日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

神の武具を身に着け

2019-02-26 09:27:33 | 礼拝説教
【詩編126編1~6節】
【エフェソの信徒への手紙6章10~20節】

 今日、読んで頂きましたエフェソの信徒への手紙6章13節にこうあります。「だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」
 
ここに「邪悪な日」とあります。邪悪な日とはどんな日なのか、これまでエフェソの信徒への手紙を2018年度は読み続けて参りました。あと何回かでエフェソ書を読み終えるわけですが、この手紙が一貫して記し続けていることは、教会が一つとなっていくことの大切さです。一つになっていくために何が必要かというと、「天にあるものも地にあるものも一つにまとめられていくこと」だと1章に記されています。

 それは誰もが、同じ意見、同じ考え方を持つということでもなく、それぞれに色々な考え方があるとしても、最終的にはキリストのもとに一つにまとめられていく。そのような思いをもって教会が形作られて行く。それが大切だとエフェソ書は記し続けているように思います。

 いよいよ今、最後の6章を読んでいるわけですが、そこに、だから「邪悪な日によく抵抗しなさい」というのです。
 時々、礼拝で紹介しておりますけれど、吉祥寺教会で長く牧師をされておられた竹森満佐一先生が、エフェソ書についての優れた説教を残しておられます。その説教を読んでおりましたら、この6章に記されている事柄は、神の武具という言葉からでしょう。「信仰生活は戦いであることは確かなことだ」とありました。
 
 信仰生活は戦いである。皆さんどう思われるでしょうか。私が学生の時に、少しばかり学んだ一人でもあるのですが1600年代のフランスに一人の天才、パスカルという人がいました。

 「人間は考える葦である」という言葉が良く知られています。パスカルは40歳を前に召されて行きますが、12歳で、私には、さっぱり分からないユークリッド幾何学の体系を導きだそうとし、19歳で人類最初の計算機を発明したり、23歳で真空が実在することを実験によって証明したり、更には気圧に関する研究を続けました。今、天気予報で気圧の単位でヘクトパスカルが使用されていますが、100倍という意味を持つヘクトという言葉に、その偉業を称えてパスカルの名前が用いられているわけです。
 数学者、物理学者としても人類史上の中、最も大きな貢献を果たした一人だと思います。同時にキリスト教の熱心な信仰者であることも知られています。フランス出身ですから、もともとカトリックの信仰でありますけれど、その当時、非常にプロテスタント的な信仰を主張していたヤンセン主義(ジャンセニズムとも言います。)呼ばれる信仰と出会い、そこで決定的な回心をします。

 日にちも分かっています。1654年11月23日夜10時30分、その時に、神と出会う経験をしました。パスカルにとって決定的な時でありました。そして、彼はその回心の思いを文章に残して自分の服に縫い付けたというのです。そこには、「喜び、喜び、喜びの涙。二度と主から離れることがありませんように。」と言った文章が記されてあったそうです。

 パスカルは決定的な回心によって、「信仰とは喜び」であるという思いに至りました。そのようなパスカルの姿に、妹のジャクリーヌが信仰者は、自分の罪を知り、罪を悔いて歩むべきだとパスカルに苦言を呈したという逸話があるそうですが、信仰とは喜び、これは確かなことだと思います。

 しかし、また一方で、竹森先生は「信仰生活は戦いであることは確かだ」と記しました。何に対して戦うのか、先週の礼拝でも申し上げましたが、一言で言えば「悪魔の策略」です。それは神の福音、グット・ニュース、喜びの訪れ、祝福の信仰を奪おうとする多くの策略との戦いではないでしょうか。

 明日は2月4日、立春です。天気予報では、明日は大分暖かくなると言っておりましたが、最近、冬の寒さの疲れからか、教会の皆さんで体調を崩されている方が多くなっているように感じます。インフルエンザも流行っております。 
今日の奏楽者もダウンしまして、急遽変更して頂きました。特に覚えてお祈りしなければならない方が少し増えているように思います。

 悪魔の策略、それは病気かもしれません。病気や、怪我、それはいつも予定通りではありません。
 むしろいつも予定外の出来事です。10数年前のある年に、パリに行く予定がありまして、その予定の数日前に、私は足を骨折しました。全ての予定がダメになったことがありました。チケット代も帰って来ないだけでなく、まさに痛い思いをしながら病院で寝ておりました。なぜ、この時にと、悔しい思いをしましたが、でもそれが悪魔の策略だと思うと腹も立つのですが、その時は不思議に、このことは、悪魔というよりは、むしろ神の策略だろう、そう思って過ごしたことを覚えております。

 しかし、世の中にあって、あたかも悪魔の策略であるかのように、邪悪な出来事ではないのかと思う程に、病気になる、あるいは受験に落ちる、仕事が見つからない、伴侶が与えられない、子どもが授からない、授かった子どもがいうことが聞かない。まさに、悪魔は、神など信じても何の役にも立たないと、思わせるような出来後、一言で言えば「試練」を私たちに与える時が人生の中に何度も、何度もあるように思います。

 だから、聖書は伝えます。一つは、いつも主により頼むこと、その偉大な力によって強くなること、そして邪悪な日によく抵抗できるように、信仰の戦いのために、神の武具を身に着けることです。

 神の武具を身に着ける。警察官が、警察官の服装をしていると、警察官だなとすぐわかる。看護師さんが看護師の服装をしていると、看護師だなとすぐわかるように、私たちは、目にはみえないけれど、確かな神の武具を身に着けて生きていきたいものだと思います。

 それでは具体的な神の武具とは何か、パウロはこう伝えました。「立って、真理を帯びとして腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。そなおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」
神の武具、もう完全武装することだと言っているようでもあります。

 武具とは、身を守るものです。しかし、時には守るだけでもなく打ち負かしていかなければならないこともあるでしょう。

 旧約聖書のサムエル記上17章に、後にイスラエルの王となるダビデ、そのダビデがまだ少年のゴリアトと戦った話が記されています。敵は大きく、強いペリシテ軍です。ペリシテ軍とイスラエル軍が互いににらみ合っている中で、ペリシテ軍から一人の戦士が出て来て、名前をゴリアトと言うのです。

 背丈は六アンマ半とあります。凡そ3mですよ。頭には青銅の兜、身には青銅五千シェケルの重さのある鎧、因みに五千シェケルは57㎏ですよ。そんな鎧を着て歩けるのかと言う疑問はともかく、ゴリアトが出て来て、一騎打ちで勝負を付けよう、だれかイスラエルから一人出てこいと言うのです。もうすっかりイスラエルの軍隊は尻込みしてしまいまして、誰も出て行こうとしない、その時に、ダビデがお兄さんたちの様子を見にやって来るわけです。
 
 それで、ダビデが、その状況を聞いてサウル王に告げるのです。「あの男のことで、だれも気に落としてはなりません。僕が行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」サウル王は「お前じゃ無理だ。お前は少年だし、向こうは少年の時から戦士なのだから」と告げます。
 それでも、ダビデは私も羊飼いとして、獅子や熊が出てきたら、戦っているのです。」というものですからサウル王は、それならと自分の鎧、兜を貸すからやってみろというのです。でも、ダビデは、そんなものを着ていたら動けやしない、と断って、滑らかな石五つを自分の投石袋に入れて、ゴリアトの前に立つわけです。ゴリアトは、ダビデを見てすっかり侮るわけですが、しかし、結果は御存じの通り、ダビデの投石袋がゴリアトの額に命中して、ゴリアトが倒れ、素早く走り寄ったダビデがゴリアトの剣を抜いて、とどめを刺すのです。 
その様子にすっかりペリシテ軍は逃げだして、イスラエルは勝利するという、子どもたちに話しても大いに喜んでくれる話です。

 しかし、ここで大切なことは、「神の武具」それは、一言で言えば、神に対する信仰だと言えるでしょうが、ダビデの姿からもわかるように、一人一人与えられている状況で、神の武具は違うということです。

 ダビデの武具は、投石袋一つだけでした。聖書では、主イエスが「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(マタイ26章52節)と言われています。少なくとも私たちにとって神の武具は、人を傷つける武器でもなければ、剣でもありません。

 では、神の武具とは何か、先ほどパスカルの話をしましたが、パスカルが決定的な回心が与えられてから、本当にその人生を喜んで生きたように、神の武具の一つは、神によって喜んで生きること、それは本当に大切だと思います。

 私たちは特に日本人の私たちは、真面目に生きようとするし、真面目が一番良いと子どものころから教わりますから、そしてそのように生きていますから、いつの間にか、神様から与えられた大切な人生を喜ぶことがあたかも良く無いとさえ思うところがあるのではないですか。でも、真面目に生きるより、喜んで生きる。とても大切だと思います。

 更にまた、聖書は、真理の帯、正義の胸当て、平和の履物、信仰を盾と色々な表現でもって記していますが、その一つ一つに意味があるとは思いますけれど、それをパウロは17節でこう伝えています。「すなわち神の言葉を取りなさい。」そして18節では「絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」

 神の武具とは、神の御言葉と根気よく祈り続けることだとパウロは伝えるのです。

 詩編126編を読んで頂きましたが、5節、6節にはこうありました、「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い 喜びの歌を歌いながら帰ってくる。」
 私たちの人生、本当にそれぞれです。いつも喜んでいるばかりではいられない状況が与えられる時もあります。解決できないなぁ、難しいなぁ、苦しいなぁと悩み続けることもあります。でも、涙と共に種を蒔くのです。それは絶望しないということでしょう。諦めないということでしょう。

 和歌山県に白浜バプテスト教会という教会がありまして、そこに藤藪庸一(ふじやぶよういち)先生という牧師がおられます。この先生が最近「あなたを諦めない」という本を出された。現在、日本で年間二万人以上、自死される方がおられる、そのような一人一人と関わりを持とうと奮闘しておられる先生です。その最初に、「もう誰もおらん」、「もう誰にも迷惑かけられへん」、両親や子ども、親族にはもう頼れない、友人には嫌われてしまったと、死にたいと思う彼らは、指折り数え、多くの人の顔を思い出しながらも孤独の中にいる。と記されていました。

「疲れた」、「もう頑張れと言わんといてくれ」、「ずっとこうだった」、「うまくいったためしがない」これがまさに悪魔の策略であり、邪悪な時ではないでしょうか。そのように思う一人一人と出会い、「あなたを諦めない」と伝え続ける藤藪先生のお働きを支えるのは、主イエス・キリストが私たちに対して「あなたを諦めない」と伝える愛そのものではないでしょうか。

 私は、改めて思います。今、多くの教会が諦めかけているように思う。湘北地区でも残念ながら一つの教会が今年3月で止めてしまう、今はそういう時代なのかもしれません。でも、今はそういう時代なのだと思うところで、既に諦め、自分を慰めているのかもしれません。

 今がどういう時代であっても、私たちは、御言葉と祈りを持って、これからも共々に歩んでまいりましょう。今日の午後は、教会全体懇談会が開催されます。これからの教会を考えていく大切な時間でもあります。まだまだ、私たちは神の福音を宣べ伝え、あなたも、あなたも、主なる神と一つとなり、隣人を愛し、潤いのある人生を歩んでいける。諦めることなく、確かな希望を持ってこの2月も共々に進んで参りましょう。        お祈りいたします。
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私たちが身に着けるもの

2019-02-26 09:06:35 | 礼拝説教
【イザヤ書52章7~10節】
【エフェソの信徒への手紙6章10~16節】


 今日は「私たちが身に着けるもの」という説教題にいたしました。

 毎日寒い日が続いておりまが、ある国に王様がいて、王様にお付きの人が付いていたそうです。お城は大きいですから、寒くてしょうがない、ですからお付きの人が「王様、もう少し暖房を1度か2度か上げさせていただけませんか」と訪ねましたら、王様は「ダメです。あなたはもう一枚上に羽織りなさい。」と言ったそうです。皆さん、与えられている状況に、周りを変えようとするのか、自分が変わるのか、暖房ならね、リモコンで暖かくなりますが、人の心はリモコンではありません。スイッチ一つで変わるわけではありません。だから自分の方から暖かくならなければならない。という話しのようです。

 自分の上に、もう一枚暖かくなるものを羽織り、着込むことです。何を着れば暖かくなりますか?エフェソ書6章11節には「悪魔の策略に対抗して立つことが出来るように、神の武具を身に着けなさい。」とあります。私たちが羽織るもの、それは「神の武具」です。インフルエンザが流行っておりますが、インフルエンザは風邪薬を飲んでも治るわけではありません。インフルエンザにはそのための薬があって、それを飲んでこそ、改善し快復していくように、その時、その時に応じた、神の武具を着こんで、私たちに迫ってこようとする悪魔の策略を攻略していくためにどうするのか。

 ところで皆さん、聖書には時々、悪魔という言葉が登場します。最初に聖書に登場する悪魔はもしかしたら、アダムとエバを唆したヘビかもしれませんし、何よりも有名な悪魔、サタンはヨブ記に登場する主なる神と話をしてヨブを苦しめたサタン、あのサタンの姿は良く知るところだと思います。

 新約聖書でも、主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けた後に、霊に導かれて悪魔から誘惑を受けるために荒れ野に向かい、40日間の断食の修行をする、その後実際に悪魔から誘惑を3回受けたわけですけれど、主イエスが「退けサタン。あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と聖書にかいてあるという言葉を告げると、悪魔は離れ去ったと記されてあります。その次にサタンが聖書に登場するのは、主イエスを裏切った弟子のイスカリオテのユダの中にサタンが入った。そしてユダは裏切りを働いた。そういうことになるわけです。

 けれど、実は、聖書には思っているほどには悪魔とかサタンという言葉は登場しては来ません。けれどその登場の仕方は、常に神に対抗する力としての登場です。ですから、単純に考えるとすれば、やっぱりこの世には神様もいるけれど、サタンもいて、神とサタン、神と悪魔が戦っているような世の中だと考えている人は多いのではないでしょうか。

 私たちも、いつのまにか聖書を読みながらどこかで、神様は、あるいは主イエスは悪魔と闘い勝利された方であるという読み方になる、ついそう思ってしまう。それが間違いではないとは思いますが、でも果たして、それが正しい聖書の読み方なのかとも、私は思います。

 聖書が私たちに告げているメッセージは、この世の中の中で、神に対等に対立し得る力とか、神と同じように、永遠の命の中におられる方など誰もいないということです。私たちがなぜ、主なる神を信じるのかと言えば、私たちには絶望だとさえ思える「死」にさえも、勝利され、十字架と復活の出来事によって神は完全な義を示され、全てのものを支配され、全ての人を救えと導き、祝福の一人一人としてくださる、そう信じられるからこそ、私たちはエフェソ書6章10節の御言葉にありますように、「主に依り頼み、その偉大な力によって強く」なれるのではないでしょうか。

 ですから、何にもまして、「主により頼む」ことです。とはいえ、現実社会を見ればどうか、今日読まれました箇所でもパウロは記します。「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」パウロは悪魔がいるか、いないかという話しをしているわけではありませんけれど、悪魔の策略に対抗して立てるようにと告げている、では、その悪魔の策略とは何か。
 
 続く12節ではこうあります。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」中々、全てを理解するのは難しい思いもしますが、けれど、はっきり分かるのは「支配と権威」という悪魔には気をつけることだということでしょう。それは暗闇の世界の支配者でもあるということでしょう。
 
 私たちの世界は、神様はおられると思う出来事、より以上に悪魔は確実にいると思われる状況が起こったりします。そしてそんな思いの中に飲み込まれてしまい支配されてしまう。そんな恐れがあると思います。飲み込まれるとは、あたかも悪魔と思われるものに支配されてしまうということです。
 
 イギリスの作家でもあり、偉大な信仰者でもあるCSルイスという人は「悪魔の手紙」という非常に優れた著書を記しています。その中にこう記されています。「悪魔に関して人間は二つの誤謬に陥る可能性がある。その二つは逆方向だが、同じように誤りである。すなわち、そのひとつは悪魔の存在を信じないことであり、他はこれを信じて、過度の、そして不健全な興味を覚えることである。悪魔はこの二つを同じくらい喜ぶ。すなわち、唯物主義者と魔法使いとを同じようにもろ手を挙げて歓迎する。」こう記されています。

 唯物主義とは、難しい言葉ですけれど、簡単に言えば、目に見える物、物質あるいは人の科学技術を信じ、物質主義、現実主義とも言えるかもしれません。ですから 神や霊を否定するといった考え方と定義できるかと思います。

 魔法使いとは、占いや魔法によって人の心を操ろうとしたり、精神的世界をとても大切にしようとする考え方でしょう。この二つは全く逆の立場のようであって、どちらにしても悪魔が聞いたとしたら大いに喜ぶだろうというのです。なぜか、どちらにしても神を否定するからです。

 神を否定し、神などいないと思う人がいればいるほど、悪魔は栄えることになります。だから、聖書はそのような悪魔の支配から逃れるために、「主により頼め」と告げるのです。
 
 先週の一週間、私は少しばかり忙しい思いで過ごしました。水曜日は幼稚園の礼拝の後に、昼の祈祷会、また夕の祈祷会を行い、木曜日は家庭集会、金曜日は幼稚園の保護者の皆さんと一緒に聖書に親しむ会、昨日は楽しい餅つきでした。この礼拝堂に120名ほどの皆さんが集まって礼拝を共に致しました。忙しい思いをしましたけれど、どの会もとても充実した良い時であったと思います。
 
 それぞれの集まりでは、創世記やルカ福音書、またコリントの信徒への手紙と、違った箇所から話をさせて頂きましたが、今思うと、違った箇所から話をしていながら、でも、なにかずっと同じ話をしていたようにも思います。創世記ではアブラハムの信仰について、ルカ福音書では、主の弟子となる覚悟について、コリント書からは、神の慰めとはどういう意味を持つのかについて話をさせていただきました。それぞれに話しの内容や切り口は違いますけれど、でも、大切なことは主イエスが、いつも私たちと共におられて、私たちを力付け、励まし、あなたがた大切な一人であると告げているということなのです。
 
 夜の祈祷会で、コリント書を読みましたが、そこに「慰め」という言葉が何度も登場する箇所でした。慰めとはどういう意味なのかを考えてみました。慰めとは英語ではコンフォートと言います。

 コンフォートといいますが、殆ど日本語になっているとも思われる言葉です。ちょっと調べますと、何とかコンフォートホテルという名前のホテルが沢山ありますし、コンフォート有料老人ホームとか、コンフォートサンダルまで売っていました。コンフォートとは、安心とか、快適とか、楽なといった意味ですが、その中に慰めという意味もあるわけです。なぜ慰めなのかと考えました。

 コンフォートのコンは一緒にいる、共にいるという意味があります。フォートはこれだけで「砦」、「要塞」を意味する言葉ですが、合わせてコンフォート、つまり、砦に一緒にいる。要塞に共にいる。という意味になります。

 これは私の想像ですが、例えば、砦、要塞の周りに敵がいるのです。既に敵に囲まれているのです。まさに危機的な状況、非常に状況は不利であり、敗戦濃厚な状況です。心細い、将来も見通せない、そのような要塞に、しかし、一緒にいてくれる方がいる、その心細さ、不安、辛さを共にしてくれる人がいる。だから人は慰めを受けるのです。
 
 その話を幼稚園のお母さん方にも話しました。そしたら「先生、私の家の要塞は主人が適側にいるのですけど」とか「子どもが要塞からはみでているのですけれど」と話される方が続出しました。だからどうするのか、そうなんです。

 例え、夫婦であろうと、たとえ親子であろうと、もともとエフェソ書をこれまで読んで参りまして、先週、先々週と、読みました箇所は「妻と夫」、「親と子」、「主人と奴隷」とタイトルがついた箇所をずっと読んで来ましたが、なぜそういった事柄をパウロは記さなければならなかったのか、妻と夫が、親と子が、主人と奴隷の関係が、中々上手く行かない現実があったからでしょう。
 
 だから、どうしても記さなければならないとパウロは思った、それはその関係を守り続けるのは難しいからだということでしょう。例え、夫婦、親子といえども、いつも仲良く暮らしているわけではありません。時には喧嘩し、時には言い争い、時には口を利かなくなるのです。あたかも敵のような存在にさえなる時もあるのです。
 
 だから必要なことは何か、自分の要塞には、自分の砦には誰も一緒にいてくれないと思うとしても、どんな時でも主なる神がいつも一緒にいて下さる。わたしはあなたと共にいる、インマヌエルの主が私と共におられる。それがまことの「慰め」となるのだとパウロは告げています。

 そのような心細い思いをしているような時にこそ、悪魔がそっと近づいてくるようなチャンスを与えてはなりません。心細いなと思う、神様などいないと思う。そのようなときに、あの出エジプトの指導者モーセがシナイ山に登って、中々仲間の所に戻ってこなかったときに、下ではすっかり金の子牛を作って、これこそ我々の神だからと、子牛を中心にして礼拝をするような、そんなスキを悪魔に見せてはならない。夫が、妻が、子どもが、あの人が、この人が、と人を頼りにすると足をすくわれることもあり、足をすくわれたと思うと、人を信じられなくなり、関係が崩れ、喜ぶのは悪魔ですよ。

 皆さん、何をやっても上手くいかない。自分なんていても、いなくても、なんて思っている時に最も喜ぶのは悪魔ですよ。そして誘ってくるのです。

 木曜日の家庭集会でも少し話題に出たことでしたが、神など信頼に値しない。人など信じられない、と思う時、まさにそんな時に、このアルコールは美味しいよ、このお酒を飲むと楽になるよ。あ~、上手いなぁ。そうやって、神の支配から離れ、離れて、気が付いた時には、遅いということだってあるのです。

だから皆さん、「主により頼み」「その偉大な力によって強くなること」です。

 主によって強くなるには、三つ、一つは悪魔と関わりを持たない。悪魔はなんとかして、いやなんとしても関わろうとするのです。人はその関わりにちょっとだけならいいかな、その思いを悪魔は待っています。ちょっとだけなら飲んでもいいかな、それが危ないのです。だから危ないところには絶対に関わらない。

 二つ目は「立ち向かう」強さです。立ち向かうというのは、いいか、明日にするか、そうだな、誰かがやるだろう。でもね、今やらないでいつやるのですか。私がやらないで誰がするのか、皆さんのお手元にあるかと思いますけれど、2月17日と、24日の日曜日、そこには早朝礼拝7時からとあります。今の時代、少子高齢化と言われています。教会は特にそうだという声をよく聞きます。でも、それにどう立ち向かうのか、そういう話は殆ど聞いたことがありません。

 だから、自分でやるしかないと思いました。勿論、上手く行くのか、行かないのか、でもね、だから何もしないではなく、立ち向かおう、そう考えました。

 一つは関わりを持たない、二つ目は立ち向かう、三つ目はそのためにどうしても必要なのは、神の武具を身に着けることですよ。

 悪の支配と権威に分かれを告げるために、神の武具を身に着けることです。神の武具、真理を帯びとして腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なお、その上に、信仰を盾として取りなさい。
 
 先ほどイザヤ書52章を読んで頂きました。7節にはこう記されています。「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え 救いを告げ あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。」
 
 平和の福音を告げ知らせるために、私たちは主なる神によって特別に選ばれた一人一人です。その一人一人が神の良い知らせを携えて、これから始まる一週間も祝福のうちに過ごして参りましょう。
お祈りいたします
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