日本キリスト教団 大塚平安教会 

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神の住まいとなる

2018-07-29 16:09:33 | 礼拝説教
【イザヤ書28章14~28節】
【エフェソの信徒への手紙2章14~22節】

 先週の礼拝に引き続きまして、エフェソの信徒への手紙2章の箇所を読んで頂きました。先週の礼拝では「二つのものを一つに」という説教題で話をさせて頂きましたが、14節に「キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」とあります。

 「敵意という隔ての壁」とは具体的には何を意味しているのでしょうか。少し前ですが7月9日の月曜日に、湘北地区の教師会がありました。高座渋谷教会で行われましたが、その教会の君島洋三郎先生が、教師会の全日の8日の日曜日、礼拝の後、古居みずえさんという、映画監督でもあり、ジャーナリストとしても活躍されている方をお招きして話を聞いた話しをして下さいました。

 古居さんのライフワークの一つは、イスラエルとパレスチナ問題のようです。ご自身がこれまで何度も直接足を運び、その目で見てビデオや写真にとり、現地で何が本当に起こっているのがを報告したり、映画にしていたりするのだそうです。 
 イスラエルとパレスチナの問題について、私自身詳細について理解しているわけではありません、特に政治的な話はいたしませんけれど、イスラエルはヘブライ語を話すユダヤ教徒の国、パレスチナはアラビア語を話すイスラム教徒の国、その二つの国が、いわば同じ、イスラエルという名の日本の四国程度の土地の中に住んでいる。そして、その土地がもともと自分達の土地であり、ここが自分達の元々の故郷だと主張し合っている状態です。

 聖書的な話をするとすれば、その争いは旧約聖書の世界、サウル王とかダビデ王の時代にまでさかのぼることが出来ます。イスラエル人とパレスチナ人、それぞれの主張があるわけですが、土地の問題だけを申しますと、調べた資料によりますと、第2次世界大戦直後の1947年には、パレスチナの領土が43%あったのが、それから60年以上経過した2012年には8%にまで縮小されているようです。現在はもっと少ないかもしれません。

 つまり、世界各国の様々な思惑とも重なり、多くのパレスチナ人は家も土地も失い、難民が増え続けている状態と言えるでしょう。しかも、古居みずえさんの報告によれば、つい最近、数か月前に、パレスチナ地域に住んでいる若者たちが、武器なし、非武装で国境沿いに抗議デモをしていたところに、いきなりイスラエルからの実弾の発砲があり、子どもを含む60人以上の人々が殺されてしまうといった出来事があったと伺いました。
 実際は、殆どパレスチナはイスラエルからいじめにあっているようなものと言えるそうです。

 イスラエルは私たちの国から遠く離れていますし、様々で複雑な問題を抱えていますから、中々理解しにくいところがありますけれど、けれど私たちは、イスラエルのために、パレスチナの人々のために、彼らの命と平和のために、祈らなければならないと思います。特に次週には平和聖日の礼拝を控えています。「敵意という隔ての壁」を取り壊し、二つのものが一つになるように、主にある平和を祈り続けていかなければならないと思います。

「敵意という隔ての壁」、これは何もイスラエルとパレスチナとの問題だけではありません。今日読まれた聖書の中に示されている「隔ての壁」とは明らかに、イスラエルと異邦人の関係です。思想面からすればパレスチナの問題にも複雑に入り込んで来ているのかもしれませんが、イスラエルの民は、神の民であって、異邦人はそうではない、それがユダヤ教の、律法の、律法的な考え方であったと思います。

 使徒パウロは、生涯の中で三度、伝道旅行に出かけていますけれど、その伝道活動の中心は、異邦人伝道でした。パウロはユダヤ地域出身ではなく、タルソスというギリシャ語を話す町の出身でしたから、ヘブライ語を話すだけでなく、ギリシャ語も上手に話すことが出来たと思います。ですから、異邦人に対して主イエス・キリストを宣べ伝える、それが自分の使命と感じたのでありましょう。しかし、宣教活動の働きの中では、幾度も困難に遭遇するのですが、その困難を持ち込んでくる相手は、異邦人ではなく、主にユダヤ人がそうでありました。

 既に、ユダヤ教からキリスト教に回心しているとは言え、元々のユダヤ教徒としては、どうしても幼い頃から教えられてきていた律法、すなわち、割礼を受けていない者に対する思い、あるいは、汚れているから食べてはならないと教えられていた食べ物を平気で食べる人たちと共に礼拝を守る、これはあってはならない、信じられないことであったと思います。

 ですから、割礼を受けなくともよい、何を食べても良いと告げるパウロが憎くて仕方がない、ユダヤ人キリスト者はやっぱり、中々律法から逃れられないのです。ついにはパウロを捕らえて殺してしまいたいと思う程でありました。実際捕らえられる様が使徒言行録には記されています。
 しかし、パウロはそのような迫害や脅迫に屈することなく、その生涯を通じて、主イエス・キリストを宣べ伝えました。何よりもパウロは主イエス・キリストの十字架と復活を宣べ伝えました。
 
 主イエスの十字架にこそ、私たちの平和がある。主は十字架を通して、イスラエル人にも異邦人にも、罪の赦しを成し遂げられ、二つのものが一つとなり、復活の新しい命に生きるようにして下さったと告げ続けるのです。
 
 吉祥寺教会で長く牧会をされていた竹森満佐一先生が、エフェソ書についての優れた説教を記しておられます。竹森先生の説教は特徴がありまして、聖書に記されていること以外のことは説教では話されない、聖書の御言葉に集中するようにして話をされています。今日読まれましたエフェソ書の2章の今日の箇所でも、例えばイスラエルとパレスチナのような事柄には一切触れておられません。けれど、それを念頭に置いているのではないかと思えるような言葉は話しておられる、こうあります。
「これは、政治や社会の問題ではなく、神との関係の違いであったからであります。したがって、政治や文化の関係で、この両者を仲直りさせようとしても出来ることではありませんでした。神との関係をどうするのか、ということにかかるのであります。イスラエルも、異邦人も、同じように、神に対して、平和を得るのでなければ、イスラエルと異邦人との平和は出て来ないのであります。」

 イスラエルと異邦人との関係、それは政治や社会の関係で良くなるわけではないと言っています。勿論、そういったものでも良くなったりするでしょう。けれど、それは同じように悪くなったりするのです。それが政治や社会、経済ではないでしょうか。だからこそ神との関係によらなければと話しているのだと思います。

 「神との関係をどうするのか」とは、主イエス・キリストの十字架によってということではないでしょうか。主イエスこそ、相互の違いや、考え方や意見や権利の主張を越えていかれた方だからです。すなわち、神が十字架刑となり、つまり、徹底的に謙って死なれた。弟子たちに向かって「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」(マタイ20章26節)と言われたようにして、そのままご自身が十字架刑に処せられました。

 人が神を十字架に処するほどですから、私たちの罪がいかに重いのかは、言うまでもないことです。
 人の罪の重さ、そこにイスラエル人と異邦人の違いがあるのでしょうか。外国人や寄留者との違いがあるのでしょうか。全く無いとは言えないかもしれません。けれど、それは他の人の事ではなく自分のこととして考えた場合です。

 パウロ自身が「私はその罪人の中で最たる者です。」とテモテの手紙にありますが、しかし、自分がどんなに罪人であったかと思えば思う程に、恵はなおいっそう満ちあふれるともロマ書にありますから、パウロが、本当に宣べ伝えたいと思っていたことは、なによりも主イエスの恵、罪赦された者としての恵みであったと思います。

 ユダヤ人であれ、異邦人であれ、私たちは自分達を日本人と呼びますが、私たちはユダヤ人から見れば、明らかに異邦人ですけれど、日本人であれ、何人であれ、「敵意という隔ての壁」を越えるために求められるものは、十字架による、罪の赦しと、主なる神の恵みです。この恵に生きる者こそが、壁を越えて、新しい命に生きることが出来ると聖書は告げています。

 19節に「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。」とありますように、私たちが何人であるのかを越えて、神の家族として生きていくことが出来る、そう出来るのは、主イエスの十字架の恵によるのだとパウロは一生懸命に伝えているのです。

 私自身の事を思い起こしますと、私は学校を卒業して、岩手から上京して仕事を始めました。最初は埼玉県の熊谷に住みました。けれど、すぐに宇都宮に移り、数ヶ月で浦和に移り、それから東京の小平に住みました。僅か3、4年の間にあちらこちらを転々としました。殆ど放浪の旅をしていたようなものです。一体自分は何者か、一体自分はどうしたいのか、どう生きたいのかよくわからないまま生きていたことを思います。 

 19節に「寄留者」という言葉がありますが、私自身が寄留者そのものだったと思います。寄留者とは、故郷を失っている人のことだと説明がありました、あるいは難民であったと言っても良いかもしれません。私には良く分かるような気がします。しかし、どの町に住んでも自分のいる場所ではないと思うのです。その理由は分かりません。一緒に過ごしていた人々に理由があったのかもしれません。社会に対して「敵意という隔ての壁」を作っていたとも言えるかもしれません。 

 小平から目白に移って、最初はここも自分の場所ではないと思っていたのです。けれど、ここで私は主なる神と出会い教会と出会いました。聖書を読みながら、この私のためにも主イエスは十字架にかかって下さった、こんな私の為にも、ご自身の命さえ惜しまれなかったことを知り本当に感激しました。

 自分でも自分の人生を諦めかけていたのです。どこにも住む場所がない、自分の家がないと人生を捨てていたような者に対してさえ、ご自身が仕える者として現れて下さった方がおられる。私は本当のこの方に捕らえられたと思います。

 当初は聖書を一人で読んで、最初に読んだ聖書に関する本がたまたまだったと思いますが、矢内原忠雄先生の本でしたので、無教会主義という考え方に惹かれていました。ですから、暫くは教会には行きませんでした。
 けれど、暫くするうちに、教会へ通うようになり、教会の礼拝に集うようになる、毎週、毎週の日曜日がどんなに待ち遠しいと思ったことか。

 それは、私の人生の中で、初めて寄留者の自分ではなく、ここにこそ自分は根を張りたいと思った、ここに自分が立つべき家があるそう思っていたからだと思います。その思いは今も、少しも変わることはありません。

 人は人との愛を求めます。その愛に触れると人としてここに、自分は根を張れるのではないかと思うからでしょう。けれど、私はその人との愛を大切にするためにも、神に対する愛を失ってはならないと思う。

 教会は使徒や預言者という土台の上に建てられているとあります。使徒や預言者、その一人一人が生涯をかけて、神の愛を告げた人々です。信仰の先達です。しかし、その神の愛の形として主イエス・キリストが私たちに誕生してくださいました。この方が教会のかなめ石であり、その建物全体は組み合わされて成長する、ここにおられる一人一人が組み合わされて教会となっているということでしょう。

 そして、その教会は、神の住まいでもあります。私たち一人一人、私は願います。イスラエル人もパレスチナ人も、異邦人も、日本人も、何人であっても、「敵意という隔ての壁」を越えて、私たちは神の住まいの中に生きることが出来る。そのことを忘れてはならないと思います。

 竹森先生はまるで預言者のようにして、神の住まいこそが、「新しい天と新しい地を決定するものである」と告げています。
 私たちはそのような神の住まいとしての教会に集えていることに感謝するだけでなく、また、空しい生活を強いられている人々、悲しみの中に、戦いの中に、飢えと貧困、病の中にある一人一人を覚えて、その一人一人にも神が共におられますようにと、主なる神がその栄光を表して下さいますようにと願いつつ、過ごして参りましょう。

 お祈りします。
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二つのものを一つに

2018-07-28 16:07:36 | 礼拝説教
【ホセア書11章】
【エフェソの信徒への手紙2章11~22節】

 聖書には旧約聖書と新約聖書があります。この二つの聖書を合わせて、私たちは聖書と呼ぶわけです。旧約だけでもダメで、新約だけでも足りない、二つが一つになるところで、The Book、聖書と呼ばれます。
 
 聖書を例にしてみましたが、私たちは、私たちの社会にも、二つのものがあると考えているところがあるのではないでしょうか。

 先週の礼拝で、アダムとエバの話をしました。蛇がエバのところへやって来て、この木の実を食べると、目が開けて、神様のようになると誘惑しました。
その誘惑にのったエバとアダムは木の実を食べてしまった。すると、目が開けて自分達が裸であると知ったというのです。この木の実の名前は「善悪を知る木の実」でした。彼らが知ったのは、世の中には善と悪の二つがあると知ったのです。そして善は神で、悪は私たち人間だと知った彼らは、その木の実を食べる前は恥ずかしくなんともなかったのが、自分達が力足らずで、取るに足りない者であることを知ったのです。

 けれど、本来、それは食べてはならない木の実でした。なぜなら、主なる神は人間を造られたとき、「きわめて良かった」と大変喜びました。この世界は、色々なことがあるけれど、私たちにはまだまだわからないことばかりですけれど、神の目からみたら「極めて良い」という一つの世界であったはずです。
 けれど、人はどうしても、善があり、悪があると二つの世界で考えてしまう。そのほうが分かり易いように感じるのです。

 そんな考え方こそが罪なのかもしれません。だから神は、つい、そのように感じ、また考えしまう私たちの為に、主イエス・キリストを人の子として送って下さいました。
 この方は、私たちの平和であり、二つのものを一つにされた方として、私たちの世界を生きられました。善と悪、例えば、イスラエルの人々から見れば、イスラエル、ユダヤ人は神から特別に愛された神の民であって、それ以外の人々は異邦人です。ユダヤ人が善であり、異邦人は悪でした。
 けれど、ガラテヤ書3章には「そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」とあるように、全ての人が神の相続人として一つとされたとパウロが告げるように、主イエスの肉によって、すなわち十字架によって、全てのものが完全に和解し、一つとなれると告げているわけです。

 先ほどエフェソの信徒への手紙2章11節から読んで頂きましたが、14節から読みますとこうあります。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」

 ここに「規則と戒律ずくめの律法」という言葉があります。この律法、ひっくり返せば法律となりますが、法律は人が作ったもの、律法は神が人に与えて下さった教えと考えれば良いと思います。この律法はイスラエルの人々にとっては、特別な教えでした。自分達が神の民として生きている証拠のようなものでした。しかしまた、この律法こそ様々なところで隔ての壁を作っていたと思います。神の民であるユダヤ人の中でも、律法を守れる人は、神に義とされ、守れない人は罪があると考えていたわけです。

 ある時に、主イエスはこう話されました。自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して話されたとあります。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしは他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くにたって、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。誰でも高ぶるものは低くされ、へりくだる者は高められる。」ルカによる福音書(18章)に記されている御言葉です。

 皆さん、どうでしょうか。私たちはこの譬えを読んでみて、自分はファリサイ派の人のようだと思うでしょうか。あるいは徴税人のような者だと思うでしょうか。徴税人はあのザアカイの話もありますが、税金を取り立てるだけでもなく、神の民としてはローマの支配に身を寄せて生活する裏切り者であり、罪人の象徴のような人と思われていました。でも、神様は、この徴税人が祈った祈りを義とされた。ですからやっぱり、自分も、この徴税人のような者ですと思うのではないでしょうか。

 元々、プロテスタント教会の信仰の印は、信仰義認です。行いによって義とされるものではなく、信仰によってこそ主なる神から義とされると教えられ、また、それによって私たちも救いに預かることが出来ると教えられます。ですから私たちも「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈るしかできないのだと思います。

 けれど、どうでしょうか。わたしはこの説教を考えながら、先日の家庭集会の事を思いだしました。Mさんのお宅で行われた家庭集会、とても素敵な良い家庭集会でしたが、礼拝を終えて、共に食事をしながら色々な話をしました。その際に、何かの拍子にどなたかが、知り合いにフィリピンの方がおられて、その方はクリスチャンだと言っているけれど、女性はスカートだけが許可されていて、スラックスやズボンはダメという教えがあると聞いたのですが、どんな教えですかと聞かれたのです。私も初めて聞きましたが、でも、それはエホバの証人とか、そういった宗教ではないでしょうか。と申しましたら、そうではなく、キリスト教だと言っているというのです。
 特段、特別で、深刻な話でもなかったのです。ただ、その後、海老名にはエホバの証人の大きな施設があるという話しや、少し新興宗教と呼ばれるグループの話になって、あれこれと話しました。その時のことを思い出したのです。つまり、私たちは、つまり、私も含めてどこかで、「神様、罪人の私を憐れんで下さい。」と祈りながら、続けて、「神様、私はエホバの証人でもなく、スカートしか履いてはならないといった宗教でもなく、新興宗教を信じているのでもないことに感謝します。私は、教会に来て、礼拝を守り、献金を献げています。」と祈るとしたら、私たちは果たしてファリサイ派なのか、徴税人なのか訳がわからなくなるのではないかと思いました。

 私は罪人ですと祈る。自分は罪人であることを自覚する。そのことは教会において、礼拝において、繰り返し、繰り返し話され、教え、教えられます。けれど、同時に私はあの人のような謙遜の足りない人ではない、あの人のような言葉を他人に語り掛けることはしない、あの人のようにしゃしゃり出るようなことはしない、なぜ、あんなことを平気で出来るのか、わたしは違うと思っているとしたら、私たちは果たして、どちらなのでしょうか。

 ファリサイ派と徴税人の違いがどこにあるのかというと、それほど難しくはありません。ファリサイ派は、他人と自分を比べて自分を正しい人としているのに対して、徴税には誰とも比べていないということです。徴税人はただ神様にのみ訴えかけ、祈りをささげています。他者に関心を向けるほどの余裕が無かったのかもしれませんし、その必要もなかったかもしれません。ただ、主なる神の憐れみに頼るしかなかったとも言えるでしょう。
 
 もう一度、ファリサイ派の人の祈りに注目してみますとこう祈っています。「神様私は、他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく」とあります。「週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」とあります。この祈りの基準は律法にあります。あの主なる神がシナイ山において、モーセに教え、石の板に刻み込んだ十戒をはじめとする律法、ファリサイ派の人は、この律法を守っていますと祈ったということでしょう。
 
 このことが何を意味しているのかでしょうか。
 私たちには、旧約聖書の時代に生きた人々のように、律法があるわけではありません。けれど、私は、自分が自分なりの律法に生きていて、あるいは自分なりの律法を心の中にもって、つまりやっぱり自分なりの善と悪という考え方に生きていると、どうしてもファリサイ派の人の祈りのようになってしまうのではないかと思うのです。

 私たち一人一人が自分の律法を持って、人を見て、人を計り、人を評価しているのではないか、そして、それが自分では、まるで当たり前の事ですから殆ど自覚していない、そこに人の罪の深さがあるのではないかと思うのです。

 律法の特徴は、「何々しなければならない」、「何々してはならない」、「何々でなければならない」と言った、規則と戒律です。
 
 例えば、自分は完璧でなければならない、という人がいたとします。そういう人は、零点か百点のどちらかしかないと考えるわけです。頑張れば百点を取ることもできるでしょう。けれど人生はテストではありませんから、全てを完璧に生きることは出来ません。そうなると、自分はダメだなと思うのです。自分は情けなないと思うのです。自分で自分を責めるわけです。
 
 例えば、長男、長女の人は、いつでもお兄ちゃんであり、お姉ちゃんです。時に、父親代わり、母親代わりとなったり、弟、妹の手本にならなければと思う。人の世話をしなければと思ったりするのではないでしょうか。
 
 例えば、学歴でプライドや劣等感を持っている人がいます。この間、ある方と初めて話をして一分も経ったか、経たないかで、いきなり「先生は、どこの大学を出られたのですか」と聞かれて、ビックリしたことがありました。どんな思いで聞いて来られたのかよく分かりませんが、どこの大学を出ようとも、あるいは出ないとしても高卒であろうと、中卒であろうと自分は自分であればそれで良いとは中々思わないし、思えないのかもしれません。良い学校、でなければならない。良い会社でなければならい。そう思っている方、多いのではないでしょうか。

 例えば、幼稚園のお母さん方と話していますと、自分は立派な母親でなければならない、と思っている方が多いとも思います。ダメなところも自分、足りないところも自分、中々そう思えないし、そう思えないから、いつも自分に対しても、子どもに対しても腹が立つのですと言っても中々わかって貰えない時があります。

 そのようにして、私たちの心の中には、実に様々な自分の律法があって、そしてそれによって、時には他人を裁き、自分を裁いて、どうも生きていくのが大変だと思う。どうして、自分の人生は上手くいかないのかなと思ったりするのではないでしょうか。
 だから、どうするのかエフェソの信徒への手紙2章14節からもう一度読みますが、「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」
 主イエス・キリスト、この方こそ私たちの平和です。なぜなら、二つのものがあって、善と悪が世の中にあって、善に生きなければならない。そうでなければならないと思う私たちに、二つではなく、一つの世界がある。ローマの信徒の手紙の8章に、万事が益となるように共に働くのだとありますように、人の目には善であったり、悪であったり、プラスと思ったり、マイナスと思ったりする一つ一つが、神の御手の中で、一つにされていく、そういう世界観を私たちは生きていけるのだと思います。

 世の中には、世の中と神の世ではなく、人の世という意味です。そのような世の中には、沢山の目に見えない律法があります。そのような律法が手枷、足枷となって、私たちの人生が翻弄されないように祈りながら、主にあって、一つとなって私たちは生きて参りましょう。
 お祈りします。
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恵みの時、救いの日

2018-07-17 09:04:29 | 礼拝説教
【ヨブ記38章4~7節】
【コリントの信徒への手紙二 6章1~10節】


 思いがけなく、先週の金、土は教会員のTさんの葬儀となりました。水曜日の祈祷会の、まさに共に祈り始めようとするとき、夜の8時過ぎでしたが息子さんから電話が入りまして、「今、母が召されました。」と告げられました。

 後で気が付いたのですが、電話の前に私の携帯にメールが入っていまして、そこには「今、母が危篤です。お祈り下さい」と短くありました。その時間は7時54分、そこからわかることは、息子さんも話しておられましたが、Tさんは殆ど苦しむことなく、あっという間に召されていかれたのだろうと思われます。

 これから抗がん剤治療を行う予定になっていたそうですが、その苦しみを思うと苦しむことなく召されたのはある意味においては、神様の思いがそこにあったのかもしれませんと話しておられました。
 息子さんご夫妻は本当にTさんの為に、献身的な世話をしておられました。ご主人をホームに移してから、Tさんは一人暮らしになりまして、一人暮らしですけれど、元々、一人では暮らしていける状態ではなかったと思います。
ですから朝に、昼に、夜に、食事の準備の為に義娘さんが通われたり、息子さんが泊まり込んだり、そして、ついにお二人はTさんの為に、生活の拠点をTさんの家に移した程でありました。それでも、色々な面において、ギリギリの生活だったと思います。Tさんは5月27日の礼拝に息子さんご夫妻と共に出席されておられますが、その時には、ご夫妻には一つの覚悟のようなものがあったのかな、今となって改めて思わされてるいわけです。

 そして、またTさんが亡くなった二日前のことですが、教会に電話がありまして、ご存知の方も多いと思いますが古い教会員で、今はM教会の礼拝に連なっておられるWさんからの電話でありました。お嬢さんが召されたというのです。
49歳であったと言うのです。本当に驚きました。驚きましたけれど、Wさんは私にこう話して下さった。正確ではないと思いますが「人の命は、人間ではどうすることも出来ません。神様が決められることだから。」そういうことを話された。
本当にお辛いと思いますけれど信仰をもってそう伝えて下さいました。それから「でも、先生、先生のテレフォン・メッセージを聞かせると博子はとっても喜んでいました。」と言って下さいました。
 ですからこちらの方が恐縮してしまいました。考えてみれば、今の時代は、携帯電話やスマートフォンは、誰もが持っている時代ですから、病院で聞かせることも出来るのだとわかりまして、ですからつまりは、人生これからテレフォン・メッセージを頑張ってくれということだと思いますので、頑張っていきたいと思うのです。

 話は変わりますが、先日から昼の祈祷会で創世記を読み始めました。いま5章まで進みましたが創世記の3章に記されていることは、蛇の誘惑に乗ったアダムとエバがエデンの園から追い出されたという話しです。園の中央に植えられていた二本の木、善悪を知る木と、命の木、この二本の木の実は食べてはいけない、と言われていたのに、蛇がエバを唆し、誘惑して食べても死なないからと言って食べさせて、エバは、その実をアダムにも渡して、二人で食べてしまうわけです。
この出来事は様々な示唆を私たちに与えていると思います。一つは蛇が誘惑したという点です。蛇は「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開ける」と告げました。
 目が開けるとは、あなたは、まだ目が開いていない、あなたはまだ物事がわかっていないということでしょう。もし、私たちの所に、どこからか賢い人がやって来て、あなたはまだ目が開いていない、物事がわかっていないと言われたとしたらどうでしょうか。私などは、すぐにあ~そうなんだな、まだ何もわかっていないのだなと思ってしまう。つまり、自分ってダメだなと思うのです。蛇は間接的に、あなたはダメだと伝えているのです。

 そしてダメなあなたが、この木の実を食べると「目が開ける」つまり、ダメでなくなるよということでしょう。ですから誘惑なのです。人はダメでない自分になりたい、そう思うからです。

 アダムとエバもダメでない自分になりたいと思ったのではないでしょうか。その誘惑に負けて善悪を知る木の実を食べてしまいました。
 しかし、その善悪を知る木の実を食べた後、二人はどうなったのか、ダメでなくなったのか。全くその逆になりました。目が開けて、自分達が裸であると知りました。二人はあわてていちじくの葉を綴り合せて、腰を覆うものとしたとあります。それから神の前に出ることが出来なくなった。なぜか?

 目が開けて、はっきりわかったのは、自分達は裸で、とても人前には、この場合は神の前になりますが、出られない、自分達は何も知らないし、何も出来ないと知ったからです。善悪を知る木の実の正体は何か?この木の実を食べたことによって、人の心の中に「善悪」という概念が生まれたと言うとでしょう。人間の心の中に、善と悪があると分かったのです。本来、神様こそが、善と悪を決められるはずだったものが、人が決められるようになった、そして少なくとも、アダムとエバは益々自分達はダメなものだと、取るに足りないものだと判断してしまいした。自分は取るに足らないものだと思うと生きる勇気が湧いて来ないのです。

 自分は取るに足らない者だと思えば思う程、人は人生を憂いて、内向的な人は家にこもって引きこもりのようにもなりますし、外交的な人は人生を憂いて、外に出て人を傷つけるようにもなると言われています。

 ですから主なる神が聖書を通じて一貫して私たちに伝えていることの一つは、「善悪を決めるな」ということです。本来、善悪を決める、それは神の業であるはずなのに、人が善悪を決める、まさにそこで、様々な問題や、葛藤、また、争い毎を起こすのではないでしょうか。
 
 ヨブ記という箇所を読んで頂きましたが、ヨブ記の中心も神の正しさとは何か? と言う根本的な問題を取り扱っている物語だと言えます。健康でしかも裕福であったヨブが、神様とサタンとの会話の中で、ヨブからすれば思いがけず財産が取られる、牛、羊、らくだ、家族が取られていくのです。
 けれどヨブは嘆きつつも「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。」と言って神を呪うことはしませんでした。しかし、更にヨブには試練が与えられ、ヨブ自身が頭から足の裏まで酷い皮膚病になり、体中をかきむしるほどの重い病気になるわけです。ヨブは「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と言って神を呪うことをしませんでした。

 しかし、そこから、ヨブと三人の友と、後に一人増えて四人との会話が続くのです、友達は、神様が何もしていない者に対して、罰を与えられるようなことはしないはずだから、ヨブよ、あなたは悔い改めて、神に懺悔しなければならいと迫ります。けれど、ヨブにしてみれば、神に対して何も罰を受けるようなことはしてないし、思い当たるところもない、と自分の正しさを主張するのです。

 この四人とヨブとの果てしない会話が実にヨブ記の8割を占めて、3章から37章まで続くことになります。
 結論からいいますと、38章になりまして、ここで主なる神が登場してヨブに話しかけます。38章の4節から読みますが「わたしが大地を据えたとき お前はどこにいたのか。知っていたというなら 理解していることを言ってみよ。誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。基の柱はどこに沈められたの。誰が隅の親石を置いたのか。」

 つまり、ヨブよ、この世を作ったのは誰で、誰が神であり、誰が善悪を決めることが出来るのかと、主なる神がヨブに迫ったのです。ヨブに、善悪を決めるのは、あなたではなく、このわたしであると宣言している場面なのです。その宣言において、「わたしはそれに限界を定め 二つの扉にかんぬきを付け「ここまで来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」と命じた、とあります。二つの扉にかんぬきとは何か、私は、この扉こそ、命の扉ではないかと思うのです。

 人は善悪を知ることによって、ヨブと友達との間に見られるように、絶え間ない争いを起こします。しかし、人は人の命を自分で決めることは出来ません。どんなに医学が進歩しようとも、どんなに衛生面、環境が整っても、人は命を自分では決めることが出来ません。なぜなら、聖書的に言えば、人は「命の木の実」を食べていないからです。

 ですから、どんなに医学が進歩するとしても人の命は神の御手の中にあるのだと思います。神が決めて下さるところで、私たちの地上の命があるのです。

 だから、大切なのは、長寿であることにこしたことはないとは思いますが、しかし、残念ながら誰もが願う年月を生きられるわけでもありません。だから、大切なのは、その人がどう生きるのか、生きようとしているのか、どう生きているのか、そしてどう生き切ったのかという点ではないでしょうか。

 本日の説教題を「恵の時、救いの日」としました。読んで頂いた新約聖書コリントの信徒への手紙6章2節に記されているみ言葉です。使徒パウロが私たちに伝える御言葉「今や、恵の時、今こそ、救いの日」パウロはこの御言葉を喜びにあふれて告げているわけではありません。
 元々コリントの信徒への手紙は、喜びの手紙として記しているわけではありません。むしろ、パウロがあらぬ誤解を受けて、主イエスの福音から離れて行こうとする人々へ、誤解しないでいただきたい、主イエスから離れてはならないと一生懸命に書き記している手紙です。
 そしてこれまで、自分がどれほどの忍耐を持って主イエスの福音を宣べ伝えてきたのかということを書き記しているのが今日読まれた箇所となります。

「今や、恵の時、今こそ、救いの日」として生きていくために、必要なことは忍耐だというのです。例えるなら諦めないということです。

 諦める理由は幾つでも挙げることが出来ます。「いや~、今不景気だしなぁ」「もう、歳だしなぁ」、「何回かやってみたけれどだめだったからなぁ」そうやって自分達は自分達が考える善悪の中で、判断するのではないでしょうか。しかし、そこで神の命が生き生きとしてくるわけではありません。生き生きとしてくるのはその逆です。

 一晩中、漁をして、一匹も採れなかったシモンに対して主イエスは「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。シモンは「イヤ~、先生、無理ですよ、だって一晩漁しましたもの。これから採れるわけがないでしょう」とは言いませんでした。「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」その結果は、2そうの船が沈みそうになるほどの魚が取れたのです。

「今や恵の時、今こそ救いの日。」主の恵は私達の力や思いを超えて、多くの祝福を与えて下さると信じている人にこそ、神は豊かに与えて下さいます。

 皆さん、だから様々な誘惑に惑わされない事です。惑わされない為には、命の主である神につながることです。私はぶどうの木、あなた方はその枝であると主イエスは話されました。ぶどうの木を植えると凡そ5年で成木になるそうです。そして、最も元気な時期が15年から20年ぐらい。30年ぐらいで衰えが見え始め、すこしずつ、ぶどうの房をつけなくなる、物によっては50年から80年、長ければ100年ぶどうは生きるそうですが、だから、最盛期を過ぎぶどうの木をどうするのか、切ってしまわれると思いますか、切らないんですね、なぜなら、最も実りのある15年から20年ぐらいのぶどうの実からのワインはいわば流通しているワインの味だそうです。高級な深みのあるぶどう酒は50年以上たったぶどうの木に実る実で造るのだそうです。

 何かそのまま、人間の人生を見ているような思いもいたしますが、段々年を取る、しかし、もう人生も、先が見えて来たかなと思う頃から、実は、本当に味わい深い人生が始まるのではないでしょうか。益々命が燃え上がるように主がそのように定めておられるのではないでしょうか。幾つになっても、そこに深い味わいのある人生がある。その事を私達は覚えて歩んで参りたいと思います。そのようにしてTさんも生きてこられた一人でありました。

 人の幸せ、不幸せは、善悪によって決めることではありませんし、物でもありません。勿論、歳でも無い。財産でも無いでしょう。

 与えられた今を常に喜ぶことです。悲しみも、苦痛も、沢山抱えながら、けれど、その時、その時、今や恵の時、今こそ救いの日として、この日に与えられる恵に感謝出来る人、そこにこそ幸いがあるのです。私たちはそのように生きていきましょう。  お祈りいたします。
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神の作品

2018-07-04 09:37:01 | 礼拝説教
【創世記2章1~9節】
【エフェソの信徒への手紙2章7~10節】


 金曜日に教会で一つの集まりがありまして、家内との関わりの中で、福地さんと言う方が講演会を開催されました。「子どもの命を守りたい」というタイトルで、現代の環境問題についてのお話をして下さいました。30名近くの皆さんが集まったと聞いています。私も後半少しだけでしたが、お話を伺いました。
 そこに一人の若いお母さんが来ておりまして、来年幼稚園に入る年齢のお子さんを連れて来ておられました。そのお母さんは深く帽子をかぶっていたのですが、どうしてかというと、今、ガンとの闘いの中にある方でした。病気について深い内容はよくわかりませんけれど、手術をされて、治療のために、今実家に戻って来ていて、それでドレーパー記念幼稚園が月曜日に行っている就園前の親子に園庭を開放している「たまごぐみ」に通いながら、金曜日の講演会にも出席されたのだと思われます。

 家内の話ですと、実家はこちらでも、ご自宅は相模原なので幼稚園に入園するのは難しいかもと言っていたそうですが、この幼稚園はとても良いと言って下さっていたと聞きました。
 ドレーパー記念幼稚園はキリスト教の教えを土台とした幼稚園として、また、その教育目標には「信仰と希望と愛」を置いております。

 幼稚園のホームページにはこうありました。

「私たちを創造された方を知る「信仰」、どんな時も、諦めず、希望を持って歩める「自信」、隣人に暖かな眼差しを向けることが出来る豊かな「愛」を育てたいと願い、ドレーパー記念幼稚園は歩んで参りました。これからも力強く歩みつづけて参ります。子ども達の人生の確かな土台作りを、ドレーパー記念幼稚園で御一緒出来たらと心から願っています。」

 キリスト教を土台とするという考え方の中に、「自由保育」という考え方があります。子どもたち自身がやりたいと思うことが沢山やれる。子どもにとっては大きな喜びであろうと思うのです。

 ですから幼稚園まではとっても楽しい。けれど問題は園を卒業して小学校に入ると特に公立の小学校などは、そこはキリスト教主義の考え方ではありませんし、考え方としては一人の教師に30人、35人の子ども達となって、みんな自由でいいんだよとは教えられない。現代の学校の先生は中々、優秀な先生方ばかりだと言われますから、先生方の努力もあり、また、子ども達も友達が出来たり、新しいチャレンジが始まったりしながら順調な成長を遂げていくのだと思いますが、しかし、ここで言う順調な成長とは、みんなと同じように動き、みんなと同じように考え、みんなと同じように話すような子ども達であればあるほどに、順調な成長と言われるのではないでしょうか。

 なにもここで私は教育の問題について話すつもりではありませんけれど、例えるならば学校教育とは、勿論色々な面がありますが、子どもの製品化を目指しているのではないかと言ったら言い過ぎでしょうか。製品の特長は、どれも皆同じという考え方です。一つの製品にばらつきが見られたら、それらは不良品と呼ばれ、製品に対する信頼を失います。ですから大切なことは皆が同じであることです。皆が同じように行動する、同じように理解する、それが良いとされる。それは例えるなら、教育という形の隠れた未来の兵隊を作っているとも言えると思います。

 少し難しい言葉でヒドゥン・カリキュラムという言葉ありまして、「隠された学習」とでも訳するのでしょうか。

 例えば先日、大分話題になりました日大のアメフト部の学生があからさまな、誰にでもわかる反則をした。なぜ反則をしたのか、そうするように促されていたと学生は言っていますし、監督、コーチはそんなことはないと話していましたが、たとえ明確には言わないとしても、もうそうする以外には道が無いように思い込ませてしまう。監督、コーチには逆らえないと思い込んでしまう。つまり、立派な兵隊になっていくということです。けれど、あの出来事は、私たちはそのようにして画一化されていけばいくほど、製品化されればされるほど、自分自身を失い、物化されていくことの恐ろしさを明確に示していると思います。

 そして、自分達が生き生きと生きられなくなり、自分が自分であってはならないと言われれば言われるほどに、学校に行けなくなったり、引きこもったり、精神的に辛くなっていく、そういう子供や、若者が増えているのが現代ではないでしょうか。

 けれど、そんな学校でも生き生き、伸び伸びと生きる子どもたちも勿論沢山いるわけです。どんな子供たちがそうかというと、基本的に、勉強が良くできる、運動が良くできる、人間関係も上手であったり、部活でも活躍していたり、そういう子供たちには高い評価が与えられます。子ども達も自信があるでしょうし、少しも悪いことではありません。けれど、あえて言うとすれば、その自信が、人と人との比較の中で、比べられる中で付けられた自信だとしたら、他人より上回っている状態のときは自信を持つのですが、いつのまにか下回っていることを知ったら急に自信を失い、力を失い、気力を失っていくとしたら、どこに問題があるのかと言えば、そういう子どもたちは製品ではないかもしれませんが、商品として生きている、と言えるかもしれません。

 商品の特徴は、様々な製品の中にあっても特別に価値があるということです。

 今年一番のお勧めの商品はこちらです。と店のポスターやテレビのコマーシャルでやっているように、これこそ価値がある、他よりも優れている、そういう商品化されていく人間の問題は、その時はよくても、それは次の商品が販売されるまでの間だということです。

 私たちは、良い学校、良い大学、良い会社、良い結婚、良い家庭、良い老後を思いますし、願います。誰でも願います。先日、前任の鈴木伸治先生が記していた文章を読んでいましたら、今のお住まいのご自宅の土地を購入する経緯や、立て直して新築の家にすることにした経緯などが記された文書がありました。仕事を辞めた牧師がまず困るのは住まいのことで、それが困らないことになったのは本当に幸いです、とありました。

 そんな文章を読みながら、自分はどうなるかなと不安になったわけですが、何も紹介するほどでもないかもしれない、何気ない文章かもしれませんけれど、私たちはいつの間にかやっぱり、あの人に価値があるのか、無いのかで見ているのだと思うのです。そして次に、自分にはそういう価値があるのか、無いのかと見るのです。子供の頃はまだ良いとして、働き盛りの頃はバリバリと働くので良いとして、けれど、だんだんと年を取り、定年を迎えたり、仕事を辞めるときがやって来たりして、そして、あ~もう自分には価値が無くなってしまったと思ってしまう。

 また人からもそう見られているとしたら、なんと寂しいことではないでしょうか。だから私たちは製品人生になってもいけませんけれど、そんなふうな商品人生になってもならないと思います。

 今日の説教題は「神の作品」です。エフェソの信徒への手紙の2章10節にこうあります。「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。」「わたしたちは神に造られた」とあります。
 
 神に造られた者とは、製品でもない、商品でもない、この世界に一つしかない、誰とも代えられない。あたかも芸術家が一つの作品を作り出していくように、大切な作品、しかも神の作品だと聖書は記すのです。

 だから、あ~自分は、製品でもないし、商品でもない、この世にただ一人の神の作品として生きて行けばいいんだと思うわけですが、けれど、同時にこれまで培ってきた、製品としての自分、商品としての自分と別れるというのも簡単ではありません。

 ある実験があって、コップの中にノミを5匹入れるのだそうです。でも、ノミですからね、ノミの跳躍力は自分の体の150倍だそうです。体調2ミリとすれば30㎝は飛ぶことになります。コップなどはすぐに飛び越えてしまいます。けれど、そのコップに紙とかラップで蓋をしてしまうと、何回飛んでも飛び越えられない。飛んでも飛び越えられないとわかると、それ以降はもう飛ぼうとしなくなるというのです。蓋を取っても飛ばないのだそうです。自分で自分の限界を決めてしまう。ですから、もはやコップからは出られなくなってしまう。ノミが例えで申し訳ありませんが、自分の人生はこんなものだと思う、あるいは自分はこういう人間だと自分で決めつけている方がとても多いと思います。そういう方は、一つの定まった思考回路になっていて、いつも同じところでグルグル回ってしまう、これが自分の人生と諦めてしまっている人案外多いのではないでしょうか。
 
 でも、この飛べなくなったノミがまた飛べるようにする方法があるそうです。どうするのか、そのコップの中に、新しいノミを一匹入れるのだそうです。そうすると、そのノミは軽々とコップを越えて飛んでいってしまう。それを見て、他のノミもまたやってみようと思うらしい。
 
 皆さん、このことが何を意味するのか、私たちは神の作品です。主なる神がいつも私たちと共にいて下さる。創世記の2章を読みましたが、私たちの命は神の息によって生きる者となったと記されています。
 
 昔の科学者は人間の体が全部で17の主成分で出来ていると考えました。中心的な成分は四つ、水素、酸素、炭素、窒素、この4つだけで殆ど99%になります。他にもカルシウム、鉄、塩素、硫黄、ナトリウム、リンと少しずつ必要な成分があって、しかもその全部が土の中に含まれる成分なのだそうです。ですから私たちはやっぱり土の塵で出来ているのです。けれど、昔の科学者ですから、この17の成分を足してみたら、どうしても100%にならなかったそうです。0.00何パーセントか足りない。ですから当時の科学者は、その残りは神の息ではないかと考えたというのです。勿論、現代科学では、そのわずかな成分は何かまで完全わかっていて100%になることでしょう。
 
 けれど、だから神の息は、私たちに入っていないと誰が言えるのでしょうか。私たちは主なる神の作品です。神の息は聖霊でもあって、その聖霊が弟子たちの上に降った時に教会は誕生し、教会の力として主イエス・キリストは私たちの作り主であると福音を宣べ伝えて参りました。この方がおられるからこそ、私たちは生きていける、この方の愛によって生きていける、主イエス・キリストを、主なる神を私たち人間は見ることは出来ません。けれど、だからこそ、主なる神を信じる、私たちを見てごらん、試練のままに留まらず、試練を突き抜けていく力を持っている私たちを見てごらんと、神の作品とはこういうことだと示し続けながら生きていきたいと願うのです。

 アメリカに、ノーラン・ブッシュネルという人がいます。この人の偉業は、テレビゲームを最初に開発した人、「テレビゲームの父」だと言われているそうです。ニューズウィークという雑誌がありますが、その中で世界を変えた50人の中にさえ入ると言われているそうです。その当時、テレビは見る物だとしか考えていなかった時代に、本当にテレビは見るだけのものだろうかと、心を柔軟にして、柔らかくして、見るだけなく、自分が操作できるテレビゲームを開発して、テレビゲームだけでなく、コンピューター社会の先駆けを作り上げた人でもあります。この人の会社にあのアップル社を作った、若い頃のスティーブ・ジョブズがいたことはよく知られている話だそうです。
 
 ブッシュネルはこう話しています。「熱意を失うことなく、失敗に失敗を重ねることです。失敗を恐れずにいろいろな計画に打ち込むことです。わたしは一度ならず的をはずし、3回、4回と失敗を重ねました。しかし、人々が覚えているのは私の成功だけです。」私たちも、もうだめかな、無理かなと思う。いつでもそう思うのです。いつも遠くまで飛べるノミの状態でい続けることは難しいかもしれません。

 だからこそなお、主なる神は私たちに告げておられる。あなたは私の「神の作品だ」あなたは神の作品だ、あなたは神の作品だと訴えかけて下さいます。だから大丈夫と繰り返し、繰り返し自分の心に訴えかけて、頭で理解して、頭で理解したことを体で理解して、体が分かったことを、魂で分かって、魂で分かったことを、自分の人生で受け止めて行きたいものだと思うのです。
 
                                                                                                      お祈りします。
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