日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

澄んだ目

2019-01-23 13:17:01 | 子どもたちに福音を
【マタイによる福音書6章22節】 

 皆さん、イエス様は色々なことを教えて下さいます。ある時こんなことも教えて下さいました。「体の「ともしび」は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば暗い」とイエス様は話されました。皆さんの目が澄んでいるということは、綺麗な目にしていなさいよ、不潔な目にしているんじゃありませんよということではありません。

 澄んだ目とは、正直に生きて、人を愛して、神様に愛されていることに感謝して生きなさいよということです。
 
どういう事かというと、神様と繋がっているということです。私たちは神様のことを、この目で見えませんけれども、いつも一緒にいて下さいます。そしてその神様が守って下さっています。あ~ありがたいなぁ、感謝だなぁ、そのようにして神様から力を貰って生きていると、正直になり、人を愛し、神様に愛されることになるわけです。

 神様と繋がるとはどういうことでしょうか。例えば、海のタコではなく、空を飛ぶ凧揚げの凧がありますね、凧は風を上手に受けて、飛んでいきますけれど、でもその凧はしっかりと糸で結ばれて、人がその糸の大事な所を持って糸がピンと張って凧が飛ぶでしょう。 
 もし、その糸が切れてしまったら、どうなるかというと、風に乗って飛んでいた凧はあっという間に、バランスを失って落っこちてしまいます。

 そのように、私たちも、私たちに力を与えて下さっている神様としっかり繋がっている間は、しっかりと人生という風に乗って、綺麗に空高く素敵に飛ぶことが出来ると思いますが、神様との糸が切れてしまうと、私たちはとっても不安になったり、怖くなったり、あるいはわがままになったり、嫉妬したり、妬んだり、意地悪になったり、だから、私たちは、いつでもあの凧のように、しっかりと神様と繋がることです。

 どんな高い、高価なテレビでも、冷蔵庫でも、洗濯機でも、コンセントが挿してなければ、絶対に動きませんね。人間も同じです。私たちのコンセントは神様の所にあります。神様の愛をしっかりと受け取って、あ~神様、今日も命与えられ、生かされていることを感謝します。あなたとしっかり繋がって、あなたを信じて生きて行きます、そんな思いを持ちながら一日一日を過ごすことです。
私は、このホームに自動車で来ますが、自動車だってガソリンが無ければ動きません。

 ガソリンがなければただの鉄の箱で邪魔なだけです。でも、ガソリンがあればしっかりと走り、そしてどこまでも走っていくように、私たちのガソリンは神様です。神様から「あなたは大切だよ」、「あなたのことは決して忘れないよ」、「あなたのことをちゃんと覚えているよ」そういう言葉をしっかりと聞きとって、そしてそこから私たちは神様のガソリンを受け取って、あ~、神様、ありがとうございます。今日もあなたに守られて、過すことが出来ます。そのように祈ることが出来る人の目はきっととっても綺麗なことだと思います。

 そして、そのような澄んだきれいな目をしている人を、回りの人が見てね、あ~、あの人って「素敵」、あの人が話す言葉を聞いていると「なんだか嬉しくなってくる」、あの人と一緒にいると「しあわせだなぁ」そういうふうにね、そして、自分もそうなりたいって思うんですよ。

 人はね、近くの人に似て来るんです。スズメとカラスが一緒に電線に止まっていることはありません。スズメはスズメと一緒、カラスはカラスと一緒であるように、人も、同じような人が一緒になります。だから、みなさんが「澄んだ目」、「神様を信頼し、愛されていることを感謝して生きていると」お隣さんも、そのようになります。この冬はねインフルエンザが流行って大変でしたけれど、神様の愛も伝染していくんです。でも、この伝染は祝福の伝染ですよ。だから大丈夫、皆さんの心の中にある神様の光をいつでも輝かせて下さい。そして、みんなが輝くように、幸せだなって思うようしながら、この一週間も過して参りましょう。

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幸せへの道

2019-01-22 10:32:25 | 礼拝説教
【出エジプト記20章12~17節】
【エフェソの信徒への手紙6章1~9節】


 先週の日曜日は月の第2主日ですから、各部集会が行われました。壮年会の皆さんが例年のように外で新年会をされた。年に一度のそんな集いも私は必要だと思います。

 そんな様子をみていた青年会の皆さんが、口々に先生、私たちも新年会をやりましょう、そういう目をして、私を見つめて圧力をかけて来ましたけれど、(笑)それはまた別の機会として、私は青年会の皆さんどうしても行ってみたいと思うことがありました。昨年の12月に日本聖書協会から31年ぶりに聖書が新しく翻訳しなおされまして、出版されました。

 その聖書を早速購入しまして、少しずつ読んでいきたいと思っておりましたが、青年会で行うとしたら、良い機会となるのではないかと考えました。それで、新年会の圧力に屈することなく、一緒にマルコによる福音書の1章を、現在使用している聖書と比較しながら、その翻訳の特徴などの感想を話し合いました。結果的にはやはりとても良い機会であったと思っています。

 当初、購入してさっと読んでみて、殆ど違っていないと思っていましたが、皆で読み進める中で違いがはっきりしてきました。その一つは新共同訳と比較すると、漢字表記が非常に増えています。訳された方の思いの中に、その翻訳に当たって、評判が良いと言われていた、文語訳聖書風にしたいという話しも聞いておりましたけれど、漢字が多いのもその為かもしれません。それから少し面倒な話ですが、文法的には、時制の一致の考え方、捉え方が違っているように感じます。

 例えば主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けた場面では、現在の聖書は「イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼をうけられた。水の中からあがるとすぐ、天が裂けて、霊が鳩のように御自分に降ってくるのをご覧になった」とありますが、新しい聖書では「水からあがっているとき、天が裂けて、霊が鳩のように御自分の中へ降って来るのをご覧になった。」とありました。「水からあがるとすぐ」なのか、「水からあがっているときに」なのか、細かいようですけれど、時制の違いの理解があると思われます。訳された方の考えが込められているのは間違いありません。他にも「もてなす」が「仕える」となっていたり、と今後も暫くは、ホットな話題となるであろうと思います。

 なぜ、今、そんな話をしているのかと申しますと、本日読んで頂いた聖書箇所、エフェソの信徒への手紙の6章1節から9節までを読んで頂きました。
 先週の礼拝でも、申しましたが、エフェソ書が伝える大切なことの一つに、当時の社会状況の中で、支配する側と支配される側を越えて、教会は信仰において一つとなる必要があると一生懸命に訴えている手紙でありまして、特に先週、今週と読んでおります箇所は、当時は、当然と考えられていた、妻と夫、親と子、奴隷と主人 といった主従関係さえも、教会は越えて一つとなって欲しい、そんな思いが込められている箇所なのだと思います。

 けれど、何によって一つになっていくのか、6章1節に「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい」とあります。この「主に結ばれている」という言葉は新しい聖書では非常にシンプルに「主にあって」とありました。「主にあって両親に従いなさい。」言語的には「主にあって」のほうが正しいかなと思います。でも私は新共同訳の「主に結ばれている者として両親に従いなさい」、こちらの方が良い訳し方ではないかと思います。

 先月の12月、私たちはクリスマスを祝いました。もう既にずっと前のことのようにも感じますけれど、丁度一か月程前は御子イエスの誕生のお祝いをしておりました。しかし、聖書は不思議なことに、御子イエスの子どもの頃の話は殆ど登場しません。
 唯一記されているのはルカによる福音書にある、イエスが12歳になった時に、エルサレムで行われる過ぎ越しの祭りに両親や村人と共に出かけたという話しです。ユダヤ世界では12歳が成人式であったとも言われます。

 私たちの国は、先週に二十歳を迎えた方々の成人式でしたが、ユダヤでは12歳。なぜ、12歳かというと、12歳になれば、聖書に記されている律法、御言葉の意味を一人で理解出来、自分の信仰を養いうる年齢であると考えられていたと言われます。つまり大人しとして扱われる年齢です。一つの節目、区切りとして少年イエスの姿が記されたのかもしれません。
 
 その箇所を読みますと、祭りの帰りに、イエスが一緒にいなことがわかり、慌てて両親はエルサレムに戻って、三日も探すのですが、三日目に探し当てたところ、イエスは神殿にいて、学者たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしていたというのです。もしこの時主イエスが12歳でなかったとしたら、こんな場面は起こらなかったかもしれません。12歳であったことが大切であったかもしれません。

 そのような主イエスが、更に年月を重ね、世に出て、バプテスマのヨハネから洗礼を受けて、「水の中からあがるとすぐ」なのか「上がっているとき」なのかはともかく、天から降って来た聖霊に満たされて、神の国の福音を宣べ伝え始めました。主イエスの周りに、集まって来た人々の多くは、この世において、つまり人の世において、差別扱いを受けている人々であったと思われます。

 身分が違うというだけで、別の世界を生きなければならない社会でした。性別が違うというだけで一緒に食事も出来ない世界でした。病気を患っている人の方が差別を受けました。ましてや、妻と夫、親と子、奴隷と主人という関係は、差別というより、支配する側と支配される側と見なされていたことは間違いありません。
 
 そのような世にあって、主イエスは全ての人々に福音を宣べ伝え、神の祝福を祈りました。

 2018年度の、私たちの教会が主題聖句として掲げている御言葉は「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。エフェソ書の5章1節の御言葉です。

 主イエスは、どんな人も、あなたがたは「神に愛されている子供」だと宣べ伝えました。そして、その教えを教会も倣ったのです。妻も夫も、子も親も、奴隷と主人も、その立場が変わることはありません。しかし、そのままであなたがたは神に愛されている子供であって、そして、皆一つなのだというのです。

 しかし、その中で大切なことがある。それが「主にあって」、すなわち「主に結ばれている者として」が大切なのです。「主に結ばれている者として、両親に従いなさい」
 この教えは先ほど読まれました旧約聖書の十戒にも記されている大切な教えでもあります。

 出エジプト記20章に記されている十戒の第五戒、5つ目の戒めが「『あなたの父母を敬え。』そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」とあります。子供達が父と母を敬う事によって、幸福が与えられ、主が与えられる土地に長く生きることが出来るというのです。
 
 父と母を敬うという事が、なぜ幸せと結びつくのか。エフェソを読んでみますと、4節には「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい」とありますし、5節には、「奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい」とあります。9節には、「主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです」とありますから、読み進めますと、なにも子供だけとか、親だけが重んじられ、逆が軽んじられるという事でもないという事もわかります。
 
 子供が、父と母を敬う、又、両親が、子供を愛し、あたかも主がしつけ諭されるようにその成長を見守る。奴隷と主人の関係も又、そのようだと言うのです。現代の私達は、奴隷と主人という言葉の意味をもう一つ理解しかねますけれども、しかし、ここでパウロが語っている意味は、譬え誰であろうと、どのような立場であったとしても、信仰に生きる人は「主に結ばれている者として」互いに一つになれると伝えているのだと思います。それが人の幸福へとつがる道であると聖書は伝えているのです。
 
 キリスト教に限ることでもなく、宗教とは一体何か、と考えてみますと、やはり宗教の目的の一つは、人間の幸福とは何かに深く関わるのだと思います。

 私が岩手県におりました時に、秋田桜教会で牧師をされている、今は教団の書記もされておられます雲然俊美先生と仲良くしいただいておりまして、その教会に通っていた高校生が、相談があると教会にやってきたというのです。
学校の友達が、仏教系の新興宗教に入って、自分をしつこく勧誘してくるというのです。困ってしまって相談しに来たそうです。自分は教会に通っているからと断ったけれど、その友達がこう尋ねたそうです。「教会に行って何か良い事あったの」。

 そして自分はこの新興宗教に入ってこんな良いことがあった、あんな良いことがあった、だから一緒にやろうよと、こう誘う。そう誘われて、どうにも答えに困って、そして牧師の所に相談しに来たというのです。
 
 雲然先生は、その時、その高校性にどう答えられたのか、までは話されませんでしたが、どうでしょうか、皆さん。この宗教に入れば、こんなに良いことがある、あんな良いことがあると、入るように誘われるとしたらどんなふうに思われるでしょうか。いや自分はキリスト教だから結構ですと恐らく、いや間違いなく、ここにおられる方はそう言って断られるでしょう。
 
 それでは、「教会通っていて、何か良い事あるの」、と問われるとしたら、どう答えられるでしょうか。教会に通っていたら、歩けない足が歩けたとか、白内障が治ったとか、癌が消えたとか、勿論、そういうこともあると思います。思いますけれど、礼拝に通うのも大変だし、礼拝で説教聞くのも腰が痛いし(笑)あっちも辛いし、こっちも辛いし、耳は聞こえないし。家内は、今、歯が痛くて辛い思いをしています。歯が痛いというから、礼拝で説教聞けば治るからとはやっぱり言えません。(笑)歯医者にどうぞと言うしかありません。

「教会に通って、何か良い事あるのか」という問いかけは、キリスト教が伝える幸福感について、改めて考えさせられる問いかけではないでしょうか。

 聖書は、幸福に生きるためには、父と母を敬うことだと教えます。そうすれば幸福になるというのです。
 
 私はこの言葉を読むときに、幸福とは、例えば宝くじに当たるとか、受験に合格するとか、何か良い事が起こるとか、確かにこれらの事も幸いだと思いますが、しかし、「父と母を敬う」という言葉は、むしろもっと身近に、もっと自分の手の届くところに、例えば平凡と思えるような自分達の、家庭の中にこそ幸福があると言えるのではないかと思うのです。
 
 父と母を敬える家庭はどんな家庭なのか、単純かもしれませんが、一つは明るい家庭、隠し事の無い家庭、互いに支えあえる家庭、色々な事が言えるでしょう。

 一言で言うとしたら、お父さんも、お母さんも、お爺ちゃんも、お婆ちゃんも、お姉ちゃんも、お兄ちゃんも、そして小さな赤ちゃんも、その家庭の中にあって、夫々、一人一人が、その存在が喜ばれ、尊ばれる。あ~、お婆ちゃんいてくれてよかった。お爺ちゃんがいるととっても嬉しい。そのような家庭。

「父と母を敬え」という言葉の意味は、小さな子供達がお父さん、お母さんを敬うという事よりも、むしろ成人した大人が、年老いた父、母を敬いなさいという意味が強く入っているとも言われます。
 
 けれど、これは2月に予定している幼稚園の講演会で話そうと思っていることでもあるのですが、例えばあまりに騒がしい子供に手を焼きながら「お前がいなかったら静かで助かるのに」とか、女性だけの姉妹に対して、「本当は男の子が欲しかった」とか「おまえは本当にグズだねぇ」とか、そういうメッセージをつい子供達に発信していないでしょうか。「いなかったら静かで助かる」とう言葉は、相手に対して存在を否定している言葉です。
「男の子が欲しかった」というのは、女の子としての存在の否定する言葉です。

 自分の存在が否定されると、人はブルブルッと震えます。「お前は何をしてもグズだねぇ」というのもまた、その存在の価値を否定しているところがあるのです。

 存在が否定されて育つ子供は、自分に自信を持つことが上手に出来ません。自信を持てないと、自分で自分を愛するのが上手でなく、又、自分を愛せない人は、その愛せない歩合に応じて他人も愛せないという事のようであります。

 そんなふうにして育った子が大人となって、結婚して子育てをすると、また同じことを繰り返す傾向があります。だからそのことに気が付くことです。そういった傾向に結ばれていることに気付いて、その繋がりを切って、新しく、主と繋がり、新しく主に結ばれることです。親も子も、主に結ばれることが、幸せへの歩みなのです。

 私達の存在が神様によって肯定されている。お前は私にとって、尊く、貴い、親であろうとも、子供であろうとも、奴隷であろうとも、主人であろうとも、そこに神様の肯定がある。主イエスの十字架は、この人の為の十字架であって、この人の為の十字架ではないという事ではありません。

 私達に命を与えた神の御子が、私達全ての幸福の為に、十字架にかけられ、そして血を流されました。私達は、私達がどのような状況にあっても、しかし、そこに神様が、私達の存在をしっかりと受け止め、励まし、支えて下さるという事を知る時に、そこにこそ揺るぎの無い幸福を感じ取る事が出来るのではないでしょうか。
 
 キリスト教の幸福とは、良い事があるから信じるのではありません。又、信じれば何か良い事が起こるという事もでない。いや起こる事も沢山あるでしょう。しかし、キリスト教の幸福感とは、私達、全ての人がその命を肯定され、全ての人に価値があり、社会の価値観ではなく私達に命を与えたもう、主なる神が、あなたこそかけがけの無い、大切な一人だとそういって下さっているという事を知るという事ではないでしょうか。
 
 他人と比較する事なく、私達は、それぞれに価値があって、その存在が神様によって支えられているのです。無条件で私達は愛されています。
 その愛を一杯、私達は全身に受けて、胸を張って今週も歩んで参りたいと思うのであります。

 お祈りいたします。
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自分自身を愛するように

2019-01-19 16:26:44 | 礼拝説教
【箴言30章18~19節】
【エフェソの信徒への手紙5章21~33節】

 エフェソの信徒への手紙を読み進んでいますが、その当初から申し上げていることの一つに、エフェソ書は私たちが教会を造り上げていく、形成していく中でどのような信仰を持って交わり保っていくのか、その心構えのような教えが随所にみられるということです。
 特に強調されていることは、信仰において一つになるということがどんなに大切かを何度も繰り返しています。

 1章の10節は「あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられるのです。」とありますし、2章14節では「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」とありますし、3章でも、4章でも何回も何回も、私達はキリストにあって一つだからと教えている事がよくわかります。

 4章の4節には「体は一つ、霊は一つです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、」とあります。一つである事を強調する。

 主にあって一つとはどういう意味かというと、4章の後半では、古い生き方を捨て、新しい生き方をキリスト者は生きるのだと記されています。

 新しい生き方とは、キリストにおいて、私達人間は、全てのものが神の前にあっては平等だということです。しかも、その平等性は全く同じものということではなく、夫々に個性があって、独特のものがあり、価値があるという事を伝えようとしているのだと思うのです。私自身、この価値観を知らされて本当に良かったと思っています。

 昨日の朝、娘と話していて「パパは自分に自信があるの」と聞かれました。どう答えれば良いかと一瞬迷いましたが、でも、「いや、自信なんてなにもないよ」と答えましたら、なんとなく満足した顔つきをしておりました。
 私自身、自分の事を思うと、自分の中には本当に自信のかけらもないとしか思えない。こうして皆さんの前で話をさせていただいておりますけれど、私がまさか人前で話しをするような役割を担うとは、全く自分の力ではなく、主なる神の力としか言いようがありません。主イエスは「人には出来ないけれど、神には出来る」と話されました。その神の力に頼る以外にはありません。

 しかしまた、なぜそのように導かれたのかといえば、人は神の前にあって等しく、平等であるという教えです。自分に自信があるとか、ないとか、この問いが内包している意味は「人と比べて」ということではないでしょうか。
 人と比べて、自分は良く出来ると思えば自信が出てきたりもしますし、人と比べて自分は出来ないなと思うと、すっかり自信を失う。そのようにして、私たちはどうしても人と比べることをします。そして、そこで喜んだり、悲しんだりするのです。
 私は人間には能力的な差はあると思っています。歌が上手い人がいれば、勉強が出来る人もいます。誰もがイチロー選手のようになれるわけでもありません。説教者として良く知られている加藤常昭先生の著書を読んでいました時に、加藤先生が、外国でオペラを見ていた時、オペラを演じていた人を見ながら、歌も上手ければ、スタイルも良く、演技も上手で、世の中は不公平だと思ったとありまして、私は思わず笑いました。これだけ尊敬される方であっても、自分の能力の無さを思うのです。

 でも、それにも関わらず、このエフェソの信徒への手紙は、何度も「主にあって一つ」神の前にある平等を訴え続け、しかも、それが教会形成の鍵ともなる大切な信仰の形であると告げているのだと思います。

 キリストの教会はその最初から、世の価値とは大きく違った独特な一面を持っていました。当時、この世の常識として考えられていた支配する側、そして支配される側の立場を越えて人は一つであり、また神の前に平等だという価値観です。その支配と被支配の代表的なものとして、具体的な三つ、「妻と夫」、「親と子」、「奴隷と主人」について言及されているのが今日、読まれた聖書箇所からのところです。
 
 特に本日は「妻と夫」という箇所を読んでいただきました。妻と夫ですから夫婦関係ということでしょうが、男性と女性の関係としても考えられると思います。当時の男女関係においても明らかに、支配と被支配の関係があったと言えると思います。
 先ほど、箴言30章18節、19節を読んで頂きました。「わたしにとって、驚くべきことが三つ、知りえぬことが四つ。天にある鷲の道 岩の上の蛇の道 大海の中の船の道 男がおとめに向かう道」箴言はイスラエルの王の中でも、最も栄え、また、知恵に満ち、賢明な心を持ったソロモン王が記したと言われます。けれど、そのソロモン王でさえ、分からないことがあって、その一つが「男がおとめに向かう道」だというのです。ソロモンでさえわからない。この世の、同じ時代に生まれた男女が惹かれ合って結婚する。しかし、どうして互いに惹かれ合うのか分からない。創世記に主なる神がアダムに対して、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言われて、エバを作って下さった。ですから、女と男の関係、それは、神様の領域かもしれません。 

 しかしまた、そのようにして結ばれて行く男女の中にあって、時代は決して平等で対等な立場ではなく、この世が成り立っていたと思います。

 出エジプト記の20章に、十戒が記されていますが、そこにはこう書かれてあります。「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」
 このように記されている意味は、妻という女性と、奴隷と牛とろばという家畜が、大体同等のものである、つまり男性からみれば、なにか一つの財産のように扱ってもよいという考え方があったと思われる。
 ものの本によれば、当時の習慣として女性は男性と一緒に食事をする事が出来なかったようですし、ある本には女性は立って食事をしていたとも記されています。道を歩いていて女性に声をかけるという事も、不道徳な行為とされていたようです。男性側の女性に対する優位性、あるいは差別的な態度が実に明かに行われていたようであります。

 新約聖書の、ヨハネによる福音書では、昼、日中に、サマリアの女性が井戸に水を汲みに来ていて、そして、そこに通りすがりにイエス様が訪れ、「水を飲ませて下さい」という言葉から始まって、最後にはこの女性が「もしかしたら、この方こそメシアかもしれません」と告白するという物語がありました。しかし、イエス様とサマリアの女性が会話している丁度その時、弟子たちがやってきて、聖書には「イエスが女の人と話しておられるのに驚いた。」とあります。
外において、井戸の近くで、自分達の先生が、当時ユダヤ人達から嫌われていたサマリア人の、しかも女性と話をしている。その姿に驚いたのでありましょう。

 その他にも、裁判になった時に、女性の発言が証言として認められないとか、色々と差別的な事が調べれば調べる程、現代の私達には考えられないようなそんな結果が出て来るのではないでしょうか。

 しかし又、そういう社会を生きながら、実際は、女性の役割は極めて重要で、水の補給から、燃料の確保、食事の世話、衣服の用意と、家庭の役割のほとんどを切り盛りしていて、男性がそれに頼りきっていたという事も確かなようです。
私達のこの日本にあっても、最近で話題となったのは、大学の医学部の試験で、男性の方が有利な条件が与えられていたことが明らかになったりしました。男女機会均等法という法律が制定されていますけれど、そういう法律を用いなければならないということは、まだまだ男女間の間に均等になっていないという印だと言えるとも思います。

 そういう事を思いますと、再びこのエフェソ書に書かれてあります、全ての人が神の前に一つであって、その存在が支えられ、全ての人に価値があって、みな尊いという教えが、2000年も前の時代の中で、実に新鮮で新しい、革新的な教えてあったと思わされます。
 
 聖書を読みますと、妻たちよ、「主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい」そして、「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」と記されます。
 この言葉は、時として教会で行われる結婚式において読まれる個所でもあります。言葉を厳密に考える牧師や教職などは、「仕える」という言葉が、女性に対する差別ではないかという事で、この言葉を使うかどうか今でも話題になったりするのですが、しかし、ここで大事なことは、言語的な説明はしませんけれど、21節の「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」と言う言葉が、ここでは最も大切な意味を占めています。互いに仕え合う。夫婦として互いに思いやりを持ち、愛し合う、そういう姿勢が必要だと書かれている個所であることは間違いないと思います。
 
 昔、もう大分前の話になりましたが、私の友人で、やはり牧師をしている友人が結婚式を挙げた時に、当時、横浜の蒔田教会という教会で牧師をされていた今橋朗先生が話をされました。この言葉は生涯忘れないと思いますが、
 
 今橋先生は、ご自分が司式されたカップルが160組あって、式辞の中で話されることは、ヨハネによる福音書の2章に記されている、カナでの婚礼の場面、結婚式のお祝いの途中にぶどう酒が無くなって、慌てて母のマリアがイエス様の所にやってきましてその事を告げる、そうしますと主は水をぶどう酒に変えるという奇跡を行った。

 そのぶどう酒を飲んで、世話役がですね、「だれでも初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったところで、少し劣ったものを出すのだけれども、あなた方は良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」と語ったというのです。その意味は、結婚する時は、二人が本当に力を合わせて幸せな家庭を作ろうと互いに真剣に考える。けれども、信仰をもつ二人が結婚するという事は、最初だけではない、月日が経つにつれて、二人の絆がもっともっと深くなる、5年、10年、20年、30年と続くにつれてもっともっといたわりあえる、支えあえるの、そういう姿を、この個所ではぶどう酒を譬えとして、表しているのではないだろうかと話された。

 確かにその通りだと思うのです。最初はこの人のためだったらと思い、互いに支え、いたわり、助け合うのです。でもだんだん慣れてきますと、月日が経ってきますと、自分の我が出て、自分の要求ばかりが強くなってくるようにも思います。そして自分の経験からも言えると思うのですが、結構お互いに、「自分のほうがこんなに我慢しているのに」と思っているのです。お互いが自分のほうがこれだけ我慢しているから夫婦円満だなんて思っていたりもするのではないでしょうか。
 
 キリストを主とする生活とはどういう事でしょう。それはイエス・キリストという救い主が、私達をその命をかけてまで愛し、仕えて下さったという事を知っている人は、そのイエス様の愛を受け入れて、自分自身もまた神様の作品であり、かけがいの無い一人であるという事をよく知っている人という事でありましょう。
 
 28節には、「妻を愛する人は、自分自身を愛している」とあります。神から愛されている自分を自分が受け入れることが大切なのです。自分には自信がない、けれど、主イエスがそんななあなたも神の前に平等であることを知れと教えて下さる。その教えをしっかりと受け入れることです。受け入れるほどに男性であれば、妻を愛せる、又、女性であれば、夫を愛せる、という事ではないでしょうか。

 自分自身が歩んで来た道、経験してきた一つ一つ、自分自身の外側も内側も、過去も現在も将来をも、すべてに感謝をもって受け入る、そのような人こそ、その夫を、その妻を本当に愛せるのでありましょう。
 
 私も、牧師として、結婚式の司式をわずかな経験でありますが、させて頂きました。今の所の私の願いは、この新しい会堂で結婚式を挙げたい。きっといつか願いは叶うでしょう。愛する二人が神様の前で誓いを立てる、その場に居合わせる事が出来るのは幸せなことです。そして私は式辞の時にお話する。これからお二人が夫婦となっても、けっして主体性を失わないように、それは例えるならば、夫婦生活は楽器の演奏のようなもので、オーケストラの演奏は聞いていますと、とても美しく聞こえますけれども、しかし、その一つ一つの楽器が、与えられた役割を十分にこなしているからこそ、美しく聞こえるのであって、そのように、夫として、妻として、自分自身の個性を失わず、自分だけの音色が出せて、そして美しく共鳴する。素敵なハーモニーが生まれる。それぞれが主張しあうのでもなく、消しあうのでもなく、それぞれの音をよく聞きながら、しかしお互いが十分に、自分だけしか出せない音を出す時にこそ、美しい音色が出せるのだと思うのです。
 
 31節には「それゆえ、人は父と母を離れてその妻を結ばれ、二人は一体になる」とありますが、父と母を離れるとは、人が自立するという事でありましょう。自立とは、依存しない、つまり、自分自身が主にあって立つ時に、主以外の誰にも依存しなくて良いという事です。依存しないとは、愛を貰うのではなく、愛を与える人になるという事です。
 
 愛する二人が互いに、愛を与える二人であれば、その二人は幸せな生活を送る事が出来るのです。
 そして又、32節でパウロが「わたしはキリストと教会について述べているのです」とあります。夫婦の関係を持ち出しながら、しかし、本当に述べたいと思っていることは、キリストと教会の関係、つまり、キリストと私達一人一人が、しっかりと繋がり、それゆえに互いに自立して、互いを労り、互いを支え、互いを愛し、敬う、そのような一つとなる教会を形成して欲しいと願っているという事ではないでしょうか。新しい年を更にそのような豊かなに教会へと、私たちは歩んでまいりましょう。
 お祈りいたします。

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子育ての心 第2回 一体となる大切さ

2019-01-12 16:10:44 | 子育ての心

 このファリサイ派の答えにイエスは少し感情を強く表に出したように私は感じます。イエスは、当時としては全く違った、つまり律法とは違う話をされました。

 「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は、父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体になる。だから二人はもはや別々ではなく一体である。従って神が結び合わせてくださったものを人は離してはならない。」(マルコによる福音書10章6~9節)
 
 キリスト教の結婚式等で用いられる有名なフレーズがここにあります。私もこれまで何度、この言葉を宣言したでしょうか。私の司式で結婚された皆さん、幸せにしていますか~(笑)
 
 恐らく、イエスの思いがけない返答を聞いたファリサイ派の人々は、かなり戸惑い、驚いたでしょう。離縁そのものがおかしい。これがイエスの答えです。
 
 現代でも、厳格なカトリックの信仰を守っている人々は、この教えを大切に守っています。カトリックには七つの秘跡(ひせき)と言って、「洗礼」、「堅信」、「聖体」、「赦し」、「病者の塗油」、「叙階」、「結婚」があります。秘跡とは、「神から教会に委ねられた、神の恵みの印」と説明されます。教会だけが行うことが出来る(ことになっている)特別な役割とも説明出来ます。その中に「結婚」があるのです。先ほどのイエスの言葉が理由の一つとなり、教会はイエスが直接話された「結婚」の意味を大切にしてきた証しでもあります。その為、離婚などとんでもないと思っている方々は世界中に沢山おられるでしょう。

 ただ、実際は、カトリックでも離婚する方はいるわけで、その方法は、結婚そのものを無効とすることのようです。離婚という形ではない別れ方をとっているようです。ただこれは教会でのことで事実上法律で離婚は認められているようです。プロテスタント教会はもともと、「結婚」が秘跡ではありませんので、もっと緩い扱われ方です。教会によっては同性愛者の結婚も容認される時代です。法的にも同性愛者の結婚を認める国もあります。
 現実的には、カトリックでも、プロテスタントでも、キリスト教国と呼ばれる国の多くは、離婚率が高いのが現実かもしれません。

 その背景には経済的な状況が加味されているわけで、いわゆる先進国と呼ばれる国の多くが、女性一人、男性一人でも十分に生活が可能で、生きていくのにさほど困らない体制が取られていることも、皮肉なことに離婚しやすい社会を生み出していると言えるでしょう。

 今回のテーマはあくまでも、「子育て」ですから、離婚のことはあまり長く記さない方が得策でしょう。大切なことはイエスの言葉、「人は、父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体になる。だから二人はもはや別々ではなく一体である。」この言葉です。この言葉によって二人が一体となり、二つのものが一つになって、夫婦となり、家庭が築かれていく、このことこそ大切なのだとイエスは語ります。

「子育て」に必要なこと、それは二人が一体になるということです。
「二元論」という言葉があります。多くは哲学用語として用いられています。フランス生まれのデカルトという人の「実体二元論」などは有名です。世の中は、相反するもので構成され成り立っているという考え方です。例えば「善」と「悪」、「心」と「体」、「光」と「闇」、「生」と「死」など二つのものが世の中にあると言われると、なるほど、そうかなと思ったりしませんか?特に世にある理解不能な「不幸」に遭遇するような時、この二元論は説明がしやすい論理と傾向だと考えられたりします。

 聖書の中にも、「生まれつきの盲人をいやす」出来ごとが記されています。イエスと弟子達が歩いている通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけます。弟子たちはイエスに尋ねました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか?」つまり、目が見えない原因は、彼の先祖の誰かが悪さをして、それが原因でこの目の見えない人に影響したのか、両親が悪さをしたのか、それとも生まれつきなのにもかかわらず、本人の責任なのですか?と尋ねたわけです。

 そこには正しい人であれば目が見えないような不幸にはならない、目が見えないのは何らかの悪を行ったからである。という二元的思想の中でイエスに問うたというわけです。しかし、イエスは「本人が罪を犯したらからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と答えました。この答えについてはまた後ほど触れたいと思いますが、イエスは誰かのせいにするのではなく、「神の業」が現れるためと答えました。誰のせいでもない、いわば神の責任だと答えたのです。ここに一元的な答え方が読み取れます。この答え方はキリスト教の思想に深く影響を与えていると私は思っています。世の中には二つのものがあるのではなく、一つなのだ。その中に、「女」と「男」という考え方も含まれるわけで、つまり、結婚する男女は二つではない、そこにおいて一つであるという考え方です。

 キリスト教は、二元論的哲学的思考を支持しません。男も女も大切なことは、二つのものが一体となる、一つになることだと考えるのです。

 この教えは、興味深いことに、仏教とも共通していると私は考えています。鈴木大拙という近代日本の最大級の仏教学者が「日本人的霊性」という著書を著しています。「霊性」と言う言葉は、恐らくどの宗教においても大切にされる言葉だと思いますし、キリスト教でも近年、大きな注目が注がれている言葉です。宗教がこの言葉によって、一つにつながる可能性さえあると私は思っています。

 その著書の中で大拙は「霊性」の定義を、二元的世界のその先に、もうひとつ越えた世界があると考えています。「精神または心を物(物質)に対峙させた考えの中では、精神を物質に入れ、物質を精神に入れることができない。精神と物質との奥に、いま一つ何かをみなければならぬのである。二つのものが対峙する限り、矛盾、闘争、相克、相殺などいうことは免れない、それでは人間はどうしても生きていくわけにいかない。なにか二つのものを包んで、二つのものがひっきょうずるに二つでなくて一つであり、また一つであってそのまま二つであるということを見るものがなくてはならぬ。これが霊性である。」 と定義付けます。つまり、二つのものあるという世界観では、人は生きていくことが困難であると訴えているのです。
 
 私の出身は岩手県の花巻市です。花巻の教会でも牧師として数年働いておりました。今思うと、長男の誕生、二男の誕生など、私たち夫婦の家庭生活もそこから始まっています。花巻というと温泉が有名ですが、何より有名なのは、宮沢賢治の出身の土地として知られているのではないでしょうか。宮沢賢治は童話作家として、また、詩人として、また、地質学者として、天文学者として、非凡な才能を持ち、裕福な家庭に生まれながらも、生前は案外不遇な生涯を過しました。賢治が世に知られるようになったのは賢治の死後に弟の宮沢清六に発見され、世に出された「アメニモマケズ カゼニモマケズ」という詩がきっかけとなったことは良く知られています。

 花巻市には「宮沢賢治記念館」があります。お土産として売られている色紙や手帳、手ぬぐいなどに記されている言葉は、「世界全体が幸せにならなければ、個人の幸せはあり得ない」 という言葉です。この言葉も賢治の言葉として大変良く知られています。
 私個人の思いとしては、むしろ「個人が幸せにならなければ、世界全体の幸せはあり得ない」と表現したい思いがありますが、どちらでもあまり違いは無いかもしれません。

 この言葉の中で賢治が用いた「世界全体」という言葉の意味が大切です。賢治はこの言葉に、人間社会だけではなく、動物も植物も生きるもの全てが含まれると考えていたようです。それだけでもなく、地質学者としての賢治は、鉱物や金属といった無機物までも含んで、つまり生きてはいないけれど地上や地中、空中にある物質、世界の全てのものを含んで「幸せになる」必要があると考えていたとも言われます。恐らくその「幸せ」の延長上にある言葉が「イーハトーブ」 という言葉ではないでしょうか。

 賢治には、花巻で最初のクリスチャンとなった友人の斎藤宗次郎がいました。実の妹の宮沢トシは、日本女子大を出て、花巻に戻り英語の教師をしていましたが、盛岡市の内丸教会にいたタッピング宣教師御夫妻にネイティブの英語を習い、また、聖書の学びも受けていたようです。賢治もその学びを共にしていたと言われています。ですから、実際に、教会の礼拝にまで行ったかどうかは定かではありませんが、キリスト教の教えや、聖書の内容、思想をよく理解していたと思われますし、宗次郎の話からもキリスト教思想について、多く影響を受けたであろうと思います。賢治の童話の中には聖書の話しがベースとなって創作された作品がいくつもあります。

 賢治自身は仏教徒でしたが、例えば、幸福についての考えるとき、誰かの不幸の上にある「幸福」という考え方を支持していなかったと私は思います。それはつまり、キリスト教の影響を強く受けていたからではないかと思うのです。
命あるものも、命の無いものも全体が幸福になる、そうでなければ幸福はありえない。そう考えた賢治の思想には尊いものを感じるのです。つまり、全体が一つになることです。

「子育て」に必要なことは一つになることです。母親と父親が一つになる。実際、心も体も、「生」も「性」も「聖」も一つにならなければ新しい命が宿らないように、そのように私たちは神様に造られているのです。

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わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊の為に命を捨てる。

2019-01-09 09:13:56 | 子どもたちに福音を

【ヨハネによる福音書10章11節)

 皆さん、羊という動物を見たことがある方、おられますか。羊はね、ずっと、ずっと昔から人間と一緒にいた動物です。猫も犬も人間と一緒にいましたが、でも猫とか犬はペットです。かわいい家族の一員です。

 羊も人間とずっと一緒にいましたが、羊はペットではありません。むしろ、宝ものと言っても良いかもしれません。どうしてか、羊の毛から、セーターとか、パジャマとか暖かくて気持ちの良い着る物が出来ます。それから、羊の肉は美味しいお肉で御馳走になります。羊の皮で、バックや敷物にもなります。

 みなさんウインナーソーセージ好きでしょう。ウインナーの原料にもなります。羊のオッパイからヨーグルトやチーズも作られます。それから、石鹸とか化粧品が作られます。羊の骨や血を使って、薬も作られるそうです。そして、何と羊の糞も大切な燃料となりますし、植物の肥料にもなります。昔は紙もありませんでしたから、羊の皮を薄ーく伸ばして、紙の代わりにして文字を書きました。

 みなさん、ギターって知っていますね。ギターには弦って言って糸のような物を鳴らして音を出すでしょ。その弦も羊の腸が使われていました。

 羊には小さい角もありますが、その角は服のボタンにもなるし、ハンコにも使われているそうです。

 ですから、人間が生きて行く為に必要なものが沢山羊にはありました。そんな羊を沢山持っている人はお金持ちでしたし、羊そのものが宝物でした。人間には無くてはならない本当に大切な羊、ずっと人間と一緒でした。

 でも、もう一つ、羊はね、羊だけでは生きていくことが出来ないくらい臆病な動物でした。素早く動く事も出来ませんし、視力も弱くて、大体0.01位なんだそうです。だから1メートル先位しか見えないんですね。

 羊は一匹では生きて行くことが出来ません。ですから、沢山の羊が群れを作るのですが、それでも人間が一緒にいると安心するようです。怖い動物から身を守ることが出来ますし、食べる草があるところにも連れていって貰える。ですから、羊と人間はね、昔から友達のようにしていつも一緒に過していたわけです。

 そんな羊のお話しをイエス様は時々話されました。今日もそんなお話しをされた箇所を読みました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊の為に命を捨てる」と言われました。

 どういうことか、それは人間が羊を大切に飼っているように、イエス様は、私たちをしっかりと大切に見ていて下さいますよということです。

 羊も一匹では生きていけませんが、人間も一人では生きていけません。人間の赤ちゃんが生まれるでしょ。でもね、赤ちゃんは絶対に1人では生きていけません。必ず誰かの助けが必要です。そのようにして、私たちは全員赤ちゃんとして誕生して、今、生きているということは、誰でも、必ず誰かに助けてもらいながら今まで生きたということです。

 そしてね、良い羊飼いといのはね、どういう羊飼いかというと「絶対に逃げない」ということです。狼が襲ってきたら、悪い羊飼いは羊を置いて逃げてしまいます。熊が襲ってきたら、悪い羊飼いは死んだふりをするかもしれません。

 でもイエス様は「私は良い羊飼いである」と言われました。それは、あなたが今、どんな状況の中にあっても、どんな状態の中にあっても、あなたから逃げないで、いつも一緒にいますよ。あなたが子どもの時も、大人になっても、年を取ってしまっても、体が動かなくなっても、自由に動けなくなって来ても、どんな時も、嬉しい時は勿論、悲しい時、涙する時、いつもイエス様が一緒にいて、慰め、励まし、力付け、一緒になって生きて行こう、頑張っていきていこうよと、決して逃げることなく、いつも一緒にいて下さいます。それが、神様の大きな愛の力なんですね。

 どんな時も良い羊飼いとしていつも一緒にいて下さる神様に感謝して今週も過して参りましょう。お祈りします。


教会のHPアドレスです。http://www.ohtsukaheian.jp/
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