日本キリスト教団 大塚平安教会  

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

主はわたしに報いてくださった

2019-06-16 18:47:52 | 礼拝説教
【詩編13編2~6節】 

【使徒言行録2章29~42節】

 ただいま、ルカによる福音書15章という箇所に記される「放蕩息子のたとえ」を子どもたちにお話ししました。父親の息子を思う愛が、どれほどであるか、また、徹底的に赦し、徹底的に愛されてこそ、子どもたちが健やかな成長を遂げることが出来るのだと思わされます。

 けれど、このたとえ話には少し続きがあります。弟の方は、放蕩の限りを尽くし、しかし、苦難の中、お父さん、すなわち主なる神に立ち帰って、赦され、愛されハッピーに終わったように締めくくられますが、もう一人の兄弟、兄がいるわけです。
 
 弟が帰って来た、お父さんは大喜びで迎えた。祝いの祝宴まで開いている。その様子を見ていたお兄さんは、怒りました。怒ってこう父親に伝えます。

 「この通り、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」こう言ったのです。
 つまりは、自分は父に仕え、一生懸命に働いて来た、しかし、その報いは少しもない、と腹を立てたのです。恐らく、激怒して父親に詰め寄ったのではないでしょうか。

 すると、父親はこう話しました。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」と答えたというのです。皆さん、どう思われるでしょうか。兄と弟、私は弟の方だな、私は兄の思いが良くわかる。それぞれに思われるのではないかと思います。
 
 今日の説教題は「主はわたしに報いてくださった」といたしました。先ほど、読まれました詩編13編から選び取った御言葉です。

 詩編13編に記されている内容は、それほど複雑ではありません。1節から読みますと「いつまで、主よ わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。いつまで、わたしの魂は思い煩い 日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。」と記されています。この詩編が記された年代は定かではありませんが、少なくとも2500年以上も前には記されていたでしょう。その時、どのような状況が起こっていたのか、具体的にはわかりません。
 でも少なくとも、この著者の回りには、神などいない、神に頼ったところでどうなるものか、と主なる神を侮り、神に信頼を寄せる人々をあざ笑う人々が大勢いたかもしれないとも思わされますし、あるいは、この著者自身が重い患い、病気となって苦しんでいたのかもしれません。4節には「死の眠りに就くことのないように 敵が勝ったと思うことのないように」とありますが、敵とはまさに病気であったと考えることも出来ます。

 いずれにしても、その状況はわかりませんが、この詩を記した著者は、神に対して与えられている何等かの試練とも言える状況の苦しさ、呻きを訴え続けている言葉が続くのです。
 
 けれど、最後の6節となり、著者はその心の思いが変わり「わたしの心は御救いに喜び踊り 主に向かって歌います。「主はわたしに報いてくださった」と。という御言葉で締めくくられています。
 
 先ほどのイエス様のたとえの中で、試練にあったのは果たして兄か、弟か、と問われるとしたら、どうでしょうか。放蕩の限りを尽くした、つまりは神に背き、ろくでもないことばかりをした弟だけど、むしろ試練にあったのは兄ではなく、弟の方が試練にあったと言えるでしょう。勿論、自業自得であるとしても結果的には、試練を通して、「我に返って」つまり、自分の罪を自分で認め、キリスト教でいうところの「悔い改め」て、お父さんに謝って、使用人の1人としてもらおうと思って父のもとへと帰るのです。
 
 兄の方は、兄としても父親に対して、幾つかの不満不平があったと思われますけれど、試練と呼べるほどの経験はしていなかったと思います。でも弟が帰って来て、父親が大喜びして、祝宴をあげた。その様子に「どういうことだ!」と怒るのです。
 この怒り、私たちには良く分かるのではないでしょうか。けれど、となると、主なる神様が、主イエス・キリストが私たちに示して下さる神の愛、神の赦しを私たちはどう捉えれば良いのでしょうか。

 今日は、もう一個所、使徒言行録2章29節~42節という少し、長い箇所を読んでいただきました。先週の礼拝はキリスト教の大切な礼拝の一つ、ペンテコステ礼拝でした。主イエスが福音を宣べ伝えられて、多くの民衆は喜びました。しかし、時の指導者は喜ぶどころか、妬みから腹を立て、主を捕らえ十字架に架けてしまいました。これで全てが終わったと全ての人そう思ったと思います。

 けれど、主イエスは三日の後に、つまり、日曜日の朝早くに復活された。これがイースターです。そのことを忘れない為に、私たちは日曜日に礼拝を献げるのです。それから40日して主は天に帰って行かれます。しかし、更にそれから10日後、主なる神は、主を信じる弟子たち一人一人に対して神の力である。聖霊を天から与えて下さり、弟子たちはその聖霊を受けて、励ましを受け、力付けられ、本気になって主イエス・キリストの喜び、福音を告げ始めました。

 この出来事をペンテコステと言います。いわば、教会の誕生日とも言える、特別の日です。先週は、そのペンテコステに洗礼を受けられ、クリスチャンとなられた方もおられました。
 
 そして、聖霊を受けた弟子の一人であり、弟子の中でもリーダー的な存在であるペトロが立ち上がり、力強く「神は、主イエス・キリストを復活させられたのです。」と語りだしている場面が、今日読まれた箇所となります。
 
 ペトロは、弟子たちのリーター的な存在でした。しかし、それだけに主イエスと共に歩み、更には歩む中で、様々な試練にあったと思います。主イエスと話す中で、「主よ、あなたのためなら命を捨てます」とさえ言ったペトロでしたが、直ぐその後で、イエス様に「あなたは、鶏が鳴くまでに三度、わたしを知らないと言うであろう」と言われ、実際に、十字架にかけられる裁判のさ中、その裁判に潜り込んでいたペトロの横で、あなたはあの男と一緒にいたと指摘されると、驚いて、あんな男は全然知らないと三回目には、誓ってまでも知らないさえ言ったのです。するとその直後に鶏が鳴いて、ペトロは自分自身が情けなくなって、泣きだしてしまったとあります。
 
 主イエスが捕らえられる、裁判にかけられる、十字架刑となる。死ぬ。ペトロ、また弟子たちにとってどれほどの試練であったかと思う。けれど、その試練が、試練のままで終わることなく、神は主イエスを復活させて下さり、聖霊を与えて下さり、その聖霊によって、もはや誰に対しても恐れることなく、「主イエスはキリストである。すなわち私たちのメシア、救い主である」と宣言しているのです。

 私は、試練は与えられないほうが良いと思います。しかし、聖書にはこんな御言葉も記されています。「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

 私は、もう一度申しますけれど、出来るなら試練は与えられないほうが良いと思います。でも、私たちが生きて行く中にあって、自分には試練は一つも無いという人はいないと思います。

 昨日、私は一つの葬儀を執り行いました。三人の親子のお母さんが52歳で、病気で召されて行かれた。残された父親と、中学生の娘、この二人にとって、この出来事がどれほどの試練であるか、私たちの想像を超える大きな試練であるに違いありません。葬儀を執り行う私自身にとっても、そこで慰めの言葉を語るために、随分と祈りを献げねばなりませんでした。試練には、大きな試練とか、小さな試練というような比較することは意味が無いと思います。試練とはその人にとっては、どれも大変な試練なのです。
 
 さて、あの放蕩の限りを尽くして、やって来たお父さんを見て激怒したお兄さん、このお兄さん、先ほど「試練と呼べるほどの経験をしていなかった」と申しましたが、お兄さんの試練は、今、この時ではなかったでしょうか。弟を許す父を見て、なぜ、自分も、無事に帰って来て良かったな、俺も心配していたよと、なぜ言えなかったのか。それは、自分の中に、正しさがあるからです。私たちは自分の心の中に、自分の正しさを持って、そして人を見て、判断するところがある。しかし、自分の正しさは、神の正しさとは違うのだと思います。
 
 お父さんは、兄に対しても、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」と告げました。子よ、私の物は全てお前のものだ。これ以上の愛を示せない程の、愛の形です。
 
 時々、娘がお小遣いをせがんでくる。お父さん「1000円貸して」、「貸して」というのが奥ゆかしい((笑)ですが、でも、「え!千円でいいの、3千円ぐらい欲しいだろう。やるよ」と言うと、必ず「入らない、入らない、千円でいいの」と言われます。え、そんなにくれるの、だったらもっと頂戴とは言いません。なぜなら、千円以上の愛をそこで貰っているからです。「私の物は全て、お前の物だ」この愛の籠った言葉を、自分のものに是非していきたいものです。

 どんなに与えられている状況に試練があろうと、「主はわたしに報いてくださった」と記した詩編の著者も、三度も主イエスを知らないと言って、そう言った自分に悲しくなって泣いたけれど、それをも許され、聖霊の力が与えられ、新たな思いで立ち上がったペトロも、放蕩の限りを尽くした弟も、その弟を許した父をも許せなかった兄に対しても、全て主なる神は、赦して、赦して、赦して下さり、「わたしの物は、全てお前のものだ」と言って、愛を示して下さる方がおられる。それはなんと幸いなことではないでしょうか。
 
 精神的な病を患っている患者さんに対して、この人たちがもし、赦すことを知ったなら、半分の人たちはそれだけで直ると言った医者がいたそうです。主なる神は、私たちを徹底的に赦して下さいます。その赦しに報いるのは私たちです。私
 たちは、私たちに与えられている人生において感謝を持って、歩んで参りましょう。


 お祈りいたします。
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今、私は立ち上がる

2019-06-10 09:33:00 | 礼拝説教
【詩編12編2~9節】  
【使徒言行録 2章14~21】

 皆さん、ペンテコステおめでとうございます。

 今日は、詩編12編を読んでいただきました。「主よ、お救い下さい」という言葉で始まる12編、記された詳しい背景は分からないようですが、詩編の著者は続けて「主の慈しみに生きる人は絶え、人の子らの中から、信仰のある人は消え去りました。」と記しました。
 
 この詩編が記された時、その背景にはイスラエルの多くの人々が、主なる神から離れ、離れれば離れるほどに、信仰は薄れ、また、消え、3節以降にありますように、「偽りを言い」、「二心をもって話す」という状況があったと思います。

 裏も表もある言葉でもって、しかも滑らかな唇と威張って語る舌で用いて、その人にとっては都合の良い言葉、あるいは利益となる言葉を語り、わたしたちに主人などいないと嘯き、主なる神を侮る人々が力を持ち、権力を握っている状況にあったその様子が良く分かります。
 
 詩編12節は、人が話す「言葉」について、考えさせられる箇所だと思います。言葉とは、主なる神が創造された被造物の中で、ただ人間だけが用いることが出来る神様からの贈り物です。しかし、その贈り物をどのように用いるのかによって、人は人と離れたり、絆が深まったりすることを私たちは良く知っている。つもりです。
 ですから、私たちは神様からの大切な贈り物を「人を生かす」為に用いていきたいものだと思うのですが、時として「人を生かそうとしない、人を裁き、人を陥れる」言葉として用いてしまうことも否定できません。
 
 最近、何人かの国会議員が不適切と指摘される発言が続いています。北方領土を戦争によって取り返すとか、女性には子どもを最低3人は生んで欲しいとか、失言と言われ、非難されています。
 しかし、失言と言っても、心でそう思っていなければ口からは発せられません。それは主イエスも指摘している通りです。「外から人の体に入るものは、人を汚すことが出来ない。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」「人から出て来るものこそ、人を汚す。」
 こう言われた時、主は、更に深く、言葉だけでもなく、人の心の中にある悪い思い、つまり、みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など」と話され、非常に強い表現でもって、人の言葉、人の心の思いに対して話されました。
 
 詩編を記した著者が生きた時代も、主イエスが指摘しているように、みだらな行いや盗み、殺意、姦淫、特に「二心をもって話す」とありますから、悪意、詐欺などが横行していたのでありましょう。
 
 このような嘆きに対して主なる神は6節以降でこう言われました。「虐げに苦しむ者と呻いている貧しい者のために 今、わたしは立ち上がり 彼らがあえぎ望む救いを与えよう。主の仰せは清い。土の炉で七たび練り清めた銀。主よ、あなたはその仰せを守り この代からとこしえにいたるまで わたしたちを見守ってくださいます。」

 今日の説教題を「今、わたしは立ち上がり」といたしましたが、そのような人々が神から離れ、世の指導者や立場のある人々が、自分達の都合の良い言葉でもって人々を裁き、罪人や汚れある者を作り出していた時代に、主なる神はついに立ち上がると言うのです。旧約聖書においては、神の使いとしての預言者を送り、そして新約聖書においては、私たちのもとに主イエス・キリストを誕生させてくださいました。

 主イエスは世に出て、人々に神の福音を語り告げました。それは「土の炉で七たび練り清められた銀」の御言葉、七たびとは、ユダヤ教では完全数と言われ、特別な数字です。七回という意味ではなく、何度も何度もという意味があります。何度も練り清められ、混じりものがなく、割引の無い、神の福音を宣べ伝え、特に、苦しみを抱えた人々、病にある人々、悪霊に取りつかれた人々、汚れていると言われた人々に対して神の祝福の御言葉を宣べ伝え、その御言葉に、民衆は大きな喜びに包まれたわけでありました。
 
 けれど、ご存知のように、主イエスの働きは時の指導者の妬みを買い、彼らの心に殺意を抱かせ、主は捕らえられ、裁判、そして十字架刑に架けられてしまいました。しかし、まさに「立ち上がってくださった神」は、三日の後、主イエスを復活させてくださいました。「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪に責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」と使徒パウロはコリント書に記しましたが、主なる神は徹底的に、私たちが本来負うべき罪を赦し、神から離れようとする人の思いを越えて、神の方から近づいて来られて、私たちと十字架と復活という和解の道を示されたとパウロは伝えます。
 
 更に、復活された主は40日後に、弟子たちの前で天に昇っていかれましたが、その十日後、五旬節の日に、前もって約束されていたように、弟子たちの一人一人の上に、神の力、聖霊を授けてくださいました。

 この聖霊の働きとは何か、再びコリント書(Ⅰコリ12章3節)には、「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」とあります。なにより、聖霊の力は、主イエス・キリストこそ、私たちの主であり、救い主であるという思いに至る確信をもたらす力です。聖霊により、確かな信仰が与えられた弟子たちもまたその場で「立ち上がって」神の、練り清められた福音の御言葉を語りだしたわけでありました。しかも、様々な国の言葉で福音を宣べ伝え始めた。周囲の人々は、自分の故郷の言葉で使徒たちが福音を宣べ伝えるものですから、驚いたと記されています。しかし、弟子たちの言葉をよく理解出来たことでしょう。そして、多いに喜んだのではないでしょうか。

 更に、先ほど読んでいただきました2章14節の箇所へと進みますけれど、ここでも弟子のペトロは、弟子たちと共に「立ち上がり」、声を張り上げて力強いメッセージを語り始めました。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。」と告げ、旧約聖書ヨエル書の御言葉を引用いたしました。

 先週の水曜日は婦人会の「聖書を読む集い」でありましたが、10名の方々と共にヨエル書4章を読みました。ペトロが引用した箇所はヨエル書3章の箇所ですから、既に前回、共に学んだ箇所となりますが、大変印象に残る御言葉です。17節だけを読みます。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」とあります。ここに聖霊の働きが、明確に記されます。

 一つは、「若者は幻を見る。」です。幻という言葉は、日本語の辞書を引くなら「実体がないのに、あるように見えるもの」とか「まもなく消えるはかないもの」とありますけれど、聖書に記される幻は、英語で言うところのヴィジョンです。将来への希望であり、展望です。目的とか目標といった具体性までは行かないとしても、しかし、自分達のこれからの人生に、自分ならではの神様から与えられた確かなヴィジョンがある、希望がある、そう思える力を聖霊は与えて下さるというのです。
 現代の若者は、そういったヴィジョンが持ちにくくなっていると思うのは私だけではないでしょう。現代の特徴は、昔と違い、もし自分が本気で願うなら、その願うものになれる自由を持っています。しかし、それだけに、自分はいったい何になるのか。何者になろうとしているのか。選択していく力が弱くなっているのかもしれません。あるいは何者にもならないほうが楽だと思っているところがあるようにも思う。更には、小学校高学年からは、殆ど受験一辺倒の勉強が主流となり、人生目標をしっかり考えてみる時間すら無いと言えるかもしれません。色々な意味でヴィジョンが持ちにくい、だからこそ、自分は誰であり、自分は何ものか、神に愛され、神の命を生き、神の聖霊に満たされ、人生が祝福されているという福音を若者がしっかりと受け取り、人生のヴィジョン、人生設計を立てられるように、教会がその支えとなっていく働きを、主なる神から託されているのではないでしょうか。

 更に若者だけではありません。「老人は夢」を見る、と続きます。老人とは、一体何歳なのか、特定することは出来ないでしょう。

 あえて言うなら、「自分はもう年を取ってしまった」と思った時から老人なのかもしれません。老人の特徴は現実的になることだ、と説明した方がおられました。先日、金融庁が今後、年金は減っていくし、長寿になっていくであろうから、年金だけでは食べていけない、だから、資産運用や投資が必要だといった趣旨の発言があったようです。
 そんなことを聞いたら、夢を持つどころではない、精一杯貯蓄して、老後に備えなければと思えば思う程、現実的になっていくということではないでしょうか。あるいは体が思うように動かなくなっていくことも確かです。若いころは楽に出来ていたことが楽ではなくなる。あちらも、こちらも痛くなっていく、そうなれば医療費もかかり、更に生活費の蓄えを考え、より現実的になるのでありましょう。勿論、それは大切であろうと思います。しかし、それでは聖霊を受けるとなぜ、「老人は夢」を見ることが出来るのでしょうか。

 聖霊とは、主なる神が与えたもう「今を、立ち上がらせる力」だと私は思います。先日、ある70代後半と思われる女性の方と話をいたしました。その方は、何十年とキリスト教主義の保育園に勤めておられて、責任ある立場の方でしたが、一昨年、ついに辞めたのです。なぜ、辞めたと思いますか。
 もはや年を取ったと思ったからではないのです。その方は、与えられていた状況が変化して、そして「今こそ、立ち上がる時」と決心し、これまで願いに、願っていた、モンテッソーリ教育の指導者としての資格の取得の為に、つまり、学校に入るために辞めさせてくれと頼んで、退職され、受験し入学が許され、今年の3月に資格を取得したというのです。これからその資格をもって、更に子どもの為に自分の力を発揮しようとするだけでなく、今、また、これも長年願っていた勉強の為に、早稲田大学に通っているというのです。その言葉のなんと力強い、また、希望に満ちた笑顔でありました。その方はまさに「夢を叶えるために立ち上がった」と心から思います。

 年をとると現実主義に確かになります。しかし、それは同時に、人生の締めくくりを見据えて、ということかもしれません。勿論、それも大切なことだと思います。

 けれど、聖路加病院で働かれ、105歳で天に召されて行かれた、日野原重明先生は、こんな言葉を残されました。
 「あなたに夢がなくなったとき、あなたの人生の半分を失います。あなたに勇気が無くなった時、あなたの人生の全てを失います。」

 皆さん、今日はこの聖霊降臨の祝い、ペンテコステの祝いにおいて、これから洗礼式を執り行います。既にお知らせしておりますようにN兄、N兄は、60代の方ですけれど、もしかしたらこの教会の平均年齢より下回っているかも(笑)しれません。先日、洗礼準備会をする中で、私は、今の時代は、若者以上に、ある程度年配の方が洗礼を受ける傾向があるように感じますと話しました。

 Nさんがそうだという思いで話したわけではありませんが、しかし、私の経験上、年配の方が洗礼を受ける傾向が増えているように思います。それは、人が生きるとはどういう意味を持つのか、あるいは若い人には分からない、これまでの多くの経験や苦しみ、悩みを通り抜けてこられたことが、自分の力ではなく、背後に大いなる方の助けがあったと感じる方が増えたのかもしれません。神の存在が、その神の支えが、これからさらに円熟していこうとする人生に必要であると感じるのではないかとも思います。そして、私たちが幾つになるとしても、年齢に依らず、いつも「今、立ち上がらせてくださる」力である聖霊に包まれながら、私たちは、感謝を持って神の恵みを共々に体験していきましょう。

 お祈りします。



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心のまっすぐな人

2019-06-02 18:28:45 | 礼拝説教
【詩編11編1~7節】
【ヨハネの手紙一 1章5~10節】


 今朝9時からの、子どもの教会、ファミリー礼拝では、次週のペンテコステ礼拝に向かって、使徒言行録の1章が読まれました。主イエスは十字架の死から三日の後、復活され、40日間弟子たちと共に、おられ、それから天に昇って行かれた。2019年、今年でいえば、主の昇天日は5月30日、先週の木曜日となります。
 
 主は弟子たちに、聖霊を与える約束をして、天に昇って行かれたのですが、天に昇り、聖霊が降るまでの10日間は、復活の主もいなければ、聖霊も降って来ていない。いわば、この地上に神がおられない状況の10日間とも言えるでしょう。弟子たちは真に不安な状況を過ごしていたでありましょう。
 
 けれど、だからこそ主の弟子たちは共々に集い、必死に祈りを捧げました。弟子たちだけではなく、主イエスの母マリア、主の兄弟、女性も男性も一緒になって熱心に祈りを捧げた様子が記されています。その数は120人とあります。

 主イエスの地上でのお働きは真に素晴らしいものでありました。病の人々を癒し、悪霊に取りつかれていた人々を解放し、貧しい人々に福音を語り、神の国の到来を告げ、休む暇もなく働かれました。ですから主の回りにはいつも民衆が集まり、人々は主イエスに大きな期待をかけました。けれど、時の指導者は、その様子を妬み、恨み、怒り、ついに主を捕らえ罪人として十字架に架けてしまいます。これで全てが終わったと、時の指導者は安堵し、弟子たちは散り散りになります。しかし、主は復活され、弟子たちは喜びましたが、「復活の出来事?そんなバカなこと」と、最初から信じない人々もいたでしょう。更にその後、40日経ち、主は天に昇られていかれた。

 私は、ここでも、主の元から去った人々は大勢いたのではないかと思います。イエス様は結局、私たちの所から離れてしまったのではないか。そう感じた人もいたのではないでしょうか。

 けれど、主イエスと出会い、主イエスに触れ、しかし、主イエスが捕らえられ、十字架に架けられ死んだとしても、更には、三日の後の復活を自分のものとして受け止め、復活から40日後の主の昇天を経験し、尚、主イエスこそ、私たちの救い主、この方こそが、私たちを導いて下さる方と信じて、祈った120人がいました。その一人一人がどんな人たちであったのか、よく分かりません。

 しかし、想像を膨らませるとすれば、その中には直接の弟子たちだけではなく、「今夜、わたしはあなたの所に泊まる」と言われ、感動を持って心を入れ替えたザアカイの姿があったかもしれない。せめて、この白い衣にさえ触れさえすればと願って、やっとの思いで主イエスの衣に触れて、その瞬間12年の出血の悩みから解放された女性がいたかもしれません。38年の間、病気を患い、あのベトザタの池に一番に入れさえすればと願いながらも、適わないですごしていた男に、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われ癒された人もいたかもしれません。しかし、それはわかりません。
 
 けれど、この120人が、主イエスの状況がどんな時であっても、尚、主を信じ、主から離れず、主を見上げ、主に向かってまっすぐに歩んだ120人であり、そこには男も女といった性別の差もなく、年齢の差もなく、既にこの時、男と女が共に同じ場所で祈ることさえ許されなかったユダヤ教という宗教の壁を越えようとしていた120人であったと思います。

 今日は、詩編11編を読んでいただきました。この詩編を読む時に、感じられるのは、主なる神に従い、主に対して「まっすぐに生きよう」としている、そのような信仰に生きようと願っている人が記した詩であろうと思われることです。
 
 しかし、3節を読みますとこうあります。「世の秩序が覆っているのに 主に従う人に何ができようか」と。この著者は、先ほどの120人のように、主に従い、主の教えにまっすぐに生きようと願っているに、この人の知人であるのか、友であるのか、詩編を記した彼に忠告するのです。「見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦に矢をつがえ 闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。世の秩序が覆っているのに 主に従う人に何ができようか。」

 「世の秩序が覆っている状態」、一体どのような状態に置かれていたのであろうか、その詳細はわかりません。しかし、はっきりわかることは「主に従う人に何が出来ようか」とあざ笑う人々がこの世を支配している、そのような状況が起こっていたということでしょう。しかも、「闇の中から心のまっすぐな人を射ようと狙っている」命の危機にさえ置かれている状態であることも推測されます。だから著者の友は「鳥のように山へ逃れよ。」と伝えるのです。

 人の世にあって、しかも神を神としない人々が世を支配するような中で、「逃げる」これは一つの大切な自分を守る行動の一つであろうと思います。
 
 皆様がご存知のように、先日、5月28日の朝、登戸の駅で大変残念な、また悲しい事件が起こりました。突然刃物を持った男が、待ちゆく人々を切りつけ、更には、通学バスを待っていた小学生の列に向かい、切りつけたというのです。その間、わずか十数秒であった聞きました。逃げる暇もないほどの短い間に、二人の命が奪われ、18名の方々が傷害を負ったと言われています。犯人の男も自分で自害し、なぜ、そのような事件を起こしたのか、起こさなければならなかったのか事の真相はわからないまま、しかし、色々な側面から、ニュースや評論家がコメントを出しているようです。

 犯人の男の成育歴なども紹介されていて、幾らかの同情の余地があるのかもしれません。犯人自身が自分なりに「この世の秩序が覆っている」と感じていたかもしれません。しかし、だから自分も世の秩序を覆して、人を切りつけて良いという論理は全く成り立ちません。
 
 切り付けられた小学生たちは、「カリタス小学校」に通っていた子どもたちであったと報道されていました。カトリックの系列の学校ですが、カリタスとはラテン語で、「愛」という意味があります。ギリシャ語で言えば「アガペー」神の愛という意味です。神の愛に包まれて成長していって欲しいと願う思いを込めて、命名されたのではないでしょうか。
 
 犯人は長い間の、引きこもりであったとも言われているようです。そこで改めて思わされることは、悲しい事件、やるせない出来事の多くが、神と人、そして、人と人、との関係が切れてしまっている状況で起こるのではないのかということです。
 
 先ほど、新約聖書ではヨハネの手紙の一を読んでいただきました。1章5節から読んでいただきましたが、改めて5節から7節を読みますとこう記されています。「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、お互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」

 ここに「神は光であり」とあります。「闇は全くない」とあります。そしてその光の中を私たちが歩むのであれば、お互いに交わりを持ち、御子イエスの血によって清められると記されている。

 大切な言葉は「交わり」という言葉です。ギリシャ語ではコイノーニアと申しますが、ギリシャ語の中でも、最も美しい言葉の一つと言われています。コイノーニア、交わり、それは例えば、結婚関係を現す言葉として、女性と男性との社会生活において、あるいは大きく言えば、国家的、政治的な交わり、関係を作ることとして、友情の本質を現す言葉として、共同体、協力という意味を現す言葉として用いられた御言葉です。

 何よりも、宗教的な意味においては、神と人とのコイノーニア、交わりが表されます。先ほど使徒言行録の場面で120人の男性、女性が一緒になって祈りを捧げていた場面もまた、そこに神と人、人と人との豊かなコイノーニア、交わりが表現されていると思います。
 男性も女性も、性別を越えて、子どもも、年配者も、年齢を越えて祈りを献げることが出来る。
 
 パウロはガラテヤ書(3章28節)という箇所で、「もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」と記しました。この御言葉の状況は、主なる神による、真の光に包まれながら、まさに世の秩序が覆って、神の秩序が現れた時にこそ起こり得るのではないでしょうか。

 そして、その神の秩序を私たちはこの教会において、表していきたいものだと思います。

 花巻教会におりました時のことです。1人の青年が教会を尋ねて来られた。少し陰のある青年だなと感じながら話を伺いましたが、信仰について色々と疑問を持って話をしたかったのだろうと思います。
ご自身の仕事の関係上、色々な町に行き、様々な教会を尋ねるのだそうです。そして、勿論、どこの教会も、良くいらっしゃいましたと言って歓迎してくれるそうです。 

 けれど、何度か同じ教会を尋ねてみて、色々と関係を持つうちに、わかってくる事がある。それはどの教会に行っても、どうもそのようなのですが、信仰を持っている人と、信仰を持っていない人と一体どこが違うのだろうか、見た感じ、話した感じ、何か違うものがあるのかというと、そうでもない。礼拝に出席してみても、そんなにみんなが嬉しそうにしているわけでもない、どういう事なのでしょうか。そもそも神様っているのでしょうか。そういう質問をされたことがありました。
 そんな質問をされるとドキっとします。一瞬答えに詰まる思いですが、けれども私はこう答えました。「それは、本当に残念な事でした。けれどももう心配はありません。是非、私達のこの教会の礼拝に出席してみて下さい。礼拝に出ている皆さんの顔は、神様の光りを浴びてみんな輝いていますよ」と話しをしたことがあります。その後、その青年は暫くの間、花巻教会に喜んで出席して下さいました。

 皆さん、「教会に人が来ない」とか、「若い人がいない」といって嘆いている場合ではありません。是非、嘆きの顔ではなく、喜びの顔でもって、この教会は神の闇の無い光の教会ですと、胸を張って私たち生きていきたいものです。この世の秩序に丸め込まれてしまうと、神の教会までが、その世の秩序に飲み込まれそうになり、人を差別し、共に祈れず、互いに非難し、福音の御言葉が告げられない、そのような教会があるとしたら、なんと残念なことでしょうか。

 私たちはこの世ではなく、神の秩序の中を、どんな状況に陥ったとしても、共に集い祈り続けたあの120人の人々のように、主の御顔に照らされながら、祝福をしっかりと受け止めながら、主なる神、主イエス・キリストに対して「まっすぐな心」を持って生きて参りたいと願うものであります。

お祈りいたします。

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わたしを忘れないでください

2019-06-02 18:12:10 | 礼拝説教
【詩編10編1~18節】
【マタイによる福音書5章3節】

 先日、久しぶりに、私の机の奥の方まで掃除をしておりましたら、こういうものが出てまいりました。これは私の母教会である目白の武蔵野教会の青年会からいただいた、クリスマスカードです。この時、私は23歳位だったと思います。当時を偲ばせるのは、全でが手書きでありまして、とにかくクリスマスカードのお誘いの文面です。このカードには切手が貼ってありません。どうしてかというと、教会の青年の1人が、直接私のところに持って来てくれたわけです。

 その時、わたしは目白というよりは、椎名町といって、池袋の繁華街の裏の方にある一月1万7千円の四畳半の部屋で、将来にほとんどなんの希望も無く、刹那的に過ごしていた時期でありました。

 けれど、そんなある時に、これまで一度も読んだことのなかった聖書を一人で読み始め、神様の愛はこんな自分のもとにまで届けられるんだな、神様は、この私のような者に対しても神の愛を示す為に、この世に誕生されて十字架で死なれて、けれど復活の命を示されて、だから何の心配もすることはない、「恐れるな」と語り掛けて下さる言葉に感動して、教会に一度、二度と通い始めていた頃の事でありました。

 その思いを更に、感動をもたらしてくれたのは、その教会の青年会の皆さんの、このクリスマスカード。手書きで書かれていて、一度、二度しか通っていないような、誰からも評価されず、自分で自分のことを嫌いになっていたような私のところまで、歩いて届けに来て下さった。

 自分はまだ見捨てられたわけではない、自分にはまだ言葉をかけてくれる友がいるのだと思う。この感動もまた、生涯忘れることは無いと思います。

 インドで働かれたマザーテレサが「この世で最大の不幸は、戦争や貧困ではなく、「自分は誰からも必要とされていない」と感じることなのです。」という言葉を残しています。それはそういう体験をしたものだけが知る、悲しさではないでしょうか。1人暮らしのおばあちゃんの所に民生委員の人が行ってきいたそうです。「何か足りない物ないかい。困っている物ないかい。」「なんも困ってなんかいないよ。でも、たった一つ、誰か一緒に話しをしてくれる人がいて欲しい」と言ったという話しも聞いたことがありますが、私たちは1人だと思うと、本当に寂しくまた、孤独を感じるのだと思います。

 このいただいたクリスマスカード、どこにいってしまったのか、無くしてしまったと思っていましたが、思いがけなく机の引き出しから出てきた訳でありました。
 
 キリスト教の神は、私たちの一人一人を愛し、一人一人を必要とされ、一人一人を大切にされています。礼拝で牧師は、そう語りますし、また、主イエスこそそのように生きられました。
 
 けれど、一方において、自分のことを思うと、自分は忘れられていないか、自分は大切にされていないか、自分は愛されているのかどうか、そういうことは大変敏感な私たちでありますが、不思議なことですが、自分でなく、人に対してはどうでしょうか。

 先週の水曜日は、私たちの大塚平安教会の出身教職の小林美恵子先生にお出でいただきまして、平日礼拝の説教を担っていただきました。幼稚園のお母さん方も、教会の多くの方々も来られて本当に素敵な時を持ちました。私が司式をさせていただきましたが、いつもの癖のようなもので、ついこっちのイスに座ってしまいまして、なんだか変だと気がついて、慌てて司式者側のイスに移りましたら、前のクスクス笑っておられましたけれど、でも、牧師といいますのは、案外、人の説教を聞く機会がありませんので、ですから本当に良い機会が与えられたと思います。

 美恵子先生のお話を伺っていましたら、ひょいとこう話された。「今の時代は大変な時代です。先日は、スリランカではいくつもの自爆テロが起こったり、また、子どもの虐待が報道されたりしています。」と話された。

 その時、私は思わず、そういえばスリランカの事件、確かにあったなと思ったのです。スリランカは私たちの教会が支援しているシルバさんご家族の母国でもあり、私たちにとっても関係ある国だと思っていますけれど、先月の4月21日の日曜日、イースターの日に、教会や高級ホテルで、つまり多くの人が集まる場所の8カ所で、考えてもいなかった同時多発テロが起こりました。この事件の死傷は250名以上、負傷者は500名以上、2001年9月11日にアメリカで起こった同時多発テロ以来の最大の死傷者であったそうです。大変に痛ましい出来事でした。

 でも、自分が一番驚いたのは、「そういえば、そういう事件があったな」と心で思ったことでした。

 僅か一か月前の、世界的な大事件です。しかも教会が狙われ、多くの死傷者が出ている。にも関わらず、既に私の頭の中では、他所の国のことになってしまっていて、いつの間にか忘れ去られようとしていたことに改めて自分に驚きました。

 美恵子先生が話されるように「今の時代は大変な時代」だと思います。あまりにも多くの情報が、その殆どは悲しみや怒りを感じさせられるニュースが、しかも毎日伝えられます。つい先日「戦争で取られた島は、戦争で取り返せ」と国会議員が言ったと騒動になっていますが、日本にとってはスリランカの事件より、ずっとそっちの方が大きな事件かもしれないと思わされる程に、テレビやラジオ、パソコンは、まさにそんな情報で溢れています。しかも、大事な情報も、大事でない情報も、そして、それらが入り混じって、私たちは情報の波というより、嵐の中に飲み込まれているかのようにさえ感じます。

 そのような情報に揉まれ、飲み込まれそうになりながら、その中で何が悲しいかというと、自分に関することは決して忘れない、生涯忘れないのに、自分以外の事に関してはどんどん忘れていく自分がいる、自分はなんと薄情で、人を愛せない者であろうか、そう思うのは私だけではないと思います。そして、それが現実であるようにも思います。

 今日は詩編の10編を読んでいただきました。説教のタイトルを「わたしを忘れないでください」としましたが、10編の11節にこうあります。「心に思う 「神はわたしをお忘れになった。御顔を隠し、永久に顧みてくださらない」と。12節も続けて読みますと「立ち上がってください、主よ。神よ、御手を上げてください。貧しい人を忘れないでください。」とあります。

 この詩編10編は、詩編9編に続く詩編として考えられています。9編にも10編にも、始めの所に「アルファベットによる詩」と記されています。旧約聖書全体は、イスラエルの言語であるヘブライ語で記されていますが、詩編も全てヘブライ語で記されていまして、その中で9編と10編は、所謂英語で言えば、A,B,C,Dというように、その詩編の最初綴りが、綺麗に揃って記されているそうです。その表現は残念ながら日本語では感じられません。
 原文で読めたらなどんなに美しい詩編ではないかと思います。

 けれど、内容を読んでみますと、主に感謝を捧げている箇所も多くみられますが、特に10編は、自分たちは主なる神から見放された、神は私たちを忘れてしまった。御顔を隠された、と強く嘆く様子が記され、さらに神に逆らう者の存在がいると示しています。

 それらの内容から、この詩編は紀元前6世紀のバビロン捕囚の時代と深い関わりがあると考えられています。イスラエルの最も苦しい時代、敵国バビロンとの戦争によって、首都エルサレムは陥落し、イスラエル全体は完全に敗北し、イスラエルの主要な人々は捕虜となってバビロンに連行され、そこで凡そ50年過ごすことになります。50年と言えば、完全に一世代です。バビロンで生まれ、バビロンで死んだ人々も多かったでしょう。捕囚の民として連行され、50年後、解放され、生きてイスラエルの土地に戻った者は、どれだけいたでしょうか。 エズラ記という箇所には捕囚から帰還した者が、42,360人と男女の使用人7,337人、と記されてありますが、その多くは第2世代、あるいは第3世代の人々ではなかったでしょうか。

 50年の間、イスラエルは捕虜として、捕囚の民としてなんとか生き永らえました。しかし、その生活は、まさに詩編に記されているように「貧しい人」の生活であったと思います。「貧しい人」と単数で記されていますが、正確には貧しい人々と言えるようです。つまり捕囚の民なのです。このイスラエルの一番辛い時期に、最も厳しい時代の中に生きた人々の、心の支えはまさに自分達の国の歴史を導き、あのアブラハムにあなたの子孫を星の数ほどに、海辺の砂の数ほどにすると約束して下さった主なる神、この方をこそ神とする信仰、それが彼らのアンデンティティでもあり、主なる神こそ自分達の命であり、希望であり続けました。

 しかし、現実は、神は本当におられるのか、神は私たちをお忘れになったのではないか、神は御顔を隠されたままではないのか、どうしてもそう思わざるを得ない状況にあったに違いありません。

 辛さの中で「立ち上がってください、主よ。神よ、御手を上げて下さい」と幾度も、幾度も祈ったことでありましょう。そのような祈りの中で、詩編の後半では「主は代々限りなく王。主の地から異邦の民は消え去るでしょう。主よ、あなたは貧しい人に耳を傾け その願いを聞き、彼らの心を確かにし みなしごと虐げられている人のために 裁きをしてくださいます。この地に住む人は 再び脅かされることがないでしょう。」と決して希望を捨てているわけではなく、主に望みを置いているわけですが、依然として厳しい状況であり、その厳しさについて変わりはないのです。

 人々は神に祈り、祈り、祈り続けたでしょう。そして、50年後に帰還となるわけですが、この出来事が何を意味しているのか。

 水曜礼拝が終わり、小林美恵子先生と、また、多くの皆さんと共に昼食を頂きながら、話をする中で、美恵子先生は牧師としては8年目を過ごしておられて、「菊池先生、牧師は牧師にならなければわからないことがあるって本当に分かりました。」とおっしゃっいました。それが一体何を意図して言われたのかよく分かりませんでしたが、何かに苦労しておられることは良く分かりました。ですから、思わず私は「だから、イエス様は人となられたのだと思いますよ」と答えました。
 主イエス・キリストは、神の子でありながら、人となられた。それは神様のままでは、人の本当の気持ちは分からない、だから、愛する独り子を人の体と人の心を持った人としてこの世に誕生させて、人そのものの苦労、悲しみを神ご自身が体験され、しかも、十字架に架けられるほどの体験をされた。
 自分のことはいつも、いつまでも覚えているとしても、人の苦しみや、悲しみに、寄り添え切れない私たちの悲しみに、その悲しみにさえ本気で寄り添い、本気で分かろうとした神様の愛の形としての十字架であったと思うのです。

子どもが授からなかったアブラハムとサラの悲しみを、忘れることなく25年かけて解放し、バビロンに捕囚されたイスラエルの悲しみを決して忘れることなく50年かけて解放された神は、さらに、人となられて、徹底的に人の悲しみや苦労、勿論、多くの喜びや、癒しや平安を授けてくださりながら、私たちに対して、「決して忘れない方」としてその地上での歩みを歩まれました。

 詩編139編を開きますとこう記されています。「主よ、あなたはわたしを極め わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしのはからいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け わたしの道にことごとく通じておられる。」この詩編の作者は10編の作者とは違う作者でありましょう。

 けれど、主なる神は、どんな時も、いつも私たちを知っておられると告げておられます。知っておられるとは「愛している」ということです。愛とは何か、それは知っているということです。好きな人が出来たとすれば、その人の何もかもを知りたいと思うように、知ることは愛することと繋がります。
 
 神は、私たちの全てを知っておられる方、人となられ、人々と共に歩み、この自分と、この私と同じ思いとなられて、あなたをけっして忘れない、そう告げて下さいます。だから、私たちは安心して、感謝をもって、主の愛に守られながら過ごして参りましょう。


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