【詩編51編1~19編】
【ルカによる福音書5章33~39節】
金曜日に東京都知事から、また神奈川県知事からも土曜日、日曜日の外出自粛のお願いが出されました。そのメッセージを聞きまして大分動揺しました。いよいよ教会の礼拝も開くことが出来ない、そのような局面に追い込まれるのではないか、不安に駆られました。
不安な心を抱えながら、幼稚園の園長室に向かい。園長と副園長の二人に「週末は外出自粛と出たようですよ」と申しましたら、お二人は既に知っておりましたが、それで?という顔をしておられた。
だから週末は不要不急の外出は控えるようにとなったから礼拝大丈夫かなと話しましたら、「先生、礼拝は不要不急ではないでしょう」と言われてしまいました。
その言葉に励まされて今日の礼拝も雪の中ですが、献げることとしました。
けれど、今回の世界中に拡大しているウィスル拡大予防の観点からすれば、人の命に係わることですから、いよいよ慎重な姿勢をもって、これからの数週間、過ごしていかなければならないと思います。
特に、今週もそうですが、4月5日の次週の礼拝は受難週です。主イエス・キリストが十字架に付けらえる、主の御受難を思いながら過ごす時期を私たちは過ごしています。なぜ、主イエスは十字架につけられなければならなかったのか、それは私たち人間の内に罪があったからです。罪を抱えて生きていたからです。
しかも、その罪は自分自身ではどうしようもない程の罪でありました。
主イエスはその罪の全てを負いつつ十字架に向かっていかれた。神の子を死に至らしめる程の罪とはどんな罪であるのか、先ほど読みました詩編51編は、そのような私たちの罪を見つめるためにも、この時期に読まれる聖書箇所として最も相応しい箇所であるといわれます。
詩編の中には、古来、七つの悔い改めの詩編と呼ばれる詩編があります。これまで取り上げてきた詩編の中では6編、32編、38編がそうでありました。そしてこの詩編51編は、悔い改めの詩編と呼ばれる詩編の中にあっても、最も重要な詩編であると言われます。 (他は102,130,143編です。)
「神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください。」という御言葉で始まるこの51編、作者は神に対して深い罪を犯し、必死にとりなして下さるようにと願い、求め、詩を記しています。
51編の1節、2節に、この詩はダビデ王の詩であり、ダビデが、ウリヤの妻であったバト・シェバと姦通の罪を犯し、預言者ナタンから叱責された時のダビデの詩となっています。学問的には、その時にダビデが記したものかどうかは分からないようですけれど、いずれにしても神に罪を犯し、また、自分の罪を悔いて、必死に祈りを捧げている様子を読むことが出来る、使用されている言葉も文学的であり、美しい詩編ではないでしょうか。
しかし、そこで改めて問われることは、私たちの罪とは何かということだと思います。
キリスト教は、人の内に罪があると話します。すると時々聞かれることに、キリスト教は性善説ではなく、性悪説を解くのかという質問です。
ここでその二つについて、詳しい話をする暇はありませんが、いずれも古代中国の学者が唱えた教えです。性善説は紀元前300年代に活躍した孟子(もうし)という人が唱えた教えで、「人は本来善であり、その善は絶えざる努力によってさらに開花される」という意味のようです。性悪説はそれに対して70年程遅く、荀子(じゅんし)という人によって唱えられた教えで、「人の性質は悪であって、だから、人は努力によって善を生きなければならない」と教え、勉強することの大切さと説いたと言われます。
キリスト教を知って来ますと、キリスト教は性悪説を唱えているのかという疑問が出て来るのだと思います。けれど、私は、キリスト教はどちらかの説を支持しているといった答えは出来ないのだろうと思うのです。
私たちが知る、聖書に記される神は、天地万物を創造された方です。その方が聖書によれば、七日間かけてこの世界を作って下さった。大切なことは、その創造において、一つ一つを「良し」とされて造られて、人を造られた時は、それは「きわめて良かった」と言われた点であろうと思います。本来、人は素晴らしい一人一人として造られたものであり、主イエスもそのように教えて下さったと思います。
けれど人間は、いつの間にか神の創造の素晴らしさを忘れ、何より神を忘れ、あたかも自分が神のようになろうとして来たと言えるでしょう。その思い上がりは、人と人との間に絶えず争いを起こし、人の命を奪い、多くの悲しみ、悲劇が繰り返されてきたと言えるでしょう。その歴史を見れば、性悪説だからというより、もっと深刻で、更に深い、強い罪に生きて来たと言うしかありません。人の努力によって贖い切れるようなものではない大きな罪を背負っていると言えるでしょう。
主イエス・キリストがこの世に来られたその目的の一つは、そのような私たちを、本来与えられていたはずの、神の「極めて良かった」という世界、希望に満ちた世界へと引き戻そうとされたということではないでしょうか。
救われた人間というのは、自分が人間であることについて、とても明るい望みを持って生きていけると思います。しかし、そのような人はなおさら、自分の罪がいかに深く、恐ろしいものであるのかを良くわきまえているのではないでしょうか。私たちは神の前において、自らの罪を思い、主イエスの十字架の恵を思わざるを得ないのだと思います。
主イエス・キリストこそが、私たちの罪を御自分の痛みとして引き受けて下さり、十字架に付けられていかれました。
私たちがこの礼拝で祈り、賛美を献げ、神の御業をほめたたえるのは、主の十字架によって、神の創造の世界に再び戻され、極めて良かったという世界へと導かれ、神の御手の中で、改めて知る自分自身の存在の素晴らしさを、感動をもって受け止めてるためだと言えるでしょう。
今日の説教のタイトルを「新しく確かな霊」といたしました。詩編51編12節の御言葉から付けたタイトルです。12編を読みますとこうあります。「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。
ここに「清い心」とあります。それは純粋で無垢な思いです。今こそ、私たちの世界は、そのような一人一人が生きる世界が求められているのではないでしょうか。
先日、綾瀬ホームの職員礼拝でルカによる福音書から話しをさせて頂きました。その箇所は、主イエスが乳飲み子を呼び寄せて、弟子たちに話しをした場面でありました。
主は「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われました。
主は、子どものようにならなければと教えて下さった。特に乳飲み子の側でその話をして下さいました。
乳飲み子というのですから、せいぜい生まれて2歳程の間の子どもたちでしょう。彼らの特徴は何かというと諦めないということです。自分でもうダメだと感じないことです。乳飲み子はハイハイからつかまり立ちとなり、そして、ついに立ちあがって歩けるようになる、しかし、その間、一体何回転ぶことでしょうか。10回、20回ではきかないでしょう。何度も、何度も、失敗しては立ち上がり、失敗しては立ち上がり、そのようにして少しも疑わず、与えられた状況を精一杯生きようとしているのです。
けれど、いつの間にか私たちは、一回失敗した、二回失敗した、三回失敗したら、もうダメだ、と自分を諦めるようになってはいないでしょうか。神の「極めて良い」という世界から離れ、自分で自分を決めつけて、時には自信を失い、時にはガッカリしたりしながら、自分はこんなものだろうと思いながら生きているのではないでしょうか。
時にはひねくれ、時には妬み、時には諦めてしまう。そのような自分を生きているとしたら、それはどんなにか罪の世界を生きていると言えるのではないでしょうか。
詩編の作者はこう記しました。「神の、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください」
新しく確かな霊とは、これまでの自分とは全く違った、過去のあの事、この事に引きずられながらの思考や行動ではなく、圧倒的に新しくされた自分を生きていいのだ。こんな自分、ろくでもない自分と思っていたけれど、そうではなかった、神の赦しの中で圧倒的に新しくされた自分を生きている、そのようにして確かな霊を与えられて、困難な世を力強く生きていけるのだと私は思います。
皆さん、今日の礼拝は2019年度最後の礼拝です。しかし、新しい2020年度に向かって、世の中は重苦しい空気に占領されています。けれど、そのような雰囲気に負けてしまうことなく、力強く、新しい思いを持って、しかし、だからこそ、より慎重にこの時を生きていきましょう。神の祝福の内に生きて参りましょう。
お祈りします。
【ルカによる福音書5章33~39節】
金曜日に東京都知事から、また神奈川県知事からも土曜日、日曜日の外出自粛のお願いが出されました。そのメッセージを聞きまして大分動揺しました。いよいよ教会の礼拝も開くことが出来ない、そのような局面に追い込まれるのではないか、不安に駆られました。
不安な心を抱えながら、幼稚園の園長室に向かい。園長と副園長の二人に「週末は外出自粛と出たようですよ」と申しましたら、お二人は既に知っておりましたが、それで?という顔をしておられた。
だから週末は不要不急の外出は控えるようにとなったから礼拝大丈夫かなと話しましたら、「先生、礼拝は不要不急ではないでしょう」と言われてしまいました。
その言葉に励まされて今日の礼拝も雪の中ですが、献げることとしました。
けれど、今回の世界中に拡大しているウィスル拡大予防の観点からすれば、人の命に係わることですから、いよいよ慎重な姿勢をもって、これからの数週間、過ごしていかなければならないと思います。
特に、今週もそうですが、4月5日の次週の礼拝は受難週です。主イエス・キリストが十字架に付けらえる、主の御受難を思いながら過ごす時期を私たちは過ごしています。なぜ、主イエスは十字架につけられなければならなかったのか、それは私たち人間の内に罪があったからです。罪を抱えて生きていたからです。
しかも、その罪は自分自身ではどうしようもない程の罪でありました。
主イエスはその罪の全てを負いつつ十字架に向かっていかれた。神の子を死に至らしめる程の罪とはどんな罪であるのか、先ほど読みました詩編51編は、そのような私たちの罪を見つめるためにも、この時期に読まれる聖書箇所として最も相応しい箇所であるといわれます。
詩編の中には、古来、七つの悔い改めの詩編と呼ばれる詩編があります。これまで取り上げてきた詩編の中では6編、32編、38編がそうでありました。そしてこの詩編51編は、悔い改めの詩編と呼ばれる詩編の中にあっても、最も重要な詩編であると言われます。 (他は102,130,143編です。)
「神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください。」という御言葉で始まるこの51編、作者は神に対して深い罪を犯し、必死にとりなして下さるようにと願い、求め、詩を記しています。
51編の1節、2節に、この詩はダビデ王の詩であり、ダビデが、ウリヤの妻であったバト・シェバと姦通の罪を犯し、預言者ナタンから叱責された時のダビデの詩となっています。学問的には、その時にダビデが記したものかどうかは分からないようですけれど、いずれにしても神に罪を犯し、また、自分の罪を悔いて、必死に祈りを捧げている様子を読むことが出来る、使用されている言葉も文学的であり、美しい詩編ではないでしょうか。
しかし、そこで改めて問われることは、私たちの罪とは何かということだと思います。
キリスト教は、人の内に罪があると話します。すると時々聞かれることに、キリスト教は性善説ではなく、性悪説を解くのかという質問です。
ここでその二つについて、詳しい話をする暇はありませんが、いずれも古代中国の学者が唱えた教えです。性善説は紀元前300年代に活躍した孟子(もうし)という人が唱えた教えで、「人は本来善であり、その善は絶えざる努力によってさらに開花される」という意味のようです。性悪説はそれに対して70年程遅く、荀子(じゅんし)という人によって唱えられた教えで、「人の性質は悪であって、だから、人は努力によって善を生きなければならない」と教え、勉強することの大切さと説いたと言われます。
キリスト教を知って来ますと、キリスト教は性悪説を唱えているのかという疑問が出て来るのだと思います。けれど、私は、キリスト教はどちらかの説を支持しているといった答えは出来ないのだろうと思うのです。
私たちが知る、聖書に記される神は、天地万物を創造された方です。その方が聖書によれば、七日間かけてこの世界を作って下さった。大切なことは、その創造において、一つ一つを「良し」とされて造られて、人を造られた時は、それは「きわめて良かった」と言われた点であろうと思います。本来、人は素晴らしい一人一人として造られたものであり、主イエスもそのように教えて下さったと思います。
けれど人間は、いつの間にか神の創造の素晴らしさを忘れ、何より神を忘れ、あたかも自分が神のようになろうとして来たと言えるでしょう。その思い上がりは、人と人との間に絶えず争いを起こし、人の命を奪い、多くの悲しみ、悲劇が繰り返されてきたと言えるでしょう。その歴史を見れば、性悪説だからというより、もっと深刻で、更に深い、強い罪に生きて来たと言うしかありません。人の努力によって贖い切れるようなものではない大きな罪を背負っていると言えるでしょう。
主イエス・キリストがこの世に来られたその目的の一つは、そのような私たちを、本来与えられていたはずの、神の「極めて良かった」という世界、希望に満ちた世界へと引き戻そうとされたということではないでしょうか。
救われた人間というのは、自分が人間であることについて、とても明るい望みを持って生きていけると思います。しかし、そのような人はなおさら、自分の罪がいかに深く、恐ろしいものであるのかを良くわきまえているのではないでしょうか。私たちは神の前において、自らの罪を思い、主イエスの十字架の恵を思わざるを得ないのだと思います。
主イエス・キリストこそが、私たちの罪を御自分の痛みとして引き受けて下さり、十字架に付けられていかれました。
私たちがこの礼拝で祈り、賛美を献げ、神の御業をほめたたえるのは、主の十字架によって、神の創造の世界に再び戻され、極めて良かったという世界へと導かれ、神の御手の中で、改めて知る自分自身の存在の素晴らしさを、感動をもって受け止めてるためだと言えるでしょう。
今日の説教のタイトルを「新しく確かな霊」といたしました。詩編51編12節の御言葉から付けたタイトルです。12編を読みますとこうあります。「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。
ここに「清い心」とあります。それは純粋で無垢な思いです。今こそ、私たちの世界は、そのような一人一人が生きる世界が求められているのではないでしょうか。
先日、綾瀬ホームの職員礼拝でルカによる福音書から話しをさせて頂きました。その箇所は、主イエスが乳飲み子を呼び寄せて、弟子たちに話しをした場面でありました。
主は「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われました。
主は、子どものようにならなければと教えて下さった。特に乳飲み子の側でその話をして下さいました。
乳飲み子というのですから、せいぜい生まれて2歳程の間の子どもたちでしょう。彼らの特徴は何かというと諦めないということです。自分でもうダメだと感じないことです。乳飲み子はハイハイからつかまり立ちとなり、そして、ついに立ちあがって歩けるようになる、しかし、その間、一体何回転ぶことでしょうか。10回、20回ではきかないでしょう。何度も、何度も、失敗しては立ち上がり、失敗しては立ち上がり、そのようにして少しも疑わず、与えられた状況を精一杯生きようとしているのです。
けれど、いつの間にか私たちは、一回失敗した、二回失敗した、三回失敗したら、もうダメだ、と自分を諦めるようになってはいないでしょうか。神の「極めて良い」という世界から離れ、自分で自分を決めつけて、時には自信を失い、時にはガッカリしたりしながら、自分はこんなものだろうと思いながら生きているのではないでしょうか。
時にはひねくれ、時には妬み、時には諦めてしまう。そのような自分を生きているとしたら、それはどんなにか罪の世界を生きていると言えるのではないでしょうか。
詩編の作者はこう記しました。「神の、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください」
新しく確かな霊とは、これまでの自分とは全く違った、過去のあの事、この事に引きずられながらの思考や行動ではなく、圧倒的に新しくされた自分を生きていいのだ。こんな自分、ろくでもない自分と思っていたけれど、そうではなかった、神の赦しの中で圧倒的に新しくされた自分を生きている、そのようにして確かな霊を与えられて、困難な世を力強く生きていけるのだと私は思います。
皆さん、今日の礼拝は2019年度最後の礼拝です。しかし、新しい2020年度に向かって、世の中は重苦しい空気に占領されています。けれど、そのような雰囲気に負けてしまうことなく、力強く、新しい思いを持って、しかし、だからこそ、より慎重にこの時を生きていきましょう。神の祝福の内に生きて参りましょう。
お祈りします。