日本キリスト教団 大塚平安教会  

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

十字架の死に至るまで

2018-03-25 13:44:41 | 礼拝説教
【フィリピの信徒への手紙2章5~11節】
【マルコによる福音書14章32~43節

フィリピの信徒への手紙2章5節からの箇所を読んで頂きましたが、この聖書箇所は年に一度、必ずと言ってよいほどに、読まれる礼拝があります。 
 
 いつの、どの礼拝かというと、クリスマスの聖夜礼拝、御子イエス・キリストの誕生を喜びつつ、その礼拝の最後に読まれる箇所がこのフィリピ書の章という箇所となります。
 
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」とあります。

 御子イエスの誕生は、クリスマスは喜びです。でもその喜びの背景は、主なる神が自分を無にされたこと。僕の身分になられたこと。人と同じ者となられたこと。徹底的にへりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であろうとされたこと。ここに意味があるのだというのです。徹底的に、謙って下さった。この謙りによって、私たちは神の救いに預かることが赦されました。

 多くの皆さんが既にご存知のように、家内の父が3月4日の日曜日に召されました。お元気な方でしたから本当に驚きの出来事でした。何か病気をして寝込んでいたわけでもありません、ですから、家内は知らせが来てすぐに実家に向いまして、私は次の日の朝に車で家内の家に向いました。

 布団に寝かされていた父は、死んだというよりは、どうみても寝ている状態です。やつれている顔でもなく、いつもの顔で寝ているようにしか見えない。けれど、触ってみると確かに冷たくなっておりました。その冷たさで確かに召されたのだと改めて感じましたが、未だに私はどこかで信じられない思いでおります。
 
 私がまだ神学生であった時に、私が通っていた教会は基本的に、来た順番で座らされるのですが、それでも一番前は教会の役員が座って、それから神学生が座る。そうなるといつも礼拝が、自然とお父さんの横になるのです。ですから、いつでも緊張しながら、眠い目こすりこすり必死になって礼拝を守ったものです。
 
 でも、父は少しも厳しい方ではありませんでした。むしろ、いつも優しさに溢れていました。神学校を卒業して、岩手の花巻教会に赴任した際には、もの凄く大袈裟と思える、立派な漆塗りの器に入った祝電を送って下さったり、町田の教会に来ました時からは、何かあるという時は、自ら出席して下さいましたし、この教会でも、牧師就任式や、会堂建設にも協力して下さいましたし、献堂式にも来られました。まさに、私たち夫婦の、どんな時でも応援して下さいました。
 ご自身が営業畑の人生だったからかもしれませんが、人の話を聞くのがとても上手で、人のどんなつまらない話も、大袈裟な程の表情をつけて応対してくれるのです。ですから、どんどん調子に乗ってすっかり話して、気持ち良くなっているうちに、いつの間にかお父さんのペースになっている。ですから思わず、取引先の相手がそのペースにはまると、気持ちよくハンコを押して契約がとれるのだろうなぁ、そんなことを思っていました。

 私たちのどんな時でも応援してくれていたと思うと、余計にその死が中々受け入れられないものです。

 父が通っていた教会の牧師で、私に洗礼を授けてくださった熊野清子という牧師がフィリピ書のこの箇所について、記している文章があるのですがこうあります。

 「私どもは一体、主イエスがその自己謙卑によって、神の子の高さを、人の子の低さにおとしたもうた、この神の子の受肉の奥義を、どれだけ深く思いめぐらしているだろうか。神の子が、死を味わう人間とまでなりたもうた事を、私どもはつねに新しい驚きをもって、考えねばならない。」

 私は、父の死をこんなにも驚きと悲しみを持って過ごしているこの時期に、熊野先生の文章を読みながら改めて思いました。神が謙り、人の子となってこの世に誕生された。その方が更に最も謙遜となって十字架に死なれた。神が人となり、謙遜の中で十字架で死んでいかれた事実を私たちはどこまで、心に感じているのだろうか。

 もしかしたら、この事実を深く受け止めきれないまま過ごしているとしたら、私たちは神に対して、また、人に対しても謙遜に生きていないのかもしれないとさえ思うのです。

 先週の木曜日は、深谷地区の家庭集会でした。そこで、私はルカによる福音書の5書27節からの箇所を読んで、お話をさせて頂きました。新約聖書の111頁ですが、そこを開いてみましょう。レビを弟子にするという箇所です。「主イエスが出て行くと、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、主が『私に従いなさい』と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」とあります。そして、その後、レビの家で盛大な宴会を催して、その宴会には徴税人やほかの人々が大勢いたとあります。当時の社会では、受け入れてもらえない人々や、罪人と呼ばれていた人々が沢山いた宴会であったと思われます。

 その様子を見ていたのが、ファリサイ派の人々やその派の律法学者達で、彼らは思わず近くにいた弟子たちにつぶやきました。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」それに応答するようにして主が話されました。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

 聖書に登場するファリサイ派とか、律法学者は、多くの場合、主イエスと敵対する役割となり、あたかも敵役であり、特に主イエスの十字架を思いますと、このような人達こそが主を罪に追いやった犯人だと思いながら読みますから、どうしても良い印象はありません。でも、当時の社会的な状況から考えれば、ファリサイ派とか律法学者こそが、社会の道徳的見本であり、宗教的な手本でもあり、多くの人々の尊敬を集めていた常識のある人々ではなかったと思うのです。
 本来、決して悪役でもなく、悪者でもなく、自分達もそこまで悪人だとは思っていなかったと思います。というよりも、自分達こそが誰よりも善人であり、正義であると思っていたのではないでしょうか。

 だから、弟子たちにつぶやいたのです。「なぜ、あなたたちは徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」この問いは、当時としては当たり前の問いかけであったと思われます。

 しかし、当時としてはというよりも、現代だとしても、例えば私が「この世の中には、悪人がいて、善人がいます」とか、「この世は正義と悪とで出来ています。」と言ったとすると、なるほどそうかもしれないと思わるかもしれませんが、その時に、恐らくそう思う人の心の中にあるのは、「自分は善人」であり「自分は正義」というカテゴリーに入るのではないでしょうか。
 この世に悪人がいて、善人がいると言われて、なるほどと思いながら、「わたしは悪人だな」と思う人がどれだけいるでしょうか。殆どいないのではないかと思うのです。自分はいつも正しい人であり、善人であり、決して悪人でもなければ、悪でもないと思うのだと思います。けれど、そうなると主イエスが「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」と言われた言葉によれば、私たちは正しい人なので、招かれていないことになります。

 けれど、主は私たちを招いておられるのです。なぜなら、やっぱり私たちは善人ではないからです。どんなにあの人は善人だと言われようと、家内の父のように、本当に立派な人だったと思いますけれど、そうであればあるほどに、むしろ、その人の心には、自分は神の前において、どんなにか罪があると感じられる心を持って生きていたのではないかと思います。

 キリスト教は神の前に皆平等であると教えます。人は皆平等である。それは、能力の違いや、社会的地位とか、健康なのか、病気がちかといった様々な点を越えて尚、平等であると告げることが出来るのは、人は神の前において、誰一人完全な者はなく、欠けがあり、罪を持っているという点において平等なのだと思います、と家庭集会でお話させて頂きました。

 そして、尚、そのような罪に生きていた私たちを罪無しとされるために、神は人の姿を取って、更に十字架で死なれたのです。主イエスが死んだ、「神の子が、死を味わう人間とまでなりたもうた」その意味を私たちは深く感じてこの受難週の一週間を過ごしていきたいと思います。
 
 そうであるならば、私たちは具体的にはどう過ごすのか、自分達の罪の深さを悔いながらの日々を過ごす、そういうことも大切でしょう。何よりも祈りつつ過ごしていければと願いますけれど、私がここで申し上げたと思うのは「十字架の死に至るまで従順であった」主イエスの姿に倣うことではないのかと思うのです。

 つまり、徹底的に謙遜に生きる姿が求められているのではないかと思います。私たちは十字架で死なれたほどに謙遜に生きられた主の愛によって支えられ、そのことを知って、自分は善人だと思っていたけれど、そうか神の前にはこんなにも罪を犯して生きていたなといつの時にか知らされて、だから、神の前に礼拝を献げる礼拝の民としてここに集っています。だから、主イエスの姿に倣って、謙遜に生きていく、でも、謙遜に生きていくとは、どういうことだろう、謙ることが大切だと言われるとしたら、誰に対しても謙ることだと思いますけれど、でも、なんだかそれは卑屈な生き方になってしまうかもしれません。
 卑屈な生き方は決して謙った生き方ではないと思います。

謙 遜な生き方、私が尊敬するある牧師はこう定義しています。「今、置かれている状態を感謝して生きること」今、置かれている状態によらず、その状態で感謝出来るか、どうか、ということではないでしょうか。教育の場で活躍され、またシスターでもあった渡辺和子さんが「置かれた場所で咲きなさい」という本を出されました。230万部も売れたそうですが、その一ページ目に記していることは、御自身が岡山の女子大の学長となった時の話しです。

 若干36歳で大学の学長を命じられたというのです。それも神の思し召しと命令を受けたそうですが、初めての土地、思いがけない役職、未経験の事柄の連続、自分の思いとはあまりにもかけ離れていた状況に、私はいつの間にか「くれない族」になっていました、とあります。くれない族とはすれ違っても、「挨拶してくれない」こんなに苦労しているのに「ねぎらってくれない」つらい思いをしているのに「わかってくれない」

 自信を失い、もう修道院さえ辞めたいと思うようになっていた渡辺和子さんに、一人の宣教師が短い英語の詩そっと渡してくれたそうです。その詩の冒頭の一行目が、「置かれたところで咲きなさい」という言葉だったそうです。この詩を読んで、和子さんの心は変わったそうです。「そうだ。置かれた場に不平不満を持ち、他人の出方で幸せになったり、不幸せになったりしては、わたしは環境の奴隷でしかない。

 人間と生まれたからには、どんなところに置かれても、そこで環境の主人となり自分の花を咲かせようと決心することが出来ました。それは「私が変わる」ことによってのみ可能でした。」とあります。

 更にその詩の先にはこうあるそうです。「咲くということは、仕方がないと諦めることではありません。それは自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって、神が、あなたをここにお植えになったのは間違いでなかったと、証明することなのです。」私は、かくて、くれない族の自分と決別しました。とあります。

 皆さん、自分の人生をどう生きるのかの秘訣は、どうも「私が変わる」ところにあるようです。置かれている状況に感謝して生きられるかどうかにあるようです。

 主イエスは御自分がこれから捕らえられ、裁判にかけられ、十字架にかけられる状況を既にご存知でした。マルコによる福音書からゲッセマネという所でご自身が必死に祈っている場面を読んで頂きましたが、弟子たちがどうしても寝てしまうその横で、主は必死に祈りました。「アッバ、父よ、あなたはなんでもおできになります。この杯をわたしからとりのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

 皆さん、置かれている状況が、とても好ましい状況であるならば、感謝して生きるのは難しくないでしょう。願う学校に入ることが出来た。願う仕事に就職できた。願う人と一緒になれそうだ。願う赤ちゃんが誕生する、といった状況が好ましいのであれば、主に倣うことは難しくないかもしれません。

 けれど、願う学校に入ることが叶わない、願う仕事に就くことが出来ない。むしろ、時として願わない病気にかかる、そのような状況でこそ、しかし、主イエスが祈られたように「御心に適うことが出来ますように」と謙遜に祈れるかどうか、そして、人に振り回されないで、自分はこんな花をこの場で咲かせよう、いや、咲かさせて下さいと祈れるときこそ、そこに本当の謙遜があるのかもしれません。

 十字架の死に至るまで、謙遜に生きられた主イエスに従って、その謙遜の先にある復活という大きな希望に向って、私たちは今週も共々に過ごして参りましょう。
                                                            お祈りいたします。

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お返しはいらない

2018-03-19 12:00:52 | 子どもたちに福音を
【エフェソの信徒への手紙5章1節】

 今日の聖書に書かれてあった御言葉はこういうことばでした。「あなた方は神に愛されている子どもですから、神に倣う者となりなさい。」

 とっても大切なことがかかれてあります。一つ目、皆さんは神様に愛されているということです。
 
 神様に愛されているって、どういうこと?

 私の好きな本、「おかえし」という名前の絵本があります。たぬきと狐が主人公です。

 ある日、きつねのお母さんと子どもが、たぬきの家の隣に引っ越ししてきました。引越しの挨拶に、きつねのお母さんが「イチゴ」を持って行きます。喜んだ「たぬき」は、タケノコを「おかえし」に持って行きます。「おかえし」を貰った狐は、そのお返しに「お花と花瓶」を持って行きます。

 まあ、吃驚したたぬきは、そのお返しに「絵と壺」を持っていきます。そのお返しに狐は、「クッションと椅子」を持って行って、またまた、そのおかえしにたぬきは、家の机とか、時計とか、いろいろ「お返し」して、もう最後は狐さんが持っていたもの、たぬきさんが持っていたものが全部、お返しで入れ替わってしまって、もうお返しするものが無くなってしまった狐のお母さんは、子どもを連れて来てこの子をお礼に「お返しです」ってたぬきのお母さんに渡しちゃうのです。びっくりしたたぬきのお母さんも、なんにもお返しするものがなくなってしまって、たぬきの子どもを、狐のお母さんのところへ持っていって「この子、お返しです」子どもまでお返しするのです。

 狐のお母さん、とうとう、おかえしする物がなくなって、たぬきさん、すいません「お返しに」私がお返しです。たぬきさんまたまた、びっくりして、狐さんに、それじゃ、わたしも お返しにわたしがお返しです。で、最後に、何が変わったかというと、住む家が変わって、子どもも家のものも全部自分のものというお話です。とっても面白いお話ですからね。いつか読んでみて下さいね。

 私たちは、何か貰ったら、ありがとうって言ってこれ「お返し」ですってお礼することがあります。
 
 でもね、神様に愛されているってことは、どういうことかというと、お返ししなくてもいいんだよってことです。

 神様は、私たちが神様にお返しが欲しくて愛しているわけではありません。愛することがとっても嬉しいんです。みなさんが元気で、喜んで、楽しくて、笑っている姿があれば、それが最高の神様へのお返しです。

 だからお返しの心配しないで、毎日、神様ありがとうございます。って感謝しながら元気一杯に生きることが、神様の喜びなんです。

 そのような神様を知って、礼拝する私たちをご覧になってとっても神様は喜んで下さっていると思いますよ。お返しなんかいらない、みんな元気ならそ
 れが一番素敵、それが神様の愛です。
 
 そのような「愛」を知っている私たちは、どうするか、二つ目、神様に倣う者になりなさいって聖書に書かれてありました。
 
 神様に倣うってことは、神様に似るってことです。似て来る、どういう風に似て来るのか、そう「おかえし」はいりませんよ。ってことです。
 
 私の家にハムスターがいる話しをしたことがありますね。今もとっても元気にしています。子どもは今度小学校4年生になりますけれど、ハムスターを一所懸命可愛がって、お水を上げて、ひまわりの種を上げて、砂を変えたり、掃除をしたり、していますけれど、ハムスターはなんにも、お返ししてくれませんね。いつもありがとう、これは「おかえし」ですって、チョコレートを貰ったことはありません。

 でも、子どもは、とってもハムスターを可愛がっています。名前は黄色いから「黄色くん」、とってもかわいいです。お世話をするととっても嬉しくなりますね。「おかえし」が欲しくてお世話をしているわけではありません。

 そのように、神様もわたしたちを「おかえし」が欲しくて愛しているのではありません。神様が私たちに命を下さり、人生を与えて下さり、そして素敵に生きていきなさいよ。喜んで生きていきなさいよって、そう思いながら私たちを生かして下さっている。そのことを知って、私たちがお返しできることがあるとしたら、それはは、みなさんの笑顔と讃美の歌声、そして、わたしたちも、みんな神様から愛されている、だから、私たちも皆を愛してあげよう、親切にしよう。優しい言葉を使おう、楽しく過ごそう。そんな一日、一日を過ごすこと、それが神様に似ることだと思います。笑顔で過しましょう
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練達は希望を

2018-03-19 11:05:33 | 礼拝説教
【ローマの信徒への手紙5章1~6節】
【マルコによる福音書10章35~45節】

 受難節の時期を過ごしておりますが、今日は既におわかりだと思いますが、説教題を「練達は希望を」と致しました。
 つまりは、ローマの信徒への手紙5章という箇所を読んで頂きましたが、ローマ書の中でも最も良く知られている箇所の一つだと思います。

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。」

 ここに、苦難、忍耐、忍耐、練達、練達は希望を生むとあります。私たちの人生、何かを始めようとすると、つまり立ち上がろうとすると、不思議なことに苦難があります。立ち上がらないとね、苦難にぶつかることもありません。
 何もしなければ、例えば、自動車の免許を取って、初めて自分の車を運転しようとする、助手席にはいつもいた教官がいない初めての運転。これはね経験された方も多いかと思いますが、実際のところかなり勇気が必要です。
 エンジンをかけなければ何も起こらないし、安全です。でも、エンジンをかけなければ進むことも出来ません。ですから、エンジンをかけて、進み始めるのです。けれど、その先、無事にこの場所に帰って来られるであろうか、本当にドキドキしながら進み始めるように、そして実際にとっさの判断が上手く出来ず、何度もドキッとする経験をする。あるいはあそこに木が立っているなと気が付いて、その木にぶつからないように、ぶつからないように、と気にしながら、でもどうしてもその木に向っていって、ぶつけてしまうのです。あそこに溝があるから気を付けなければと思いながら、でも、思えば思う程に溝に向っていくのです。本当に不思議ですが、そういうことが人生に起こるのだと思います。

 そのような苦難が、ご家庭において、職場において、あるいは学校で、多くの方々が経験されているのだとも思います。ですから、そのために、私たちはどのように生きるのか。

 その一つとして、与えられる苦難に対して、逃げる、避けるという方法があるとは思います。少なくともそのような苦難を見通して、向こうから石が飛んで来たら、何よりも逃げなければなりません。しかも必死に逃げて、振り向いてもいけない、振り向いたら石にあたりますからね。だから逃げるということも必要でしょう。何も、無理に頑張らなくても良いと思います。そういう苦難の避け方もあると思うのです。でも、逃げてばかりではと思い返して、よし、立ち向かっていこう、そう決めて立ち向かうという事もあると思います。

 今日はマルコによる福音書の10章という箇所を読んで頂きました。主イエスがエルサレムに向かう途中での出来事です。エルサレムに向かう御自分が捕らえられ、十字架刑になると知りつつ向っているわけですから、主はまさにその苦難に立ち向かおうとしていた時でもありました。
 弟子たちに対してご自身が、これから祭司長、律法学者に引き渡されて、裁判にかけられ、死刑となり十字架で死に、三日の後に復活すると話された。 弟子たちはその話される意味が良く分からなかったと思います。けれど、恐らく自分達なりの理解をしたのでしょう、二人の弟子、ヤコブとヨハネの兄弟が主イエスの側にやって参りまして、「主よ、栄光をお受けになる時には、私たちどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせて下さいと」願うのです。
 
 主は「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。この私が飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるのか」と問い返しました。彼らは「出来ます。」と答えますが、この答えも、本当にその意味が分かっているわけではありませんでした。
 実際に、主イエスが捕らえられた時、既にその時に弟子たちは必死に逃げたわけで、それこそ後など振り向く間も無く、必死の逃亡であったでしょう。けれど、そのような逃げるから変えられて、立ち向かおうと決意する、この苦難こそわが誇りとなるまでには何があったのか、それは、主の十字架、そして、三日の後の復活、イースターの出来事と、更には聖霊降臨、ペンテコステの出来事が必要でした。

 ローマ書は「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。」とありますけれど、与えられる苦難もまた、自分の誇りとなるまでに、何が必要なのかというと、神を信じる信仰と、その信仰に生きる実体ではないでしょうか。けれど、この実体を生きるというのはそうそう優しいわけではありません。だからどうしても聖霊の力が必要だと思います。

 先週の水曜日、幼稚園の卒業式がありまして、年長、星組の39人の皆さんが元気に卒業式に臨まれました。その式の中で、私が今年話しましたことは、二つ、いいですか皆さん、皆さんがこれから卒業するにあたって、忘れないで欲しい二つのこと、一つは「そのままのあなたでいいんだよ」ということです。これから小学校に行けば、中々、そのままのあなたでいいよと言われなくなります。もっと大きくなれば不思議なことにもっと言われなくなります。

 でも大切なことは「何が出来るのか、出来ないのか」ではなく、「早いのか、遅いのか」でもなく、そのままであなた方は本当に素晴らしいということを忘れないように。それからもう一つ「どんな時でも神様が一緒にいて下さいます。だから大丈夫」です。どんな時でも大丈夫。この言葉を忘れないでくださいとお話しました。

 半分はね、子どもたちに話しながら、その後ろで聞いているお父さん、お母さんに話しているようなものですが、そう話しましたと、次の日の木曜日に行われた座間地区の家庭集会でも話しました。
 そうしたらですね、その家庭集会に珍しく中学を卒業した娘が出席しておりまして、帰って来たら怒っているのです。お父さんは、嘘つきだというのです。(笑)私が良くない成績を取って来ると、とっても嫌な顔をするし、私はどんなに辛い思いをしたかと、恨みつらみを言うのです。一度も「そのままでいいよ」と言われたことなど無いと言うのです。」そこに兄弟二人も加わってきて、そうだ、お父さんが悪いというのです。(笑)ですからね、私も言いました、そんなことを言われても「そのままのあなたが素晴らしい」という土台があって、励ましたから、みんなが頑張れたのだよ。そこからスタートだよ。まあ、それでも中々納得しない、攻撃の手を休めません。ですからこう言いました。何を言われようと「どんな時でも大丈夫」。(大笑)

 皆さん、私たちが会話する言葉は、何を語っているのか、のその言葉ではなく、何を思っているかの心が伝わるものなのです。心の中で不安だなと思っているのであれば、どんなに「大丈夫」と一生懸命に話しても、伝わるのは「不安」であって、心の中で「何があっても大丈夫」と思いながら、「心配だね」と語るとしても、その言葉の背後にある大きな大丈夫が伝わるのものではないかと私は思います。結局の所、その人の実体が伝わるからです。大丈夫ならば、私たちは忍耐が出来ます。待つことが出来ます。

 私たちは苦難を誇りにするのは難しいかもしれない。苦難は苦難ですからね。でも、その苦難を通して、主にある信仰の実体を生きて、忍耐する力、そして忍耐は練達を最終的には練達が希望へと向かう、これが私たちの信仰のあり方なのだろうと思います。

 そしてもう一つ、苦難、忍耐、練達、希望、そのことを何よりも主イエスがそのように生きられたということを私たちは忘れてはならないのだと思います。

 日本基督教団には、伝道推進室という部署がありまして、先日、そこからニュースレターが送られてきました。何気なく目を通しておりましたら、その巻頭言の御言葉を青山学院で宗教主任をされている塩谷直也という先生が記しておられました。塩谷先生とは、これまで何度か面識もあり、仲良くさせて頂いている先生ですので、喜んで文章を読まさせて頂きました。そこで紹介されていたのは「教誨師」というタイトルの一冊の本でした。

 ジャーナリストの堀川恵子さんという方が記した一冊です。早速、図書館に行きまして借りて読んでみました。小説ではなく渡邊(わたなべ)普相(ふそう)というお坊さんがいまして、凡そ50年に亘って刑務所の死刑囚の「教誨師」として働かれた。その方の記録という形で記されてありました。

 週報をご覧になれば分かりますように、火曜日の私の予定は少年院となっていますように、子どもたちの教誨師をさせて頂いています。教誨師とは、受刑者と話しをしながら、心を聞き取り、励ます役割を担うわけですが、私がいく少年院は中学生から高校生、どんなに年長でも二十歳位の子どもたちです。彼らと色々と話しをするわけです。色々な理由で少年院にいる子どもたちですけれど、一人一人と面接し、話をしながら、でも彼らの心配の殆どは、ここを出たらどうやって生きていこうか、そういう不安ですが、その不安は一方では、皆、若いですから希望でもあるわけです。

 ですから、これまで色々とあったけれど、様々な苦難があったけれど、苦難は忍耐を、忍耐は練達を練達は希望を生む、こんな言葉は子どもたちにとって、とても励みになるに違いない、そんな思いをもって話しをさせて頂いています。

 けれど、渡邊普相さんの相手は、少年ではなく死刑囚だというのです。つまり、この場所を出て、またやり直そうという希望を語れない。一生懸命に話を尽くして、その人の更生の手助けをしても、そこから生きて出ることはないのです。そのような状況で死刑囚を相手にしてきた渡邊普相さんは、やがて自分が自分で耐えられなくなって、そしてついに酒に手を出したというのです。
 
 自らがアルコール依存症になっていったそうです。どうしても酒を止められない。家族に酒を隠されても、逆に本堂の裏の誰にも気が付かないところにウイスキーを隠して、そこにこっそり行ってまでも飲んだそうです。
 けれど、ついに病院に入院することとなり、入院しながら刑務所に通い、死刑囚と話しをしたのだそうです。一生懸命に仏の道を説きながら、しかし自分はアルコール中毒になっている苦しみ、誰にもそのことを打ち明けられない苦しみ、しかしついに、思わず彼は自分がアルコール中毒で苦しんでいることを死刑囚に打ち明けました。「自分も実はアル中で病院に入っているんじゃ」しかし、この思わぬ告白が、死刑囚の何人かの心を溶かすことになりました。「先生、あんたもか!よくわかる。酒も覚醒剤も同じだ。自分で止める以外には手が無いんだよ」と教えられ、「お坊さんよ、頑張ってくれよ」と励まされる経験をしたそうです。

 そんな経験をする中で、自分が自分で気が付いて来た。今までは自分は援助しなければならないと考え、与える側として、相手は受ける側でという一方向の考え方で、どこまでも自分が高い所に立とうとしていた。その為に、相手の苦しみに寄り添えなかったのだと、自ら気が付いて来たというのです。
 
 塩谷先生は先生なりに御自分の文章を記しながら更にこう記しています。「私たちは人間を「与える人」と「受ける人」とに単純に分ける。しかしこの様な区分をしている限り私たちは本当の意味で「与える」ことも「受ける」こともできない。何故なら、そう思うことで相手との間に大きな段差、壁をつくってしまうからである。」
 そして、ひたすら与え続ける側に立ち続ける生活は「美談」であっても、かなり危険である。一方的に与えるだけの人生は、心を閉ざすことに繋がるのではないかと締めくくっていました。

 皆さん、苦難、忍耐、練達、希望を本当に経験しておられるのは、私たちではなく主イエス・キリストです。私たちは、どこかで信仰によって希望に生きなければならないと思います。苦難から忍耐をと頑張ります。忍耐から練達をとギリギリまで頑張ります。その先に希望があると願って頑張ります。

 でも、その頑張りは、もしかしたら私たちは「与える側」にいると思っているからではないですか。本当に与えて下さるのは主イエス・キリストであって、私たちは「与えられて」、だから福音という希望が与えられていることを忘れてはならないと思うのです。

 「与えられた」者だけが本当に感謝して、隣人と寄り添えるのではないのかと思います。

 主イエスの福音は、主イエスが与えて下さる。私たちはそのお手伝いをするのです。そのままで良いよ。どんな時でも大丈夫だよ。なぜなら、神が、死に勝利し、復活された主イエスが私たちと共にいるからです。
 主イエスこそ、我が誇り、主イエスこと、わが楯、この方がおられるからこそ、希望がある。その希望を持ちつつ私たちは互いに歩んで参りましょう。

お祈りいたします。
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先を見通す力

2018-03-19 10:44:35 | 礼拝説教
【マルコによる福音書9章2~13節】


 2011年の3月11日に起こりました東日本大震災から今日で丸7年目となりました。

 あの時の地震、津波、原発事故、私たちは信じられない出来事と、これまで見たこの無い光景に遭遇しました。その出来事によって天に召された方は凡そ25,000名とされています(※ウイキペディアより)。あの出来事と、被害を負った方々を覚えて、主に祈りを献げるためにも私たちはこれから一分間の黙とうを共に行いたいと思います。

 黙祷いたしましょう。

 ありがとうございました。7年前の2011年3月11日、2時46分に地震が発生しました。幼稚園では降園時間を過ぎておりましたので、子どもたちはおりませんでしたが、婦人会の方々が、当時はまだ古い会堂でマーマレード作りをして下さっていました。何度も大きな揺れが来るものですから、園庭に避難して、しかし、その後はこの地域でも電車が止まり、停電が起こり、交通網が麻痺し、帰宅するにも帰宅する術がない方が続出しました。

 当時長男がまだ中学生で、町田の中学まで迎えに出て往復6時間かけて、帰って来たことを思い起こします。
 自然災害はいつやって来るのかわかりません。だから、「先を見通して」大切なことはそのような時の為に備えをしておく。だけでもなく、やっぱり大切なのは、あの出来事を忘れないということではないでしょうか。
 忘れなければ出来るだけの備えも出来ます。当時、小学校2年生だった娘に聞きましたら、怖いという感覚はあまりなかったようです。私も小学1年の時に、当時としてはかなり大きな北海道の十勝沖地震という地震を経験しましたが、その時には殆ど怖さを感じた記憶はありません。子どもとはそういうものなのかもしれません。
 
 ですから、本当にその時、怖さ、恐ろしさを経験した者が、後の時代の人々に語り継いでいくことが大切なのだと思います。

 主イエス・キリストの福音が記されている聖書もまた、当時主イエスと共に歩んだ弟子たちをはじめとして、主イエスの福音にふれた一人一人の手によって話され、語り継がれ、また、書き記され、書き写されて今日にまで至っている文章です。歴史的に、これまで一言では表現しようもない様々な出来事を乗り越えつつ、しかし多くの人々に希望と復活の主にある平安を聖書は伝え続けて参りました。

 今日読んで頂きましたのは、マルコによる福音書9章2節からの箇所ですが、主イエスの姿が変わる、山上の変容と呼ばれる箇所です。この出来事もまた、弟子たちにとって決して忘れることの出来ない、また、語り継いでいかなければならないと思う出来事であったに違いありません。

 先週の礼拝ではマルコによる福音書の8章を読みました。場面はフィリポ・カイサリア地方での出来事であったと記されていますが、その地域には、高い山脈があります。その中の一つにヘルモン山という山があって、その山での出来事ではなかったかと言われます。ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子を連れて主が登っていかれた。標高は2814m、山頂まで行かれたのかどうかわかりません。けれどその地域の所謂、神聖な山とみなされていたようでもあります。
 
 その場所にまで来ると、主イエスの姿が真っ白に輝いて、この世のどんなさらし職人の腕にも及ばぬほど白くなり、そこにエリヤが現れ、モーセが現れて、彼らと会話をしたというのです。更に雲の中から声が聞こえてきて「これは私の愛する子。これに聞け」というのです。もう弟子たちはどんなにか驚いたことでしょう。

 山に登る前に、弟子のペトロが「主よあなたはメシアです」と主イエスの問いかけに答えた場面が8章にありますが、まさにメシアとしての主イエスの姿をこの目で見た、と思えた感動の瞬間であったと思います。

 彼らは、その姿を見て、どんなに嬉しかったか。どんなに誇らしく思ったことか。嬉しいこと、誇らしく思えることは、黙っていることは難しいものです。悲しさや、辛い出来事は一人胸の中で耐える、あまり人に話したくないと思う時もあります。けれど、喜びや嬉しさは、人に話せば共に喜べますし、喜びが倍になるのです。
 感動したまま山を下りて行ったと思います。三人の弟子たちは、このことを何よりも麓で待っている外の弟子たちに伝えたい、そして一緒に喜びたいと思っていたと思います。
 
 けれど9節の箇所を読みますとこうあります。「一同が山を下りるとき、イエスは「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。」ルカによる福音書にも同じ出来事が記されているのですが、そこに「弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった」とありますから、弟子たちは主イエスの言葉を聞いて、この出来事を心に収めて、本当に話さなかったのでしょう。
 
 でも、それならいつの時点で話したのか、主は「人の子が死者の中から復活するまでは」と話されました。この時、弟子たちにはこの言葉の意味が良く分からなかったと思います。8章でも、ペトロが「主よ、あなたはメシアです。」と答えた後に、主自らが、御自分がこれから受ける苦しみ、長老、祭司長、律法学者達からの排斥、そして御自分の死と復活を話されましたが、その話を聞いて、ペトロが主を脇にお連れして、いさめ始めて、逆に「サタン、引き下がれ」と叱られた場面がありますように、弟子たちは、主イエスの話される主の死と復活については、どうしてもよく分からないのです。

 でも、分かる時があるのです。分かる時がやって来ます。それはいつなのか。それは神が定められた時です。旧約聖書にコヘレトの言葉という箇所があります。口語訳聖書では「伝道の書」と呼ばれていましたが、その3章に「何事にも時があり」と記されています。「天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、植えた物を抜く時、殺す時、癒す時 破壊する時 建てる時 泣く時、笑う時 嘆く時、踊る時」と続きます。
 「全ての出来事、すべての行為には、定められた時がある」とあります。

 既にお知らせしておりますように、家内の父が先週の日曜日に召されまして、あまりのも突然の出来事でしたので、未だに私は心が落ち着きません。入浴中に血圧が下がって意識を失ってそのまま召されたのだろうと思われますが、当日も一人でいつものように、教会の礼拝に出かけようと駅まで行ったそうです。でも、なんだかフラフラすると電車に乗らず、帰宅して休んでいたそうです。
 ですから調子は良くなかったと思いますけれど、これまで小さな病気やケガはあるにしても、特別命に関わるような病気があったわけでもなく、召される前の日は、自分で車を運転して、夫婦で買い物をしていたとも聞きましたから、とにかく突然だと思います。余計に受け入れがたい思いがします。

 それだけでもなく、私が牧師になろうとしていく中で、身内で最も応援して下さったのが間違いなく家内の父です。私の家族はキリスト教ではありませんし、私が神学校に行くと言った時にも、お願いしたのはお金の話ではなく、保証人の欄に名前とハンコを押すだけでしたが、それすらも渋々ですよ。

 なんでお前がと言われて気まずい思いをしたことを思いますが、家内の父はどんなにか応援して下さったか、そして、辛い時も、嬉しい時も、いつも一番側に寄り添って下さった。勿論、それは私というよりは、家内の為だとは思いますが(笑)
 でも、そういう打算的なところを微塵も感じることはありませんでした。本当に心から応援して下さったと思います。

 けれど、葬儀が終り、火葬を済ませ、また、皆さんのお祈りにも覚えて頂きながら、一連の儀式を終了しまして、やっと少しずつ、これも受け入れなければならないのだろうと思うようにしています。いずれにしても、この時が義父にとっては「召される時」として定められていたのだと思います。いくら家族や、遺族がもがいても神の時に打ち勝つことは出来ません。

 私たちは、例えば何でもがくのかというと、神の時ではなく、自分の時をなんとかしたいと思うからではないでしょうか。自分もOK,皆もOK,でも神様が今は違うよとなれば、皆もがOKでも進まない時もあるし、自分もどうかな、と思う、皆も反対する、でも神様はOKを出すという時もあると思うのです。ですから、私たちは何よりもその「時」を知りたいと思うのです。
 
 自分の親の死だけでもなく、例えば、自分の子どもが中々成長しない。もう一人前になっても良い時だと思うのに、いつまで家にいて、いつまで親のすねをかじって、いつまでいるのか、神様、とっくに時が来ても良いのではありませんか。と思ったりするものです。何よりもわが家が既にそうなりつつあります。でも、本人はもっと真剣ですよ。神様、私の時はいつですか、あなたが私に備えて下さっている時はいつですか。親も子も、何も親子の話だけでもない、神様、いつ、私に健康が与えられますか、神様、私に相応しい仕事が見つかりません。神様、わたしはどう生きて行けばよいのですか、私たちは、その時を知りたいのです。

 でも、必ず神の時がやって来る、その時をしっかりとらえて、その神の時の流れに乗るために、だから、求められるのは、自分の信仰という翼を、いつでも、しっかりと広げておくことです。その信仰と言う翼に神の時という風がしっかりと当たる、そしてその風に乗って羽ばたく時が必ずやって来ます。

 エフェソの信徒への手紙5章15節、16節にこうあります。「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。」時をよく用いることですよ。とあります。今は悪い時代なのですともあります。今が悪いと思うか、良いと思うかはそれぞれであるかもしれませんけれど、悪い時だなぁと思われている方がいるとすれば、それは自分の信仰の翼を広げているかどうかを確認することです。

 神の時、その時の風が吹いても、それに乗り切れないでいるかもしれません。信仰の翼を広げることです。

 主イエス・キリストの弟子たちが本当に信仰の翼を広げた時、それは主イエスが、福音伝道を行いながら、ガリラヤや、フィリポ・カイサリアや、エルサレムで活躍された時ではありませんでした。ましてや、主イエスが捕らえられ、裁判にかけられ、死刑の宣告を受けて、十字架で死なれて行かれる、その時には、翼を広げるどころか、自分達の存在さえ、隠してしまう程でした。

 けれど、そのようにして死んで行かれた主が、三日の後に、週の初めの明け方、早くに復活されて、その後弟子たちの前にその姿を現した時、更には、復活の主は弟子たちと共に40日間おられましたが、天に昇り、それから10日後のペンテコステの日、聖霊が天から下り、神の霊が弟子たちの心の中に、しっかりと納められた時、その時にこそ、神の時が明らかになったではありませんか。弟子たちはその時にこそ、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはならない」と言われた言葉の意味の全てを理解して、そして、今この時にこそ、あのヘルモン山で見た、主イエスが白く輝いたこと、そこにエリヤとモーセがやって来て、主イエスと話された事、更には雲の中から声がして「これはわたしの愛する子。これに聞け」という声が聞こえて来たことを、人々の前で、堂々と、自信をもって何度も話し始めたのでありましょう。

 だから、この出来事は、マルコにも、マタイにも、ルカにも三つの福音書の中にしっかりと納められることになったのであろうと思うのです。

 今日のタイトルを「先を見通す力」と致しました。私たちには「先を見通す力」が必要だと思います。先を見通す、先を見越すためには、それ相応の知識、見識が求められます。少なくとも一つの会社の社長であるとか、組織のリーダーにとって、例えば経済的な面において、政治的な面において、また、学校であれば、子どもたちがそれぞれに置かれている社会的境遇に即した対応であるとか、人の親であれば、子どもたちの確かな成長を支えるためにも、出来るだけの先を見通す力が求められるのだと思います。

 しかし、それでもなお、私たちの予測通り、思った通りに、自分の想定内に物事が収まるわけではありません。時には思いがけない、大きな災害が起こることもあります。今、九州では火山が爆発して、少しずつ被害が出ていると聞いています。自然災害はいつでも私たちの想定外の出来事です。あるいは人生において、思いがけない人の死と向き合うこともあるのです。自分の思う通りにはいかないことが多いのです。だからこそ、皆さん、私たちは、信仰の翼を閉じないことです。いつでも、どんなときでも信仰を翼をしっかりと広げることです。

 そして、そこに聖霊を風をしっかりと受け止めることです。

 神の時を待つことです。神の時、その時に、主の最善が示されると信じて、私たちは神から生かされ、与えられている命をしっかりと受け止めながら、これからも共々に歩んで参りましょう。

                                                            お祈りいたします。
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人の罪を救う方

2018-03-19 10:30:53 | 礼拝説教
【マルコ福音書8章27~33節】

「人の罪を救う方」

 最近、本屋さんに行きますとタイトルに「何とかの哲学」という言葉の本が多いと感じます。例えば、前回にもご紹介しましたのが、「ジブリアニメで哲学する」という本でありました。子どもが好きな「となりのトトロ」という映画ありますが、タイトルの通り、「となり」という言葉の意味がどんなにか大切かと記してありました。
 その文章を読みながら、私は、聖書に記されている「良きサマリア人の譬え」を思い出したのですが、山で追いはぎに襲われた人の隣人となってくれたのは、祭司でもなく、レビ人でもなく、その地域で嫌われていたサマリア人であった。あなたもそのようにして人の隣人として、すなわち「となり」として生きていきなさいと言われた場面を思い起こしながら読みました。

 その後に購入しましたのが、「愛とためらいの哲学」という本です。この本はベストセラーにもなりました「嫌われる勇気」という本の著者でもある、岸見一郎さんという方が記されたものです。
 岸見さんは、アドラーという心理学者の研究者でもありますが、人間の具体的な愛の形について、もっというなら恋愛について、あるいは夫婦関係について、つまりは男女の関係について、けれど、最近は、男性が男性を、女性が女性をという関係もありますから、男女というだけではなく、大切なのは一対一の関係について記されているのが特徴です。

 文章の中にこんな言葉がありました。「私たちは一人で成し遂げることができる課題、あるいは、多人数で成し遂げる課題については教育を受けて来ましたが、二人で行う課題については何も教えられてこなかったのです。」とありました。この季節、受験シーズンで、学校に合格するために、必死に頑張っていた若者が多いと思います。目標に向かって、一人で頑張ることが出来る。あるいは逆に学校でも30人なら30人、40人なら40人という具合にクラス単位で物事を考えることは教わるのです。教会でも、4月の末には総会がありますが、そこで話し合われることは教会の一年間の計画であり、目標であったりします。ですから大きなまとまりとして考えることは案外経験するものです。

 ところが、一体一、つまり「あなたとわたし」という関係について教わることは、学校でも、家庭でも殆どないというのです。もしかしたら、特に日本社会では殆どそういう機会が無いようにも思います。

 よき配偶者という意味で使用される「ベターハーフ」という言葉がありますが、この言葉の由来はギリシャ神話の喜劇的な場面とのことです。もともと人間は二人で一人で、つまり、二人の背中がくっついて背中合わせのようにして暮らしていたというのです。ところがこの人間は、わがままで、強情なところもあったので、ゼウスという神が怒りまして、二人を引き裂いて、別々にしてしまった。だから二人は離されたもう一人を探し、その一人を見つけると喜んで結婚するのだというのです。だからベターハーフというのだそうです。

 全く聖書的な話しではありませんけれど、人の愛を考える時にはなるほどと思うような話かもしれません。

 今週の火曜日には幼稚園の「聖書に親しむ会」がありますし、金曜日には「発展 聖書に親しむ会」が予定されていますけれど、若い夫婦、家族の、特にお母さん方が集まる集会ですが、良く自分の夫が家事に、育児に協力してくれないという相談を受けます。時には夫の悪口合戦のようになることもあります。そんなことを聞いていますと、自分のベターハーフはこの人こそ、そうだと思って結婚したはずが、子どもが産まれてみると、子どもこそがベターハーフになっているケースがよくあると思います。
 そうなると、もはや夫は必要ではありませんから、時には邪魔とさえ感じるのかもしれません。けれど、夫のほうは相変わらず、自分と妻の互いの背中はくっついていると思っていますから、片方がそう思っても、片方が思わないと関係が上手くいかない、崩れていくという方向になるのではないか、そんなことを思わされます。

 さてここでキリスト教という宗教観を考えます時に、キリスト教が私たちの信仰として大切にする信仰のあり方として、この一対一という関係性があるのではないでしょうか。今、「私たちの信仰」と申し上げましたけれど、正確に言うなら、私の信仰、もっと言うなら、主なる神と自分との関係はどうか、が問われているのではないでしょうか。
 
 本日は、マルコによる福音書の8章から読んで頂きました。ペトロが主イエスに対して「あなたはメシアです」と答えられた場面を読んで頂きました。なぜ、そう答えたのか、主イエスは、弟子たちと旅の途中にありました。フィリポ・カイサリア地方と呼ばれる地域におられた時の話しです。その地域は緑が濃く、豊かな自然に恵まれた地域だったようです。その旅の中で、主が弟子たちに尋ねられました。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」
 
 弟子たちは、互いに「洗礼者ヨハネだ」と言っている者もいれば、旧約聖書の偉大な預言者である「エリヤだ」という人もいますし、あるいは「預言者の一人」として捉えている人もいますと答えます。
 
 そこで、主が改めて弟子たちに問うのです。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」人のことではなく、あなたがたは私をどう思うのか。この時、弟子たちが問われたのは、あなたと私の関係は、一対一の関係はどうなっているのかということです。

 数日前に、教会のチャイムが鳴りまして玄関に出て参りましたら、ある70代位と思われる年配の男性の方がおられました。出て行きましたら「あなたが教会の牧師ですか」と尋ねられまして、そうですがと答えましたら、ちょっと驚かれたようでした。何年になりますかと聞かれましたので、8年位になりますと答えましたが、あ~、もうそんなになるのですかと改めて驚かれました。
 
 話を伺っておりましたら、かなり以前、よくわかりませんが、恐らく乙幡先生ではないかと思うのですが、もっと前の時代の頃に教会か、幼稚園と関係があって、その頃に来られていた方だったと思われます。割合にお近くにお住まいのようですが良く分かりません。とにかく、教会が綺麗になって、大きくなっているのに気が付いて寄ってみたというのです。ですからよくお出で下さいましたと、話しを伺いましたが、話される言葉の端々に、「私は信者ではありませんが」、「私は信者ではありませんが」と何度も言われるのです。((笑)ですから、「今からでも、全く遅くありませんから、是非、礼拝にお出で下さい」と申し上げておきました。(笑)
 
 皆さん、「私は信者ではありませんが」という言葉は、私はやはり、一つのその人の思いだと思います。自分は主なる神との関係はないけれど、ということでしょう。勿論、だからダメという訳でもありません。教会に来られると言うだけでも、本当はありがたいことです。

 主イエスが聖書の中で一番大切な教えは何ですかと問われた時に、「神を愛する事、隣人を愛する事」と答えられたように、何年も教会や、幼稚園に来ていなかったけれど、ふと思い出して寄って下さる。感謝なことですし有難いことです。隣人を愛する愛のある姿だと思います。
 
 ただ、私たちとしては、そこで終わってしまわないようにしなければならないと改めて思います。
 
 マルコによる福音書の続きを読みますと、主は「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められ」ました。しかも、そこのことをはっきりとお話になられた。すると、ペトロは主をわきにお連れして、いさめ始めました。イエス様、メシアともあろう方が、そのような弱気では困ります。私たちも弟子としての気持ちが萎えてしまいますから、そのようなことは言わないようにしてもらいたい」そんな話をしたのでしょうか。

 主は、振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われます。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」強い言葉だと思います。人間の事を思う。この「思う」とは、「ひとつのことを思い続ける。いつも同じ方向を向いている思いを抱く」という意味があります。私たちの悩みは、いつも人間のことを思っての悩みです。人に方向が向いているのです。

 最初に紹介したアドラーという心理学者が教えるのは、人の悩みは、全て対人関係にあると言い切ります。対人とは自分以外の人のことですが、アドラーは、自分と自分との関係をも対人関係に含まれると教えます。つまり、自分が人からどう思われているのかがとても気になり、他人の評価が自分の評価ともなるということです。他人から評価されれば自分も自分を評価する、他人が評価しなければ、自分も自分を評価しない。そして、不思議なことに、自分が自分を愛する量と同じ量でもって、人を愛することが出来るのだそうです。
 
 名前は申し上げませんが、太平洋戦争の敗戦の後、戦後のキリスト教の復興のために、働かられたある著名な先生の説教を読んでおりましたら、自分が牧師としてとても自信が無いと語られている文章がありました。自分は、言葉によって人をつまずかせ、作為の無さすぎによる罪を負い、他者の罪を共に負って、共にキリストからの執り成しの祈りをいただこうと思っても、多くの場合その時期を失ってしまう。責任の所在を自他共に期待するも、糠に釘のような状況になっているし、牧師として時期の見極めが遅く、人心の期待に対して、後手に後手にと、まわる愚かさを抱えているのです。私にとってこれ以上の切実な問題はありません。と告げておられた。

 けれど、だからと言って、その先生は自分がダメな牧師で、能力がないことに悩み、もう辞めたいと言っているわけではないのです。むしろ、それは自分自身の問題であるので、その問題にかかずらうことは避けますと告げて、主の福音宣教に没頭していくのです。

 そして、実際には後に牧師だけにとどまらず、後進の指導者として、また、大学の学長までも歴任されておられます。そのような先生でさえ、自分自身の中に自信を見出すことは容易でないと告げられる、正直な思いを告げられています。けれどなぜ、それでもなお、主イエスの福音を語り続けることが出来るのか?

 改めて思いますが、使徒パウロも同じような事を言っているのではないでしょうか。コリントの信徒への手紙の中で、自分がどれほど、弱さがあり、欠けがあるのかを告げつつも、しかしそれでもなお、主が「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ、大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」コリントの信徒への手紙二 12章に記されている御言葉です。

 主イエスはペトロに「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間の事を思っている。」と告げています。神の福音、神の導き、神の祝福、神の平和、神の平安のことを思わず、人の評価と、自分の力の無さに打ち崩れる時、私たちはそこで、主なる神を見失う危機に陥ります。だから、あたかもサタンの罠に陥らないように気を付けなければなりません。
 
 これから、私たちは月の最初の主日ですから、聖餐式を執り行います。この聖餐式は主イエスの体としてのパンと、主の血としての杯を受けて、主が自分と共なって下さり、神と私の関係が、大きな祝福と、限りない希望と、喜びで出来ていることを忘れないようにと教会の礼拝の最も最初から行われている儀式です。この聖餐は洗礼を受けた方が、受けられるようになっています。ですから、私は、是非、ここに集われる方、全員の方が聖餐を受けられますようにと、洗礼式へと、あるいは信仰告白式へと進まれるようにと願いつつ執り行います。
 
 人が何と言おうと、誰がどうであろうと、神と私の一対一の関係によって、わたしはいつも、祝福され、力与えられ、罪赦された者として人生を生きていこうと新たに決心される方が1人でも与えられますように願います。「あなたこそメシアです。」と告げる方が1人でも導かれますようにと願います。また、その為に主が命を懸けて、私たちを支えられたことを忘れることなく、この3月も共々に過ごしてまいりましょう。

                                                              お祈りします。
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