日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

天に富を積むために

2017-11-29 12:03:21 | 礼拝説教
【マルコによる福音書10章17~31節】

「天に富を積むために」

 先週の月曜日に、私が卒業した神学校に行ってきました。4年生のフィールド・ワークゼミという授業で学生の皆さんに「牧師が必要な学び」について話しをさせて頂きました。卒業して二十数年になりますが、自分が学校の講壇に立つなんて、そんな日が与えられる程の月日が経ってしまったのかなと思われました。
 
 そのことを強く思ったのは、最初に聞いてみた質問です。「皆さん、今橋朗先生という先生をご存じですか?」ここに集まりの皆さんもご存じの方も多いと思います。学生の皆さんも4年生ですからね、蒔田教会で40年牧会されただけでなく、ほぼその月日を神学校の教員として過ごされ、教会を辞されてからは神学校の校長の役割を担って下さいました。私自身、今橋先生からどんなにか沢山学び、自分の人生にどんなにか大きく影響を受けたか計り知れないと思う先生です。けれど、学生の全員が「知りません」と言うのです。ちょっとびっくりしました。自分達が入学した時は、既に小林誠治先生が校長ですというのです。ですからね。私は、今橋朗先生の校長就任式にも小林誠治先生の校長就任式にも出席しておりますけれど、小林誠治先生しか分からないと言われてちょっとショックでした。月日は本当にあっという間に過ぎ去るものなのだと思います。
とはいえ、なぜ私が学生の皆さんに、「牧師に必要な学び」という一コマの話をしなければならないのかと言いますと、私が神学生の頃に、一生懸命に勉強したという話の、あること、無いこと、その恐らく多くは無い事の方が多いはずと思うのですが、そういった話がどうも飛び交っているのではないかと思われます。

 確かに、自分なりには一生懸命に学んだと思いますが、実際の所それほど成績が良かったわけでもありません。謙遜して言うわけでもなく、普通の成績だったと思います。
 ただ、思うのは私の場合、普通の成績を取るだけでも、とても大変だったと言えるのかなと思う。普通になるまでに人の何倍も努力する必要もありましたし、4年の卒業論文を仕上げる為に、担当の三小田敏夫先生という、実力は超一流でしたが、割合に地味で、しかも厳しい先生にぴったりと張り付いて、朝から晩まで時間をかけてテキストを読んだり、幾つもの大学から資料を取り寄せたりしながら、なんとか論文を仕上げたのです。

 ただ、そういう努力を三小田先生がとても喜んで下さり、その後の学生に私のあること、無いことを吹き込んだようで、今、教務部長の役割をされている先生は、私の後輩で、更に三小田先生について勉強した方ですから、どうも色々と聞いたのかもしれません。ですから、牧師の勉強の大切さをみっちり話して下さいと言われたのだと思います。でも、実際は困っていました。
 
 何が困るのかというと、学校を卒業して教会に赴任しまして分かることは、神学生の時に学んだ多くの事がそれほど役に立つわけでもないということです。例えば、今、水泳を習おうとして、泳ぎ方を教える本があったとする。そういう本には殆ど今の時代はDVDが付いていまして、いわゆる、説明というよりは画像で実際に泳いている場面を見ることが出来るようになっています。本を読んで、画像をしっかりと見て、よし、これで理解したから、泳げるようになるのかというと、そうではないわけで、結局の所、実際に泳いでみなければ、少しも上手になるわけではないのです。
 私の趣味のギターの教則本もありますが、それにもDVDがついていて一流の方が弾いているのを見ることが出来ます。それを見て、頭で分かっても実際は全く弾けません。
 
 そのようにして、どんなに勉強したからといって、それは勿論大切なことですし、そういった学びが本当に基礎となることは間違いないのですが、でも、既に4年生で、3カ月もすれば、卒業する皆さんに、これまで4年の学びをしてこられた皆さんに、少なくとも机上で勉強することの大切さを話すよりも、牧師となっていく皆さんに話しておきたいと思ったことは、人と人との関係を沢山学んでくださいと伝えたいと思ったわけです。

 人と人との関係、つまり人間関係ですよ。例えば人間関係の、なぜ人は「怒りが」出てくるのかという話をしました。人は怒ったり、笑ったり、泣いたりする。私は最近特に、人の感情というものがとても気になっています。感情学という学問を殆ど聞きませんが、そういう分野について考える必要があるのではないかと思っています。

 人が同じ出来事を体験する、けれど、同じ体験でも、それに対して一人ひとりの対応も違えば考え方も違うことが良くあります。よくあるというよりはいつも違うと言っても良いでしょう。ですからそこから表出される感情も全く違ったものになります。

 人によっては怒り、人によっては反省し、人によっては悲しんだりするのです。なぜ、そうなのか、なぜ、人は「怒り」が出てくるのか、それは、「自分の心の中に自分なりの基準が入っているからです」と話しました。その基準、すなわち、聖書的に申し上げるなら私たちの心の中にある「律法」です。

 私たちは知らず知らずのうちに、自分の心の中に自分なりの「律法」をもって成長していきます。そしてその律法は自分にとってはあまりにも、当たり前のことですので、誰にとってもそれは当たり前のはずだと思っているところがあるのです。
 けれど、実際は別の人にとっては全く当たり前でもなく、特別なことであったりするわけですから、そこに大きなギャップや相違が現れて来て、そして、その違いが気になり、多くの場合、気に入らなくなり、怒りとなる、そういうことがありますよと話しました。

 何年もの前になりますが、ある日の礼拝に出席された方がおられて、礼拝の後に私に話しかけて来られた。自分が通っている教会は献金のお祈りの時に、紙に書いてある祈りの文章を祈るというのです。そんなことはおかしいというのです。私は、役割にあたる方が前もって準備しておられたのだろうと思うだけですから、それは、そんなに悪いことだろうかと思って黙って伺っていましたが、「祈りは祈祷会で養われるべきものでしょう。祈祷会で養われるのだから、紙に書くなんてとんでもないですよ」と言いながら、帰って行かれました。

 その方の心の中には「祈りは紙に書いてはならない」という律法が入っていて、それはその方にとってはあまりにも当然であり、自明のことなのです。それは違うでしょうと一言、もし私が言ったとすれば、もう二度とこの教会には来るまいと思われたかもしれません。
 
 そのようにして私たちの心には、自分にとってはあまりにも当たり前と思う、様々な自分の基準が入っていて、そしてその基準でもって判断をするのです。ですから何も神学生だけでもなく、私たちもよ~く気を付けなければならないのだと思います。

 今日は、マルコによる福音書の10章という箇所を読んで頂きました。金持ちの男というタイトルが付けられている箇所ですが、ある人が走り寄って来て、ひざまずいて主イエスに尋ねました。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
「何をすればよいのか」、「何を行えばよいのか」この辺りも、とても気になる表現ですが、続きを読みますと、主は答えられます。「なぜ、わたしを「善い」と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という掟をあなたは知っているはずだ。」
 
 すると、この青年は「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えたというのです。
主イエスが言われた「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」この教えは何かと言えば、主なる神がモーセを通して、イスラエルの民に教えられた十戒です。わずか10の教えです。現代の日本の法律の数が幾つあるのか、詳細はわかりませんが、ネットで調べてみますと国が定めた憲法、法律が凡そ2,000あるそうです。それから、政令や勅令と呼ばれるものを含めると凡そ7,500あるそうです。7,500多いのか、少ないのかどう感じられるでしょうか。
 
 スイスの神学者でカール・バルトという神学者がいます。20世紀最大の神学者と言われるほどキリスト教社会では知られた先生です。その先生が、今から103年前の1914年の10月に説教された原稿が本の中で読むことが出来るのですが、1914年というと、ヨーロッパで第一次世界大戦がはじまった年になります。ドイツ、フランス、オーストリア、ベルギー、オランダ、イタリア、イギリス、その年の8月には日本もドイツやオーストリアに向って宣戦布告しました。そんな年の、世界情勢が非常に緊迫した状況の中の10月に、ある教会の礼拝でこの「金持ちの男」の聖書箇所で説教をしている原稿です。

 こう話しています。「もしも、人間がこの地味な事柄、すなわち十戒に聞き従ったなら、われわれは今戦争などしていなかったであろう。十戒への服従、このことがあるなら、すべての邪悪から解放されていたことだろう。」
 
 もし、人が聖書に記されている十戒を本当に守っているとしたら、そこには戦争が生まれるわけがないというのです。けれど現実には戦争が起こっている。だから人は十戒を守ることは出来なかったということです。私たちも子供にも話します。子どもの教会で、2,3年に一回は必ず十戒の学びを行いますし、幼稚園の子どもたちに話す機会もありますし、教会によっては主の祈りを祈るようにして、十戒を唱える教会も少なくないと思います。

 「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という掟をあなたは知っているはずだ。」と私たちに主イエスが言われたとしたら、私たちは一体なんと答えるのでしょうか。知っていると言えるのでしょうか。知らないと言うのでしょうか。 

 私は子どもの頃は、聖書の御言葉を知りませんでした。勿論、十戒も知りませんでした。でも、親からは「殺すな、盗むな、嘘をつくな、奪い取るな」位のことは言われていたと思います。現代の日本でも、仮に聖書を読んだことが無い人がいて、だから殺しても良いとか、盗んでも良いという人はいないでしょう。それほどに、十戒は人が人として生きていく為に、とても基本的で、必要で、大切な教えであることを意味していると思います。

 もともと、この金持ちの男の問いかけは「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」という問いかけでした。バルトは「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのか」と問いかけられるのは、彼の人生の最も素晴らしい時であったに違いない。」と記しました。私もそうかもしれないと思います。永遠の命を考える前に、人は様々な事柄を考えます。学校に入れば、どうやって勉強しようかと考え、どのようにして受験に臨むのかを考え、どうやって優れた学校に入ろうかと考え、そして、どのようにして自分の人生を生きていこうか、どうやって収入を得るのか、どうやって社会的地位を手にするのか、どうやって伴侶を得て、どうやって良い家庭を築いくのかを考えるのです。そして、どうすれば人生の成功者になれるのか、と実に様々な、何度も何度も考えながら生きるのだと思います。

 そして、それらの物を全て手に入れても尚、手に入らないものがある、それこそが「永遠の命」ではないですか。バルトがその説教で話していることは、何よりも突然の戦争です。どんなに優れた良い生活をしたとしても、自分にはどうしようもなくなる場面がある。命が脅かされる状況に陥る時がある。その時、人は永遠の命を考えるものだと話しています。それもそうなのかもしれません。

 けれど、聖書の少なくともこの場面は何等かの緊迫した状態があって、この青年が主イエスのもとに飛び込んできたわけではないのです。むしろ、明らかに、この金持ちの男は、永遠の命を受け継ぐ保障のようなものを願ったのだと思います。元々受け継ぐと言う言葉が、遺産を受け継ぐといった類の言葉が用いられています。そのようにして神様から永遠の命を受け継ぎたいのですと願ったということでしょう。
 
 その問いかけに、主は十戒を示して下さった。しかし、男は「先生、そういうことはみな、子供の時から守って来ました」と言ったのです。この人は嘘を言っているのでしょうか。私は違うと思う。実際に、この人は、子どもの頃から恐らく財産もあり、教育熱心な家庭であったと思われますが、それゆえに何度も何度も聖書を読み、十戒などはそらで言えるほどに、その心の中に完全に入っていたに違いありません。心に十戒があることは当たり前であって、いわば普通のことであり、そしてそれは自分の心の律法ともなり、しかも自分は守っていると信じて疑っていない程だったろうと私は思います。

 けれど、自分ではわからない程に、自分の身についていながら、その十戒すら守り切れていない事には気が付かないのです。そこに人の罪がある、この金持ちの男のみならず、私たち一人ひとりにそのような、分かっているけれど、出来ていない、出来ていないことすらわかっていない罪があるのだとも思います。
 
 そして、皆さん、主イエスが、十戒の教えを通して、果たしてこの人に何を伝えたかったのか、ここで更にはっきりしてくるのです。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」その教えは、隣人を愛することです。ただそれだけです。

 あなたは神を愛するように、それと同じように隣人をひたすら愛しなさいと主イエスは教えておられるのだと思います。隣人に対して、自分の律法でもって裁いたり、怒りをぶちまけたり、見下したり、自分が中心となって、あの人は気に入るとか、気に入らないではなく、ひたすら隣人を愛することだと教えておられるのだと私は思います。
 
 そして、そのことは、何をすれば永遠の命を得られるのかという問いかけに対する目新しい答えでもなく、これまで聞いたこともないと思えるような権威からの言葉でもなく、いつも、いつも伝えられ、いつも守りなさいと言われ続けていることなのです。ただ、隣人を愛すること。そこにこそ、天に宝を積む道があると主は言われているのではないですか。
 
 私たちが、躓くのは隣人を愛しきれないでいるからです。そのような私たちに主イエスは言われます。あなたはあなたの心の律法を捨てて、ただ隣人を愛しなさい。その先に永遠の命に通じる道が備えられているのだから。
                                                            お祈りしましょう。
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忍耐強く走りぬく

2017-11-29 11:52:29 | 礼拝説教
【ヘブライ人への手紙12章1~3節】
【マルコによる福音書13章5~13節】
「忍耐強く走りぬく」

 ヘブライ人への手紙12章という箇所を読んで頂きました。12章1節に「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」とあります。おびただしい証人の群れとは誰なのか、一つ前のヘブライ書の11章を読めば、明らかに旧約聖書に登場する信仰の先達であるとわかります。
 
 11章の最初に記されている言葉は「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とあります。まだ見てはいないけれど既に確信して生きる。そのような信仰をもって生きた一人ひとり、具体的にはアブラハムや、イサク、ヤコブ、そして先ほど出エジプト記を読んで頂きましたがイスラエルの指導者モーセ、それに続く、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、その名前が続きます。また、それだけでもなく、旧約聖書に名前は載っていないけれど、望んでいる事柄を確信して、信仰の故に拷問にかけられ、鎖につながれ、投獄され、時には石で撃ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩いた人々、そのような人々がいたというのです。
 
 しかも、そのような名前も記されているわけではない人々は、この世では、信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れなかったとさえ記されています。

 おびただしい証人とは、改めて申し上げますが、旧約聖書の指導的立場を担った信仰の先達のみならず、その歴史に名前を残すことはないけれど、信仰の戦いを戦い抜いて生きた一人ひとりがその証人なのだということでしょう。
 私たちの教会は11月の第1主日に召天者記念礼拝を執り行いましたが、今年はこれまでのものを変えて、新しく召天者の名簿を作り直したものをお配りしました。これまでの名簿は洗礼を受けて教会員として信仰生活をされた方を中心に記されていましたが、私は教会の墓地に名前が記されている方々も加えるのが良いだろうと思い役員会に諮りまして、そのようにさせて頂きました。ですから人数が増えまして44名から14名増えまして58名となりました。
 
 14名が書き加えられて、これで良かったと思ってはいますけれど、この58名の方々が私達の教会の信仰の先達の全てであるわけではありません。召天者記念礼拝の際に、久しぶりにT兄が礼拝に出席して下さり、お元気な姿を拝見出来て良かったと思っておりますが、Tさんが礼拝の後に一言話したそぶりを見せました。それは、昭和28年の1月に北村健治先生から洗礼を受けられたIさんという方がおられます。Tさんや、F子姉が洗礼を受けられた翌年の事ですからTさんは良く覚えておられると思います。当時教会の財政的、あるいは人的にも厳しい時代に信仰をもって生きた方でありました。けれど、いつの頃かわかりませんし、どのような事情があったのかも定かではありませんが、礼拝に来られなくなっておられた方でした。教会には教会員原簿という文書類が保管されていますから調べましたら別帳会員、いわゆる教会とは長い間、関わりを持っておられない方の名簿の中に納められていました。そして、今、分かっていることは今年の夏ごろに召されていかれたということです。

 Tさんは、お住まいが近いということもあったかもしれません。そのことをTさんはご存じでした。そして、そういう方もおられたのだから祈って頂きたいという思いだったのではないかと思うのです。Iさんだけでもありません。教会の向かいに、教会と幼稚園で駐車場を借りているOさんのお宅があります。ご主人のOさんはお元気ですが奥様のSさんは、天に召されて2年程になります。この方は昭和24年に大塚平安教会で洗礼を受けておられ、一時は教会の役員を担われていたとも伺っています。その当時、信仰生活を守っておられた一人であることは間違いありません。向いということもあって、大変良く丁寧に接しておられた方でしたが、いつ、どのようにして、どんな事情があって礼拝に来られなくなったのかは分かりません。教会の中にはその理由をご存じの方がおられるかもしれませんが、私があえて知らなくともよいことなのかもしれません。

 けれど恐らく、このIさんや、Sさんのような方々、いつの時には礼拝に来られていたけれど、兄弟姉妹として歩んで来たけれども、いつの時かは定かではないけれど、あたかも別の道を歩むようにして生きて行かれた方々が実際は沢山おられて、そして天に召されていかれた方々がおられるのではないかと思うのです。そして、そのような方々の人生に様々な事情があったとは思いますが、教会から離れるのは人の罪だと言うのならば、その事情を本当に教会が理解し、いつまでも隣人として歩むことが出来なかった教会にも罪があるのではないかと私は思います。
 
 こんなことを申し上げるとまるで、誰かを責めるようにならないことを願っていますが。私自身が今ここで申し上げたいのは、この教会の今、現在の牧師として、この教会から何かの折に、離れていかれるような方が一人も出ないような気配りが出来ているのか、そのような働きが十分なのかと、どうしても自問してしまということなのです。本当に何もかも不十分で、まだまだ出来ていないのではないかと常々思わされてなりません。私自身、偉大な指導者になれそうにありませんし、これからも優れた牧師と言われるような生き方で生きていけそうもない、そのことは私自身が一番わきまえているつもりです。でも、それが悪いと思って言っているわけでもないのです。 

 私が願うのは、だからこそ、皆さんと一緒に生きていきたい、互いに励まし合いながら、互いに人の足りない所を補いあいながら、助け合いながら、誰一人も欠けることなく、皆の教会として、神の民の大塚平安教会として一緒に歩んで参りたいと心から願うのです。

 そしてもっと言うならば、そのような礼拝から遠ざかっていた方々の一人も、主なる神が見放したわけではないということです。人間的にはあたかも縁のようなものが切れているように感じるけれど、主なる神は誰かを見放したとか、この人は排除に値するとか、そのような思いを持ってみておられるわけではないということではないですか。そのことを思いますと、やっぱり私たちはどんな一人も心を込めて祈っていくことが求められているのだと私は思います。

 教会の信仰を守り導くのは、決して偉大だと呼ばれる指導者だけではありません。時には殆ど名前も知られないような、礼拝の隅におられて、多くを語らない、そんな方々も含めて、全て一人ひとりの方の信仰によって神と繋がる教会の信仰が形成されていくのだと私は思いますし、その方がずっと良い教会へと導かれて行くのではないかとさえ思います。

 今日読んでおりますヘブライ人への手紙は、もともとヘブライ人とはイスラエル人のことですからタイトルからして、どこの教会に宛てたものであるのかはよく分かりません。けれど、恐らくですが、言われていることはローマにあった教会の一つに宛てられているものと考えられています。しかも、その教会は、実に苦しい状況に追い込まれていたと思われます。教会の皆が非常に疲れを覚えている状況です。

 一つにこの手紙が記された時代が、大きな迫害であったと言われる皇帝ネロの時代と深い重なりがあると考えられていること。
 二つにそれゆえに、信仰者が、キリストを信じる者が負わなければならない苦難が非常に大きかったと考えられること。更に三つ目に当時の信仰者が願っていた、主イエス・キリストの再臨が自分達の思っていたよりもずっと遅いと感じていたことなどが考えられています。

 すなわち、この教会の人々は、信仰に疲れを覚え、苦しみにあえぐ思いをしていた。けれど逆に、更に力を振り絞って信仰を生き抜こうと願っていたのだとも思います。その為にこの手紙の著者は、この手紙のほぼ全体を貫いて、一人ひとりの信仰が支えられるように、信仰を見失うことが無いようにと必死の思いで御言葉を選びながら丁寧に記していることが良く分かります。

 そして、12章に入り、こういうわけで、私たちもまた、このようにおびただしい証人、偉大な指導者も、名前も記さることのなかった一人ひとりも含めた信仰の先達の信仰に囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。と記されているのです。

 忍耐強く走り抜く、この言葉について、多くの文章の中に記されることは、50mや、100m走といった短距離走ではなく、マラソンのような長距離走が連想されるということです。すなわち私たちの人生と言っても良いかもしれません。

 ですから走り抜くのはとても無理と思われる方なら歩いても良いのです。歩くのも大変だと言う方がおられるなら、その場で祈って下さればよいのです。そのようにして人生を走り抜く、すなわち与えられた人生を信仰によって前に推し進めるということでしょう。

 そのように信仰をもって、自分の人生を前に推し進めるために必要なこと、それが2節の御言葉として記されています。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめる」ことです。この言葉はとても大切だと思います。信仰をもって、自分の人生をマラソンのようにたとえながら、ゴールを目指してこの道と信じて走っていた者が、気が付けば、いつのまにかどうも走るコースがずれていたということもあるかもしれません。この人の後をついていけば間違いないと思いながら、闇雲について行ったらとんでもない所がゴールであったということがあるかもしれません。ですから、私たちは誰でもなく主イエス・キリストを見つめ続けることです。
 
 今の時代は、確かにこの手紙が記された時代のような迫害は少なくとも、私たちの回りは無いかもしれません。でも、この世にはあたかもこの世のルールのようなものがあって、例えば、今日は、子ども祝福式で、ファミリー礼拝の後には、小学生を中心とした数名の皆さんの祝福を行いましたが、その子供たちが教会と疎遠になるのは、中学になってからです。一つには中学になると日曜日にも部活が始まります。一つには勉強も難しくなります。一つには友達と交際や付き合いが広くなります。とても教会に行くような時間は無くなる、そのことを親も子供も悪気無く私に話して下さいます。

 子どもの教会を担って下さっている方もそのような現実と出会い、色々と苦労されておられます。実際に、私の中学の娘も滅多に礼拝に顔を出さない、朝には礼拝だよと声をかけても、今日は塾だとか今日は模試だと言われるとそれ以上は強く言えなくなってしまうのです。
 
 でも、皆さん言い訳のように申しますが、世の中はやっぱり、学力というか、知恵も必要ですよ。必要だと思いますよ。知恵、知識がどんなに魅力的に思えることかと思います。それだけでもなく、部活とは一般的にはスポーツです。人生はマラソンだと申し上げましたが、私も正月のなりますと楽しみにして見ていますけれど、箱根駅伝のランナーなどは、本当に人々から英雄のようにしてみられています。もし、そんな子ども達が自分達の教会にいたとして、日曜日は礼拝だから、駅伝の練習に出るなと親は言えるのでしょうか。私はわかりません。

 世の中は、知恵や知識や、体力や、そして経済力、社会的な地位、それらはあたかも、人の人生の成功の象徴のようにして、私たちの生活に迫って来ているのではないでしょうか。

 でも、皆さんではなぜ私たちには「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめることが」大切なのでしょうか。そのような罠にはまらない事だからです。どのような罠か、それはこの世の知恵も、知識も、体力も、財力も、地位も名誉もこの世のものだからです。

 この世のものとは、勝つか負けるかです。時としてこの世の人は言うかもしれません。教会に集まる人は弱い人だ、この世の負け組のような人だと言うかもしれません。でもね、そういう人もまた勝ち続けることは出来ません。人生そのものこそ勝つか負けるかでもなく、私たちに与えられているのは主にある信仰の確信です。見えない事実の確認です。

 私達の生涯、勝つか負けるかで生きたとするならば、人生、働いて、働いて勝ち続けたとして定年となった。やっと終わったと思うだけで、あとは何をすればよいのか分からないということがあるかもしれない。でも、現代は人生100年の時代です。第二の人生を生きようと新しい職場、働きを得て励まれるということもあるでしょう。
  けれど、その途中に病に倒れ、仕事から離れ闘病生活となった時に、もう自分の人生は終わりだと思うのでしょうか。病気は負けですか?その病気があるから何も出来ない、全ては終わりなのですか?あとは死ぬまでただ生きるだけの人生を生きるのだと思われますか。

 それとも、死を迎えるその時まで、自分は信仰の創始者であり、また完成者である主イエスを見つめながら歩んでこられた、そのような満足を得て、私たちは地上の生涯を生きていけるはずです。そのようにして、主イエス・キリストが喜びを捨て、恥をもいとわず、十字架の死を耐え忍ばれた、それは、諦めでそうされたのではないと私たちは知っています。諦めどころか、その時でさえ、死のその先をしっかりと望みつつ、神の勝利を信じ続けて、それゆえに私たちを赦し、そして、死に勝利されて復活されたのです。

 そのような信仰を伝えるのは、私たちの役割です。礼拝の後、子ども祝福式を行いますが、この子ども達が、私たちの人生を見て、知って、自分もあんなふうに生きていきたいと思ってくれるように、私たちはいつまでも、どこまでも主を仰ぎ見ながら、主を見つめながら進んで参りましょう。
お祈りいたします。
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行動の人

2017-11-14 10:47:58 | 礼拝説教
【創世記15章1~6節】 【ヤコブの手紙2章14~26節】

 「行動の人」

 大分前のように感じてしまいますけれど、10月の最初の週に私たちの教会は「学びと交わりの集い」を行いました。2017年は、宗教改革の年から丁度500年ということもあり、ルターの宗教改革について、信仰について、また私たちの信仰について共々に学びました。その時にも申し上げましたし、これまで何度も申し上げ、またこれからも申し上げていくことでしょうけれど、宗教改革の一つの信仰的中心は、信仰義認、信じることによって義とされる神の恵み、神の福音を信じることが大事で、私たちが何かを行って、神様が認めて下さるわけではない、最初から神様の方が、私たちを一方的に認めて下さる、それを信じて生きていく、それが私たちの信仰の形として、特にプロテスタント教会の歴史においては大切に守られてきた教えでもあります。

 ですから、ルターは、行動することに重きを置いているように感じるヤコブの手紙を好まなかったと言われています。と言っても、考えてみればルターが悩みに悩んで、しかしその後に与えられた信仰義認という信仰によって、時のカトリック教会に対して、命がけで神に対する信仰のあり方を示し続けたように、そのような行動が無ければプロテスタント教会は成立しなかったわけですから行うことも大切。ただ、ですから、信仰によって私たちが何をどう考えて行っていくのかは、いつも私たちが考えさせられるテーマではないでしょうか。

 今日読んで頂きましたヤコブの手紙は信仰の父と呼ばれるアブラハムという人を用いながら、行う人としてアブラハムの信仰を紹介しています。
2章21節に「神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。」とあります。「アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。」とあります。

 旧約聖書、創世記15章という箇所も読んで頂きましたが、そこでは「アブラハムよ」と、主が幻の中で話しかけて下さった会話が記されています。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの楯である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」「わが神、主。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。」けれど、主は「あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」と言われました。そして「天を仰いで、星を数えることが出来るなら、数えてみるがよい。」「あなたの子孫はこのようになる。」その言葉をアブラハムは信じた。主はそれを義と認められた。とあります。

 その後、アブラハムが100歳、妻のサラが90歳の時に、独り子イサクが誕生することとなり、二人はどんなにか喜んだことでしょう。けれど、ある時に、主なる神がアブラハムに告げるのです。創世記の22章の場面です。「アブラハムよ、あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げものとして献げなさい。」と言うのです。その言葉を聞いて、アブラハムは本当にそうしたというのですから、私などはその後、イサクが助けられると分かっていても、ハラハラ・ドキドキする思いがする。なぜか、もし自分がアブラハムだったら、あなたの息子を献げなさいと言われたとしたら、とてもそんなの無理、それは死んでも出来ません、息子を献げるくらいなら、私がと、どうしても神様に口答えして、拒むだろうと思うからです。

 けれど、ヤコブの手紙は、それが信仰によって行動することだとも記しているのです、ですからヤコブの手紙は、とても無理と思えるようなことを私たちに幾つも要求しているかのようなそんな思いにさえなる手紙だとも思います。けれど、ヤコブの手紙がそのようにして何よりも行動だと言っているのでしょうか。あるいは、アブラハムには出来て、私たちは出来ないと思ってしまう。それは何が?あるいはどこが?どう違っているでしょうか。

 私たちはどのようにして信仰を自分の心に納めていくのか、それもそれぞれでだと思います。でも例えば主イエスはこう言われました、「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」、「野の花がどのようにして育つのか、注意して見なさい。」それは、信仰とはよく見ることだとも言えるでしょう。どんなに聞くにしても、百回聞くよりは、一回見てみる方が良く分かるということもあります。
 先週、この礼拝で召天者記念礼拝を守りましたが、初めて来られた方がおられて、この礼拝に出席されて、「あ~、こういう時間がとても大切なんだな」と感想を言われた方がいたと伺いました。一度来て、そして見てみると、そこで心が捕らえられる、そういうことが実際にあるのではないでしょうか。

 あるいは主イエスは「聞く」ことを大切に教えられました。「耳のある者は聞きなさい」、「よく聞きなさい」と福音書の中で主イエスは数えましたら11回も人々に、聞きなさい、よく聞きなさいと話されています。信仰は聞くことだとも言えるでしょうし、人間関係を考えましても、まず聞くことですよ。話したい方は沢山おられるのです。だから、聞くことです。よ~く耳を澄まして聞くことです。そこから聞くことから多くの養いを得ることが出来るのだとも思います。

 あるいはまた、触れることです。あの疑い深いトマスが、「あの方の手に釘の後を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない。」と話した場面は有名ですが、実際に触れる、触れ合うことによってそこで信仰がまた新たにされることがあります。私たちの教会にも礼拝の最後に相互挨拶という箇所がありまして、相互に「あなたに平安がありますように」と挨拶するわけですが、海外の教会では挨拶、握手だけでもなく、互いにしっかりと抱き合ったり、頬にキスしたりもするのです。習慣の違いだと言えばそれまでですが、体に触れながら、挨拶すると私たちは、当初は驚きと気恥ずかしさで上手くいかないものですが、慣れると本当に感動することもあります。信仰は触れることによっても、育てられるとも言えるでしょう。
 
 それだけでもありません。カトリック教会を考えますと、礼拝と香がどんなに大切であるかと思われますし、先週の聖餐式を思いますと、パンと杯を頂くことによって、私自身「信仰をもって味わいなさい」と申し上げますが、あのパンと杯を頂き、自分の体が主なる神から頂いた体であり、神に繋がる枝であり、手足であり、神の体として、それ故に神の子としての自覚を思い起こすのではないでしょうか。そのようにして、私たちは見ることによって、聞くことによって、触れることによって、香によって、味によって、更には、賛美する、祈る、黙祷、沈黙、を行いながら、すなわち私たちの感覚、五感をフルに用いて、信仰とは何かを自分の体、自分の心に納めていくのだと思います。

 でも、そのようにして、養われて行く信仰の更にその先にあるものがある。先週行われました墓前礼拝で聖書箇所に選びましたのは、ヘブライ人への手紙の11章1~3節でした。読みますとこうあります。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」
 
 ここに「見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かる」とあります。目に見えない世界によって、この世は出来ているということでしょう。つまり、信仰とは、見えない世界、聞こえない世界、触れられない世界、香とか味ではない世界、すなわち、人の感覚を越えていく世界があって、そして、その世界こそが、永遠の命に繋がっているということではないでしょうか。

 先週、厚木霊園の墓前礼拝で私は、「かけがえのない人生」という話をいたしました。東北大学で教えておられた信仰の先達でもある宮田光雄という先生がその著書の中に記しておられた言葉を紹介させて頂きました。私たちはかけがえのない人生という言葉を使います。かけがえのないと言う意味は二つあって、一つは、誰とも代えられないという意味だと教えられます。隣の人がカッコいいなとか、若々しいなぁとか、健康だなぁと思いながら、代われるものなら代わりたいと思うこともあるけれど、決して代わることは出来ません。だから私たちの人生はかけがえのない人生なのであって、そして二つ目は、絶対に繰り返すことが出来ない人生だと、教えて下さいました。

 もし、人生が二度あるとしたら、一度目は試しにこっちの道を歩んでみて、ダメなら、二度目には別の道をと考えることも出来るけれど、それは絶対に適わず、人生一度きりの、しかも、戻ることも出来ない人生を私たちは歩んでいる、だからこそ、かけがえのない人生なのですと教えておられます。

 私も本当にそう思いました。私たちの人生はかけがえのない人生だと思います。誰とも代えられないし、繰り返すことも出来ません。更に、その行く先が本当の所はどうなっているのかわからないまま人生を歩んでいるようなものでしょう。だからこそ、大切なのは、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない世界を確認すること」

 そこまで考えてみて私は、アブラハムが、なぜ、あの愛する独り子イサクを主の命令によって献げることが出来たのかが少し分かって来たように思えました。アブラハムは、仮にイサクを神に献げたとしても、そこですべてが終わってしまうのではなく、アブラハムは、既に神の永遠の命を信じ、目に見えないけれど、確かにある世界を信じて、既に望んでいる事柄を確信して、見えない事実を確認することによって、必ず神様のご計画の中に、大きな祝福があるのだと信じて、信じきってその信仰をもって、イサクを捧げようとしたのではないのか、そして、主なる神は、アブラハムのその信仰をご覧になって、アブラハムが願っていた以上の祝福をもたらして下さったのではないのかと思えて来たのです。

 私達は信仰によって何を行うのか、何を行わないのか、そこでいつも悩むのです。これを行ったら人からなんと言われるであろか、これを行わなかったらどんな事を言われるであろうかと思いながら、いつの間にか、主なる神の眼差しではなく、人の目、人の思い、この世の考えに多いに影響を受け、時には支配され、そして身動きが取れなくなっているとしたらそれはとても残念なことではないでしょうか。

 アブラハムは二度旅立ったとも言われます。元々、アブラハムはカルデアのウルと呼ばれる土地に家族と共に住んでおりました。ウルと呼ばれる土地は、チグリス川、ユーフラテス川が海へと注ぐ、河口近くの豊かな土地、メソポタミア文明が栄え、発展していたとても豊かな場所でもありました。しかし、そこを家族で出て、川の上流に向かい、ハランと呼ばれる土地に引っ越しました。これが一度目の旅立ちです。なぜ、そこに移ったのかその理由は分かりません。

 けれど、その場所で、主なる神の声をアブラハムは聞きました。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地にいきなさい。わたしはあなたをおおいなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。」その声を聞いて、その神の声を聞いて、まだ見ぬ土地に妻のサラと甥のロトと共に旅立ちました。しかし、アブラハムの人生は多くの困難と試練が待っていたことを皆さんもご存じでありましょう。
 けれど、アブラハムは最後まで、まだ見ぬその先をいつも信じて、神様の祝福を信じて行動しました。すなわちそのようにして生きて来たということでありましょう。

 私たちもまた、私たちがどう生きるのか、どう行動するのか、それはなによりも信仰によって、そして、私たちに与えられている多くの賜物によってそれぞれが全く違う生き方、違う行いをされると思います。けれど、既に祝福は主イエスの十字架と復活によって、神の愛と赦しによって約束されています。そのことを信じて、進んで参りましょう。歩んで参りましょう。全てが相働きて益となる信仰を持ちつつ、確かな人生を生きて参りましょう。

                                                            お祈りいたします。
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かけがえのない人生

2017-11-07 12:16:47 | 礼拝説教
墓前礼拝
聖書箇所 ヘブライ人への手紙11章1~3節
「かけがえのない人生」

 「かけがえのない人生」という言葉があります。この言葉の意味について東北大学で先生をされていた宮田光雄先先生は、二つの意味がありますと教えておられます。
 一つは「取り代えがきかない」ということです。先日、我が家の玄関の電球が切れまして、今回高価でしたがLED電球にしました。恐らく相当時間、切れることが無いと思います。しかし、私たちの人生はそのようにして取り代えがきかない、だから「かけがえのない人生」なのだと思います。私たちは色々な方の生きざまを見ています。時には、あの人のような人生を生きたいと願い、その人を人生のモデルとして生きようとすることがあります。私自身、尊敬する牧師が幾人もおりまして、あんな牧師のような話し方、振る舞い方、生き方が出来たならと願うことが幾度もあります。
 憧れをもって、あんなふうに生きていけたらと願うのは悪いことではありませんけれど、はっきりしているのは、絶対にその人になることはできず、また、案外、そう自覚すると自分は自分の人生を生きていくしかないのだと改めて思わされて、自分ならではの人生を責任もって生きていくしかないのだと思わされたりもします。
 
 そして「かけがえのない人生」の二つ目は、「繰り返しがきかない」ということです。私たちの人生は、あたかも一方通行の道路のように戻ることも出来ず、進むしかありません。勿論、道路ならば、もう一度もとに戻って同じ道路を何度も走ることが出来ますけれど、人生は、戻ることは許されません。
 そういう意味においては、私たちの人生は、演劇の芝居のようなものを思いますと、練習なしのいきなり本番、しかも一度きりの本番を生きているようなものです。この時、この出来事が上手くいかなかったから、その場面に戻ってやり直そうとしてもそれは赦されません。何度も練習して一番よい人生を生きることも出来ません。だから、私たちの人生は「かけがえのない」人生なのだと言うのです。

 本当にその通りだと思います。先ほどヘブライ人への手紙を読みましたが、その個所は皆さんもご存じのように、聖書を読み進めて参りますと旧約聖書の信仰の先達の名前が登場いたします。「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ」とあります。「信仰によってエノクは死を経験しないように、天に移されました。」とあります。「信仰によってノアはまだみていない事柄について神のお告げをうけたとき、おそれかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また、信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。」とあります。
 さらに「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」とあります。
 
 かけがえのない人生、取り代えることも出来ない、繰り返すことも出来ない人生を私たちはどう生きるのか、ここで更にはっきりしてくることは、自分が歩んで来た道も、これから歩もうとする道も、これまで既に誰かが歩んでみてこれは良い道だからと道しるべをつけてくれていたわけでもなく、自分以外の誰もまだこの道を歩むものはいないと言う事実だと思います。
 
 そんな中で、何よりも頼りの親も年を取り、人生の伴侶も、子どもにしても、家族、血縁の誰かにしても、自分の人生の最後まで伴に連れ添ってくれる、という確証があるわけではありません。時には一人になってしまったと思うことがあるかもしれません。
 
 だからこそ、聖書が告げる言葉は、「信仰によって」という御言葉でしょう。それは、どんな時も、神が私と共にいますという信仰です。他の人がどうか、あの人はどうか、この人はどうかではなく、神が私と共にいて下さる、その信仰によって、例えばアブラハムは新しい旅立ちをしたことを私たちは知っています。もともとアブラハムの家族は旅の途中でした。アブラハムの家族はもともとカルデやのウルと呼ばれる町に住んでいたとあります。そこから父親のテラに連れられて、妻と共に家族と共に旅に出て、そしてハランという町に向かうのです。この度はアブラハム最初の旅であったかもしれません。けれど、その後、アブラハムに直接神の言葉が届くのです。その御言葉は「あなた生まれ故郷、父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。」というのです。ヘブライ書ではこの場面をアブラハムは「行き先も知らずに出発したのです。」と記されます。
 
 神の言葉に従って、行き先もわからないけれど、神に対する「信仰によって」、安心、安全の家族とも別れて新しい人生を歩みだした。これがアブラム二度目の旅立ちでもありました。昔の偉い学者は「人は二度生まれる」と説明したそうですが、一度目は命の誕生。二度目は神の子としての誕生。それは、自分自身のかけがえのない人生を、主なる神が伴って下さるのだという信頼と信仰が与えられた時ということでありましょう。
 
 その信仰によって、一人ひとりが人生の時には大きな荒波の中を、時には大きな混乱の中を、時には喜び、時には涙しながらも、どんな状況によっても信仰によって生きることが出来た。「ほんもの」と出会い、確かな喜びに包まれながら生きることが出来たと私は思います。私たちの人生は、かけがえのないものです。だからこそ、その人生に必要なものは、「信仰によって」すなわち、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する。」まだ、ここで与えられているわけではないけれど、既に与えられたかのようにして、喜んで生きる。それこそが「信仰による」生き方なのでしょう。そのようにして生きて来られた方々の一人ひとりと共にこうして墓前礼拝として行えておりますことを感謝しましょう。そして、私たちもまた、信仰の先達に倣い、まだ見ぬ神の国を、しかし、確信と確認を新たな思いで受け止めて、感謝しつつこの時を過ごして参りましょう。

 お祈りします。
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誠実に愛する

2017-11-07 12:09:53 | 礼拝説教
【創世記4章1~10節】 
【ヨハネの手紙一3章11~18節】

 2017年度の召天者記念礼拝において、読んで頂きました聖書箇所、ヨハネの手紙の3章11節からの箇所を読んで頂きました。「互いに愛し合いなさい」というタイトルが付けられています。
 
 主イエスの弟子の中で、恐らく一番主イエスに愛されていたのはヨハネではなかったと言われています。そのヨハネがヨハネによる福音書を記し、ヨハネの手紙の一も、記したと学問的にも言われていますが、福音書もそうですが、ヨハネの手紙も、どんなに愛が大切なのかと何度も、何度も記されているように思います。パウロという人がいますけれど、今、水曜日の祈祷会でパウロが記したコリントの信徒への手紙という箇所を読んでいますが、「愛」というよりは「神の赦し」を強調しているかなと思わされます。
でも、ヨハネはね、主イエスの直接の弟子として、赦しもそうですが、やっぱり「愛」なんですね。神は愛だとさえ言っているように、互いに愛すること、それがどんなに大切かと告げているわけです。
 
 とはいえ愛とは何か、これは私達にとって、キリストを信じる者にとって、生涯のテーマと言ってもよいのではないでしょうか、また、多くの書物が愛について記しているわけですが、聖書は「互いに愛しあいなさい」と教えました。しかも、その愛の形をどのようにして私たちが知ったのかというと、16節に「イエスは、わたしたちのために、命を捨てて下さいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」とありますように、聖書が告げる愛とは、自分の命を捨てるほどの愛だというのです。

 フランスの作家で、エマニュエル・シュミットと言う人がいます。その人が記した本に「イエスの復活」という本があるのですが、主イエスが最後の晩餐の場面からゲッセマネの園で捕えられるまでの間に、イエス様がご自分の心の中でずっと考えておられたことを記す場面があります。

 自分がもうすぐ捕らえられてしまう、そんな覚悟を持ちながら、しかし、自分自身を顧みながら思うのです。自分はただ人々に「愛」を示し続けたかったのだというモノローグ風にといいますか、独り言のようにして記されている場面です。自分はただ「愛」だけを示し続けたかった、愛だけが全てだった、「あなたは神の愛を信じるか」と問い続けて来た。
 けれど、人々は、この病気は治りますか。この足は立てるようになりますか。目の病気は扱っていますか、と次から次へと押し寄せて来る、私は皆に「あなたは神を信じるか」と問い続けてきたのに、もうその言葉は何の意味もなくなり、癒しの出来事ばかりを求め、そして、愛を説き続けて来ただけなのに、人々はこの世の社会的改革を求め、政治的指導者を自分に重ね、願い、熱狂的になっていった。でも、立場のある人々が妬みから主イエスを捕えてしまうと、人々はもう自分の言葉など無関心になってしまうのだ。と嘆く場面があります。とても人間臭い主イエスの姿が記されていると思いますが、しかし、優れた小説だと思います。
 著者は、主イエスの徹底的で、普遍的な、しかも顧みを求めることをしない「愛」を描きたかったのだろうと思います。

 顧みを求めない愛、私たちは、そのように生きたいなと思いつつも、いつの間にかどうしても顧みを求めてしまうし、顧みがなければ腹が立つのです。ヨハネの手紙は「互いに愛し合うことだ」と教えますが、互いにとは少なくとも、この世のギブ&アンドテイクのような、これだけやったのだから、これぐらいは返してもらわないというものとは違う「互いに」という意味でありましょう。

 旧約聖書、創世記4章という箇所も読んで頂きましたが、アダムとエバの二人の息子のカインとアベルがそれぞれに、主に捧げものをしました。カインは土の実りを、アベルは羊の中から肥えた初子を献げたのです。主はアベルの献げものを喜び、カインの献げものを顧みませんでした。怒ったカインは、神に怒りをぶつけるわけにはいかないので、アベルに怒りをぶつけてアベルを殺してしまったというのです。
 自分がこれほどやったのにと思ったからでしょうか、しかし、この創世記の箇所をじっくりと読みますと、カインは土の実りを献げ、つまり収穫の実の地を献げたと思われますが、アベルは羊の中の最も肥えた初子、つまり、持っている物の最上のものを献げたとあります。カインはもしかしたら最上のものは自分のものとしたと思われます。

 そのことに気が付いていた主は、アベルの思いに応え、カインの思いに応えなかったのです。恐らくカインも自分を顧みてくれなかったその理由も分かっていたのではないかと思います。だからこそ、更に腹を立てたのではないかとも、私は思う。腹を立てて見せることによって、神に対しても、アベルに対しても自分を正当化しようとした。私の考えすぎかもしれませんが、でも、それほど人の罪は重いとも言えるのではないでしょうか。

 私たちは、自分にとって最上だと思う物を、何よりも神様に献げてとは願いますけれど、でも、本音のところでは、やっぱりもったいないと思ってしまう。そして、やっぱり大切なのは自分であり、自分の家族であり、自分の人生なのです。だから先ほどの小説のように、「この病気は治りますか。この足は立てるようになりますか。目の病気は扱っていますか」と主イエスのもとへ集まってくる人々の思いのほうが良く分かるなと思うのは私だけではないだろうと思うのです。

 でも、そんな私たちの為に、主イエスが決断したことは、「わたしたちのために、命を捨てることであった」と聖書は語るのです。
捨てるとは、もう要らないからということでしょう。でもなぜ、命を捨てるのか、一つには、捨てるとは顧みを求めないという決意からではないでしょうか。主イエスは、「私はあなたがたの為に、私の命を献げる」だから、必ずや顧みなさいと語り掛けたのではありません。あなたがたに恩を売るのでもないし、私が、ただ徹底的にあなたがたを愛して、愛して、愛する意味において、こうするのだと「捨てる」という言葉を用いたのではないでしょうか。

 そして、もう一つ、4年前に天に召されましたが、榊原康夫という牧師がおられて、大変厳密に聖書を読まれる先生として私も尊敬している方ですが、その書作の中に、「捨てる」と言う言葉は、「立てる」という言葉としても用いられているとの説明がありました。榊原先生は、口語訳聖書で説明しておりますが、例えば、使徒言行録の20章にパウロがエフェソの教会の長老を呼んで、いわば最後の惜別の言葉を告げた場面があります。その中にこういう言葉があります。「どうか、あなたがた自身に気を付つけ、また、すべての群れに気をくばっていただきたい。聖霊は、神が御子の血で贖い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである。」パウロがそう語った後に、エフェソの教会の長老とパウロは共に涙を流して抱き合って別れを惜しんだ場面ですが、この「監督者にお立てになった」立てるという言葉は、「捨てる」と言う言葉と繋がっているのだと説明します。

 つまり、主イエスが御自分の命を捨てる決意を持った時、弟子たちに自分の命を捨ててと告げた時、実際にそうされた時、十字架に付けられた時、主イエスの願いは、自分を捨てるのは相手を立てるためであったというのです。

 本当に、その通りだと思います。主は御自分の命を懸けて愛されて、私たちを立てようとされたのだと思います。この世の様々な誘惑に打ち勝ち、主に立てられたものとして、すなわち愛をもって生きるようにと教えて下さっただと思うのです。主イエスは徹底的に私たちを愛して下さいました。なぜなら「神は愛だから」です。
 
 でもね、先ほど、パウロは赦しを、ヨハネは愛をと申しましたが、愛は人を立てることですけれど、赦すのと違うのか、なんでもイイヨと言えば、それが愛なのか、私たちはそこで迷ったりするわけです。
ヨハネは、本当に主イエスに愛されていた、愛されていると信じていたと思いますが、聖書を読みますと、結構、叱られたりもするのです。ある時、ヨハネがイエス様に言いました。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者をみましたが、わたしたちにと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」と言ったのです。すなわち、あいつらは自分達の話を聞かないから、気に入らないということでしょ。でも主イエスは、「やめさせてはならない」と言われました。そのすぐ後に、イエス様一行があのイスラエルの民の中で、差別されていたサマリアの地域を通ったわけです。サマリアの人々は歓迎しなかったとあります。でも、イエス様はそういうことは気にしなかったのでしょう、でも、ヨハネは頭に来てね「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」と聞いたというのです。

 主イエスは、とんでもないとヨハネと兄弟のヤコブを戒めたとありますが、人を立てるとは、なんでもいいよ、いいよ、だけでもないようです。じゃあ、叱ってもいいのかというとそうでもなくて、何が大事か、愛するとは、褒めるにしても、叱るにしても、その言葉に「愛」があるかどうかではないですか、あの人気に入らないと思いながら、でも私はクリスチャンだからと、ひきつった笑顔で、挨拶しても、それは通じません。そうではなくて、何を言うにしても、相手を立てる言葉を用いるということではないですか。誠実に愛するとはそういうことではないでしょうか。

 信仰と希望と愛はいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。なぜか、愛こそが神そのものだからです。
この主イエスは愛そのものなのかもしれません。そしてその方の愛によって、私たちの信仰の先達もその生涯を神によって立てて頂いて、そして素敵に行き抜いて、一人ひとりが良い証をされて地上の生涯を生きられました。私たちもその思いを継いで今日はこうして特別な礼拝を守っております。
私たち自身も、私たちの家庭も、私たちの教会も、私たちの社会も、私たちのこの地球も、この宇宙も、全てのものが愛から生まれ、愛によって成長し、愛によって「互いが仕え合える」ようにと、されているのでありましょう。そっして、そこにおいて、私たちが願ってやまない誠の平和を見出すことが出来るのだと信じて生きていきましょう。      

                                                          お祈りいたしましょう。
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