日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

実りある人生

2018-02-01 10:57:26 | 礼拝説教
【マルコによる福音書4章1~9節】

 今日はマルコによる福音書の4章から、主イエスが湖のほとりで人々を前に話されたたとえ話、「種を蒔く人」の譬えの場面を読んで頂きました。
主イエスの話を聞くためにおびただしい群衆が、そばに集まってきたとあります。

 主イエスが人の前で話をされる、すると聞いていた人々が「驚いた」と、聖書には良く記されます。それは権威ある人のような話ではなかったとよく記されますが、権威ある人の話とは時として難しすぎるという意味なのかもしれません。

 私が岩手におりました時に、岩手、青森、秋田の三つの県で奥羽教区と呼ばれていますが、毎年夏には「奥羽教区全体修養会」という集いを行っていました。三つの県の教会の方々それでも、全部で200名程ですけれど、集まってその時、その時の、時代にあった講師をお招きして講演をして頂くのです。良き学びと交わりの時でしたが、今思い起こしますと、何回も出席して、沢山の講師から話を聞いたはずなのに、実際のところ、殆ど思い出しません。
 
 思い出す話はどんな話かというと、今、日本基督教団で、鈴木伸治先生の後書記を務めておられる秋田桜教会の雲然俊美先生が、全体修養会の閉会礼拝で話をされたどんな権威ある話をされるのかと思って聞いていたら、「ぞうさん」の話をされたのです。

 まどみちおさんが作詞した「ぞうさん」、ぞうさん、ぞうさん、おはながながいのね、そうよ、かあさんもながいのよ。これが一番、ぞうさん、ぞうさん、だれがすきなの、あのね、かあさんが すきなのよ。それが二番、この小さい子どものぞうさんが、鼻がながいね、と言われて、嬉しそうに、わたしのお母さんも長いのと話す、誰が好きなのと聞かれると、ためらわずお母さんと答える。このぞうさんの心はどんなに喜びに満たされているだろうかと、話されたのです。私たちもそんな喜びに生きていきましょうと話されただけです。
 
 私は感動しながら、その話を聞いていました。そして、私の記憶から離れることは無いと思います。うちの娘が時々言うのです。私の鼻はパパに似ている、ほんとに嫌だ!(笑) がっかります。(笑)
 まあ、そんなこと言うと、益々嫌われますからそっとしておきますが、そのようにして権威ある人の話のようではないというのはこのような話なのかもしれません。

 大勢の人々を前にして話された「種を蒔く人」の譬え、難しいと感じるような話ではありません。むしろ説教する者が話しを難しくしてしまう可能性さえあると思います。そうならないようにと願っておりますけれど、当時、畑に種を蒔く仕方、一つには種の袋を二つに結んで、牛の背中に負わせて、背中の両側から種が落ちるように、袋の下をちょっとだけ切っておく、そうすると牛が歩くたびに、種が少しずつ落ちていくわけで、畑の中をただ牛に歩かせるという方法であったと言われます。あるいは、あのミレーという画家が描いた、「種を蒔く人」というタイトルの絵がありますけれど、人が種を適当にばらまくという感じでしょうか。日本のように、畑を十分に耕して、畝を作って、丁寧に蒔いていくというのとは大分違ったようです。 
 
 ですから、種は必然的に、色々なところに落ちるわけで、ある種は道端に落ちる、ある種は石だらけで土の少ない所、茨の中に落ちてしまう種もあり、それぞれ鳥が来て、食べてしまったり、芽を出したけれど、根を張り切れないで枯れてしまったり、成長したけれど、茨が邪魔で成長しきれなかったり、結局の所実りを付けるまでは行かなかった。でも、ちゃんと畑に落ちた種は、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった、と言うのです。
 しかも、主エスは続く4章13節からの箇所では、このたとえを説明しておられます。

 「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。」「道端のものとは、それを聞いてもすぐにサタンが来て、蒔かれた御言葉を奪い取る。石だらけの所にまかれたものとは、御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。茨の中にまかれたとは、この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地にまかれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者百倍の実を結ぶのである」と主イエス自ら説明もされています。

 主イエスが説明されたように、神の種が蒔かれて、そして蒔かれた神の言葉をどう人は受け止めるのかということでしょう。実りがないという話の中に三通り成長しない種について話しておられますけれど、基本的には神の言葉を受け入れるか、受け入れないのかの二つ何だろうとは思います。けれど少し丁寧に考えて参りますと、種は御言葉、それを聞いても、実らない原因の一つは奪われることだと言うのです。

 私たちは皆、赤ちゃんとして誕生します。誕生してからの凡そ一年はあたかも、神様のようだと話された先生がいました。つまり、泣くだけで全ての事が解決していくのです。お腹が空いても、おむつがぬれても、暑くても、寒くても、気分が悪くても、全てのことは泣くだけで解決していく。ところが一年経って行くうちに、挫折がやって来ます。人生最初の挫折はおっぱいを貰えなくなることです。誕生から数か月で離乳食、そして、固形の食べ物となっていくうちに、自然とおっぱいがもらえない、特に母乳で育った子どもは、母親とのスキンシップの問題もありますからね。ですから、おっぱいがもらえなくなるというのは人生最初の挫折感だと言われます。
 
 また、人は大きくなればなるほどに、様々な「奪われ」体験をするのです。お母さん、お父さんは自分だけのお母さん、お父さんのはずが、いつの間にか弟が誕生し、妹が誕生し、なんだか奪われ感を体験する。
 学校に入れば、これまで元気で丈夫なら何よりと言われてきたのに、元気で丈夫は当たり前で、更に成績、試験、点数が追加されるのです。そしてもっぱら親の関心は点数、結果、どんどん奪われる感が強くなるのです。
 更に成長して、社会に出れば、みんな一緒に入社したはずなのに、いつの間にか業績や成績で、出世する者もいれば、そうでない者もいる。そう思うのは自分がそうではない側になった時です。
 結婚もいつの間にか、自分の彼女と思っていたのに、自分の親友と結婚 することになったと聞くとすれば、どんなにか奪われたと思うか、逆に奪う場合もあるわけですけれど、更に、年を取れば取るほどに、いつの間にか、体が衰え、昔のようではないなと思う。体力が奪われ、健康が奪われ、時に夫が、妻が、家族が取り去られて行くという体験をする。
 命は一つしかないと分かっていても、いつか自分また、この命さえも奪われるのだろうと思うと、力を出そうと思っても中々出て来ない。あ~だから自分はあたかも道端に落ちた種のようなもので、鳥が来て食べしまう、すなわちサタンが奪っていくように、御言葉を聞いてもな~、そう思われる人が、他所の教会には時々おられるという話を聞いたりもします。

 星野富弘さんという方がおられますね。その方がこういう言葉を記しておられます。「鈴の鳴る道」という本の中にあるのですが、

「いのちが一番大切だと 思っていたころ 生きるのが苦しかった
 いのちより大切なものが あると知った日 生きているのが 嬉しかった」

 体を動かすことが出来ず、万能感どころか、無能感、絶望感だけで、残っているものは、自分の命だけ、この命が終ってしまったら全てが終りだと思っていただろう星野富弘さんが、神様の愛に触れて、そうか自分の命もよりも、もっと大切な命があって、その命に生かされて自分は生きているのだと、受け止めた時に、あたかも奪われて行ったと思っていた人生を、しっかりと取り戻すだけでなく、神の愛に包まれていることを実感して大きな喜びを表している素敵だと思います。あたかも道端に落ちた人生のようだと思っていたのに、あるいは石ころだけの土地だと思っていたの、茨だらけの人生だと思っていたのに、あなたはそうではないよ。私はあなたの人生を確かに、良い土地に落としたのだから、あなたは、これからその土地の中で、沢山の栄養と、水と太陽の光を受けて、すなわち、神の愛と聖霊の導きの中で、沢山の実りを付ける人生を素敵に生きていきなさい、そう伝えておられるのだと思います。

 私たちの人生は、若い頃はあたかも奪うような、加える、プラスの人生のようにして生きて来た、けれど、いつかの時に、確かに奪われていくような人生かもしれないと気づくことがあります。けれど、逆に取られれば取られるほど、自分の、また、隣人の命の大切を理解し、そして今、この時を、今日を大切に生きていこう、神様が喜び、自分自身も大いに喜べる人生を歩むことが出来るのだと思うのです。

 主イエスは石だらけの土地に落ちた種は、土が浅いのですぐ芽をだしたけれど、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまったと話されました。芽を出す、御言葉を聞くと喜ぶけれど、続かない、こういう場合もあるでしょう。先日、電話がありまして、丁度、車を運転していたのですが、教会からの転送で私の携帯が鳴ったわけです。慌てて、安全な所に止めてですね。教会ですと出たわけですが、青年の声で、教会ですか、お願いがあるのですが、先週と先々週の聖書個所と説教題を教えて欲しいのですがというのです。

 私はなんのことか、分からず、とりあえずお名前はと聞きました。名前を伺ってすぐに分かりました。昨年の4月頃に一度だけ教会に来たことがある大学生の方、あ~そういうことかと分かったのですが、今は実は車の中で、先週と先々週の聖書個所と言われても、毎週、私たちの教会はね三か所聖書個所を読んでいますから、手元に週報があれば答えられたと思いますが、私も記憶力が良いわけでもない、だから今は外だから、ということで、後で電話して下さいとか、教会に直接いらして下さいと言おうかなと思ったのですが、でもそんな意地悪をしてもと思い直して、教会のホームページをご覧ください、そこにあなたの欲しい情報はすぐに出てきますよと申し上げましたら、目の前にパソコンがあったのでしょうね。すぐに検索して、欲しい情報を見つけて、そしてありがとうございましたと切れてしまったということわけです。

 皆さん、この人は何が欲しかったのかというと、大学生で、この時期、聖書個所、説教題、まあ、これ以上深く言わなくともお分かりだと思いますが、レポートですよ。うちの教会のホームページには説教の原稿まで全部掲載していますから、勿論、人の名前はわからないようにと気を付けて掲載していますけれど、でもね、ちょっと思いましたね。全部掲載してしまうと、大学生が教会に行きなさいといわれてもね、HPで済ませてしまおうと思えば、出来てしまうのです。HPの情報は最低限の方がいいのかもしれません。
 学校もね、そうならないように、牧師のサインをもらって来なさいとか、色々と策を練っているのですが、中々上手くいかない。
 
 つまり、学校も、教会も、子どもの教会の苦労もそこにあるのです。芽を出すこと、そして根を張るようにとあの手、この手を考えるのです。そうやって頑張って芽を出させるところまでは、出来る、でもあとは、根を張る所までの協力をどうするか、いつも問われているのだと思います。
 
 一週間前に大雪となりまして、我が家の外に出しておいた観葉植物が直接雪にあたりまして、一週間でほぼ全滅しました。見えるところは何もありません。でも、その植物は根があるのです。春になると必ず根から新しい芽を出して、また再び元気を取り戻す、そのことを知っていますから、あまり慌てませんでした。私たちの人生も、なんで、こんなことばかり続くのかなと思うこともあります。中々、成長しないなとおもうことともあります。でも、そんな時こそ、しっかりと根を伸ばすことではありませんか。

 信仰という根を伸ばし続けているならば、必ず、そして何度でも、芽を出し、そこから再び成長し始めるのです。見える所以上に、目に見えない根をしっかりと張って生きていきましょう。
 
 そして、三つ目は茨です。すなわち、それはこの世の思い煩いや富の誘惑。その他色々な欲望が心に入り込むのだと主イエスは説明しています。思い煩いや誘惑。昨日予定されていました「もちつき大会」が中止となりました。

 どうも、この時期やインフルエンザ、ノロウイルスが流行る時期でもありまして、残念ですが、取りやめました。それで、昨日礼拝で何を話そうかとずっと考えておりましたことも、無くなったわけですが、最近、小川仁志さんと言う山口大学の先生が「ジブリアニメで哲学する」という本を出された。少し興味を持ちまして、本来なら金曜日には手元にあったはずなのですが、雪の影響かどうか、まだ届いていません。

 ですから、結局それを種にして話をしようとしていたのですが、難しかったかもしれません。ですから正確に読んで話しているわけではありませんが、ただ先日ラジオをきいていましたら小川先生が出ておられて話をしていたのです。宮崎駿監督が作る、いわゆるジブリ映画ですけれど、子どもはとっても大好きですが、でも、ディズニーのようでもない、何か、暗い部分がいつも隠されてあって、それが何かを考えていくと、宮崎駿監督の意図が見えてくるのだと話しておられました。

 例えば、「千と千尋の神隠し」という映画がある。千尋というかわいい女の子とお父さん、お母さんが、車でドライブしていて、いつの間にか人の世ではない世界に迷い込むのです。迷い込んだら、とても美味しそうな食べものが沢山準備されていたので、お父さん、お母さんは喜んで食べ始めるのです。
料金を請求されたら後で払えばいいよ、なんて言いながら、食べるのですけれど、いつの間にか二人は豚になってしまうという場面から始まります。

 ですから、結構怖い。けれど最後は千尋の活躍によって、家族三人が元気に人間界に戻っていくことになるのですけれど、この映画の背景には、人の欲望があると小川先生は指摘していました。両親が食欲に負けて豚になる場面や、千尋が働くことになった旅館では、皆お金欲しさにおかしなことになっている。その旅館の経営者はまるで金の亡者のようになっている。それがあたかも中心的な話ではないのですが、実際には人の欲望は限りなく、恐ろしいものであると訴えているのだと小川先生は指摘していました。その他にも、人は自然相手に喧嘩をしてはいけないとか、愛情を上手に受け止めることの難しさを描いているとか、とても興味深いと思います。

 いずれにしても、人は欲望の塊のようだと本当に思わされました。欲望によって人は思い煩い、誘惑に屈服していくのではないでしょうか。そのような思いが心に入り込むと、御言葉が覆い隠されてしまうのです。

 だから、主イエスは聞く一人ひとりに伝えようとしたのではないでしょうか。あなたがたよ、あなたがたの一人ひとりを、私は良い土地に蒔いたよ。良い土地とは、神の御言葉に生きる人の事だよ。世の中が語る言葉ではなく、神の御言葉によってあなた方は生きていきなさいよ。そして、そのようにして生きていくとき、あなたはあなたが思っているより以上の三十倍、六十倍、百倍もの実りを結ぶのだよ。

お祈りします。
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あなたはどなたですか

2018-02-01 10:34:44 | 礼拝説教
【エレミヤ書1章4~10節】
【使徒言行録9章1~20節】
【マルコによる福音書1章14~20節】

 先週の礼拝後、各部集会が行われましたが、青年会は「求道者 伝道テキスト」という冊子を一緒に読みました。鈴木崇巨先生という神奈川の田浦教会や、東京の頌栄教会で牧師されていた先生が記した、タイトル通り、求道者向けの薄くて読みやすい一冊です。
 キリスト教とは何か?を出来るだけわかりやすいようにと考えて作られているなと思いました。全部で30課に構成されていまして、第1課は、「聖書の神の名前」でありました。聖書、特に旧約聖書に記されている神の名前は「主」という名前です。という説明から始まります。そこを青年会で読んでみたわけです。

 テキストには例えば旧約聖書出エジプト記の3章の箇所が示されています。エジプトの地で奴隷となっていたイスラエル人が、神様に助けを求めた叫び声が神に届き、その思いを聞き入れた神が、ミディアンと呼ばれる異邦人の地にいたモーセに話しかけます。モーセよ、あなたは行って、イスラエルの民をエジプトから救い出し、私があなた方に与えた乳と蜜の流れる土地、カナンの土地へと向うように、と告げるのです。

 その言葉に驚いたモーセは、「主よ、あなたはどなたですか?」と尋ねると、「私はある、というものである。」と告げると共に、「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とも語ります。エジプトの王のもとに行って、「我々ヘブライ人の神、主がわたしたちに出現されました。」と告げなさいというのです。

 モーセは突然の出来事で、しかも、あまりに大きな役割故に、しり込みし、そんなことは出来ないと渋るのですが、主に強く求められ、ついにイスラエルの民を導き、エジプト脱出に成功し、40年の年月をかけて、カナンの土地へ戻っていく、その道のりを主が、昼は雲の柱、夜は火の柱でもって導いて下さった、この物語が出エジプト記という箇所に記されているわけです。

 本日は、先ほどエレミヤ書1章4節からも読んで頂きました。この箇所は主なる神がエレミヤに対して、エレミヤよと語りかける場面です。あなたは神に立てられた預言者として、今このイスラエルの究極的な場面において、語るべき御言葉を語り、人々を神に立ち返らせるようにと告げるのです。「主の言葉がわたしに臨んだ。『わたしはあなたを母の胎に造る前から あなたを知っていた。』という御言葉からはじまります。

 当時、イスラエルは、敵であり、またあまりにも大きな国となっていたバビロンとの戦いの中で、国が亡びるかもしれない、という厳しい状況に置かれていました。その厳しい状況で、イスラエルに神の御言葉を語り続けなさい、時には人々が聞きたくない言葉、厳しいと思われる御言葉も語らなければならない、ですから当初エレミヤも「わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者に過ぎませんから。」と渋るのですが、主の励ましによって、預言者としての役割を受け入れ、聖書にその名を書き記される偉大な預言者としての働きを全う致します。

 このようにして、一貫して、旧約聖書においては、神はイスラエルの民の「主」であり続けるわけです。それから、新約聖書の時代となるわけですが、先ほど紹介したテキストの1課は「主」でしたが、2課は「イエス・キリスト」となっておりました。主である神が、人となられて、人々に具体的に、また神の思いは何であるのか、を明らかにされるために、イエス・キリストが誕生された。
 
 鈴木崇巨先生は、2課で、「主なる神」と「イエス・キリスト」との関係を、あくまでも、不完全であるがと前置きしながら、その関係をまるで餅のようなものであると説明しました。今週末には私たちも餅つき大会を予定しておりますが、つきたての餅が一つあったとする。その餅を二つにすると二つ別々になります。温かいうちなら、その一片を元のかたまりに戻してもまた、一つになります。そのようにして、どちららも、餅であることには変わりなく、主とイエス・キリストも同じ神、だから私たちは主イエス・キリストと呼ぶのですと、説明してありました。

 この説明が的を射ているのかどうか、三位一体の神について、その教理を確立したと言われるアウグスティヌスが聞いたら、どう答えるか、聞けるものなら聞いてみたい思いがいたしますけれど、地上での福音宣教のお働き、そして、捕らえられ、十字架にかけられる。全ては終わった、と弟子たちや、多くの主イエスを慕う人々が力を落としますけれど、
 
 しかし、キリスト教の力、神の力は、むしろ、そこから、人には及ばない場所から、つまり主イエスの死からの復活という出来事によって、そして、ペンテコステ、聖霊降臨の出来事によって、弟子たちは本当にこの方こそ、主であると命がけの福音説教を開始するのです。その様子が新約聖書、四つの福音書に続く、使徒言行録という箇所に記されます。

 まさに命がけの福音宣教、キリスト者最初の殉教者とも言われるステファノという人は、使徒言行録の6章から登場します、ステファノは「知恵と霊とによって語る」ので、反対派の誰もが歯が立たず、そこで、人々をそそのかして、ステファノが「モーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と偽証させます。それで、ステファノが捕らえられ、裁判にかけられますが、その顔はさながら天使の顔のように見えたと記されています。
 
 そのステファノが主イエスに対する信仰を明らかにすればするほど、人々は熱り立ち、ついに石打の刑が確定します。人々は、自分達の着ている物をサウロという若者に預けてステファノを引きずり出して石を投げはじめ、その投げている間、ステファノは主に呼びかけて「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と呼びかけ、それからひざまずいて「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫び、眠りにつきました。つまり、召されて行かれました。さながら、その様子は主イエスの十字架の姿に重なるかのようにも思うのは私だけではないでありましょう。

 このステファノの殉教を境にして、エルサレムの教会に大迫害が起こったとあります。男女を問わず、主イエスを神と信じる人々を捕えては、牢に入れ、捕らえては牢に入れ、その中心的な役割を担ったのが、あのステファノ殉教の場面にも登場する、サウロ、後のパウロでありました。
 
 パウロは、この働きこそ、主なる神の思いと信じ「主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、見つけたら捕えて、縛り上げエルサレムに連行しようと、鼻息荒く、ダマスコという町に向っていた時のことでありました。
 突然、天からの光が彼の回りを照らし、パウロは地に倒れます。そして、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声を聞くのです。パウロは思わず「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがありました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」
 
 パウロは、その後、三日間目が見えず、食べも、飲みもせず、その後主の弟子であったアナニアがやって来て、パウロに手を置いて祈ると、目からうろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになり、洗礼を受け、食事をして元気を取り戻し、そして、ついにこの場面において、キリスト者を迫害するものから、主イエスの福音を宣べ伝えるものへと回心したわけでありました。

 皆さん、今日の説教のタイトルは「あなたはどなたですか」と致しました。旧約のモーセも、エレミヤも、そしてパウロも、主なる神と出会う経験をいたします。特にパウロの回心の出来事は、キリスト教のその後の進展においては、決定的であったと言えるでありましょう。「主よ、あなたはどなたですか」「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」この神との出会いが、パウロの人生そのものを変えていくこととなり、そのパウロがエルサレムにと留まることをせず、世界にむけて、異邦人に対して、主イエス・キリストの福音を宣べ伝える働きが、どんなにか世界の歴史を動かしことであろうか、何よりも、今、この場で主イエスを信じる私たちも、また、パウロを通して主イエスと出会った一人ひとりであると言えるのではないでしょうか。

 孫引きになりますが、1994年にノーベル文学書を受章した作家の大江健三郎さんがこういう事を言っているそうです。「なにものか人間を越えた存在が、われわれ人間を通じてジャスト・ミートする瞬間がある。自分の人生の良いものも、悪い者も、そのジャスト・ミートの時に、そこで統合され意味を持ってくる。そしてプラス面が生かされるだけでなく、マイナス面もまたそれなりの意味を持って統合される、そういう時がある」と語っているそうです。私はこの文章が記されている書物を持っておりません。すぐにでも読みたいと思っているのですが、中々その本と出合いません。けれど、とても良い表現だと思うのです。

 聖書の中で、主なる神と出会う人は、必ずそこで人生が変えられていきます。
 アブラハムから始まって、モーセも、エレミヤも、マリアもヨセフも、ペトロも、ヨハネも、そしてパウロもそうなのです。それぞれが神と出会って、それぞれの与えられた役割を担うのですが、けれど聖書に記される神との出会いには共通する一つの事があるのです。それは何か、私たちの努力によって神と出会ったわけではないということです。

 先週も申し上げましたが、年の暮れにお寺のお坊さんと、教会の牧師と、神父と、神社の神主がテレビに出ていまして、それぞれの宗教について、考え方について分かりやすく話してくれた番組を見ておりましたが、とにかくお寺のお坊さんが何人も出ているのです。なぜかというと、一口に仏教と言いましても、全く違うというのです。ものすごく厳しい修行が強いられる宗派もあれば、人が修業することに意味を見出さないという宗派もあるというのです。修業する宗派のお坊さんは、例えば、たき火のようにして火を焚いて、その上をはだしで走り抜けるとか、火の上に、大きな鍋をおいて、その上に胡坐をかいて、御経を唱えるとか、更に上を行く荒行というものがあって、朝の2時に起きて、夜の11時まで、冬でも一日何回も水をかぶったり、全く食事を取らなかったりという信じられない修行続けるというのもありました。

 そういった修業をして、自ら仏に近づくのだというのです。私は心からお坊さんにならなくて良かった(笑)と思いましたが、だから楽だから良いというのもおかしいかもしれませんが、でも、やっぱり修業ではありませんよ。人が頑張って、頑張って、死ぬような修業を重ねて、それをやり遂げた人は仏に近づき、だからその人の教えが素晴らしく、その人の言葉は仏の言葉、まるで聖人のように扱われる、とても分かりやすいのです。

 だから、キリスト教は分かりにくいと言われるかもしれません。なぜなら人の頑張りではありませんよ。と教えるからです。人が頑張って真理に辿り着くのではなくて、真理が、すなわち、主なる神が私たちを造り、私たちに命を与え、神が私たちに語りかけるのです。 

 私たちが寝ているとしても、どんな状況に置かれているとしても、私たちが意識しようと、意識しなくても、あるいはそのことを理解出来ても、出来ないとしても、主は私たちに命を与え、私たちの人生を祝福して下さる。こちら側になんら条件が求められるわけではないのです。

 主なる神が、私たちに語りかけて下さるのです。しかも、「主よあなたはどなたですか」
「わたしは主イエスである。」という言葉は、その御言葉は私たちの人生の24時間、いつでも、どんな時でも語りかけて下さっているのです。主なる神は、あらゆる方法を通して私たちに、「わたしは主イエスである」と語り掛けて下さっているのです。
 
 靴屋のマルチンという話がありますね。マルチンが息子を失い、奥さんにも先立たれて、独りぼっちとなり、自分の不幸を嘆くのですが、それでも聖書を読みながら、祈ります。神様、本当に神様がおられるなら、私の所に来て下さい。と願うのです。すると、どこからともなく声が聞こえてくる。「マルチンよ、明日私は、あなたの所へ行くよ」
 あ~この声は神様の声かもしれないと感じたマルチンは、次の日、早くに起きて、神様を迎えるために、やかんのお湯を沸かして、部屋を掃除して、いつ来られても大丈夫のように準備するのです。
 けれどその日一日で、やって来たのは、外で雪かきをしていたお爺さん、寒かろうと中へ入れてお茶を差し上げた。それから幼い赤ちゃんを抱いた女性が立っていたので、可哀そうになって食事を与え、コートをかけてあげた。夕方にはリンゴ泥棒の少年が逃げて来たので、その代金を追いかけてきたおばさんに支払ったりしていたら、一日が終わってしまったというのです。
 マルチンはがっかりして寝る準備をしていたら、また声が聞こえて来ました。「今日は、本当にありがとう、わたしを良くもてなしてくれた」と言うではありませんか。雪かきしていたおじいさんも、寒さに震えていた親子も、リンゴを盗んだ少年も皆、あれは私だったんだよと言われるという話です。

 皆さん、神様はいつも、私たちに語りかけておられます。けれど、それが中々私たちには分からない事があるのです。それでもなお、私たちに語りかけて下さいます。そして、時が与えられて、あ~そうだったのか、あの事も、この事も、全てを越えて、神様、あなたがいつも共にいて下さったんですねと突然のように分かることもあるのです。ジャスト・ミートする瞬間が与えられる時があるのだと思います。

 勿論、それが何時なのか私たちにわかりません。でも、あらゆる方法を通して、神様は私たちに語りかけて下さっておられる。だから、私たちはどんな時も、どんな状況にあっても、そのことが絶望ではなく、希望へと続く出来事であると信じることができますし、この事が起こったのは、神様がどんなチャンスを私に備えて下さっているのかと、思いつつ、どんな感動を私に用意して下さっているのかと信じながら、しっかりと対応していくことが出来るのです。

お祈りしましょう。
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