日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

憐れみ豊かな神

2018-06-26 10:27:17 | 礼拝説教
【エフェソの信徒への手紙2章1~8節】

 先週の木曜日、座間の家庭集会を終えて、私は横浜にあります蒔田教会で、母校の神奈川支部の研修会に参加いたしました。その研修会に先立って、礼拝が執り行われまして、溝の口教会の飯田輝明先生が説教の役割を担って下さいました。「寄留者」という説教題が付けられてありました。

 飯田先生は恐らくですが、60代中頃の先生ではないかと思うのですが、最初、子どもの頃に抱いていた60代という話しをされた、自分が子どもの頃、描いていた60代は既に現役を退いて、朝になったら家のリビングでくつろいで、新聞を手にとってお茶を飲み、子どもや孫に囲まれて寛いでいるであろう自分を想像して楽しみにしていたというのです。それが、神様の導きの中でいつの間にか神学校に入学して、卒業後に赴任した教会は北海道の興部教会というオホーツク海に面している地域の教会でありました。
 私はその頃から飯田先生と、少しの関わりを持っておりましたが、北海道のオホーツク海が見えるような場所の牧師になられるなんて、驚きもして尊敬しておりました。私自身、最初の任地は岩手の花巻ですが、岩手にいても北海道と言われると、寒そうでしり込みしそうな思いになります。神奈川出身の飯田先生ですから本人もまさかこの場所と思われていたかもしれません。けれど、それから10年ほどでしょうか、東京あきる野市にある教会に移って来られました。その頃私も町田におりましたので、同じ地域となりまして何度か顔を合わせて話を交わしたと思います。けれど、それからまた数年で、鹿児島の大きな教会に赴任されていかれたのです。ですから北海道、東京、九州と凄いなと思っておりましたら、数年前に神奈川県の教会に来られた、飯田先生自身、まさか、日本の北から南までこんな風になるなんてと苦笑いされながら、それぞれの教会で起こった出来事や、苦労した話などをされながら、つまりは子どもの頃に描いていた60代と大分違うという話しをされようとしたのだと思います。

 そして、そんな話をされながら、いつでも、またどこにおいても私たちは、信仰者としては本当の故郷は天にあり、多くの信仰の先達がそうであったように地上では寄留者であって、主なる神がおられる天を仰ぎ見ながら、礼拝を守り、礼拝を献げる神の民でありたいものですと話して下さいました。

 話を伺いながら、また、改めて私たちは礼拝する民であると思いを新たにしたわけですが、私たちが礼拝を守る、礼拝を献げる、その意味を思う時に、私たち、特に現代人にとって大切なものは何かというと、最も大切なもの一つに「時間」があると説明した先生がおられました。

 その時間を、誰でも一日24時間与えられている時間を、自分がどのように用いるのか、私たちは意識して、あるいは意識しなくとも一つ一つの行動に優先順位をつけて動いているはずです。ですからその人がどのようにして時間を用いているのかとみていけるとしたら、その人の価値観や考え方まで分かるだろうというのです。
 私たちは毎週日曜日の、この時間に、私たちの時間を取り分けて礼拝にあずかります。それはこの社会の人々に対して、神を中心とする生き方がこの世には存在し、そしてそれを大切に守る民がいることを明かし続けている生き方であると思います。

 ですから、北海道であろうと、九州であろうと、神奈川であろうと、場所の問題ではなく、その場で行われる礼拝そのものが私たちは一体何者かを証明しているのだとも言えるでしょう。

 となると、実は礼拝そのものが伝道であり、宣教であり、逆に考えれば礼拝が疎かにされるとしたら、自分達の信仰が問われ、この世からキリスト教はいい加減な宗教であるとも言われかねません。

 ある「礼拝」についての著作の中に、少し前の話ですが、まだ社会主義国であった頃、ポーランドのワレサ委員長がやってきたというのです。ワレサ委員長を取り囲んだ新聞記者に、ワレサ委員長はクリスチャンでしたので、しきりに礼拝の時間を気にして、教会のある場所や時間をしつこく聞いて来たというのです。ですから一人の記者が、「ポーランドは社会主義国なのに、どうしてあなたは日本の礼拝の時間をそんなに気にされるのか」と聞いたそうです。そしたら「はい、でも、あなたの信じる宗教は何ですか」と逆に問い返された記者が答えに詰まっていたら、「私は何を信じてあなたは生きているのか、という意味で聞いているのですが」と更に問われて、更に答えに詰まってしまった記者を見て「人間がものを信じないで生きているという意味が、私にはよく分からない、あ、申し訳ない、もしかしたら時差と通訳のまずさで、私はあなたの質問の意味を取り違えているのかもしれません。」と言ったというのです。

 この話は、同志社大学で教えておられる越川弘英先生が記した著書の中で紹介されている話ですが、越川先生は現代の日本人だけの問題でもないと記しながら、現代人は、それが「なんの役にたつのか」あるいは「役にたたないのか」によって分ける一つの尺度があるのではないかと指摘します。この指摘が意味することは、神は自分にとって役に立つのか、役に立たないのか、神から自分が得るものは何か、私は礼拝によって何を得ることが出来るのかが中心となっているのではないかとありました。

 いつの間にか、人が神に対して礼拝を献げる基準が、自分の役に立つのか、立たないのかになっているとしたら私たちは大切な物を見失っているのではないでしょうか。ルカによる福音書の17章11節以降に「重い皮膚病を患っている十人をいやす」という物語があります。主イエスがエルサレムに向かう途中に、重い皮膚病を患っている十人の人が主イエスを出迎えて、けれど近くには近寄れないものですから、遠くから大きな声で「イエス様、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫ぶのです。主イエスは深い憐れみを示されて、彼らに対して「祭司たちの所に行って、体を見せなさい」と告げます。そう言われた彼らが祭司の所に向かっていく途中で、自分達の病がいやされたことを知り喜ぶのですが、たった一人だけが大声で神を賛美しながら主イエスの所へ戻ってきました。そして主イエスの足元にひれ伏して感謝しました。その姿を見て主は「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。」と告げて、その一人を立たせて「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と告げたという話しがあります。

 自分の願いが適った途端に神の憐れみを忘れてしまう人の姿を、そこに見るような思いも致します。

 今日読まれました聖書箇所はエフェソの信徒への手紙の2章という箇所です。その4節から読みますとこうあります。「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストを共に生かし、あなたがたの救われたのは恵によるのです。キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」

 私たちがなぜ礼拝を献げるのか?その目的の一つは「神の憐れみを希う」ところにあるのではないでしょうか。古来、礼拝は、大きく分けて五つに分けて成り立っていました。一つが主に憐れみを希う、キリエ。二番目が神の栄光をたたえるグローリア。三番目が、信仰を告白するクレド。四番目が感謝を意味する、サンクトゥス。そして五つ目が平和を願う、アニュス・デイ。 神の子羊と訳される言葉です。それぞれが役割を持って、賛美の歌声に合わせ、また、み言葉が読まれ、聖餐式が執り行われ、感謝と平和を願い、派遣されていくという礼拝です。

 プロテスタント教会も、基本的にはそのような流れに準じて礼拝を守っているわけですが、私個人としては、キリエあるいは、キリエ・エレイソンと呼ばれる「主よ、憐れみ給え」と願う場面がプロテスタント教会の礼拝の中で、少し薄くなっているのかもしれないと思います。

 ですから、私たちは尚更、主なる神、主イエスに対して「主よ、憐れみ給え」という思いを持って礼拝を献げたいと思うのです。

 それでは具体的に「主の憐れみ」とは何か、エフェソ書は、一つは「神の愛を意味している」と告げています。二つ目は、「罪に死んでいていた私たちをキリストと共に生かしてくださった」ということです。
ここで言われている神の憐れみ、神の愛とは何か、私たちが礼拝を献げ、み言葉を聞き、執り成しの言葉を聞くのですが、私たちが願うところは、やはりどこかで御言葉を聞きながら、自分が成長していくように、自分がより大きなっていくように、と願うところがあると思います。良い人生を生きていきたいと願いますし、困ったこと、悩んでいることが解決するのであればと願いながら礼拝を守っている、勿論、それが悪いわけではありません。

 でも、神の憐れみ、神の愛は、そのような人の思いとはまるで方向が逆で、私たちはどこかであたかも、自分が神のようになりたい、神のように生きたいとまでは思わないとしても、様々な面において大きくなりたい、成長したいと願う、しかし、神は、神ご自身であることを執着せずに、遜って、徹底的に謙遜になられて、そして、私たちに神の愛が分かるようにと主イエス・キリストをこの世に与えて下さった、そこに神の憐れみがあるのだということではないでしょうか。

 二日前の金曜日の研修会、元々のテーマは「牧師自身のメンタルケア」という内容でした。先ほど紹介した越川先生は、現代の日本人の宗教感覚、あるいはより広く言えば人生観、価値観は、悪い意味での「現実主義」や、「合理主義」また「物質主義」、「商業主義」、「功利主義」といったものに毒されているように思われる、とありました。牧師も人間ですから、そういった考え方に落ち込んでいくことが良くある。私などはその典型かもしれませんが、例えば「教会における成果主義」という言葉があります。

 牧師として赴任する、そうした中で例えば礼拝出席者がどんどん減っていくとなればどうしでしょうか。中々そういうこともあるさとは牧師も考えないし、教会の皆さんもそうは考えないかもしれません。一般的には高齢化社会と言われますからとか、実際そうであることは間違いないとしても、だからと言って全ての教会で人が減っているわけでもありませんも。
 一概にやむを得ないとは言えないところもあります。あるいは、牧師のイメージという話しもありました。牧師自身が考えているところの牧師のイメージや、教会の皆さんが考えているところの牧師のイメージがあります。それが大きく乖離しているとしたら、そのギャップに苦しむことになったりするのです。

 その研修会で、思いがけなく、もしかしたら二十年ぶり位でお会いした先生がおりまして、どうしているのと聞きましたら、4月から神奈川に来たというのです。久しぶりですから、それぞれの近況なども話しまして嬉しい再会でした。でも、私の顔をまじまじと見つめながら一言、言われました。「先生、ひげ、教会からなんか言われないの」(笑)「いや~、特別何も言われませんよ。陰では言われているかもしれませんけど」(笑)「でももともとイケメンだから大丈夫ですよ」(笑)と言ったら、笑っておられました。やっぱり牧師はこうあるべきみたいなものが、人の心の中にあって、その基準が大切と思うものだと思います。

 そして、その基準、自分の、また人の心の中で作り出してしまっていて、あたかもその人の律法のようになっている基準に添っているのか、添っていないのかによって喜んだり、苦しんだりするものだと思います。人は「~でなければならない。」「牧師は~ではならない。」「信仰者は~でなければならない。」勿論、それが人を確かな福音へ、また、生きる力へと導くものであるならば、とても良いと思います。けれど時として、その心の律法を用いて人が人を裁き始める時、何も牧師に限ることではなく、人は時として壁にぶつかり、心悩み、人と距離を置き、あるいは燃え尽きたようになり、力を失うことも多くあるのではないでしょうか。

 そのようにして「自分はダメだ」「自分はダメだ」と思うだけでなく、「あの人もダメだ」「この人も出来ていない」「あの人もわかっていない」と裁くようになっていくときに、そこに神の憐れみが忘れ去られていくのだろうと思います。

 主イエスは、私たちを憐れんでくださいます。神が人となるほどに大きな憐れみを持って私たちと接してくださり、誰が、何をどう言おうとも、お前はダメだ、と人は言うかもしれない。でも、あなたはダメじゃない。あなたはダメじゃない、その神の愛を伝えるために、神が人となって下さいました。


 町田の教会におりました時に、牧師として決断しなければならないひとつのことがありまして、でも、どうしても決断できない。右だろうか、左だろうか、もう祈っても、祈ってもわからない。そういう時には自分は一人ではないからと考え直して、先輩の牧師に相談したのです。一人の先輩に相談しましたら、菊池君それは右じゃないのと言われて、やっぱり右かなと思った。でも、もう一人の先輩に相談したら、菊池君それは左じゃないのと言われたものですから、それからの悩みは更に深くなってしまって、最後に、この方ならばと相談した方がおりました。そしたら、その方がどう話したのか。「なるほど、それは悩むねぇ、大変だねぇ、でも、右でも左でも菊池君なら成功する。私はそう思う。だってあなたはいつも精いっぱいやっている、私はそれを良く知っているもの。」
 皆さん、キリストと共に生かし、キリストと共に復活させる、その言葉でまた力が与えられたのです。そこでまた、復活人生が与えるのです。

 皆さん、誰があなたの気持ちがわからないとしても、主なる神はその憐れみを持って、私たちと共にいて下さり、キリストと共に生かして下さり、キリストと共に復活させて下さいます。かならず時が与えられ、神の最善がみられるのだと信じて、私たちはこの一週間も過ごしてまいりましょう。

お祈りいたします。


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全て満たされる場所

2018-06-17 12:54:49 | 礼拝説教
【エフェソの信徒への手紙 1章19~23節】

 数週間前のことでしたが、教会に一人の年配の男性が本当にふらりとやって来られまして、暫く一階の受付辺りにたたずんでおられ、また、受付の資料を幾つか手に取って下さったりしていました。何かを話すわけでもなく、いくつか尋ねてみても特別に答えるふうでもなかったのですが、ポツリとこう言われた。「私も年を取ってきたから何か信じるものが欲しいけれど、教会はどうして争いばかりしているのですかね。」と言われたのです。
 
私は、そう聞いて一体何を言っているのか分からなかったのですが、更に話を伺うと、どうもその方の知識として、教会といえばパレスチナの辺りに繰り広げられている争いがあるのだとわかりました。その頃の話題といえば、トランプ大統領がアメリカの大使館をテルアビブという町からエルサレムに移動するという時期でした。その移動がきっかけとなって、イスラエル人は大歓迎しましたが、パレスチナ人は猛反発することとなり、大混乱の中で私が調べた限りでは44名が死亡しています。大変な混乱だったと思います。そのようなニュースが幾日か報道されていた時期でありましたから、教会に来られた方は、教会は争いばかりをしている所、という印象を持ったのだと分かりました。
 
そして、恐らくその方だけが特別にそう思っているわけではなく、日本のかなり大勢の方々が同じように感じていて、教会は争いばかりしているようだ、だから日本の宗教の方が良いと持っている方も多いのではないかと思わされたわけです。

 結局のところ、私はその方に教会は争いばかりしているわけではないといった説明を出来ないまま、その方は静かに帰って行かれました。是非、礼拝においで下さいと申し上げましたが、今の所は来られておりません。皆さん、イスラエル、パレスチナでの争い、確かに何も教会だけが悪いのではありません。元々、どちらかと言えばユダヤ教とイスラム教の争いが中心ですし、キリスト教指導者はその間に入って仲裁の努力をしているとも聞いています。しかし、その争いの発端となったのは、キリスト教国の指導者であったわけですから、決して自分達とは何も問題がないとも言えない。しかも、争いはいつまでも、終結せずに延々と続いているわけですから、キリスト教は争いばかりしていると言われると、それは違うとも言えないと思うのです。

 とはいえ、ここはイスラエルではありませんし、日本の教会ですから、互いに武器を持って血を流すようなことは起こりませんけれど、だからそれで良いというわけにもいかないと思います。あのイスラエルで起こっている争いは、自分達の問題でもあって、つまり人の心の問題なのです。どちらも譲ることなく、どちらも主張し続け、そして相互に赦しがないとしたら、日本だろうと、どこであろうといつでもイスラエルの争いはその場で起こってくるのだろうと思います。

 今日の礼拝の説教の準備をしている中で、加藤常昭先生の著作を読んでおりましたら、そこに内村鑑三の話がありました。内村鑑三全集の10巻に記されている文章を紹介しておられて、私の手元にはその本がありませんので、ですから孫引きになってしまうのですが、内村鑑三先生が「信者と不信者を見分ける法」という文章を記していたというのです。

 それで、面白そうだから読んでみた。何が書いてあったというと、「信者、不信者を見分けるのはとても難しい。信仰上の経験がないと駄目だ。」とあって、最初に書いてあるのは、「あなたがたは心に留めなければならない。洗礼を受けた者、必ずしも信者ではない、立派な牧師から立派な洗礼を受け、聖書を読み、教会の政治を語り、殊に祈祷などまことに上手であるが、その思うところ、なすところにおいて、立派な不信者は沢山いる。」とあるそうです。
 けれど、第二に、だいたい牧師だからと言って油断はできない。その奉ずる信仰至って堅固、その雄弁、全会を圧するに足りて、しかも信者でない牧師がいると思われる」と書いてあるそうです。つまり、偽の信者もいれば、偽の牧師もいるということです。

 だから、それを見分ける方法があって、それは何かというと、聖書を読むこと、祈ること、他人の悪事を語らないこと、人を憐れむこと、働くこととあるそうです。中々厳しい言葉が続くのですが、キリスト教を信じるや否や、農業や商業に従事することを辞めて、牧師などになろうとする者がある、そういう者に限って、確固たる信仰を持つ者が少ない。こういう人はさらに牧師も辞めて、銀行員とか仲買商とか、もっと楽で不生産的な仕事に就くようになる、ともあるそうです。

 加藤先生はその文章を読んで、面白いとは思ったけれど、文章の最後に、これらのことは他人に当てはめて考えるのではなく、まず、自分に当てはめて考えていただきたいとあったそうですが、加藤先生は、文章を読みながらちょっと心配になったとありました。その心配は、内村先生がこんな文章を書いていた、だから、自分達が人を見る時に、これは信者か不信者か、どうもこの人の信仰はあやしい、牧師の信仰もあやしい、と眼鏡を磨き上げて人を疑い、そして更に悪いことに「あの人も不信仰者だ、この人も信仰があやしい」と言いながら、自分は確かなような安心感を持つことになりかねないと訴えています。
 
 更には、「まわりを見回して、この人がまことの信仰者か、それともその正体は不信仰者なのかということをだんだん敏感に分かるようになったと思い込んでいく、あるいは思い込めるようになる経験を蓄積するということは、やはり不幸せではないかと思うともありました。

 今日読んで頂きました聖書箇所はエフェソの信徒への手紙1章の後半を読んで頂きましたが、1章23節にはこうあります。「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」何を申し上げたいのかといううと、教会はそういう場所のはずだと思うというということです
 
 今日は6月17日ですが、私たちは3年前の2015年6月28日という日に献堂式を執り行いました。献堂式に先立ち、その年の5月24日のペンテコステ礼拝からこの礼拝堂で礼拝を守り始めました。この時期、それから丁度丸3年の年月が経過していることになります。
 献堂式の際に、私は今日のように、エフェソの信徒への手紙から話しをさせて頂きまして、三つのことを話しました。一つは「キリストは私たちの平和であること。」二つ目は「二つのものを一つにされたこと。」三つ目は「敵意という隔ての壁を取り壊されたこと」もし、この三つが私たちに無かったとしたら、きっと会堂は建たなかったのではないかと話をさせて頂きました。
 
 そして、今でも、この会堂は、私たちにそのことを伝えていると思います。キリストは私たちの平和であり、二つのものを一つにさせて下さり、敵意という隔ての壁を取り壊して下さっている。そこにおいて、あの人は本当の信者であるのか、偽信者であるのか、牧師であるのか、偽牧師であるのかの議論が起こらなかったことを私は本当に感謝したいと思いますし、これからもそうであって欲しいと願います。教会とは、教会堂とは、神の力、聖霊の力が満ち満ちている場所である、それが大切だと思うのです。
 
 先日、この教会を建てて下さった建築業者の監督がやって来られて、メンテナンスの相談を致しましたが、話の中で、ふと横浜にある一つの教会のことを尋ねました。建築前に二度ほど、私たちの教会を見学に来られて、私自身も昨年の今頃だったと思います。建築現場に伺ったことがありました。伺ったその日、会堂が取り壊されて、更地になって基礎を据え始めたばかりの頃でした。ですから、あれから一年出来上がりましたかと尋ねたのです。すると、監督の顔が曇って来まして、伺いましたら、まだ基礎をしているというのです。細かい説明は致しませんけれど、高低差がある案外難しい土地で、基礎専門の業者も中々決まらなかったそうです。決まらないとは、金額面で大きな開きがあって、とても頼めない、やっと頼んだ地元の業者が基礎をしたところ、一つも上手くいかず一年かけて基礎をやり直すのだと言っておりました。

 そこの牧師もそうとう怒り心頭で、監督も頭をすっかり抱えておられて、その教会の為にも祈らなければならないと思いますけれど、比較するわけではありませんが、私たちはそういう面においては本当に恵まれたと思います。このようにして、多くの皆さんと一緒に礼拝を守ることが出来る。この場を聖霊に満ち満ちている場所として用いることが出来ていることを心から感謝したいと思うのです。
 
 毎週の礼拝で、私たちが唱えている使徒信条の中に、「我は聖霊を信ず」とあります。聖霊を信じるとは、「聖なる公同の教会」を信じ、「聖徒の交わり」を信じ、「罪の赦し」を信じ、「身体のよみがえり」を信じ、「永遠の生命」を信じることです。けれど、それは私たちがそう信じますというよりは、この聖なる公同の教会に満ち満ちている聖霊の働きによるということでしょう。
 
 私たちがなぜ礼拝に集っているのか、私たちの互いがそれぞれに信用するに値するからでもなく、また、牧師を信頼しているからでもなく、時に誰も信用できなくなったとしても、自分はここに召されている、主なる神に選ばれてこの教会の一人として、霊に満ちるこの場に集わされているからです。

 東京神学大学で以前学長をされた近藤勝彦という先生がおられます。近藤先生が記された文の中にこんな文章がありました。「教会を掘って下さい。」どういうことかというと、先生は相撲の話をしながら、「土俵の鬼」と言われた先代の若乃花は、「けいこ一筋」 になることと「土俵の中には宝も幸せも埋まっている」と口癖のように言い続けた人であったというのです。

 だから土俵を掘れという意味だったと思うのですが、そのことを思うと、「教会を掘る」ということがあっても良いのではないかと言うのです。勿論、それは例えば「聖書を掘る」ということも出来るでしょう。新約聖書、旧約聖書に記されているみ言葉を徹底的に学びつつ、聖書を掘るようにして読みながら、そこから新たな信仰を得ていく。マタイによる福音書の13章に畑に隠された宝物の例えばが記されてありますけれど、その宝を掘るために、持ち物をすっかり売り払ったとありましたが、それほど一生懸命に宝のために力を尽くしたように、聖書に学んでいく。近藤先生の文章は神学生に対しての文章のように感じました。学生の皆さんよ、そのようにして、徹底的に「神学を掘る」作業を行って欲しいと願っての言葉かもしれません。

 しかし、私たちにとっては、やっぱり「教会を掘る」ことが求められているだと思います。この聖霊が全てに満ち満ちているこの教会で、教会を掘り続ける、掘り続ける、礼拝を守り、信仰が支えられながら、必ず主なる神の宝が、自分にとって求めている宝がこの場で、この礼拝で見つけられると信じて、教会を掘り続けていくことです。

 内村鑑三先生は、「洗礼を受けた者、必ずしも信者ではない」と記しておられるけれど、どのような状況、どのような場面においても、洗礼を受けた者は、神の子であり、その人に信仰があるとか、無いとかではなく、既に洗礼を受けているという事実によって、繰り返し繰り返し、相互に信頼を自分の心の中に呼び起こす必要がある、それが教会を信じ、この会堂に満ちている聖霊の力を信じることであろうと思います。

 神を信じ、主の導きに従って、私たちは益々、神の祝福のうちに過ごしてまいりましょう。

 お祈りいたします。

参考文献
 加藤常昭「説教集1 使徒信条」 ヨルダン者 P471
 近藤勝彦「中断される人生」 教文館 p220
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教会からも 落ちこぼれてしまったあなたへ

2018-06-13 09:20:29 | コラム

「教会からも 落ちこぼれてしまった あなたへ」

 https://bokushitasaki.muragon.com/entry/763.html


 という文章を読みました。田崎敏明先生が
 
 ポール・トゥルニエ というフランスの学者の

 文書を記して、教えて下さっています。

 良い文章です。

 イエス様だけが、支えであって、人に頼ると落ちこぼれてしまうことがあると、

 私も思います。

 「人間に頼るのをやめよ 鼻で息をしているだけの者に。
  どこに彼の値打ちがあるのか。」イザヤ書2章22節

 こんな御言葉があります。
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明るみの中で

2018-06-11 09:42:26 | 礼拝説教
【マタイによる福音書10章26~31節】

 本日、読んで頂きましたマタイによる福音書10章26節からのところで、「恐れるな」という言葉が三回出て参ります。一つは26節「人々を恐れてはならない。」二つ目は28節、「体は殺しても、魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるな。」三つ目は31節、「だから、恐れるな。あなたがたは、沢山の雀よりもはるかに勝っている。」
 主イエスが、御自分で12人の弟子を選ばれて、神の国の福音伝道の為に遣わそうとしている場面です。弟子たちを派遣するにあたって、派遣された先であなたがたがたは、神の福音の御言葉を宣べ伝えながら、辛いことや苦しいこと、時には迫害されたり、理解されなかったり、沢山の出来事が起こるであろう。けれど、そのような時に、何をどう言おうかと心配しなくとも良い。神様があなたの中にあって言うべきことをしっかりと備えて下さる。だから心配することはないし、恐れなくても良い、と今日読まれた箇所へと続くのです。
 
 恐れなくとも良い、その理由の一つ目は、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」とイエス様は教えられました。つまり、どんなに隠し事をするとしても、いつの日にか、明らかにされるものだということです。最近の政治を見ておりますと、無いと言っていたものが出てきたり、破棄しましたと言ったものが残っていたりして、結局は大体のものが出てきていたりする。
誰よりも見本とならなければならないような人がと批判したくもなりますが、でも、批判や非難は誰でも出来ますから、それはそういうことが得意な人に任せることにして、今日は御言葉の取り次ぎに集中したいと思いますけれど、一言だけ言わせていただければ、たった一言言ってくれたらと思います。「ごめんなさい」そういうふうに総理が言ったらかっこいいのになぁと私は思うのです。

 とはいえ、私たちは生きて行く中にあって、どうしても人に言えない隠し事の一つや二つ、三つや四つ持って生きているものです。それは親子の間であっても、時には夫婦の間であっても、私は全ての事を明らかにしながら生きていますと胸を張って言える人はそうはいないでありましょう。
 それは又、そうすることによって人間関係が上手くいくからという理由から、あるいはまだその話をする勇気が無いということもあるでしょう。人と人とが話しをする時に、出来るだけ隠し事が無い方が早く友だちになれます。あの人とは何でも話せるのよ、そういう友だちをお持ちの方は幸いな人です。なぜならその人の前において、一羽の雀のように、そのままの自分を、何も飾らない自分を、出すことが出来るからです。
 
 人は、自分が自分を明らかにしている範囲において、人と付き合うことが出来ると言われます。皆さんは御自分の何パーセントぐらいの自分を人に見せているでしょうか。そのパーセントが大きければ大きい程、楽な人生を送ることが出来るのです。
 子どもに対しても、頑張らなくて良いし、無理しなくて良いのです。自分のありのままを見せていく、特に子どもは説明されてわかる、というよりは、見て覚えます。お母さん方が我が子のために、おいしいお弁当を作っているその姿を見て、自分も大きくなったら子どもをドレーパー幼稚園にいれて、おいしいお弁当作ろう、と今から思っていますよ。きっと。まあ、そこまでは思わないかもしれませんが、でも逆に、妻は夫が必死になって貯めているへそくりの額も、隠してある場所も知りながら知らないふりをするように、親が隠そう、隠そうとする姿は、子どもにはよく見えるようです。ですから出来るだけ隠さない子育て、隠さない人付き合い、それが一つのポイントではないでしょうか。
 
 なによりも、この世界を造られた方、主なる神の目から見るとすれば、全てが明らかにされているということを私たちは知らなければなりません。そして神にはすべてがバレているとしても、そこに罪ありと指摘されるよりは、むしろ、知っている、分かっているけれどそんな自分もまた神様に無条件で、徹底的に許されているということを知ることです。あなたも、あなたも皆、隠していることの全ては神様は知っておられ、そして、尚、許して下さる神を信じることです。だから恐れなくとも良いのです。そして感謝しながら、素敵な人生を生きていく。そんな生き方を主なる神は求めておられます。
 
 二つ目、どうして恐れなくとも良いのか、「体は殺しても、魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるな」とイエス様は話されました。私たちは、体が滅びることに大きな恐れを感じます。
この地域の仲間の教会が17あります。その教会の婦人会研修会がありました。そこで鈴木伶子さんという方が講演して下さった。伶子さんのお父さんは牧師で、日本の中に私たちの仲間の教会は1700あるのですが、その責任者となられた方の、お嬢さん、と言っても80歳ですと話しておられました。そして、子どもの頃の戦争の話をしてくださいました。

 本郷という東京大学がある近くの教会に住んでおられた、自分は5歳か、6歳であった。その時東京大空襲があったというのです。沢山の飛行機がやって来て焼夷弾という爆弾をどんどん落としていくといのです。焼夷弾は爆発するだけでなく、それが燃え上がるのです。ですから次から次へと建物が燃えていく、ついに自分の教会の周りにも火の手があがって、でももはや逃げることも出来なかったそうです。お父さんが、6歳の自分と3歳の妹を手で包み込んでそして、毛布をかぶって話しかけたそうです。「いいかい、これから私たちは神様のところへいくよ。そこは花が咲いていて、鳥がさえずり、楽しい、嬉しいところだからなんの心配もないからね」と言って、ブラームスの子守歌を歌ってくれたというのです。父親としても覚悟を決めたのでしょう。けれど、その後、奇跡的に教会は燃えなかった、周りは全部燃えた、遠くに神舎の鳥居が残っていたそうです。なぜ残ったか、石で出来た鳥居だったそうです。でも、やっぱり鈴木先生のお父さんは偉いと思います。体を殺しても、魂を殺すことが出来ない者を恐れない姿であったと思います。

 戦いは更なる戦いを産むだけです。先日、一人の子どもが虐待されて死んでしまった事件が報道されていました。親は大変な罪に問われるでしょう。でも、国が戦争すると、一度の東京大空襲で10万人以上もの人が死んで、そして、誰も罪に問われない。と鈴木先生は話して下さいました。それが戦争なのだと改めて思います。私たちの国は一体どこに向かっているのか、これからの子ども達の命と、人生をどう私たちが守るのか、問われているのかもしれません。更に最近は自然災害も多く起こっておりますし、私たちの体は大丈夫かと心配は後をたちません。

 けれど、体は殺しても、魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるな、と主イエスは話されました。どんなに極悪な非道な人であって、武器を持ってきて体を殺すことは出来ても、魂までは殺す事は決して出来ないと主イエスは教えるのです。
魂とはあなたの心の中心にあるものです。その中心にあるものは、人によっては色々、様々かもしれません。けれど人の心の本当の中心にあるもの、本当の中心に私は、「愛」があるのだと思います。人と人が愛する。恋愛ということもありますが、でもそれ以上の愛、隣人を大切にしようとする愛、イエス様は「神を愛すること、隣人を愛すること」この二つが聖書の中で一番大切だと教えられましたが、人類は愛を中心に据えて来たからこそ、どんな苦境や、憎しみや、残虐な戦争をも乗り越えて、生きて来たのではないでしょうか。そして、この愛によって、生きていけるのだと私は思います。

 人は何で成長するのか、その人を心から思う愛によって成長していくのです。その愛こそが神様から与えられた大切な宝物であって、人の魂そのものとなっていくのではないでしょうか。そのような本来、誰もが持つ愛に包まれた魂にまで到達出来る方は、神様しかいらっしゃらないのです。だから、人は体を殺しても魂を殺す事は出来ません。だから私たちは人を恐れるのでなく、むしろ私たちの造り主である主を知り、そして良い意味で、主を畏れ、感謝し、喜びの生活を営むことが出来るのです。そのためにもこの礼拝が与えられていると言うことが出来るでありましょう。

 恐れるな、三つ目は「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と教えて下さいました。

 29節に「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。」とあります。一アサリオンは円で考えますと、大体100円位かなと思います。ですから一羽50円、二羽で100円となるわけです。けれど、別の聖書箇所(ルカ12章)では5羽で2アサリオンとなっています。つまり、2羽100円だけど、5羽なら200円ということです。つまりは1羽おまけということかもしれません。
 
 それは、値段にならない一羽、おまけの一羽がいるということです。私たちはそのようなおまけのような者ではないかと言ったら言い過ぎでしょうか。

 私は男の子四人兄弟で育ちました。兄がいて、私が次男、続いて三男、四男、ですから、子どもの頃から、母や父が言うのです。二人目からは次は女か、次は女かと思ったというのです。
その言葉を聞くたびに、男でごめんな、とどこかで思う。だから笑われるかもしれませんが、なんとなく弱々しく育ったと思います。
私の家は、岩手県の昔ながらの家ですから、やっぱり長男が大事なのです。次男以下は大事じゃないと言わないけれど、長男の予備のようなものです。つまりはおまけなのです。

何かしらの問題行動を起こす子どもがなぜそれをするのか、「父ちゃんよ~、俺はここにいるよ。」「母ちゃんよ~俺はここだよ。」と父親、母親によく分かるように、そうやって自分をアピールしているのですよ、と幼稚園のお母さん方に話しを私がしているのですが、私自身が、俺はおまけか、おれはおまけなのかという劣等感と、コンプレックスと戦ってきたようにも思います。
 
けれど、そのコンプレックスからどうやって抜け出したのかというと、聖書の御言葉です。「だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

 皆さん、つまり、主なる神はあなたの、全てをご存知だということです。あなたが今抱えている様々な課題、悲しみ、辛さ、苦しさ、その全てを神様は知っておられます。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ」とイエス様は話されました。
 どう祈ろうか、どう願おうか、そう思う前からその祈りを、その願いを父なる神は知っておられる。あなたの髪の毛の数まで知っておられる。え! そんな私だって知らないことなのに、私だって知らないことまで神様は知っておられます。そして、私より先回りして、あなたにとって、最も良い、最善の生涯を与えて下さるのです。そのことを信じて前向きに生きていくことです。

 皆さん、信仰とは、信仰者の後ろ姿を見ながら成長していくのです。年配の方々が前の方に座っておられるでしょう。耳が聞こえないからではないですよ。前向きに生きておられるからです。そのような生涯を送っておられるからです。だから私たちは、そのような方々の後姿を見て成長させて頂くのです。そして、私たちの後ろ姿を見せて、子ども達が成長していくのです。あなたはおまけでもなんでもない、あなたは大切な神様からの預かった命、その命を共に、私たちは一緒に歩んでまいりましょう。お祈りします。
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究極のシャンプーを発見!

2018-06-06 17:07:17 | コラム

 
 私の長年の悩みは、ちょっと不潔ですが、フケが多いということでした。

 思い起こせば中学生の頃から気になって、気になって…

 ですから40年以上悩んでいるのです。

 「思い悩むな」と聖書にありますが、そうもいかない💦

 牧師シャツもそうですが、黒系の服はNG フケがとても目出つからです。

 ですから割と白系のシャツが多くなります。
 
 でも、仕事柄か、案外黒を避けて通れない時もあり、

 フケ防止と思って、毎日のシャンプーは欠かせません。

 今の時代、「ふけ・かゆみ防止」シャンプーは山ほどあります。

 その、ほとんど全部を使用してみましたが、どれもほとんど効果が無く、

 通販のこれこそ!のようなものも使用してみても、いつも裏切られ💦

 近頃は、加齢もあり、白髪にフケ、あ~嫌になる😠

 ほとんど絶望していたのです・・・が、一週間ほど前に気がついたのです。

 私は、とてもひどい花粉症だし、調べたこともないのですが、結構、アレルギー体質

 プラス、乾燥肌、だからシャンプーそのものがフケを誘発してるのではないか?

 それで、シャンプーするのを止めてみよう、と決めて、水かぬるま湯だけにしてみたのです。

 すると、結構、思ったよりも調子が良いのです。赤く炎症を起こしていたような頭皮とか

 が、心なしか治って来ているような!(^^)!

 かゆみも減り、水だけの洗髪なので、一日二回、三回でも案外楽ですし、

 我が家の水は、家内が結構水にうるさく、水の元栓のところに浄水器を付けて

 いて、お蔭で私の熱帯魚やエビちゃんが元気だなぁと家内と話していた時、

 気が付いたのです。水だけでOKじゃないのか?

 水だけOKみたいです。

 フケでお悩みの皆さん、何をやってもダメと思っている皆さん。

 水だけで洗髪、環境にも優しいのは、自分にも優しいようです。

 試してみても、損は全くありませんから、試してみては?

 水は究極のシャンプーです。


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