【詩編20編1~10節】
【コリントの信徒への手紙二 12章1~10節】
先週から、アメリカと韓国との間で、米韓軍事演習が行われています。その状況に北朝鮮が、非常な危惧を表明しているだけでなく、ここ数日の間に何度もミサイルを発射していると報道されています。日本政府は割合に落ち着いた対応を取っているように思われますが、北朝鮮のミサイル発射も、何度も繰り返されることによって、私達は、どこかで慣れてしまっているような感があるようにも思います。
けれど、もし、その中の一つでも、韓国なり、日本の領土に落ちて、人の命が奪われるというようなことが起これば、一気に戦争の危機を迎えることになるでしょう。綾瀬市、また大和市沿いには厚木基地がありますから、この地域一体も即、緊張感と緊迫感に包まれることは間違いありません。
戦争というものは、多くの場合、計画的にというよりは、何か偶発的な出来事によって始まるものかもしれません。一度やられたら、やり返さなければ気が済まない、そんな人の思いによって悲劇が繰り返されるのかもしれません。
そんなことを思いますと、現在の政権がどうしても憲法を改正して、日本が正式に軍事力を持つ国としての歩みを進めるべきという主張が、割合に多くの国民から支持されている状況は分からないでもありません。
けれど、一度戦争が起こると、勝つにしても、負けるにしても、取り返しのつかない惨状となるのは明らかです。これまでの人の歴史がそれを証明しているようなものです。私達の国においても、8月は特別な月で、先週の6日には広島に、9日には長崎に原爆が投下され、一瞬にして、20万人以上の人々の命が奪われた、その74年目を迎える記念の式典が広島、長崎で行われました。
一度の戦争が、74年経過して尚、終わったわけではなく、未だその悲惨さが、続いているとも言えるでしょう。戦争の恐ろしさを、私たちは、こうして伝えられているにも関わらず、なぜ、人は戦おうとするのでしょうか。
詩編20編について、ある牧師の説教を読んでおりましたら、「私たちが作り出し、私たちが生きている世界において軍事力は不可欠なものかもしれない」という旨の言葉がありました。あるいは「大国における軍需産業は国家財政の一つの柱でもあるでしょう。」とありました。大分大胆な発言だと感じました。戦争は商売になる、と考えている人々は少なくないと私も思います。
もう一つそこで大切な言葉を発しておられます。それは、「戦争となると人は突然信心深くなるものです。」とありました。それぞれの神に戦勝祈願をし、神が守って下さり、支えて下さる戦いこそ、正しい戦争であって、神が味方するならば、この戦争は勝利する。そういう論理を作り出すのでしょう。人の歴史はその繰り返しに過ぎないとさえ、記されてありました。
先ほど、読んでいただきました詩編20編は、これから戦争の為に出陣しようとしている時の詩であると考えられています。あるいは読み方によって王の即位の儀式の時の誌であるとも言われていますが、どちらにしても、神を前にして王が祝福されるようにと祈られている詩です。1節にダビデの詩とありますが、ダビデ自身が作ったものではありません。
詩編を読むときに、混乱して、分からなくなることの一つに、誰が誰にどのように伝えようとしているのか、混乱してしまうことがあります。
20編の詩も、2節から6節にかけて「あなた」という言葉が連続的に使用されています。この「あなたは」は誰なのか。2節には「苦難の日に主があなたに答え」とありますから、あなたは主なる神ではなく、まず間違いなく、ダビデ王であろうと考えられます。
ですから、ダビデ王が今、まさに出陣しようとしている、その前にエルサレムの神殿において、神に献げ物を献げ、戦勝祈願の儀式を執り行っていると読むことが出来ます。
この詩編を記しているのは6節に「我ら」という言葉がありますが、この儀式に参加していた複数の人々の中にいた人物と思われます。
その儀式において、「ヤコブの神の御名がダビデ王を高く上げ」「聖所から助けを遣わし」「シオン(エルサレム)からあなたを支えて下さるように」と祈り、主なる神が、ダビデ王の献げるところの、「供え物をことごとく心に留め」「いけにえを心よく受け入れ」「ダビデの心の願いをかなえ」「ダビデの計らいを実現させてくださるように」と願っているのです。
敵国に勝利し、喜びの声をあげ、我らの神の御名によって旗を掲げることが出来るようにと願っているのです。
7節から、主語がかわり、ダビデから詩編の著者本人が主体となります。「今、わたしは知った」の「わたし」は詩編を記した人の視点です。「主は油注がれた方(メシア)に勝利を授け、聖なる天から彼に応えて」この彼は、ダビデ王でしょう。「右の御手による救いの力を示されることを。」
8節には「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが 我らは、我らの神、主の御名を唱える。」と続き、最後の10節、「主よ、王に勝利を与え 呼び求める我らに答えてください。」という御言葉で締めくくられます。
10節の御言葉は、そこに集っている王を中心として、軍勢、祭司、民衆、参列者、皆が声を合わせて「主よ、王に勝利を与え 呼び求める我らに答えて下さい」と大きな声で唱えているように感じます。王の勝利は、国の勝利であり、民の勝利だからです。
この詩編に限るわけでもなく、旧約聖書全体を読みましても、イスラエルの歴史は戦いの歴史であると言っても過言ではないと思います。聖書を読んで、なぜこれほどまでに戦いの出来事が記されているのかと問われたことが、これまで何度もありましたし、自分自身もそう思うところがあります。しかし、それが現実社会なのだろうとも思います。
けれど、例えば出エジプト記に記される戦いはどうかと言いますと、指導者モーセを中心として、人々はなんとかエジプトを脱出しました。その数凡そ、男性だけで60万人でした。しかし、エジプトの王は、後になって奴隷の民を出したことを悔やみ、軍隊を用いて追いかけます。イスラエルの民は、そのことを知り、恐ろしさで混乱します。
前には大きな海が、後ろには、エジプトの軍隊が、私たちは、ただ殺されるためだけにエジプトを出たのかと、人々はモーセに詰め寄りました。モーセはひたすらに神に祈り、その祈りの中で、海が二つに分かれて、イスラエルの民はその窮地から脱出出来た話は良く知られている話ですが、この戦いは、剣を持たない戦いでありました。モーセの戦いは、剣ではなく、手に持った杖を高く上げ、神に祈り求める祈りによって人々を導くことであったと思われます。
しかし、次第に歴史が進むにつれて、神からの約束の土地を手に入れたイスラエルは、争いと戦いの連続となりました。当初は士師と呼ばれる指導者が、後にはサウル、ダビデ、ソロモンという王が中心なって、近隣諸国と戦いました。しかし、その戦いにおいて彼らは、次第に罪を犯すようになります。
それは、戦い、争い、勝利することによって、そこから莫大な利益が得られ、国が豊かになるという現実です。勝てば勝つほどに、国が豊かになるのです。まさに、ダビデの時代、息子のソロモンの時代がその代表的な時代であったと言えるでしょう。しかし、そのことを主なる神は望んでいたのでしょうか。
更に、より現実的な問題は、国全体が豊かになるというよりは、イスラエルの中にあって、貧富の差が大きくなっていったとも言われます。富める者はより富み、貧しい者はより貧しくなっていった。元来、モーセに与えられたところの律法は、そうならないように、誰もが神の御前において、幸いに、祝福に、平和に、つまり、シャローム、平和、祝福に生きられるようにと良く考えられた神から与えられた決まり事でした。しかし、次第にその律法が無視されるようになり、イスラエルの内にあって、土地の搾取が起こり、搾取された者は奴隷とされ、裕福層と、貧困層との格差が広がって行ったようです。
このような状況は、現代の日本と良く似ていると思います。そして、そこにおいて主なる神のシャロームは忘れられ、限りない人間の欲望だけが勝利していく、ように思えるのです。
そんな状況にあって、イスラエルに登場するのが、主なる神の言葉を取り継ぐ預言者と呼ばれる人々です。例えば今、婦人会では、7月から旧約聖書のアモス書という箇所を読み始めましたが、9月に学ぶ予定の2章で、預言者アモスは痛烈にイスラエルに対して批判をしています。「主はこう言われる。イスラエルの三つの罪、四つの罪のゆえに、わたしは決して赦さない。彼らが正しい者を金で、貧しい者を靴一足の値で売ったからだ。彼らは弱い者の頭を地の塵に踏みつけ、悩む者の道を曲げている。父も子も同じ女のもとに通い わたしの聖なる名を汚している。」
豊かな者が貧しい者に対する行為を強く非難、批判している文章です。
あるいは、イザヤ書1章23節にはこうあります。「支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり 皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守られず、やもめの訴えは取り上げられない。」こう記したイザヤが活躍した時代は、紀元前700年代であったと思われます。
しかし、このような預言者の言葉も聞き入れられず、悔い改めないイスラエルは、ついに自分達の欲望の果てに、全てを失い、大国バビロンに敗れ、国を失い、全てを無くしてしまうことは、聖書を読む者は良く知っている通りであります。
主イエス・キリストは「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」と教えられました。剣とは、この世の富であり、権力でもあり、武器であり、他を屈服させる力とも言えるのではないでしょうか。そのような物を取る者、そのような物を神とする者は、その人自身、その神としたもので滅びるのです。
詩編20編8節を改めて読みますと「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが 我らは、我らの神、主の御名を唱える」とあります。
私達が誇る物は、戦車でも、馬でもなく、我らの神、我らの主です。主なる神の栄光は、旧約聖書で終わるのではなく、新約聖書において、神の子、主イエス・キリストにおいて実現されました。
今日はコリントの信徒への手紙12章を読んでいただきました。そこで使徒パウロは自分の信仰について告げています。自分には一つのとげが与えられ、なんとかそのとげが自分から離れるようにと三度祈ったというのです。
三度とは何度もという意味があります。しかし、主は「わたしの恵はあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と告げられたというのです。この意味は、あなたはあなたの欲望から離れよ、という意味ではないでしょうか。パウロは、そう理解したのではないでしょうか。そのままの自分を、大いに喜び、自らの利益を求めず、また状況によらず、神の福音を平和、シャロームを、全ての人々に告げ知らせる人生を歩み続けました。
私達の歩みもまた、そのようなものでありたいと心から願います。
誇るなら、主を誇り、武器を持たず、剣を手にすることなく、神の祝福を歩み続けて参りましょう。
お祈りいたします。
【コリントの信徒への手紙二 12章1~10節】
先週から、アメリカと韓国との間で、米韓軍事演習が行われています。その状況に北朝鮮が、非常な危惧を表明しているだけでなく、ここ数日の間に何度もミサイルを発射していると報道されています。日本政府は割合に落ち着いた対応を取っているように思われますが、北朝鮮のミサイル発射も、何度も繰り返されることによって、私達は、どこかで慣れてしまっているような感があるようにも思います。
けれど、もし、その中の一つでも、韓国なり、日本の領土に落ちて、人の命が奪われるというようなことが起これば、一気に戦争の危機を迎えることになるでしょう。綾瀬市、また大和市沿いには厚木基地がありますから、この地域一体も即、緊張感と緊迫感に包まれることは間違いありません。
戦争というものは、多くの場合、計画的にというよりは、何か偶発的な出来事によって始まるものかもしれません。一度やられたら、やり返さなければ気が済まない、そんな人の思いによって悲劇が繰り返されるのかもしれません。
そんなことを思いますと、現在の政権がどうしても憲法を改正して、日本が正式に軍事力を持つ国としての歩みを進めるべきという主張が、割合に多くの国民から支持されている状況は分からないでもありません。
けれど、一度戦争が起こると、勝つにしても、負けるにしても、取り返しのつかない惨状となるのは明らかです。これまでの人の歴史がそれを証明しているようなものです。私達の国においても、8月は特別な月で、先週の6日には広島に、9日には長崎に原爆が投下され、一瞬にして、20万人以上の人々の命が奪われた、その74年目を迎える記念の式典が広島、長崎で行われました。
一度の戦争が、74年経過して尚、終わったわけではなく、未だその悲惨さが、続いているとも言えるでしょう。戦争の恐ろしさを、私たちは、こうして伝えられているにも関わらず、なぜ、人は戦おうとするのでしょうか。
詩編20編について、ある牧師の説教を読んでおりましたら、「私たちが作り出し、私たちが生きている世界において軍事力は不可欠なものかもしれない」という旨の言葉がありました。あるいは「大国における軍需産業は国家財政の一つの柱でもあるでしょう。」とありました。大分大胆な発言だと感じました。戦争は商売になる、と考えている人々は少なくないと私も思います。
もう一つそこで大切な言葉を発しておられます。それは、「戦争となると人は突然信心深くなるものです。」とありました。それぞれの神に戦勝祈願をし、神が守って下さり、支えて下さる戦いこそ、正しい戦争であって、神が味方するならば、この戦争は勝利する。そういう論理を作り出すのでしょう。人の歴史はその繰り返しに過ぎないとさえ、記されてありました。
先ほど、読んでいただきました詩編20編は、これから戦争の為に出陣しようとしている時の詩であると考えられています。あるいは読み方によって王の即位の儀式の時の誌であるとも言われていますが、どちらにしても、神を前にして王が祝福されるようにと祈られている詩です。1節にダビデの詩とありますが、ダビデ自身が作ったものではありません。
詩編を読むときに、混乱して、分からなくなることの一つに、誰が誰にどのように伝えようとしているのか、混乱してしまうことがあります。
20編の詩も、2節から6節にかけて「あなた」という言葉が連続的に使用されています。この「あなたは」は誰なのか。2節には「苦難の日に主があなたに答え」とありますから、あなたは主なる神ではなく、まず間違いなく、ダビデ王であろうと考えられます。
ですから、ダビデ王が今、まさに出陣しようとしている、その前にエルサレムの神殿において、神に献げ物を献げ、戦勝祈願の儀式を執り行っていると読むことが出来ます。
この詩編を記しているのは6節に「我ら」という言葉がありますが、この儀式に参加していた複数の人々の中にいた人物と思われます。
その儀式において、「ヤコブの神の御名がダビデ王を高く上げ」「聖所から助けを遣わし」「シオン(エルサレム)からあなたを支えて下さるように」と祈り、主なる神が、ダビデ王の献げるところの、「供え物をことごとく心に留め」「いけにえを心よく受け入れ」「ダビデの心の願いをかなえ」「ダビデの計らいを実現させてくださるように」と願っているのです。
敵国に勝利し、喜びの声をあげ、我らの神の御名によって旗を掲げることが出来るようにと願っているのです。
7節から、主語がかわり、ダビデから詩編の著者本人が主体となります。「今、わたしは知った」の「わたし」は詩編を記した人の視点です。「主は油注がれた方(メシア)に勝利を授け、聖なる天から彼に応えて」この彼は、ダビデ王でしょう。「右の御手による救いの力を示されることを。」
8節には「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが 我らは、我らの神、主の御名を唱える。」と続き、最後の10節、「主よ、王に勝利を与え 呼び求める我らに答えてください。」という御言葉で締めくくられます。
10節の御言葉は、そこに集っている王を中心として、軍勢、祭司、民衆、参列者、皆が声を合わせて「主よ、王に勝利を与え 呼び求める我らに答えて下さい」と大きな声で唱えているように感じます。王の勝利は、国の勝利であり、民の勝利だからです。
この詩編に限るわけでもなく、旧約聖書全体を読みましても、イスラエルの歴史は戦いの歴史であると言っても過言ではないと思います。聖書を読んで、なぜこれほどまでに戦いの出来事が記されているのかと問われたことが、これまで何度もありましたし、自分自身もそう思うところがあります。しかし、それが現実社会なのだろうとも思います。
けれど、例えば出エジプト記に記される戦いはどうかと言いますと、指導者モーセを中心として、人々はなんとかエジプトを脱出しました。その数凡そ、男性だけで60万人でした。しかし、エジプトの王は、後になって奴隷の民を出したことを悔やみ、軍隊を用いて追いかけます。イスラエルの民は、そのことを知り、恐ろしさで混乱します。
前には大きな海が、後ろには、エジプトの軍隊が、私たちは、ただ殺されるためだけにエジプトを出たのかと、人々はモーセに詰め寄りました。モーセはひたすらに神に祈り、その祈りの中で、海が二つに分かれて、イスラエルの民はその窮地から脱出出来た話は良く知られている話ですが、この戦いは、剣を持たない戦いでありました。モーセの戦いは、剣ではなく、手に持った杖を高く上げ、神に祈り求める祈りによって人々を導くことであったと思われます。
しかし、次第に歴史が進むにつれて、神からの約束の土地を手に入れたイスラエルは、争いと戦いの連続となりました。当初は士師と呼ばれる指導者が、後にはサウル、ダビデ、ソロモンという王が中心なって、近隣諸国と戦いました。しかし、その戦いにおいて彼らは、次第に罪を犯すようになります。
それは、戦い、争い、勝利することによって、そこから莫大な利益が得られ、国が豊かになるという現実です。勝てば勝つほどに、国が豊かになるのです。まさに、ダビデの時代、息子のソロモンの時代がその代表的な時代であったと言えるでしょう。しかし、そのことを主なる神は望んでいたのでしょうか。
更に、より現実的な問題は、国全体が豊かになるというよりは、イスラエルの中にあって、貧富の差が大きくなっていったとも言われます。富める者はより富み、貧しい者はより貧しくなっていった。元来、モーセに与えられたところの律法は、そうならないように、誰もが神の御前において、幸いに、祝福に、平和に、つまり、シャローム、平和、祝福に生きられるようにと良く考えられた神から与えられた決まり事でした。しかし、次第にその律法が無視されるようになり、イスラエルの内にあって、土地の搾取が起こり、搾取された者は奴隷とされ、裕福層と、貧困層との格差が広がって行ったようです。
このような状況は、現代の日本と良く似ていると思います。そして、そこにおいて主なる神のシャロームは忘れられ、限りない人間の欲望だけが勝利していく、ように思えるのです。
そんな状況にあって、イスラエルに登場するのが、主なる神の言葉を取り継ぐ預言者と呼ばれる人々です。例えば今、婦人会では、7月から旧約聖書のアモス書という箇所を読み始めましたが、9月に学ぶ予定の2章で、預言者アモスは痛烈にイスラエルに対して批判をしています。「主はこう言われる。イスラエルの三つの罪、四つの罪のゆえに、わたしは決して赦さない。彼らが正しい者を金で、貧しい者を靴一足の値で売ったからだ。彼らは弱い者の頭を地の塵に踏みつけ、悩む者の道を曲げている。父も子も同じ女のもとに通い わたしの聖なる名を汚している。」
豊かな者が貧しい者に対する行為を強く非難、批判している文章です。
あるいは、イザヤ書1章23節にはこうあります。「支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり 皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守られず、やもめの訴えは取り上げられない。」こう記したイザヤが活躍した時代は、紀元前700年代であったと思われます。
しかし、このような預言者の言葉も聞き入れられず、悔い改めないイスラエルは、ついに自分達の欲望の果てに、全てを失い、大国バビロンに敗れ、国を失い、全てを無くしてしまうことは、聖書を読む者は良く知っている通りであります。
主イエス・キリストは「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」と教えられました。剣とは、この世の富であり、権力でもあり、武器であり、他を屈服させる力とも言えるのではないでしょうか。そのような物を取る者、そのような物を神とする者は、その人自身、その神としたもので滅びるのです。
詩編20編8節を改めて読みますと「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが 我らは、我らの神、主の御名を唱える」とあります。
私達が誇る物は、戦車でも、馬でもなく、我らの神、我らの主です。主なる神の栄光は、旧約聖書で終わるのではなく、新約聖書において、神の子、主イエス・キリストにおいて実現されました。
今日はコリントの信徒への手紙12章を読んでいただきました。そこで使徒パウロは自分の信仰について告げています。自分には一つのとげが与えられ、なんとかそのとげが自分から離れるようにと三度祈ったというのです。
三度とは何度もという意味があります。しかし、主は「わたしの恵はあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と告げられたというのです。この意味は、あなたはあなたの欲望から離れよ、という意味ではないでしょうか。パウロは、そう理解したのではないでしょうか。そのままの自分を、大いに喜び、自らの利益を求めず、また状況によらず、神の福音を平和、シャロームを、全ての人々に告げ知らせる人生を歩み続けました。
私達の歩みもまた、そのようなものでありたいと心から願います。
誇るなら、主を誇り、武器を持たず、剣を手にすることなく、神の祝福を歩み続けて参りましょう。
お祈りいたします。