日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

信仰によって

2017-10-21 15:13:59 | 礼拝説教
【マタイによる福音書21章18~32節】


 本日は「信仰によって」というタイトルを付けさせて頂きましたが、毎週水曜日の午前に私は幼稚園の子どもたちと一緒に礼拝を守っております。私たちは皆神様の子どもですよ。だからしっかりと神様と繋がって生きていきましょうねと話すわけですが、どう話せば分かってもらえるかな、いつも、いつも悩みの種でもあります。

 先日の礼拝ではテレビの話をしました。皆さんの家にテレビがあるでしょう。先生の家のテレビを見ようとしたらなんと見られませんでした、なんでだと思うと聞きましたら、ある子どもが「はい、リモコンを無くしたから」、「いや、リモコンはあったんだよ。」別の子が「ハイ、リモコンの電池が切れていた」、「いや、リモコンの電池は替えたばかりだから大丈夫」そしたらまた違う子どもが、「ハイ、テレビのほうのスイッチが消えているからリモコンが利かない」いや、そうでもないんだね。「ハイ、テレビが壊れていた」いや、テレビは壊れていないよ、テレビも壊れていない、リモコンも壊れていない、でも映らない、なんでだと思う」そしたらシ~ンとしてしまいました。

 答えは簡単ですね。コンセントに繋がっていないからです。それじゃ映らないでしょう。と話したわけですが、コンセントと言う言葉が分からない子も3割位はいますからね、最後までは先生は何を言っているのかなぁと思って聞いた子もいたと思います。
 でもね、そのようにして大切なことは、テレビとコンセントが繋がってはじめてテレビとなるように、子どもたちもしっかりと神様に繋がるようにと願いながら話をさせて頂いているわけです。私たちはやっぱり、神様と繋がってこその人生だからと、不思議なほどに最近よく思わされます。

 でも、それは何も子どもたちだけの問題ではありません。大人にとって、というよりも誰にとっても自分がどこで、誰と、何で繋がっているのか、これは本当に大切なことだと思うのです。
 
主イエス・キリストがなぜ私たちのこの世に誕生されたのかというと、私たちが中々神様と、本物の神様と繋がろうとしないで、この世の冨やこの世の権力や、この世の誘惑、これこそが本物ではないかと思いながら繋がって生きていたのですが、本物と思ったものに繋がったけれど、裏切られたり、あるいは自分から裏切ったり、傷つけたり、また、傷つけられたりしながらどう生きて行けばよいのか分からなくなっていた私たちの為にクリスマスの出来事を通して神の御子が誕生して下さったわけでしょう。

 この私と繋がりなさい、あなたの信仰を確かなものとしなさいと手を差し伸べて下さった、それが主なる神様の思いだと思うのです。

 主イエスが弟子たちと共に地域一体を伝道活動されおられた時、一人祈るために山に向かい、弟子たちには先に湖の向こう側に行くようにと舟に乗せて送り出し場面がマタイによる福音書の14章という所に記されています。
夕方になって、祈りを終えて湖に戻ってみると、弟子たちを乗せた舟が逆風の波に揉まれて、行くのも戻るのも叶わない、そんな状況であることがわかるのです。
 主は湖の上を歩いて、弟子たちの舟に近づきましたら、弟子たちの方が驚いて、「幽霊だ」と叫ぶ始末です。でも、主は「安心しなさい。わたしだ」と伝え、弟子たちもイエス様だと気が付くと、喜び、勇気が出て、弟子の一人のペトロが主に呼びかけました。「イエス様、私も水の上を歩いてそちらに行かせて下さい」それじゃ来てみなさいと言うと、ペトロは喜んで舟から出て、水の上を一歩、二歩と歩いたのですが、ふと強い風に気が付いて怖くなった時に、沈みかけて「イエス様、助けて下さい」と叫びました。

 もし、主イエスをまっすぐに見続けて、大丈夫、心配ないと信じて歩き続けたらなら主のもとに行き着いたでしょう、でも、つい主から目をそらしてしまって、あ!今、自分は水の上だ、強い風が吹いて来た、沈みそうだ、その現実に気が付いた時に、不安がどっと出て、失敗しないようにしよう、と思いはじめた時に失敗してしまったのではないでしょうか。
 
 話は変わりますが、家内の両親が埼玉県の所沢に住んでおります。お義父さんは88歳で元気で、しっかりしておりますが、学校を出てから保険会社に勤めて、退職後も30年近く保険代理店をしておりました。流石に一年前、二年前に仕事を縮小して、現在はついに現役を退いて仕事を後輩に譲ったと聞きました。でも、保険会社一筋ですからね、地域に沢山のお客様がいるのです。もう、教会関係者だけでも大変な数だと思います。牧師も何人も保険に入って下さって有難いのですが、ですからね、家内に時々言っていたのです。あなたがお父さんの代理店を継げば、既に固定した客もいるのだから、それほど苦労なく収入もあり、我が家も安定するんじゃないの?

 でも、家内が言うのです。あなたは牧師として、神に信頼しなさいと言うでしょう。神にのみ、この人と繋がっていなさいとおっしゃるでしょう。その妻が保険会社で、何かあった時には妻の保険でお願いしますと言ったら、あなた詐欺ですよ。まあ、そこまでは言いませんけれど、ちょっともったいなかったかなぁ、でもね、そうでもないのです。創業者の苦労も知らず、その後を継いだとしてもそんな簡単なわけがありません。簡単に出来そうだと手をだして、そして風吹けば慌て、波が高ければ溺れそうになり、結果的に何倍もの苦労を負って、やらなければ良かったと後で後悔する話は良く聞く話でもあります。じゃ、やっぱりやらない方がまだ良いのか、でもないのです。

 主イエスはこう話して下さいました。先ほど、読んで頂いた箇所ですが、マタイによる福音書の11章21節からの箇所です。
イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」

 大切なことは、信じて祈ることです。何かをやるにしても、やらないにしても大切なことは信じきって祈ることなのです。ペトロは信じて水の上を歩きだしたのに、怖くなって、つまり信じきれなくなったのです。でも、だからダメなのでもなく、主イエスはすかざす、すぐに手を伸ばして捕まえて助けて下さったように、必ず主は道を開いて下さると信じることです。やるか、やらないかで私たちは悩みます。でも、どちらを選ぶのかではなく、選んだほうこそ主の示された道、神と繋がっている道、そう信じるところに必ず主の確かな導きがあるのです。

 今日はですね、礼拝の後でもご紹介申し上げますが、大塚平安教会の私の前の鈴木伸治先生の前の乙幡和夫先生の前の川島貞雄先生の前の北村健司牧師の御長男である北村博道兄が礼拝に来られておられます。奥様の志津子さんが今年の5月4日に天に召されまして、願いは大塚平安教会の墓地に埋葬したいその思いでもって、ロサンゼルスからはるばるやって来られました。
 
 北村健司先生が名古屋の教会から大塚平安教会にやって来られたのは、記録によりますと1952年の8月です。北村先生55歳か56歳でした。丁度今の私と同じ年齢と重なるのですが、それ以前の大切かつ、重要な教会の歴史もありますが、現在の大塚平安教会の歴史は北村健司先生の招聘と、先生が来られてから2か月後10月5日の会堂の献堂式から始まったと言っても過言ではないと思います。この10月5日に、井上フサ子姉と角田敏太郎兄が受洗されていることからもわかります。北村先生は、学問的にも優秀で、語学も堪能で、当時の厚木基地とも深く関わりを持たれ、支援献金を受けながら、牧師室の増築、炊事場の拡張、CS教室兼季節託児室の建設等、一生懸命に働かれる一方、先生ご自身は結核という病気との戦いとなり、入院、退院の繰り返しと大変な状況で牧会されていたと記録に残っておりました。
 
 そして、この大塚平安教会に来られてから6年後の1958年4月25日に天に召されていかれました。記録によれば、その召される一か月前の3月30日の礼拝説教が最後の説教でありました。恐らく、北村先生は、この大塚平安教会が御自分の最後の働き場であると覚悟していたのではないでしょうか。それならば、この場でこそ、主の福音伝道にと専念されたのではないでしょうか。この場にかけて生きようと、命懸けの伝道活動であると覚悟されていたのではないでしょうか。そしてそのような覚悟を感じて、人は力を得ていくのでありましょう。当時を振り返り、角田敏太郎兄がこのような文章を残しています。「北村先生は、救い主キリストとは、教会とは、その形成等々について、徹底的に教え導き、訓練をしてくださったのである。厳しい教えである反面、慈愛に満ちた導きであったことは誰も異存はないと思う。」角田さんや、今は天に召されてしまいましたが、井上フサ子さんをはじめとする多くの信仰者に良い感化を示し、足腰の強さを鍛えて下さったのは、間違いなく北村先生であり、それゆえに、現在の教会の大きな土台ともなって下さった先生でありました。

 そのようにして、あの事でもなく、この事でもなく、現代を生きる私たちにも求められていることは、ただ一つのことです。それは私達を作って下さった「神と繋がり続けることです。」
 ヘブライ人への手紙11章17節からの箇所を読んで頂きましたが、そこに記されているのは、旧約聖書に記されている信仰の大先輩の名前です。「信仰によって」アブラハムがどうしたのか、「信仰によって」その息子のイサクがどう生きたのか、更に「信仰によって」その息子のヤコブがどう生きたのか、更に「信仰によって」その息子のヨセフがどう生きたのか。更に「信仰によって」という御言葉が続いてもモーセ、またヨシュアと続くのですが、この箇所を一言で言って何を伝えようとしているのかと言うとするならば、その一人ひとりの「死」にあたってどう生きたのかということだと思います。その「死」にあたってとはその一人ひとりの生涯をどう生きて来たのかが記されているのです。そして、そのすべてを「信仰によって」すなわち、色々なことがあったけれど、ついに最後まで「神に繋がって」生きた人達であったと記しているのです。
 「神に繋がる」とはどういうことなのか?それはいつも「新しく生きる人」としてその人生を送るということです。

 今の時代、多くの世の人は、あたかも、幼稚園の子供たちのように、テレビが映らないなぁ、リモコンが悪いのかなぁ、だから電池を替えてみた、でも映らない。あぁテレビの電源が入っていないのかなぁ、入っているあなぁ、なんでも映らないのかなぁ、そして、ついに、電気屋さんに電話して聞くのです。もしもし、電気屋さん、お宅で買ったテレビ移りませんよ、向こうでそうですかと聞いていた電気屋さんが、ところでコンセントは入れましたかと、聞かれて初めて、ああそうか、コンセントが外れていたのか、それじゃ映らないと分かるのですが、その最も根源的な、力のあるところに繋がらなければ、全てが繋がらないように、私たちは子育てにしても、夫婦関係にしても、職場にしても、学校であっても、何か問題が起こる、何か不安を持つ、何か苦労をするときに、なんとか自分のわかる範囲で、対処療法をしようとしているのではありませんか。
 
 でも、対処療法はいつまでたっても対処療法であって、もっと根源的なところ、私たちが生きる力に繋がることが大事なのです。そこにこそ新しく生きる力が宿っている、そこに繋がることです。
 
 私たちの人生は、実際、色々なことが起こります。神様、神様がいて下さるのなら、どうしてこんなことがということが本当に起こることだってあるのです。だから、一生懸命に対処療法をするのです。風が吹いて来たから風よけをつろう、波が高いからこうしよう、でも対処療法ですから時には、やればやるほど沈んでいくかもしれません。
 だから、その時、その時ではなく、生涯を通じて、どんな時でも私たちを作って下さり、命を与え、人生を備えて下さった方がおられるから大丈夫。風が吹いても、波が来ようとも大丈夫、この方がおられるのだからと神と繋がるのです。そうすると失望ではなく、希望が生まれます。
その希望は当初は目に見えない程に小さな物かもしれません。その希望を「からし種ほどの信仰」と呼ぶのです。でも、からし種は地に埋められて、芽を出して、成長するとどの植物よりも大きく育ち、鳥が巣を作るほどに成長するように、私たちの信仰が、主なる神によって、聖霊と御言葉によって生き生きと、伸び伸びと育ってくるのです。
 そして、今、この時、病気だから、学歴が無いなから、体力が無いから、財力が無いから、でもその全てを越えて、神と繋がり、私たちに新鮮な力を、汲めども尽きない力を主なる神が与えて下さる、そのことを信じて私たちは生きて参りましょう。

 お祈りします。
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後になる者が先に

2017-10-09 10:30:49 | 礼拝説教
【マタイによる福音書20章1~16節】

 いよいよ衆議院選挙が始まろうとしていますが、二日前の金曜日に、「希望の党」から選挙公約が発表されたとありました。その中にベーシック・インカム制度の導入というのがあると聞きまして、少し驚きました。
 
ベーシック・インカム制度とはあまり聞きなれない言葉ですが、ベーシックは「基本的な」という意味で、インカムは「収入」という意味ですけれど、国民一人ひとりに、基本的な生活に必要な金額を国が支給する制度と言われています。
 
 私達の国はいつのまにか自由競争原理の中で、格差社会と呼ばれるようになってきました。収入の格差が広がっていると言われます。社会構造的な問題として、どんなに頑張って働いても、生活するにままならない家庭や個人がどんどん増えている、それが現実だと思います。
 その為に、希望を失い自死する人や、犯罪に手を染める人もいます。進学をあきらめる子どももいます。その解決法の一つとして、一人ひとりに基本的な生活費を支給しますよ、もし、その制度が導入されるとしたら、生活の為に長時間労働が強いられる人や、頑張って働いても報われない多く方々や、病気で働けない人や、様々な困難を抱えている方々の苦労が軽減されることは間違いありません。多くのメリットが考えられますが、デメリットとしては、もし実現すれば一人ひとりの労働意欲の減退や、現実的には財源が無いということも上げられます。
 
 私がベーシック・インカムという言葉を初めて聞いたのは、2年程前のことです。さがみ野ホームで阿部志郎先生という先生がお話をして下さるのでと、誘われて話を聞きに行ったときに、話された一つがこの言葉でした。阿部志郎先生は東京女子大学や明治学院での働きを務められ、特に社会福祉の面においては、現在でも第一線の指導者として働いておられますが、その講演で話して下さいました。社会福祉という面から言えば北欧諸国が恐らく世界で最も先進的な立場です。消費税は非常に高いのですが、教育費や病院の治療費等はお金がかかりません。そのような制度が成立するのは国民が国を信頼して初めて成り立つのだと教えて下さいました。そして、更にそのような制度の先に、ベーシック・インカム制度という考え方があって、北欧でも検討されているし、ドイツとかヨーロッパの幾つかの国も検討されているのだと話しておられました。とはいえ、流石にまだ導入した国はありません。とも話しておられました。

 導入しない理由は沢山あるようですが、もし本当に生活費が支給されるとすれば、人の労働意欲が減退するわけで、労働意欲が減れば、国に治める税金も減るわけで、生活費の支給の財源は税金からですから、税金が減れば制度が成り行かなくなるといった矛盾も考えますし、社会福祉国会としても、検討はするけれど、実現性は乏しいのではないか、と考えているのかもしれません。

 ですから「希望の党」の公約がどうだと言うつもりもないのですが、私がここで話したいのは、政治家としては、どの党であっても、人が人として生きていく為に、どのような考え方、どのような方法でもって、国民一人ひとりに対して、平等性を示していくのかが求められているのだろうと思うということです。  

 私たちは不公平と感じる社会を望んでいるわけではありません。でも、これでは不公平ではないかと感じる時もあり、こんな不公平な社会を作っている政党や政府を支持するわけにはいかないと思いますから、政治家としては、自由や平等をどう捉え、どう実現するのかが問われているのだと思いますし、いつでも考えさせられるのだと思います。そして、そのような平等性について、天の国のたとえとして、主イエスが話しておられる箇所の一つが、今日与えられた聖書箇所であろうと思うのです。
 
 私たち自身、聖書を読む者には馴染みがある「ぶどう園の労働者」の譬えです。先ほど、読んで頂きましたので繰り返して読むことは致しませんが、主イエスが話された譬えを信仰のある者として、私たちはどう捉え、考えるのかも、やはり問われていると思います。ある時に、この譬え話を幼稚園のお母さん方と一緒に読んだことがありました。一緒に聖書を輪読して、どう思いますかと聞きましたら、多くのお母さん方は、不平等な話だと思うと言われました。同じ労働時間、同じ労働内容に対して、同一賃金ならわかるけれど、労働時間が極端に違っているのに、同じ賃金なのはおかしいと答えられました。

 そう答えられるだろうと想定してこちらも聞いているわけですが、だから、どうお話すればよいのか、一つはこの話は時給ではないということです。主人はブドウ園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけていって、一日につき、一デナリオンの約束で、労働者を雇いました。一デナリオンとは当時の、一日分の労働賃金と言われますので、妥当な約束だと思います。でも、人手不足だったのでしょう9時にも行って人を雇い、12時にも行って、3時、5時とまた行って、人を雇いました。
 ぶどうの収穫の時期、今頃のイスラエルの日没は、何時かというと調べましたら今日のイスラエル、エルサレムの日没時間は6時20分でした。6時過ぎには真っ暗になりますから外での仕事は殆どで出来ないでしょう。5時に雇った人の労働時間は一時間も無かったかもしれません。けれど、そのような人々に対しても、主人は一デナリオンを支払い、逆に夜明けから働いた人々に対しても一デナリオンを支払ったというのです。
 
 当然のように一日中働いた人々は不平を語りだしました。私たちは一日中、夜明けから暑い時間もずっと辛抱して働いたのに、同じ扱いなのですか。この不満は私達も良く理解できるように思います。けれど、主人は「友よ、あなたには不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。」と説明しました。約束を破ってはいないというのです。

 ところで、主イエスはなぜこのような譬え話をしたのかというと、それには理由があります。この譬えの前後に記されている御言葉を読みますと、19章の後半では「金持ちの青年」の話があります。一人の男の人が主のもとへとやって来て、「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」と尋ねました。そこで会話が始まり、最後に主は「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に冨を積むことになる。それから私に従いなさい」と告げたところ、青年は、悲しみながら立ち去っていきました。たくさんの財産を持っていたからであるとあります。
 
 その様子を見ていた弟子のペトロが主のもとにやって来て、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけのでしょうか。」と尋ねるのです。ペトロは、自分はあの青年のようではないと主張したのです。この問に対して主イエスは「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父母、子ども、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」と永遠の命を約束されました。けれど、同時に「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と答えられた後に、「ぶどう園の労働者」の譬えを話し始められたのです。

 更に、この譬え話をされた後に、主は、ご自分の死と復活について弟子たちに話をされます。これが三度目の話であり、最後ともなるのですが、その後、どうなったかというと、この話を聞いたからでしょうか。栄光の時が近づいたと思って、ゼベダイの息子たちの母、すなわち、ヤコブとヨハネの母親が主イエスのところに来て、ひれ伏して、主にお願いするのです。「イエス様、あなたが王座にお着きになるとき、二人の息子を、一人はあなたの右に、一人を左に座れるとどうぞおっしゃってください」とお願いするのです。そして、その会話を聞いていた他の十人の弟子たちは、腹を立てたとあります。この話もまた、私たちが一番理解出来そうなのは、腹を立てた十人の弟子たちの思いかもしれません。抜け駆けはずるいぞと思うのは当然だと思われるでしょう。

 しかし、主は更にこの時も、弟子たちに対してこう言われています。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」

 主イエスが「ブドウ園の労働者」の話をされた前後の経緯を考えながら、改めてこの譬えを考えてみますと、主イエスが私たちに伝えようとしたことは何かということが明らかになってくるように思うのです。それは、あなたは一体、どこに立っているのかということではないでしょうか。

 その当時、どのようにして賃金を支払っていたのか、その詳細はわかりませんが、8節を読みますと 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に告げました。「労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい。」そこで、仕事が終わり、賃金を受け取るために、彼らは監督の前に並んだのではないでしょうか。一デナリオンが入っている封筒を監督は、最後に来た者から順番に渡していったと思われます。「ハイ、ご苦労様」、「ハイ、ご苦労様」。その封筒の中を見て、ぶどう園に最後にやって来て、したがって最初に並んだ労働者は封筒の中を見た時、歓喜の声をあげたのではないでしょうか。わずかしか働かなかったのに、一デナリオンが入っているのです。やった! 一デナリオンを貰うことが出来た。これで今日の家族の夕食をちゃんと準備出来ると大喜びであったと思うのです。その喜びの笑顔を見ながら、期待に胸を弾ませたのは、次に並んでいた3時に来た人々であって、その後ろに並んだ12時からの人、更にその後ろには朝9時からの人々、そして最後尾の夜明けから働いていた人々はどんなにか、期待したことでしょう。けれど、3時からの人も、5時からの人も、12時からの人も、9時からの人も、夜明けからの人も、全員が一デナリオンでした。

 3時からの人、12時からの人たちは、ここで文句は言えないと思ったかもしれません。半日しか働かなくて一デナリオン貰えるのだから文句はない、でも、9時からの人、夜明けからの人はどうでしょうか。最初の人々の喜びの歓声から、後ろになればなるほどに、歓声から不満の表情と、もしかしたら怒号の声に変わっていったかもしれません。
 
 そして、最も早く来た人々が主人のところへ詰め寄って、こんなのは不公平だと文句を言ったのです。
ところが主人は「友よ、あなたに不当なことはしてない。あなたは私と一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。」と告げたというのです。

 主人は公平だと思われるでしょうか、それとも不公平なのでしょうか?けれど、この話は主人の公平性が問われているのでしょうか。私は主人の問題というよりも、監督の前に並ぶ労働者と一緒に、もし私たちが並んでいるとして、私たちは一体どの場所に並んでいるのか?ということなるのではないかと思うのです。

 皆さんが、ご存じのように、今、私は母親と一緒に過ごしております。今から5年前に父親の容態が悪くなり施設に入ることが決まってから、母親をどうするのか兄弟で相談しました。男4人兄弟ですが、相談といいましても大した相談でもありません。私以外の誰もが引き受けられないというのです。勿論、私も、当時この教会に赴任して2年、子どもたちの成長のことを考えても、いよいよこれから教育費や何やらと時間もお金も必要だろうし、家内にも大変な思いをしてもらわなければならないし、無理だと断ろうとすれば断れたかもしれません。でも、引き受けようと決心して一緒に住むことになりました。正直つらいなと思うこともあります。引き受けてから兄弟が何か連絡してくるのかと言えば、兄が年に数回連絡してくるだけで、下の弟二人は母の日に花を送ってくる位のものです。出来れば、近づかないようにしておこうと思っているかもしれませんし、わかりません。でも、本当の苦労は、私ではなく、家内ですよ。誰よりも一番大変な思いをしているだろうに、愚痴も文句も言わないのは本当に有難く思います。

 でも、兄弟と比べて、自分は何か損な役回りをしているかな、と思うとすれば、私はきっと監督の前に並ぶ労働者の随分後ろ側にいることになります。でも、幸い牧師という仕事は、定年が決められているわけでもなく、家内も協力的だし、子どもたちもとりあえず元気に育ってくれているし、私もなんとか元気で過ごしているから、やっぱり母を我が家に迎えて良かったなと思えるならば、私は大分前の列に並んでいることになるのだろうとも思います。

 そのようにして、私たちは、この自分の病気の苦労がなかったらとか、どうして自分だけがこんなに苦労してと思う、実にそのような方がこの世では多いのですが、ですから多くの人は、監督から遠い側に立っている人、すなわち、朝早くから一生懸命に働いているのに、誰よりも頑張っているのにと思っている人が大勢いて、そしてその働きは報われないと思っている。だから余計にこの話を読むと不公平だと感じるのだろうと思うのです。
 けれどまた、今回この聖書箇所を改めて読みまして、気が付いた事、それは人々の前に立った監督が「神の福音」を意味しているのではないかと思ったのです。となると、このブドウ園は神の国ですよ。神の国に長くいることが出来て、しかも、その報いは主人によって最初から約束されている人は、大いなる平安と喜びに包まれているはずではないのか。
 
 でも、いつのまにか私たちはそのことを忘れてしまっているとしたら悲しいことではないでしょうか。独り身の時は、結婚したいと願い、結婚すれば子供がと願い、子どもが授かれば健康で出来の良い子でなければと思う、そして、常に、結婚出来ない、子どもが授からない、ろくな子供ではないと、その時、その時に、不満と不平で生きているとしたら、私たちは監督の前で、すなわち、福音を前にして、いつも後ろのほうにならんで、自分に約束されている祝福にさえ不満を訴えることをしているのではないでしょうか。

 けれど、私のような者が、夜明けからずっと神の国で過ごすことが出来ている、と感謝だなぁと思えるなら、ギリギリで間に合って、滑り込むようになしてやって来た仲間に、お前よかったなぁ、間に合って良かったなぁと声をかけてあげることができるのではないですか。そして、それが地上に現われている場所は教会であって欲しいと願います。
 
 後のものが先になる、それは大いなる祝福なのだと思います。人間がどんなに考えても完全には実現できそうもない、平等の世界を、主なる神こそが、それをなしうるのだと信じながら、私たちはこれからも歩んで参りましょう。

お祈りします。
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愛されている子

2017-10-05 14:03:24 | 礼拝説教
【エフェソの信徒への手紙5章1~5節】
【マタイによる福音書19章13~15節】

「愛されている子」

 エフェソの信徒への手紙を読んで頂きました。5章1節に「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣うものとなりなさい。」とあります。
この御言葉の意味は何かというと、愛されている子どもですからね。神様と私たちは、父と子、また母と子、といった親子関係のようなものですよということでしょう。
 人は誰もが赤ちゃんとして誕生するわけですけれど、幼い時分には自分も親もまるでその心が一つであるかのようにして成長していきます。でもいつの日か、自分と親は違う存在であることに気づき、そしてあんなに立派な親だと思っていたのに、思っていたよりも大したことが無いなと気づいていく頃から思春期と呼ばれ、反抗期とも言われるわけです。中学、高校とひとしきり親に反抗しながら成長していくうちに、やがて、親も大したこと無いと思っていたけれど、でもそんな親の世話になってきた自分に気づいたり、なによりも自分自身も思っていたよりはずっと失敗もするし、嘘もつくし、裏も表もあることに気がついていくあたりで、やっと親と和解することが出来るわけです。
「父ちゃん、母ちゃん、ここまで育ててくれてありがとう」と言えるようになると、親子関係の絆もいよいよ強くなり、その人も社会から一人前と呼ばれるようになっていく。

 ここまでくるために必要なことは何かというと、「自分と親」という関係がしっかりしてくるということです。互いに深い絆だけど、しっかりその人格を認め合い、親には親の人生、自分には自分のというようようなつながり、そのようにしてより強い絆を持つ親子関係のように、神様と私たちの関係も、父と子、母と子のようなものですよと聖書は伝えるのです。

 けれど、そのような父と子、母と子のような宗教観といいますか考え方といいますか、どうも少し私たちになじまない所があるかもしれません。

 昔、岩手の花巻教会におりました時に、隣の町にアメリカ人の宣教師夫妻と仲良くなりまして、そこで親しい交わりをしていただいたのですが、お互いにまだ若くてですね、私たち夫妻にも子供が授かりましたが、彼らも同時期に子供が授かりました。可愛い赤ちゃんが誕生しました。けれど、白人の子どもだからなのか、どうかわかりませんが、お人形のように本当にかわいい赤ちゃんなのですが、私たちから見ると小さいんじゃないかと感じるのです。小さく生んで大きく育てるという言葉もありますけれど、でも、近所の方々がね、また田舎ですからね。その赤ちゃんを見て、あやして下さいながらも、ちょっと小さいね~、おっぱいをちゃんとあげてるの?とか、寒そうだからもう少し重ね着させたほうがいいんじゃないかとか、まあ色々と言ってくるのです。
 日本人同士だと、それも親切心と受け止めてね、先輩色々と教えて下さいとなるのかもしれませんが、けれど、その宣教師のお母さん、泣いて私たちの所に来て、訴えるのです。私はいじめられている。私の子育てが悪いと言われる。なぜいちいち、人の家の子どもの子育てまでいわれなければならないのかと訴えて来たとことがありました。

 これが何を意味しているのかというと、私たちの感情は、先週お話した感情労働という話とも関係するわけですが、何を大切にするかというと、その場、その場の雰囲気なのです。良い言葉ではハーモニーと言います。調和ともいいます。言葉で上手に表現できないけれど、私も、あなたも思いは一緒というそんな文化が私たちの社会の中にあると思います。

 仏教的な考え方からしても、召された方を仏様と言いますが、仏様は御先祖様ですからね、そして、私たちのことをご先祖様が守って下さると思いますし、私たちもいつの日にか子孫からご先祖様と言われる日があると思うと、自分も子孫も先祖もそこに大きな違いを見出さないのです。一遍上人という偉いお坊さんが「唱(とな)うれば、神も仏もなかりけり 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」という句を詠んだそうですが、唱うればとは、信仰深くなれば、という意味だそうですが、そうなるともういよいよ、自分も神も仏もその境目がなくなるようだという意味のようです。
 いよいよ、人も神も仏も一緒になってという思いが、私たちも含めて、多くの日本人の心に受け入れやすい、そんな集団主義と呼ばれる文化に私たちは生きているのだとも思います。勿論、そのような文化、考え方が悪いわけでもなく、素敵だとも思います。

 日本語の文化として考えても、日本語の特徴は主語が無いと言われます。ですから英語とか他の国の言語を習う時に、苦労するのは必ず主語を入れなければ文にならない。これがまた大変なのです。思いがけなくも、これから私たちの国は衆議院の選挙となるわけですが、選挙のキャッチフレーズなども「日本を取り戻す」とかね、「日本をリセットする」とかね、誰が何をどうするということではなくイメージだけで伝えようとして、そしてなんとなく伝わってしまうということもあるのでしょう。それが日本語の特徴かもしれません。
 だから私たちが苦手としているのは、私は私、あなたはあなたと分けて考えていくことかもしれません。
 
 人が悩みを持つ時の、多くの悩みは関係にあると言われます。人の悩みの全ては「人間関係」にあるとも言われたりしますが、なぜ、悩むのか、私とあなたとの間に、上手に境目を作れないのです。先ほどの宣教師の話ではありませんが、私の子どもの子育てになぜ、周囲はあ~だ、こ~だ、と言って来るのか。なぜ、自分の領域にまで平気で足を突っ込んでくるのかわからないというように、私とあなたという関係を上手く作っていけない状況が作られやすいのかもしれません。

 関係を上手く作れないのはなぜなのか。聖書は「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」と告げています。私たちはこの「愛さている」とか「愛している」という言葉を案外苦手としているのかもしれません。もともと、日本語で考えても、「愛している」という言葉ぐらい、会話の中で使わない言葉はないのではないでしょうか。

 概念としてはわかるけれど、じゃ、具体的にはどういうことなのか、年頃の娘がいたとして、門限は9時と決める、ところが9時になっても、10時になっても、11時になっても帰って来なかったら、親の気持ちとしてはどうでしょうか。何か事故にあったんじゃないか、事件にあったんじゃないか、連絡もないとは、どこかに連れていかれたんじゃないかと親は心配することでしょう。ところが、12頃にひょいと帰って来て、「友達と遊んでいた」とか言われると、親としてはなんと声をかけますか。

 殆どの親御さんは、今頃まで何やっていた!門限は9時だと分かっていただろうに~、とカンカンになって叱ってしまうのではないですか。ところが、子どものほうは、申し訳ないと思いながらも、そんなに叱ることはないんじゃないかと反論したくなるのではないでしょうか。だから、最初に言うべきことは、お父さんは、お母さんはどんなにあなたの事を心配して心配して、警察に電話しようかと思う程だったよ、お父さんなんか3回も4回も、駅まで迎えに行って待っていたんだよ、でも無事に帰って来てくれて本当に嬉しい。と告げることではないのかと思うのです。無事で良かった、嬉しいよという喜びの顔で迎え入れられた時にこそ、自分が門限を破ることによってどんなに親を心配させたか、悪いことをしたのかと感じるのではないですか。
 でも、それが中々出来ないのです。あなたのことを「どんなに愛しているか」というメッセージを、そのままを伝えるのが私たちは苦手なところがあって、つまり、どうもよい関係を作れない時があるのです。

 嫁に来てみたら、頼りの夫はお母さんの言いなりだし、仕事だからと夜も遅くにか帰って来ない、お姑さんは口うるさいし、でもね、お姑さんからしたら気が利かない嫁だし、孫の教育もなっていないし、子育て一つ出来ていないし、と思う。良い関係を作れないのです。でも、お嫁さんにしても、お母さんにしても、本当の所は自分を認めて欲しいのです。あなたがいてくれたから良かった。あなたがいるとほんとに安心だと思われたいし、そう言って欲しいのです。でも言ってくれない。なぜでしょうね。

 だって、私はこんなに努力しているのにと思うからではないですか。私はこんなに努力して、夫に、妻に、子どもに、家族に、同僚に、友達に気を使って、配慮して、話す言葉の一つ一つも気を付けながら、こんなに努力しているのに、なぜ、周りはそのことに気が付かないのか、ちょっと位は気が付いて、ありがとうの一言があっても良いのではないかと思うからではないですか。こっちはこんなに頑張っているにも関わらず、あの人は何もわかっていないと思うからではないですか。そして、それにも関わらず究極的には、この状況を自分の努力でなんとかしようと多くの人たちが頑張りながら、頑張って、頑張って、頑張って、疲れていくのです。自分の頑張りがなんと報われないことかと思っている方、結構多いのではないでしょうか。

 皆さん、私たちは自分が頑張ればなんとかなると思うところがあると思います。私もそう思う時がしょっちゅうあります。でもね、人の頑張りではないよ、というメッセージ、それが「あなたがたは神に愛されている子供ですから」という意味ではないでしょうか。
 
 勿論、私たちは頑張って生きています。これだけ人類が頑張って来ましたから、多くの困難を潜り抜け、課題を克服し、産業が発展して、病気や自然災害にも立ち向かって参りました。でも人の頑張りだけですべてが解決するのと思う所に、人間の深い罪があるとも言えるのではないかとも思います。

 今日は、礼拝後、教会の「学びと交わりの集い」を行います。今年は宗教改革500年という記念の年ですから、「今、ルターから学びなおす」というタイトルで共に集いますけれど、500年前のカトリック教会が陥っていた一つの罪、それは「人は頑張れば救われる」という思いだったのではないかと改めて思います。500年前、法律家を目指していたルターでしたが、雷に打たれるという出来事を通して、決心してアウグスティノ修道会に入ります。この修道会は托鉢修道会です。托鉢とは物乞いという意味だとも言われますが、自分の持ち物は一切持たないで、請願を立てて入会するのです。そして、一生懸命に修業するのです。当時のカトリック教会は「人の行い」を大切にしていました。「あなたの最善を尽くせ、そうすれば神が後はやってくださる」と教えていたそうです。ルターはそれこそ最善を尽くしたのでしょう。
「もし、修道士として天国に行ける者がいたとすれば、私は間違いなくその一人であった」とルター自身が何度も語っていたそうです。それほどに最善を尽くしたにも関わらず天国へ行ける確信を持てずにいた、ルターを救った御言葉はローマの信徒への手紙の1章17節の御言葉です。

 「福音には神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてある通りです。」

 この「正しい者は信仰によって生きる」という御言葉がルターの目に飛び込んできた時、そうか「正しい者は行いによってではなく、信仰によって」なのだとの確信を得て、そこから宗教改革へと向かうことになっていったと言われます。

 「あなたがたは神に愛されている子供ですから」とは、私たちが頑張って神の子になりたいために、頑張って勉強して、頑張って働いて得たその成果によってではありません。神の徹底的な愛によるのです。神の愛によるとは、続く2節に「キリストが私たちを愛して、ご自身を香のよい供えもの、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、」とありますように、徹底的に主イエス・キリストの十字架と復活の業によるということでしょう。

 主なる神がその命をかけてまでも、御自分が犠牲となって、だから、あなたがたは生きろと、命を与えて下さった、それは私達の頑張りではなく、神の愛です。無条件、無尽蔵の神の愛によって、私たちを神の子として下さったのです。
 ですから大切なことは、自分は自分のこのまま、まるごと無条件で神様は受け入れて下さっているんだな、わたしは神に愛されている子供なんだなと心から理解することです。主イエスは「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」と話されたではありませんか。子どもたちとは私たちのことですよ。私も親になって初めてわかったことは、子どもが親を愛していると思っている以上に、親は子どもを愛しているのだということです。そのようにして、私たちが神を思うその思いをはるかに超えて、主なる神が私たちを愛して、私たちを支えて下さっていることを感謝して過ごして参りましょう。

 その愛の形として、今日はこれから聖餐式が行われます。キリスト教の長い歴史を貫いて、守られて来たキリストの体と血として、パンと杯をいただきます。ここに私たちの命があり、神の愛があります。感謝して、この10月も主にあって共に過ごしてまいりましょう。

 お祈りします。
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赦しについて

2017-10-04 09:29:50 | 礼拝説教
マタイによる福音書18章21~35節
「赦しについて」

 2017年の9月もあっという間に過ぎていくかのよです。先日「今年も、正月が来たと思ったらお盆が過ぎていた」と言われた方がいて、実にその通りだなと思いながら聞いておりました。9月に入って、久しぶりに幼稚園のお母さん方と一緒に「聖書に親しむ会」を行い、また二日前の金曜日には「発展 聖書に親しむ会」を行いまいた。それぞれに色々な意味で盛り上がる会なのですが、9月は特に、人の感情についての話をいたしました。
 
 私たちは様々な感情を持って生きています。特に最近、注目されていると感じているのは「感情労働」という言葉です。中学生位の時、経済や地理の授業で、第一次産業、第二次産業、第三次産業という言葉を教わります。
 第一産業は、農林水産業ですよ。第二次産業は工業や製造業ですよ。第三次産業はサービス業、飲食業、小売業などですよと教わります。
 そのように分けるのは一般的なのだと思いますが、別の分け方がありまして、一つが肉体労働、二つ目が知的労働、三つめが感情労働だというのです。

 肉体労働は、そのままの意味です。農業でも、製造業でも、建築でも、主に体を使う仕事、知的労働とは、例えは情報処理やIT関係、あるいは会計士とか、税理士、教員という方々が入るのでしょうか。主に頭を使う仕事、そして、三つめが感情労働となります。具体的には主に人と接する仕事が中心の方々、セールスマンとか営業と言われる方々や、洋服とかを売っている店員さんとか、つまり自分の本心とは違うところで笑顔で接したり、人づきあいをしたりしながら、その対価として給与を得るような仕事が感情労働と言われるようです。

 数年前に海老名にララポートが出来まして、洋服屋さんや食べ物屋さんや雑貨店が沢山あります。どの店に入っても、基本的には気持ちよく接してくれます。こういうものを探しているのですがと言えば、かなり一生懸命に探してくれたりしてこっちが恐縮してしまいます。
 けれど、例えば、欧米社会ではそういうお店に行っても、愛想が良い店員さんには滅多にお目にかかりません。自分は服を売っているのであって、笑顔を売っているわけでもないと考えるからです。日本人が得意とする「おもてなし」感覚は、私の少ない経験ですけれども、欧米の店では、言いすぎかもしれませんが、全くないとさえ思うほどです。ですから、日本人が思う程の感情労働という感覚はないかもしれません。私たちが思っているよりは多くの点で個人主義的な思いがあるのかもしれません。

 とはいえ、だから日本人は暖かい人であって、欧米人は冷たいというわけでもありません。むしろ感情を言葉に出してしっかりと話しをすることに慣れているということもあるかもしれません。
 
 日本社会の文化は、どちらかというと言葉よりも感じることとか、思いやることとか、慮ることとか、言葉以外の所で、関係を繋げようとする所があって、個人主義というよりは集団主義といわれます。でも、そういった思考の中で互いに言葉が足りない傾向があり、中々上手くいかないこともしばしばあるわけです。
 
 聖書の会に集うお母さん方の話の半分以上は、子どもの話、夫の話、義理のお父さん、お母さんの話ですが、そこで悩みを訴え、不満を抱えている方がなんと多いことかと、本当に思うのです。
 勿論、その深刻さの違いもあって、例えば、子どもの学校の担任の先生がどうも気に入らないとか、不満があるのですが、先生に直接言ったほうが良いのかどうかという質者がありました。答えはそんなに難しくありません。担任の先生は大体一年で交代となりますし、今時の先生方は基本的には本当に一生懸命ですし、大体クラスを考えますと、1対35とか1対40ぐらいの担任ですから、子どもたちを満遍なく世話できると考える方がおかしいと考えれば、文句を言うよりは先生頑張っていますねと言ってあげたほうが、先生も喜びますよと話しますと、なるほどそうかと納得してもらえたりするのです。けれど、それが家庭の問題となるとそうはいかないわけです。
 
 夫が気に入らない、少しも理解してくれない、子育ても協力してくれないと言われても、ご主人も一年で交代しますからとも言えませんしね、でもね、最終的には自分で選んだ夫だからという所で落ち着くかもしれません。けれど、夫の両親がとっても気になって、気になってとは気に入らないと同じ意味ですからね。もう、嫌で嫌でとは言わないとしてもね、どうしても集団主義的に考えて、二人が結婚したのだというよりは、その家の嫁に来たと考えると、自分は誰の為に結婚したのか、わからなくなるということもあるのではないでしょうか。
 
 それでもね、良き妻として、良き嫁として、良き親として頑張るわけですよ。ところが、それこそ、一年や二年でもないわけです。つもりに積もったものがあって、本当のことを言えば、親の目線から見た視点とか、夫の目線から見た視点とか、それらの思いと一緒になって言葉できちんと話し合えればよいのですが、それも出来ずに、一生懸命に良き妻、良き母、として自分の感情は心の底に隠しておいて、ひたすら感情労働をするとどうなるのか、いつかドッカンと爆発するということになるわけです。

 感情労働と言う言葉が注目されて来ているのは、そのいつかドッカンと来てしまって、時には白衣の天使のはずの看護師が、点滴に石鹸を入れたり、介護していた息子が親を殺めたりとか、色々と日頃、特に誠実そうに思われている人が、いつもは穏やかで、温厚そうな人が、なぜこんなことをするのかと話題になったということも関係しているのだと思います。
 
 日本という国が持っている、日常生活の忙しさや、あまりにも集団主義的な風潮などもあるかしれません。自分自身が一杯一杯になっていく、そして、そうなっていくときに忘れられていくのが「赦すこと」なのだと思うのです。

 その許すことの意味が今日与えられた御言葉の中に記されているのだと思います。ペトロが主イエスに尋ねました。「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したならば、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」七回というのは思い切った数だと思います。
 ある日の事、皆さんの家に、思いもよらない学生時代の友達が訪ねて来たとします。びっくりしながらも久しぶりだねと挨拶を交わし、楽しい時間を過ごして、今日は泊めてもらえないだろうかと言われたとする。勿論、いいよ、泊まっていきなさいよと言うでしょう。二日目となって、その日も朝も、昼も、夜も一緒に過ごして、申し訳ないが今日も泊めてくれないかと頼まれたとする、頼まれたけれど、流石に明日は自分にも仕事があったり、出かける用事があったり、でも久しぶりの友だからと、二日目も泊めることでしょう。けれど、それが三日目ならどうでしょうか。きっと、泊めることでしょう。でも、四日目なら、五日目なら、どうでしょうか。一週間なら、いいよ、いいよと言える自信がある人はそんなにいないかもしれません。でも、話はもっと深刻です。ペトロの問いは、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら」と言っているのです。過去に何か自分に悪さした人が、ひょいとやって来て、あの時は悪かったと言って謝られた。謝罪があったなら赦すでしょう。けれど、また何か悪さをするということの繰り返しが七回続くということです。

 主よ、あなたの話される「赦す」というその意味は、七回までも赦せということですかとペトロは尋ねたのです。ペトロとしてはとんでもない寛大さだと褒められるほどだと思ったのではないでしょうか。

 けれど、主イエスはペトロに答えました。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」

 そこで、主イエスは「天の国はつぎのようにたとえられる」と話し始めました。王に借金していていた家来が呼ばれて、決済せよと迫られたというのです。その決済の額は一万タラントンです。一万タラントンを日本円にするとどうなるかというと一タラントンが6000デナリオンと同じとあります。一デナリオンが一日の日給だといわれますから、神奈川県の最低賃金は時給956円となっています。一日8時間働いたとして、一日7648円、それの6000倍の更に10000倍で計算しましたら、四千五百八十八億円となりました。その位家来は王に借金していたというのです。その金額を王は支払えというのです。貸す方も貸す方ですが、借りる方も借りる方で、返すあてなど何もなかったでしょう。

 でも、王も我慢できませんから自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するようにと命じました。家来はひれ伏して『どうか待ってください。きっと全部お返しします。』 としきりに願いました。その姿を見た王が何をどう思ったのかわかりませんが、彼を赦したというのです。赦すだけでなく借金を帳消しにしたというのです。
 
 喜んで外に出て行った家来でしたが、外に出ましたら、自分に百デナリオンの借金している仲間に出会います。その仲間の首を絞めて『借金を返せ』と迫りました。因みに百デナリオンは764,800となります。仲間は『どうか、待ってくれ。返すから』としきりに頼みましたが、借金を返すまではと牢に入れてしまったというのです。
 
 さて、そのことを王が聞いて怒りました。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』と言って彼を牢役人に引き渡したというのです。

 さて、この話は天の国のたとえとなっているわけですが、主イエスはペトロや弟子たちに何を教えようとしたのでしょうか。どこまでも赦すことだという教えでだとは思いますが、先ほど、感情労働の話をいたしましたが、例えば良き妻として、よき母として、よき嫁として自分の感情を隠すかのようにして接するのです。そうすると家の中が上手くいく、だからそうやっていく方がより良いのだと思い、気に入らない夫だけど、気に入らないあの人だけど、イエス様も赦すことを教えておられるから赦そうと思いながら、過ごすのです。けれど、それが一回、二回、三回、と続く、四回、五回、六回と続くとどうでしょうか、その度に赦しながら、でも心は爆発寸前です。八回目にはドッカンですよ。つまり、私たちはどこかで「赦すこと」の意味を間違えているのかもしれません。
 
 四千五百八十八億円を赦された家来も「赦し」の意味を間違えていたのだろうと思うのです。王が借金を返せと迫った、返せるものではないが、それでも必死になって王に必ず返すからと泣きついたら、何をどう思ったのか全てを帳消しにしてもらった。家来はそこにどんな感情が動いたのでしょうか。家来はやった!助かった!と思ったことでしょう。けれど、王の寛大さ、その赦しに対して感動しながら外に出たのでしょうか。もしかしたら、家来は、上手くやった、俺の演技も大したものだ、王が帳消しにするとは、思っていたより上出来だ。俺は首尾よく物事を運んだものだと、思いながら外に出たとするならば、赦されたことも、王に対する感謝もそれほどのものではないのです。ましてや、自分は王のようなヘマはしないとでも思っていたとするなら、次の場面の行動は逆に良く分かるのです。出会った仲間に、平気で借金を返すように迫ることはむしろ当然のことなのです。
 
 世の中が考える「赦し」とは、世の中が考える「愛」と似たところがあって、これほど愛したのだから、あなたもこれほど返してと思うように、これほど「赦した」のだから、あなたもこれほど「赦す」べきだと思うのです。そして、赦すとはいつの間にか、人の過ちを知ってはいるけれど、見て見ぬふりをするとか、互いにごまかすようにして弁解しあうとか、争い事になるよりはこの思いを隠して、感情をコントロールする事によって、赦してあげようとするのです。しかし、それは赦しというよりは、赦しの偽物であって、あるいは我慢とか、無関心と言う言葉に限りなく近いということさえ気が付かないのかもしれません。

 赦すこととは、その場その場を上手く立ち回ることでもなければ、嫌な相手に関心を示さないようにすることでもありません。神の国の赦しとは、むしろ徹底的な赦しであって、だから主イエス・キリストが十字架にかけられたのではありませんか。あの十字架は私達の罪の為に、私たちを罪無しとするための十字架であったのではありませんか。そのことによって私たちは神様と繋がることが出来たのではありませんか。この神の「赦し」こそが私達を徹底的に許したのではありませんか。

 だから、私たちはやっぱり、教会に集うのです。神の赦しに出会う為に、礼拝に集うのです。人間的には赦せないあのこと、このこと、どう考えても矛盾しているとさえ思うそのことさえも、神の赦しを願い、神の愛を求めて、何よりも私たちが、一体、どれほど赦されて続けて生きて来たのかを思い起こすために、今、ここに集っているのです。私たちが人間的に価値があるからではなく、神の愛によって赦されていることに感謝しながら今週も過ごして参りましょう。

お祈りいたします
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心を一つにして

2017-10-04 09:18:40 | 礼拝説教
 本日は、教会の初めての試みになりますが、明日の敬老の日を少し意識しまして、子どもの教会のファミリー礼拝と一緒の合同礼拝といたしました。
あいにく、外は台風がやってくるということで荒れ模様です。この3連休出かける予定の方もおられたと思いますが、こんな天気の日は、観光地に行くことも出来ず、だから教会にこそ、出かけるようにと神様の御計画なのだろうとも思います。素敵な子どもたちの賛美でした。(実際、沢山の皆さんが来られました)

 本日は、「心を一つにして」というタイトルです。合同礼拝だからといって、特別に子ども向けの話をするわけでもありませんが、良い箇所が与えられたと思っております。

 マタイによる福音書の18章から読んで頂きましたが、18章全体は、主イエスが弟子たちに対して話しておられる、あるいは教えておられる。そのテーマは、「共同体」の大切さです。
 1節から5節は天の国で誰が一番えらのですかと弟子たちが主に尋ねたところ、「自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」教えて下さいましたし、次の箇所は、主イエスを信じる小さな者の一人をもつまずかせるようなことがあってはならないと教えられますし、更には、百匹の羊がいたとして、その中の1匹が迷いでたならば、迷っていない99匹を山に残して、その一匹を探しに行って、見つけたら、迷わない99匹よりも、迷った一匹のことを喜ぶだろうと話されます。
 
 そして、先ほど読んで頂いた箇所となります。兄弟があなたに対して罪を犯した時にどう対応するのか、最初は二人で話し合って解決しなさい。難しい場合は、二人、また三人が間に入って、それがまた難しい場合は教会が間に入ってと段階を踏む、つまり、相手に対して、丁寧に、よく心を開いて対応するようにということでしょう。読む私たちにとって、読む分においては理解できないとか難しいということではないと思います。

 もう一度申し上げますが、ここで主イエスは「共同体」の大切さを教えておられるのです。ただ「共同体」とは何か?一つは明らかに「信仰共同体」の大切さでしょう。私たちが毎週、毎週、日曜日のこの時間に、集まり礼拝を捧げています。子どもの教会を担当されている方々は、毎日曜日の8時半頃には集まって礼拝の準備をされて、9時からの礼拝に備えておられます。その礼拝に子どもたちは毎週10名前後、大人の方々が10名~20名程で礼拝を捧げています。私の思いとしては9時からの礼拝も、10時30半からの礼拝も、構成メンバーの違いや、その主たる目的がある程度、違いがあるとは思いつつも、でも、大塚平安教会の「信仰共同体」、あるいは「礼拝共同体」であることには変わりがないと思うのです。
 その信仰共同体が、一年の中でもそれ程、一緒になる機会が与えられないのは寂しいことではないでしょうか。ですから、このような機会がある、それはやっぱり喜びの現われであると思うのです。なぜ喜びなのか、それは主イエスが、弟子たちに、また私たちに、人は一人で生きていくのではなく、互いが必要なのだと教えておられるからです。
 人が実際的に生きていく為に必要だというだけでもなく、教会的に申し上げるならば霊的な問題です。あるいは心の問題だとも言えるでしょう。

 私の普段のデスクワークは教会の一階にある牧師室です。とってもきれいな牧師室を造って頂いていますが、いつも散らかっていて申し訳ないと思いながら仕事しているわけですけれど、平日にデスクワークの作業をしておりますと、勿論、一人で仕事がはかどることもあるのですが、時として、誰も来ない、誰とも話さないと、とても寂しくなることがあります。あ~幼稚園では、子どもたちと先生方が一緒になって楽しそうだなぁと思う、 そんなことを思いつつ、仕事に行き詰ったような時には、幼稚園の職員室をのぞいたりするのです。
 そうすると、皆さんが忙しそうに働いておられるわけです。でも、そこで面倒くさい人が入って来たなとは思うかもしれませんが、先生、お茶でも飲みますかとかと言われると私もつい調子に乗って、長居をしてしまうのですが、そうやって人の優しさに触れて、また一人の職場へと戻って行っていけるという具合なのですが、「人が独りでいるのは良くない」と主なる神は言われました。

 旧訳聖書の創世記という箇所で、神様が人を造られた場面があります。最初に土の塵で人の形の人形を作って、その人の形の鼻に神様の息を吹き入れられました。その神の息で人は命あるものとなって、最初の人間はアダムと名付けられました。けれど、その後、神様は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」とアダムを眠らせ、そのあばら骨を取ってそこから、女性を作り上げてエバと名付けました。エバとは「命」という意味があります。

 先ほど讃美歌の104番を一緒に賛美しましたが、イギリス人のブライアン・レンという現代の作詞家がイギリスの古い曲に詩をつけて讃美歌を作り上げたと言われます。彼の弟が結婚式の際に作った曲と言われます。その詩は、結婚する二人の愛と信頼、神への感謝だけでなく、互いが互いを信じる大切さ、結婚生活の試練の嵐の中でも、また、互いを引き裂くような痛みさえも乗り越えるように、一つのパンを分かち合う互いに対する思いやりが記されています。とても素敵な讃美歌だと思います。しかしまた、そこで明らかにされることは、本当に不思議なことに、人は一人では生きていけず互いに惹かれて一緒になるのに、しかし二人になると、そこで様々な問題が起こるのだと言うことを改めて思わされます。人の悩みのほぼ全ては人間関係の悩みであるとアドラーという学者は説明しましたが、共同体として生きるとは、共同体の中で起こる、様々な課題や問題をどのようにして解決していくのかが問われることになります。

 だからこそ、主イエスはここで弟子たちに、また、私たちに告げるのです。兄弟があなたに対して罪を犯したらなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。それが上手くいかなかったら、他に一人か二人、一緒に連れて行きなさい。それでもだめなら教会に申し出なさい。教会とは実にそのような所でもあると思いますけれど、ここで何を主イエスが話しているのか、それは、お互いがどんなに必要であるのかということです。

 共同体とは家族として表現することもできるでしょう。その家族の最も小さい単位は夫婦です。二人が互いに惹かれ合って結婚して、そして夫婦となる。その夫婦に子どもが授かれば今度は、親子という家族の誕生です。二人目が授かるなら兄弟、あるいは姉妹という家族の誕生となるでしょう。家族として一緒に生きていく為に、私たちはどのようにして物を分かち合い、協力し合い、互いを思いやるのかを学びます。
 
 健全な家族は「瓶の中を転がる小石のように、互いにこすり合いながら、尖った角を丸くしていく場所となります。自分以外の人間と暮らしながら、すべてが自分の思い通りにいくわけでない、ということを私たちは学んでいきます。自分の願いのいくらかを引っ込め、相手が欲しいというものをいくらか得ることが出来るようにする、妥協ということを学びます。」とバーバラ・テイラーという牧師は説明しました。その通りだと思います。健全な家族、あるいは共同体は互いに、互いの成長を喜び合い、認め合い、許しあえる関係にあるのではないでしょうか。

 けれど、時として、私たちはその逆を生きることがあるのです。先週私は、一冊の本を読みました。CSルイスというイギリスの作家が記した「天国と地獄の離婚」という本です。ある一人の男性がある町を歩いているところから始まります。その町は不思議な町で、町の中心部なのに、殆ど人がいない上に、夕暮れのようなぼんやりとしている町なのです。どこまで行っても薄汚い下宿屋とか、小さなタバコ屋、古本屋、窓の無い倉庫、列車の来ない駅が見えます。けれど、殆ど人がいない、そこにバス停があって、バスを待っている何人かの人がいて、自分もそのバスに乗ろうとして、列にならぶのです。
よく見ると、バス停に並んでいる人は思ったより人がいて、来たバスに乗りきれるかなと思いながら待っているのですが、そのうちに隣同士の人と人とが、喧嘩したり、争ったりして、人が減り、最終的には来たバスに乗ることが出来、そこで隣に座った男性と話しをしながら、町の秘密を知ることになるのです。その町にやって来て、人が住むようになると、かならず決まって24時間もしないうちに、隣どうして喧嘩してしまうというのです。それで腹を立てて互いに別の所に移ってしまう。でもその別の所に落ち着いても、24時間もしないうちに、また隣の人と喧嘩して、仲たがいをするので、また腹を立てて別の場所に移るというのです。ですから、その町の人々はどんどん町の郊外へと出て行ってしまって、町の中心は誰も住んでいない、廃墟の町のようになっているというのです。そして、もっと恐ろしいことに、町の郊外は果てしなく、どこまでも続いているのだというのです。

 人と人が良い関係を結べないまま、いつまでもどこまでも町だけが大きくなり続ける。そしてその町の名前を「地獄」と呼ぶのだというのです。そしてバスは、その地獄から天国へ向かういわゆる観光バスのようなバスでありました。天国と呼ばれる場所につくと、そこにずっと住むこともできるし、地獄に帰ることも出来るのです。
 そして、不思議なことに、多くの人は地獄を選んで帰ろうとする。なぜか、天国は自分の権利を主張する必要もないし、全てが赦されているのですが、それが我慢できないのです。天国に行ってみると、知り合いの何人かが天国に住んでいたりする。地上の生活では自分が上司であり、あの男が部下だったりするのです。もう我慢出来ないのです。天国は、殆ど裸か、薄い布をまとっているだけで十分なのに、これまで来ていた素敵な衣装を脱ぐぐらいなら地獄のほうががまだましよと言って帰ろうとする女性がいたりするのです。ですから殆どの人が結局の所、バスにのって帰ってしまう。とても印象的な物語でした。

 皆さん、後書きにこうありました。「天国と地獄は人間の自由な選択的決断に任されている。」つまり、自分が天国に生きようとするのか、地獄に生きようとするのは私達次第ということです。

 主イエスは弟子たちに、私たちに教えられます。「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」これは、あなたが今、この地上で良い関係を持って生きるなら、天でも良い関係だろうし、その関係を絶つことばかりする生き方をするなら、天においてもそうなのだということです。私たちが今をどう生きようとするのかは、いつも問われているのです。主は更に話されました。「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。

 主イエスが、最も光輝いて、おられる場所、そこは勿論、私たち一人ひとりの心の中でありましょう。けれど、もっと光り輝いておられるのは、私とあなたの互いの心が打ち解ける所、家族という共同体、教会という共同体の互いが心寄せ合い、信頼しあえる場所、日本という社会のみならず、この一つしかない地球のわずかな土地にしか住んでいない私たち人間が赦しあい、助け合うその場所にこそ、主イエスがおられるのです。そこでは、幼子も、子どもたちも、より小さな者と呼ばれる者にも笑顔があります。憎しみや権力争いの中に平和はありません。核兵器やミサイルの多さによって信頼は生まれて来ません。

 私たちは、私たちには何もありません。でも、私たちの共同体を見てみなさい。ここに平和があるよ。そのようにして生きていきましょう。
 お祈りします。

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