【エフェソの信徒への手紙4章1~11節】
先週の日曜日は台風24号が来ようとしている日でありましたが、午後からさがみ野ホームで、召天者記念礼拝を行いました。その二日前には異例のことでしたが、北村志津子姉の二度目の納骨式を厚木霊園でおこなっております。日曜日が暮れて、台風も過ぎた火曜日は、かねてからお願いされていたさがみ野ホームに長くおられた方の納骨式を行いまして、木曜日は綾瀬ホームの召天者記念礼拝を執り行いました。次の金曜日は、急なことでしたが、綾瀬ホームに長くおられた方が召されたと伺い、葬儀を執り行い、昨日の土曜日は、角田真澄姉の納骨式を天候に恵まれて静岡県の富士霊園で行ってまいりました。
この一週間程の間に、何度葬儀に関わることを行ったか、これまで経験のないことでしたけれど、どの時も主なる神様の守りの中で、天候にも支えられて心を込めて行うことが出来ました。感謝でありました。
さがみ野ホームや、綾瀬ホームで召された方は、必ずしもキリスト教を信じて、洗礼を受けておられた方ではありません。とは言いましても、葬儀の際、また納骨の際には讃美歌を賛美し、祈りを献げ、聖書が読まれ、御言葉が告げられます。
どの儀式においてもそれは変わりません。そして、また今回、そのような人を天に送る儀式を執り行いながら、改めて思わされましたことは、私たちは神に招かれているのだ、ということでありました。
神が招いておられる。例えば、納骨の式が行われる際に私はこう祈ります。「わたしたちの主イエス・キリストは、十字架の死の後、アリマタヤのヨセフによって備えられた墓に納められましたが、その所を、栄光に輝く復活を告げ知らせる場となさいました。」墓地という場所は、私たちの死を意味する場所です。子供時分にはどんなに墓地が怖い所かと思っておりました。けれど、そのような場所を神が栄光に輝く復活を告げ知らせる場として下さったと祈るのです。
先週の水曜日、葬儀と納骨式の間に挟まれた日であったようにも思いますが、午前には婦人会が行われ、夕には祈祷会が執り行われました。祈祷会で、今共に読んでいる箇所は、コリントの信徒への手紙という箇所です。その15章12節からの箇所を読んで、共に祈りを捧げました。
そこにはこう記されてあります。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」
コリントの教会の人々の中に、どうもキリストの復活について疑いを持っている人々がいたものと思われます。イエス様の教えや、奇跡の業、その御言葉は信じることが出来ても、復活についてはどうも信じることが出来ない。受け入れられない。そんな人が一人ではなく複数人いたと思われます。
しかし、パウロはそのような思いは違うと主張します。なぜ違うのか、主イエス・キリストの十字架は、私たちの罪故の十字架でありました。ですから今でも教会のシンボルは十字架です。罪という借金を負っている者が、同じ借金を負っている者に肩代わりしてもらえないように、私たち人の罪を、人が贖うことは出来ません。だから、罪の無い、全く借金をしていない主イエス・キリストによって、その十字架によってこそ、私たちの罪は赦されました。ですから十字架は大切な私たちのシンボルです。
けれど、パウロは、十字架刑だけでは足りないと告げているのです。キリストの復活が何よりも大切であって、この復活がなければ私たちの宣教は無駄であるとさえ言い切ります。なぜでしょうか。
キリストが復活しなかったのに、復活したと言っている私たちはまるで偽証人のようだし復活しなかったのなら自分達の信仰は空しいとも言うのです。なぜでしょうか。なぜ、パウロが主イエスの復活を大切に考えていたのでしょうか。
主イエスが死なれたのは十字架によってでありました。十字架は罪人、悪人の極刑の印です。主イエスを憎み、妬ましく思っていた当時のユダヤ人指導者が願った形の処刑であり、その通りに物事は進んでいきました。そして、主イエスは十字架刑に処せられました。
しかし、もし、そこで全てが終わっていたとしたらどうなっていたのか、主イエスは、罪人の中の罪人として、極悪人の一人として処理されただけで終わるのです。そこからは何も始まりません。キリスト教もなければ、イエスという方の地上での働きも記されないままであったでしょう。
けれど、命をかけてまでパウロが主イエス・キリストこそ、私たちの救い主であり、メシアであり、この方こそ私たちを導いて下さる方であると告げているのは、全ては主イエスが三日の後に復活されたからです。この主の復活がなければ何も始まらなかったのです。それほど主イエスの復活は決定的であって、復活があったからこそ、罪人の極刑の十字架は、キリストを信じる者にとって、主イエスの復活があって、初めて私たちに対する罪の赦しの業であったと、弟子たちも、パウロも、私たちも知ることが出来たのだと思います。
世の中には様々な宗教があります。明治学院の今は名誉教授をされている阿満利麿という先生が記した「日本人はなぜ無宗教なのか」という本の中に、宗教には二つの種類があって、一つは創唱宗教、もう一つは自然宗教であると説明しています。
創唱宗教とは創始者がいて、創始者の教え、導き、あるいは経典等によって形成されていく宗教であって、自然宗教とは特別な創始者はいないというのです。ですから山も神となり川も神となり、海も神となり、太陽も神となる、そのような宗教観があると説明しています。日本人は自然宗教の中に生きているので、宗教観が薄いのだと教えています。しかし、そうなると、キリスト教の創始者はイエス様であって、創唱宗教のカテゴリーに入るわけですが、私は果たして、本当にイエス様を創始者としてキリスト教が成り立っているのだろうかと思う。
キリスト教の始まりは、主イエスの復活にこそあるからです。この復活の出来事は、主ご自身が御自分で復活されたのではありません。父なる神の御心によって、神の業がキリストに働いて、主イエスは復活された。甦りの初穂となられたのです。勿論、父なる神と、子なる神であるキリストは聖霊と共に三位一体の神であると説明しますから、創始者はやはりイエス様であると言うことは出来るでしょう。
けれど、主イエスが復活された出来事が決定的なのです。使徒パウロはこう伝えました。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪の為に死んだこと、葬られたこと。また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後12人に現れたことです。」
パウロが最初期のキリスト者から受けた教えは、聖書に書いてある通り、主イエスが罪の為に死んだことであり、葬られたことであり、三日目に復活したことなのです。
主イエスが復活された、この出来事、墓地という人の命が葬られる所を栄光に輝く場所とされた方の力によって、復活の喜びがもたらされました。この喜び、この福音にあなたがたも共に預かって欲しい、これがパウロの切なる願いでありました。
読まれましたエフェソの信徒への手紙4章1節から読みますがこうあります。「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛を持って互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」
パウロは、自分は囚人となっていると伝えます。既に申し上げていますように、恐らくパウロはローマの牢獄に繋がれている時に、このエフェソ書を記したであろうと考えられていますから、まさに囚人であったと言えますけれど、しかし、それだけでもなく、パウロは自分がキリストに完全に捕らえられたと感じていたのではないでしょうか。キリストの愛の囚人として今の自分がいるという意味も込められているのではないでしょうか。そのように思っているパウロは「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく」と記しました。
主イエス・キリストの復活の出来事は、私たちに対する招きです。徹底的な神の罪の赦しと、無条件、無尽蔵なほどの神の愛の中へと私たちを招いておられる。教会は復活の主イエスによって「招かれた者」の集いの場であり、十字架というシンボルを示しながら、死の、その先にある復活を告げ知らせる場所として、この世に建てられているのではないでしょうか。
本日の説教題を「聖なる公同の教会」といたしました。教会は聖なる場所である。何よって聖なる場所なのか、私たちの信仰によってなのか、違います。私たちの生き方によってなのか、違います。私たちの礼拝の姿勢によってなのか、それも違います。復活された神の招きによって、その招きに答えて集う者の場所であるから、聖なる場所とされているのだと思います。私たちは聖なる民とされているのです。
この礼拝を聖なる時として、聖なる場所として、復活の主イエス・キリストを示し続けて参りたいと思います。
9時からのファミリー礼拝でも申し上げたことですが、テレビの世界で「一発屋芸人」と呼ばれる芸人がいる。誰とは申しませんが、ある一時の間、大変売れてテレビなどに引っ張りだこになる、時にはその年の流行語大賞に選ばれたりする、けれど、ある時からいつの間にかその人を見なくなる、そういう芸人を一発屋芸人と呼ぶそうです。
そういった人たちについて、ある辛口で有名な芸人さんがこうコメントしていました。「売れている時の芸はとても面白いし、ずっと見ていても見ている方はかなり面白いと思うのに、同じことを長くやっていると芸人さん自身がつまらなそうにやっているように見える。自分がつまらないと感じているものを見て、人が面白いと思うだろうか」私はとても納得しました。なるほどと思いました。
先ほど、旧約聖書の列王記でアラム軍の司令官であるナアマンが思い皮膚病になった箇所を読んで頂きました。ナアマンはどんなに辛い思いをしたことかと思いますが、預言者エリシャは、「ヨルダン川に行って七度身を洗えば治り、清くなる」と伝えました。その言葉にナアマンは怒りました。なぜ怒ったのか、皮膚病には何よりも清い水が必要です。皮膚を清潔にするためにも水が大切である。ナアマン自身、それくらいのことは知っている、それくらいのことはとうに行っていると思ったのではないでしょうか。いつものこと、わかっていることをしても何になるのか、そう思ったのではないでしょうか。しかし、ナアマンは家臣にいさめられて、改めて心を新たにして言われた通りのことを行ったら、皮膚病が治ったというのです。
私たちは何も芸人でもないし、一発屋でもありません。私たちはナアマンでもありません。何もそんな人たちと比較する必要もないと思います。
けれど、私は、私たちはそうではありませんけれど、毎週、毎週執り行うこの礼拝を、もしかしたら、どこかでいつものこと、毎週のこと、普通のこと、と思っている教会があるとしたら恐ろしいなと思います。
私たちは、人の死に勝利されて、復活を遂げられた主イエス・キリストに招かれています。そしてその主イエスの復活を宣べ伝える民として礼拝を守っています。それがどんなに自分達の誇りであり、喜びであり、祝福であるかを、毎週、毎週の礼拝で、まるでそのことを初めて知り、経験するかのようにして神の福音を喜んで受け入れていきたいと思います。
説教の後、聖なる教会の聖なる民として、私たちは聖餐の業に預かります。主イエスの体としてのパンと血としての杯、主の体が、私たちの為に裂かれ、主の命の血が、私たちの罪の故に流されたことを思い、しかし、その先にある栄光、復活された主イエスがおられることを心から受け止めてパンと杯を預かりたいと思います。