日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

主よ、あなたは私の避けどころ

2019-05-30 15:31:23 | 礼拝説教
【詩編7編1~18節】
【マタイによる福音書5章38~42節】

 詩編の7編を読んでいただきました。1節に小さな文字で表題として状況が記されています。「シガヨン。ダビデの詩。ベニヤミン人クシュのことについてダビデが主に向かって歌ったもの。」

 ベニヤミン人でクシュという人物は旧約聖書には登場しません。ですから、その状況がどうだったのかよくわかりませんが、多くの注解書によりますと、ベニヤミン人といえばダビデの前の王であったサウル王がそうであった。サウル王の父はキシュという名前であった。キシュとクシュは関係がるか、同一人物かもしれない。けれど、それもわかりません。サウル王は、王として当初はダビデの優れた能力を見いだし、大切な家臣として召し抱えますが、その能力、民衆からの人気、実力によって人々の心がダビデに向かうわけです。それを妬むようになり、逆に命を狙うようになります。そこでダビデは逃亡生活となり、いわば、サウルから派遣された敵であるところのクシュが迫って来ている。

 窮地に立たされているダビデが主なる神に対して祈りを献げている詩、それが詩編の7編の内容であろうと考えられます。

 そう考えられるのであって、確かではありません。しかし、主なる神の前に敵に追い詰められ窮地にある者が、そして恐らくダビデが「わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします」と祈り求めている状況であることは確かです。
更に「わたしを助け、追い迫る者から救ってください。獅子のようにわたしの魂を餌食とする者から、だれも奪い返し、助けてくれないのです。」という御言葉から見える状況は、周囲には自分の味方の味方になる者はなく、孤独であり、それ故に尚更、主なる神よ、あなたこそが頼りですと祈っている状況であることもわかります。

 祈りを献げる御言葉から垣間見えてくることは、例えば9節の御言葉を読みますと、「主よ、諸国の民を裁いてください。主よ、裁きを行って宣言してください。お前は正しい、とがめるところはないと。」とありますが、祈る者自身の潔白さです。

 自分は敵に追われるような悪をしてはいない、命を狙われるようなことはしていない、主よ、あなたはそのことを良く分かっているはずだと訴えているように読み取れます。

 詩編そのものはそれほど長い詩編ではありませんが、この詩編の鍵となる言葉は「正しい」という言葉にあるという説明の文がありました。先ほどの9節にも、「お前は正しい、とがめるところはない」とあります。10節には「神は正しくいます」と記され、12節には「正しく裁く神」とあり、最後の18節には「正しくいます主にわたしは感謝をささげ いと高き神、主の御名をほめ歌います。」という御言葉で締めくくられています。

「わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします」と祈れるのは、自分自身は、正しいはずだと信じているし、主なる神もまた正しい方であり、正しい裁きを行い、最終的には神は正しい自分を顧みて下さる、そう信じて祈っているのです。

 神は正しい方である。その通りだと思います。この思いに異論を唱えることは出来ないと思います。けれど、神の正しさとは一体どういうことでしょうか。正しいものを助け、不正な者を罰する、人の正しさはそうだとしても、神の正しさもまたそのようなものなのでしょうか。

 今、昼の祈祷会では、少しずつですが旧約聖書の創世記を読んでいます。先日の読みました箇所は、創世記の19章という箇所でした。神の正しい目に悪と見えるソドムとゴモラの町が硫黄の火で滅ぼされる場面を読みました。

 18章ではソドムとゴモラが滅びるにあたって、主なる神とアブラハムが話をしている場面があります。神がアブラハムに滅びの計画を話すのです。けれど、ソドムにはアブラハムの甥のロトが住んでいますから、驚いて、神様、もし、ソドムの町に50人の正しい者がいるとしたら、それでも滅ぼすのですかと聞きますと、いや、50人いたら私は滅ぼさないと答える。それなら45人ならどうですから、45人でも滅ぼさない、それなら40人では、30人では、20人では、最後には10人の正しい者がいたらどうですか、と尋ねたところ、主はその10人の為には、わたしはソドムを滅ぼさないと告げたのです。

 神様の愛を垣間見る良い話だなと思いますけれど、良く考えると、ソドムに10人の正しい者がいるとしたら、その他の何千、何万という正しくない人を皆、神は赦すと言ったということです。

 このような考え方は、人が考える正しさと重なるものではありません。例えば、学校で40人のクラスの中で、30人が悪さばかりをしているけれど、10人は真面目で一生懸命だから、40人まとめて罪無し、と担任の先生は言うでしょうか。
 逆に、1人、2人だけが悪さしているところで、40人をまとめて先生は叱りつけるのではないでしょうか。神の正しさと、人が考える正しさとは、やはりどこか違うところがあると思います。

 そんなことを思いますと、この詩編の作者も、自分の正しさを神に訴えかけ、敵に対して、正しく裁いて下さるようにと願っていますけれど、しかし、作者の正しさが、人としての正しさを越える所にあるとは思えません。

 「この世の中には、正しい人と、正しくない人がいます。」という言葉を聞くとき、恐らく皆さんが、そうだなと思われるでしょう。思われるでしょうけれど、そう思う時に、意識することもなく、自分は正しい人の部類に入っているはずで、自分は正しくないほうの部類と考えることはありません。自分はやはり正しい、殆ど例外なくそう思うと思う。それが人の思いではないでしょうか。

 けれど、神の前に立たされた時に果たして、最後までそう言い切れるものなのかとも思います。

 私自身のことを思いましても、牧師として、時に気軽に話せる先生だと言われることがあります。それはきっと褒め言葉だと思いますけれど、逆に言えば、凛としたところが無いとか、厳しさが足りないとか、牧師としてのカリスマ性が無いとも言えるでしょう。牧師の中には、教会員が滅多に近づくことも出来ないような厳しさ、威厳を持った先生もおられるし、何事にも確信をもって物事に当たられる先生もおられる。私はもっと見習わなければならないと思わされるのですが、人の性格の違いと言ってしまえばそれまでかもしれませんが、正直に言えば、私は自分自身がそれほど「正しい人間」だと思っていないところがあります。

 それは不真面目だとか、いい加減だという意味ではなく、神の前において、どれだけ自分が正しいと主張出来るだろうか? 例えばある一つの考え方を、これこそ絶対に正しいと言い切れるのかどうかと思うのです。

 聖書には「自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は知らねばならぬことをまだ知らないのです。」(一コリ8章)という御言葉がありますし、

 主イエスも律法を守ることによって神の国に入れると教えていたファリサイ派の人々に対して「もし、見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(ヨハネ9章)と話された場面もあります。本来、私たち人間の正しさは神の前にあって、自分は正しいなどと主張出来るものではないように思うのです。

 けれど、だから真に正しいのは主なる神にこそあって、その神の正しさを前にして、私たちは詩編の作者のように「わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします。」と祈れるのだと思います。私の正しさによってではなく、主なる神の正しさによって、あなたこそ真の避けどころなのです。と訴えられるのです。 

 新約聖書のマタイによる福音書5章38節から読んでいただきました。「復讐してはならない」というタイトルが付けられた箇所であります。主イエスはここで、聞く人々に、そして私たちに「しかし、わたしは言っておく、悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求めるものは与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」と教えられました。
 私たちにとっては、殆ど不可能と思えるような驚きの教えであります。

 しかし、主イエスはこの教えによって、神が伝えようとする「正しさ」を伝えようとしたのではないでしょうか。

 更に続く御言葉も少し読みますがこうあります。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも、善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも、正しくない者にも雨を降らせて下さるからである」

 ここに、主が伝える所の、神の正しさ、いわば「神の視点」があると思います。神は、この世において、善人であろうと、悪人であろうと、正しい人であろうと、正しくない人であろうと、全ての人に対して愛を注いでおられると教えます。ここに神の正しさが現れているのだと思います。

 けれど、このような主の教えを、人は受け入れることは殆ど出来ませんでした。受け入れるどころか、そのような教えを守ろうとするならば、この世の秩序が乱れ、人の知恵や知識が廃れ、世の中が混乱すると世の指導者は考えました。神の正しさを受け入れることは出来ないと、この世が判断しました。神の正しさではなく、人の、この世の正しさによって、主イエスは捕らえられ裁判にかけられ、十字架刑となり、そこで主イエスは死を迎えることになります。

 しかし、それは人の罪故に、たまたまそうなっていったわけではありません。主イエスが先ほどの御言葉でもって、人々に教え伝えたことを、御自分がそう生きられたのです。主自らが、右の頬を打たれて、尚左の頬を向けられ、下着を取ろうとする者に、上着をも取らせ、一ミリオン進ませようとする者に、自ら進んで二ミリオン歩んでみせたのです。しかし、その神の正しさは、人の怒りとなり、十字架で主イエスは命が取られました。

 けれど、その時、その場を仕切り、すべてを見ていたローマの百人隊長は思わず、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美し、見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰っていったと、聖書に記されています。

 神の正しさは、敵であるはずのローマの百人隊長を信仰告白へと導き、つい数時間前に「十字架に付けろ」と叫んでいた群集の胸を打つのです。悪人にも、善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも、正しくない者にも雨を降らせて下さる神は、その人の状態や立場によらず、神の正しさを示して下さり、そしてそこで神の愛を示して下さいます。

 だから、私たちにとって、この方こそ、「わたしたちの避けどころ」なのです。

 私たちは私たちの正しさを主張します。自分は間違っていないし、ましてや悪人などではない、けれど、人の目の中のおが屑は見えるけれど、自分の目の中の梁は見えていない私たちに対して、神は神の愛の中で、神の正しさでもって裁いて下さる。しかも、その裁きはどこまでも愛の眼差しの中にある。

 詩編の作者は、ダビデは「正しくいます主にわたしは感謝をささげ いと高き神、主の御名をほめ歌います。」という御言葉で詩編7編を締めくくりました。どのような状況、どのような環境のおかれようと、神の正しさに感謝をささげ、御名を褒めたたえる思いを持ってそう記したと思います。私たちもまた、そこから力を得て、この一週間を歩んで参りましょう。
 
 お祈りいたします。


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あなたが御心に留めて下さる

2019-05-19 17:24:15 | 礼拝説教
【詩編8編2~10節】
【ルカによる福音書18章15~18節】


 先日、ある女性の方と話をしておりましたら、血圧が高くて病院に通っているというのです。でも病院の先生が面白い先生で、「あなたね、血圧が高いけれど、どうしたら良いと思う?」と聞かれたというのです。聞かれたので「いや、だから先生、薬を飲んで血圧を下げようとして、ここに来ているのですが」と答えたら、先生が「薬もいいけど、血圧が高いということは、殆どストレスだからね、自分の体に謝って、ごめんね、沢山、体も、心も使いすぎたね。少し休もうね。」と言って、休むことですよ」と言われたというのです。

 どの病院かは聞きませんでしたが、変わっている医者だけど、評判の良い先生だと話しておられました。なるほど、きっと体も心も癒して下さる良い先生だなと思います。皆さんの中にも血圧の高い方おられると思います。大切なところは、薬ではなく、どう休むのかということかもしれません。

 4月の終わりから5月にかけて、私たちの国は、GWでした。国の都合で10連休となりました。休みを喜んだ方、なにも変わらない方、余計忙しかった方、色々とおられたと思います。旅行に、帰省に、という方もおられたと思います。休もうと思って、出かけて余計に疲れたという方もおられたでしょう。

 どうすれば疲れが取れ、休めるのか。寝不足は万病の元だとも思いますが、ゆっくりした時間を過ごせば良いというものでもないと思います。運動不足の方は少し体を動かした方が、逆に体がほぐれて疲れが取れるということもあるでしょう。祈りを捧げている時間が、一番疲れが取れるという方もおられるでしょう。

 今、水曜日に行われる夜の祈祷会ではコリントの信徒への手紙という箇所を読んでいます。御言葉を読み、賛美を共にして祈る。本当に疲れの取れる良い時間を過ごさせて頂いていますが、先週の水曜日は、こういう御言葉を読みました。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」

 見えるものと、見えないものがあるとパウロは記しています。見えるものとは、言ってみれば、この世であり、現代社会であり、日常生活であると考えても良いのではないでしょうか。あるいは、人が作った環境、人工物と言っても良いかもしれません。

 このGWに小さいお子さんがおられる家族とかは、アミューズメントパークとか、レジャーランドと呼ばれる子どもにとっては楽しい所に行かれた方もおられると思いますが、大抵の場合、親はすっかり疲れたりするものです。人が作った目に見えるものは、どうもストレスとか疲れが溜まりやすいのかもしれません。

 だから、見えないものに目を注ぐ、見えないものとは何かというと、人ではなく、神が作られた世界に目を注ぐということではないでしょうか。

 先日、GWが終わって、海外から帰省してきた人を空港で捕まえてインタビューしているテレビを見ました。その中に3人の大学生がいて、アメリカに行って、レンタカーを借りて、アメリカからメキシコへと何日もかけて走破したというのです。そのビデオを見せてくれまして、そこに映っていたのは、決して日本では見ることが出来ない、緑が少ないけれど砂漠とも違う、荒れ野と言っても良いかもしれない、少なくとも決して人が作ったものではない、山、谷、崖の中に、人が作った道があって、そこを走っていく、ですから道に迷うことも無いでしょうけれど、もともとのアメリカの原風景であろうと思われる映像が映っていたり、走っている道の途中にバイソンと呼ばれる大きな野生の牛の群れと遭遇したり、その中を、実に楽しそうにしている3人の姿がありました。  

 アメリカの自然の風景もバイソンも、実際、目に見えるものですけれど、でも、それは、決して人が作ることは出来ない、いわば神の御手によって作られたものであって、目に見えるものの先にある、目に見えない大いなる方、主なる神の圧倒的な業に接するような時に、私たちはそこに誠の安らぎを、平安を感じるのではないのかと思うのです。

 先ほど、詩編の8編を読んで頂きました。4節にこう記されてあります。「あなたの天を、あなたの指の業を わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。」詩編8章は、朝の詩編というよりは、夜の詩編とも呼ばれます。

 始まりではなく、充実した一日過ごし、夜となり神に感謝して、夜空を見上げている。その夜空には満天の星と、月とがしっかりと見えている。その空を見上げて、神様、なんとあなたのお造りになったものは美しいのかと感動する。人は感動して、時には泣いたり、心から喜び、笑ったりした後には、何かスッキリして新しい力が出て来るものですが、そのような時を過ごしているように私は思います。

 そしてさらに、その後にこう続きます。「そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」月も星も、つまり宇宙もこの地球も自然も全て神の御手によって作られた。

 創造主である方が、この私たちを御心に留めて下さり、私たちを作って下さったというのです。そこに詩編の作者は感動を覚えているのだと思います。

 今日は母の日礼拝でありまして、子どもの教会の礼拝は年に一度のスペシャル・ファミリーを開催しました。多くのご家族の皆さんが集って下さって礼拝を守り、礼拝後は記念に家族写真を撮りました。子どもたちの笑顔は何によって、笑顔になるのか、やっぱり、母親の手の中に抱かれている時、母親の膝の上に乗っている時、母親と手をつないで歩いている時、何よりもの幸せを感じるのではないでしょうか。
 私たちが幾つになったとしても、子どもの頃の母親との幸せな時間、いわば人生の幸せの原風景を決して忘れるものではないと思います。

 誰よりも母親が、恐らく父親では決してかなわない、母親ならではの、自分の全てを母親が御心に留めている、そのことを少しも疑わず、いや、疑うことすら思い浮かばないほど、母親の愛の中に抱かれている。休日にどこかに行こうと、行かないとしても、どちらにしても愛の中に包まれていると思う時間が、人の疲れを取り癒すのであろうと思うのです。


 けれど、そのような母の愛に勝る神の愛がある。その愛を聖書は記しています。主イエスは「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」と弟子たちに教えました。
子供たちとは、私たちのことですよ。私たち一人一人が神の子供です。どんなに愛する、素敵な母親だとしても、いや、素敵であればあるほどにそのような母もまた、自分は神の子であり、神に愛されている一人だと言うことを良く理解している人ではないでしょうか。

 私たちは神の愛に包まれている神の子供、神の作品です。皆さん、神は「神に僅かに劣るものとして人を造り」と記されてありますが、人間の体は細胞で出来ています。その細胞の数は、諸説あるようですが60兆だと言われます。60兆の細胞が人間を作っている。その一つ一つの細胞の中心に核と呼ばれる染色体があって、その染色体の中に私たちの遺伝子を司っているDNAがあるそうです。私は難しいことは話しきれませんが、簡単に言えば、DNAとは人間が作られて行くために必要な設計図であって、その中には、遺伝子に関しては凡そ32億の情報があるそうです。書籍でいえば3万冊分だとありました。DNAの32億がどのようにつながっているのか、その繋がりに関しては、現代の科学ですべて解明されているそうです。

 現代の科学ではそこまでは分かっているのだそうです。でも、そこまでは分かっても、繋がりは全て解明できても、なぜそうなっているのか、つまり、先ほど設計図と申しましたが、その設計図を誰が書いたのか、どのようにして書かれたのか、それは、誰もわからないのだそうです。根本的な、究極的なところに至ると誰も分からない。だから、科学者でさえ、その設計図は神が書いたと言ってしまうと、色々都合も悪いのでしょう。具体的には日本の筑波大学の科学者として知られている村上和雄という先生が、「サムシング・グレート」という名前を使って説明しました。つまり、人の力を越えたところにある大いなる力、偉大な働きだと説明したそうです。

 詩編の作者は月を見て、星を見て、その夜空を見て感動して、あなたが配置なさったものと告げ、「そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」

 私たちは何ものか。答えははっきりしています。この世の天地万物、宇宙と呼ばれる人の思いを遥かに超えてる大きな世界を作られ、また、60兆もの細胞のその核にある染色体、さらにDNA、どれほど小さな世界であるのか良くわからないほどの小さなものを綺麗に配置されて人を創造される神が、愛する御子イエス・キリストをこの世に送って下さったほどに、御心に留めて下さっている神の子であり、神の作品だということです。

 作品とは他にはない、たった一つのものという意味です。今日の週報の表紙は、カーネーションの絵が印刷されているのを気がつかれたでしょう。それは、先週私がパソコンで作ってみたものです。思いの他大変でした。けれど、誰のものでもない自分のものだと思うと、多少下手であろうとも愛を感じます。苦労すれば、苦労した分の愛情が注ぎ込まれるのです。この世に生きる私たち一人一人の姿、形、その生きざま、人生はそれぞれに違います。でも、大切なことは、それぞれに神様に与えられている使命、役割があると思います。カーネーションの絵も暇だから作ったわけではありません。なんとか週報のこの箇所に、他のどこにも無い、この教会ならではのものを考えました。こんな絵でさえも、与えられた使命があるように、この世に命が与えられ、今を生きている私たち一人一人に生きる意味があり、役割があり、使命があるのです。

 月や星を神様が適当に大体こんなものだと思いながら作られたのではなく、きっと、全てのものが良いようにとその位置を決め、その役割が与えられているように、なぜ、私は、こんな家に生まれたのかな、どうして、わたしは経済的に恵まれていないのかな、なんでこんなにひ弱な体なのかな、なんで、わたしは度胸が無いかな、でもね、一人一人が神の作品ですよ。

 神様は、誰とも違うあなたを、わたしを、御心に留めて命を与え、人生を与え、家族を与え、母を与えて下さいました。

 なぜ、私たちは毎週、日曜日に教会に、礼拝にやって来るのか、それは、神の子だからですよ。この世に住んでいますと、皆と同じが良い、皆と違うとかっこ悪いと思うのです。この世の価値観で物事を考えることが良い、みんなと違うとなにか寂しいと思わされてしまう。そういう世界です。

 でも、そうじゃない。私たちは、誰とも違う自分自身であって、そして、それがどんなに良かったか、どんなに嬉しいか、それがどんなにか自分の喜びであるかを知る時、人生の様々な疲れやストレスをも吹っ飛ばして生きていける、そんな力が与えられるそれがこの場所であって、それを主なる神もまた、どんなに誇らしげに思うでしょうか。

 何度か話していますけれども、私たちの教会と深い関係のある知的障害者支援施設である綾瀬ホーム、さがみのホームで私は礼拝をさせていただいています。毎週話をする。話している意味や、内容を分かって聞いている人は、恐らくそんなに多くは無いと思われます。でも、分かっている人もおられますから、一生懸命にさせていただいています。でも、話がうまくまとまらなかったり、抽象的な話や、説明だったりだと、明らかに飽きて来ているのが分かります。我慢しませんからね。
 でも、そんな時は、話を代えて、神様はそのままのあなた、そのあなたを愛しておられて、必要だよと言っておられ、大切な一人一人だよ、と話し始めると、凄く集中して下さるのです。どんなにか、その言葉を待っているかよく分かります。そして、どんなにか、その言葉を聞きたくて、聞きたくて礼拝に集まって下さっているかもよく分かります。

 皆さん、私は私で良かった。このままのこの私を神様が御心に留めて下さっている、そして、だから他の人ではない自分ならでの人生を共々に、喜びをもって歩んで参りましょう。


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心を尽くして主に感謝をささげ

2019-05-14 10:11:15 | 礼拝説教
【詩編9編2~7節】
【ローマの信徒への手紙10章5~10節】


 本日の説教題を詩編9編から「心を尽くして主に感謝をささげ」といたしました。「心を尽くして」という言葉、旧約聖書はもともとヘブライ語で記されていますが、それをどこか無理やりとはいえ、学者の皆さんが苦心されながら日本語に訳して、私たちが分かり易いようにと聖書に記されています。
 けれど、例えばここに記される「心」と言う言葉一つとってみても、私たちが感じる「心を尽して」と、聖書に記されている「心を尽くして」という言葉のニュアンスは大分違うようです。

 私たちが日本語で「心を尽くす」という言葉を読み、記し、また用いる時、どちらかというと感情的、情緒的なニュアンスが強くなるように思います。

 昨日、教会は、長く信仰生活を送って来られたK姉の葬儀を執り行いました。Kさんは、一人息子であったMさんが、思いがけなく病気を患い1982年7月、21歳の若さで天に召されていかれた。また、2005年には御主人が召されて行かれた。Kさん一人残された形となりました。
その為に、前任の鈴木伸治先生をはじめとする多くの教会の皆さんが、「心を尽くして」Kさんの御生涯を支え、また、昨日の葬儀に際しても、私たちは、まさに心を尽くして、皆様の協力の中で執り行うことができました。
 
 Kさんの葬儀に際し、生前にKさんは、御自分が天に召された際にはと、教会に葬儀に必要であろう費用を預けておられました。その費用で葬儀をしていただきたいと明確にその意志を示しておられました。
 
 ですから私と、教会の役員の皆さんで、葬儀の準備のみならず、予算の面から始まって、普段はご遺族だけが関わりを持たれる箇所にまで踏み込んで、「心を尽くして」教会がその役割を担いました。しかし、そこでは感情だけとか、情緒的にという面だけに流されるわけにはいきません。
 実に細かいところまで配慮して考えなければなりませんでした。考えていくと、あの事が足りない、とか、このことはどうなっているのかとか、例えば、返礼葉書の文面や、返礼の品物、デザインの細部まで決めていかなければなりませんでした。どちらでもよいというわけにはいきません。そのような感情面だけではなく、決めていくこと、具体的に関わりを持つこと、そのような「計画」とか、「決断」と言った意味が、ヘブライ語が用いる「心を尽くす」という言葉の中に込められていると言われます。

 あるいは、「心を尽くして」という意味は、役割が与えられたので、仕方なく行うという意味ではなく、自発的、自ら進んでという意味があると思われます。私たちの教会は、先週の礼拝後に2019年度の教会総会を行いました。そこで多くの事柄が話し合われましたが、役員選挙、会計監査委員選挙がそれぞれに行われました。そこで新年度の役員の皆様が選出されました。この礼拝において2019年度、教会の役員を担って下さる方、礼拝の奏楽を担って下さる方、子どもの教会の担当者としての役割を担って下さる方々の任職式が執り行われます。その任職にあたり、願うことは、自ら進んでという思いを持っていただきたいということです。
 
 16世紀、1500年代に、ドイツで宗教改革が起こり、カトリック教会からプロテスタント教会が誕生しました。その後プロテスタント教会は、それぞれに教派と呼ばれる教会が生まれることになります。私自身、長老派教会の流れを汲む教会において信仰を養い、洗礼を受けました。牧師として派遣された教会はバプテスト教会の流れを汲む教会でありました。岩手の花巻の教会もそうですし、町田にある教会もバプテストと呼ばれる教会の信仰の流れを持った教会です。バプテスト教会の特徴の一つは、「自覚的な信仰」です。
 
 そのため、その教会に集う方々は熱心に聖書を学びますし、町田の教会でも聖書の学びの講座を月に一度、私が担当して行っておりましたが、実に多くの方々が集まり、熱心な学びの時を過ごしたことを思い起こします。
 
 その時にも、バプテスト教会が大切にしていた「自覚的な信仰」について共に学びました。「自覚的」とは「自らが進んで」という意味が強く内包されています。私たちの教会は、そういう面で言えば、基本的には戦後になって本格的に伝道が開始された教会ですし、メソジスト教会の流れを汲む教会と考えられますが、むしろ合同教会として、その特徴を持つ日本基督教団の教会としての歩みを大切にしてきたと思います。あまり教派的な意識を持って歩んできた教会ではないと思います。
 しかし、教派的な歴史ではなく、「自ら進んで、喜びを持って、一つの使命を与えられた者として」任職される皆様は特に、しかしまた、主イエスの福音に繋がる私たち一人一人が、それぞれに「心を尽くして主に感謝を捧げる」そのような思いを持って歩んで参りたいと願います。
 
 更にまた、「心を尽くして」とは、「理解力」であるとも言われます。何ゆえに私たちは神に感謝するのか、その意味を把握し、理解して自分のものとする、そうでなければ心を尽くしきれないのです。

 昨日のK姉の葬儀にあたり、触れないわけにはいかない出来事は、先ほども申し上げましたように、ご子息のMさんの生涯であります。Mさんの遺稿集である「主よ、みもとに」という冊子を読みますと、Mさんは高校を卒業され、一年浪人して、大学に合格される、いよいよ入学というその直前に、腰痛を感じて病院に入院されます。当初は若年性ヘルニアという診断を受け、一週間もすれば直ると言われ、ヘルニアですから腰を牽引する治療をされたようです。しかし、その治療が恐らく良く無かったのでしょう。

 急激に容体が悪化し痛みに耐えられなくなり、横浜市立病院に転院して、悪性の腫瘍が腰にあるとの診断を受け、直ちに手術を受けました。

 その結果、下半身麻痺となり、車イスの生活を余儀なくされることになります。その間、腰痛を訴えてわずか11日目のことでありました。

 それでもMさんは、持ち前の明るさから、車イスでも生活は出来ると、前向きに生きようとされ、以後凡そ半年にわたり、上半身を鍛え、勉強も熱心にされ、将来に多くの希望を持って生きようとされました。
いよいよリハビリの専門の病院に転院となった頃に、腫瘍が転移していることが判明し、検査の日々、さらに再手術、どうもお母さんのKさんは、医者から回復の可能性は薄いと宣告されていたようであります。

そんなMさんの所に、前任の牧師である鈴木伸治先生が毎週木曜日にお見舞いに行き、聖書を読み、共に学ぶ。毎週、毎週行ったようです。恐らく、病院において、まだ元気な頃のMさんは、鈴木先生と聖書について、神について、信仰について、生きることについて、死ぬことについて、果てしないほどに話しをしたのではないかと推測いたします。Mさんは自分の体について、決して楽観出来ない状態であることは分かっておられたと思います。だからこそ、尚更、神について、神の愛について、苦難と病について、鈴木先生に問い続けたのではないでしょうか。

 そして、一つの結論に達したのかどうか、それは本人にしかわからないことではあると思いますけれど、しかし、遺稿集の中に「私は誰」という正道さんの記した詩が記載されてありましたので、ご紹介したいと思います。

 彼はわすれていた イエス様が十字架にあることを 
 
 彼はわすれていた おのれのいたみの中で

 主は彼に何度かたずねられた 『私は誰か』

 彼は その意味を解せずにいた。

 主は私の、万人の、救い主 まことのキリストである。

 彼にはやっとわかった 主は彼のキリストなのだ 

 十字架の上のキリストなのだ。

 ここに記される、彼とはMさん御自身であろうと思います。主はMさんに尋ねられた。『私は誰か』その問いに当初答えられずにいた彼は、しかし、最後には、主は彼のキリストなのだ、十字架の上のキリストなのだ、と信仰を告白するのです。この詩がMさんのいつの時点に記されたのかは、定かではありません。日にちが記されてありません。けれど、いつの時点であるとしても、Mさんは主イエスこそ、私の救い主であり、まことのキリストであると、理解したのだと思います。

 自分が病床の中にあって、非常に厳しい状況の中にあって、回復する望みがあるのかないのか分からない状況の中にあって、尚、「理解」したのです。主イエスこそ、私の救い主。鈴木先生も相当に真剣であったに違いありません。ここに、生と死の戦いのさ中にあって問い続ける若者と、それに必死に答えようとする鈴木先生の姿を見るような思いがいたします。

 そしてMさんは、自分の病気によって、神を呪い、神も仏もあるものかとは記さず、主イエスこそ、私の救い主と記したのです。そう理解したのです。

 そういう理解をした者の生き方は、最後の最後まで「自分を愛し、隣人を愛する生き方」であったと記してありました。「わたしは心を尽くして主に感謝をささげ」主に感謝をささげる為には、神は誰であり、どんな方なのか、そういう理解が求められるのだと思います。しかし、それは、直ぐに答えが出るものではないかもしれません。まさに生涯において、私たちに託されている神の問いかけであるかもしれません。

 しかし、そのような理解しようとする努力なしに、「心を尽くして」という本当の意味を自分のものにするのも難しいものかもしれません。

 けれど、だからこそ、主イエス・キリストは、私たちの為に十字架に架けられ、死に、三日の後に復活されて、死に勝利された。私たちが理解しようとしても理解しきれない、そのような思いを受け止め、いいよ、そのまままでいいよ。

 あなたは私の愛する友であると教えて下さり、私たちをそのままで歩めと、信仰への道を導いて下さる、それが私たちに対する神の救いではないでしょうか。だからこそ「わたしは心を尽くして主に感謝をささげ」るのです。

詩編の「感謝をささげ」の後に続く御言葉は「驚くべき御業をすべて語り伝えよう」です。驚くべき神の御業、十字架と復活の主イエスを、今日はローマの信徒への手紙10章から読んで頂きましたが、そこでパウロはこう伝えます。

「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」とあります。

 心で信じて義とされ、口で公に言い表す。理解力とは、言葉にしてみなければわかりません。しかも自分の口で語る。勉強の非常に有益な方法は、人に教えることです。人が理解するように話せるかどうか、言葉で話して相手が理解できるなら、話す方はより深い理解を得ている。人にものを教える方々は、そのことを良く分かっておられるでしょう。
しかし、ここで大切な御言葉は、ロマ書に記される「信仰の言葉」です。

 Mさんが、主は私の、万人の、救い主 まことのキリストと告白したように、その信仰によって生きたことによって、お母さんのKさんも、お父さんも確かな信仰を、息子の人生のその生き様を通して、息子の死を越えて、復活の神を信じ、神を称え、神の救いに感謝して生きて来られました。

 私たちもまた、そのような先人の信仰をしっかりと見据えて、私たちに与えられているどのような状況にあっても尚、「わたしは心を尽くして主に感謝を捧げる」信仰を養い、この5月も共々に歩んで参りましょう。

 お祈りします。

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わたしの心は喜び、魂は踊ります。

2019-05-14 09:44:40 | 礼拝説教
【詩編16編1~11節】
【ルカによる福音書24章13~35節】


 先週の礼拝は、多くの方々と共にイースター礼拝を守りました。午後には祝会、また、三月に私たちの教会に転入会して下さったHさんご夫妻を囲んで、また、皆さんの、それぞれの近況などを伺いながら過ごしまして、素敵な良いイースターの日であったと思います。

 けれど、その祝会の帰り道にですね、Tさんが道で転倒されたというのです。それで少し頭を打たれて、すぐ病院で見ていただいたそうですが、今のところは心配ないでしょうと言われたそうですが、暫くはご自宅で休まれると思います。是非皆様のお祈りの中に覚えていただきたいと願います。と原稿に記しましたが、(笑) おいでですね。(大笑)大丈夫ですか。良かったです。

 多くの皆さんがご存知のように、まあとにかくTさんは、何をさしおいても礼拝、若い頃は、多分ね、マラソン大会の時は休まれたかもしれません(笑)。でも本当に礼拝出席を第一にといつも考えておられる方であります。

 イースター前に受難週という一週間がありますが、その時にも夜の祈祷会に、なんとしても出たいという思いだったそうです。それでも、夜も暗いし、その行きに、帰りに、何かが起こったら大変だといので、家族でとめて、本人は残念がっていました、という話しを先日伺ったばかりでした。

 これまでの礼拝でも、何度かお話しましたが、岩手の花巻教会に三田照子さんという方がおられました。2年前の、丁度この4月に99歳で天に召されて行かれた方です。花巻教会の教会員でありましたが、三田さんは、私の牧師としての信仰を育ててくれた信仰の師匠です。

 先週行われた家庭集会で読まれたコリントの信徒への手紙の4章に記された御言葉に「わたしたちは四方から苦しめられても、行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」とありますが、三田さんは若い頃に夫が待つ満州に渡り、けれど、当時、その地で日本人が取った振る舞いとは全く違い、どんな人とも友達となり、また優しく、親切に接しておられたが故に、敗戦となった時に、地元の方々が三田さんご家族を死なせるわけにはいかないとかくまって下さった。

 でも、三田さんは自分達だけが助かるわけにはいかないと、そこにまた、逃げて来た日本人の家族をも受け入れて過ごされた。そのかくまわれた家族に小学校5年生の子供がいて、その子供がTさんでありました。ですから、Tさんの信仰の師匠も、私と同じ三田照子さんだと思います。
 
 コリント書を読みながら、家庭集会では、キリスト教の信仰のあり方を一言で言えば、「自分に死んで、人を生かす」生き方ではないかと申しました。もし、三田さんが、自分達だけでも助かりたいと本当にひっそり静かに暮らすような方々だったとしたら、地元の人も助けてくれなかったかもしれませんし、Tさん家族も助からなかったかもしれません。そのような自分に死んで人を生かす生き方を、生涯貫いて生きて来られた方であることを改めて思うのです。

 どんなことがあっても礼拝には出席する。その姿も三田さんの姿勢そのものでした。99歳という長寿でしたけれど、体は決して強いというわけでもありませんでした。それでは何が強いのかというと、やっぱり心なのだと思います。「行き詰まらず、失望せず、見捨てられず、滅ぼされない」そんな信仰を持って生きられたのだと思います。

 今日は詩編16編を読んで頂きました。その8節、9節を改めて読みますけれど、こう記されてあります。「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は踊ります。体は安心して憩います。」
 
 9節に私たちの、主なる神を信じる者の、人としての三つの形がしるされています。一つは「心は喜び」、二つは「魂は踊り」、三つめは「体は安心して憩う」というのです。心と魂と体、この三つが私たち人間を形作っているのだと記しているのでしょう。
 「心は喜び」私たちの心、それは命そのものです。子どもであろうと、大人であろうと、女性であろうと、男性であろうと、ユダヤ人であろうと、日本人であろうと、何人であろうとも、一人に一つ同じようにして与えられている命、存在そのものと言ってもいいでしょう。何よりも私たちの存在が、命が喜んでいる。自分が自分で良かったなと喜べる。それが主にあるものの生き方です。

 二つ目は「魂は踊り」、ある先生は魂とは、人がこれまで培ってきた、知性、感情、意志、つまり「知情意」と言う言葉がありますが、この事だと教えて下さいました。この知性、感情、意志の三つのバランスが整っている。でもね、知性では分かるけれど、感情がついていかない、「お母さん、キリスト教って一言で言えばどういうことなの」、「そうだね~、一言で言えば、自分が死んで人を生かすことだ、そう牧師が言っていたよ」と言うことは出来てもね、なんでうちの子は勉強しないのか、なんでうちの嫁はあ~なのか、うちの姑はこうなのか、うちの夫は協力しないのか、自分に死ねないのです。だから人をも生かせない。

 今朝テレビをつけましたら、夫が原因の夫原病という病気があって、御主人がいると、奥さんが病気になるというのです。(笑)すぐに見るのを止めました。(笑)

人は人を殺して、自分が生きようと、どうしても願いますし、自分に死んで人を生かす生き方、中々容易ではありません。でも「魂は踊り」それは、自分の知性も感情も意志も、全てのバランスが整えられて、自分は死んでというよりも、私は、本当は「自分も生きて、他人も生きる」これが「魂は踊り」という生き方だと思」います。

 三つ目は「体は安心して憩う」と言うのです。私たちの体、先ほど申しましたコリント書の4章に「土の器」と言う言葉が出てまいります。「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。」とあります。宝とは主イエス・キリストです。土の器は、私たちの体です。主なる神は人の体を土の塵で造られました。だから、いつかはまた、私たちの体は土に戻る時がやって来ます。しかし、そのような土の器に宝が宿っている、その宝は主イエス・キリストです。
 
 土の器としての体は、確かにいつまでも健康そのものという訳には行きません。この説教を考えておりました時に、体の健康について、パソコンで調べていましたら、ここは出典をしっかり申し上げますけれど、なぜか千葉県庁のHPに行きつきまして、健康福祉部健康福祉指導課が文章を記してありました。

 体と心の関係について記してありました。確かに、人の体は年齢と共に衰えていくとありました。例えば70歳を過ぎると腎臓の機能は若いころの半分ぐらいになりますとありました。まあ、そういうことなのだろうと納得して読んでおりましたが、その後にですね、人の知能について記してありまして、加齢による変化は殆ど無い、とありましたよ。
 
 書かれてある文章をそのまま紹介しますがこうあります。「年をとると頑固になる、わがままになると言われていますが、個人の特性によるものが多く、加齢現象とは言えません。」つまり、年を取ってから頑固ではなく(笑)もともとだというのです。でもね、つまり、心は死ぬまで衰えないと、そう言っているのです。

 これは喜びではないですか。体は確かに年齢と共に少しずつ弱っていくものでしょう。でも、心の成長は年齢とは関係なく、信仰の成長は衰えることは無いのです。
 
 更に言うなれば、病気だから健康ではないとは言えないと思います。持病がある、何等かの障害を患っている、でも、心は喜び、魂は踊っているとしたら、そこにどんなにか力を得て、生きていけることでしょう。

 Tさんもそうですけれど、教会に通われる多くの皆さんは、体が思うように動かなくなってきた、あっちも、こっちも痛くなって来た、そういう方が多くなっている。これは事実だと思います。けれど、だから健康ではなくなったとは言えないと思います。なぜなら、主に与えられた信仰によって、尚、心喜び、魂は踊っているからです。そのような人生を過ごしておられる方が大勢おられます。そんな生き方が神を信じる者の生き方でもあると思うのです。
 
 けれど、逆に体は健康であっても、心は沈み、魂が踊りを忘れるとしたらどうでしょうか。今日は新約聖書ルカによる福音書24章13節からの箇所を読んで頂きました。

 主イエスが十字架に付けられて、死んで全てが終わったと思っている、一人はクレオパという名前が記されていますけれど、二人の弟子が、エルサレムから60スタディオン、凡そ12km離れたエマオという町に、恐らく自分達の家があったのでしょう。帰っていく話です。自分達のリーダーであり、指導者であった主イエスが思いがけなく捕らえられ、十字架で死んでしまった。もはや夢も希望もない状態です。これまでの一切の出来事について話し合っていたとありますから、主イエスが復活されたという話しも耳に入っていて、婦人たちがそう言っていた。でも、そんなことがあり得るはずがない、そんな会話をしながらの帰路ではなかったでしょうか。

 でも、そこに復活された主イエスが近づいてきて、一緒に歩き始めたというのです。彼らは目がさえぎられていて主と気づかず、その日に起こったことを主イエスに話し始めます。その話を聞いた主は「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明されました。
 彼らは、その話を聞きながら、次第に主の御言葉によって、心が取り戻されてくるのです。そして、先に行こうとされる主を無理に引き留めて食事の席に着いた時、主イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになりました。すると二人の目が開けました。この方こそ主イエスであると分かりました。しかし、分かったとたんに主イエスの姿は見えなくなったというのです。

 けれど、二人は「道で話しておられるとき、また、聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合いました。

 皆さん、この二人は、この時、自分達の死んでいた心も、魂もしっかりと取り戻し、復活したのです。心は喜び、魂は踊りだしたのです。そして、そのまま時を移さず出発して、喜びの福音の告げ知らせの為にエルサレムへと戻っていくのです。

 詩編16編8節を改めて読みますとこうあります。「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし わたしは揺らぐことがありません。」主に絶えず相対しているとは、どんな時も主は、わたしを愛して下さっているという意味です。「主は右にいまし、揺らぐことがない」とは、どんな状況においても動かされることが無い、状況状況によって変わらないという意味です。だから、わたしの心は喜び、魂は踊り、体は安心して憩うことが出来るのです。

 今日は、礼拝後、2019年度の大塚平安教会の教会総会が開催されます。これまでの一年を振り返り、そして新しい一年を歩みだす話し合いとなります。その総会においても、私たちが共々に確認したいと願うことは、主にある信仰によって、状況によらず、心は喜ぶことです。魂が踊りだすことです。そして、体は安心して憩うことではないでしょうか。

 近年、毎年のように言われますのは、教会の力が弱くなっている、教会に人が来なくなって来ている、それも非常に深刻な状況になって来ていると言われます。後10年したら、教会は殆ど無くなっているというような統計もあると言われます。
 けれど、統計は神様ではありませんよ。主なる神は、いつも私たちの右におられて、私たちは揺らぐことがないのです。失望と落胆していた二人の心と魂を主は、復活させたように、私たちに対しても主は必ず、私たちにとって最善を示して下さる、そのことを信じて、私たちは復活の主に支えられ、過ごして参りましょう

 お祈りします。
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魂を陰府から引き上げてくださる

2019-05-14 09:30:17 | 礼拝説教
【詩編30編2~4節】
【ルカによる福音書24章1~12節】

 皆さん、イースターおめでとうございます。旧約聖書詩編30編を読んでいただきました。4節にこうあります。「主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ、墓穴に下ることを免れ わたしに命を得させて下さいました。」

 今年のイースターは、今日4月21日です。イースターは移動祝日日と申しまして、毎年日にちが変わります。基準は春分の日で、春分の日の次の満月の次の日曜日がイースターとなります。少し複雑な計算でイースターが決まるのですが、今年は、例年になく遅いイースターとなりました。調べましたら、今日以上に遅いイースターは、凡そ20年後の2038年が4月25日となっておりました。是非、ここに集う皆さんと一緒に、生きて(笑)そのイースターもお祝いしたいと願っています。

イースターの二日前は、今年は19日ですが、金曜日が受難日となります。

 私は、その受難日に、ある古い知り合いの方で、私が町田の教会におりました時からずっとお付き合いがあるご婦人ですが、信仰を持って生きておられた方でしたけれど、教会には、随分長く通われておられませんでした。
 その方が95歳で亡くなられたという知らせが入りまして、ご家族だけで葬儀を行ったというのです。けれど、どうも、心の中で収まりが悪いと思われたのでしょうか。ご家族から電話が入りまして、納骨式だけでも行えたらとお願いされまして、急な話でしたが、私で良ければと二日前の19日に行って参りました。

 私も含めて、身内の方5名で納骨式を執り行いました。95歳、とても安らかに召されて行かれたと伺いました。それでも、晩年は脳梗塞を起こされたりして、割と長く認知症を患っておられたとも伺いました。式の前に少し時間があったものですから時間を待ちながら話をする中で、長男の方が、母親が認知症となり、病状が進み、誰が誰かもわからなくなるまで生きるというか、医学の力で生かされるというか、果たしてそれが良いことなのかどうか、と思うと話されました。その方自身、お医者さんですから、余計に様々な思いが心にあったと思いますし、お母さんの年齢も考えつつ、率直な思いであったろうと思います。

 私自身、認知症となっている母親と一緒に過ごしておりますから、少しずつ弱っていく母親の姿を見るのは、中々辛いものがあります。
ですから、その方の言われた意味が良くわかるような思いも致しました。けれど、同時に、丁度、受難日でしたから、主イエス・キリストの十字架の死をも思わされておりました。

 改めて主イエス・キリストの十字架の意味は何であったのかを思います。

 私たちは、まず何よりも恐ろしいと感じるのは、思わぬ病気、そして死ぬということです。自分が病気になる、その先に死が見えている。実は昨日の昼前に、突然の事でしたが、それこそ前任の町田市の教会の教会員の方から電話が入りまして、私たちの教会の礼拝にも出席されたことがある方が、今、海老名総合病院に入院しておられるというのです。それでどうも危ういというのです。

 その方が、お見舞いに伺ったら、入院されている方が、菊池先生に会いたいと言われたと言うのです。ですから、どうしても黙っておられなく電話を下さいました。すぐ午後に、夫婦お見舞いに行って参りました。病状としては、確かに非常に厳しい状況でした。お会い出来て喜んで下さいましたが、本人はもう覚悟は出来ています、と寂しい言葉を言われて、それでも願わくは回復されますようにと願いながら、三人で泣きながらお祈りいたしました。

 心を合わせて一緒に祈りました。祈ると、不思議ですね、やっぱり少し元気になられるのです。病気というものは、勿論、全知全能の神に祈るわけですからね、祈って癒される、確かにあると思います。でも、祈っても癒されない場合もあるでしょう。でも、祈っても癒されないとしても力が出るのです。そこではっきりと分かりますのは、何か、切れていたものが繋がったということです。

 自分でも考えてもいなかった思わぬ病気となる。また、その先に死を思わされる。あたかもそれは自分の体も心も、また、見守る家族もまた、魂が陰府にまで引き落とされてしまうような思いをするのではないでしょうか。病気、そしてその先にある死、それは繋がっているものが切れていくのだと思います。

 病院に一人入院している、その心細さも含めて、繋がっていた社会から自分が切れていくように思う、繋がっていた人と切れていくように感じる。切れて、切れて、自分の魂が陰府の方向に向いていくように感じる。
けれど、祈りの力は、その逆です。切れるのではなく、繋がっていくのです。そして、何よりも主なる神と繋がる時にこそ、人は本当に力が与えられるのだと思います。

 詩編30編を記した作者も、どうも30編全体を読みましても、この人は、恐らく重い病気を患っていたのではないかと思わされます。必死に回復を願い、祈り、求めていたものと思われます。自分の命の灯火も、あと僅かであろうかと思いつつ、しかし、この詩編の作者は回復したようです。ですから、非常に力強く「わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを あなたは癒してくださいました。主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ、墓穴に下ることを免れさせ わたしに命を得させて下さいました。」主なる神に対して、大きな喜びと、深い信頼、神を称える賛美の詩編を記しました。

 神としっかりと繋がっている様子を伺い知ることが出来ます。

 人の病気は、現代の医学をしても、全てが癒されるわけではありません。人生100歳の時代と言われるようになったとしても、癒されない病も多くあり、長く患い、本人も家族も辛い苦しい経験をされる方も少なくありません。主よ、なぜ、そうなのですか?とまさに訴えるような思いで、神に祈られた方もおられると思います。

 しかも、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でかしこに帰ろう」と告げたヨブ程の信仰にも、私たちは中々到達するものでもないと思います。とはいえヨブでさえ、その後、与えられた病の中で、苦しみ、辛さを神に訴え続けるのですが、ヨブの信仰が優れていると言われる所以は、状況、状況によって、神を恨み、神に訴え、もう死なせて下さいとさえ告げるとしても、主なる神と切れることはなく、ついに繋がり続けたという点なのではないでしょうか。

 先ほど申し上げました納骨式の後に、5人ですから一台の車で、皆で帰路につきました。その中の一人、召された方のお孫さん、と言っても30代位の方ですが、今、オーストラリアに住んでおられるというのです。8歳のお子さんがいて、キリスト教主義の学校に通っているのと言っておりました。そして、こう言われました。「先生、実はオーストラリアの若者の自死率が先進国と言われる国の中で、一番高いのです。なぜでしょうか。」と聞いてくるのです。

 突然、そう聞かれてもオーストラリアの事情がどうなっているのか、私も分かりませんし、答えに戸惑いました。戸惑いましたけれど、自死率であるならば、日本も大分高いはずですが、と申しましたら、若者だけで見るとしたら、オーストラリアは凄く高くて問題になっているというのです。

 住んでおられる方がそう言われるのですから、その通りなのだと思います。でもどうしてなのか、色々と話しをする中で、思いついたのは、先進国と呼ばれる国の若者の多くが、ある年齢になりますと、自分の人生を自分で決めなければなりません。

 オーストラリアの学校の事情はよく分かりません。進学するにも日本のような受験の形なのかどうかはわかりませんが、何らかの試験があるのは間違いないでしょう。その試験に受かるかどうか、合格か不合格かという時代を過ごさなければなりませんし、就職するにしても、いつも比較され、比べられ、出来るか、出来ないかがいつも問われる状況は、日本とあまり変わりが無いのではないかと思います。更には、合格、不合格も大切な問題ですが、自分の将来をどう生きようとするのか、誰もが問われる時が来るのです。
 それは昔ならあり得なかったことです。農家の子供は農業を、商売をしている家は商売を継ぐのが当たり前の時代もありました。けれど、今は何にでもなれる、何をしても良いと言われる。それは若者にとって案外、プレッシャーなのだろうとも思います。あなたはあなた次第で、どうにでも生きていける。自分が好きな事を生きていける。

 これほどの自由は無いはずなのに、果たして自分は何をどうしたいのか、そんな大切なことを簡単に決められるものでもないと思います。だから、自分はどう生きようかと迷う。しかも、横を見ると、もう横の人は既に自分の人生の設計図を描き出していたりしますから、余計に取り残された感を感じる若者もいるかもしれません。

 つまり、どう生きたら良いのか分からない、その分からないを、親も、学校の先生も分かってくれない。自分で考えなさいと言われても分からないものは分からない。気持ちだけ焦って、一歩も前に出ないのです。停滞している、止まってしまっている状況が起こるのではないでしょうか。

 止まっているとは死んでいるようなものです。墓穴に向かっているようなものです。どうしても若者の自死率が高くなりがちになるのかもしれません。

 けれど、詩編の作者はこう告げました。「主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ 墓穴に下ることを免れさせ わたしに命を得させてくださいました。」

 停滞していると思う、止まっていると思う、なぜそうなのか、神と切れているからです。若者と呼ばれる年齢の人々の多くは、自分は自分で出来る。自分でやれる。実際、自分はやっていると思うでしょう。けれど、自分で思っている程はやっていないとうことも気が付かず、しかも、神と切れていると、復活された主イエス・キリストの、神のエネルギーが溜まって来ませんから、エネルギーが溜まらないとどうなるのか。生きている感動から遠くなるのだと思います。

 ルカによる福音書の24章からを読んで頂きました。主イエス・キリストの復活の場面であります。週の初めの日の明け方早く、安息日があけてすぐに婦人たちは十字架で死なれ、墓に納められた主のご遺体にせめて香料だけでも塗りたいと願ってやってきました。しかし、やって来ると、既に蓋の役割をしていた石が取り除けられて、中に入るとご遺体も無い、途方に暮れていると、二人の天の使いが現れて告げるのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中から捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」そう言って、主イエスの復活を告げ知らせるのです。婦人たちは驚き、大急ぎで戻って、十一人の弟子たちと、他の仲間たちにその一部始終を知らせました。けれど、その話を聞いた使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、信じませんでした。「そんなバカなことがあるだろうか」そう言って取り合わなかったというのです。

 けれど、その話を聞いて、ただ一人、弟子のペトロだけが立ち上がりました。そして墓へ向かって走り出しました。ここで使われる「立ち上がった」という言葉は「復活した」という言葉と同じ言葉が使われていると言われます。

 もともと、ペトロは、弟子たちの中にあっても、少しそそっかしいところもあり、時には、「主よ、あなたはメシアです。救い主です」と告げて褒められたかと思えば、次には、十字架と復活の御言葉を聞いて、主に対して、そんなことを言っては困りますと諭して、逆に叱られたり、「主よ、わたしは、あなたが行かれるところなら、どこにでもついて参ります」と言ったその後で、十字架刑とされる裁判の中では、「私はあんな男は知らない」と三度も告げたら、鶏が鳴いて、それが主の言われた通りだったので自分で自分が悲しくなって泣いてしまったりするのです。

 時には信じたり、時には信じなかったり、時には疑ったり、時にはメシアと言ってみたり、つまり、私たちの信仰を代表するような人だと言えるでしょう。

 でも、復活の話を聞いた時に、他の弟子たちは動こうとはしませんでした。主イエスは死んだ、そして、弟子たちもまだ死んだままなのです。

 でも、ペトロは立ち上がりました。死から生に向かって、魂がしっかりと陰府から引き上げられて、それによって墓穴に向かうことを免れ、そして、必死になって走ったことでしょう。汗を流し、息を切らし、一目散に、でも、希望を持って、いや確信を持って、主の復活の栄光の場となった場所へと向かったことでしょう。そこに既に迷いはなかったでありましょう。

 人は、そのようにして神の復活に触れるならば、必ず自分もまた立ち上がることが出来る。切れてしまっている思いが、神の復活によって繋がり、命がよみがえり、力が与えられるのです。それが主イエス・キリストの十字架と復活の出来事なのだと思います。
 このイースターによって、私たちは更に強く復活の主と繋がり、どんな状況の中にあっても、主我と共におられる、だから大丈夫と、何度倒れようとも、何度打ちのめされる思いをしようとも、その出来事さえ、自分の宝物として、止まらず、動き出して参りましょう。私たちの教会もそのようにして死から勝利され、復活された神の栄光に守られ、確かな将来が与えられていることを信じて歩んで参りましょう。

 お祈りいたします。
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