日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

乳飲み子のように

2018-04-29 16:38:53 | 礼拝説教
【ペトロの手紙一 2章1~10節】
【ヨハネによる福音書15章1~11節】

 2週間前の礼拝ではヨハネによる福音書10章を読みましたがこうありました。「私は羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。羊飼いは主イエス、羊は私たちです。私たちのために主イエスは命を捨てるほどだと言われた。実際、主は十字架にかけられ、そして死んで、三日後に蘇られたわけですが、主なる神ご自身が、人のために命を捨てるほどだと言われる。世の中には色々な宗教があり、教祖とか、創始者と言われる歴史的にも偉大な人々が沢山おられますが、でも、なぜキリスト教なのか、私は人のために命がけだとそう言って下さる神は、この方しかおられないと思います。
私たちの為に、「命を捨てる」とおっしゃる程、あなたが大切だというのです。そんな愛によって人は真の救いと出会うのではないでしょうか。
 
 先週の礼拝ではルカによる福音書の9章23節の御言葉をご紹介しました。そこにはこうありました。「それからイエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」主イエスに従う人生は自分を捨てることだと主が教えられた。私たちはどこまで自分を捨てられるでしょうか。

 思いがけないことでしたが、先週の土曜日の夕方、週報を印刷するギリギリで電話連絡がありました。金曜日に教会員のO姉が急に入院して、手術をされたということでありました。
私が教会総会の資料をもって、Oさんご夫妻とお会いしたのは、金曜日の三日程前のことだったと思います。その時Oさんはとてもニコニコしておられました。次の検診に行って何も異常がないと言われたら、もう抗がん剤治療はしなくて良いから、あと一回だから、とニコニコしておられたのです。ですから、良かったね~、頑張ったね~と一緒に喜んだばかりでしたから、本当に驚きました。先週の週報には心臓の手術と記しましたが、私の聞き間違いで腎臓の手術ということでありました。金曜日に手術されて、私は日曜日の礼拝と総会が終わって、月曜日にOさんを訪ねて、腎臓であったことがわかったのですが、実はもう一回、手術をしなければならないと言われているというのです。
それで実際に、医者の判断で次の火曜日に再手術をされたと伺っています。今、安静状態であろうかと思いますけれど、是非、皆さんにもお祈り頂きたいと思います。

 でもね、月曜日にお会いした時にOさんの願いを聞きました。その願いは、私はなんとしも、夫のHさんよりも長く生きたい。夫をしっかり自分が送り出して、それからでなければ死ぬに死ねない。だから何があっても頑張る、というのです。その言葉を伺いながら、二人で祈りました。その後、とても強い意志を持って、二度目の手術に臨まれたと聞いています。

 自分を捨てる、それは主イエスが隣人を愛しなさいと教えてくださいましたけれど、既に、自分の体は、自分ではどうしようもないけれど、でも、尚、人を思い続け、そして死ぬのではなく人のために生き続けてやると思える愛、それもまた、自分を捨てるという意味ではないかとも思います。
 そのようにして、主イエスが御自分を捨てられ、またそれ故に真の愛を知り、その愛に生きる者だけが、すなわち私たち自身が、「自分を捨てる」思いに至れる、それはまた、クリスチャンとして生きる私たちに与えられた素晴らしい特権ではないかと思います。

 今日は、先ほどペトロの手紙という箇所を読んでいただきました、2章1節、2節を読みますとこうあります。「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけの無い霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」
 世の中の多くの方々、すなわちご自身を捨てるほどの方の愛を知らないで過ごしている多くの方々の特徴は、なかなか自分を捨てられないということではないかと思います。

 自分を捨てられないとどうなるのか。聖書にありますように悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口の罪に陥るのではないですか。

 昔のことですが、私が神学校に通っておりました時に、ある学生ととても仲良くなったのです。最近、テレビなどで「腹心の友」という言葉が時々用いられているようで、どうも安倍総理が使ったのでしょうか。言語的にはあまり正しくないようですが、とても仲の良い友達という意味として用いたのでしょう。そんな一時期、腹心の友のようになったのですが、その人と話していると、とにかく人の悪口を話すのです。あの人はこうだ、この人はこうだと、あの先生はこうだ、この先生はあ~だ。そういう話しをずっと聞いていると、人は互いに似てきますからね、いつの間にか、私自身も、一緒になって、あの人はこ~だ。この人はあ~だと話している。
そしてね、人を評価するとか、人の悪口を話すというのは、どんなにか気持ちの良いものなのかを人生で始めて知った思いがしたものです。

 でもね、ふと思ったのです。今は腹心の友だから、私のところにやって来ては、そうやって人の悪口を言っているけれど、でも、他所で、私はどれだけ悪く言われているだろうか、ですからね、気が付かなければならないのです。人の悪口を言う、その時は気持ちが良いかもしれませんけれど、言って損するのは、言われている相手ではなく、言っている本人です。

 人の悪口を聞くでしょう。でもね、聞いている人は思うのです。あ~この人は、自分のことも、他の人にこうやって言うんだなと思うのです。だから、悪口を言う人は最後には人間関係があっちでも、こっちでも悪くなるようです。だからね、言うとするなら、それこそ陰で、あの人は立派だ、あの人は流石だと、一生懸命にほめてあげることですよ。不思議なことに悪口はすぐに伝わるものですが、ほめると伝わらないものです。だからいつでも、どんな時でも、ほめることです。ほめ続けることです。けれど、それがなかなか続かないのです。なぜか。

 悪口を言えるということは、相手よりも、自分が勝っていると思うから言えるわけで、あるいは劣っていると思っても、今度は「ねたみ」という思いが出てきて、結局は悪口を言ってしまうのですが、そのようにして、自分と人を比べて生きると、いつの間にかサタンの策略にはまり、いつの間にか優越感をもって、あるいは劣等感で人を見ていると、そこから神の愛は出てこないのです。自分の思いだけが出て、しかも、あの人はこうだ、この人はあ~だ、ですからね。もう人のことが気になって、気になって仕方がない。

 だから、どうするのか、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口、一言でいえば、プライドと言う言葉かもしれません。そんなものは捨てなさいと聖書は告げるのです。

 捨ててどうするのか、「生まれたばかに乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。」と告げるです。

 「混じりけのない」とは穀物の中に異物が入らないという意味だとありました。例えば、ご飯を食べているとする。その時、ご飯の中に、砂が一粒でも混じっていたら口の中でジャリっとすると、嫌な気持ちになるものです。もうそのお茶碗のご飯全部が嫌になってしまう思いにもなる。でも、そうならないように、大切なのは「霊の乳」を慕い求めなさいというのです。

 ここで用いられている「霊」は、もともとはロゴスというギリシャ語に由来するとありました。ロゴスとは聖書では「言葉」と訳されます。特に漢字では、「言」という言葉一つで言葉と読ませることもいたします。それはただの言葉ではなく、神の御言葉であり、神そのものだと言っても良いかもしれません。霊の乳とは、「御言葉の乳」と訳すこともできますし、「神の乳」、「神のミルク」ともいえる。あるいはもっと言えば、「キリストにかなう乳」、「キリストのくださる乳」としても良いとありました。

 生まれたばかりの乳飲み子が、母親の母乳を慕い求めて、それを飲み、命が生き生きとして、成長するように、確かに育っていくように、私たちが飲むものは、キリストが下さる乳、キリストの下さる御言葉です。しかもそこにおいて大切なのは、異物が入らない、混ざってはならないということです。キリストの愛の中に悪意やねたみが混ざってはならないのです。

 私たちはキリストを知る前は、この世の考えの中で育ち、成長して来ました。ですから時には、自分と人を比べて、そこで優越感に浸り、劣等感にさいなまれ、プライドが傷つき、また、ねたみに生きて来たものです。けれど主は、そのような私たちのために、ご自身を捨てて下さり、私たちと繋がってくださいました。
 
 だから、私たちも、自分を捨てて、すなわち、自分が抱えている過去のあの事、このことを捨てて、恨みや悲しみを主に任せて、主イエスの救いに向かって成長するために、私はあなたの御言葉を飲みますと、決心することです。
 
 「プラシーボ効果」という言葉があります。もはや治らないと言われていた病気の人がいるとして、もう自分はダメだなと思っていたら、お医者さんがこういった。「この薬は、半年前に外国で開発されて、あなたのような病気の人がどんどん治っているという報告が出ていますよ、まだ日本では認可されていませんが、試してみますか?」と言われて「そういうことなら、是非、飲みたい。」そうやって試してみる人は、治る確率がグンと上がるそうです。薬も確かに効く上に、もうダメだと思っている気持ちが、治るという気持ちに代わる。プラシーボ効果とは、実は薬以上に、人の気持ちによって大きくその人が変わっていくという点なのです。
 
 私の母親が先月で82歳になりました。ご存知のように70代で認知症となり、我が家にやってきました。それでも元気な時は礼拝にも連れてきていましたが、最近は礼拝が大分辛くなってきているように感じ、遠慮させていただいています。
 それでも、母親の良いところは、いつでも前向きな姿勢です。毎朝、朝食を食べながら母親が聞いてくるのです。「今日はどこかに行く日なのかい、行かない日なのかい」、デイサービスが無い日は、「今日はどこにも行かないよ」と言うと、「あ~そりゃ、良かった。私は、もうどこにも行きたくないもの。家にいられるのは幸せだ」と言うのです。
 でもデイサービスの日になると「今日は、外に行く日だよ」と言うわけです。すると母親は何というかというと「今の時代はいい時代だね、私のようなものでも行くところがあるんだから」と言って、ニコニコして出かけていくのです。
 行かない日でもよかったという、行く日でも良かったという、母親の人生を思うと、決して楽な人生ではなかったと思うのですが、でも、母親はどんな時でも、今が一番良いと言いながら、子どもの時から、そう思って、そう思い続けて生きて来たなと思うのです。プラシーボ効果とは、その人の気持ちがどう思うのかによって、人生は大きく変わるということです。Oさんが、私はなんとしても生きると言われると言われたその思いもまた、人は気持ちで生きることを示しているのだと思うのです。

 皆さん、主イエスは「私は復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と話されました。この方を私たちは信じているのです。「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに見を結ぶ」と言われる方がおられます。
 私たちが繋がるのは、この方です。この方に繋がるから、自分を捨て、新しい命に生きることが出来るのです。なぜなら、この方がおられるなら、私たちの人生のどんな時でも大丈夫、道は必ず開けるからです。そう信じることが出来るからです。乳飲み子がおっぱいを飲んで大きく成長していくように、私たちは、主なる御言葉を飲み込んで、私たちの人生を確かに育てて参りましょう。
お祈りいたします。
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愛に怖れがない

2018-04-22 18:03:00 | 礼拝説教
【ヨハネの手紙一 4章13~21節】
【ヨハネによる福音書13章31~35節】

 本日は、お知らせしておりますように礼拝後、教会総会が開催されます。会員の皆様には総会資料が先週配られましたので、お読みの方もおられるかと思います。主なる神のお働きと皆さまのお祈りの中で、昨年度の一年も守られて過ごすことが出来たと思っております。大塚平安教会の総会資料は本当に立派な資料で、名前は出しませんが、私が洗礼を受けた教会では総会と言いましても手元に殆ど資料らしきものも配られることもなく、あっという間に終わっていたことを思いますと、資料を見ただけでもすごいなと思います。資料を見てみますと、それぞれの会が一年間、本当に一生懸命に奉仕して下さり、豊かな成果を上げて下さっていることが良く分かります。
 
 その中で私が昨年一年、思うように伸びないままに終わったかなと思っているのが、週報の裏面に印刷されていますが、テレフォン・メッセージの働きだろうと思うのです。
 
 テレフォン・メッセージは既に鈴木伸治先生の時代に行われていたわけですが、私が赴任して参りまして、そのまま受け継いだわけですが、どうも年々聞いて下さる方の数が減っていくのです。ここ2~3年は特にその数が減っていっているのがわかります。何が悪いのかなと考えていたのですが、今の時代、携帯電話が完全に普及しまして、まさに一人に一台の時代のようになってですね、誰でも聞こうと思えば聞けるはずだと思うのですが、けれど逆にメールだけで事を済ましてしまうようになっていますから、電話をかけるということ自体が減っているのではないか、そうするとテレフォン・メッセージという伝道方法は時代的にそぐわないのでないか、と、色々と考えたりいたしました。
 
 それで、2018年度は、止めてみようかなと思いまして役員会で相談いたしました。そうしたら、ある役員が「鈴木先生は毎週、メッセージを入れていましたよ。」と言うのです。つまり私よりもずっと頑張っていましたよ、そして、だから、止めるなということです。(笑)
 
 それでですね、私も思い直しまして、2018年度はとにかく、毎週メッセージを入れてみようと決心しました。とはいえ、まだ4月で始まったばかりですが(笑)今週まで、毎週新しいものを入れているわけです。
 
 けれど、毎週メッセージを入れるのはなかなか大変です。何か長く続くコツのようなものはないかと考えました。そこで思いつきましたのが、また週報になりますが、子どもの教会の礼拝の欄の下に掲載されているショート・メッセージ。このショート・メッセージは9時からの礼拝の聖書箇所に添って私が毎週記しているメッセージですけれど、このメッセージは、まだ何か生かし切れていないように感じていたものですから、このメッセージをテレフォン・メッセージ用にアレンジして活用してみようと思いつきました。

 それで、今週の週報には何を記したのかというと、子どもの教会の聖書箇所はルカによる福音書9章23節の御言葉、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」とあります。

 先週の礼拝では、主イエスが「私は羊のために命を捨てる」と言われた箇所から御言葉のとり継ぎをさせていただきましたが、この「捨てる」という言葉はとても強い言葉ですと申し上げましたが、その主がルカによる福音書では「わたしについて来たい者は、自分を捨てて」と話されているのです。主イエスも私たちのために命を捨てて、私たちもまた主の後に従うために、自分を捨てて。この自分を捨てるというのもなかなか、強い言葉だと思ったのです。

 自分を捨てるとはどういうことだろうか、そこで思いついたことを週報にも記しましたが、次男のKがまだ3歳ぐらいの頃だったと思うのです。娘が生まれて間もない頃でしたから、次男と私が一緒の布団に寝ていたのですが、Kがひどい風邪をひきまして、咳はするわ、鼻水は出るわ、熱はあるわ、大変でした。私も毎日を忙しく過ごしておりましたので、一緒に寝て風邪を移されたら大変だと思いまして、Kを腕枕するのですが、出来るだけ自分と遠くの方に寄せて、私は自分の腕と反対側に顔を向けて寝ようとしたわけです。

 けれど、そういう時というのは不思議なことに、まあ、泣き止まない。咳はするわ、苦しそうにしているわ、泣き止まないわ、こっちも泣きたい程なのですけれど、いくら待っても泣き止まないものですから、こっちも決心して、風邪が移っても仕方ないとばかりに、顔を向き直して、Kをしっかりと抱きしめると、それが不思議と泣き止んだわけですよ。
 ほどなくしてスヤスヤと寝てしまいましたという話しをですね、まあ、今週は既に話してしまいましたから、皆さん、電話はしなくても良いのです。(笑)

 何を申し上げたいのかと言いますと、「自分を捨てる」とは「捨て身になる」ということではないかと思うのです。捨て身になってこそ、そこで初めて物事が進み、暗闇だと思っていた状況の中に、一筋の光が差し込んでくるのではないかと思います。

 本日は、ヨハネの手紙という箇所を読んでいただきましたが、4章18節には「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。」と記されています。つまり、逆に考えれば何かの状況で「恐れ」が起こると、そこに愛が無くなるということではないでしょうか。

 聖書は旧約聖書も、新約聖書も、ひたすらに「恐れるな」と記します。新共同訳聖書の中では、少なくとも44回「恐れるな」と記されてあります。その最初の「恐れるな」は創世記のアブラハムに対して、二度目は申命記の中でイスラエルに対して、三度目は士師記の中で、士師であるギデオンに対して、四度目はサムエルがイスラエルの民に対して「恐れるな」と言うのです。なぜ、恐れるな、と告げるのか、恐れが起こると、そこに愛が無くなるからです。

 ジェラルド・ジャンポルスキーという世界的に知られている精神科医の先生がおられて、先生の著書の中で一番売れているのが薄い本ですが「愛とは、恐れを手放すこと」というタイトルの本があります。

 そこにこう記されています。
「怖れと愛を同時に経験することはできません。どちらの感情を望むかは、つねに私たちが選ぶのです。怖れではなく愛を選び続けることで、人とのかかわりの性質や本質を変えることが出来るのです。」この言葉の意味は本当に深いと思います。

 その著書に、こんな話が記されています。ある時、ジャンポルスキー先生は精神科病の隔離病棟の患者が突然暴れだしたと連絡を受けました。行ってみると、身長が190㎝、体重130㎏はあろうかという男性が暴れているというのです。力ではかないません。ですから遠くで見守るしかないのですが、けれど、見ている内に気が付いて来たそうです。その患者はとても恐れているのではないか。だから先生は話しかけました。「私は医者のジャンポルスキーだ。部屋に入って君の力になりたいが、怖いんだよ。けがをさせられるんじゃないかと思うと怖いし、きみがけがをするんじゃないかというのも怖い、もしかしてきみも怖いんじゃないかと思っているんだがどうだろう。」
すると、その男性は少し大人しくなって、先生の顔を見て言ったそうです。「あんたの言うとおりだよ、俺も怖いんだ」

 最初、二人が話している会話は怒鳴っているかのようだったそうですが、次第に患者の男性が落ち着いてきて、だんだん静かになり、最終的には薬を飲ませることが出来、部屋をでることが出来たとありました。

 この話は医者が上手く患者をおとなしくさせたという面もあると思いますが、実は、医者の方が患者に「怖い」という思いを告げて助けを求めたとき、彼は私と一体になってくれたのだと説明してありました。
 恐れの中では人は一体になれません。一つになれるのはやはり捨て身の愛の力ではないでしょうか。

 愛には恐れがない。なぜなら「神は愛だからです。」先ほど、聖書の中の恐れるなという箇所を申しましたが、聖書の中で、最初に登場する恐れた場面は創世記の3章に記されています。「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか」彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」というこの場面です。食べてはいけないと言われたエデンの園の木の実を食べた後のことです。

 彼らは知恵の実を食べたと言われますが、人は神が本来望まれなかったところの知恵や知識、それこそが「恐れ」ではないでしょうか。人を愛する知恵ではなく、人を恐れる知恵や知識は同時に神をも恐れるようです。
しかも、その恐れは神から離れていこうとする力ではないでしょうか。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」とコリント書にもあります。

 先ほど、ヨハネによる福音書13章を読んでいただきました。ユダが出て言ったという場面から読んでいただきましたが。なぜ、出ていったのかというと、主イエスを裏切るために出ていったのです。この場面はいわゆる最後の晩餐と呼ばれる場面のクライマックスのような場面です。
 主は既に御自分がこれから、捕らえられ、裁判にかけられ、十字架刑になるということをご存知だったと思います。けれど、もし、そこから逃れようとしたのなら、まだ時間はあったと思います。しかし、この時、既に主イエスの思いは決まっていました。
 
 そして、いわば弟子たちに遺言のようにして話し始めます。その一つが「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
 
 主イエスの十字架と復活の出来事は、私たちが恐れではなく、愛に生きるようになるためでありました。そして愛とは何かを弟子たちに示すためにも、主はそこから逃げるのではなく、まさに捨て身になって、ご自身を捨てて、愛とは何かを示して下さいました。
 けれど、弟子たちは恐れました。恐れたから皆が逃げてしまいました。でも、それで全てが終わったわけではありません。主イエスは復活され、弟子たちの前に現れて下さいました。その出来事は主イエスご自身の復活であると同時に、弟子たちもまた主の前に死から復活へ、絶望から希望へ、恐れから愛へ、離れていくことから、繋がっていくことへの人生を歩むことになるわけです。

 恐れに生きる人生ではなく、愛を生きる人生を選択して、弟子たちは主イエス・キリストの福音を宣べ伝える人生を歩む一人一人となっていくのです。

 「互いに愛し合いなさい。」この主イエスの掟は、私たちの教会にとっても大切な教えです。今日の教会総会において、私たちは2018年度の歩みを力強く歩みだそうとしています。昨年度は天に召されて行かれた兄弟、姉妹もおられました。けれど、天におられるとしても、地にあるとしても全ては主のもの、その主の栄光をいつでも、どんな時でも宣べ伝える働きを私たちは止めるわけにはいきません。

 昨年より、今年、今年より、来年へと向かって、私たちは神の愛を一方の手でしっかりとつかみ、愛に満ちて、もう片方の手を隣人へと伸ばして互いに愛し合っていきましょう。どんな時も大丈夫と平安へと導いて下さる主に感謝して、主に従って歩んでまいりましょう。

お祈りいたします。
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私は良い羊飼いである。

2018-04-16 10:31:30 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書10章7~18節】

 亡くなられていつの間にか10年経ちますが、河合隼雄という心理学者がおりました。少し極端かもしれませんが、私の思いの中では、この河合先生から心理学という学問が世の中に認知され、人の心の動きについて、多くの人が関心を持つようになってきたのではないかと思えるほどの先生です。以前にも紹介しましたが、先生の著書に、「心の処方箋」という本があります。
その本の最初に「人の心がいかにわからないかを、確信をもって知っているところが専門家の特徴である。」と記されていまして、河合隼雄の名言の中に、必ず出てくる言葉としてもよく知られていると思います。あるいは、「説教の効果はその長さと反比例する」(笑)という言葉もありまして、これもきっと名言だろうなぁとは思うのです。

 更に、読み進めますと「己を殺して他人を殺す」というタイトルがある話がありまして、どういうことかというと、ある一人の女性がいたというのです。「己を殺す」という言葉は、日本では案外美徳と考えられていますが、その女性は幼いころからそういう躾を受けて、己を殺して生きてきたというのです。とても大人しく、良い子と言われて育ってきました。学校の先生にも受けが良く、卒業して、良い職場も与えられて、一生懸命に勤めました。けれど、暫くすると、気づいてきたことは、どうも、自分は職場からの評判が良くなくて、もっと驚いたことに、「勝手な人」だと噂が立っていたというのです。それで、途方にくれて、先生のところに相談に来たというのです。
話を聞いて次第にわかってきたのは、この女性は「己を殺して」生きてきたけれど、自分自身は生きているので、全部を殺すわけにはいかず、ですから正しくは己の一部を殺しながら生きてきたわけです。ところが、殺したはずの一部が、自分では殺したはずだけど、どうしても再生してきたり、実際は殺しきれないでうごめいていたりする。
 
 そこで起こってくるのは、簡単に言えば、我慢の限界です。皆が楽しんでいるときに、突然、その場がしらける言葉を言ってみたり、すごく大変な仕事を熱心に皆で取り組んでいる時に、今日は体調が悪いので早退しますと言って帰ってみたり、ですから、勝手な人だと言われるのだと気が付いてきた。
 普段は「己を殺して」耐えているので、突然、その限界が来て、周りの皆が思ってもみない行動を起こしていたのだとわかってきたというのです。

 しかし、これは言ってみれば、この人の中で殺されたものが生き返ってきて、そして、復讐しているようなもので、復讐ですから、生き返って他人を殺すことをするというのです。
己を殺すと、いつのまにか、知らない間に他人をも殺していたのだと気が付いてくる。だったら、己を殺さないで自分が生きれば良いと思って、自由に生きようとすると、世の中はそれこそ「勝手な人」だと言われてしまう。特に私たちの日本社会ではそういうことが良く起こります。どちらにしても難しい社会を私たちは生きているものだとありました。

 その文章の最後の締めくくりとして、「自分を見事に殺しきって、それが新しい自分として再生してくるのを明確に知るのは素晴らしいことであるが」ともありました。
なるほどと思います。けれど同時に「自分を見事に殺しきる」ということが果たして出来るのかどうかどうか、これもまた難しいことではないでしょうか。それこそ私たちには出来ない相談だと思うのです。

 教会に時々、相談に来られる方がおられます。子どものことでと、相談を受けますが、この方がいつも言われるのは、「先生、私は大丈夫ですが、子どもが心配で。」、「私は大丈夫ですが、子どもが心配で。」これが口癖のようになっておられる。
 この言葉を聞きますと、私もつい意地悪心が出てきたりして、「お母さん、お母さんが大丈夫なら、どうして相談しに来たのですか。相談しなくても、お母さんの大丈夫を、お子さんに伝えれば良いのではないですか」とは言いませんけれど、そう言うと来なくなりますからね。ですから「お母さん、ここに来られるだけでも偉い」と言って励ますわけです。

 皆さん、私たちは何も相談するほどの悩みもないと思われている方ばかりでしょけれど、案外「私も大丈夫じゃないし、子どもも大丈夫ではありません、」とは言えないのです。なかなか言えない。やっぱりどこかで自分のプライドというものもありますし、見栄もあるのです。

 二年ほど前に、高校に通っていた息子が、謹慎を受けて、二か月も家におりました。わざわざ学校の先生がやってこられて、息子と何時間も話しをしてくれまして苦労をおかけしたのですが、先生が言うのです。「お父さんもしっかりと息子さんと話し合って下さい」何度も言われるのです。でも、でも、これがこちらとしてもどうしても癪にさわるのです。(笑)やっぱりね、息子のことは自分がよく分かっていると思うのです。十分に話していると思うのです。先生より深く理解していると思うのですよ。でも、結局、先生の言葉を受けて、息子と必死に話しをしました。するとやっぱり、話をしてよかったなと思うのです。そう思うまでは大分時間がかかりました。

 人は、案外誰よりも自分は耐えていると思っていますし、己を殺していると思っています。だから上手くいかない時もあるのです。己を殺して、人を生かすというよりも、己も、人も共に殺してしまうようなことがよくあるのだと思うのです。そんな姿が私たちの本当の姿ではないでしょうか。なかなか私たちは私たちの命を捨てる、出来なことだと思います。

 だから、私たちには主イエス・キリストが必要で、神が私たちと共におられるという信仰が求められるのだろうと思います。今日は、ヨハネによる福音書10章という箇所を読んでいただきました。10章14節、15節にこうあります。「わたしは良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。」
良い羊飼いの特徴その一つは、自分の羊を知っているし、羊たちも主イエスを知っているというのです。
 
 先週、子どもの教会の礼拝がありまして、礼拝の後に、進級式という式を行いました。子供たちが前に来て、名前と何年生になりましたと言って、お祝いする小さい式です。子供たちが一人ずつ、やって来ては、話をする。私が司会で行っていましたが、子供たちのいつもの見慣れた顔ですから次々と紹介しては拍手をして、それで最後の子になりまして、名前も顔もわかっているのですが、つい、大きいなぁと思って、「はい、何年生になったの」と聞きましたら、親も子もちょっとびっくりした様子で、「花組から星組になりました。」と言うのです。
 あら~、まだ幼稚園生でした、しかも、ドレーパー記念幼稚園ですからね。(笑)自分で情けないと思いましたが、良くない羊飼いの典型のような者です。私たちは知っていると思っても、このようにして失敗してしまいます。でも、主イエスは「私は自分の羊を知っている」というのです。だから良い羊飼いだというのです。

 この知っているという言葉は、単に名前を知っている、この人の特徴を知っている。この人の年齢を知っているという意味以上に、この人を「愛している」という意味が込められています。私は自分の羊の一匹、一匹を、一人一人を愛している。あ~ダメだなと思ってしまう、なんと不十分なと思う、私たちの日常の中で、その気持ち、よく分かるよ、でも大丈夫、心配ないとしっかりと執り成して下さるというのです。どのようにして執り成して下さるのか、良い羊飼いの特徴の二つ目、「わたしは羊のために命を捨てる」と、命をかけて執り成して下さるというのです。

 そのようにして実際、主イエスは十字架にかけられるほどに、命を懸けてまで私たちを愛してくださったわけですが、大切なことは、十字架で死なれただけではなく、本当の愛は、死んで、更にその死んだことで終わるのでもなく、その先に起こった復活という出来事ですよ。「わたしは羊のために命を捨てる」でも、己を殺して、己も人も生きる道があるというのです。そういう道があることを私たちに示して下さいました。

 ヨハネの手紙一の3章16節にこうあります。「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです。」

 皆さん、ここで気が付かれた方がおられるかもしれません。ヨハネによる福音書も、ヨハネの手紙も「命を捨てる」というのです。一人に一つしかない命をなんで捨てるのか、でも、この捨てるという言葉も、主イエスの愛の形です。それは、もったいないけれどとか、これは大切な者だからよく感謝して受け取るようにといったように、恩着せがましくないといということです。先ほど、次男の話をしましたが、もっと前の長男が高校に入ったころだったと思いますが、何かの記念にと腕時計をあげたのです。本当は私がとっても気に入っていて、しかも、何かの特売で格安で売っていたものを、家内に頼んで買ってきてもらったものでした。

 自分としても思いが込められていた物を、父親らしくかっこよくお前にやるよと言って、それから数か月息子が時計をしていない、あの時計どうした。あ~、無くした。まあ、腹が立って腹が立って、だからそれなら最初からあげなきゃよかった、人間はそんなものです。

 だから、主イエスは、ありがたく貰っておくようにとか、もったいないけれど、ではなくあなたの為にはこの命を捨てる、というほどの愛を持って、つまりは一方的に無条件、無尽蔵に主が命を捨てるというのです。あなたの為なら少しも私の命は少しも惜しくないという思いをもって「捨てる」と告げられたのではないでしょうか。

 だから皆さん、主なる神が良い羊飼いとして、自分の命を捨てると言われるほどの愛を受けて、私たちは己を殺して、他人を殺すような偽物の愛ではなく、主イエスに与えられた本物の愛を受けて生きていきたいものです。

 本物の愛を受けて生きていくためには必要なのは三つです。一つは自分を愛すること、二つは隣人を愛すること。そして真の羊飼いである神を愛することです。

 人は、不思議なことに自分が自分を愛している分だけ、隣人を愛することが出来ます。ですから自分で自分が嫌いだなとか、嫌だなと思うその計りで、隣人も計りますから、まずは自分で自分を愛することです。
しかも、たっぷりと愛することですよ。お腹が空いたね。私も空いているのよ。では解決にはなりません。お腹が空いたね、あらそう、ここにたっぷりとあるよ、ということで解決になるわけで、そのように、まず何よりも、自分は、神の良き作品として、この世に命を与えられ、主なる神が自分の命を捨てるとまで言って下さるほどに、私は愛されているんだなぁ。その幸せを生きることです。

人から何をどう言われようとも、私は神から愛されている、だから大丈夫、と自分を励まして、神の聖霊を得神のエネルギーを蓄えることです。

 自分で自分を励ませない人は、人からの励ましを求めるのです。でも、人からの励ましは、時には励ましになるかもしれないけれど、時には邪魔なものです。だって、励ましは頑張れ、頑張れですからね、そう言われるともっと疲れることだってあるじゃないですか。ですからしっかりと自分を励ますことです。内なる人を励ますことです。そうすると日ごとに新しくなるのです。そこで蓄えたエネルギーでもって隣人を愛することが出来るというわけです。

 まずは自分を愛すること、そして二つ目は隣人を愛することです。隣人とは誰ですか、簡単です。隣の人です。それは隣に座っているという意味ではなく、身近な人ということです。だから家族、ご主人なら奥様を、奥様ならご主人を、息子を、娘を、父を母を、愛することです。でも、これもなかなか大変です。身近であればあるほど、互いに全てがわかっていますから、家族伝道程難しいものはないと言われる所以でもあるでしょう。でも、その秘訣は、自分の羊飼いをいつも知ることでしょう。ここがやっぱりカギになるのではないでしょうか。

 そして、何よりも神を愛することです。神を愛するとは、自分が主人公になるのではなく、神を自分の主人公として、この方が私を生かし、この方によって私が生き、生かされていることを知ることです。そして、生かされている喜びを、喜びの人生を生きていくことではないでしょうか。

 2018年度が、始まっています。この年度も良き羊飼いである神の愛によって、私たちは生きて参りましょう。
 お祈りします。


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聖霊を受けなさい。

2018-04-08 18:52:19 | 礼拝説教
【コリントの信徒への手紙二 4章7~18節】
【ヨハネによる福音書20章19~23節】

 ある著名な先生の本を読んでおりましたら、信仰について記してありまして、信仰には二つの形があるとありました。 (「中断される人生」近藤勝彦著 教文館)

 一つの形は「~であること」を信じるという形、例えばコリントの信徒への手紙一15章にこうあります。「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたこと」~であることを信じる。「出来事の信仰」と表現してありました。これが一つ目。
 二つ目は出来事ではなく、人を信じる、つまり「よみがえられた方」を信じる、信仰の形があるとありました。
 
 この二つ、出来事を知って信じる信仰、そして、その出来事によってよみがえられた方を信じる信仰、どちらかが、大切ということではなく、その二つともが大切なのだとありました。

 今日はヨハネによる福音書の20章から読みましたが、「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」とあります。ここに記されている弟子たちの姿は「出来事の信仰」というよりは、出来事に翻弄されている姿であろうと思います。
 自分たちの師匠であったイエス様が、何が悪かったのか、何が悪くなかったのかもよくわからなかったと思います。けれど、はっきりわかっているのは、主が捕らえられたこと、裁判にかけられたこと、十字架刑となったこと、そして死んだということです。
 弟子たちは主イエスを失い、もはや夢も、希望も無いと嘆いていただけでもなく、それどころか、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた、とあります。つまりは隠れていたということです。イエス様が何の罪なのか実際のところは分からない、けれど、イエス様が捕えられたならば、弟子である自分たちも捕まってしまうかもしれないと思うと食事も喉を通らない、体も震え、心も震え、せめて今は誰にも見つからないように、じっとしていたのでしょう。
 せめて自分達の身の安全だけでも確保しなければ。もう完全に後ろ向きの姿勢です。朝に主イエスの墓に向かっていき、そこで復活の主イエスを告げ知らせを聞いた女性たちと正反対のような、そんな印象も受けます。
 
 そのように、一連の出来事に恐れを感じ、震えていた弟子達のもとに、復活された主イエスが現れてくださいました。「あなたがたに平和があるように。」この言葉はヘブライ語ではシャロームです。平和の挨拶です。シャローム、平和があるようにと主は弟子たちに声をかけます。弟子達は主を見て喜んだとありますが、驚きや戸惑い、困惑、恐れと言った様々な思いが一瞬の内に、心を駆け巡ったでありましょう。

 そこで、再び21節で主がシャロームと言われました。もう大丈夫だ、安心して、平安を持ってこの部屋から出て行きなさい。そんな思いを込めて話しかけられました。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
 遣わすとは一人ひとり主イエスの復活を宣べ伝える者として遣わすということです。しかし、ただ遣わすわけでもありません。
 「あなたがたを遣わす」と言ってから、彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。」聖霊を受けるということは大切なことです。聖霊を受けることによって、出来事の信仰から、復活された方を信じる信仰へと人は導かれていくのだと私は思います。
 
 先週の一週間、私は入学式が続きました。月曜日にはS兄が入学された日本聖書神学校に、水曜日にはT兄が入学された農村伝道神学校に行ってきました。本当は火曜日が家内の弟が入学した東京神学大学の入学式でした。そこはどうしようかと迷ったのですが、行きませんでした。でも、後で思いました。全員が同じ神学校に入ってもらえたら(笑)一回で済んだのに。(笑)
 まあ、それでも、それぞれとても和やかな、笑顔の溢れる入学式であったと思います。式の後、祝会が開かれまして、入学された方々が一言ずつ今の思いを話しておられまして、これまでの仕事に区切りをつけて入られた方もおられましたし、神学校に入るために何年か働いて、学費を貯めて入りましたと話された方もおられました。とにかく皆さんが笑顔で良かったと思いました。

 でも不思議なことに私は、どこかで、なんで神学校に入ろうと思うのかな、よりによって神学校に入ろうって思うんだな。そんなことを思っておりました。そして、そう思いながら自分はどうだったのかとも考えていました。
 
 私自身のことを申し上げれば、今思いましても、もうこの道以外の道はないという思いだったと思います。
 それでもきっと周りから見れば、なんでそう思うかな、と思ってみられていただろうと思います。入試のペーパーの試験が終わりまして、その日のうちにでしたか面接がありまして、私が一人座って、先生方が取り囲んで話をされる、なぜ、神学校に入ろうと考えたのですか、必ず質問される問いかけです。実際のところ、何をどう話したのかはよく覚えておりません。

 けれど、覚えているのは、私が一生懸命に話している言葉を、当時の教授をされておられた今橋朗先生が懸命にとりなしてくださったということです。きっと入試の成績が良かったわけでもなく、それほど見込みがあるとも思えなかっただろうと思われるのに、今橋先生がなぜか懸命に支えて下さった。その後も実際はずっとお世話になった先生でありましたが、とにかく合格させていただき、今があるわけです。

 当時、私は教会に通うようになって、3年か4年目程でした。ですから、聖書について何かわかっていたわけでもありません。今でも似たようなものです。でも、今思い返しますと、面接を覚えていないと申しましたが、その時、一つのことは言ったと思うのです。それは「神の招きを感じました」といった言葉であったと思います。神様が自分をこの道へと招いておられると信じて入学したいと思いました、そう言ったように思うのです。

 そして、先週、神学校の入学式に出席させて頂いて、改めて思いますのは、神学校が、神学生になりたいと思っている方に求めている言葉があって、それが、きっと「神に招かれました」という一言ではないかと思うのです。

 神の招きとは、具体的には「聖霊を受ける」ということです。聖書を読みながら、あるいは説教を聞きながら、私たちは「出来事の信仰」を積み重ねることは出来ます。聖書には、「キリストが私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目に復活されたこと」が記されています。そのようにして、私たちは聖書から神の愛を知ることは出来るでしょう。でも、それだけでも足りないのです。もっと具体的な、主なる神の招きが必要なのだと思います。

24節以降の箇所では、弟子の一人であるトマスが登場します。トマスは、弟子たちのもとに復活の主が現れて下さった時、そこにはおりませんでした。ですから弟子たちが喜んで、主は復活されたと話をしても、トマスはどうしても信じられないのです。どんなに「出来事」を聞くとしても、それだけでは納得できないのです。だから、主はトマスのところにも現れて下さいました。そして、トマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と話された時、トマスはただ一言ですよ。「わたしの主、わたしの神よ。」 

 でも、この一言で十分だと私は思います。トマスもまた、出来事の信仰だけでなく、招いてくださる方との出会いを経験したからです。すなわち、聖霊を受ける経験をしたと言ってもよいでしょう。聖霊を受ける、それは神の招きです。そして、さらに言うならば、神の招きとは何も牧師になるだけのものでもありません。聖霊を受けるとは、あの道この道ということではなく一つの道が定められるということです。

 今日は、これから幼稚園の教職員の皆様に対して任職式を行いますが、このような任職式を礼拝で行うのは、キリスト教主義の幼稚園だからです。キリスト教主義の幼稚園は、他の幼稚園とどこが違うのか、子ども達に対する眼差しが特別に違いますと言ったとしたら、他の幼稚園が怒り出すでしょう。幼稚園の設備を自慢しようとしたら、他の幼稚園はもっと自慢することでしょう。延長保育や、夏期保育といったサービス面を強調しようとしても、もっと優れたサービスを行っている園は沢山あるでしょう。
 どこが、他の園と違うのか?私はこの幼稚園の教職員となっていただくための、先生方の心に必要な思いは、やはり「神の招き」であると思います。先生方は世の中に沢山の幼稚園がある中で、ドレーパー記念幼稚園と関わりを持つことになられた。それはもしかしたら、給与面とか、待遇面で考えられたのかもしれません。けれど、それらの一切を含めて、なお、神が招いておられる。

 復活された主イエスが、皆さんを招いておられるということを是非、覚えておいていただきたいと思うのです。

 神に招かれるとどうなるのか、招きと共に派遣があります。復活の主は弟子たちに「私はあなたがたを遣わす」と言って、彼らに息をふきかけて言われました。「聖霊を受けなさい。」今日のこの聖書箇所は、神の招きと派遣の出来事が記されています。
 聖霊を受けて、聖霊に満たされるとどうなるのか、多くのことに振り回されなくなります。

 私たちは、それぞれに悩みを抱えています。家族のこと、妻のこと、夫のこと、子どもの事、病気のこと、勉強のこと、人間関係のこと、そして、お金のこと、数えればいくらでも出てくる、つまり、振り回されるのです。振り回されるとは、不自由に生きているということです。
 でも、聖霊に満たされると、そういった不自由から解放されて自由に生きることが出来ると聖書は記しているのです。

 コリントの信徒への手紙4章7節から読みましたが、8節にはこうありました「わたしたちは四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打倒されても滅ぼされない。」その1ページ前の3章17節の御言葉にはこうあります。「ここでいう主とは、霊のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。」主の霊がおられるところには、不自由ではなく、自由があるのです。どういう自由でしょうか。
 
 振り回されるとは不自由、不自由とは、囚われるということなのです。あの人のあの言葉で傷ついた、夜も寝られない、胃も痛くなってきたと、人は囚われていって、随分と不自由な人生を送るようです。囚われない為にはどうするのか、その不自由に振り回されていることに気が付いて、振り回されるのではなく、しっかりと向かっていくことです。病気なら病気に、人間関係なら人間関係に振り回されるのではなく、そこにしっかりと向かっていける、そういう自由があるのではないでしょうか。そしてそのような生き方が、人をしっかりと引き付け、あの人には安心があるなと感じられる方に、既にこの教会の皆さんは、そうなられていますが、更に「四方から苦しめられても行き詰らない、途方に暮れても失望しない、虐げられても見捨てられず、打倒されても滅ぼされない。」そのように生きる為には、心が聖霊で十分に満たされ、溢れんばかりの聖霊の力で満たされて、聖霊がこぼれ落ちる程の思いでもって、物事の一つ一つにあたることです。
それは、教会も幼稚園も少しも変わりが無いと思います。

 そして聖霊に満たされると、どうなるのか、二つ目は、人間になるということです。人となることが出来る。創世記にありますように、神様は言葉で世界を作られました。光あれと言ったら光があったように、天と水が分かれよと言うと、そうなったように、全ては主なる神の言葉によって作られていったのです。けれど人間だけは違います。

 人は、土の塵で作られ、そして神がご自分の息を人間の鼻に吹き入れられると、人はアダムに、つまり人間になったのです。人だけが神の霊によって命を得たのです。ですから私達は例えるならば、私たち自身が「神の宮」です。私達自身が礼拝堂であり、土の器でありながらしかし、その器は神様が作られた大切な作品であって、そして、その作品として自分たちがどのように聖霊に満たされて、神から与えられた宝物を、それぞれに与えられたタラント、才能、能力を、生かすのか、それが私たちに託されている私たちの役割ではないでしょうか。

 器というのは、目的があって作られます。小さな盃には盃としての役割があり、お茶碗にはお茶碗としての役割があり、花瓶には花瓶の役割があって、それぞれ、盃が花瓶になろうとしても、おかしなことなり、花瓶が盃の役割を果たすことが出来ないように、私たちは、私なりの、あなたなりの役割があってこの命を生かされているのです。聖霊を受けなさい。と主イエスは弟子達に言われました。その後、弟子たちはしっかりと聖霊を受け、聖霊に満たされて、主の御言葉を告げる器として歩み始めました。

 私達もまた、それぞれの方が、それぞれの器として、それぞれの生き方によって、神の器として素敵に生きて参りましょう。そして、復活の主イエスを宣べ伝えて参りましょう。 お祈りします。
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福音人生を生きる

2018-04-02 09:12:28 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書20章1~10節 】


 皆さん、イースターおめでとうございます。キリスト教には三つの大きなお祭りがあります。一つは御子イエスの誕生を祝うクリスマス。そして、今日祝われるのが、キリスト教のどの祭りよりも古く大切にされてきた主イエス・キリストの復活を祝うイースター。さらに聖霊が下り、教会の誕生日ともいえるペンテコステ、今日のイースターより、凡そ50日後、今年は5月20日の日曜日に予定されています。
この2018年度、最初の日が主日礼拝であり、また、それがイースター礼拝であることはこの新しい年度がどんなにか神様に祝福されているかを思います。祈りを捧げましょう。

 キリスト教の力の基はどこにあるのかというと、イースター、主イエス・キリストの十字架からの復活という出来事にこそ力があると思います。主イエスが捕らえられ、裁判にかけられ、十字架刑に処せられる。
この出来事を、主イエスは弟子たちに何度も繰り返しに教えていたにも関わらず、弟子たちにとっては全く考えてもいなかった進展ではなかったでしょうか。弟子たちは皆、自分たちも捕らえられてしまっては大変とばかりに、蜘蛛の子を散らすようにバラバラに逃げてしまいました。この姿は、イザとなると、こんな危ない泥の船には乗らないとばかりに船から降りようとする、自分だけでもなんとか助かりたいという思いではなかったでしょうか。

 十字架と復活に至る一連の出来事は、弟子たちが想定していたものとは全く違ったものでした。まさか、師匠と仰ぐイエス様が十字架刑になるなんて、弟子たちにとってみればまさに想定外の出来事であったに違いありません。
 
 けれど一方においては想定通りと思っていた人々もいたわけで、ユダヤ教の指導者、祭司長やファリサイ派の人々は、ユダと結託して、主イエスを捕らえ、裁判にかけたわけです。その裁判は主イエスになんの罪を見いだせないまま、しかし、目的は主を死刑にすることですから、すべてが予定通り、そのように進むのです。そして総督ピラトのもとに連行されて、ピラトもまた「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」と語りかかけるのですが、民衆が叫ぶ「十字架に」という声に押されて、ついに十字架刑という判決を下します。ユダヤ教指導者の側にあっては予定通りの出来事でありました。
既に彼らは、自分たち行っていることがどんなに罪深いのかということさえ忘れていたかのように思われます。

 そして、主イエスの十字架の死は、これまでの一連の出来事の全ての終わりを示す出来事でありました。完全に落胆した弟子たち、主イエスに死に安堵したユダヤ教指導者、面倒なことにならずに済んだと思ったピラト。主の死によって全てが終わったと誰もが思ったことでしょう。けれど、この出来事に関わりをもった人々の全ての想定を超えて、ここから神の御計画が明らかにされていきます。
 三日の後、主イエスが復活され、婦人たちに現れ、弟子たちに現れ、後には、先ほどコリント書を読んでいただきましたが、そこに記されてありましたように、500人以上の人々にも現れて下さり、つまり、キリストの復活の出来事を、その人生の中で経験する人々が大勢現れました。パウロは元々ユダヤ教の指導者として、キリストを信ずる者を迫害する立場でしたが、復活の主と出会い、改心して主と出会った喜びを爆発させるようにして身をもって証明して歩む人生を送ったわけでありました。

 主イエス・キリストの十字架と死、それでお終いだと思っていたのが、そこで終わりではなく、主なる神の業により復活された主イエスとともに、自分もまた復活人生を生きよう、死でお終いではなく、そのようにして死という出来事で切れていく人生ではなく、切れていた人生が復活によって繋がって、繋がることによって力を得てどこまでも終わりがないというのです。
 
 私たちは主イエスと繋がることによって、繋がっていく人生を生きることができます。今日は、このイースターにO姉の転入会式があります。田浦教会の教会員として過ごしておられましたが、結婚以来、橋本にお住まいでしたが、場所も遠いということもあったのでしょう。あるいは少しご主人に気を使っておられたという話も聞いておりましたが、田浦教会への出席がままならないまま、しかし、神様の不思議なご縁の中で大塚平安教会と繋がって下さいました。昨年の座間男性合唱団が行って下さったコンサートの時であったと思います。Oさんは御主人と一緒にコンサートに来られました。その中に讃美歌を皆さんで一緒に歌うという時に、なんと驚いたことにご主人が讃美歌を一緒に歌っていたというのです。あんた、なんで讃美歌を知っているの?と聞いたところ、ご主人は「僕はキリスト教主義の幼稚園に通っていたからね」と言ったというのです。この言葉に、なぜ私は何年もご主人に遠慮していたのかと思ったと伺いましたが、ねぇ、皆さん。切れていたと思っていた、でも主イエスの復活は、切れているものが繋がっていくのです。

 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に向かいました。そして、そこで見たものは、蓋として用いられた石が取り除けられていた様子でありました。驚いたマリアは、弟子たちのところへ向かって走りこう告げました。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
 けれど、皆さん、この取り除けられた石こそが、切れていた関係、主なる神と私たちの関係を、繋げて下さったという印ではないでしょうか。
 
今日はヨハネによる福音書を読んでいただきましたが、他の三つの福音書の復活の場面を読んでみますと、どの福音書もほとんど同じ内容ではあるのですが、マタイでは、二人の女性が、マルコでは3人の女性が、ルカでは婦人たちがありますけれど、少なくとも4人以上の女性が、週の最初の日の朝早くに主イエスの墓に向かいました。そして、彼女たちの悩みは、どれも同じように、墓に蓋のようにしてふさがれている石なのです。この石をどうやって転がすことができるのか、誰かに助けてもらわれなければならないのではないか、そうでなければ、慌ただしく墓に収められた主イエスのご遺体に油を塗ることも、香料を注いでお体を整えることもままならい。それが彼女たちの悩みでありました。
けれど、ヨハネによる福音書は、マグダラのマリアただ一人が、主イエスの墓に向かいました。女性数人でも、石を取り除けることができるかどうか不安があったとすれば、一人ではさらに難しいことでしょう。

けれど、マリアは主イエスの墓へと向かいました。石が心配だとか、無理だろうとか、出来ないだろうとか、何も考えなかったのではないかと私は思います。無謀だと言えば、無謀かもしれません。
けれど、そこにあるのは一つの心です。生きているから、とか死んでしまったから、という思いを越えた主イエスへ向かう、神に向かおうとする、真っすぐな一つの心ではないかと思うのです。
私たちの信仰生活に求められているのは、あのこと、このことではなく、あの人が行くからとか、この人は行かないからではなく、自分はどう生きるのかということではないでしょうか。

オランダでの話です。オランダの小さな漁村があって、わずかに漁業だけで生活が成り立つような村であったそうです。ですから逆に、少々海が荒れても、船を出さなければならない、そのような状況はいつも遭難の恐れが伴います。
ある時、やはり海が荒れて、船が座礁してしまいました。船からのSOSを聞いた、村人はさっそく救助船を出して、救助に向かいました。到着して、人を移動させて船に乗せましたが、これ以上乗せたら救助船も沈んでしまうかもしれない、だから、どうしても一人は残さなければならないというのです。やむなく若者一人を残して、救助船は村に帰ってきました。しかし、帰ってきてすぐ、船長は、「まだ船に一人を残してあるから、もう一度、救助に向かってくれる人はいないか、だれか、この嵐の中を、最後の一人を助けてくれる人はいないか」とボランティアを募りました。
この声に16歳のハンス少年が「僕が行く、僕をその仲間に加えて下さい」と名乗り出たそうです。けれど、ハンスのお母さんが驚いてハンスに叫ぶようにして話しかけました。「お願いだから、行かないでおくれ。お前のお父さんもこんな嵐で死んでしまって、お前のお兄さんは海に出たまま2週間も行方不明だ、その上お前を失ったら、私にはもう何の望みもなくなってしまうよ。行かないでおくれ。」

でもハンスはお母さんに言いました。「お母さん、皆でお前が、お前がと言って、僕が行かないと、またぐるぐるとたらい回しになっている内に、尊い命が失われていくんだよ。僕が行かないわけにはいかないよ。」と言って、お母さんを振り切るようにして救援隊として嵐の中に消えていったそうです。

その後、暫くの間は、お母さんにとっては永遠の時のように感じる時間でした。

更に暫くして、嵐の向こうから「全員が無事だそう」という声が聞こえてきました。
ハンス少年が船の舳先(へさき)に立って叫んでいました。「お母さん、あの最後の一人が誰だかわかるかい、お兄さんだよ」(「終わりは始まり」田中信生より)
 
皆さん、人にはできないけれど、神にはできる。人の側からは墓の石を取りのけることは出来ないかもしれません。けれど、神には出来る。とても無理な状況、苦しい状況、でも、この方の力を借りてならと、飛び込んでいくことです。飛び込んでいくと、私を強くして下さる方によって、自分の思いを超えた、神の業をそこで見ることができるのではないでしょうか。自分が置かれているその状況の中で、復活された主イエスの神の業を、自分の人生の中で経験出来るのだと思います。

私たちは、復活人生を生きる者としてこの世に遣わされています。何度上手くいかなくとも、何度つらい思いをしようとも、そこで終わりではない、もうお終いだと思うその先に、神の祝福があるという希望を告げる者として遣わされています。

イザヤ書42章を読んで頂きましたが、16節にこうあります。「目の見えない人を導いて知らない道をいかせ 通ったことのない道を歩かせる。行く手の闇を光に変え 曲がった道をまっすぐにする。」
 
私たちはこの方を知らないと、復活人生を生きていないと、なんとかしよう、なんとかしたいと、あの方法、この方法と、あっちへ行って人頼みをし、こっちへ行って画策し、多くの事をしながら疲れて、疲れ果てて「一体、自分の人生はなんであろうか」と問う人々のような、そんな時代を私たちは生きているように思います。

けれど、私たちはそのような状況の中にあって、自らの力を捨て、石が取り除かれ、死から復活された神の力を仰ぎ見ることがこの時が許されているのです。このようにして、いつも、私達自身、限りある人生の中にあって、限りない神の世界との交わりを深くしていくことが許されているのです。
本日、このイースター礼拝において、心新たに思わされるのは、自分の造り主である真の神を一層確かに、自覚的に知り、マグダラのマリアが主イエスの墓へと向かったように、一筋の道を私たちも、そこに向かって共に進みゆくことでありましょう。そして、その場において復活されたイエス様と共に歩みますとする決意を新たにすることでありましょう。

このイースター礼拝において、私達はまた一層、主によって新しく生まれ変り、復活の神が、多くの事ではなく、二つの事でもなく、一つの世界に、即ち、「福音人生に生きる」ようにと知らせて下さる時でもあります。
どうぞ全てのことを感謝し、復活の主イエスの愛に生かされる私どもが、本日から又、新しい命の中に生かされていることを覚えて感謝して歩むことが出来ますように。
お祈りいたしましょう。
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