日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

主の鍛錬を生きる

2019-09-15 18:01:56 | http://www.ohtsukaheian.jp/
【詩編22編23~32節】
【ヘブライ人への手紙12章1~7節】

 先週は「子どもの教会」との合同礼拝を献げました。子どもたちと一緒の礼拝、詩編115編13節に「主を畏れる人を祝福し 大きな人も小さな人も祝福してください」とあります。大きな人も小さな人も。それは背の高さとか、体の大きさというよりは、大人も子供も、おじいちゃん、おばあちゃんから、お父さん、お母さん、青年、少年、赤ちゃんに至るまで、教会という場所は、一人一人の人生と共に歩む場所としてある、そんな思いを新たにする良い機会であったと思います。

 大分前になりますけれど、「大草原の小さな家」という人気のドラマがありました。古き良きアメリカの開拓時代、インガルス一家が主人公で、家族、また地域で起こる様々な困難を乗り越えていく、家族愛や人間愛を考えさせられるドラマ。と、ネットで調べましたら(笑)そう紹介されていました。
 
 私はあまりそのドラマを熱心に見ていたわけではありませんので、感動した場面などを話すことは出来ませんけれど、だた、その主人公の家族や、近くの町とかで何らかの問題や、事件が起こると、人々が皆、教会に集まって話し合いをしていた場面だけが脳裏に残っています。何かがあるととにかく教会に集まる、アメリカの開拓時代ですから、公民館とか、コミュニティセンターがあったわけではないでしょう。市役所の相談窓口があるわけでもない。
 集まるところは、とにかく教会です。そこで地域の問題、課題について話し合いをする。勿論そこに牧師も加わり、どう解決していくのかを皆で相談する。話がまとまらず、ついエキサイトする場面もあったように思います。それでも、私は、教会は、本来はそういう場所として機能していたのだということを強く思わされております。
 
 人と人とが集まるところ、地域、社会だけでなく、家族の中でさえ、インガルス一家の中だけでもなく、私達のそれぞれの家族の中にあってでさえ、実に様々な出来事が起こります。親になってつくづくと分かるのは、子供一人が成長し、大人になっていく、それまで親は、子供にはわからない苦労をどれほどするか、大変な思いをするかということです。

 週報の子どもの教会のプログラムの下に毎週、文章を載せていますが、今日の文章は主の祈りの中にある、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という御言葉についてです。子供が大人になる意味は、その人自身が、自分で日毎の糧を得られるようになることではないかと記しました。現代という時代、中々、日毎の糧を、自分で得ることが出来ず、困り、悩んでいる若者が多いと言われます。
 大人になりきれず、独り立ち出来ずに苦しんでいる、本人も辛いでしょうし、見守る親も中々苦労するわけです。それだけでもなく、学校に行かないとか、行っても悪さをしてしまって親が頭を下げにいくとか、勉強についていけないとか、イジメる、イジメられるとか、実に様々なことが起こります。
 
 子どもだけでもない、親も全く同じです。先日テレビを見ていましたら、母親と父親がどれほどの割合で家事を行っているのかという統計があって、殆どの家事を、母親が圧倒的に行っているという結果が表になって出ていました。
それを見せながら主婦の皆さんに街頭インタビューをしていたのですが、ある小学生位の子供を連れていたお母さんが、家のことは100%自分がしているというのです。そして、そのことを子供に強く主張していて、お父さんがいかに協力的でないかを、とうとうと話していました。たまたま、私達は夫婦で見ていたのでが、子どもにあれほどお父さんはひどいと言い続けたら、子どもはどんな思いで聞いているのか心配だね、と話しました。

 苦しみ、悩みは、時として思いがけない病気になるということもあります。もう一年程前になりますか、幼稚園の若いお母さんが思いがけず癌にかかり、小さい子どもたちを残して召されたという出来事がありました。

 私毎ですけれど、実は今週、明後日の火曜日に、胸のCTを撮ることになっています。以前から血圧が高く、ちょっと調子が悪い、気になる症状がありましので行きつけの医者に行って話してみましたら、海老名総合病院でCTを撮って来いというのです。それで病院に行きまして、手続きをしながら、看護師さんに「生まれて初めてCTを撮るのですが、大丈夫でしょうか。」と話しましたら、看護師さんは「CTなら大丈夫ですよと」言うものですから、いやCTではなく、私が大丈夫かなと思っているんですが(笑)と話しましたら、笑って「大丈夫ですよ」と言われました。根拠が無くても、そう言われると不思議に安心するものです。

 何か、色々と申し上げましたが、何を申し上げたいのかと言いますと人、一人の人生を思っても、その歩みには、勿論、楽しい事や、嬉しい事が沢山ありながらも、それと同じ位か、それ以上に辛く、苦しいこと、悩みごと、病気、困難を抱えながら歩んでいるものだと思うのです。

 今日は詩編の22編の23節から、いわば後半の箇所から読んで頂きました。詩編の22編、先週も申し上げましたけれど、前半は、詩編の著者の実に苦しい、辛い状況が記されています。2節以降を読みますとこうある。「わたしの神よ、わたしの神よ なぜ、わたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず 呻きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ 昼は、呼び求めても答えてくださらないのか。夜も、黙ることをお許しにならない。」
この詩編の著者が、何らかの原因、理由があって苦しい立場にあることは確実です。12節には「わたしを遠く離れないでください 苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。」とあります。この状況は敵が攻めて来ている状況ではないかと言われます。18節では「骨が数えられる程になったわたしのからだを、彼らはさらしものにして眺め」とあります。この人は、重い病気ではないのかと考える人もいます。いずれにしても、この著者は、主なる神にさえ見捨てられたと思う程の状況をなんとか生きていた。そんな状況を詩に記したのでしょう。

 けれど、今日読んで頂いた箇所からはその内容が変わりまして、23節以降にはこう記されます。「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え 集会の中であなたを賛美します。主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。主は貧しい人の苦しみを 決して侮らず、さげすみません。御顔を隠すことなく 助けを求める叫びを聞いてくださいます。」
 私が持っている聖書の一つには、23節の前にこう記されています。「あ~、あなたは、私に、答えてくださった。」感嘆文の形で記されています。喜びが強く伝わる文章が記されていました。

 明らかに、状況が良くなってきたのです。願っていた健康が回復して元気になったのか、敵との戦いに勝利したか、少なくとも敵は去って行ったのであろうと思われます。彼は祈り、助けを求め、神様を信じ戦い、そして勝利しました。その感謝の思いを綴る、詩編の後半の御言葉が続きます。

 祈りは聴かれる。幸いが与えられたのです。著者は祈り、神はその声を聴き、神の業が働き、それに感謝を献げる、ですから、色々と記してあっても、考えてみると、実にシンプルな構成によってこの22編は記されているということも出来るでしょう。

 けれど、詩編の著者が伝えたかったことはそれだけでもないはずです。今日、私は23節の御言葉を思わされています。「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え 集会の中であなたを賛美します。」とあります。鍵となる御言葉は、「御名を語り伝え」ることです。どこで語り伝えるのか、集会の中でとありますが、明らかに信仰を持つ者の集まりの中で語り伝え、賛美を献げている、つまり礼拝の中で、自分の身に起こったこと、辛く、苦しく、見捨てられたかと思う程であったが、主は自分と共におられた。主は誉むべきかなと喜びをもって信仰の「証し」を語り続けている状況を思わされます。

 ここで、詩編の作者は自分の信仰が立派だったからとか、信じ続けていたから救われたと言っているわけではありません。自分を誇るのではなく、殆ど絶望的な状況、神は自分を見捨てられたと言わざるを得ない、その中にあって、全く自分の力は及ばない中で、神の業が働き、今、自分はこの場に立ち、この場で、救いを求める者から、救いを宣べ伝える者へと変わったのだと語り続けているのです。そのような思いを込めて記しているのだと思います。
 
 新約聖書からはヘブライ人への手紙12章から読んで頂きました。「主による鍛錬」というタイトルが付けられています。

 ヘブライ人への手紙は、恐らく一つの説教として語られたのではないかとも考えられています。時代的には、キリスト教迫害の厳しい時代であったろうと思われます。
 時には殉教者を出し、時には、迫害の中で、その苦しさの中で、教会から離れ、神のもとから離れた人々も多くいた時代であったと言われます。信仰を持って生き抜くには大変な時代、私達が置かれている境遇とは大きく違っている状況です。ですから、ヘブライ書の12章は、1節には「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」とあります。信仰生活とは、忍耐をもって走り抜くこと。
 マラソンランナーがゴールを目指して走り抜くように、信仰生活を走り抜くこと。その為に必要なことは、「信仰の創始者また、完成者であるイエス」を見つめることだと記してあります。この方は、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りなったのです。

 主イエスこそが、どれほどの忍耐を持って、苦しみを持って十字架刑にされながらも尚神の、私たちに対する愛を示されようとされたか、だから私たちはこの方を見つけ続けて、私達に与えられている苦難や試練を、しかしそれを、「主の鍛錬として」受け止め、その苦難の先にある神の栄光の輝きに導かれるようにして走り抜いていこうではないか、そうヘブライ人への手紙は告げているのです。

 8月に休暇をいただき、スイスに行きました。願っていたことの一つは、凡そ500年前に始まった、ジュネーブの宗教改革について、改めて心を寄せたいと考えていました。ジュネーブの宗教改革記念公園には、宗教改革に貢献した4人の像が作られています。真ん中にカルバンの像があります。右端にイギリスのスコットランドで活躍したジョン・ノックスという宗教改革者の像がありました。ノックスは優れた説教者であったと言われます。

 その説教の中で、主イエスが荒れ野で40日間の断食をして祈り続けていた時に、空腹になっていた時の話があります。サタンが現れて「お前が神の子なら、この石がパンに変わるように命じたらどうか」と誘惑します。主イエスはその時、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とサタンに告げました。ノックスはこのサタンの誘惑は、神を試してみたらどうだという誘惑にとどまらず、イエスよ、お前は神の子だというけれど、その父である神に、見捨てられているのだ、と告げた言葉であったと説明しました。
 
 それは、そのまま一体どこで、どのようにして、私達が神の鍛錬を受けているのかを示しているとも言えるでしょう。私達の人生の中にあって、主なる神は、わたしを見捨てられたのかとまで思う時、なぜ、自分だけがこれほどに苦しまなければならないのかと思う時、しかし、それはいつの日か、神の鍛錬であったと知る時が来る。

 詩編22編の作者が、苦しみのその先に、神の祝福をいただき、その出来事を人々に語り伝え続けたように、信仰を持つことによって迫害を受け、殉教者を出しながらも、しかし、信仰の鍛錬として受け止め、神に鍛えられていると信じた人々によって教会の信仰がつながれて来たように、私達もまた、そのような先達の信仰にならいながら、与えられた人生を走り抜いて参りましょう。

お祈りいたします。

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主はあなたを見捨てない

2019-09-08 15:18:35 | http://www.ohtsukaheian.jp/
【詩編22編2~11節】
【マタイによる福音書27章45~56節】


 今日の礼拝は、いつもは子どもの礼拝に参加する方々との合同の礼拝となりました。
 子どもたちが今日のために子ども讃美歌の52番「主イエスはでしたちを」をこれまで一か月かけて練習して、この日の礼拝に備えて下さいました。今日、初めてきて、いきなり歌われた方もおられました。とても良く歌って下さいました。
 
 主イエスが弟子たちを招いておられる姿が歌われています。「主イエスは、弟子たちを まねいて言った。『わたしといっしょに さあ出かけよう』
 
主イエスのことばに 心をきめて 従う弟子たち この12人。それから12人の弟子たちの名前が少し無理やりな感じもありますが(笑)メロディに合わせて歌われます。この歌をそらんじて歌うまで練習したとしたら、生涯、12人の弟子たちの名前を忘れることは無いであろう。賛美しながら、キリスト教教育が考えられている讃美歌だとも言えるのではないでしょうか。

 12人の弟子たち、それぞれに仕事も立場も違っていたでしょう。良く知られるところでは、四人の漁師たちがいました。ペトロとアンデレ、ヨハネとヤコブ、税金を取り立てる徴税人であったマタイがいました。疑りぶかい、用心深いと言われるトマスがいました。12人にはもともと、友達や知り合いではなかったと思いますし、連絡を取り合っていたわけでもないでしょう。でも、同じことが一つだけあります。それは、主イエスの「私に従いなさい」という言葉に「心をきめて」従った12人であったということです。
 
 主イエスに従う、なぜ心に決めることが出来たのでしょうか。それぞれ深い理由があったかもしれません。これまで歩んで来た人生の中で悩んでいたこと、困っていたことがあって、そんな思いが主イエスとの出会いによって解決した、その喜びをもって従った人もいたかもしれません。でも、本当のところは聖書に記されてありませんから、よくわかりません。
 
 それでも、私は、今日の説教題にありますように「主は、あなたを見捨てない」としましたように、自分は見捨てられているような人生だと思って生きていた、けれど、主イエスとの出会いによって、私は、少しも見捨てられていない。そう信じることが出来た人々ではなかった、私はそう思います。
 
 8月の私が夏休みを頂いた時の週報に、いつものように子どもの教会の式次第の頁に短い文章を記しました。その文章の中で、私達の生涯は、たとえどんな人でも、「あなたが大切にされている」、「あなたはとても大事な人」、「あなたが必要だ」と言ってくれる人を探し続けているようなものではないでしょうかと記しました。
 文章の中に名前をTさんとして記しましたが、そのTさんは、私達の教会と深い関係を持ち続けているホームにおられた方でありました。何年か前に天に召されて、私が司式をさせて頂いた方ですが、そのTさん、お元気な頃は、とても働き者であったそうです。畑仕事から、草取りから、熱心に働かれる方であったそうです。一生懸命に水をやり、野菜を育てていたのでしょう。でも、時々、仕事を休んでは、事務所にやって来て、仲の良い事務の方に話しかけたそうです。「自分は必要の無い人間だから、どこか行っちゃおうかな。」そう話しかけるのだそうです。その言葉を聞いた事務の方は「Tさん、Tさんが居なくなったら、ホームは大変よ。Tさんのような働き者がいなくなったら、みんな困っちゃうのよ。」そう言うと、Tさんはにっこり笑って、「それじゃ、いるか」と言って、仕事に、また部屋に戻っていくのだと話しを伺ったことがありました。

 皆さん、私たちは誰もがこのTさんの思いが分かるのではないでしょうか。あなたが必要だと言ってもらいたい。もし、あなたは必要ないと言われてごらんなさい。どんなにその人はどんなに辛い思いをすることでしょうか。
 
 イエス様はこう言われました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることは出来ない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ。」と話されました。
 
 今日は子どもたちも一緒の礼拝ですが、「子どものように」とは、色々な意味があると思いますけれど、「子どものように」それは決して疑わないという意味ではないでしょうか。子供は本来、親の愛情を疑いません。この親は自分を本当に育ててくれるのだろうか。いつか見放されてしまうのではないだろうか。と思いながら過ごしているわけではありません。
 ですから、他人は言わない、言えないことでも、自分の親には好きなことが言えるのです。時には悪態をついてくることもあるし、親が手に負えない程に、怒ったり、泣いたり、わめいたりすることもある。私も、時々子どもに「ウザイ」と言われることもあります。でも、そのことによって信頼関係が揺らいだり、グラついたりすることは絶対にないと知っているのからこそ言える言葉でもあります。ウザイと言った、その一分後には自分の悩みの相談をしてきたりもするのです。
自分が見捨てられるなんて決して思いはしませんし、親も子も、そんなこと自体、通常は心の中にでさえ思わないのではないでしょう。「子どものようにならなければ」それは、そのようにして疑いを持つことさえ無い程に、神様と人との絆を強く持つことだと主イエスは話されたのだろうと思います。
 
 今日は、マタイによる福音書27章の主イエスが、十字架につけられ、そして息をひきとる場面を読んでいただきました。子どもと一緒の礼拝に相応し箇所かどうか、少し悩みましたが、それでも、この箇所にいたしました。十字架の上で、主イエスが息を引き取られる前に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」と叫んだとあります。どうして、主イエスはこのような言葉を叫ばれたのか。未だに本当の意味はわかっていません。しかし、そう叫ばれた、けれど、古来言われていることの一つに、もう一個所読んでいただいた詩編の22編の御言葉、その2節から11節を読んでいただきましたが、その2節にこうあります。

 「わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず 呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」
 
 主なる神に必死に訴えている詩編であるとすぐにわかりますが、この22編は割合に長い詩編でありまして、最後の方にいくに従って、主をほめたたえる言葉へと変わっていきます。11節まで読んでいただきましたが、11節には「母がわたしをみごもったときから、わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神」既に、自分が生まれる前から、主なる神は自分を知っておられた、という信頼の御言葉を読むことが出来ます。そのようにして、主イエスも、十字架の上で、詩編の22編を思っていたのではないのか、そのようにも考えられています。

 いずれにしても、主なる神は、イエス様を決して見捨てることなく、死の三日の後に、復活の命を授けて下さり、復活されたイエス様は更に、弟子たちの所に現れてくださり、すっかり落胆して、しょげかえっていた弟子たちに対して、「わたしは決してあなたがたを見捨てることはないよ」と語り掛けて下さったことでしょう。どんな時にも、主なる神は、わたしたちを見捨てられない。それがキリスト教が伝える福音であり、神を信じる者の信仰でもあります。

 たかのてるこさんという、作家であり、ジャーナリストであり、カメラマンでもある方ですが、世界中を巡って子どもたちの姿を中心に写真を撮りながら、そこに短い文書を記しながら本を出し続けておられます。今日が9月8日ですが、8月30日に出版された本がありまして、「逃げろ、生きろ、生き延びろ」というタイトルの本があります。

 「生きるってなに?」という言葉から始まって、「生きるって、自分を100%受け入れること」と続きます。「100%受け入れるってなに?」それは「自分自身の一番の理解者になること」、「自分自身の理解者になるってなに?」と言うように続けて記されて、「人と比べない」とか「自分自身に制限をかけない」「制限をかけるとは、自分を自分がイジメていることだ」「すべての怒りを手放し 心と体の健康のためにも、怒りを持たないこと。」といった言葉が、世界中の子どもたちの写真と共に記されています。

 たかのさんの一番素敵だなと思う文章は、「人の一番の務めは生きることで、生きるとは本来、一日一日を生き延びること」だと心に刻み込む」こと。

 私はこの言葉がとても印象深く感じます。「生きるとは一日一日を生き延びること」私はたかのさんの信仰の背景を知りません。クリスチャンではないかもしれません。でも、大切な言葉だと思うのです。

 なんとしても生きること。子どもが思う以上に、親は子供を愛して、愛して、愛しています。なにをしなくても良い、何ができなくても良い、ただ生きていてくれるだけで、親は本当にそこに幸せを思うのです。親の愛とはそういうものではないですか。でも、親と言えど、いつかは年を取り、子どもが世話をする順番が回ってくるわけですし、一般的には親の方が、子よりも先に天に召されるのです。だから、いつまでも親を頼りしてもいられない。だからこそ、私達が生きて行くために、必要なことは、どこの誰が、何をどう言おうとも、主なる神は「あなたを決して見捨てることない」天地万物を造られた神様は、わたしたちと共にいつまでも一緒にいて下さる。主イエスが復活されたのは、その証拠です。

 神様は、あなたを決して見捨てない。いや、あなたこそが必要だ。そう言って下さっています。神の愛をしっかりと受け止めて、この一週間もしっかりと歩んで参りましょう。

 お祈りいたします。

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望みを適える力

2019-09-07 17:03:35 | http://www.ohtsukaheian.jp/
【詩編21編1~14節】
【ルカによる福音書8章40~48節】

「望みを適える力」

 2週間ほどのお休みをいただきまして、礼拝を2度お休みいたしました。私の記憶にある限りでは、この教会で礼拝を2度続けて休んだのは、この10年で初めてのことだと思います。

 休んでどうしていたかというと、家内と共にスイス、フランスに行って参りました。飛行機でスイスのチューリッヒ空港に降りまして、そこから電車で、フランスのパリを目指しながら、特に宗教改革に関係する教会などを見学しながら過ごしました。
 スイスにジュネーブという町があります。宗教改革に深く関わりを持ったカルバンという指導者が活躍した町としても知られています。そこに宗教改革記念博物館がありまして、非常に貴重な資料が沢山展示されていました。

 撮影禁止となっていたのがとても残念でしたけれど、朝の10時過ぎに入りまして、夢中で見ておりました。勿論のことですが、日本語の解説はありませんので苦労して説明を読みながら、気がついたら午後の2時になっていました。

 その記念博物館が、今年メインとしていたのが、日本ではあまり知られていないと思われるテオドアル・ベーズという神学者がいまして、ベーズの生誕500年が今年のようです。その記念のブースなどもありまして、興味深く見ることが出来ました。ベースはカルバンの信仰、思いを受け継いで活躍し、宗教改革記念公園には 四人の大きな像がありますけれど、その中の一人としてしっかり立っていました。カルバンが行ったとされる詩編をフランス語に翻訳した作業を、実はカルバンは途中で止めてしまって、その後を受けて完成にこぎつけたのが、元々は文学の専門家であったベーズであったということなども分かりました。

 思わずベースの書籍を購入してしまいましたが、帰国してしまいますと、どうして買っちゃかな、いつ読むのかな(笑)と思いますが、少しずつでも読んでいければと思います。

 帰国しまして、家に帰って来まして、子どもたちに、旅の話をしておりましたら、長男が「凱旋門」には行ったのかと聞いて来ました。長男がスペインに行った際に、パリに一日だけ寄って、唯一観光したのが凱旋門だったようです。そう聞かれて、私たちは顔を見合わせて、そう言えば、凱旋門は姿、形も見なかったねと笑いました。そこを見るのはまた次の機会があれば、と思いますが、凱旋門は、1805年に皇帝ナポレオンがロシア・オーストリア軍と戦って勝利した際の記念として建てられた、いわば勝利の門です。
 ただ、歴史的にはナポレオンが勝利してその門をくぐったことは無かったようです。けれど、その当時のフランスの国力、軍事力の象徴でもあり、戦いによる勝利の喜びを表していることには間違いありません。

 戦争が良いとか、悪いとかの、議論は尽きることがありませんが、しかし、人の歴史は戦争の歴史と言っても過言ではありません。実際に旧約聖書に記されるイスラエルの歴史の中にあって、幾度も戦いが繰り広げられ、争いが記されていることも事実です。
 更に、今日読んでいただいた詩編21編、この詩編は前回の説教でも少し申し上げましたが、詩編20編と対になっていると言われていまして、20編はダビデが戦いの準備、出陣しようとしている様子を記し、21編は争いから勝利して、まさに凱旋して戻ってきて、戦勝感謝の礼拝を献げているそのような様子を伺い知ることが出来ます。
 
 それ故、21編2節から、少し読みますとこう記されています。

「主よ、王はあなたの御力を喜び祝い 御救いのゆえに喜び踊る。あなたは王の心の望みをかなえ 唇の願いを求めるところを拒まず 彼を迎えて豊かな祝福を与え 黄金の冠をその頭におかれた。願いを聞き入れて命を得させ 生涯の日々を世々限りなくくわえられた。」

 この御言葉の一つ一つ、心に響く御言葉であると感じます。信仰を持つとは、願いを適えて下さる方がおられるということです。3節に「唇の願い求めるところを拒まず」とあります。この「唇」とは祈りでありましょう。これから戦いの場に行くにあたり、勝利し、また無事に帰って来られるようにと、ダビデが言葉でもって祈り願い求めた姿が思わされます。

 話は、また戻りますが、私達がチューリッヒに着きましたのは金曜日の夜中でありました。土曜日を過ぎて、日曜日の礼拝をどうしようか、チューリッヒには日本語の礼拝が行われている教会があると知っておりましたから、幾日か前にその教会に連絡を取りました。
 そこで牧師をされている先生は、時々、子どもの教会のサマーキャンプでも使用している「奥多摩福音の家」の責任者として、長年日本に住んでおられた先生でしたし、写真で見る限り、これまでお会いしたことがあると思いましたので、きっと懐かしい話等が出来るであろうと思い、楽しみにしていたのですが、月に2度の礼拝であって、その週の礼拝はありませんというのです。

 それで、困りまして、インターナショナルの英語の礼拝をしている教会があるので、そこに行ったらどうか、もしかしたらそこに日本人がいるかもしれませんとメールをいただいて、地図で探しまして、そちらの教会の礼拝に出席しました。

 礼拝前に、隣に座られた方に、この礼拝に日本人の方は来ておられるのかと聞きましたら、確か1人来ていたはずだが、私は良く知らないので、礼拝の後で、新しく来られた方の紹介があるからその時に聞いてみたらと言うのです。ちょっとビックリしましたが、礼拝が終わりまして、新しく来られた方の紹介がありまして、まさにインターナショナルな教会で、世界中から色々な国の方が来ておられました。日本からは私たち二人だけでした。
 それで、日本から来ましたと話しながら、もし日本語が話せる方がおられたら、お会いしたい旨を伝えましたら、礼拝が終わりましたら、なんだか凄い事になりまして、何人もやって来られて、私も日本語話せます。私も日本語出来ます。日本人ではありませんがと、とにかく沢山の方に囲まれて、ウエルカムの気持ちをもの凄く感じました。取り囲まれてしまって、家内はもう一歩も歩けない程になっていたようです。

 私もその願った1人だけの日本人の方とお会い出来まして、丁度同年代のとても元気な方で、すっかり仲良くなりまして、更に、年頃の綺麗な娘さんが三人程おられたのです。あ~、うちの息子にどうかな(笑)まあ、それはともかく、皆さん、大切なのは「願い、求める」ことです。

 今日は日本語の礼拝が無いのか、それなら諦めるかではなく、英語の礼拝に出てみよう、実は英語の礼拝は午後からで、その教会はフランス人のプロテスタント教会だったのですが、ですからも午前中のメインの礼拝はフランス語の礼拝が捧げられました。その礼拝にも出席させいただきました。こちらは、流石に説教も何を言っているのか殆ど分からず、ただ良く知るメロディの讃美歌をフランス語で歌える恩恵にあずかりました。家内が歌えなくなって、私が歌える状況は、生涯で一度だと思います。また、最後に自己紹介と言われなくて本当に良かったと思っていますけれど、その教会の牧師ともいくらか話をすることも出来まして、やっぱり礼拝に出て良かったと思いました。

 皆さん、主は「唇の願い求めるところを拒まず」「彼を迎えて豊かな祝福を与え」て下さる、これは本当だと思います。

 ここに記されている「祝福」は、買い求めたフランス語の聖書には「ベネディクション」と記されてありました。礼拝の最後の祝福、それがベネディクションであります。
 神が与える祝福、それは願い求める者にこそ、与えて下さのです。

 新約聖書、ルカによる福音書8章から読んでいただきました。12年の間、出血が止まらず、治ることを願い、医者に全財産を使い果たしても、尚だれからも治してもらえない女性がいました。恐らく婦人科系の病でありましょう。レビ記15章には、出血のある女性は汚れていると記されています。この期間中に、その女性が使った寝床、腰掛け、それに触れた人などもすべて汚れると記されています。その女性が人に触れても、誰かが女性に触れても汚れるのです。 

 この女性が律法の通りに生きていたとすれば、12年もの間、誰にも触れず、誰からも触れられず、愛する人、愛する家族、愛する友と、手をつなぐことも、抱きしめることも、何も出来ない生活を強いられていたと思われます。その辛さを誰が分かるというのでしょうか。そうなってしまった者にしかわからない辛さをこの女性は生きていました。

 しかし、12年目のある日、この女性は主イエスが自分の近くまで来ていることを知りました。
 主イエスのもとに行って、この辛さを伝えたい。出来得るならば、この病を癒して頂きたい、どれほど悩み、苦しんだことでありましょう。そして、決断します。誰の目にも触れないように、目立たないような服装をし、顔を隠し、そっと多くの群衆に紛れ主イエスのもとに近づくのです。そして、後ろから主イエスの服の房に触れることが出来た、その瞬間、出血が止まったというのです。

 主は、すぐに起こった出来事に気がつきました。「わたしに触れたのは誰か」人々は驚き、皆、自分ではないと答え、弟子のペトロも「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と伝えましたが、主は「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と譲りません。
 そこに置かれていた主イエスの状況は、会堂長ヤイロの12歳の娘の命を救うためにヤイロの家に向かっていた途中の出来事です。本来ならそのままヤイロの家に行ってくれたら、主にふれた女性もそのまま知らないふりが出来て、好都合と思ったかもしれません。けれど、主はガンとして動かず、その女性を探しました。女は隠しきれないと知って、震えながら前に進み出て、触れた、事と次第を話しました。どんなに叱られるか、どんな目に遭わされるかと、どれほど心が震えたことでありましょう。

 しかし、主イエスが、なぜこの女性を探したのか、それは祝福を彼女に与える為でありました。その勇気と決断と、祈りと願いをしっかり聞き入れ、これからも更に神の命と恵みに生きて行くようにと、祝福に生きて行くようにと、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」というこの祝福の御言葉を伝えるためでありました。

 私達一人一人に与えられている状況は、具体的な戦争、争いとは言わないとしても、それぞれに与えられている課題や、戦い、重荷があります。人の力ではなんともし難い、辛さや苦しさを抱えています。どれほどのストレスがかかり、辛く苦しい思いをされている方も少なくありません。簡単に、その思い、よく分かるよ、などと言えるものではないかもしれません。

 けれど、それなら、尚更、私たちは、私達の唇の願い求める所の思いを、しっかりと受け止め、受け止めつつ、更にその苦悩を人生の宝に変えて下さり、望みを適えてくださる神の祝福を受けて生きて行きたいと願います。

 この後、その祝福を目に見える形としてのパンと杯、聖餐式を執り行います。ここに誠の神の愛を見いだし、祝福を受け、信仰を強め、隣人を愛しながら、この9月も確かに歩んで参りましょう。

 お祈りいたします。
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