日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

宝のあるところ

2017-09-11 11:45:08 | 礼拝説教
【コリントの信徒への手紙一 15章42~49節】
【マタイによる福音書13章44~52節】

「宝のあるところ」

 今日は、礼拝の後に各部集会が予定されています。壮年会、婦人会、それに青年会が開催されます。青年会は、横浜の教会シリーズの2回目を開催する予定です。横浜市役所がある中区の教会、私はその準備の為にと、先週の火曜日の朝から横浜に出かけまして、中区にある教会の幾つかを訪問して参りました。天気も良く、良い時間を過ごしました。特に今回は、伝統ある教会も多かったものですから、教会で発行している様々な教会案内や新しく来られた方への礼拝案内等をいただきまして、それらを資料にしながら、私たちの教会もどのようにして、キリスト教を宣べ伝えていこうとするのか一緒に考えていけたらと思っています。
 今回、改めて気がついたことですが、案外、大規模な教会は、ドンと構えて、来られる方を待っているのかと思っておりましたが、逆に大きな教会であればあるほどに、パンフレットや資料や案内が充実していまして、小さな教会程、その充実度が少ないのかなと思わされました。
 単純に印刷機器や財源の問題もあるかと思いますけれど、大きい教会程、外に向かう姿勢、多方面に向かう発信力が強いと感じました。
 資料やパンフレットがあるというのは、勿論、新しく来られる方の為でもありますけれど、その記されている内容の一つに、例えば、自分達はどのような信仰によって立って集っている教会なのかという事柄等も記されているとなると、その働きは、礼拝を守っている方々の為にも力を発揮するのであろうと思ったりもしました。

 私たちが案外難しいと感じることの一つは、例えば新しく来られた方が隣にいたとして、おもむろに「キリスト教とはどのような宗教なのですか」とか、「神様を信じるとはどういうことでしょうか。」と問われとしたら、分かりやすく、簡潔には答えられそうにないということではないでしょうか。

 何も新来者に限らず、友達でも良い、家族でも良いのです。「あなたは何を信じているのか」と問われた時に、その用意があるのかということです。

 そんな問に、待っていましたとばかりに、話をされる方もおられるかもしれません。
 私自身、これまで何度も問われたことは、なぜあなたは牧師になろうと思ったのか?とか、なぜ、キリスト教を信じようと思ったのかと言う問いかけです。その度に、私は自分の生い立ちやら、キリスト教との出会いによって、人生が変えられたのですということを丁寧に話して参りましたし、これからもそうしていくことでしょう。
 
 長男が中学3年生の時ですが、山形県のD学園に入学することが決まっていました。10月頃には試験があって11月頃には合格しておりました。クラスで一番進路が心配な子が((笑)クラスの誰よりも早く進路が決まっていた。あまりにも早いのでクラスの友達にはまだ言わないようにと言われたそうです。ですから、クラスの皆は、受験勉強で目の色が変わっていく中で、息子はろくに勉強もしないで、のほほんと3年の後半を過ごしたわけですが、そうすると友達の方が心配して、お前大丈夫か、もうお前諦めたのか((笑)とは言わなかったそうですけれど、後になって、D学園という高校に決まっていたのだとクラスメイトが知った時に、クラスメイトがどう思ったのかというと、あ~なるほど、お前は牧師になるための学校があって、そこに行くと言うことか、と皆が納得したというのです。その話を聞いて、むしろ私の方がびっくりしました。

 なぜ、自分がキリスト教徒となったのか、なぜ洗礼を受けたのか、なぜ、神を信じるようになったのか、この事を一生懸命に話すよりも、だってお父さんもお母さんも教会行っているからとか、お父さんが牧師だからと言う方が、むしろ人々は納得するのだなと思います。
 けれど、納得するとしても、聞いている人は、自分とは関係のないことだと思ってしまうことでしょう。ですから、むしろ、自分がなぜ、神を信じ、教会に通うようになったのかを告げることが出来る、話をすることが出来る。それは幸いなことであり、一つの賜物でもあると思います。そのような経験があるほうが、キリスト教とはどんな宗教なのかと考える機会があったのかもしれないと思ったりします。

 とはいえ、だからと言って、そのような自分ならではの体験を話せば、それはそれで、聞く人が納得して、自分も教会に行くようにしようと思う人はそれほど多くないことも確かだと思います。例えば、10月の第1週に私たちの教会では「学びと交わりの集い」を行います。今年は宗教改革から丁度500年という年となっていますから、「ルターからまた信仰を学びなおせたら」という思いでもって計画を立てています。チラシも出来上がりました。ルターの回心の出来事と言えば、良く知られている話としては、自分がある日雷に打たれた経験をしたことです。当時21歳であったルターが友達と道を歩いていたら雷に打たれてしまったのです。そこで友達は死に、ルターは生きたのです。自分は死なずに生きることが出来た。そこから2週間後には決心して修道院に入ったというのです。

 この時、ルターの思いはどうであったのか、その時「神の声を聞いた」とも言われていますし、雷に打たれた時に「神様、お助け下さい。私は修道院に入ります。」と誓ったとも言われています。既に500年前の話ですから、何が本当かは完全には分かりません。全部本当かもしれません。でも、その話を聞いた周りの人々が、なるほどと感動して、益々神をあがめたとか、喜んでルターを修道院に送り出したわけではありません。
 
 むしろ、ルターを弁護士にしようと一生懸命に支援というよりは、息子の将来に投資していた父親は大反対を繰り広げましたし、多くの友人もこれまで積み上げて来たキャリアを思い、将来の成功を思えば思う程に、必ずしも賛成したわけではなかったと思われます。このことが何を示しているのかと言うと、自分がなぜキリスト教の道を歩んでいるのかを人に話し、一生懸命に示すとしても、人はその話を聞いて、なるほどと理解した、だから、私も教会に行こうとか、キリスト教徒になろうというような、すんなりとはいかないということなのです。

 けれど、それでは、そういういわゆる「証し」を一生懸命に話すとしても無駄な話だとか、意味がないと言おうとしているのではありません。むしろ、私たち一人ひとりに、時としてルターのような特別な、あるいは特別ではないとしても、一人ひとりに与えられている信仰体験と思われるものがあると思うのです。その体験を分かち合うことを私たちの教会でも是非してみたいと思います。なぜ、自分が導かれたのか、そのような話を言葉にして伝え、また、聞くのです。何より大切なのは、そのことによって、自分はどう神様の方向に向き直ったのか、向き直るために、どう生きたかを話すことがどれほど互いの信仰の養いとなり、神と繋がり、また、人と繋がる役割を果たすのかと思います。

 ルターは自分自身の信仰について「信仰義認」という言葉を用いました。それは神から与えられた信仰によって「あなたは義であると認められる」という教えです。当時のカトリック教会が特に修道士に求められていた修業や苦行によって神に近づくのではなく、どんなに修業しても、人は神に近づくことは出来ず、むしろ、神様が私たちに近づいて下さった、それを信じる。それが私たちの信仰のあり方です。しかし、時としてそこで起こる誤解は、だから行為ではないのだという考え方です。勿論、人の行為によって神に近づくことは出来ません。だから神が近づいて下さった、神が我と共にいて下さったという信仰を自分がどう受け取り、どう生きるのか、生き方そのものが問われているのだと思います。

 本日は、マタイによる福音書の13章44節からの箇所を読んで頂きました。主イエスが「天の国」のたとえを話しておられる箇所となりますが、今日のこれまでの話の筋から言えば、主イエスこそが、「天の国」のたとえではなく、主イエスこそが「天の国」そのものを話せる唯一の方であると言えるでしょう。私たちが話す話や、証しはどこまでいっても、天の国のほんの一部しか話せないのです。どんなに話し上手に話せる人だとしても、天の国のわずかな部分しか話せないものでしょう。キリスト教は言葉の宗教だと言われますが、言葉そのものが天の国を表す道具としては足りないのかもしれません。あるいは主イエスも、限られた言葉によって天の国そのものを話すには無理があると考えたのでしょうか。しかし、なぜ主イエスは、たとえでもって「天の国」を話されるのか、それは「天の国」は説明ではなく、あなたがどう生きるのか問われているのだと告げようとしているのではないかと私は思うのです。

 主イエスはたとえを立て続けに話されます。「天の国は次のようにたとえられる。」畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」さらに三つめのたとえとして、漁師が網を投げ入れて、網が一杯になると、引き上げて、良い魚と、悪い魚とに分けていく。それが天の国のたとえとして語られています。

 この三つのたとえ話から見えて来ることの一つは、畑の中の宝を見つけた人も、良い真珠を探した人も、この一つを得るために行動しているということです。どういう行動か、畑の人も、真珠の人も全く同じ言葉でもって示されます。「持ち物をすっかり売り払う。」この言葉の意味は、その人の人生が変わるということではないでしょうか。畑に宝を見つけた、いいなあと思ったけれど、この土地は人のものだし、この宝を手に入れるには、持っているものを全部処分しなければならいし、自分のものを全部売るなんて、そんな冒険はむずかしいなぁ、どうしようかなぁと悩んだとか、考え込んだわけでもなく、真珠の人も良い真珠だなぁ、高価だろうなぁと思いながらも、持ち物をすっかり売る、そんな馬鹿な事はよした方が良いと助言する仲間もいたかもしれません、でも彼らはこの宝こそと思い、この真珠こそと思って、怠けることもせず臆病でもなく、この時と決意して、そして行動を起こしたのです。

 その行動には、勿論、様々な危険、リスクが伴うでしょう。第一に宝だと思ったけれど、本当に宝なのか、人からみたらガラクタだと言われるかもしれません。真珠も思っていたほど、評価されないということだってあるでしょう。第二に、この行動によって人からの信用を失うかもしれません。畑の持ち主と長年培ってきた互いの信用がこのことによって失われる危険性があります。商人にとって、なにより大切な取引先、売り手や買い手との信用、信頼でしょう。この真珠を買うことによって、むしろ、信用を失うリスクが低いとは言えないのではないしょうか。第三に、この行動が、自分にとって、特に自分の将来にとって本当に有益であるかどうかの保障は誰もしてはくれません。
 
 宝かどうかわわからない、信用を失ってしまうかもしれない、果たして自分の将来に有益なのだろうか。もし、これらの問いが頭の中でぐるぐると巡っているとしたら、彼らは行動には移らなかったでしょうし、行動しないそれこそが賢い生き方だと思ったことでしょう。まわりの皆もそう思っていたかもしれません。でも、たとえ話は、もしそうだとしたらあなたは「天の国」とは遠いと主イエスは告げているのではないでしょうか。

 畑に宝物、高価な真珠、そして漁師の網、この三つに共通しているのは、もともと「隠されていたもの」なのです。普段の仕事では見つけられなかった宝を見つけた、これまで一度も見たことのない高価な真珠を見つけた。引き上げるまでは分からなかった魚を何が良くて、何が悪い魚なのかをより分ける作業、それは、自分にとってこれまでわからなかったけれど、今となってよくわかった、そうだ、自分はこの宝に、この真珠に、この魚にこそ自分の人生をかけて生きていこうと決心していくことが大切なのです。

 これらの天の国のたとえは本当に大切なことを教えています。ジョシュア・ベッカーという牧師は、こう表現しました。「人生とは選択だが、すべての選択は同じ価値を持っているわけではない。人生には、大切なことと、それほど大切ではないことがある。その違いがわかれば人生の可能性は大きく開けるだろう。そして、ある種の挑戦は、すべてを犠牲にする価値がある。」私はこの言葉はとても大切だと思います。
 
 ある種の挑戦は、すべてを犠牲にする価値がある。本当にそうだと思います。主イエスキリストが伝えた福音、天の国、その神の祝福は、主イエスそのものが犠牲となったと言えるでしょう。しかし、神はそのような犠牲を払ってまでも、私たちに愛を告げて下さろうと決心されたのです。

 けれど、更に私は思います。主イエスの死の三日後に、主イエスの復活という出来事は、まさに十字架の犠牲を越えて天の国を私たちに示して下さり、犠牲だと思っていた、犠牲だと思っている一つも、それは少しも犠牲ではないということを示して下さっているのではないかと思うのです。大切なことは、私たちが、私たちに与えられている私たちの人生で、主イエスが伝える「天の国」「宝」をしっかりと見つけることです。その為には必要な犠牲と思えることがあるかもしれません。けれど、全てが相働きて、益となると教える聖書は、私たちの人生に何一つ無駄なものは無いと告げているのです。だから、私たちは安心して、神の宝のある所へ向かって生きていくことが出来るのです。
                                                            お祈りしましょう。

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2017-09-04 15:26:22 | 礼拝説教
 
【ローマの信徒への手紙8章18~25節】 【マタイによる福音書13章24~30節】

 9月に入り、一連の夏の行事や予定も無事に行われて参りましたが、既に一か月以上前になりますけれど、7月末に子どもの教会で計画しまして、山梨県北杜市にまで、今年2年目になるワークキャンプに出掛けました。
 曇っていても汗ばむ日でありましたが、到着して最初の農作業は、大豆畑の草取り作業ですと言われて畑に向かったわけですが、何しろ畑の持ち主も、綾瀬市、海老名市の方々で、週末や休日を利用しながら、山梨県まで通って畑仕事をされている方々ですから、大豆の苗を植えたのは良いけれど、苗を植えてから、仕事もあるしということでこちらに帰って来る、また、一週間、十日後に出かけるのですが、既に雑草が生えているわけです。
 農薬を使わない畑ですから、そこで一生懸命に草取りをして、またこちらに帰って来る。で、また、一週間、十日して出かけると、また、沢山の雑草が生えている、草取りをして帰る、また、暫くしていってみる、という具合にひと月、ふた月過ごしていくうちに、これまで取り切れなかった雑草は大豆の苗を追い越してしまって、どれが大豆で、どれが雑草なのかが既に分からなくなってきた頃に私たちが到着しまして、急いで全員で草取りということになったわけです。
 
 全員、十数名で行いましたが、雑草というよりはすでに立派な植物に成長していたりして、根も張り容易に抜けない草もあったり、実際のところ、どれが雑草で、どれが大豆か判断に難しかったり、何よりも暑さと疲れて、段々仕事が雑になって来るわけで、一仕事終わった後に、小声で話したことは、自分達は一体どれだけ大豆抜いてしまったのか((笑)という話と、最初からもっとこまめに草取りをすることが必要ではないのかという会話でありました。
 そんなことを思い起こしながら、今日読んで頂いた「毒麦」のたとえについて考えてみますと、主人が話した「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」という言葉は驚きを感じる御言葉です。なぜ、出来るだけ早くに処理をしないのか、なぜ、収穫の時期まで待たなければならないのか、良く分からないと思わされます。やっぱり目指す所の収穫をより多く、またより確実に手に入れるには出来るだけ早い処理をした方が良いはずだと誰もが思われるのではないでしょうか。

 私自身、田舎の育ちですから、畑や田んぼの中に囲まれて育って来ました。残念ながら、その畑も田んぼの一つもわが家のものではなく、なぜ自分は農家に生まれなかったのかと悲しい思いをしたこともありますが、一方では、朝5時頃からすでに草取りをする、植物の世話をする、その手伝いをさせられる友の大変さを思うと、農家でなくて良かったと思うこともありました。いずれにしても、どの畑、どの田んぼを見ても、雑草で一杯になっている土地は一つもありません。それほどに、米に対して、野菜に対して、確かな収穫に対して気を使っていたということも思います。

 けれど、当然のことですが、聖書が告げる、また、主イエスが語っているその意味は「正しい農業の仕方」についてでもないし、「丈夫な麦の育て方」でもありません。ここで、主イエスが何を伝えたかったのか、マタイによる福音書の特徴として言えるのですが、主イエスが語るたとえ話に、また、その意味を伝える箇所が記されています。13章36節以下で、主イエスが弟子たちにその意味を教えています。
 37節からの箇所を読みますとこうあります。「イエスはお答えになった。『良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。』
 つまり、世の終わりには良い麦と毒麦が完全分けられて、毒麦は燃えさかる炉の中に投げ込まれるように、つまり世の終わりに裁きがあって、正しい者と正しくない者とに分けられる、そしてそこに天の国が到来する。と主イエスは話しておらえるように思えます。

 バーバラ・テイラーというアメリカの牧師は、マタイによる福音書の特徴の一つは、世の終わりについて雄弁に語っていることだと説明しています。
愚かなおとめと賢いおとめが登場する「十人のおとめ」のたとえや、羊飼いが羊と山羊とを分けるようにして人々をより分け、最も小さい者の一人に対して親切にした人々を褒め、しなかった人々に対しては厳しく裁くように、あるいはこの麦と毒麦のたとえのようにして、他の三つの福音書にもましてマタイによる福音書は、物事が白か黒か、良いか悪いか、また人間が忠実か、不道徳か、祝福されているか、呪われているか、このようにして二つのグループに分けられるのだと、繰り返し、繰り返し、告げていると指摘しています。なるほどと思いますが、同時に、テイラー牧師は、そのことはこのマタイによる福音書が記された時代においては、そのことが人々の励ましとなり、またなぐさめとなるメッセージであったかもしれないか、果たして現代の私たちにとってはどうかとも記します。

 現代を生きる私たちを振り返る時に、自分自身の中に、隣人の中に、そしてこの世界の中に、麦と毒麦の両方を併せ持っていて、そしてそれは分かち難く、白か黒かといった明瞭さを手にしているわけではないと伝えているのです。私はこの意味は深いと思います。

 私たちの世界は、この世は必ずしも明瞭であるとはいえない。このことを思う時に、本日読んで頂いたローマの信徒への手紙の8章を開いてみますが、8章の22節からの御言葉に私は目が止まりました。
 「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしは知っています。被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体が贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」とあります。ここに「うめき」という御言葉があります。「うめき」とは言葉にならないものです。言葉にならないから「うめく」のです。赤ちゃんは話が出来ませんから、泣いたり、うめいたりして母親に知らせようとするわけですが、母親はその仕草、言葉にならない言葉を受けとめて、適切に対応するので、うめきをやめて安心するわけですが、けれど、私たちは赤ちゃんではありませんから、いつの間にかうめくことを辞めてしまっていますが、でも、心の中ではいつも何かを「うめいている」のではないでしょうか。

 しかも、それがなんの「うめき」なのかもよくわからなかったりもするのではないですか。金曜日、土曜日と厚木基地からの飛行機がやたら上空を飛んでいます。私たちとしてはとてもうるさくて、騒がしくて、出来れば静かにして欲しいと思いながら過ごてましたが、何か情報が無いかとパソコンで探しましたが、特別に何も記されていませんでした。けれど、なぜこれほど、飛行機が飛んでいるのか、想像するに難しいわけではありません。
 
 先日、北朝鮮が日本の上空を越えて太平洋にまで届く、ミサイルを発射しました。ミサイルは特段、何事もなく太平洋に消えて、何等かの被害もありませんでしたので、良かったと思いますが、しかし、果たしてこれから暫くの間、どうなっていくのか、必ずしも楽観的な見通しがあるわけでもありません。私は、あのミサイルが例えばグアムの方向に向かわなくて良かったとは思いますけれど、でも、幾らか方向を間違えて、ロシアに向かったり、中国に飛んでいったりしたら、もうそれだけでも、大きな戦争になるだろうとさえ思いますし、大きな危険をはらんでいるのは間違いないと思います。そして、それは政府を始めとする大方の日本人はハラハラ、ドキドキしているのです。
 
 これ以上深入りするようなことは申し上げませんけれど、けれど、この礼拝の席で、私はだからこそ改めて、「毒麦のたとえ」を思わされるのです。ある人が良い種を畑に蒔いたのです。けれど人々が眠っている間に、敵が来て、毒麦を蒔いていきました。芽で実ってみると、良い麦と毒麦が混在する畑となっていました。僕が主人のところに来て言いました。「だんなさ、畑によい麦を蒔いたのではありませんか。」「敵の仕業だ」と聞くと、「それでは、行って抜き集めておきましょうか」と言うと「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時「まず、毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と刈り取る者に言いつけよう。

 私たちは、私たちの置かれているこの社会を見る時に、何も北朝鮮との問題に限らず、どこかで自分や、自分達は白であり、正義であり、自分達以外の何者かは黒であり、正義ではないと思ってしまいがちになります。
 9月1日は、何の日かというと、子どもたちの自殺が一番多い日だとありました。「9月1日問題」と言うのだそうです。2学期が始まるからです。うちの娘も「学校に行きたくない」と何度も訴えかけて来ました。勿論、多くの子どもたちがそう思いながらも、また、学校生活を始めるわけですが、その流れに乗れない子どもの心は大人が思っている以上に深刻な場合があって、それが極端になると命を絶ってしまう子どもがいるということでしょう。学校いくのが当たり前と白、黒つけることが果たして良いことでしょうか。

 それはまた、学校に限ることでもなく、仕事に行きたくない大人もいるでしょうし、仕事がない方もおられるでしょうし、夫婦の問題や、家族の問題、長く病を抱えておられる方もおられますし、本当に辛いと思いながら生きておられる方も多いと思います。
 そしてね、その辛さの解決の為に、白か黒か決着をつけたいとつい思ってしまう時が、時として、いや、何度もあるのだろうと思うのです。ましてや、相手が毒麦のような物であると思えるならば、尚更、今のうちに引っこ抜いてしまおうと思う。僕たちが主人の思いをまさに忖度して話すのです。「今のうちに、行って抜き集めておきましょうか。」主は「いや、するな」と告げました。簡単に決着をつけてはならんと伝えるのです。

 となると、私たちが与えられている「うめき」は続くことになるのです。神様、それでは私たちは「うめき続けることになりなす」と訴えたくなるのです。一体、主なる神の思いはどこにあるのかと思わされてしまうのです。けれど、主イエスは伝えました。「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。」つまり、一本の麦、一人の命も失われないようにしなければならないということでしょう。
 もともと、この例えは、「天の国」のたとえなのです。天の国はでは、一本の麦さえも、一人の命さえも、どれほど大切にされるのかが示されているのではないでしょうか。

 だから、主よ、わたしたちはどう生きればよいのか。先ほど読みましたローマの信徒への手紙8章23節、24節をもう一度読みます。「被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見える物に対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。」
 
 私たちは、私たちの社会に対して、私たちの人生に対して、私たちの生きざまに対して、自分で白、黒つけることを主が望んでおられるのではありません。神が私たちに対して望んでおられることは、その人生において確かに「うめき」ながら尚、神を待ちのぞみ、希望を持ち続けることではないでしょうか。「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝です」と語る主イエスの枝として、私たちの本当のエネルギーの出どころである、主イエスに連なって、その方にこそしっかりと応答していくことが求められているのだと思います。
 
 ドレーパー記念幼稚園の2学期が始まりました。先週の夏期保育の中で、8月生まれの子どもたちの誕生会と礼拝がありました。その時、私は「二つのものを一つにして下さる神様」の話をいたしました。子どもたちは久しぶりの礼拝でザワザワしておりましたが、それでも話し続けていくうちに、ある言葉で子どもたちがシーンと静まり返りました。皆さん、どんな言葉だと思いますか。二つものを一つにして下さる神様、だから、皆さん、お父さんと、お母さんがいて、だから皆さんが生まれて来たわけです。皆さんよ、お父さんと、お母さんが喧嘩していたら悲しいでしょう。と言った時で、ザワザワしていたのが皆、急にシーンとしたのです。子どもたちにとって、親が互いに喧嘩している、それは究極的には自分の命にもかかわることだと本能的に分かっているのです。
 だから皆さん、私たちは主にあって、私たちの人生「うめき」ながらも、でも、希望をもって神と共に、隣人と共に、敵を愛しなさいとまで言われた主イエスの思いをしっかりと汲み取りながら、私たちの信仰生活をしっかりと歩んで参りましょう。
                                                              お祈りします。
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