で、希望を持って過ごして参りましょう。出口のないトンネルはありません。かならず出口が与えられる。そのことを信じて今日も過ごして参りましょう。 お祈りします。

讃美歌 579番 「主を仰ぎみれば」(ご自宅で、賛美してくだされば幸いです。)

主の祈り
  
黙  祷 


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復活の命を生きる

2020-04-19 09:18:15 | 礼拝説教
【詩編54編1~9節】
【コリントの信徒への手紙一 15章42~44節】

聖 書
 「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。」
(コリントの信徒への手紙一 15章42~44節)
 

 コロナウィルス感染拡大防止の為に、4月7日火曜日、首都圏地域を中心に緊急事態宣言が発令されました。今その宣言は全国に広まりました。
 その為4月12日のイースター礼拝に続き、今日、この19日(日)の礼拝も教会の礼拝堂では礼拝を行いません。教会の礼拝は、同じ日の、同じ時間に、私たちの日頃の営みを全て止めて、一つの所に集まり、共に祈り、賛美し、罪を悔い改め、復活の力が与えられる時間として守ります。
 その営みは、2000年以上にわたり、絶えることなく連綿と続けられてまいりました。しかし、世界的な規模で、その営みを止めなければならない悲しみを心から感じています。このような事態は、恐らく数百年に一度、あるかないか、という状況ではないでしょうか。
 しかし今は、何よりもコロナウィルスに感染している方々の回復を願い、多くの医療関係者の懸命の努力を思い、社会の平安を取り戻すためにも、人と人が集まらない状況を作り出さなければなりません。

 教会の皆様にも理解していただいていますが、それぞれの場にあって、ご家庭にあって礼拝を守って下さればと願います。5月にはこの状況が好転し、再び、顔と顔とを合わせての礼拝を心から願い、祈っています。
 そのような中、近所に住んでおられる教会員のある方がDVDを届けてくださいました。私が最近、その方に、中国の歴史について関心を持っていますと話をしたことがありまして、きっと気にしておられたのかもしれません。NHKの「その時、歴史が動いた」という番組の中で取り上げられた「項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)」というDVDを持ってきてくださいました。楽しんで拝見しました。
 
  時代は紀元前3世紀、秦の始皇帝が初めて中国を統一してから、しかし15年で滅んでしまった後、項羽と劉邦の二人が中国の天下統一の為に立ち上がります。ドラマ仕立てでとても分かり易かったのですが、項羽は権力とプライド、また優れた知恵でもって人をまとめ上げ天下を目指します。一方、劉邦は、部下や仲間の進言、意見を受け入れられる、おおらかな性格でもって人心をつかみ天下を目指します。
性格や、生き方も全く違う二人がそれぞれに権力を伸ばし、時には項羽が勝利し、時には劉邦が盛り返しながら、決定的な場面は紀元前202年12月、のちに「垓下(がいか)の戦い」と呼ばれる戦でありました。

 劉邦には多くの仲間が集まり、60万人の軍勢、一方項羽は10万の軍勢。以前、項羽は3万の軍勢で、58万の劉邦軍を打ち破ったことがあり、慢心があったかもしれません。しかし、今回は油断せずに、戦いに望んだ劉邦軍が項羽軍を取り囲み、一斉に攻め入るのかと思いきや、劉邦は、誰も考えつかなかった思いがけない戦略を用います。それは項羽軍を取り囲んだ60万の劉邦軍の兵隊に、項羽の故郷、楚(そ)の国の歌を歌わせたのです。この場面が有名な故事成句「四面楚歌」の由来となった場面です。
 項羽はその歌を聞き、既に自分の故郷の人々さえも劉邦軍に加わり、窮地に追い込まれていると感じとったようです。その夜、僅かに残った仲間と共に宴を開き、その後、最後の戦いによって自害したと言われます。

 これにより、中国は秦の時代から、劉邦の故郷であった漢という文字を取って、漢の時代へと移ることになります。漢はその後400年続き、いわば中国の基礎を築いたと言われます。漢という文字のとおり、漢字、漢詩、漢文といった言葉も、この時代に大いに発展したのだと思われます。
 項羽と劉邦、この両雄の勝負の分かれ目がどこにあったのか、番組では、項羽が大切にした知恵やプライドよりも、劉邦のプライドを捨てた「人心掌握術」がどれほど優れていたか、と解説していました。

 なるほど「人心掌握術」これが大切なのか、自分もそうなりたいものだと思いながら見終えたのですが、けれど、暫くして気が付きました。
劉邦はきっと、「人心掌握術」をどこかで学んだとか、勉強したという訳ではないだろうし、生まれ持っての性格なのかとも思ったのですが、そうではなく、二人の違いの決定的なところは、項羽は自分が天下を取るために動き、劉邦は、自分も含めて、人々が皆、幸せに生きられる時代を目指して動いたのではないか、自分のためではなく人のため、いわば、隣人のための戦いではなかったか、そこが決定的な違いではなかったかと思い直しました。

 聖書の中には、主イエスのもとにやってきた「金持ちの議員」の話しがあります。金持ちの議員がやって来て主に尋ねました。「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」主は「神おひとりのほかに、善いものはだれもいない。「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」という掟をあなたは知っているはずだ」と話します。議員は「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言いますと、「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。それから、わたしに従いなさい」と話したら、議員は非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。と続きます。
議員に欠けている一つのものは何か、と思う時、きっと議員のこれまでの人生は、自分のために、自分の方向に、自分に向かって物事を考えていたのではないかと思うのです。律法を守るのも、自分のため、永遠の命を得ることも自分のため、財産も自分のため、自分にとってどうしても必要だったのでしょう。
主が言われた、「あなたに欠けている一つ」は、隣人を思う心です。隣人を愛する思いではないでしょうか。隣人を祝福し、隣人を隣人として受け入れることではないでしょうか。
 劉邦が勝利したのは、隣人を思いやる心を持っていたからではないか、項羽が破れたのは、いつも自分のための戦いであったからではないか、そんな思いがします。

 「永遠の命」と主イエスの復活は、深く結びついています。今日はコリントの信徒への手紙一 15章42節から読みましたが、そこでパウロは復活についてこう記しました。
「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。」復活とは、「朽ちないもの、輝かしいもの、力強いもの」だとパウロは記します。
 
 今、我が家の家の庭では、春の花が沢山咲いています。人の世に悲しい程にウィスルが蔓延していようと、庭先の草花は今年も、昨年と少しも変わらず美しく咲き誇っています。この寒い冬を耐えて、春が当来し、朽ちることなく再び命を得たかのようにして花を咲かせる。私たちはそんな自然の営みからも、復活の喜びを感じとることが出来るかもしれません。
 けれど、「朽ちないもの」「輝かしいもの」「力強いもの」の意味は、もっともっと深く、広く、高く、私たちに訴えかけているように思います。
 
 実は、先ほど紹介した「項羽と劉邦」のDVDの他に、もう一枚お借りしました。「魔女狩り」についての番組のDVDでした。西洋、中世の時代に、特にキリスト教世界において「魔女狩り」という非人道的な出来事が起こった、なぜこのような悲劇が起こったのか、多分NHKのBSか、何かの録画だと思います。時代は16世紀から17世紀です。魔女として捕らえられ、裁判を受け、拷問、死罪となる悲劇が繰り返されたそうです。その様子はとても残酷で、あまり詳細は申し上げませんが、魔女狩り、魔女裁判、そのような出来事がなぜ起こったのか、理由は一つではないと思われます。しかし、例えば大規模な自然災害、飢饉、あるいは伝染病、といった当時としては、全く人の手には負えない、大きな社会不安的不安に陥った人々によって行われた側面があるようです。
 
 人の心に不安が広がれば、広がる程、社会全体が不安になり、何かのせい、誰かのせいにしたくなるのではないでしょうか。そして、ターゲットにされた人々は、捕らえられ酷い目に遭わされるのです。
 今、私たちの社会も、そうなっていく危険性があると思います。コロナウィスルに感染した方こそ、被害者であり、病人であるはずなのに、差別されてしまう。医療の現場で、命がけで人の命を守っている方々の家族が差別を受ける、といった事例が幾つもあると報道されています。人は不安が募れば募る程に、誰かのせい、何かのせいにしたくなるのだと思います。そしてそのような不安が、より大きな悲劇を生み出す、そのような連鎖を作り出してはならないと思います。

 私たち人類の歴史を紐解けば、幾度も幾度もそのような危機を迎えたことを示しているのは明白です。そのような中で、どれほどの命が奪われ、失われていったのでしょうか。今、コロナウィルスによって召された方々は世界中で15万人を超えたと報道がありました。(4月19日現在)亡くなれた方々のご家族や、近親の方々はどんなにこの悲劇を辛い思いで過ごしておられるでしょうか。けれど、私たち人類の歴史は、このような危機を幾度も迎え、その度に、なんとか立ち直り、前を向いて進んでまいりました。
 
今を生きている私たちも、また、必ずこの困難を乗り越えることが出来るはずです。
 そのように信じて生きることが求められていると思います。不安の中に埋没していく人生ではなく、与えられた状況は絶えず変化していくとしても、それでも、どんな時も、変わることなく、私たちに信仰者の生き方を指し示して下さる方、聖書に記されている主イエス・キリストの愛をしっかり受け止めて生きていきたいものです。
 どんな時代の、どんな状況においても、神の福音は 朽ちることなく、輝き続け、力強く私たちに働きかけて下さっています。
 主イエス・キリストは、死からの復活、絶望からの希望を、いつでも私たちに示しておられる。そのことを忘れずに生きて参りましょう。そしてまた、笑顔で共々に礼拝に出席し、大きな声で賛美を献げ、神の恵みを全身で受け止める日を心待ちにして、だからこそ、私たちに出来る一つひとつを大切にしながら、しっかりと命を守って参りましょう。

お祈りします。

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絶望のその先に

2020-04-12 10:29:00 | 礼拝説教
2020年4月12日(日)イースター礼拝

黙 祷
招 詞 詩編148編 1~2節 「ハレルヤ。天において 主を賛美せよ。
                    高い天で  主を賛美せよ。
                    御使いらよ、こぞって 主を賛美せよ。
                    主の万軍よ、こぞって 主を賛美せよ。」

讃美歌 332番「恐れを捨て去り」菊池典子姉


聖 書 詩編53編1~7節  
    マタイによる福音書28章1~10節
    「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体のおいてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』(28章6~7節)

説 教 「絶望のその先に」 菊池丈博牧師

時間の制約があり、最初をカットしてあります。ご容赦ください。
絶望のその先に 1


1の続きになります。

絶望のその先に 2



 皆さん、イースターおめでとうございます。と言いましても、本日は国から発出された「緊急事態宣言」により、ついに大塚平安教会は、この教会創立70年の歴史の中で、初めて、であろう礼拝そのものを中止といたしました。

 2月上旬から既にその兆しがありました。新型コロナウィルスが中国の武漢を中心に大きな広がりを見せているという情報を知らされていました。
 けれど、そのことを知りつつも、私たちは、まだまだ楽観的でした。
 事態が大きく動いたのは、安倍首相が、学校の臨時休校を要請したあたりではなかったでしょうか。教会も慌てました。これはただ事ではないと受け止め、3月の礼拝の最初の礼拝は、かろうじて従来の礼拝スタイルを守り、聖餐式を執り行いましたが、その次の週からは、臨時的、緊急的措置として、短縮礼拝とし、また、高齢の方、体調に不安のある方等はご自宅でお祈り下さいとお願いするようにしました。
そのような中、普段の半分以下の人数での礼拝が続きました。それでも礼拝を守ることが出来ている幸いを過ごしました。
毎週、日曜日の前になると、礼拝を開催出来るのかどうか、緊張感が高まり、祈りつつも、非常に強いストレスを感じていたことは確かです。

 この4月12日のイースターの日において、世界中の教会の一体何パーセントの教会が穏やかに、例年のように主の復活を祝う礼拝を執り行っているのかと思います。
感染者の数は、世界を見れば、百五十万人を超え、亡くなられた方も十万人に迫ろうとしています。それから思えば、国内の感染者数六千人、死者は百人程、比較するとすれば、国内はまだ落ち着きを保っていると言えるのかもしれません。
 けれど、既に私たちが住んでいる神奈川県の、近隣の町の幾つもの場所で感染者がおられるという情報が流れています。そのようなことを思いますと、まさに緊急時としか言いようがありません。

 多くの皆様がご存知のように、私は岩手県で生まれました。小学生低学年の時、北海道十勝沖地震がありました。学校にいた時でした。先生が慌てて「机の下に隠れて!」と叫び、少しおさまってきた頃に、全員が校庭に非難するようにと言われて、大きな不安の中、外に出たことがありました。
 
 高校3年の時、宮城県沖地震が発生しました。夕方でした。私は母親と共に家にいました。大きな揺れで、驚いて二人で外に飛び出ました。立っていられないほどで、思わずしゃがみ込みました。近所のご婦人と母親が抱き合って泣いていました。家の一階と二階が左右逆に動いているのがわかりました。「家がつぶれるかも!」と真剣に思ったことを思います。
 1995年1月17日、「阪神、淡路大震災」が起こりました。兵庫県、神戸を中心に、大きな、大きな地震が起こりました。高速道路が倒れ、町一面が火の海と化していました。身が震える思いでした。それはあたかも空襲を受けたかのような惨状でありました。自分が生きている中で、本当にこんなことが起こるなんて、と思いながらテレビを見ていました。
関西を故郷にしている友や、何人もの知り合いが、被災の場所にかけつけ、まさに非常事態であることを思っておりました。

 今から9年前は、未だ記憶に新しい、未曾有の大震災と言われる「東日本大震災」が起こり、考えられないような津波と、原子力発電所の事故に見舞われました。私たちのこの地域も大きく揺れました。長く揺れるその揺れは生きて来て、これまで一度も経験したことの無い恐怖の揺れであったことを思います。
 自分が生きているこの時代に、こんな歴史的な大地震がくるなんて、こんな大津波が来るなんて、数えきれないほどの人々が亡くなり、これ以上の悲しみは無いだろう、と思える程でありました。

 日本は毎年のように台風被害にも遭います。昨年、台風19号は首都圏を直撃し、この地域一体でも「洪水警報」が発令され、非常に緊張しました、ついこの間のことでもあります。

 他にも、2001年9月11日は、アメリカ、ニューヨークを中心として、同時多発テロが起こり、何千人もの方が亡くなりました。その後は、イラク戦争、アフガニスタン紛争と続き、一体どれだけの方が悲しみの涙を流したことでしょうか。

 これまで生きて来た中で、地震、台風といった自然災害を何度も経験しました。幸いなことに日本にいますと、戦争といった非常事態には巻き込まれていませんが、その危機はこれまで幾度もあったと思います。そして、そのような事態が起こると、さすがに、もしかしたらこのことによって世の終わりが来るかもしれない、とさえ思わされることもありました。これ以上悲惨なことがあるのだろうか、とさえ思いながら、しかし、これまで生きてきました。

 けれど、この新型コロナウィスルの脅威は、これまでのどんな危機にもまして、追い込まれているという感覚があります。人はこれほどまでに追い込まれるものかと思わされます。

 第二次世界大戦で、獄死したボンフェッファーという牧師がいます。彼は、ヒットラーの支配に抵抗し、最後まで反対し、しかし捕らえられ、1945年4月9日、処刑によって39年の生涯を閉じました。ボンフェッファーは当時、天才だと言われていました。21歳で神学博士号を取得し、ガンジーの非暴力思想に大きく影響を受けていたそうです。彼の天才性は、人と時代を見抜く目を持っていたということかもしれません。
ヒットラーがドイツの指導者となり、熱狂的支持者がいる中で、早くから、ヒットラーの思想と指導の危うさを指摘し、堂々と非難、批判を展開し、人々に訴え続けたと言われます。しかし、その働きの故に捕らえられてしまいました。
ボンフェッファーは多くの著作を記しましたので、愛読している人も多く、日本でも彼から大きな影響を受けている人は少なくありません。
 
 私自身も、知識としては、著書を読んだり、説教を読んだりして感化されている一人ですが、それでも、今一つピンと来ないと思う文章もあります。特にボンフェッファーは、獄中において、こういう言葉を残しています。
 
 「神という作業仮説なしに、この世で生きるようにさせる神こそ、我々が絶えずその前に立っているところの神なのだ。神の前で、神と共に、我々は神なしに生きる」

 特に「神の前で、神と共に、我々は神なしに生きる」という言葉の理解は、難しいと思っていました。なぜ信仰を持つ者が、「神なしに生きる」というのだろうか、ニヒリズムとか、あるいはニーチェが言った「神は死んだ」という言葉と関係しているのだろうか、よく分からない、長い間、そんな事を思っていました。
 
 けれど、今、この言葉は私の心の中に突き刺さり、何度も繰り返されています。「神の前で」、この言葉は決して信仰を失わないという意味だと思います。状況がどうであれです。ボンフェッファーは獄中でこの言葉を記したと言われます。捕らえられ明日の命の保証もない状況の中で、尚「神の前に」立とうとしていた、それは揺るぎのない信仰を現しているのだと思います。しかし、どんなに信仰心があっても、誰もよりも神を信じているとしても、だから状況は好転するとは限りません。むしろ、悪い方向へ向かうかもしれません。
 その状況を神様もご存知あろうと思います。けれど、ご存知のはずの神は、直接的に何かをして下さるわけでもない。それが、私たちが生きている現実でもあるのです。
 私たちの苦しみをご存知でありながら、尚、何もされない。だから「神なしに生きる」と記したのではないでしょうか。

 しかし、それは信頼を失うということではなく、「神なしに生きる」とは、現実から逃げないという意味ではないでしょうか。極限状態に置かれると、人は神にすがりたくなり、誰でも良いから助けてくれと叫びたくなり、実際に叫び、気がおかしくなりそうになるかもしれません。
 けれど、「神なしに生きる」それは、この現実を受け入れる勇気と言ってもいいかもしれません。あるいは希望を捨てないと言ってもいいかもしれない。この現実を見据えて、神の助けだけが頼りではなく、しかし、自分が神の前にいることは疑わず、神と共に勇気を出して生きていこうとする力。

 ボンフェッファーは自分の命の灯が消されるかもしれない、極限状況の中で、この言葉を記したのだと思います。

 皆さん、今、世界中でコロナウィルスの脅威は更に高まっています。日本は、特に私たちの地域は「非常事態宣言」が発令されています。今こそ、私たちは「神の前で、神と共に、神無しに、」つまり、信仰を失うことなく、だからこそ、徹底的に自粛して、自分の命を守り、「なんとかの時の神頼み」ではなく、神無しで、つまり、この現実をしっかりと見据えて、自分達で必ず解決の道を切り開いていこうではありませんか。

 私たち信仰者は、時として人から「弱い人」だと言われます。全くその通りです。自分達は弱いのです。弱いということを良く知っています。だから、徹底的に、誰よりも感染予防に努めるべきです。同時に、神の前に自分がいることをも忘れず、神と共に、この現実に立ち向かう勇気と希望を失うことなく生きていきましょう。

 今日はイースター礼拝です。主イエス・キリストは復活されました。それは全ての絶望だと思う出来事は、それでも、尚絶望ではないという神の印であり、神の証しでもあります。
 この出来事は凡そ2,000年前の出来事です。この2,000年の間に、人類はどれほどの絶望を体験してきたことでしょうか。地震、火山爆発、洪水、津波、幾度もこの世の終わりを経験したことでしょう。ペスト、コレラ、赤痢といった伝染病も、何度も繰り返されました。14世紀のペストは世界人口の20%、凡そ一億人が死んだとも言われます。  
戦争という過ちも、幾度も繰り返されてきました。
わずか2,000年の人類の歴史を見ても、一体どれほどの悲惨が繰り返されたことでしょうか。

 けれど、皆さん、神の子イエス・キリストの復活の出来事は、そのような悲惨の中でも、力を失い、忘れ去れることは一度もありませんでした。そして、命の危機から、脱出した人々は、神を喜び、神と共に、神がおられる世界を喜びとし、主イエスの復活を心から喜び続けました。私たちも、また、主イエスの復活を喜びましょう。今、大塚平安教会の礼拝は行われません。

 けれど、互いに、その場にあって喜び合いましょう。来年のイースター礼拝は、必ず教会の礼拝堂で行いましょう。その時を思いつつ、神と共に、この現実を受け止め、希望を失わないで過ごして参りましょう。

 大塚平安教会 牧師 菊池丈博
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御国をあおぎ見る

2020-04-05 09:37:44 | 礼拝説教
【詩編52編1~11節】
【ルカによる福音書23章26~43節】


 詩編52編を読みました。内容はそれほど複雑ではありません。神を神とせず、しかし、この世の権力、財力を手にした者がいたのでしょう。けれど、それは悪事を行って手に入れた財力であったようです。
 
 3節に「力ある者よ、なぜ悪事を誇るのか」とあります。続く4節も、「お前の考えることは破滅をもたらす」とあります。5節でも「お前は善よりも悪を 正しい言葉よりもうそを好み 人を破滅に落とす言葉、欺く舌を好む」と続きます。権力を手に入れるために、この世の富を手にするために時には人をだまし、欺き、世の中を渡って行こうとうとする、そういう人はいつの時代でも、どの場所にもいるものです。
 けれど、詩編の著者はこう記しました。「神はお前を打ち倒し、永久に滅ぼされる。」なぜなら、この人は、神を力と頼まず 自分の莫大な富に寄り頼み、自分を滅ぼすものを力として頼んでいたからです。
 
 この御言葉を読んですぐに思い出しますのは、主イエスのもとへやって来た金持ちの議員の話しです。彼は主イエスのもとへやって来て「先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねました。主は「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」という掟をあなたは知っているはずだ」と答えます。
 けれど金持ちの議員は「そういうことはみな、子供の時から守って来ました」と応じます。それを聞いた主は改めてこう話します。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
 しかし、その人はこれを聞いて、非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。と続きます。彼にとっては財産を手放すことは出来ない相談だと思ったのでしょう。

 なぜ出来ないと思ったのでしょうか、財産がある自分こそ自分であり、財産が無いのは自分ではない、と思っていたからでしょう。主イエスはあなたの富のあるところにあなたの心があると教えられましたが、彼の心は財産によって支えられていたともいえます。その後で、主は「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とさえ話されました。
 
 今、私たちの国はコロナウィルスの影響によって、どこも大変な状況となっていますが、私などには一番遠い世界だと思う、株式市場もどんどん値を下げています。
日経平均株価が1月には2万3千円台で推移していたのが、今は1万7千円台となり、6千円も下がりました。詳しいことはわかりませんが、大変な状況、損害であろうことは良くわかります。この世の財産はいつも揺れ動くものであり、変化するものでありましょう。それでも、私たちは世の富を求めるような者ではないでしょうか。

 なにも財産だけでもありません。自分の富を健康に置いている人もいるでしょう、家柄こそわが富とか、仕事、学力、様々なものを富としている、私たちが生きていくために、欲を持つことは大切だと思います。しかし時としてその欲が自らを滅ぼすこともあるのです。
 一夜にして、財産を失うこともあり、健康を損ねることもあるのです。この世の富は実に儚く、移ろいやすいものであることは間違いありません、

 だから、いつの時代でも、どんな状況であろうと変わることのない方にこそより頼む、私たちに財産があっても、なくても、健康であろうと、そうでなかろうと、この世の人の目から見た評価ではなく、主なる神の目から見て、「あなたがいることは喜びだよ」と告げられる神、主イエスは「あなたがたは私の友である」とさえ言って下さいました。状況に依らず、私たちの存在を喜んで下さる方にこそ、私たちは心を置きたいと思うものです。

 詩編の作者は、「私は生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。あなたが計らってくださいますから とこしえに、感謝をささげます」と主なる神に絶大な信頼を寄せていることが分かります。

 けれど皆さん、この世の富に心を奪われず、主なる神にのみ従おうとする者が、幸いな人生を生きることになるのか、と問われるとしたらどうでしょうか。時々、人から質問されることの一つに、「キリスト教を信じて、何か得になることがありますか」という質問です。得になるとは、幸いを得るとか、良い事が起こるといった意味でしょう。そう問われたら一体、私たちはどう答えるのでしょうか。
 
 むしろ、神を信じるが故に苦労する、辛い思いをすることさえあるのではないでしょうか。その最大の悲惨な姿が、主イエス・キリストの十字架ではないでしょか。誰よりも父なる神を信じ、誰よりも神に従って生きた主イエスが十字架に付けられる。今日から教会の暦では、受難週に入ります。木曜日の夜は、最後の晩餐となり、その後、主は捕らえられ、裁判にかかり、十字架刑が宣告される。翌日、金曜日は受難日となり、主イエスが十字架に付けられる場面となります。

 今日はルカによる福音書からその場面を読みました。十字架に付けられた主を見ている人々の中から、「他人を救ったのだ。神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」というあざけりの言葉があります。兵士たちは嘲笑しながら「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と侮辱します。更に、十字架には「これはユダヤ人の王」と書いた札までも掲げて、笑い者にしようとさえしています。
 
 マタイによる福音書では、主イエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と訴える場面が記されていますが、まさに絶望の極みといった場面ではないでしょうか。
 けれど、同時にルカによる福音書では十字架に付けられ、血を流されながらこう祈られたとも記されています。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」この祈りは私たちの心を打つ祈りです。
 主はこの場面において、一方においては、殆ど絶望の淵に追い込まれながら、しかしまた、一方においては徹底的に自分の為ではなく、人の為、つまりは私たちの為、罪人の一人ひとりの為の十字架であることを分かっておられたのでしょう。
 
 そのような姿に心打たれた者がいました。十字架につけられた犯罪人の一人です。
 一人は、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と嘲りますが、もう一人はその言葉を聞いてたしなめます。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに、我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪い事をしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と告白しました。
 
 人は、祈りによって変わることがあります。祈りというよりも、祈りの内側に見える愛によってこそ人は変わります。主イエスが自らの絶望の淵にありながら、尚彼らをお赦しください。とさえ祈った。その愛の姿に一人の犯罪人は自分を取り戻したのではないでしょうか。

 先ほど、キリスト教を信じて何か得することがありますかと問われたら、と話しました。私は、キリスト教を信じると、「自分自身を取り戻せます」という答えはどうだろうかと思います。
 
 私たちの世界は今、少なくともこの世を生きている私たちにとって、これまで経験したことのなかった状態に追い込まれています。日本をも含めて世界中の人々が、コロナウィルスの脅威の中で過ごしています。私たちの教会の礼拝も、ギリギリの状態で、なんとか礼拝を守っている、この状態いつまで続くのか、あるいはもっと大変なことになるかもしれません。
 
 私たちは主なる神を信じています。神を信じていない者が罰を受けるから病気になるというわけではありません。この世の財産、富を持っている人が、神から罰を受けるということでもありません。
 金持ちも、貧乏人も、年齢、信仰、信条、国、地域を越えて、コロナウィスルは拡大し続け、私たちを恐怖に陥れている状況です。

 このような極限状態、ある意味で言えば、私たちも十字架に架けられているようだと言ったら言い過ぎでしょうか。
 私自身、この日曜日の礼拝を迎えるその前の金曜、土曜は殆どうつ病になってしまのではないかと思うほどに追い詰められるように感じています。
 
 けれど、皆さん、この極限状態でも、なんとか過ごしていられるのは、主イエスが、十字架に架けられてさえ、私たちに愛を示して下さった、誰よりもあなたを愛しているよと告げて下さったこの祈りによるのではないでしょうか。人は愛によって、自分を取り戻すのです。

 CSルイスというアイルランドの作家で、豊かな信仰を示して下さった方がいます。CSルイスは「被告席に立つ神」という言葉を用いて私たちの信仰について警鐘を鳴らしました。
「現代に生きる私たちは、神様を無視しているわけではない。しかし、問題なのは、神様を被告席に立たせて、その神に様々な質問をして、答えさせようとしている。色々な疑問を神様にぶつけてそれに答えさせようとしている。その答えに納得する限りにおいて、神を信じている。しかし、それは信仰ではない」と伝えます。

 被告席に立つのは神ではなく、私たちです。私たちが神を見失う時、愛を見失い、罪の世界に生きてしまうのです。今、与えられているこの社会状況においても、決して神を被告席につけてはなりません。まして十字架につけてはなりません。
 私たちこそが、神様に問われ、あなたはこの状況の中でも、尚愛に生きろと言われていること忘れてはならないと思います。受難週に入り、益々心を静めて、神の愛をしっかりと受け止めながら、それぞれの歩みを歩んで参りましょう。

お祈りします。

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