日本キリスト教団 大塚平安教会  

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神を待ち望む

2020-02-03 14:06:48 | 礼拝説教
【詩編42編1~8節】
【ルカによる福音書17章20~33節】

 2月に入って最初の主日が与えられました。私はこの一週間、今日の説教題「神を待ち望む」というタイトルを付けておりましたが、「神を待ち望む」とはどんな意味であろうか。なぜ、神を待ち望むのであろうか。色々と思い悩んでおりました。
「神を待ち望む」という言葉で、特に今スグに思いますのは、中国の武漢から発生して、世界中に広がり見せている新型コロナウイルスによる病と与えられている状況であろうと思います。多くの報道、ニュースで連日伝えられておりますので、ここで詳細を述べる必要は無いと思いますが、今朝の段階で、患者数が一万四千人に迫る人数となり、死者は300人を超えたとありました。中国以外の国においても、特に日本ではわかっているだけで20名です。
 恐らく、これからも暫くの間は、世界的に患者数は増えていくでありましょうし、被害が広がらないようにと願う他ありません。現在のところ、新型肺炎に対する有効な薬もなく、治療方法も確立されていませんし、既に私たち自身も他人事、よそ事とは言えない状況となるかもしれません。まさに「神を待ち望む」思いで推移を見守るしかありませんし、現場で働いておられる医者、看護師も非常なストレスと疲労があると伝えられていますし、医療現場こそが神を待ち望んでいると言っても良いのではないでしょうか。

 ここで私が言うところの「神を待ち望む」という意味は、具体的に言えば、神の力によって病気がこれ以上の広がりを見せないように待ち望むことであり、良い薬、良いワクチン、特効薬、確かな医療体制を待ち望むということであろうと思います。そこで気がついたことは、今日は詩編42編から読みましたが、その詩編の中に「神を待ち望む」と記した詩編の著者も、もっと具体的な何かを望んでいるのだということでありました。

 詩編42編は、詩編43編と対の詩編と言われていますが、42編の1節、表題の所をご覧になるとこう記されています。「指揮者によって。マスキール。コラの子の詩」マスキールという言葉は、その意味はよく分からないようですが、言語的に分解して考えると「教訓」という意味になり、更に分解すると「失敗からの悟り」となるとありました。
 コラという人は旧約聖書の民数記に登場する人ですが、出エジプトを果たしたイスラエルの民、モーセを指導者として歩んでいた恐らく2年後の頃に、モーセに対して反旗を翻し、反乱、クーデターを企てた人として記されています。エジプトを出たイスラエルの民は、2年の荒野での生活をしながら主なる神が指し示すカナンの土地を目指し、到着したのです。人々は喜びました。早速モーセは人を12人選んで、カナンの土地を偵察に行かせるのですが、その内10人が弱気になり、カナンの土地には大きく、強い人々が住んでいて、攻めたとしても負けると言ったのです。神様が共にいるので、行きましょうといったのは、後のモーセの後継者となるヨシュアとユダ族のカレブという2人だけでありました。10対2ですから、結局、イスラエルはカナンの土地に入らないとなり、しかし、それならなぜ自分達はここにいるのか、エジプトに帰るのか、荒野にいるのかと揉めるのです。しかも、そこに主なる神が現れて、なぜ、私が共にいるのに、攻めいかないと決めたのかとモーセを叱るわけです。
 すっかり混乱したモーセは、神に謝り、赦しを乞うことになります。主なる神は赦すかわりに、あなたがたは40年間、荒野をさまようであろうと告げることになります。
それを聞いたイスラエルはまた、大きく嘆くわけですが、そんな混乱の中にあって、先ほどのコラが現れて、仲間と共に、あるいはコラに従った人々250人を引き連れて、モーセに対して反乱を起こし、「あなたはあなたの分を越えている。私たちは共同体であって、全員が聖なるものであるのに、なぜあなたは会衆の上に立とうとするのか。そういって詰め寄ります。詰め寄られたモーセも、その時はだまっていませんで、「分を越えているのはあなただ。」と言って一歩も譲らない。
 次の日の朝、神の幕屋、神殿の前にモーセと兄のアロンが立ち、その前には、それぞれの手に香を持ったコラをはじめとする250人が集まるのです。モーセが神に祈った時、コラと250人の足元の地面が割れて250人全員がその割れ目に飲み込まれてしまったというのです。更に神の火が彼らを燃やし尽くしたとあります。このようなモーセに対する反乱は非常に珍しい場面だと思います。
その後、残されたコラの子孫、ですからコラの子となるわけですが、イスラエルの共同体に共にいることは出来ず、逃げたのだと思います。詩編42編7節には「ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から」とありますが、逃げたその先は、大分北の山々が連なる場所であったものと思わされます。
その場所から、彼らは「神を待ち望んだ」のです。神よ、私たちは祈ります。神を待ち望みます。と祈るのです。コラをはじめとする250人は神の御前に大きな過ちを犯した。その失敗を悔いて、教訓として受け止めながらも、願い続けました。
 2節には「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。」という詩で始まります。先ほど讃美歌の130番を賛美しました。この詩編42編の詩から作られたジュネーブ賛歌となっている讃美歌です。16世紀の宗教改革以来、特にスイスのジュネーブで宗教改革の指導者であった、ジャン・カルバンのもとで歌われた讃美歌です。実は131番も、132番も、詩編42編からの讃美歌となっていますが、如何にこの詩編42編が人々から愛され、歌われて来たのか、良くわかります。

 涸れた谷に鹿が、この鹿は雌の一匹の鹿です。一匹の雌鹿が、谷の水を求めて険しい山を降りて来たのでしょう。雨の降らない乾季であったのでしょう。ですから山のどの動物も水を求めていたに違いない、どう猛な熊や狼がいたかもしれない。けれど喉の渇きは耐え難く、必死の思いで山を降りたのに、その谷に水が無いのです。

 鹿は悲しい鳴き声を空に向かって鳴いたかもしれません。

 そのような悲しみ、神を待ち望む姿、コラの子孫たちもまた、自分達の過去に行った過ちを悔いながら、どうか主なる神よ、私たちがまたイスラエルの信仰共同達に伴うことが出来るように、自分達の過ちを赦し共々に神の民として歩めますようにと願い続けている詩編42編となります。

 具体的には、彼らは神の赦しを待ち望み、神によってイスラエル共同体に戻れるようにと願う思い。それが「神を待ち望む」という意味だと思われます。

 新約聖書からルカによる福音書の17章を読んでいただきましたが、17章20節に登場するのは、ファリサイ派の人々です。ファリサイとは「分かたれた人」という意味だと言われます。世の中の律法を守らない人、守れない人とは自分達は違う、自分達は律法を守り、信仰的手本として歩んでいる、そういった自負心を持った人々として、ファリサイ派の人々は登場します。聖書ではもっぱら、主イエスの敵役のようにして登場しますが、この場面においては、むしろ主イエスに真剣に問うていたのではないかとも言われています。「主よ、神の国はいったいいつ来るのでしょうか。」そのように問うたのです。彼ら自身、律法を一生懸命に守りながら、しかし、心の中では神の国の到来を実感していなかったのでしょう。そういう実感がなかったので、主イエスに尋ねたのでしょう。その問いに対して主の答えは「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」これが主イエスの答えでした。

 ここで、ファリサイ派の人々が求めた「神を待ち望む」思いとはどのような思いだったのでしょうか。色々と思わされますが、一つは、自分達は神の民でありながら、しかし、現実的にはローマの属国としての立場から免れていないという思いだったかもしれません。神の民がなぜこのような目に遭っているのか、ここになお神が支配しておられるという現実が見えてこない。この現実を前に神のされることであるからと簡単には納得出来ないという思いがあったかもしれません。
 
 ファリサイ派と立場を逆にしていたヘロデ党と呼ばれる人々がいました。彼らは与えられている現実を上手に、上手く生きていくことが良いと考えていたようです。そのような現実主義なヘロデ党の人々より、ファリサイ派の人々はずっと真面目で真剣であったと思います。
あるいは、最初に申し上げましたような流行り病の流行や、それによって命を落とす人々もいたでしょうし、経済的な貧富の差からくる悲劇は幾らでもあったでしょうし、そのような人々は皆、罪のある人と考えたかもしれませんが、しかし、主イエスに真剣に問うたファリサイ派の人々は、もっと深いところで、「神を待ち望む」思いだったのではないかとも思います。

 この世の不公平や、繰り返される悲劇、病、悲しみ、怒り、それはファリサイ派だから全て免れるわけではなかったはずです。どんなに祈りを献げても、どんなに良い行い、あるいはどんなに献げものを献げたとしても、免れない悲しみを幾度も体験していたかもしれません。それ故にどんなに真剣であったかとも思うのです。

 私たちの社会においても、そのような思いは幾らでもあると思います。新型肺炎に限らず、どんなに医学が発達したとしても、癒すことの出来ない病に苦しんでいる人々は大勢います。精神的な面で、メンタル面で病んでいる人は増加しているように思います。教会に来て、祈りを献げ、神に必死に祈れば全て解決する、こともあるとは思いますけれど、免れない出来事も現実的にはあるのです。ファリサイ派の願いは現代を生きる私たちの願いでもあるかもしれません。神を待ち望む、神の救いを待ち望む、神の祝福を待ち望む、神の愛を待ち望む。人では未だなし得ない神の愛、神の希望、神の力を、私たちは待ち望んでいるのです。

けれど、主イエスはそのような問いに対して「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と教えてくださいました。このことは私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。神の国はあなた方の間、つまり、私たちの間にあるということでしょう。
このことは、神を待ち望む姿勢が私たちに問われているのではないでしょうか。

 先日、高校生の娘が、学校の休みがあって、一日中リビングでゴロゴロとしていました。猫と一緒にゴロゴロと転がっていました。それで家に帰って来た私の顔を見るなり、「なんか楽しいことない」って聞くのです。何回も言うのです。「なんか楽しいことない」それで少し考えまして、お前、そうやってゴロゴロしているけれど、学校の宿題とか与えられている課題とかあるだろう、それを一生懸命やってごらん、宿題でも勉強でも一生懸命にした後に、部屋をゴロゴロとしてご覧、ゴロゴロするのって楽しいなぁって思うから、って言ったのです。そうしたら怒って、自分の部屋に行ってしまいました。失敗したかなと思いましたけれど、少しだけ勉強したようです。

 皆さん、神を待ち望む、私たちが与えられている状況は一人ひとり違うかもれません。一人ひとりが神を待ち望む理由が違うかもしれません。神を待ち望む願いは違うかもしれません。けれど主イエスは、神の国はあなた方の間にあると言われました。神の国は私たちが生きている間に、それは人と人との間にということもかもしれません。人の心の中にという意味かもしれません。けれど私たちの間に確かに神の国があるならば、私たちはその神の国を、ただ待ち続けるだけでなく、もっと積極的に、前向きに、前を向いて、神様に与えられている命が喜ぶように生きていきましょう。

 今日は、午後から教会全体懇談会があります。2020年度に向けて、様々な思を話し合えればと願っています。そしてその願いのその先には、大塚平安教会に集う人を見ていると、確かに神様がおられる、神様が働いておられるなぁ、私もそのような方と共に歩みたいなぁ、そう思ってもらえるとしたら、どんなに神の国を指し示しているのかと思うのです。皆さん、主なる神は、私たちと共におられます。既に復活の主イエスが私たちと共におられる以上、神の国は私たちの間に確かにあります。その国をしめしつづけていけますように、心から願います。

 お祈りしましょう。



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