日本キリスト教団 大塚平安教会 

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自由に生きるのに大切なこと

2018-05-30 09:11:30 | 子どもたちに福音を
「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからです。」
 【ヨハネの手紙一 4章19節】

 皆さん、今日は「自由」について考えてみましょう。「自由」という言葉を知っている?どんな感じがしますか?そう、自由はなんでも出来るということですね。
もし、私達がドラエモンのポケットを持っていたら、どんなに自由で楽しいことかと思います。
皆さんも、もし、自分がなんでも出来たとしたら、みんなが幸せになるでしょうか?

 ドラエモンを見ていると、のび太よりは、ジャイアンのほうが「自由」な感じがしますね、好きな時に野球して、スネオのおもちゃも使い放題、のびたのマンガも読み放題です。だからジャイアンは、大分自由だと思います。
でも、ジャイアンは自由で好きなことをしていますが、みんなから大好きって思われているでしょうか?違いますね。どちらかと言うと、嫌われていますね。
 どうして嫌われているんでしょう。そう、自由だからです。

 でも、その自由は、ジャイアンの自由で、ジャイアンが好きなことをすれば、するほど、回りのお友達が困ってしまいます。みんなジャイアンのコンサート聞きたいですか?やだよね~。

 私たちは自由が大好きです。だって好きなことが出来ますから、でも、その自由で、他のお友達や先生が困ったなぁったと思うのだったら、多分それは本当の自由ではありません。

「自由」に生きるのにとても大切なことがあります。自由の中に絶対に必要なものが一つあります。それは「愛」です。みんなが大事だよ、みんなが大切だよ、みんなが必要だよ、みんなを愛しているよ、という「愛」がある時、みなさんは本当に自由になれます。そして聖書は、こう書きました。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからです。」

 神様がわたしたちを愛して下さった。愛して下さったということは、神様と私たちがいつも一緒にいて下さるということです。皆さんの家にテレビがあるでしょう。テレビを見ていますか?なんでテレビが見られるかというと、スイッチを押すとみられるわけではないんですよ。なんで見られるかというと、コンセントに繋がって、電気がテレビに繋がっているからなんです。皆さんの家に洗濯機がありますか、洗濯機がなんで動くのかというと、これもスイッチを押すと動くわけではありません。やっぱりコンセントに差し込んで電気によって動くわけです。皆さんの家には自動車があるでしょうか。自動車がなんで動くか知っていますか。タイヤで動くわけではないんですよ。エンジンがあるから動くわけです。でも、エンジンもガソリンがなければ動きません。全部揃っていても、ガソリンがなければ何にもなりません。一番大事な所は、本当はあんまり見えない所にあるのかもしれませんね。

 神様も私たちはこの目で見えませんけれど、でも神様がまずわたしたちを愛して下さったということは、私たちに生きる命を与えて下さったと言うことです。 神様が私たちを愛して下さって命によって私たちは生きているんですね。

 イエス様が私達をしっかりと神様と結びつけて下さっている時は、しっかりと神様の愛を受けて、大きくなっていくことが出来ます。だから、いつも神様に繋がっていることです。テレビがコンセントとしっかり繋がっているように、洗濯機が神様としっかり繋がっているように、繋がらなければ動かないように、私たちも神様としっかり繋がって、そして友達ともしっかりと繋がっていきましょう。神様としっかりと繋がっている時、私たちは一番、本当の自由に生きることが出来ます。

 私達を造って下さった神様は、愛の神様です。それは、みんなが幸せになれるように、笑顔になれるように、私達に沢山、神様の愛を注いで下さいます。その愛が心の中に一杯になると、みんなね、本当の自由になれますよ。嬉しいな、楽しいな、みんなの笑顔の中にこそ、本当の自由があって、それは神様が下さった確かな幸せの証だと思います。


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一つにまとめられる

2018-05-27 16:46:12 | 礼拝説教
エゼキエル書37章15~17節
エフェソの信徒への手紙1章8~14節

 先週の礼拝は私たちが願っておりました幼稚園の初代の幼稚園園長を担われ、前の前の牧師としても奉仕された乙幡和雄先生においで頂き、ペンテコステ礼拝を共々に守ることが出来ました。乙幡先生が大塚平安教会で礼拝説教をされる、一体何年振りであったかと思いますが、そういうことで普段礼拝に見えない方も大勢来られまして感謝な時間でありました。

 乙幡先生が説教の初めに、礼拝説教を引き受けたけれど、ペンテコステ、聖霊のことがよく分からないのです、と話されました。86歳になろうとする先生が言われると聞いている私たちも、そういうものかと思うものですが、もし私がまねして私もよく分かりませんと言ったら、きっと、もっと勉強しろ!(笑)と言われるだろうなと思って聞いていました。

 けれどもっと勉強するというわけでもないですが、ペンテコステ礼拝では多くの場合、使徒言行録の2章1節からの聖霊降臨の場面が読まれます。私も先週9時からの子どもの教会の礼拝で、同じ箇所で話をさせて頂きましたが、いわば毎年のように聖霊降臨の箇所を読むわけですが、今年改めて新たに知らされた思いがしたのは、「炎のような舌」という言葉です。

 今日の礼拝は聖霊降臨第2主日であると共に、三位一体主日と言います。父なる神、子なる神イエス・キリスト、そして聖霊なる神の三つにして一つなる神が揃ったことを意識して守る礼拝です。父なる神とは旧約聖書に記されていますように、天地創造の神であり、主イエスが「父よ」と祈りなさいと教えられたところの神。また、主イエス・キリストは福音書に記されていますように、神が人となられて、母マリアの胎を通して、人として誕生された。それがクリスマスとなるわけですが、神でありながら、人となられ、人として地上の生涯を歩まれた方、十字架と復活の出来事を通して、私たちに神の愛を示して下さった方。

 けれど、それでは聖霊はどうか、乙幡先生は、聖霊に関してはその考え方に関して、大分幅があるのではないかと話しておられましたが、私も基本的にはそう思いますが、でも、使徒言行録の2章には「炎のような舌」がとある。私はこれまでこの言葉を何か象徴的な言葉として読んでいたように思います。けれどそうでなく、弟子たちの一人ひとりが集まって祈っていたところに、炎のような沢山の舌が、祈っていた弟子たちの数だけの舌が降ってきた、これが聖霊降臨の出来事なのだと改めて思わされたわけでした。

 聖霊降臨の出来事は、舌と関係がある、つまり、言葉と深い関係があるのだと改めて思わされたのです。それ故に、弟子たちはそれぞれ、遠くから五旬祭のために集まっていた人々のそれぞれの国の言葉を話しだし、そこで人々は自分達の国の言葉で福音を聞くことになったのだと思うのです。

 そして、そこで何が起こったのか?言葉によって福音を聞いて、そして、心と心が繋がって、弟子の一人のペトロが人々を前にして力強く説教をした後三千人ほどの人々が仲間に加わったとあります。そのような力、人と人とが互いの心を理解し分かり合える力がある、それが少なくとも聖霊なる神の一つの業であろうと思うのです。

 今日はエフェソの信徒への手紙の1章を読んでいただきましたが、10節にこうあります。「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるあらゆるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」とありますように、ここにも確かに聖霊の力によって、あらゆるものが主イエスのもとに一つになることが出来るというのです。

 私たちが抱えるところの様々な問題、それぞれにおありだと思いますけれども、その問題の原因のほとんどは「一つにならない」「一つになれない」という所にあるのではないでしょうか。

 先週の火曜日は、幼稚園が新しい年度になりまして、初めての「聖書に親しむ会」を行いました。もう何年もこの聖書の会に出ておられる方もおられますし、今回が初めてですという方もおられましたし、毎回色々な方の話を伺うことも出来、豊かな時間を過ごしておりますが、あるお母さんがこんな話をされた。

 今年の2月に行われた幼稚園の講演会で聞いた話が良かったというのです。それはよかったですね~。どんな話だったのですかと聞きましたら、私が話したというのです。え~私の話ですか、何を言いましたか、と話したほうも忘れているようなものですが、マイナスのストロークとプラスのストロークというのがあって、どんな時でもプラスのストロークですよという話しでした、というのです。
 
 その話を実践して夫との関係、子どもとの関係が良くなって嬉しいのです、と話して下さいました。
 
 マイナスのストローク、プラスのストローク、ストロークとは水泳で、泳ぐときに、右の腕、左の腕と交互に水をかくこととか、ラケットでボールを打ち合うことをストロークと言いますが、日本語では一振りとか、つまり言って戻ってくることを意味するのだと思いますが、ここでいうストロークは、言葉かけのことです。どんな言葉をかけるのか、人の心にどんな栄養を与えますかということです。マイナスの栄養ですか、プラスの栄養ですかということです。つまり、同じ出来事があったとして、人にどう表現すれば、それが栄養として届くのかということなのです。
 
 例えば、子どもが悪さしたとする。その子どもを叱るとして、叩いたりしたら時には虐待ともなりますから、やってはいけないのですが、だから言葉が大切なわけで、「そんなことをするなんて、もうあんたは私の子どもじゃないよ」と言うのと、「どんなことをしても、あんたは私の子どもだよ」と言うのと、どちらの言葉を聞くと、子どもはより悪かったと思うでしょうか。という話しをしたりしたわけです。「もうあんたは私の子じゃないよ」というのがマイナスのストローク、「どんなことをしても、あんたは私の子だよ」と言うのがプラスのストロークではないでしょうか。と話をさせて頂きました。

 そのお母さんは、そんな話を聞いて自分が夫に対して、子どもに対して、これまでどんなにかマイナスと思える言葉かけをしてきたかと反省したというのです。そうか、言葉で変わるんだ、と心にストンと落ちたと話しておられましたが、ですから2月から家族に対してプラスの言葉かけを一生懸命やったというのです。2月、3月、4月、5月ですからね、大分意識して、すると家庭がやっぱり柔らかくなったというか、穏やかになったというか、気持ちよくなってきましたと言われたわけです。なによりも自分の気持ちがいつも気持ち良いと話しておられました。

 それで先日夫に聞いてみたそうです。「私、変わったでしょう?」そしたら夫は「全然変わらない」と答えたそうですが、でも、それも嬉しそうに話して下さいました。
 
 皆さんここが大切なところです。三か月、半年、一年と自分は良い言葉、良い表現、一生懸命に意識しながら人にプラスのストロークをする。するとね、それがいつの間にか意識しなくなっても良い言葉、良い表現になっていくものですが、そうされていく相手は、そんなに急に変わるものではないのです。そんなにこちらの思う通りに人は生きてくれませんからね。だから「私変わったでしょう?」「全然」と答えるのです。その時ですよ。あ~こんなに一生懸命頑張ったのに、これでも変わらないなんてと相手を責め始めたらここ数ヶ月の努力は無くなってしまうようなものです。

 でもね、「全然変わらない」と話した夫の言葉を聞いて、この方は笑顔でそれを受け止めたというわけですよ。ここが偉いなぁと思うのです。人の愛情とは、やっぱりこれだけしたのから、それなりの見返りが無ければと思うし、こんな酷いことをされたのだから、自分もその仕返しにと思うし、だから、どこかで「目には目を、歯には歯を」になってしまうのです。また、それが愛情だと思っているところもあるでしょう。でも、聖書はなんと言っていますか。旧約聖書のイザヤ書2章22節にはこうあります。「人間に頼るのをやめよ 鼻で息しているだけの者に。」鼻で息している者、それは人間です。人間を頼ると、多くの場合腹が立つし、あの人は分かっていないと思うのです。

 だから人に頼らないで、あらゆる者を一つにまとめてくださる方、主イエス・キリストにこそ頼るべきなのです。そうでなければ本当の解決を見出すのは難しいのではないでしょうか。

 私たちは一つになりないと心に願っていながら、なかなか一つになれない、なんで一つになれないのかな、あの人が変わらないから、この人も頑固だから、あの人が変われば自分も変われるのにと思っているのかもしれません。

 昨今のテレビや報道をみておりましても政治も、スポーツも、なんだかマイナスのストロークの典型的なやり取りばかりが目に付くように思います。上手く一つになりたいけれど、なれないような話が沢山あるように感じます。あの人が悪い、この人が悪い、いやあの人が変わらないから、この人が変わらないから、そんな話ばっかりが目につくなと思うのは、私だけではないでしょう。
 
 先ほどエゼキエル書37章という箇所を読んでいただきましたが、前回の礼拝でも話しましたがエゼキエルという預言者は、イスラエルの国が一番苦しい時期、敵国バビロンとの戦いで、もうすっかり町も土地も人も全てを失い、もう夢も希望も無いといった状態でエゼキエルは人々に主なる神の言葉を告げる役割を担いました。ですから、どうしても厳しい言葉が続くようになります。戒めの言葉が続くようになるのです。
 
 けれど今日読まれました37章は、その中にあっても一つの希望の言葉が記されている箇所でもあります。主なる神がエゼキエルに話しかけます。「『エゼキエルよ、一本の木を取って、ユダおよびそれと結ばれたイスラエルの子らのために』と書き記しなさい。それから別の木をとって『エフライムの木であるヨセフおよびそれと結ばれたイスラエルの全家のために』その二本の木を近づけて、一本の木としなさい。それらはあなたの手の中で一つとなる。」とあります。
 
 当時、イスラエルは、二つの国に分かれていました。元々小さい国なのに、その国が争って国が二つに分かれて、北イスラエルと南ユダという国となり、しかも、北イスラエルはエゼキエルの頃は既に、滅んでいまして、わずかに南ユダという国が存続していましたが、大国の前には簡単に滅ぼされてしまうようなものなのです。
 けれど、主なる神は、北イスラエルの民も、南ユダの民も、元々、私の民ではないか。だから様々な出来事が起こり、たとえイスラエルが滅ぼされるとしても、私はあなたがたを見捨てることはないと宣言されているのです。二つのものを一つにすると告げておられるのです。「ひとりの王が彼らすべての王となる」と示して下さっています。

 一人の王とは、主イエス・キリストです。この方こそが天にあるものも地にあるものも一つにまとめてくださる方、どのようにしてまとめて下さるのか。言葉によってです。エフェソ書1章13節には「真理の言葉」とあります。「救いをもたらす福音」とあります。この言葉を私たちは聞き続けることです。聖霊に満たされて、炎のような舌が語る、真理の言葉、福音を聞いて、信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。とあります。

 すべての者をまとめ、一つにされる力は、聖霊なる神の力です。私たちは、毎週の礼拝において、説教、讃美歌の後に共々に使徒信条を唱えます。使徒信条とは、既にいつの頃からかもよく分からない程の昔から、教会で唱えられてきた信仰告白です。その中に「我は聖霊を信ず」とあります。その後に記されている言葉は、聖霊が司るところの役割が記されて、こう続くのです。「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の命を信ず」私たちの教会の交わり、相互の罪の赦しは、聖霊の力によるものだと信じますと、私たちは毎週、唱えているのです。

 教会がなぜ、神の国を表しているのか、聖徒の交わり、罪の赦しですよ。時々、私のようなものが教会に来ても良いのでしょうか。と尋ねられることがあります。勿論、あなたのような者こそが来られる所ですよ。だって、あなた以上の方が大勢おられますからとは申しませんが(笑)私などは多くの罪を負っている者の筆頭だと思います。でも、私のような者がこの役割を担わさせて頂いていますと、感謝することばかりです。

 そんな私たちが更に、更に一つとなるために、主にあってまとめられ、この世にまとめられてしまうのではなく、誰もが神の国の住民として主に感謝しながら、この一週間も過ごしてまいりましょう。

 お祈りいたします。
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収めきれない恵

2018-05-13 15:27:59 | 礼拝説教
【エゼキエル書47章1~9節】
【ヨハネによる福音書21章24~25節】

 本日は、母の日でもありますが、キリスト教の暦で申しますと復活節第7主日、次週はペンテコステとなり、聖霊降臨節となります。キリスト教の暦は11月末のアドヴェントから始まりますので、今日の主の日が、一年の前半を終える週、次週からは一年の後半のスタートとなります。これまで前半は神の時、主イエスの誕生から宣教、十字架、復活という出来事が起こった神の時です。そして後半のスタートはペンテコステ礼拝から始まる使徒たちが活躍する教会の時と言われます。

 そのような節目のペンテコステ前の時期に読まれる聖書箇所に福音書の締めくくりの箇所が読まれるケースがあります。先週の子どもの教会の聖書箇所も、ルカによる福音書の最後の箇所が読まれ、私が話を致しましたが、本日は、ヨハネによる福音書の21章24~25節が選ばれました。
 
 私たちは福音書を読むときに、4つのそれぞれの福音書の1章については案外覚えているものです。マタイとルカについては主イエスの系図が記されていたりしますが、基本的には主イエスの誕生、クリスマスに関して記されています。マルコによる福音書は主イエスの誕生ではなく、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書き出されて、バブテスマのヨハネと、主イエスの宣教からいきなり始まります。ヨハネによる福音書は、「初めに言があった」と始まります。
 それぞれに馴染みがある御言葉だと思います。けれど、それでは福音書の最後はどのように締めくくられているのかと思う時に、案外、私たちは覚えていないのではないでしょうか。

 マルコによる福音書は、主イエスが復活されたと聞いた婦人たちが、「主の墓から出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも言わなかった。恐ろしかったからである。」で終わりますし、ルカは主が天に上げられていく、昇天の場面で終わります。
 それではヨハネによる福音書はどうかというと、先ほど読んでいただきましたが、こうありました。「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」とても良い締めくくりの御言葉だと思います。

 主イエスのなさった業の一つ一つを、もし全て記すとしたらその書物を十分に収めきれない程の量になるというのです。それほど、数限りないというほどだというのです。
つまり、どんなに記すとしても、記しきれない神の恵みがあるということでしょう。

 尽きることの無い神の恵みを受けて、私たちはそれぞれに与えられている人生を生きているわけですが、この「収めきれないであろう」という御言葉が意味するものは何か? 一つは「神の恵みに生きるとき、全てのものが生き生きとしてくるということではないでしょうか。
 
 エゼキエル書47章という箇所を読んでいただきました。エゼキエル書は何年もかけて婦人会の「聖書を読む集い」で共に学んだ箇所ですが、理解しながら読んでいくのはなかなか骨の折れる箇所でありました。皆さんと一緒だからこそ読んでいかれたとも思います。
 時代は、紀元前600年前後、大国バビロンとの戦いに敗れて、バビロン捕囚が行われる時代に、預言者エゼキエルが途上し、イスラエルの民に対して、あなたがたは神に背き、神から離れて多くの罪を犯しているのだと訴えました。更に、これから尚一層厳しい状況が与えられるであろうと予言しながら、イスラエルの民に悔い改めを迫り、神の御言葉を取り次ぎ続けます。

 しかし47章に至って、そこで一つの希望が語られます。それはこれまで水が流れていなかった場所に水が流れ、その水が川となり「この川が流れる所では、全てのものが生き返る」というのです。

 主なる神と出会う経験とは、あたかも死んでいた、枯れてしまっていたと思える人生が生き返り、生き返るばかりでなく、生き生きとしてくるというのです。命与えられるというのです。死んだと思ったのに生き返る、それは主イエス・キリストの復活を思わされますが、しかし私たち自身のことでもあります。

 ヨハネによる福音書に戻りますが、「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である」とあります。この弟子とは福音書を記したヨハネのことです。
 ヨハネは主イエスの12弟子の一人であり、また一番若い弟子でもあり、聖霊降臨ペンテコステの出来事を通して、聖霊が与えられ力を得て伝道活動に乗り出していった一人でありました。しかし、仲間のヤコブは首を切られる、ペトロは逆さ十字架で処刑される。後で仲間になったパウロもローマで処刑されたと聞いたことでしょう。仲間の一人一人が主イエスの御言葉を宣べ伝え、神の福音を携え福音伝道の働きをしながら、しかし殉教の死を遂げていく。そのような迫害の時代にヨハネは生き延びました。長生きをしたと言われます。
 
 仲間のあの人も、この人も捕らえられて死んでいった。自分は命があって良かったなとは思ったとは思いますけれど、けれど長生きであったことを喜ぶだけでなく、ヨハネの人生が死んでいった仲間たちと同じように、いつも喜んで、主にあって生き生きといきていたからこそ、このヨハネによる福音書が記されたのではないでしょうか。

 この福音書を記しながら、この出来事の中に、あの出来事の中にも、主の祝福が豊かにあったのだと感じながら喜びをもって記したからこそ、福音書と呼ばれ、聖書として取り扱われ後の世代の人々にも愛され、読まれ続けられる福音書となりました。

 しかし、尚ヨハネはその福音書の最後に、この恵を更に記すとしたら、その書物は収め切れない程になろうと記したのです。まだまだ祝福はこんなものでは足りない、今以上にもっともっと神様の祝福はあるのだと伝えるのです。

 ヨハネによる福音書に記される最初の奇跡は、2章に記される「カナでの婚礼」の奇跡と呼ばれる出来事です。主イエスが結婚式に招待された、お母さんのマリアも一緒であった。喜びの婚宴が幾日も続いた、その中でぶどう酒が無くなってしまったというのです。それに気が付いたマリアが主イエスのもとに相談に行きますと、主は使いの者に、水がめ六つを用意させて、水がめに水を入れさせた。その水がめを宴会の世話役の所にもっていかせると、水がぶどう酒となっていて、しかも美味しい。世話役がどうして、こんなにおいしいぶどう酒を隠しておいたのかというほどであったというのです。

 皆さん、この奇跡の話はヨハネによる福音書にしかありません。なぜヨハネだけにしかないのか、一つの伝説のようにして伝わっていたと言われますが、この婚礼の花婿は、福音書を記したヨハネであったと言われています。つまり自分の結婚式で起こったことを記したのではないかと言われます。

 そして、この奇跡によって主イエスが示していることは結婚式が夫婦にとってピークではなく、本当の幸せは水がぶどう酒に代わっていくように、夫婦として過ごす日々、年月、その年月がどんどん幸せになっていく、どんどん喜びとなっていく、あなたがたの幸せはこんなものではない、主なる神が伝える祝福、福音は益々増していくであろうというメッセージがここに込められていることを知って欲しいとヨハネが体験した出来事を、何よりも先に記そうとした主イエスの奇跡の物語ではなかったと思うのです。

 皆さん、書ききれない収めきれない祝福を生きることです。私たちの人生もそのようにして生きることです。そしてそのような人生を求めることだと思います。「私は求めているけれど、私のところにはやって来ません」という方がおられます。その人は本当に求めているでしょうか。祝福は求め続けるところに確かにありますが、しかし宝くじのように、たまたま当たるような仕組みではないと思います。

 先週も申しましたが、「求めなさい。そうすれば与えられる」とあります。「探しなさい、そうすれば見つかる」とあります。「門を叩きなさい、そうすれば、開かれる」とあるのです。「神様、どうぞ私を憐れんで、潤して、書ききれない、収めきれない神様の祝福にあずかり、それを人々と分かち合うことができるようにして下さい」と願い、祈り、求めることです。

 私が牧師になろうと決心した頃、体力も財力も学力もないような自分が、果たして本当に学校に通い切れるだろうか、自分が本当にその気持ちがあるのだろうかと思いながら、決心したことは、受験する前の年の一年、神学校で信徒のための教育講座がありまして、毎週月曜日の夜、一年を通じて授業がありました。この講座はなかなか厳しくて、一年間、一度も休まないか、三年間かけて全部の授業に参加できた人だけが修了書を頂けたのです。

 それで私はとにかく一年で終了証を貰おうと決めて貰えなかったら、入学は止めようと考えたのです。ですから絶対に休まない。そう決めて通って、一度も休まず通い切り修了書を頂けましたので、その年の4月に受験して入れて頂きました。

 神学校に入れて頂いた後でも決心したことは、当時、神学校がオプションのようにして準備していた授業や講座の全部を受けるということでした。オプションとはやっても良いし、やらなくても良いのです。単位認定とは別で、卒業とも直接関係しない、でも一年の夏休みから卒業の年まで、毎年、様々な教会に夏期伝道実習に行かせて頂きました。フィリピンの神学校との交流の、最初の学生として手を上げて行かせて頂きました。病院の患者さんに対する心のケアの為に、直接衣笠病院で行う実習にも手を上げました。

 夏の集中講義にも参加しました。とにかく神学校で用意している学びのほとんど全てをさせて頂きました。

 フィリピンから帰って来てからは、三日も四日も高熱が出て死にそうな目に会いしました。病院では患者さんとの会話記録を夜も寝ないで完成させなければなりませんでした。でも、その一つ一つがやっぱりやって良かったと今でも思います。
 手を上げなければ何もしなくて良いのです。でも求めることですよ。どうぞ、私を収めきれない恵の中に入れて下さいと願い、祈ることです。そしてそのような人生を送り続けるところにこそ大きな祝福があるのではないでしょうか。

 あるとき、主イエスの所に一人の女性がやって来ました。「主よ、ダビデの子よ、どうぞわたしを憐れんでください」と願いました。けれど主は「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」と答えたのです。つまり私はまず、身内のものから救いをもたらすためにやってきたのだからと断ったのです。でもその女性は、「それはもっともなことです。でも、子犬でさえ、食卓からこぼれるパンくずは頂くことが出来るのですから、どうぞ私にも」と願ったではありませんか。

 この女性は祝福を貰うまではと必死に食い下がりました。つまり良い言葉ではないと思いますが、自分が「馬鹿」になってまでも、主の祝福を頂こうとしたのです。祝福を得るには、もっと賢く、もっと利口に、もっと優秀にならなければ得られないと思ってはいないでしょうか。
 この世の、利口な生き方をした方が、やっぱり得なのだと思ってはいないでしょうか。世の中の知恵に生きた方がずっと賢いのだと思ってはいないでしょうか。
 
 私たちは否定的なことを言われれば腹が立つのです。あるいは、あの人は分かっていないと思うし、私は分かっていると思うから余計に腹が立ちます。馬鹿になるとは、たとえ否定的なことを言われても、祝福をもって返す。破壊的なことを言われても、恵をもって返すことです。

 そういう馬鹿にこそ、私はなれたらと本当に思います。そう生きることによって収めきれない程の恵のほんの僅かでも自分のものに出来たらと思います。

 そして、更に大切なのは自分のものとして受け取った恵を分かち合うことです。私たちはいつの間にか自分のものは自分のものと大切に取っておいてしまい、時にはしまっておいて、時には隠して、分かちあうことがありません。分かち合うと無くなってしまう、減ってしまうと、思っているからではないでしょうか。ヨハネは「主の恵は収めきれないであろう」と記しました。

 収めきれない程なら、私たちは本当に分かち合えるはずです。そして私も祝福に生き、あなたもそうだと喜びをもって語り合いものです。そのようにして得たものは全て神様あなたから頂いた恵です。と感謝をもって返して行きたいものです。

 お祈りいたしましょう。

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子育ての心 第1回 離婚は法に適うのか

2018-05-08 08:55:16 | 子育ての心
  「離婚は法に適うのか」

 「子育ての心」の冒頭で、いきなり離婚の話しから恐縮ですが、聖書に、こう記されています。

「『ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻と離縁することは、律法に適っているでしょうか』と尋ねた。」(マルコによる福音書10章2節)

 ファリサイ派の人々とは、現代でいうところの法律家であり、宗教学者のことです。ファリサイという言葉は「分かたれている」という意味があります。あなたと私は違うという意味です。「私たちは真面目で、あなたがたとは違います。」そんな皮肉が込められているのかもしれません。

 「律法」とは法律のことです。英語でいえば、どちらもLaw です。聖書が意味する律法とは、「神様から授かった教え」という意味で用いられています。現代の民主主義政治の中で、人の手による法とは少し意味が違います。とは言え、どちらも人間世界が安全で円滑に生きていけるように考えられた「決まり事」であることには違いありません。ファリサイ派とは、その「律法」の番人のような人達だったのです。
 昔の話しですから、政教分離などありません。ですから、宗教的指導者であり、且つ政治的、社会的指導者という側面もありました。当時のイスラエルの国会にあたる「70人議会」と呼ばれる議員メンバーに何人ものファリサイ派の人々が選ばれていました。

 現代は離婚するカップルが増える傾向にあるようです。少し古い資料ですが、厚生労働省の記録によると、2002年に離婚件数が29万組となり、一つのピークを迎えています。それ以降は、経済面、教育面等、複雑な社会状況の影響、また、大きな自然災害の影響もあるのでしょうか、緩やかな減少傾向にあるようです。それでも、2016年には凡そ21万7千組が離婚しました。1970年代の2.5倍以上のカップルが離婚していると統計は示しています。

 そんな社会になっているのは、結婚式を司ることもある牧師としては大変残念です。無理して我慢しながら一緒にいるより、仲良く離婚するほうが良い。といった雰囲気を感じますし、「離婚」そのものが社会に受け入れられるようになりました。それは必ずしも悪いとは言えないと思いますが、だから余計に離婚が増えて来ているとも言えるわけで、微妙な思いがします。その背景を考えると結婚そのものが軽んじられる社会になっているからとも言えるのではないでしょうか。
 
 知人の家に、アメリカの女子高生がホームステイしたことがありました。ホストの知人に彼女はアメリカの故郷には友達が10人いて、そのうち8組の親は離婚していると話していたそうです。

 ある宣教師夫婦と仲良くなり色々な話をしているうちに、アメリカの両親や兄弟は、あなたがたはいつ離婚するの?と普通に尋ねられると戸惑いながら言っているのを思い出します。

 ヘレン・フィッシャーという人類学者は夫婦の離婚は4年目が危険と唱えています 。フィンランドの統計等を示しながら説明しています。アメリカではもっと早く、2~3年が危険なようです。恋愛結婚して大体4年すると、結婚当初の恋愛感情が次第に薄れてくる。更に別の異性へと気持ちが移っていく。動物学的には不自然ではないそうです。当然のことながら、年齢的に若い世代にそのような傾向が多く現れるようです。 たとえ子どもがいる夫婦でも、案外障害ともならず普通に離婚し、そして、更に再婚すると記されています。つまり、動物学的に生殖能力が高い年代層であると、より優れた男性、女性に目移りする、不倫する、離婚する、再婚するというパターンが現代社会の、主に先進国と呼ばれる国の中で起こっていることなのでしょう。
ある側面から見れば、なるほどとも感じます。特に経済的側面、本能的な側面から考えると説得力を感じます。けれど、彼女は人類学者ですから、どうしても人間を動物として見る視点が強調されすぎているようにも感じます。

 私は人間を考える場合には、「生」や「性」も大切ですが、もう一つの「聖」の側面を正しく捉えないといけないと思っています。動物的な側面からの見方をすると、あたかも、離婚することは合理性があり、不自然ではない、と考えてしまいそうになるからです。
 子孫が繁栄する為に、つまり動物的「生」に求められていることは何か?沢山の、しかも能力の高い子孫を残すことへの希求、確かにそれは動物的な面、本能と言えるかもしれません。その面だけが強調されるとすれば、「性」としての人間がクローズアップされなければなりません。

 けれど、「聖」としての人間、つまり、「人の微妙に揺れ動く心」についての側面はそれほど簡単に割り切れるものではないと私は思います。確かに、結婚も離婚も法的には一つの制度ですから、その背景には社会情勢や状況、文化、思想が入り組んでいることでしょう。古い旧約聖書の時代であっても、イエスが誕生され、地上に生きられた2000年前の時代でも離婚は一つの必然的な法であったことは間違いありません。 

 私は結婚20年となった今も、妻を愛する気持ちが薄れているとは思いません。むしろ無能で凡庸とも思える私を、夫として受け入れてくれている妻に感謝するばかりです。勿論、日常生活の中で些細な喧嘩をするとしても、それによって離婚が頭によぎることは、まあ考えられません。二人の間には真面目に「聖」なるものを感じます。

 結婚する前のことですが、私が神様の導きのままに、自分が牧師として立てられているのかもしれないと思いながらも、今後、神様の福音を担っていけるのだろうか?そんな思いの中で一心に祈りを捧げ、「神様、私のものは全てあなたのもの、私の人生は全てあなたのもの、ですからあなたの導きのままに私を用いて下さい」と熱心に祈りながら、けれど、その祈りの隅で願っていたのは、傲慢にも「でも、出来れば伴侶だけは私に選ばせて下さい」そんなひどい祈りをしておりました。

 けれど、そんな祈りをも神様は聞き入れて下さったと思います。というより、私が願った以上の伴侶が与えられたと思います。結果的にはやはり、神様の方が何枚も上であったと本気で思います。だから、いつも私の妻でありながら、神様から預かっている方としか思えないのです。それがとても健全な夫婦生活をさせて頂いている秘訣だとも思っています。

 しかし、これからの日本が、益々「離婚」は当たり前となり、もしそうなっていくとしたら、やっぱりどこかで、何かが違ってはいないか?と思うのは私だけでしょうか。何よりも、生まれて来る子ども達に対する愛情や責任が置き去りにされていく現実を私たちは忘れてしまってはいけないと思います。

 さて、聖書に戻りますが、どうしてファリサイ派の人々がイエスに「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか。」と尋ねたのかというと、イエスの時代よりも、もっと古い時代に定められた律法にはこう定められていました。
「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気にいらなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」(申命記24章1節)男女関係には、いつの時代も結婚と離婚は最大の問題なのかもしれません。
 この律法の何が問題かというと、「妻に何か恥ずべきことを見いだし」という部分です。現代の法律の専門家も、同じ法律でありながら、それをどのように解釈するかで意見が分かれ、司法の手に委ねられるように、神様から与えられた律法についても同様の状態だったようです。律法学者によって解釈が随分と違っていたようです。妻の「恥ずべきこと」とは何か?「恥ずべきこと」の明確な一つは、子どもが授からないことだったでしょう。古代の話しですから、子どもが授からない責任が、男性の側に問われることは殆ど無かったのではないでしょうか。女性の責任として扱われたと考えられます。子どもが授からない、それは離縁するに値する最も「恥ずべきこと」でした。

 更に「恥ずべきこと」について、ある律法学者は妻が他の男性と関係を持つ、つまり、「不倫関係、浮気関係」にある状態であると説明しました。それは当然離縁状を書けると説明したようです。しかしまた、ある律法学者は、例えば、妻がまずい食事、焦げたおかずなどを食卓に出したとすれば、それもまた、「恥ずべき」ことであると解釈して、離縁状を書くことが出来るとしたようです。更には、夫が自分の妻よりも、美しいと感じる女性に心が移ってしまった、そこで男性は離縁しようと考えて、何か妻に対して「恥ずべきこと」を主張して離縁状を出す。それも可能だったようです。

 解釈に大きな幅があります。結局のとことは、恐らく現代とは全く違う思考回路の中で、私たちには考えられない程の男性優位社会の中で、圧倒的に夫には有利に、妻には不利に律法が用いられていたのです。夫の思い通りに物事が運べるように出来ていたということでしょう。そもそも、妻が夫に「離縁状」を突き付けることは出来ませんでしたし、「離縁状」そのものが妻に対する配慮であったと言われています。離縁状を持たない元妻は再婚出来ないのです。「離縁状」は、妻が再婚出来るようにと配慮の中で、夫が渡して、今の夫とは正式に別れましたという証明書のような役割を果たしたのではないでしょうか。

 男女関係はいつの時代も複雑なものです。ファリサイ派の学者達の間でも、「離縁」することについては、考え方にも幅があり、案外厄介な問題ではなかったでしょうか。そんな厄介な問題をイエスに問うたのでした。ですから、問うた後の聖書の言葉は「イエスを試そうとしたのである」と書かれてあります。

 試された側のイエスは答えました。「モーセはあなたたちに何と命じたか」

 モーセとは、これまた古い時代の人物ですが、聖書について知らない人でも、むしろ映画などではよく知られています。1956年に作成されたモーセを主人公とした「十戒」 は壮大なハリウッドのスペクタル映画として知られ現代でも見ることが出来ます。「ベン・ハ―」などにも出演しているチャールトン・ヘストン演じるモーセや、ユル・ブリンナーなどが活躍しています。まだ見たことがない方は是非、お勧めの映画です。

 ここで、モーセの話しに深入りしますと、先に進みませんので少し急ぎますが、モーセは神様から、シナイ山の山頂で「十戒」を受け取った本人であり、自分たちは神の民と信じていたイスラエル民族の指導者です。「十戒」は文字通り、十の戒めが書かれた文章ですが、律法の中心でもあり、その他、沢山の細かい律法が聖書に記されています。その律法はモーセが神様から基本的には、口伝によって伝えられたことになっています。勿論、当時の羊皮紙とか、パピルス紙にも書き写され、その完全なものは残っていませんが、断片が現代でも時々、新たに発見されることもあるようです。
 
 そのモーセが律法の中では、「離縁することは許されている」とファリサイ派の人々は答えました。つまりファリサイ派の人々が問うたのは、「離縁」が良いのか、悪いのか、ではなく、どのような状態なら離婚出来るのか、という一つ踏み込んだ質問だったと思われます。離婚出来るか、出来ないかではないのです。

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2018-05-06 14:13:34 | 礼拝説教
【イザヤ書40章27~31節】【エフェソの信徒への手紙1章1~7節】

 過ぐる4月22日の礼拝後に2018年度の教会総会が行われました。2017年度の締めくくりとして、また2018年度の新たな歩みの節目として良い時が与えられました。2018年度の大塚平安教会の主題聖句をエフェソの信徒への5章1節から取りまして「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。」といたしました。

 私たちの大塚平安教会は、「神に倣う者として」生きていこう、それが2018年度の合言葉のようになれば良いのではないかと思っています。神に倣う者とはどういう生き方なのか、具体的には続く5章の2節を読みますとこうあります。「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げて下さったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」

 キリストに倣う者の特徴の一つは「愛によって歩む人」であるということではないでしょうか。

 マタイ福音書の7章7節には「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。」とあります。主イエスの教えです。愛によって歩む人とは、そのようにして、その与えられた状況の中に飲み込まれていくのではなく、与えられた状況の中にあってもなお、求め続ける人、探し続ける人、そして門をたたき続ける人として生きていく、主イエスもまた、そのようにしてご自身の地上での歩みを諦めることなく、十字架の死に至るまで、父なる神に従順であり、また、そのような状況で自らを殺そうとする者までをも含めて神に赦しを願った姿を思います。諦めないで祈り続けること。そこに愛がある。そういう歩みを主なる神は、私たちの教会にも求めておられるのだとも思います。

 しかしまた一方では、私たちが生きていく中で、求め続け、探し続け、門をたたき続ける、このようにして生きていくには中々骨が折れるわけで、疲れるなぁと思わないでもない。出来る人には出来るだろうけれど、とても、私には難しいと思われている方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 先日の夕方、娘がツタヤに行きたいというので、一緒に行きました。娘が映画を選んでいる間、私は本を立ち読みしておりました。今、ツタヤで六番目に売れているという本を読んでいたのですが、タイトルが「禅僧が教える 心がラクになる生き方」南直哉というお坊さんが記した本でした。これがなかなか、面白いのです。いきなり「自分を大切にすることをやめよう」とありました。

それで立ち読みしながら、少し癪な思いもありましたが、(笑)思わず購入しました。中身をご紹介しますと、例えばこう記されていました。

「人の存在は、誰もが生まれた瞬間に「他人に着せられた服」をそのまま着続けているようなものです。生まれる日も、場所も、性別も、体の特徴も、自分で選んだわけではありません。名前も、親に決められました。その親すら、たまたま「親」になっただけです。そもそも、自分から「この世に生まれたい」と希望して生まれてきたわけでもありません。
もし仮に、自分で望んで生まれたのであれば、生まれる日も、場所も、親も、自分で思い通りに決められて「望んだとおりの自分」になっているはずです。でも、「私は、何もかも望みどおりの自分だ」と言える人がいるでしょうか。
人はこの世に「たまたま」生まれ、他人から「自分」にさせられたのです。」
とありました。

 なるほどと思います。私も同じような思いを持っておりましたから、納得しながら読み進めたわけですが、人はこの世に「たまたま」生まれたのだから、どう生きるのかというと、あなたは頑張らなくても良いし、生きる意味をみいだそうとしなくても良いし、なりたい自分になれなくても良いし、置かれた場所で咲かなくても良いし、人生は嫌なことも多いので、ネガティブで当たり前だと続くのです。ですから、良く読んでいきますと、そんなに無理して生きなくて良いし、力を入れて生きなくても良い、つまり、自分を大切にしよう、大切にしようと頑張れば頑張るほど、疲れるから、そういう意味で自分を守るな、つまり自分を大切にしなくてよい、となるわけです。

 自分を大切にするとは、人と人との関係の中で、良いこと、悪いこと、気に入らないこと多く、様々な出来事が起こりますが、必死に自分のプライドを守ろうとしたり、優越性を守ろうとしたり、劣等感を感じないようにしようと努力しますので疲れるのだと思います。ですから、そんなに努力しない、頑張らなくても良い、なりたい自分になれなくてもよい、自分を大切にしなくて良いのだと続きます。  

 人は、案外多くの方が、今のままの自分では嫌だなと思っています。現代の多くの若者や、悩みを抱えている人の特徴は自分で自分を嫌いだと思っているところにあります。昨日、さがみ野駅に向かって歩いていましたら、二十歳過ぎ位のヘッドホーンを付けた青年が、音楽か何か聞きながら私の横を早足で歩いて行って、その前を歩いていたご婦人に「ババア、邪魔だ」と言って速足で去っていきました。私はすごく驚きました。これから何か起こるのかと身構えましたけれど、何事も起こらずホッとしましたが、きっとこの青年はどこかで病んでいると思いました。自分で自分が嫌だなと思っている一人ではないかとも思います。

 著者のお坊さんは、そのような自分の頑張りでは、頑張りきれない、なりたい自分になりきれない、そんな自分が嫌だなと思うよりは、たまたま「生まれてきた」自分だから、そんなに無理しなくていいよ、夢も希望も持たなくても大丈夫と、徹底的に、頑張るなと記すのです。頑張って、頑張って、なんとかしようと生きている人々にとっては、確かに読めば心が楽になるだろう、それだけの説得力もある文章だと思いながら読みました。

 私自身の経験からしても、十代後半から二十代前半にかけて、私なりの当時としては相当深い悩みを抱えながら、同時に自分が自分を嫌いで、将来も見えず、夢も希望も無く、刹那的に、その時その時を生きていた時代に、共感してもらえている、そのままの思いを受け止めてくれると思う小説や音楽にどれほど自分が支えられたかと思います。幾度も幾度も本を読み、また何度も繰り返し音楽を聴いては、気持ちが治まる思いがしたことを思い出しました。

 けれど正直にいうと、どんな言葉も、音楽も、しっかりと受け止めてくれはするのですが、それだけなのです。確かに一時的に気持ちは癒されます。けれどそこから新たな力が起こってくるわけではなく、生きるエネルギーの源には結局なりませんでした。
 自分だって生まれたくて生まれて来たんじゃない、たまたま「生まれてきた」のさと思って開き直りながら、求めても、探しても、門を叩いても、続かないのです。むしろ疲れるのです。先に繋がる力がどこからも与えられないからです。

 私にとって、決定的であったのは、やはり「聖書」でした。聖書はなぜ人は生きているのかを明確にはっきりと示します。なぜ人は生きるのか。ローマ書14章に7節に「わたしたちの中には、誰一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」とありますように、私たちの人生はたまたま与えられたのではなく、主なる神が、あなたは生きろと命を与え、生きる意味は「このわたしのため」なのだと説明しているのです。私たちはだれ一人として、たまたま生まれてきたのではありません。

 主なる神が私たちに命を与え、命を支え、命の主として、しかも共にいて下さる。そういう意味においても、エフェソの信徒への手紙の1章4節、5節の御言葉は深いと思います。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」

 私たちの命は、私たちが生きているのは、神の選びの中にある。神の選びとは神の愛の印です。それは、頑張らなくて良いというよりは、あなたが頑張っていても、頑張れないとしても、生きる意味を見出しても、見出していないとしても、どんな状態でも、無条件、無尽蔵に神はあなたを愛している、ということなのです。私はここにこそ神の救いがあると本当に思います。自分が自分を嫌いでも、それでも神は私を愛すると言って下さる。あなたの存在がそのまま愛の対象である。

 私たちに命を与えたもう方が私たちを愛する、しかも、神が自分の命さえ惜しくないと思えるほどの愛をもって、あなたを選び、あなたの存在が愛おしいと、接して下さるので、その愛によって、私たちは、求め続け、探し続け、門を叩き続ける力が与えられるのではないでしょうか。そこには、諦めるのでもなく、悟るのでもなく、刹那的に生きるのでもなく、神の愛があるのです。私たちは神に愛されている子供です。

 私達が新しくされる。特に今日は、これから新しい役員をはじめとする、奏楽者、また、子供の教会の担当者の皆さんの任職式があります。任職される方々もまた、自分で、自分でというよりはまさに神の選びの中で立てられたお一人お一人であります。それ故に、その役割は自分が頑張って行うものではないとも思います。神の愛の中に導かれ、愛の中に包まれてこそ、行える業ではないでしょうか。

 旧約聖書イザヤ書40章には「主に望みを置く人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る」と記しています。そのような望みをしっかりと置いて、私たちは共々に歩んで参りたいと思います。

 本日のエフェソの信徒への手紙の聖書個所をもう一度読みましょう。3節、4節にはこのように書かれてあります。

「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」
 
 この聖句は、神は転地創造以前から、私達を愛し、私達を聖なる者とし、私達を汚れのない者にしようとしてキリストにおいて、私達を選ばれたと説明するのです。決してたまたまではなく、私達が生まれる前から、いや、私達の両親が、おばあちゃん、おじいちゃんが生まれる前から、私達の祖先が誕生する以前に、すでに、神は天地創造の前から私達を選んでいると言うのです。

 私達がなんとか自分でクリスチャンとして聖なるものになろう、汚れの無いものになりたいと思いつつ働く、勿論、それはとても大切な事です。けれど、人の業ですから、どうしても限界があります。もとより私達人間は限りがあるのです。
自分達の力だけでは、どうしても聖なる者となりきれません。しかし、その限りある私達を、限りのない神がすでに、捕らえて下さっておられるのです。

 今日は、沢山の聖書箇所を申しましたが、もう一箇所だけ聖書を読ませていただきます。ヨハネによる福音書15章16節、そこを読んでみますと主イエスが直接弟子たちに語りかけている御言葉があります。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」
 私達が神を選んだのではないのです。神が私達を選んで下さった。これ以上の幸いはありません。感謝して新しい1週間を過ごして参りたいと思います。 お祈りいたしましょう。
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