日本キリスト教団 大塚平安教会  

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

わたしの助けとなられる神

2019-12-16 11:04:09 | http://www.ohtsukaheian.jp/
【詩編30編1~13節】
【ヨハネによる福音書6章16~21節】


 詩編30編を読んでいただきました。この30編を読みまして、すぐに気がつくことがあります。それは「上げる」、「下る」が何度も登場しているということです。
 2節に「主よ、あなたをあがめます」という主なる神を賛美する御言葉からはじまり、「あなたは敵を喜ばせることなく、わたしを引き上げてくださいました。」と続きます。4節には「主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ、墓穴に下ることを免れさせ わたしに命を与えてくださいました。」ともあります。10節には、「わたしが死んで墓に下ることに、なんの益があるでしょう。」も記されます。

 「陰府」あるいは、「墓穴」は、死の世界です。あるいは闇の世界、神がおられない世界、詩編の作者は、危うく陰府の世界へと下るところであった。その原因はわかりませんが、1節に「神殿奉献の歌」とありますから最も考えらえるのは、戦争があって、そこから勝利を得て凱旋帰国したのかもしれません。戦いの中で行く度も命の危機がありながらも、勝利してきた。そのような喜びの中で作られた歌かもしれません。
 あるいは、もっと個人的な歌と考えるなら、詩編の作者は、病気であったのではないかとも言われます。それ故、その病気によって陰府に下り、墓穴に下る恐怖に生きていた、けれど回復、健康を取り戻し、感謝して歌った歌であるとも考えられます。

 色々と想像は出来ますけれど、何かしらの苦難の中を経験し、潜り抜けて、しかしそれを乗り越えることが出来た。ですから、ある説教者はこの詩編30編にはし「壮大な感謝の祈りの世界がある」と表現しています。
 
 地上に生きる作者が、陰府の世界を垣間見ながら、しかし、天と地と陰府の世界の全てを支配される神が、「泣きながら夜を過ごす」したこの自分を、しかしその後「喜びの歌と共に朝を迎えさせて」下さった。

 12節には「嘆き」が与えられたけれど、その嘆きを踊りと変えてくださった。苦難、苦しみの象徴でもある「粗布」を脱がせて下さり、粗布の代わりとして喜びを帯びとして着せて下さった。

 この方によって、自分は「癒され」「命を得て」助けが与えられた。主なる神に対する壮大な祈り、感謝の祈り、そして13節には「わたしの魂があなたをほめ歌い 沈黙することのないようにしてくださいました。わたしの神、主よ とこしえにあなたに感謝します。」と主に対して、心からの祈りを献げる、大変スケールの大きい、心の籠った、感動に満ちた詩編であると思います。

 丁寧に読めば、読むほどに感動が与えられる思いを持って読むことが出来ました。そのようにして主なる神は、私達の人生の助けてとなって下さる、それは全く正しいことだと思いますし、だからこそ私たちは、こうして毎週の礼拝に集い、主を称え、主を賛美し続けているとも言えるでしょう。

 今日の説教題を「わたしの助けとなられる神」と致しました。神様とは、私達が困った時、迷った時、苦難の時、助けて下さる方である、それは間違いのないことでありましょう。

 今年もあと一か月ちょっとでクリスマスを迎えます。御子イエス・キリストの誕生を祝う時です。この世の社会は既に教会よりずっと早くクリスマス商戦に突入しています。しかし、12月25日を過ぎると、また見事にお正月バージョンに変化し、クリスマスのクの字も見ることはなくなってしまう。それが毎年のことです。

 お正月になりますと、日本人は宗教を信じない人々が多いと言われますが、それでも毎年、凡そ8千万人から9千万人の方々がお寺や神社に初詣に行くと言われます。

 日本の総人口から見ても、凡そ70~80%の方々が初詣に行くのです。皆が行くから行くという人もいるでしょうけれど、信仰心が無いなんてとんでもないと思います。

 日本人は、実に豊かに目に見えないけれど、大いなる神に対する畏敬の念を持っていると思いますし、神の教え、仏の教えを下らない無用の教えであると考えている人は殆どいないと思います。

 先日、私が生まれ育った岩手の田舎から、小学校の同窓会のお知らせが来ました。来年の2月に行うというのです。私の年代は来年度になると丁度還暦を迎えます。その区切りもあって同窓会をしようというのです。数年ぶりの同窓会ですから、私もとても楽しみにしていましたが土曜日の夕方からというので、行けそうもありませんけれど、そのお知らせの中に、神社のお札を希望する方は4千円とありました。それだけでも希望の方は送りますというのです。

 その神社の神主も、私の高校の同級生で親友とも呼べるほどの付き合いをした友達です。どんなお札を準備されるのか分かりませんが、還暦ですから、恐らく無病息災とか、健康祈願とか、家内安全といったところでしょう、学業成就とか、商売繁盛などはあまり無いかもしれません。出産祈願も、あるかもしれませんが、恐らく無いでしょう。いずれにしても購入しませんけれど(笑) 私以外の殆どの仲間は購入すると思います。

 私もキリスト教でなければ購入したかもしれません。でも、私はキリスト教で本当に良かったと思います。4000円払わずに済みます。(笑)

日本人の宗教観と、キリスト教の違いはどこにあるのか。多くの事柄について申し上げることがあるように思いますが、私が恐らく最も違っていると思う一つは、神と人との関係性の問題です。

 マルチン・ブーバーというユダヤ人哲学者が、「我と汝」という言葉でもって、この世界を説明しました。私自身その意味の深さを十分に把握しているわけではありませんが、この世界は私だけがいるのではなく私とあなたがいる、すなわち「我と汝」の世界という関係で成り立っている。そこにこの社会があるというのです。

 主なる神は、私達を造られました。創世記1章26節に記されています。「我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うすべてを支配させよう。」私たちは神によって、神に似た存在としてこの世に生まれてきました。けれど神に似た存在とは、神ではないという意味です。

 詩編8編にはこうあります。「神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように その足元に置かれました。」

 主なる神は、私達を神に似せて、しかし、神に僅かに劣る存在として造られた。劣るとは、欠けがあるという意味ですけが、欠陥品という意味ではありません。私達は欠陥品としではなく、神に僅かに劣る存在、つまり、1人では生きられない存在として造られたのだと思います。

 だから人は助け合う存在として、互いに強い絆を持ち、その関係生によって豊かになっていくようにと造られたのです。人と人との出会いが、その人を豊かにしていくのです。
けれどまた、人と人との出会いは、時として誤解を招くこともありますし気が合わないということもあるでしょう。

 この人こそ私の助けと思っていた夫がなんと役に立たない。我が助けと思っていた妻が浪費ばかりする。老後の助けと思っていた子どもが、老後になってもこっちが世話をするということもあります。あの人がもう少ししっかりしていたら、この人がもう少ししっかりしていたら、あの牧師も役に立たないけれど、こっちの人も役に立たない。

 そのようにして人と人の間で豊かになるのなら良いのですが、人と人の出会いは腹立たしくなることもある、かもしれません。

 腹立たしくなるというのは実はその相手を頼っているという事でもあって、頼るのではなくて、私がその相手を必ず幸せにするというふうに、互いがそう思えるのならば、そこに全く違った関係、まさに助け合うという関係となれるのですが、残念ながら中々そうならない現実もあるようです。

 だから、私達の本当の助けてとして、主なる神は、決断され、神のままでいることを良しとされずに、人の姿をとって、しかも徹底的に謙遜になって、私達を愛するため、私達を助けるために、この世に誕生してくださった。生きる神、生ける神として私達の前に現れて下さった。そこに確かな人格的な関係を築いて下さり、私とあなたという関係を築いて下さり、確かな絆をそこに示して下さった。
それがキリスト教の他の宗教には見られない、人格的な関係を持った神としての姿をみることが出来ます。

 人格的な神としての、主イエスが示される神の助けとは、どういう形なのでしょうか。お札のようにして家内安全、健康祈願のような形として示されるわけではありません。今日は新約聖書からヨハネによる福音書の6章16節からの箇所を読んでいただきましたが、弟子たちが船にのって、湖を漕ぎだしたという場面であります。

 この話はマタイによる福音書にも、マルコによる福音書にも、同じような話が記されてありますが、どの福音書を読みましても、弟子たちだけで舟を漕ぎ出したという場面は変わりません。そして、凡そ25~30スタディオンばかりこぎだしたところで、風が吹き出して湖が荒れだすのです。1スタディオンは185mとありますから、岸から、4㎞から5㎞は既に離れています。他の福音書には湖の丁度真ん中当たりとありました。行くことも帰ることも出来ない。それでも、進んで行かなければならない。漕ぎ続けなければ沈んでしまう、そういう状況だったのではないでしょうか。
 
 弟子たちは、誰一人として、「大丈夫だ、イエス様がおられるから、何の心配もない。祈れば大丈夫。ゆっくり休んでいよう」とは言いませんでした。勿論、休むこと、祈ること、大切でしょう。でも、頑張るところ、踏ん張るところ、励むところがあって、そこで頑張れる、そこで踏ん張れる、そこで励むことが出来る、その踏ん張る中にあって、主イエスがやって来られるのです。しかも弟子たちの誰もが思っても見ない形で主イエスが現れて下さった。弟子たちはその登場に恐れをなすほどであったことがわかります。

 この出来事は、神の助けの、あり方を示すものではないでしょうか。大切なことの一つは、弟子たちの頑張りと踏ん張りです。勿論必死であったに違いありません。神様がきっと助けて下さるという信仰を持っていたことは間違いありません。しかし、現実は嵐の中なのです。

 詩編30編の詩編の作者にしても同じだと思います。それが戦争であったのか、病気であったのか。けれど詩編の作者は戦争にしても、病気にしても、神様はきっと助けて下さるから大丈夫と何もしなかったのではありません。どれほどの墓穴に下るかと思い、どれほど泣きながら夜を過ごしたか、どれほど嘆き、どれほどに粗布をまとう思いを生きてきたであろうか、そこに詩編の作者が、どれほど必死になって自分との戦いを戦ったが伺えると思います。
 その戦いが無ければ、きっと喜びの歌と共に朝を迎えることも、喜びを帯としてくださることも無かったのではないでしょうか。
 
 もちろん、神はわたしの助けとなって下さいます。けれど、その助けはもしかしたら自分の願いとは違う結果となるかもしれないし、舟の上の弟子たちのように、自分にとっては驚きとして受け止めることになるかもしれません。それでも尚、主なる神、主イエス・キリストとの人格的な関係、流れる血のように生きる命の関係、すなわち主がおられるだから大丈夫、だけど、自分ができることを精一杯なしてなお、主を待つ。
 
 主イエスは、「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」とも話して下さいました。
 
 現実を見て諦めるのではなく、こんな状況だからと嘆くのではなく、こんな現実の中で、こんな状況の中で、求め続け、探し続け、門をたたける、そのような信仰をわたしたちは養って参りましょう。そして、その先には必ず願う場所へ、助けてとしての神が導いて下さいます。ヨハネによる福音書の6章20節を最後にお読みます。
 「わたしだ、恐れることはない。」そこで彼らはイエスを舟に向かえ入れようとした。すると間もなく、船は目指す地に着いた。」私達も、それぞれに目指す地に向かって、主を助けとして過ごして参りましょう。  お祈りします。
コメント

祝福と平和を与えらえる神

2019-12-16 10:45:08 | http://www.ohtsukaheian.jp/
【詩編29編1~11節】
【ヨハネによる福音書12章20~24節】

 先週の月曜日、私達の教会は教会創立70周年記念コンサートを行いました。ドイツよりクリスト加藤尚子さんと、アナ・ガンさんがお出で下さり、ピアノとソプラノの歌声による素敵なコンサートを行って下さいました。この礼拝堂が一杯の状態で、110名以上の方、初めての方もおられ、久しぶりの方もおられ、懐かしくお会いした方もおられました。良い交わりの時も持てたと思います。本当に素敵でした。

 コンサートが終わりまして、私はその日、もう一つ、地区の教師会が相武台教会で行われるということで、こちらの方も、責任があるものですから、大分遅れましたけれど顔を出しました。その日は、厚木上教会にこの4月から赴任して下さった金沢正善先生が役割を担ってお話をして下さいました。金澤先生は50代で献身を決意して学校を卒業したのが55歳、それから15年と話しておられましたので、今70歳頃だと思います。いや~70歳で、また新しい教会を牧会されようとしているのか、私は70までには出来れば隠退したいなどと思っていますけれど、金澤先生、さすがにお若く、声も張りがあってとてもお元気に張り切っておられました。

 私は遅れて到着しましたので、先生の全部の話しを伺うことは出来ませんでしたが、もともとは理系の勉強をされていた方のようで、専門は物理化学という分野なのでしょうか、ヘリウムとか窒素とか水素あるいは酸素と、色々な気体を扱う話しを沢山されておられた。そんな話の中で、宇宙の話しとか、海の深い底、深海の話しとか多岐に及ぶ話しをして下さって大変面白く伺いました。その中から創世記1章の天地創造の話しをして下さいました。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」創世記1章2節に記されています。
 
 金澤先生がおっしゃるには、混沌というのは、先生が学んでいた学問の中では安定した状態と言えるんですよと話して下さった。混沌というのは色々な物質が交じり合った状態で、この混じりあっているというのが安定しているのだそうです。

 その安定している状態に対して、神が「光あれ」と話された。すると光があった。水の中に大空があれ、と言われた。すると空と水に分かれた。そのようにしてどんどん分かれていく度、安定していたものが不安定になるのだというのです。
 純度が増すとか、「純粋なもの」という言葉もありますが、純粋というのは案外科学的には不安定なものという考え方なのかもしれません。

 そんな話を聞きますと、動物にしても、植物にしても純粋であればあるほど、案外弱かったり、人にしても、あまりにも純粋な人であるとか、あまりにも潔癖症とか、ストイックな人というのは、案外この世を生きていくのが大変だったりするところと繋がっているのかもしれない、そんなことを思わされております。

 話は変わりますが、バアルの神と呼ばれる神が旧約聖書に度々登場します。列王記上18章には預言者エリヤ一人とバアルの神の預言者450人が旱魃の非常事態に対して雨乞いの対決をするという場面が記されています。バアルの預言者450人がどんなに叫んでも、祈っても雨が降らなかったのに、エリヤが主の祭壇を造り、献げ物を献げて祈りましたら、その祭壇に主の火が降って、焼き尽くす献げ物をと薪も石も、焼き尽くしたとあります。

 主の火は恐らく雷を意味しているのでしょう。雷は、私達の国では嵐や災害とも結びつき、古来より恐ろしいものという認識がありますが、バアルの神を信じていた地域では、恐ろしいことは恐ろしい、でも一方では雷の音と雨は、乾いた季節、乾季の終わりを意味するようです。これからは恵の雨の季節となるという合図、印のように思われていたようです。これから農業が本格的に出来るという喜びです。と同時に、もう一方では雷の音、これは神の声としても崇められていたようでもあります。
 
 また、バアルの神は、一人の神というよりは、バアルの神がいて、その下に沢山の神々がいた。金澤先生流にいうとすれば、神様も沢山いたほうが安定するのかもしれません。(笑)
 
 今日読んで戴きました詩編29編を読みますと、最初に「神の子らよ、主に帰せよ」とあります。この神の子らとは、もともとカナンの土地に根付いていたバアルの神の下にいた神を、「神の子ら」と言ったのではないかとも考えられている様です。
 29編を全体的に読みましても、受ける印象は、自然と神の関係性を告げているようにも思います。特に3節以降には、立て続けに、「主の御声」という言葉が登場します。
 
 この「主の御声」を雷の音と考えるとすれば、分かり易く感じます。「主の御声は水の上に響く」「主の御声は力をもって響く」「主の御声は杉の木を砕く」「主の御声は炎を裂いて走らせる」と言った言葉の数々は、雷の音を連想させるものだと思います。
 
 但し、勿論、この詩編はバアルの神について賛美しているものではなく、まさに天地創造を果たし、イスラエルの民を導きエジプトの地からカナンの地までを導いた「アブラハム、イサク、ヤコブの神」とも呼ばれる「主なる神」を賛美している詩編ですから、「神の子ら」とは、神の下にいる神というよりは、神の天使とも言えなくはないと思いますけれど、むしろイスラエルの民を指し示す言葉であり、それは、すなわち私達をも指し示しているのではないでしょうか。
 
 イスラエルの民が、そして、私たちの一人一人が主なる神を賛美する。混沌さえも作られ、そこからこの私達の世界を作られ、不安定というよりは秩序を与え、この世を造られ、私達人間は、神に似る者として作られました。

 更に、旧約聖書の神は、イスラエルの人々、地上の人々に対して、様々な方法でもって語りかけています。それは、時にはアブラハムに対して、あるいはモーセに対して、直接的に、主なる神が語り掛けた場面も多くみられますけれど、出エジプトを果たし、荒野を旅した民に対しては「昼は雲の柱、夜は火の柱」でもって民の先頭を離れることはありませんでした。なによりも神は、神の御言葉を告げるエリヤ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、また多くの預言者の声を通して主なる神を示して下さいました。
 
 時には、直接的に、時には自然現象を用いて、時には預言者を用いながら、まさに「神の御声」を伝え続けられました。それは、人に聞こえる言葉、見える現象、感じる取ることが出来る霊的な御言葉を用いて語り掛け、神の救いへの道、私達にとっては時間的、歴史的な流れを作られ、その流れの中で、主なる神の臨在を示し続けて下さったとも言えるでありましょう。
 
 そしてその神は、新約聖書に至る時、自然現象や預言者ではなく、私達によりはっきりとわかるように、主イエス・キリストという方を誕生させて下さり、この方を通して、神の愛を知るようにと取り計らって下さいました。

 今日は、ヨハネによる福音書を読んで戴きましたが、その1章1節からの御言葉にはこうあります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、始めに神と共にあった。万物は言によってなった。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」

 主イエス・キリストは神と共に天地創造の最初からおられ、神の言として語りかけ、神の御声としてこの世界を創造され、全ての命の根源となられ、人々を照らす光となられました。
 
 詩編29編の最後の11節には「どうか主が民に力をお与えになるように。主が民を祝福して平和をお与えになるように。」と記されています。
 
 どうぞ神様、私達にあなたの力を、あなたの平和を与えて下さいと祈りながら詩編は締めくくられる。その願いは、主イエス・キリストによって成就し、私たちは神の力が与えられ、神の平和が与えられたのです。
 
 では、どのようにして与えられたのか。一言でいうとすれば、神様が本気になられたということではないでしょうか。

 最初に金澤先生が話をされた、混沌とは安定した状態という説明をなるほどと伺っていましたが、それでは天地創造は、不安的なのかとすぐに思いました。皆さんもそう思われたかもしれません。
 科学的な安定とか、不安定について私には良く分かりませんけれど、混沌という安定した状態、少なくともそのような安定からは何も生み出されるものが無かったと言えるのではないでしょうか。主なる神は何の無い状態を良しとはされませんでした。

 だから、光あれと言われ、光があった時にそれは「良かった」と言われたのです。空と水が別れ、自ら陸が出来、太陽と月と星が作られ、鳥、魚、動物が作られていった、その一つ一つが作られて行く度に、それは「良かった」と神は言われて、私達人間が土の塵から作られた時、主なる神は「極めて良かった」と言われたのです。なぜなら、それが神の思いだからです。神が本気になって、この世界を作られた、神が本気になって私達人間を創造して下さった。そして人を御覧になって「極めて良かった」と言われているのです。

 更に、旧約聖書を通して、主なる神は御言葉によって、見える姿でもって、自然現象によって、雲の柱、火の柱でもって、預言者を通して、その時その時に神の本気を示して下さり、イスラエルの民を御自分の指し示す祝福へと導かれようとされました。けれどそれはついに適うことがありませんでした。「極めて良かった」状態が維持されることはありませんでした。

 だから、主は更に本気となられて、私達の世界に天地創造の最初からおられた御子イエス・キリストを誕生させて下さった、これが神の本気ですよ。主イエスは、地上のご自分の生涯を神の愛を示し続けて生きられました。病の人、弱っている人、涙している人の所へ行っては、慰め、祈り、御言葉を語るだけでなく奇蹟の業でもって、一人一人の人生を取り戻して下さり、新しい命へと導いて下さいました。

 けれど、主イエスの本気は私たちが思いもよらない形で成就されました。それは、先ほど読んでいただいたヨハネによる福音書にこう記されます。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」人の子が栄光を受ける、それは主イエスの十字架刑を意味しています。主はこの時、主の本気を弟子たちに告げられたのです。

 神の御子が本気になり、私達を神の方向へ向けさせるために、主は十字架刑を受け入れ、しかしそこで終わらずに、三日の後に復活され、弟子たちにその姿を現されただけでなく、聖霊の力をも用いられて、弟子たちはどんなにか神の力が与えらえたか、それは私たちの良く知るところであります。
 
 神の本気を受けた人々は、自分の命を顧みることなく、主イエスの福音を本気で宣べ伝え始めたのです。その思いが、今も確かにこの教会に宿っていると私は思います。
 
 大塚平安教会は今年で創立70年、先週月曜日はその記念のコンサートを行いました。思えば既に一年半も前から準備してきたコンサートです。演奏され、歌われたお二人は、日本中6箇所でコンサートをしてこられ、私達の教会がラスト、フィナーレのコンサートでしたが、きっとどこの場所のコンサートで行ったよりも、この教会のコンサートを喜んで下さったと私は思います。なぜなら私たちはどこよりも本気で、準備したからです。本気の気持ちは人に力を与え、祝福と平和がそこに生まれます。

 コンサートの前日の礼拝は、召天者記念礼拝でありました。この70年の間、大塚平安教会を本気で支えて来て下さった信仰の先達を覚えての礼拝でありました。70年と一言でいうとしても、その歴史にどれほどの喜び、祝福が与えられてきたかと思うと同時に、苦悩、混乱、悩みもまた同じように与えられてきたに違いありません。

 けれど、そのような状況にあって、いや、どのような状況にあっても、主イエス・キリストの祝福と平和が与えられ続けられたからこそ教会は神の教会として、歩み続けてこられたに違いありません。私達もまた、そのような歩みを歩んで参りましたし、これからも歩んで行きたい、一緒に歩んで行きましょう。ここに、神の祝福と平和がある、そう告げ知らせながら、この一週間も共々に過ごして参りましょう。

 お祈りします。
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