日本キリスト教団 大塚平安教会  

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神の道は完全

2019-07-28 13:25:29 | http://www.ohtsukaheian.jp/
【詩編18編26~31節】

【ローマの信徒への手紙13章8~10節】


 ローマの信徒への手紙13章を読んでいただきました。その10節に「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」とあります。全うするとは、完成させる、完全にするという意味です。

 律法という言葉は、法律という言葉をひっくり返した言葉ですが、中身としては似たところがあるわけですけれど、違いは何かといえば、法律は、私たち人間が、より良い生活、円滑な人間関係を生きるために必要な決まり事として作っていくものですけれど、律法も、目的としては同じ考え方で作られていると思いますが、作られたのは主なる神であり、主なる神が旧約聖書の時代、イスラエルの指導者であったモーセに、直接与えて下さった神様からの決まり事、この事をしっかり守るならば、あなたがたは幸せに生きていけるであろう、そのようにして神様が与えて下さった教えが、律法となります。

 私たちは、誰であっても幸せに生きたいと願います。誰もが幸せに生きるためにはどうしたら良いのかといつも考えているようなものです。

 何よりも健康が肝心だと、健康に気を付け、適度な運動をして、体力が落ちないようにとされておられる方も多いと思います。健康と幸せは深い関わりがあると思います。とはいえ、健康な人が皆幸せかというと、決してそうでもありません。必要条件ですけれど、絶対ではありません。
 
 幸せに生きるためには、やっぱり知恵が必要だと思うこともあります。特に子供たちには勉強を一生懸命にやりなさいと親も学校も口を酸っぱくして話したりします。今どきの学校の先生は平気で、学校だけでは足りないから塾に行きなさいと話します。それなら、朝からずっと塾に通った方が良いのではないかと思ってしまいますが、でも、勉強も良く出来て、知恵もある人が幸いに生きているのかというと、決してそういうわけでもないようです。

 少し前の話になりますが、一流の学校を出て、官僚と呼ばれる人になったけれど、職場で大麻とか麻薬を普通に使っていた人がいました。見つかって逮捕されてしまいました。先日の話では新潟の国会議員の方が、秘書に暴言を吐いたり、殴ったりしていたという話しもありました。勿論、人によるわけですが、知恵や知識が豊かな人は、どうしても人を見下し、自分が何か偉くなったような気がするのでしょうか。そうなると逆に人の知恵や知識は、その人を不幸にしてしまうことさえあるようにも思います。
 
 幸せに必要なものは、何よりもお金と考えることも出来るでしょう。お金があれば、大抵のことは上手くいく。望むことが適います。確かにそういうことは言えるでしょう。今、隣の幼稚園が新しい園舎を建てる目的で園長をはじめとして、色々と動いています。隣の土地を購入して、先週からついに元の本町マーケットの解体が始まりした。予定としては一か月程の期間が、解体がかかるという話しでしたが、この三日ほどで殆ど取り壊されてしまいました。その様子を園長と二人で見ながら、どう見ても一か月はかからない、もうあと一週間もすれば、終わってしまうのではないかと話しました。大分解体費用を要求されていますけれど、少しまけてもらいたいなぁとつぶやいていましたが、幼稚園も思っていたより費用が足りなく困っているところがあります。もう少しあればなぁと実感しております。

 先日は、年金だけでは、老後に2000万円足りなくなるといったニュースもありまして、一時期大分騒動になりました。人生、最後にはやっぱりお金ということもあるかもしれません。でもお金がなんでも解決するわけではありません。例えどんなに大金持ちであっても、人の心はお金では買えません。あの人と結婚したいと思い、願い、大金を積んだとしても、人の心を動かせるわけではありません。更には、人間の欲望はとても深く、あっても、あっても足りないと思うもの、それがお金というものかもしれません。

 どうもお金も必ずしも人を幸せにするものではないと思わされます。

 お金のことで、ついでに申し上げれば8節に「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。」とあります。「借りがあってはならない」という言葉は本来、大分強い言葉で、「義務を果たさなければならない」という言葉の様です。

 義務という言葉を聞くと、ここで改めて思いますのは、律法です。9節でも、パウロは律法の中でも特に知られている十戒の言葉を引用しながら説明しています。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、その他どんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。

 主なる神が、イスラエルの人々に「愛に生きるように」として与えて下さった律法を中心として、イスラエルが形成させ、その歴史を生き、神の民としての歩みを生きて来ました。

 けれど、いつの間にか、その律法が本来は愛に満ちた律法であったはずなのに、律法学者や、祭司、長老といった時代、時代の指導者によって利用され、愛が義務となり、裁きの教えになっていった。それによって人と人との間に愛が見えなくなって来ていた。

 だから、そのために、主なる神は、決心されて御自分の独り子である主イエス・キリストを、この私たちの世界に誕生させてくださいました。それがクリスマスの出来事になります。
 
 主イエスは、成長し、世に出て、神の愛を訴えました。愛すること、赦すこと、慈しむこと、「神を愛し、隣人を自分のように愛すること」律法の中で、最も大切な教えはこれでえあると教えて下さいました。ここでパウロも同じことを伝えようとしているのだと思います。「人を愛する者は、律法を全うしているのです。」先ほど、全うするとは完成させる。完全にする意味ですと申しましたが、愛が神の教えを完成させる。勿論、その愛は、人と人との間の愛とも違います。

 このローマ書13章の箇所について加藤常昭先生が説教をされている文章を読みました。加藤先生はこう告げておられました。

 「私たちは絶えず悪を受ける。絶えず傷つけられる。絶えず害を受けます。愛が無いところではそういうことが起こります。お互いにどこかで傷つけ合う。もしかすると私たちは、自分ではこれが愛だと思っていることで、相手をどやしつけているかもしれません。相手に重荷をかぶせているだけかもしれません。愛しているつもりで、傷つけているだけであるかもしれません。私がこんなにあなたを愛しているのに、とか、私がこんなにあなたに尽くしているのに、というような言い方で、お互いがお互いを傷つけるだけであったり、責め立てているだけであったりするかもしれません。裁き合って倒そうとするだけのこともあります。」

 人と人とが思う愛について、厳しく見るとしたらこの通りなのだろうと私も思わされました。そこに愛の完成が成り立たない。愛が完全になっていかないのです。

 ですから、加藤先生は「主イエスを抜きにして、この世を生きて行くことは、本当にできないことだとさえ思うことがあります。」と告げておられます。

 先ほど、詩編18編を読んでいただきました。18編は詩編の中でもかなり長い詩編です。詩編119編、78編に次ぐ程の長さと言われます。ですから全部の箇所ではなく、26節~31節だけを読んでいただきました。その31節に「神の道は完全 主の仰せは火で練り清められている。 すべて御もとに身を寄せる人に 主は盾となってくださる。」と記されています。今日の説教題を「神の道は完全」といたしました。道とは、私たちの人生を意味するのでしょう。神が与えて下さる私たちの人生は完全である。しかし、なぜ完全なのか、それは主なる神が、主イエス・キリストが私たちを導いて下さるからです。

 私が手もに持って愛読しているフランス語の聖書は、「神は完全な導き手である」と訳すことが出来るように記されてありました。美しい文章だと思いました。私はこの御言葉を読んで、ストンと心の中に落ちる思いを感じました。

 私事でありますけれど、ご存知の方も多いのですが、私はここ10年以上もクラシックギターを習っています。もともと音楽性の乏しい私には、半分以上、練習というよりは、苦行を行っているような思いで(笑)、自分でも良く辞めないで続いていると、自分を褒めたい思いさえしているのですが、いつか教会や伝道の役に立てればと願って始めたことでしたが、それがいつになるのかもわかりません。

 苦行の中の最も苦しいのが、毎年8月の中旬に行われる発表会です。例年、この時期にありまして、これまで教会の皆さんの一人としてお招きしたこともありませんが、今年も行われる予定です。ある日曜日の午後にふっと僕がいないなぁと思ったその日が多分、発表会の日です。(笑)

 なんとか例年、乗り越えて参りましたが、今年はどうも忙しい思いをしておりまして、弾くはずの曲の練習が殆ど出来ないで状態です。しかも、先生と一緒に二人で引く曲の練習が殆ど出来ない。これで本番は難しすぎると思っておりまして、今年は止めてしまおうと半ば思っているのですが、それでも、先週、横浜に教えて下さる先生を見つけて、思い切って電話をかけて、少し練習に付き合っていただいて、教えていただきたいとお願いしました。そしたらどうも、自分のところは開店休業のような状態だからいつでもどうぞと言われましたので、早速先週の木曜日の夕方に行ってきました。

 海外で10年ギターを習って帰って来られた先生で、楽譜を見せただけで、すぐやって下さいましたが、その腕前は本当に凄く上手で、こんな先生がプロのギタリストと言われるのだろうと感じました。楽譜を見ただけで、この楽譜を書いた人がどんな思いでこの楽譜を書いたのか、どう演奏すべきかが、全てこの楽譜に書いてあるというのです。私は数ヶ月見続けていましたが、どこに何が書いてあるのかさえわかりませんでした。

 楽譜を読むとはこういうことなのかと改めて驚きながら、練習したわけですけれど、でも、はっきりわかったことは、先生と私の腕の差があまりにも大きすぎて、練習にならないのです。記号の一つ一つの意味を興味深く教えて下さり、それはよく分かっても、手がついて行きません。なんとか教わった通りに弾いてみると「上手いって」言って下さるのですが、その言い方がねぇ、ウソであることもすぐ分かるのです。(笑) 

 ですから良い学びにはなりましたが、練習する時間は殆どなく帰って来ました。

 そこで改めて思ったのは何かというと、いつも付き合って教えて下さる先生が、どれほどの忍耐を持って付き合って下さっているのかということです。言いたいことは山のようにあり、ここも、あそこも、この点も殆ど出来ていないけれど、前回より一生懸命でしたよと言われる言葉が、本物の言葉として聞こえるのです。

 良き先生とは、その人その人の状況に合わせて、その人その人の成長に合わせて、その人その人の心に合わせて、そしてその人を迷わすことなく、導いて下さる方なのだと思います。「神の道は完全 主の仰せは火で練り清められている。」とあります。「火で練り清められる」とは、「まじりけが無い」という意味です。主の御言葉は混じりけが無いのです。だから力があるのです。加藤先生が話されたように、私たちが、これこそ愛だと思って語る言葉の中にでさえ、自分の為にとか、自分の利益のためにという思いがあるとするなら、聞く人にはその「混じりけ」のある部分だけが良く聞こえくるのではないでしょうか。


 私たちはともすれば、子どもに対して、夫に対して、妻に対して、隣人に対して「良き導き手」のつもりで、その人のためにと思いながら言葉を用います。
それでも尚、私たちは完全ではありませんから、どうも、言わなくて良いことを言い、言って欲しくないことを話し、言って欲しい言葉は言わないような、そんな「混じりけ」だらけの生活を過ごしているのではないでしょうか。

 けれど、そのような私たちに対して、だからダメだよとは決して言わないで、じっと忍耐する中で、私たちを愛して、愛して、私たちの人生の道標となり、完全な導き手として、練り清められた御言葉を持って、私たちを守り、支え、愛して下さる方がおられる。
 この方にこそ導かれて私たちはこれまで歩んでまいりました。次週の礼拝は、私たちの教会の創立70周年記念礼拝となります。その歩みをずっと主なる神は、良き導き手として伴って下さいました。その方を見失わず、祝福を沢山受けながら、今週も共々に主の導きの中で歩んで参りましょう。

お祈りいたします。
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あなたの翼の陰に隠してください。

2019-07-21 18:15:06 | http://www.ohtsukaheian.jp/
【詩編17編1~15節】
【ルカによる福音書16章19~31節】
「あなたの翼の陰に隠してください。」

 本日はルカによる福音書16章19節からの箇所を読んでいただきました。「金持ちとラザロ」というタイトルがつけられています。

 この話はたとえ話ではなく、主イエスが御自分で考えて作られた話のようです。作られたと言っても、当時似たような話が幾つかあって、例えば、「金持ちの取税人と貧しい律法学者の話」といった話があったそうです。

 神様の教えを忠実に守るとするなら、どうもこの世ではあまり金持ちにはなれそうにありません。ですから貧しい律法学者がいて、逆に富める取税人がいて、二人が同時に死んだのだそうです。取税人の葬儀は盛大で、律法学者には数人の友人が来て、葬儀を行った。ところが、その弔った友人が夢を見て、天の国では律法学者はパラダイスにいて、取税人はそこにはいなく、飢え渇き苦しんでいたというのです。だから、世に生きている時、どう生きるかにが大切ですよ。そういう宗教観といいますか、道徳観も含まれるような、良く知られている、また律法学者にも愛された話ではなかったでしょうか。

 そんな話をもとに、主イエスが御自分なりにアレンジをされて、話をされたのが今日の箇所となります。この話を通して、主イエスが私たちに伝えようとしていることは一体何か、そう思いながら読み進めて参りたいと思います。

 ある金持ちがいた。紫の衣、柔らかい麻布を纏っていた。というだけでその豪華さが伝わって来ます。毎日贅沢に遊び暮らしていた。その門前に、ラザロと言うできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていたというのです。犬もやって来ては、そのできものをなめたというのは、その貧しさ、悲惨さを強調している表現でしょう。「金持ちと貧乏人」としてはっきり対比されているわけです。

 「貧しい人が横たわり」とありますが、この「横たわる」という言葉の意味は、「人に連れて来られて、そこに座らされる、あるいは寝かされる」という受動的な意味があります。恐らく、ラザロは自分では動くことが出来ません。ですから誰かが、金持ちの家の門に連れてきて、そこに横たえたということです。
 
 そんな人が家の門前に置かれて、金持ちが本気でラザロが迷惑だと思えば、連れて来た人々に対して金持ちは怒りだすでしょう。「家に連れて来るな」そう言えばいいわけです。

 けれど、ラザロにはそれが許されていました。想像出来るのは、金持ちはラザロに対して意地悪をしてはいなかった、むしろ、それをあえて許していたのでしょう。つまり、金持ちは、ラザロに対して、自分なりのことをしていたと思います。「その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。」という言葉は、思っていたが、金持ちは何もしなかった、と続くのではなく、少なくとも、「その食卓から落ちる物を恵んでいた」位のことは考えられるのではないでしょうか。金持ちは何もしなかったのではなく、ラザロを自分なりにですが、受け止めて、自分なりの対応をしようとしていたと考えられるでしょう。

 その後、二人は死んでしまいます。ラザロは「天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れていかれ」ました。信仰の父、アブラハムのいる場所、明らかに天の国に入ったということでしょう。一方で、金持ちは陰府でさいなまれ、苦痛を受けていました。二人は天国と地獄、別々に分けられてしまいました。けれど、それは、金持ちが悪人だったから陰府で、ラザロが善人だったから神の国、ということではないようです。
 なぜ分かれたのか、理由の一つはアブラハムの言葉に見出されます。25節「子よ、思い出してみるがよい。お前が生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められた。お前はもだえ苦しむのだ。」
 この世と、地上での生活が反対になっただけである、これがアブラハムの答えです。

 金持ちは、「ラザロをよこして、指先に水を浸し、わたしの舌を冷やさせてください。」とアブラハムに願いました。金持ちの思いとしては、せめて地上で、私がラザロに対して心を配った程度のことは、ここでして貰っても良いではないかと考えたのかもしれません。
 しかし、アブラハムは、それは出来ない相談であり、あなたと私たちの間には大きな淵があって、渡ることも、超えることもできないと告げました。

 金持ちは「父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が5人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」
金持ちには兄弟が5人いた、そして、その5人とも、ここままでは自分と同じ陰府に降り、炎の中でもだえ苦しくことになるだろう。だから、ラザロを遣わして欲しいと願います。アブラハムは答えました。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」しかし、金持ちは食い下がります。「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中から誰かが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。」

 この言葉に、金持ちがなぜ、陰府に降ったのかが記されます。「悔い改める」という言葉です。金持ちは、財産を独り占めにしようとしたから金持ちになったのではないかもしれない。むしろラザロのような貧しく弱い人々に対しても、暖かな眼差しを注いでいたかもしれません。けれど、金持ちが神に対して行っていなかったことがありました。それが悔い改めることでした。

 悔い改めるとはどういうことでしょうか。今日はルカの16章ですが、15章には「放蕩息子」のたとえという話しがあります。兄弟が二人、兄と弟がいて、ある時弟が父に行って、自分の財産の取り分を貰いました。お金だけじゃありません。多くの家畜や土地や、様々な生活必需品があったと思いますけれど、それらを全てお金に換えて、遠い国に旅立ちました。そこで放蕩の限りを尽くし、財産を無駄遣いして、使い果たしてしまった時に、飢饉がやって来たというのです。その為に、豚の世話をする仕事をするわけですが、その豚が食べるいなご豆を食べてでも、腹を満たしたい程であった。どんなにか惨めだったでしょう。その時、彼は「我に返った」とあります。そして、自分の父の家に帰ろうと決心しました。この我に返るとは、本心に立ち帰ることです。自分が自分を取り戻すことです。我に返った弟は父の家、すなわち、神の元へと帰っていこうと決心する。

 それが悔い改めることでしょう。方向が定まらず、どうも、あっちに、こっちに向かっていた、けれど、本心に立ち帰って神の方向へと向きを正すことをした。これが悔い改めることです。

 信仰生活の大事な鍵は、「私たちは生きているのか」、「生かされているのか」ということです。私たちは、自分が生きていると思っていますと、腹が立ったり、イライラしたりします。

 自分は自分を生きていると思うと、自分の思う通りに人を動かしたいと思いますし、動かなければ腹が立つものです。腹が立てばそれがストレスとなり余計にイライラします。しかし自己中心的な思いがイライラの原因です。

 世の中は、思う通りに行かないことばかりだと嘆き、挙句の果ては、この世に神も仏も…。とこの世を嘆き、自分の人生を嘆いている人、教会の外には随分とおられるのではないでしょうか。

 けれど、信仰を持つとは、自分が生きているのではなく、生かされていることに気がつき、我に返り、自分は自分を養って下さる神のもとに帰ろう、本来、そこが自分のいる場所であると悔い改めることでありましょう。悔い改めの無い人生は、自分で自分を炎の中へと向かわせるようなものではないでしょうか。金持ちの5人の兄弟もまた、金持ちであったかもしれません。けれど死んだ金持ちに、はっきりとわかったことがありました。
5人の兄弟はきっと悔い改めないだろう。もし、悔い改めるとしたら、それは死者の中から、誰かが兄弟のところに行くことほどのことが必要だと感じたのでしょう。

 だから、金持ちはなお食い下がりました。「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中から誰かが兄弟の所に行ってやれば、悔い改めるでしょう。」アブラハムは答えました。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」

 モーセと預言者とは旧約聖書全体をさします。すなわち聖書そのものです。「我に返り」「悔い改める思いをもって」神の御言葉に耳を傾けようとしないなら、死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れない、そう伝えたのです。

 その姿は私たちに対しても求められているものでありましょう。私たちも聖書を読み、祈り、賛美しています。御言葉に聞き、父なる神が御子イエスをこの世に遣わして下さり、主の十字架と死、しかし、その先から生き返った主イエスの姿を知って、私たちは、どれほど、神から遠い存在であったか、つまり、どれほど神の教えを聞きながらも、そのように生きていなかったかを知らされ、「悔い改め」ることが求められているのだと思います。

 「我に返る」ことは、それほど容易ではありません。我に返るとは、自分に罪があると認めることだからです。人間には良い人と悪い人がいますと、言われると誰もがそうだなと思いますけれど、自分は悪い人に入るなぁとは思わないでしょう。でも、自分以外のあの人も、この人も、悪いところがあるなぁ、そのことにはすぐ気がつくものです。自分の目の中の丸太には木がつかず、人の目の中のおが屑は良く見えると主が言われた通りです。

 一方、ラザロは死んでアブラハムのそばに連れていかれました。なぜでしょうか。ラザロは悔い改めたからでしょうか。確かな信仰があったからでしょうか。人を愛したからでしょうか。主イエスは何も伝えていません。

 ただ、ラザロには、何もありませんでした。ラザロは金持ちの家の門に、誰かの手によって連れていかれ、そこに置かれる日々でした。そこから動くことも出来ませんでした。ただ金持ちの慈悲によって生かされる日々でした。しかし、それ以上に神の恵みにすがって生きていく以外の術はありませんでした。放蕩することも出来ず、あの100匹の羊の中の1匹のように、外に飛び出す事も出来ません。しかし、何も出来ない時にこそ、そこに主の恵を深く感じるのではないでしょうか。ラザロという名前は「神は助ける」という意味だそうです。「神の助け無くして、行き得ぬ者」という意味だそうでうす。ただ神の助けによってのみ生きている人の名前です。

 旧約聖書の詩編17編を読んでいただきました。17編は、何かの出来事によって、窮地に立たされる中で、主なる神の前に、尚、必死に訴え続けている詩編です。今日の説教題を「あなたの翼の陰に隠してください。」といたしましたが、17編の8節の御言葉から取りました。「瞳のようにわたしを守り あなたの翼の陰に隠して下さい。」とあります。この詩編の著者の周囲には、神に逆らう者がいて、著者を虐げ、包囲している、まさに絶体絶命の状況に置かれています。もはや、自分の力を頼ることが出来ない状況です。

 恐らく、自分が自分を頼れると思える状況であったなら、このような詩編は出来なかっただろうと思います。

 誰も頼る人もなく、自分も自分を頼ることも出来ず、しかし、たった一つ頼れる方がおられる。どんな時も、あのラザロのように、「主こそが助けて下さる」主なる神が、御自分の翼の陰に自分を隠し、どんな時であってもなお、アブラハムの懐に置いて下さる、この方がおられるのなら、自分には力がないけれど、この状況でも尚、希望があるのです。

 時として、揶揄するように、キリスト教は弱い者が信じる宗教だと批判されることがあります。若い頃はそういう言葉を聞くと、心が動揺しましたけれど、今では、それがどんなに大切かと思っています。まさに私たちは弱いのです。生涯をかけてキリスト教を伝えた使徒パウロも何度も、何度も、自分がどんなに弱いのかを告げています。「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストの為に満足しています。なぜなら、わたしは弱い時にこそ強いからです。」とコリント書に記されています。

 なぜ、弱い時にこそ強いのか、それは、どんなに弱くとも、弱さを感じようとも、そのような私たちを、その翼の陰に隠して下さる方がおられる。そこに逃げ場がある。そこに人生の重荷を降ろす所が与えられている。主にある安息によって、力与えられる場所があるのです。それは神の翼の陰であって、そのことを知る私たちは、いかに幸いかと思います。

 人の弱さと共に神の力強さをしっかりと感じながら、私たちはこの一週間も確かに歩んで参りましょう。
 お祈りします。

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その声は全地に響き渡る

2019-07-16 09:06:31 | http://www.ohtsukaheian.jp/
【詩編19編 2~15節】
【ローマの信徒への手紙10章17~21節】


 既に大分前の話になりますが、今年の1月にタイからお客様が礼拝に来られたことがありました。タイで牧会されている3名の牧師がお出で下さいました。

 その牧師の中の1人のお嬢さんが日本に留学していて、二十歳になる。それでお嬢さんですから着物を着て、日本の成人式に出席される。その姿を是非見たいという思いで来られたと話しておられました。
 礼拝は日本語ですが、と申しましたけれど気にせず出席されて、礼拝後の愛餐会にも出て下さった。そこでタイの教会の様子なども伺いながら楽しい時間を過ごしました。

 その際に、何かの拍子に「日本人は太陽を神様にしている国だから」と言われました。あ~そうなのか、他所の国から見れば、日本は太陽を神様にしている国という認識なのかと思わされて、鮮明に記憶に残っています。
 
 けれど、タイであろうと、日本であろうとキリスト教徒の信仰は違うと話したかったのかもしれませんが、確かに日本人の宗教観は、自然を神と見なす思いが高いと思います。日本人は「宗教」という言葉をあまり好みません。その理由は幾つかありますが、その一つに、「宗教」とは、誰かその宗教を始めた人がいて、つまり、創設者がいて、その人の教えに傾倒し、その教えが正しいと信じた人々が集まって宗教が起こってくる、そういう感覚があって、多くの人はそのことを冷静に捉えようとして、距離を取ろうとする傾向があると思います。
 
 それよりも、人ではなく自然こそ神である、という明確な定義でもありませんが、大地、大空、川、山、太陽、月、星、そこに神を感じる。何よりも太陽を神とする。たとえば富士山に登る人の多くは、山頂から太陽が昇ってくる光、ご来光を見たいという思いの方々も沢山おられます。ご来光にはご利益があると言われているそうです。先日、友人の牧師からの今回で17回目の富士山に登頂しましたとお知らせがありました。。同年代の私には羨ましい限りですが、まさか、ご来光の御利益を求めて、ではないと思いますが、でも、太陽、自然を神とするような感覚は日本人には馴染みやすいのだろうと思います。

 日本の自然環境は非常に豊かな作物を私たちにもたらします。しかし同時に、時には大きな災害をももたらします。災害に対する畏れも加わって、自然に対して何事も無いようにと手を合わせる。それも良くわかる感覚ではないでしょうか。

 キリスト教は太陽を神とするわけではありません。むしろ太陽を含めて、月も星も、大地も自然も全てを、主なる神が作って下さった、創造されたと考えます。
 テモテの手紙の4章に「神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。」と記されてあります。この世を創造され、人に命を与えて下さった方がおられる。しかも、それは全て良いものである。この教えは旧約聖書の時代から、キリスト教が受け継いでいる信仰です。

 今日は詩編19編を読んでいただきました。「天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す。昼に昼に語り伝え 夜は夜に知識を送る」この私たちが住む世界、自然、環境、太陽も月も大空もそれは神の栄光を物語っている、神によって作られたものを神とすることなく、造られた方こそ真の神、この方こそ私たちが称え、栄光を帰す方だと詩編の作者は伝えているのだと思います。

 注解書などを読みますと、この詩編19編、特に「天は神の栄光を物語り」という御言葉によって、感化を受けたベートーベンが「諸天は神の」という讃美歌をつくり、ハイドンが作成した「天地創造」という曲もまた詩編19編からであったと記してありました。他にも恐らく沢山の音楽、あるいは芸術作品が詩編19編の御言葉から生み出されたであろうと思います。

 詩編の続く4節、5節を読みますとこうあります。「話すことも、語ることもなく 声は聞こえなくとも その響きは全地に その言葉は世界の果てに向かう。」
神のみ手と言葉によって創造された世界は、話すことも、語ることも無く、声は聞こえないというのです。

 この辺りの御言葉も大変興味深い言葉です。自然は何も語らない、日本人は、風の音、川のせせらぎが流れる音、虫の音、自然に聞こえてくる音を聞くと、心地よい音として認識して安らぐ思いがしますが、西欧の人々だけでもなく、多くの外国の方々は、それを雑音としか捉えないか、音という認識が無いと言われるようです。それは日本人の感性が良いというよりも、研究者によれば、左脳と右脳の働きと認識の違いによるものらしいのですが、詩編の作者も、「自然からは、話すことも、語ることもなく、声は聞こえない」という認識をもって記したのかもしれません。
 
 けれど、5節になると、話すことも、語ることもないその音は、「その響きは全地に その言葉は世界の果てに向かう」と続き、ここで大きく展開が変わります。

 その響きとは、賛美の声、音です。太陽が、月が、星が、大地が、自然が、神を賛美していると伝えるのです。先ほど、礼拝の始めに招詞が読まれ申命記10章14節が告げられました、そこには「見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである」と読まれました。天にあるもの、地にあるもの全てがあなたのものであり、全てが創造主である神を賛美するのです。「神の御手の業はなんと素晴らしい事か!すべては主よ、あなたがたお造りになったもの!」と世界の果てにまで向かうと告げるというのです。

 この賛美は、誰が自分達を創造し、誰が自分達を支え、誰が自分達に祝福を与えておられるか、更には「聞こえない神の声を」自らの信仰の心で聴き取らなければ出来ない賛美の響きではないでしょうか。

 先ほどローマの信徒への手紙10章17節以降を読んでいただきました。読んでいただいた箇所の中にパウロは、詩編19編を引用し、用いています。パウロは17節で「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」と記しました。
「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てまで及ぶ」私たち信仰者にとって、その声とは、キリストが告げられた御言葉を聞くことだと告げているわけです。
 
 しかし、イスラエルの人々は、そのキリストの言葉を聞き損ねてしまった。だから、キリストを十字架刑においやってしまったのだとも続き、神の御言葉を聞きながら尚、抹殺してしまった罪を指摘している箇所でもあります。

 ここで改めて問われるのは、「神の御言葉を聞く」とはどういうことか、ということであろうと思います。
 
 詩編19節の8節以下にこう記されています。「主の律法は完全で、魂を生き返らせ 主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え 主の戒めは清らかで 目に光を与える。」まだまだ、続きますが、主の御言葉を聞くとどうなるのか。

 それは魂が生き返り、知恵が与えられ、心に喜びが宿り、目に光が与えられるというのです。そのように聞くことが大切なのだと思います。

 先週の木曜日は、座間地区の家庭集会を行いました。その家庭集会で話しましたのは、マタイによる福音書の5章からでありました。マタイのこの5章から7章にかけては、主イエスが人々に神の福音を宣べ伝えた、山上の説教と呼ばれる主の御言葉が記されています。山上とありますけれど、恐らく小高い丘においてか、広い草原においてか、神の福音を人々に告げ知らせた、聖書の中でも最も主イエスが話し続け、語り続け、教え続けている箇所と言っても良いでしょう。
 
 その最初に「幸い」というタイトルが付けられている箇所を家庭集会で読みました。

 「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」と主は9回、幸いについて教えておられます。けれど、その幸いのあり方は、私たちが考える所の幸いとは違う幸いでもあると思います。
 
 心の貧しい人々、悲しむ人々、義に飢え渇く人々、義の為に迫害される人々、果たしてそれが幸いなのかと思える人々に対しても、主は幸いであると告げておられるのです。そこで問われているのは「神の御言葉をどう聞き取るのか」ということでありましょう。

 熊本の教会で牧会をされている米村英二という先生がおられまして、120頁程の薄い本でありますけれど、「幸福論」というタイトルで本を出されて、私の手もとにも届きまして、私は喜んで読みました。その中に、この主イエスが教える幸いについて、こう記してあります。

 内容を少し要約しますが、「フランスのアランという作家が記した「幸福論」で、アランは『幸福はいつもわれわれから逃げてゆくものだ』と伝えている。それは、私たちが幸福と思っているものの多くが、外部から与えられたものであるからだろう。自分でつくる幸福は決して裏切らない。われわれに必要なのは人や環境に依存しない幸福であり、その幸福を自分でつくる能力なのではないだろうか。」

 大切なポイントは、「外部から与えられた幸福は逃げて行き、自分で造り上げる幸福は決して裏切らない」という所です。

 心の貧しい人々、悲しむ人々、義に飢え渇く人々、果たしてそのような人々が幸いであるかどうか、人間的な思いではそれでも幸いであるとは言い難いと思います。
 
 しかし、主イエスは与えられている状況や環境に依存するのではなく、それこそ、その場で神の御言葉を聞いて、自分の内から造り上げられていく幸福、詩編19編で言うならば、魂を生き返らせ、心に喜びを、目に光を与える幸福を手に入れることだと告げているのかもしれない。
 
 その為にどうするのか。それは主イエスに従って生きること、主イエス・キリストはこの世に現れて下さったとき、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と告げて福音伝道を始められました。そして、多くの人々に神の福音を宣べ伝え、病の人、悪霊に取りつかれている人々を癒し、その業に多くの人々が称賛し主を称えました。多くの弟子たちが従いました。

 しかし、妬みに燃えた、時の指導者たちは、主イエスを殺す計画を立て、捕らえ、裁判にかけ、主は十字架刑に付けられました。その際、弟子たちは皆、逃げてしまいました。聖書を読む者は、皆知っているとおりです。
 
 弟子たちはなぜ逃げてしまったのか、弟子たちは主イエスから、つまり外部から与えられていた幸いを喜んでいたからではなかったでしょうか。しかし、十字架によって外部から与えられた幸いは見事に逃げていき、弟子たちもまた、恐れ逃げたのです。

 けれど、三日後に復活された主イエスは、弟子たちを励まし、40日間、弟子たちと共に過ごし、それから天に昇っていかれました。その時も弟子たちは昇って行かれる主の姿をいつまでも見上げていたと記されています。弟子たちからすれば、また主は自分達から離れて行ってしまわれたと思ったかもしれません。
 
 けれど、それから十日後、一同が共に集まり祈り続けていた時に、主が約束しておられた聖霊が弟子たちの一人一人の上にとどまり、弟子たちは聖霊によって力与えられ、ついに心の迷いから離れ、与えられている状況に依らず、主の福音を宣べ伝え始めました。それがペンテコステの出来事であります。
 
 聖霊の力は、幸いは自分で造り上げるものであることを、弟子たちがしっかりと認識し、そう生きようと決心する思いを促す力であると思います。聖霊の力こそが、祈りを本物の祈りとし、祈るばかりでなく語りだし、語るだけでもなく、行動が伴い、行動が伴うだけでなく、そこに喜びの人生が与えられ、そして、その喜び、幸いが、多くの人々の心に響いたのです。その響きは全地に、つまり、私たち一人一人にもしっかりと響いて、そして私たちの魂をいつも生き返らせて、目に光を与え続けています。

 直接耳には聞こえてこない神の声、しかし、その声は、喜びの福音として私たちの心に響き渡っているはずです。その喜びを胸に納めて、私たちは今週も力強く歩んで参りましょう。

 お祈りいたします。
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主よどのような人が

2019-07-08 09:45:13 | 礼拝説教
【詩編15編1~5節】 
【ルカによる福音書18章9~14節】

 先週はK姉の納骨式を雨の中となりましたが、多くの皆さんと共に、厚木の教会墓地にて行われ誠に感謝な時でありました。特に遠方からもKさんの親族の方が幾人もやって来られ、こちらに向かう車の中で、Kさんの遺骨が教会の墓地に納めるのはとても良いと話して、感謝していますと話して下さいました。

 日本の長い風習の中では、多くの場合「なんとか家代々の墓」と記された墓が建てられます。私の岩手の田舎のお寺にも、「菊池家代々の墓」がありますし、キリスト教の家庭である家内の実家の墓も、代々とは記されていなかったと思いますが、その家の墓がある。皆さんの中にも、そういう方は多いと思います。

 しかし、今、巷の問題となっている一つは、少子高齢化の中で、その代々の墓を継ぎ、守る人がいなくなって来ていることだと言われます。昔はいわば、その家に生まれた長男が、墓を守り引き継ぐのが当たり前であったのが、現在はそういったシステムが機能しなくなっていると言われます。

 現実的に考えても、もしK家の墓があったとして、これまでKさんがそれを守って来ていたとしても、今回天に召されましたから、後はどうしようもありません。そんなことを親族の皆さんも話して来られたのではないでしょうか。でも、この教会に教会の墓があり、そこに納められ、その後も教会が続く限りは、つまりは永遠に召された方を覚え、偲び、手を合わせ、祈りを献げる方がいる、それは実に幸いだと、親族の方は思われたのでしょう。私もうなずきながら話を伺っておりました。

 そんな話しを伺いながら、私も本当にそう思います、と答えながら、11月の第一の日曜日には召天者記念礼拝という特別な礼拝がありまして、写真を飾り、故人を偲びながらの礼拝を執り行いますから、是非おいで下さいとお伝えいたしました。けれど、その時だけは少し残念に思いますけれど、皆さん苦笑いされておられた。なんとなく、あまりその点においては興味が無さそうな雰囲気でしたので、本当にお出でいただきたいと、熱心に礼拝に来られるようにお勧めをいたしました。

 もとより、実は当初、先週の礼拝の、最初から幾人かの方には礼拝から出席していただきたいと願い、電話でその思いをお伝えしておいたのですが、真に残念ながらどなたも出席されませんでした。とはいえ、Kさんは、これまで殆ど親戚とのお付き合いが無かった方でしたし、親戚の皆さんが、割合に遠方からお出で下さるだけでも、私たちは感謝しなければならないと思います。何人もの方が、葬儀にも、納骨にもいらして下さった、本当に良かったと思います。

 でも、教会の礼拝に出席するのはハードルが高いかなとも、改めて思った次第でした。来られた皆さんにとって教会、あるいは教会の礼拝が、あまりにも縁遠く、自分達の日常生活との接点があまりにも無いということを示しているのかもしれません。

 話しは少し変わりますが、過ぐる6月23日に私たちの教会は関田寛雄先生をお招きして特別伝道礼拝を行いました。その際の礼拝では、初めてこの教会の礼拝に出席された方も数名おられましたし、普段見えられない方も来られました。シルバさんご家族が、揃って礼拝に出席されたのも良かったと思います。しかし、そこでも改めて思わされることは、一人一人の関わりの大切さです。伝道礼拝であっても、例えばクリスマスやイースターであろうと、私がこの教会に赴任した頃には、数年の間、沢山のチラシを作成しました。2千枚、3千枚のチラシを作成して、皆さんに協力していただいて、一軒、一軒のポストに入れて回りました。

 ある年のクリスマスに、3千枚程のチラシを作成しまして、配り回り、聖夜礼拝にそのチラシを見て、やって来ましたという方が一人おられて、1人でも配って良かったと喜んだ覚えがあります。あるいは、来られないとしても、チラシを見れば、ここに教会があるということは知っていただける、そういう効果はあると思います。けれど、協力者の皆さんが何日もかけて配って下さるのも大変だと思い、考え方を変えて、チラシは多くは作成しない。けれど、これまで、どこかで、教会との関わりを持っておられる方々、住所等がわかっている皆さんには、葉書や封書でお知らせを出すようにいたしました。そこで、はっきりわかったことは、その方がずっと教会の礼拝に来て下さるのです。

 教会は主イエス・キリストの福音を宣べ伝えるために、特に日本の教会は伝道していかなければなりません。しかし、どのように伝道していくのか、それはいつも問われていると思います。けれど、何よりハッキリと効果があると思われる伝道は、人との関わりを持つ、良い関係性を保つ、信頼するに値すると思っていただけるとしたら、それは何にも勝る伝道ではないかと思うのです。

 多くの日本人が持つ、教会のイメージとはどんなイメージなのでしょうか。内側にいる私たちには中々分からないところでもあります。しかし、外側から見たらどうでしょうか。一生に一度も教会という所に来たことも、入ったこともないという方の方が圧倒的に多いと思われます。教会と聞いても別の世界と感じる方も多いでしょう。あるいは時々、テレビ、雑誌等で「敬虔なクリスチャン」という言葉を聞くこともあります。教会に、礼拝に出席されている人たちは、自分達と違うと思っているかもしれません。

 今日は詩編15編を読んでいただきました。1節にこうあります。「主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り 聖なる山に住むことが出来るのでしょうか」この幕屋とは主の幕屋、すなわち礼拝する場であり、後の神殿となり、キリスト教で考えれば教会です。主よ、どのような人は教会で礼拝を守るこが出来るのだろうかと、問うているのです。

 そして、その答えが2節以降に記されます。「それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり 舌には中傷を持たない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。主を畏れる人を尊び 悪事をしないとの誓いを守る人。金を貸しても利息を取らず 賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。」

 このような人が、主の幕屋に宿ることが出来るのだとあります。そして最後に「これらのことを守る人は とこしえに揺らぐことがないでしょう」と記して、この詩編は終わります。この詩編の著者は、どんな思いでこの詩を綴ったのかと思わされます。主よ、どんな人が主の御前で礼拝を献げることが出来るのですか。と問いつつ、「完全な道を歩き、正しいことを行う人なのでしょう。」と記しながら、「心には真実の言葉があり 舌には中傷をもたない人」と記しながら、そして、そういう人たちは、「とこしえに揺らぐことがないでしょう」と締めくくられます。

 私は、この著者が、自分は完全な道を歩んでもいないし、正しいことを行ってもいないし、心には真実の言葉がなく、時には、人に対して中傷の言葉を吐く、そういう者であることを知っていたのではないかと思います。何より、著者自身が、日々、心も、日々の生活も揺らぎばかりを感じている、そんな自分自身だなと思いながら、どんなに自分が神の前にあって、情けないと思い、そんな思いをいだきつつ、だから尚更「主よ」と訴えているのではないかと思うのです。私は、この「主よ」という御言葉が、私自分の心にも響いてくるように思うのです。

 世の人々が抱く、信仰を持っている人のイメージ、それは、もしかしたら、この著者が記すように、「完全な道を歩き、正しいことを行う人」というイメージなのかもしれません。だから、「教会は敷居が高い」と感じるのかもしれません。

 けれど、内実はどうでしょうか。勿論、私たち自身「心に真実の言葉があり 人を中傷せず 友に災いをもたらさない」ようにと願いながら過ごしています。それは間違いないでしょう。けれど、だから尚更、自分は完全ではないとも知っていて、神の御前においては、罪人の1人でしかない、そのことも良く知っているのです。しかし、主イエス・キリストはそのような罪人の1人であるこの私を、圧倒的な「赦し」の中で神が招いて下さっておられる、この招きがあるから、この場に集えるのだとも知っています。
 
 新約聖書のルカによる福音書18章9節からを読んでいただきました。主イエスが一つのたとえを話された箇所です。内容もそれほど難しいわけではありません。「二人の人が祈るために神殿に上った。1人は律法を厳格に守るファリサイ派の人で、1人は当時罪人と同等と考えられていた徴税人です。ファリサイ派の人はこう祈りました。「神様、わたしはほかの人たちにように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら祈ります。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」それから主イエスはこう言われました。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」
 
 主イエスは、徴税人の祈りのほうが義とされるのだと教えられたのです。この徴税人の祈りは、詩編の著者の思いと重なってくるように読むことも出来ると思います。

 皆さん、けれどどうでしょうか。私は改めてここで一つの問いが示されていると思います。私たち信仰を持つ者、特にプロテスタント教会において育つ私たちは、主イエスのたとえを読む時に、自分達を徴税人の方に寄せて読む傾向があると言われます。「自分は、自分達は、この徴税人のようだな。神の御前において一つも誇れるような物もなく、胸を打ちながら罪を悔いる祈りしか祈れない者だ。」と思う。しかし、その時に、もしかしたら、自分は正しい人間だとうぬぼれ、他人を見下しているファリサイ派が祈るような祈りを祈らない者であることを感謝します。と心に思うとしたらそれはファリサイ派の人を見下していることにならないでしょうか。

 ファリサイ派が陥っている「自分は正しい者」であることに感謝する罪と、徴税人が「自分は罪人であって、正しい者ではないと知っている」ことを感謝するのは、同じ土俵の上にいるようなものです。

 互いにあんな人とは違うと思うからです。
 
 当初、教会の敷居が高いと言われると申し上げましたが、私たちは、教会に集まる者の私たちは、神の前に罪人の1人であることを思いますし、説教でもそう話します。

 しかしその時、世の多くの人たちは、「自分は罪人である」ことさえ知らない人たちであって、私たちは知っていると思っているとしたら、そこで、私たちは人を見下す罪を犯しているのではないか、そしてそのことを、世の人々は非常に敏感に感じて、それを「敷居」と言う言葉で表現しているのではないかとも思います。
 
 徴税人はなぜ、神に義とされたのか。それは、ファリサイ派の祈りは、人と比べる祈りであったのに対して、徴税人はただただ自分の罪を悔いて、その赦しを願っていたからです。祈りは人と比べるものではありません。ましてや「自分がいかに罪人であるか」を知っている、それは自慢にも何にもならない。

 そこに求められるものは、徹底的に神の前に胸を打ち、毎日、毎日、知らない間にさえも、人に罪を犯していることを悔い改め、主に赦しを願うことでしかないのではないでしょうか。
 
 先ほど、伝道することは人と関わりを持つことと申し上げました。しかし、その関わりは、主なる神に対して、この取税人のように常に、自らの罪の赦しを希うところから始まるものであろうとも思います。
 
 今日は、この後聖餐式を執り行います。主イエスの体なるパンと血なる杯をいただき、神の命をかけた赦しの業を思い、感謝していただき、またキリストと一つとなり、神の命を生きて参りましょう。   お祈りします。

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神は従う人の群れにいます。

2019-07-03 09:26:00 | 礼拝説教
【詩編14編1~7節】
【ヨハネによる福音書19章25~27節】


 過ぐる先週の礼拝では、私たちの教会は神奈川教区の巡回教師として、90歳の年齢で尚、現役の牧師として多方面で活躍されている関田寛雄先生をお招きし、礼拝を守ることが出来ました。私の神学生時代の恩師でもあり、多くの指導をしていただきました。昨日は神奈川教区総会が開催されましたが、総会に多くの方々が集まる中、関田先生ともお会いして先週の感謝を述べて参りました。

 関田寛雄先生は、長く青山学院大学神学部において、またその後は文学部神学科となるのですが、教員として勤めておられました。しかし残念ながら1977年に神学科が廃止となりまして、その当時、青山学院で教えておられた先生方は、日本でも有数の著名な先生方が集まっておられ、その中の一人は、私たちの教会でも牧会をされた川島貞雄先生もおられました。

 なぜ、神学科が廃止されたのか、詳しい経緯を私はわかっているわけではありません。けれど、一つは当時、神学部、神学科の学生の中に、過激な学生運動の活動家がいたとか、学校全体の経営面から考えると、恐らく学校の中で、一番収益があがらない学科であったこと、などが一般的な理由として言われているようです。背景としては、もっと複雑な問題があったと思われます。

 ともかく、神学科が無くなり、多くの先生方は職を失いましたが、殆どの先生は別の大学へと移って行かれました。多くの先生は別のキリスト教主義の大学へと移り、ある先生は東京大学から招かれ、川島貞雄先生は日本聖書神学校の教授となってくださった。ですから、私の先輩諸氏からは、どれほど喜んだかと何度も聞いた話でした。

 そんな中、関田先生は青山学院に残られました。なぜ、残られたのか、その理由を直接聞いたことはありませんが、青学の神学科を卒業し、牧師として働いているある先輩牧師は、桜本教会、川崎戸手教会を守るためであっただろうと話して下さいました。御自分が直接開拓伝道されて、しかも社会的な立場の最も弱い層に対して、いつも手を差し伸べられ、ホームレスと呼ばれる人々の為に、あるいは、在日韓国・朝鮮人と呼ばれ、差別される方々の為の働きを継続してこられた先生でしたから、教会の運営は殆ど自腹、自弁の働きであったと思われます。
 今、「差別されている方々の為に」と申しましたが、この表現をあまり関田先生は喜ばれないと思います。関田先生はいつも、隣に困っている人がいれば、助けてあげられるのであれば、助けようとされるのです。ホームレスの為、在日韓国・朝鮮人の為ではなく、ただ、すっかり困ってしまいました、と来られた人がたまたま、ホームレスであり、在日の方であっただけで、自分からそうしようと思ったわけではない、たまたまこうなってしまったと、これは、先生から直接伺った話ですから本当にそうなのだと思います。

 けれど、そのような先生の背景に先生の信仰がはっきりとみられると思います。主イエス・キリストは社会的に不当な扱いを受け、立場が弱く、力の無いと思われる人々に、いつも寄り添おうとされ、実際に寄り添われました。自分も出来るだけそうしたい、またそう思うだけでなく、主イエスのように実行されました。その姿は、今も昔も、御自分の信仰を貫かれるようにして少しも変わらないと思います。

 教会に来ていただいた先週の日曜日、の前の日の土曜日は、目白教会で葬儀がありました。私たちの教会の礼拝説教も以前にお願いしたこともありましたし、私たちの礼拝にも時々出席されていたA先生が84歳で召されて行かれた。その葬儀に私と家内と参列して参りました。A先生は、私の学年より二つか三つ上で、年齢としては58歳で神学校を卒業され、依頼26年に亘り、牧師として奉仕し続けられました。けれど、A先生は神学生の恐らく3年の時だったと思います。思いがけなく御自分が癌であるとわかり、緊急の手術をされて、数ヶ月入院されて、無事退院したものの、引き続き抗がん剤治療を続けながら学校に通っておられました。その内に4年生となり、卒業となり、福島県に赴任先の教会も決まった頃に、A先生が関田先生を相談があると訪ねて来たそうです。自分は癌になって、今まだ、治療中でもあり、赴任する教会も決まったけれど、この体では牧師としてやっていく自信が持てない。あるいは逆に迷惑をかけてしまうのではないかと思うと心配で、このまま行っても良いかどうかと迷っていると相談したそうです。

関田先生は、その答えとして、「Aさんよ。あなたは神様から招かれて牧師となる決意を立て、そして赴任先も与えられた。確かに、病気で大変だと思います。でも、その赴任先の教会が来てくれと言うなら、たった一回でもいいから、その教会の講壇に立って、神の福音を宣べ伝えなさい。たった一回で、その後、倒れてしまっても、あなたの人生は、神様の役に十分立っていると私は思う。」と答えたのだそうです。
その言葉を聞いて、A先生の迷いが消え、しかも、その後の牧師として生涯を支え続けた、関田先生の言葉、しかし、それは関田先生の言葉を越えた、神の御言葉であったと私は思います。

 神の御言葉は、人を生かす御言葉です。今、私たちの世界は、現代社会は「人を生かそうとする言葉」をいつの間にか、殆ど聞かなくなってしまったのではないでしょうか。逆に「人を生かそうとしない、人に励ましを与えない、人を抑圧しよう」とするような言葉が溢れているのではないかと思うのは、私だけではないでしょう。

 今日は、詩編の14編という箇所を読んでいただきました。その始まりにこう記されています。「神を知らぬ者は心に言う「神などない」と。

 神を知らぬ者という言葉は、口語訳聖書では「愚か者」という言葉で記されていますし、他の聖書を当たってみても「愚かな者」という言葉が用いられています。つまり、神を知らぬ者は、愚か者だということでしょう。更に大切なことは、「神を知らぬ者」とは異邦人を指しているのではなく、イスラエルの民を指しているというのです。

 この詩編が記された年代を特定することは難しいようですが、今から2500年以上も前であったことは間違いないと思われます。しかも、神の民として生まれ、神の律法のもとで育ち、暗記するほどに聖書を学び、朗読し、読み、親しんでいたイスラエルの人々の中で愚かな者がいた。だから「心に言う」のでう。口で言葉にしたら大変なことになってしまいます。だから心の中で、「神などいない」神様、神様と言ったところで何の役に立つ物か、いつの間にか神を見下し、自分が願うようには動こうとしない神を信じたところで何の役に立つものか、そう思ってしまっている人々がいるというのです。

 詩編は、人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。と続きます。「腐敗している」とは「破滅をもたらす」という意味です。いや、既に破滅をもたらしている、そういう時代を今生きているのだと14章の特に前半は、そんな思いが記されているように読めます。

 となると、やはり旧約聖書で考えるとすれば、イスラエルが大国バビロンとの戦争に敗れ、国が破れ、捕虜とされ、連行されていく、まさにイスラエルが破滅した時代のことを記しているではないかと思います。

 「戦争に敗れる」、教会的ではないですが、今、令和と呼ばれる時代となりました。昭和の時代に日本が戦争を起こし、そして敗戦した時代の悲惨さを語れる方は大変少なくなってまいりました。その中にあっても関田寛雄先生はその戦争体験を語れる1人ではないかとも思います。

 昭和4年生まれの関田先生ですが、国が戦争に向かおうとする中で、小学校5年生位頃だったそうです。同年代の少年たちに囲まれて、『お前のおやじはキリスト教の牧師やろ。キリスト教の奴は皆、アメリカのスパイなんや。お前、キリスト教やめろ』と言われ、殴られ、蹴られ、そしてケガをして、血だらけになって家に帰ってきたそうです。

 それ以来、自分はどうして牧師の子どもなのかと、「自分は一体何者か」と父を恨み、逆に当時の多くの少年がそうであったように、自分も国の為に、立派な軍国少年になろうと決心して、その道を進み、ついには先生に陸軍士官学校を勧められる程になったそうです。しかし、15歳となった関田少年が経験したことは、敗戦という事実でありました。

 その事実は、自分がこれまで歩んだ道の全てが間違いであったという事実でもありました。しかも、その後は、誰もかれも、学校の先生も、教会の牧師も何の痛みもなく、民主主義化していったそうです。その日本の姿、日本人の生き方、次第に盛んになってくる人々のキリスト教ブームにも驚いたそうです。

 戦争中と戦後の教会に対する人々の姿勢が全く違うことにも驚き、自分は一体何をどう信じれば良いのか、自分は一体どこからやり直しが出来るのか、関田少年は、更に自分が闇の中に放りだされたような思いに至っていたのではないでしょうか。戦後、教会に人々が集まってくる中、礼拝には出席しない姿勢を貫いたそうです。

 しかし、その後、ついに、立ち直ることが出来たのも聖書の御言葉でありました。栄養失調がもとで、闘病し寝たきりの父親から、詩編51編を示されそして、そこを読んだそうです。旧約聖書885頁です。

 12節にこうあります。「神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください」それから19節「しかし、神の求めるいけには打ち砕かれた霊。打ち砕かれた悔いる心を、神は、あなたは侮られません。」この御言葉が関田少年の頑なな心を砕き、また、当時の英語の先生が教えてくれた、主イエスの御言葉、「覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。真実はやがて現れる」という御言葉を深く受け止め、この御言葉によって戦後を前向きに生きて行こうと決心したと、川崎戸手教会の歴史の中に、御自分の文章として記されてありました。(詳細はHPで読むことが出来ます。)

 皆さん、私は、人間とは、非常に幸いだと思う時も、また、大変な苦難の中にいる時も、どちらの時も神が忘れ去れられるのではないかと思います。神を知らぬ者、愚かな者は心に言うのです。「神などいない」こんな苦痛、こんな苦労、こんな状況、神様どころじゃない。と人は思うのではないでしょうか。

 今日は、午後より、過ぐる5月1日に天に召されて行かれたK姉の納骨式を予定しております。Kさんの生涯を改めて思いましても、21歳という年齢での息子さんの死、御主人の死、御自分の病、実に多くの苦労や、人に言えない悔しさ、悲しみを体験された方であろうと思います。

 けれど、Kさんの人生を支えたのは、一つは息子さんの神様に対する信仰でありましょう。いつまでも、どこまでも、どんな時も「僕は、神様を信じる」と言い切っているその言葉の背後に神様が寄り添っておられることは間違いありません。そしてその息子さんの思いが、御主人を、そしてKさんを、その生涯を支え続けて来たのだと私は思います。

 先ほど、大変な苦難にいる時、人は神を忘れると申しましたが、しかし、その中にあって、それでも尚神はおられると知っている人々がいるのです。

 聖書的に言えば、愚かでない人々がいるのです。その一人一人の所に主なる神はおられる。それが例えどんな状況にあるとしてもです。詩編14編5節の御言葉「そのゆえにこそ、大いに恐れるがよい。神は従う人々の群れにいます。」

 主イエスが、十字架に架けられ、多くの弟子たちはバラバラになり、逃げてしまっている中に会って尚、数人の婦人と1人の弟子がいた箇所を読んでいただきました。どんな時も、どんな状況でも神は、従う人々の群れにおられる。その姿をここに見るような思いが致します。

 私たちは、主イエス・キリストの十字架のもとに集められ、招かれている一人一人です。私たちの人生も命も、その全てをご存知である神のもとに従う者として、私たちはこの一週間、過ごして参りましょう。

 お祈りいたします。
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