日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

収穫の主に願う

2017-08-15 10:26:47 | 礼拝説教
【エゼキエル書34章11~23節 マタイによる福音書9章9~13節  収穫の主に願う】

週報で既にお知らせしてありますように先週の木曜日、金曜日と、教会の「子どもの教会」は、YMCA東山荘に行ってまいりました。大人9名、子ども18名の総勢27名での集いとなりまして大所帯ではありませんが、でも、むしろ充実した良い人数であったと思います。
 
 今年は、山上の説教の特に、あなたがたは幸いである。と主イエスが教えられた箇所について学びながらの二日間でありました。私はKさんと一緒に小学校の3年生、4年生のグループと一緒に分級活動を行いまして、東山荘の深い緑の草花を採取して、押し花を作って、台紙に張って、その台紙に、「幸い」についての好きな御言葉を記すという作業を行いました。小学校3年生、4年生の子どもたちは、息子のM太郎を捕まえてはいつの間にか、M太郎は「パパ」と呼ばれ、Sさんは「おねえちゃん」と呼ばれていました。M太朗がパパなんだ、じゃ、先生にはなんと呼んでくれるの?と聞きましたら、暫く考えてから、「おじいちゃん」と言われてしまいました。「え~!!!」((笑)本当にかわいい子どもたちでした。
 
 台紙に押し花を張りながら、好きな聖句を選んでいる時に、一人の子どもが「自分は『憐み深い人々は幸いである』と書きたいと思う、何か自分の心に残る」と話してかけてくれまして、でも、一体憐み深いとはどういう意味を持つのかと尋ねられました。私も、その時改めて考えまして、でも、あまりうまく答えられない思いがしました。なぜ上手く答えられないのか、これまでそんな質問をされたことが無かったからかもしれませんが、むしろ、「憐み深い人々は幸いである」という御言葉を読む時に、それはあたかもその通りであって、素直にそうだなと思ってしまうところがある。特別にどうということもない思いで読んでいたのかもしれません。ですから、今回、改めて自分でも問い直す良い機会となったかなと感じております。

 憐み深いとはどういうことですかと問われたら、皆さんはどう答えられるでしょうか。

 憐み深い、仏教でも慈悲の心が大切と教えます。サマーキャンプの開会礼拝で私は子どもたちに、参加している皆さんに、皆さん、この二日間は平和に生きていきましょう。と話しました。喧嘩をしない、怒らない、平和に生きる二日間にしたいと話しました。 
 それでも、つい夜中まで寝ないで遊んでいる子どもには、興奮しているのはわかるけれど、それでもつい叱ったり、イライラしたりする時もあるのです。そんなにいつでも憐み深い態度ばかりしておられないものだとも思わされました。けど、また、夜寝付けないから、夜遅くまで遊んでいるというのも、自分だけ良ければ良いといった、決して憐み深い態度ではないでしょう。

 憐み深いとはなんだろうか?ある説教者はこの「憐み深い」の本当の意味を言うとすれば、あえて言うならと、大分慎重な姿勢のまま、「とても宗教的な事柄」ではないかと説明しておりました。憐みとは、聖書が教える「神を愛しなさい、隣人を自分と同じように愛しなさい」の愛という言葉の内側に入る言葉であろう、けれど、だからこそ問たい「神との関わりなしに、愛が成立する場所は、いったいどこにあるのか」ということなのです。と説明します。

 私の友人の牧師で野球観戦が好きな牧師がいます。年間を通じて、球場に足を運んで、野球観戦しています。確かヤクルトを応援していたと思う。あるいは映画を見るのが大好きだという牧師もいます。一人で山に登りに行く牧師もいます。私は、野球も映画も山登りも、わざわざ時間を割いて行こうとは思いません。内心、良く行くものだと思ったり、そんな暇な時間があるなんてと思ったり、時には批判的な思いを起こしたりするのですが、でも、それでは私が時間のある時は何をしているのか、どんな良いことをして過ごしているのかと考えてみますと、案外一日中テレビを見ていたりするのです。
ボーっと見ていたりする時があるのです。昼ごはんを食べて、昼の番組を見た後、そのままミヤネ屋まで見ることがある。自分の人生とは何の関係もない、芸能人が不倫したの、くっついたの、別れたのと言う番組です。ただボーっとして観ているのです。そして、見終わった後に、なんて無駄な時間を過ごしたのだろうと家内に語り掛けたりします。

 そして改めて思うのです。野球を観に行くのも、映画を観に行くのも、山に登るのも、テレビを観のも、恐らく人と出会わないためにしているのではないだろうか。
 何も牧師に限ったことではありません。私たちの生活は「人との出会い」によって生活が成り立っていると言えると思います。けれど私たちは人と出会うことが、必ずしも、幸いなこと、嬉しいこと、喜ばしいことばかりではないことを知っています。むしろ、若かろうと、年配になっても、人との出会いによって、傷つくこともあるし、傷つけることもある、怒ることもありますし、気に入らないと思うことはしょっちゅうなのです。

 だから、それなら出会わない方がまだましだと思ってしまっているところがあるのではないかと思います。特に近頃の若者は、結婚しないなどと言われますが、傷つくことが怖いかのように、あえて出会わないようにしているのかもしれない、そんなことも思わされます。

 なぜ、憐れむという言葉が極めて宗教的なのか、それは神と出会い、人と出会うことによってこそ、「憐れみ」という言葉の本当の意味が表されるからではないでしょうか。
 
 改めて本日、読んで頂いたマタイによる福音書の9章35節、36節を読んでみます。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」
 
 これらの御言葉は、主イエスの福音宣教の実際が示されている御言葉です。すなわち、主イエスの働きは、律法の書を読んで研究されたとか、学会で発表されたとか、学位を取られたということではなく、主の福音宣教は人と出会い、出会った人を愛することでありました。出会ったその場で相手と言葉を交わし、交わり、愛されて、憐れまれることでありました。しかも、この「深く憐れまれた」という御言葉は、聞かれたことがあると思いますけれど、「内臓がよじれるほどの痛みを感じられた」という言葉であると説明されます。

 毎年行われるサマーキャンプの大きなテーマは「東山荘で主イエスに出会おう」というタイトルでした。いつもは限られた30分の礼拝と、30分の分級という時間で出会っていた皆が、二日間に亘って、同じ場所で、生活を共にして、同じ食事を頂き、お風呂に一緒に入って、寝て、御言葉に触れて、そしてそこで深い出会いを経験することが出来る。参加された担当者の皆さんは、疲れを感じ、緊張が強いられ、自分だけの時間を殆ど取れない程であったと思いますけれど、けれどそれでもやっぱり大切な時間であり、大きな喜びであったかたと思います。

 しかしなぜ、主イエスが人々に憐みをこれほど感じられたのか改めて読みますと。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれて」いたからだとあります。当時のイスラエルの指導者と呼ばれた人々が、出会うことを蔑ろにしていたことを思わされます。出会う必要も無いと思っていたのかもしれません。

 先ほど、旧約聖書のエゼキエル書34章を読んで頂きました。11節から読んで頂きましたが、そこにはこうあります。「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。 牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。」どうして主自らがこのような言葉をエゼキエルに語られたのか、イスラエルの指導者がその役割を果たしていなかったからです。
 エゼキエル書は、イスラエルが紀元前500年代に、バビロンという国との戦いに負けて国がすでに崩壊状態にありました。そのような崩壊状態の中で、イスラエルの牧者に対して、「あなたがたは果たすべきことを果たしていない」と語りなさいと主なる神がエゼキエルに告げるのです。エゼキエルも大変だったと思います。
 
 エゼキエルとイエス様の時代は、その与えられている状況が違うとはいえ、群衆が弱っていたということはどちらも同じであると言えるでしょう。そしてそのことは、例えば現代の私たちの状況についても同じような事が言えるのかもしれません。今、東アジアの国々の間で、とりわけ、北朝鮮と、韓国、日本、アメリカの間で主に軍事力でもって駆け引きが行われています。北朝鮮から今にもミサイルが飛んでくるような事態であることが報道されています。そのような緊張が長く続いています。もしかしたら私たちの国は、戦後70年以上の歴史の中で、今が一番危機的な時間を過ごしているのかもしれないと思います。
 どこかの国が下手な一手を打ってしまったら、そこから計り知れない争い事へと展開するであろう危機を過ごしていると言えるかもしれません。そして、そうならないようにと私たちは本当に祈らなければなりません。しかし、更にそのような危険な状況を助長するのは、「ファースト」という言葉ではないかと私は思います。トランプ大統領は「アメリカファースト」という言葉を使用して大統領に選ばれました。小池都知事も「東京 ファースト」という言葉で当選しました。日本ファーストの会という政党が出来たとも聞きました。更に、それぞれの国がそれぞれに、中国ファーストと叫び、北朝鮮ファーストと訴え、日本ファーストと主張し、アメリカファーストを宣言する中で、明らかに忘れ去られていくのは、出会うことの大切さではないですか。出会わない、出会おうとしないところに争いの危機があるのではないでしょうか。

 何も社会情勢だけでもありません。現代の教会もまた、「深い憐れみ」をこの世に発信し続けているのかが問われていると思います。
私たちの教会においても、何よりも教会において、その群れを牧する牧師が、「深い憐れみ」を持って良い導き手として働いているのかどうか、牧師を支える役員がその「憐れみをもって」神に、教会に仕えているのか、役員を選出した皆さんの一人ひとりが、それぞれの祈りの中で愛を持って一人ひとりと接しているのかどうかが問われているのだと思います。けれど、そう申し上げますと、そうだその通りだ、だから牧師はなっていないとか、あの人の信仰はダメだと裁きの場にならないように本当に気を付けなければなりません。 

 サマーキャンプで話したように、「平和に過ごす」ことが求められているのだと思います。私たちの一人ひとりが、互いにどれほどの深い憐みを持って接しているかどうかが問われているのだと思うのです。はらわたが捩るほどの愛情をもって人と人とが出会っているのかがいつも問われているのだと思うのです。

 自分は、自分の好きなことをしたいし、自分達は自分達の主張こそを通したいとばかり思うようなところでは「出会い」が起こりません。私たちは、出会う作業は決して楽しいことばかりではないことを良く知っています。時には苦痛であったり、大変であったり、誤解を受けたり、批判されたりするのです。だから、極めて宗教的という言葉が示されるのでしょう。出会うということが、究極的には人間だけでは出来ないのです。主イエスはそのことを私たちに知らせるためにも、こう言われたのではないでしょうか。「収穫は多いが、働き手は少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」

 収穫とは羊の群れが出会うことです。収穫は多いと主イエスは言われます。もっと、もっと主イエスの下に人々は集められるであろう。すなわち出会いが備えられるであろうということでしょう。そこで、人は真の主を見出すであろう。私たちの主なる神を知るであろうと主イエスは話されるのです。
けれど、その出会いという収穫を得る為には「働き手」が必要です。もっと、もっと多くの働き手を主イエスは求めておられます。そして、その働き手を送って下さるようにと、収穫の主に願いなさい。」と教えられました。

 そのようにして祈りながら主イエスは十二人の弟子達を選ばれました。あなた方は「人と出会ってこい」と選ばれた十二人です。しかし又、この十二人だけが「収穫の為の働き手」ではないはずです。この弟子達に続いて、復活の主イエスがその姿を見せられた時以来、多くの「働き手」が登場し、キリスト教は、その働き手によって2000年間の間、衰えることをせず。今日にまで守られてまいりました。

 働き手とは必ずしも牧者であるということを意味しているわけではないでありましょう。又、志を立て、神学校に入ることだけを意味しているわけではないでしょう。むしろ、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている、この自分を見られ、深く憐れんで下さった主」によって、力づけられた、一人ひとりが、すなわち私たちの一人ひとりが、主によって「収穫の為の働き手」として立てられているのだと思います。

 主は弟子たちを招き、私たちを招いておられます。あなた方は主なる神との出会いによって喜びを受け、そしてまた、あなたも出会える、あなたも憐みを受けることが出来る。あなたも神の愛の中に留まることが出来ると伝えて参りたいと思うものであります。
                                                              お祈りします。

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生きる望み

2017-08-15 09:58:07 | 礼拝説教

【マタイによる福音書9章9~13節】

 今週の木曜日、金曜日はYMCA東山荘にて、子どもたちと一緒に一泊のサマーキャンプに行ってまいります。今年のテーマは「東山荘でイエス様に会おう」というテーマです。山上の説教について学びます。
 
 例年、私は大人の皆さんに対してお話をさせて頂いていますが、今年は小学生3年生、4年生の子どもたちと一緒に過ごすことになりました。子どもたちとどのように過ごすのか、少しばかり不安ではありますが、でも、とても楽しみにしております。
 
そして、何よりも願いはどんなふうに、子どもたちは主イエスと出会ってくれるだろうかそのことばかりを思います。私がキリスト教と触れた最初の体験は、小学生の5年生位ではなかったかと思います。
 
テレビで一つの映画が放映されました。「ブラザーサン、シスタームーン」というタイトルでした。実際のところ、内容についての詳細は覚えておりませんが、はっきりわかりますことは、その映画がアッシジのフランチェスコについての映画であったこと、そしてその映画の挿入歌は45年も前に一度しか聞いていないにも関わらず、私の頭から離れることはありません。
 
そして、その映画がわたしの心に大きな感動を残したことは確かだと思うのです。当時、それが果たしてキリスト教に関係しているということさえわからなかったはずなのに、それでも心に深く残っている。それほどまでに子どもの心は、柔らかく、しなやかに出来ているのだと思います。この時期に聖書を読み、色々な体験を重ねることが出来る。本当に幸いなことだと思います。そして、出来るなら自分の人生のどんなときにも、主イエス・キリストが、共にいて下さるという福音を知るきっかけとなって欲しいと願います。子どもたちにとって、それはどんなにか貴重な時間だと思います。だからこそ、尚、一層、担当されている方々のお働きはどんなに大切でかつ、実際のところ大変であるか、また、皆様にも子どもの教会の働きやサマーキャンプを覚えて祈って頂きたいと思います。

 山上の説教はマタイによる福音書の5章、6章、7章に記されます、今日はその内容に入る余裕はありませんが、8章まで読み進めますと、主イエスは山上の説教を話し終えられ、山を降りて、そして実際に人々に対して、主の福音を宣べ伝え、共に多くの癒しの業をなされた場面となります。重い皮膚病をわずらっている人をいやす、という場面からはじまります。そして百人隊長の僕を癒す。更にはペトロの姑が熱を出して寝込んでいるところにいき、病を治し、夕方になるとそこに多くの人々が押しかけ、癒しを与える。
弟子達と船に乗っていると嵐にあい、弟子達が悲鳴を上げているその横で風と湖をお叱りになると、すっかり凪になり、弟子はあまりのすごさに驚きます。
 次に、悪霊に取り付かれたガダラの人を癒し、9章に入りますと中風の人を癒す場面へと続きます。主イエスの働きは忙しく、休む暇さえ無かったのではないでしょうか。
 
 そのような主イエスの働きは、次第にユダヤの地域一体に広まります。9章の8節では、こう書かれています。「群集はこれを見て、恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した」人々はまさに主イエスを通して神を垣間見るような思いになっていたのではないでしょうか。この方こそ、自分達の待ち望むメシア、救い主ではないか。多くの人々が主イエスに従い、主イエスの側から離れなかったのではないでしょうか。

 そして、今日読まれた9章9節からの箇所となりますが、9章9節を読んでみますとこうあります。「イエスはそこをたち、通りすがりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。

 「イエスはそこをたち」とありますから、新たな福音宣教へと目指し、また別の場所に向かおうとしていた主イエスの目に入ったのは、一人収税所に座っていたマタイでありました。なぜ、主イエスがマタイに目が止まったのか、マタイは、自分が座るべきところに座っていたからです。

 東京女子大学、また東洋英和学院大学の学長をされていた船本弘毅先生の著書に「聖書に聴く『生と死』」という本があります。昨年の教会の「学びと交わりの集い」でキリスト教の死生観について共に学びましたが、その時のテキストとしても紹介させて頂きました。
 
 その著書の中で、船本先生が、この収税所に座っていたマタイについて話をされている箇所があります。多くの人々が、主イエスに従い、主イエスのもとに集まって来ていたにも関わらず、なぜ、マタイは一人座っていたのか、なぜ、マタイは主イエスを見に行こうとしなかったのか。一言で言えば、マタイは既に希望を失っていたのではないかと言うのです。

 内閣府の起こった最近の調査によれば、15歳から39歳までの5000人を対象に行った調査の結果、70万人の若者に「ひきこもり」の傾向があるということが分かったそうです。70万人の若者が日本で半年以上家に引きこもって外に出ようとしないという現実があるのです。と船本先生と記されています。そして、収税所に座っていたマタイも、引きこもっている若者の多くがそうであるように、自分の将来に希望も可能性も見出すことができず、ただ与えられた仕事を形通り行っていたのではないか、というのです。しかもその仕事は、収入は、ある程度あったのかもしれませんが、ローマに払う税金の取り立てをしていたわけですから、同じ仲間のユダヤ人から嫌われ、罪人のように扱われていたものと思われます。そして船本先生は、この姿は、時として私たちの姿ではないかと指摘します。

 話は変わりますが今日の礼拝は、平和聖日礼拝としても守っております。8月6日、今日は広島に原爆が投下された日でもあります。1945年の8月6日、一発の原爆で、10万人以上の方が命を落としました。8月9日の長崎に投下された原爆を合わせると、その当時だけで20万人もの方々が亡くなられています。世界で唯一の被爆国である日本、しかも、今から6年前の東日本大震災での原子力発電所の事故があり、何一つ終息してしないことは皆さんがご存じの通りです。
 昨日テレビで、今世界中に1万5千もの原子爆弾があると話していました。地球を滅ぼすには恐らく10個もあれば十分だと思います。
 それでも、多くの国が核を廃絶することに賛成もしなければ、核爆弾があるから、大きな戦争も起こらないのだとも言っているのだそうです。それなら小さな戦争なら許されるのでしょうか。毎日、世界のどこかの地域で争い事によって、人の命が奪われて行く現実はやむを得ないということなのでしょうか。
 
 私は戦争について、また、現在の国際的な状況について話をすることは得意ではありませんので、これ以上は申し上げませんが、けれど、戦争する、争い事を起こす、いさかい事を起こす、これらの出来事は、「ひきこもり」の現象とは全く別のようであって、しかし、私は根本的には同じではないかと思っています。すなわち諦めているのです。希望を失っているのです。自分の人生のこの先を諦めてしまう時、一方においては、内向的な場合、引きこもりや、不登校、社会的不適応と呼ばれ、社会との関係を築くことを止めようとする、また一方においては、逆に外に向けられた場合、この社会を破壊しようとする、人の命を奪おうとする、壊そうとする力が働くのだと思います。

 そのどちらも、関係を乱暴に絶ち切ろうとする力が働いているように思えてなりません。そして、どちらも場合も、そこ平和も、平安もないと言えるのではないでしょうか。
 
 改めて収税所に一人座っていたマタイの思いはどうであったのか。「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて」とあります。
 船本先生は、座っていると言う言葉を英語で表現して「at his seat」という言葉です、と紹介しました。すなわち、「彼の椅子に」ということです。マタイという人が収税所で彼の椅子に座っているのを見かけて」という意味です。
 マタイがマタイの椅子に座っている。その意味は、誰にも譲れない自分の席、自分の居場所、自分の縄張りを意味して、人は自分の縄張りを奪われたくないし、自分の場所を守ろうとする、すなわち、マタイはこの時、自分の椅子に、ただ人生を諦めて座っていただけでもなく、自分の思い、自分の生き方を変えられない、というより、変えようとしない姿、むしろ、自分の椅子にしがみつくようにして、明け渡すことを拒否するかのようにしていたのではないかと教えて下さいました。

 だからこそ、そのようなマタイを見た、主イエスが声をかけました。「わたしに従いなさい」。マタイは立ち上がってイエスに従いました。聖書はそれだけです。これ以上の説明も、条件も、理由も記してはいません。けれど、主イエスの言葉によって、声によってマタイは立ち上がることが出来、主イエスに従うことが出来、そこから神の恵みの出来事が起こっていくことになります。

 絶望から希望がここに生まれ、生きていこう、そう思えるマタイへと変えられていったということでありましょう。

 けれどなぜマタイは立ち上がることが出来たのか。人生を諦め、希望を無くし、自分の椅子にしがみつくようにして生きていたマタイが、なぜ立ち上がることが出来たのかを考えるとしたら、私は一つしかないと思いうのです。主イエスの顔が希望に満ちていたからではないかと思います。主イエスの声が大きな恵みに満ちていたからではないかと思います。主イエスの振る舞いが大きな祝福に満ちた、本物であったからではないかと思うのです。そこに実体があったからだと思うのです。何よりも、主イエスがマタイと出会おうとされたということです。
そして、マタイに対する主イエスの言葉は、取税人として、罪人として、蔑みに満ちた、そして、いつも聞きなれていた裁きの言葉ではなかったからではないでしょうか。
 人生で大事なことは何か。その人がどんな状況、どんな環境の中にいるとしても、主なる神の福音は、その赦しと愛は、全てのものに勝るという事です。
 自分をどこまでも本当に愛してくれる人がいる。命がけで、いや十字架にかかり肉を裂かれ、血を流してまでも、愛してくれる方がいる。その方の名は、主イエス・キリストです。その方が私達一人一人と出会って下さる。「わたしに従いなさい」と声をかけて下さるのです。この言葉をただ素直に、又、素朴な信仰のうちに自らが受け止める時、私達の人生は、全く新しい人生へと導かれるでしょう。

 今日は大塚平安教会の68年目の創立記念礼拝でもあります。現代は国を挙げて「少子高齢化」が大きな問題であるかのように叫ばれていますが、日本の教会は日本が問題にするよりずっと早くから「少子高齢化」であったとも言われますし、大塚平安教会も決してその例外だとは言えないでしょう。大塚平安教会の草創期から教会を支えて下さっている方々が中々教会に出席できないでいる状況を私たちは知っています。
 
 今日はM姉妹が一生懸命に準備して下さって良いお話をして下さいましたが、この働きもまた、これからの世代の人々に対して、信仰というバトンを渡していこうとする役割だと思います。皆さんの多くが主なる神に対する信仰を得て、喜びを持って、感謝と、希望を持って歩んでこられた、そのバトンを次へ、次の世代へ、次の信仰者へと渡していく、神と出会い、主イエスと出会った喜びを語り継いでいく、そして、あなたも、わたしと同じように神様から赦されている、あなたも、わたしと同じように神様から招かれていると、確かな思いを持って語り継ぐ役割があるのだと思います。

 主は招かれています。いつでも招かれています。その招きの業の一つとして今、これから行われる聖餐式があります。主は全ての人々を招かれます。「わたしに従いなさい」、「わたしに従ってきなさい」その言葉はどこまでも赦しと慈しみと愛の中で語られます。創立69年目に向かって、私たちは多くの方々と共に、主の招きに応えながら、主に従い、また多くの人々を招きながら、神と出会う喜びを伝えながらこの一週間も共に歩んで参りましょう。                            
 お祈りいたします。
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憐みの器として

2017-08-02 11:01:29 | 礼拝説教
 【ローマの信徒への手紙9章19~28節】


ローマの信徒への手紙の9章19節から読んで頂きましたが、この箇所は私達人間のことを器であると表現しています。ローマの信徒への手紙は使徒パウロが記したと言われますが人を器として表現する、少し詩的な感じがしますし、良い表現の仕方だと思います。

 ことわざでも器と用いて人を表すことわざがあります。「人は病の器」という言葉があります。そのままの意味でしょうが、複雑な人の体ですから、色々なところに病気が起こる、そんな意味だと思われます。「器用貧乏」ということわざもありますが、一番知られていることわざは「大器晩成」ではないでしょうか。
 
 6月に私たちの教会で、キリスト教独立学園の校長先生をしておられた安積力也先生をお招きしました。お招き出来て良かったなと思っておりますが、講演会が終わって、一階の集会室で、お茶を飲んでいた時に、長男のSが昨年、学校に提出した作品を安積先生に見せていました。Sが夜も寝ないで頑張った作品でしたから、是非、安積先生に見せたいという思いがあったのだと思います。それを見ながら、安積先生が私に話しかけるのです。「いや~、これを見たかった。」そしてその後、一度だけでなく、何度も話されるのです。「S君は大器晩成だからね」。「S君は大器晩成だからね」これは褒めているのかどうか、親としてはね、もう今でも十分頑張っていると思っているのですが、大器晩成だからと言われると、まだまだこれからだな、と言っているのか、それとも、高校生の時よりも成長したということなのか、どっちなのか。今でも良く分かりません。
 でも、まあきっと褒めて下さっていたのだろうと勝手に解釈して、感謝しておりますが、

 それでは、聖書は私達人間のことを器であると表現しながら、どんな器として説明しているのかというと、一つ目は9章22節のみ言葉です。「神のその怒りを示し、その力をしらせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになって者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、」とありますように、一つ目は、私たちのことを「怒りの器」であったと言うのです。

 ここでパウロは、神さまは焼き物師のような方で、主なる神が、焼き物師が粘土から、大切な作品の一つ一つを造り出すようにして、私たちを神の作品として造り出して下さっていると記していますが、その作品として造られた私たちは、果たしてどんな器であるのか。また、Sの話で恐縮ですけれど、一年前か、二年前に、学校の授業で、何か陶芸のような授業を取ったようで、ある日、自分で焼いた器を四個、五個と持って帰って来たことがありました。どれも、熱心に作ったものだと思いますけれど、気に入っているもの、あまりそうでもないものがあったようです。気に入ったものは今でも菊池家の食卓の中で綺麗に盛り付けされて登場しておりますが、あまり気に入らなかったものは、今は猫の餌の皿として用いております。今思うと、Sとしては、猫の餌の入れ物か、と複雑な思いかもしれないなと思いますが、でも、まあ猫は喜んでいるかもしれません。

 同じ器であっても、その用い方によっては重宝がられ、用い方によってはそうでもなく扱われる。心を込めて作った者からみるならば、やっぱり、どの器も、心を込めて作ったわけですから、どれもあって良かったな、上手く用いられて良かったなと思われたいと思うのではないでしょうか。ましてや、主なる神が私たち一人ひとりを作って下さった、本当に大切な宝として器として、こしらえて下さった、でも、どうも、その神様の思いから離れて人は「怒りの器」として生きていたのだとことではないでしょうか。

「怒りの器」とはどういうことか、一言で言えば、自分を上手に生きていないということかもしれません。テサロニケの信徒への手紙5章16節に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」とあります。多くの方がこの御言葉に励まされるなと感じられると思いますが、怒りの器とは、どうも生きていて感謝が少ないということではないでしょうか。
 感謝が少ないとどうも感動が少ないということのようです。年を取ると、感動することが少なくなってくるとも言われます。本当はそんなことは無いと思いますけれど、一面においては当たっているかもしれません。私も含めて例えば子どもの頃のヒーロー映画などを見ては感動したようにも思います。私もウルトラマンを見ては、ウルトラマン負けるなと必死に応援しましたし、純粋にウルトラマンのようになりたいと思ったものです。でも、段々年を取ってくると物事を客観的に見ることもできるようになって、あのウルトラマンの中に入っている人は暑くて大変だろうなと思うと感動もなにも無くなったりするかもしれません。あるいは、慣れということもあります。
 
 先週の日曜日は午後から鎌倉恩寵教会で、教会の出身教職の渡辺誉一先生の牧師就任式に出席して参りました。教会の皆さんの大勢で駆けつけましてお祝いの中に一緒にいて下さいました。やっぱり就任式というのは、感動します。牧師もこれからだと言う思いで、心を新たにするわけですし、教会の皆さんも緊張を持って臨まれたことでありましょう。 
 ただ、一年、二年、三年と年月が流れてきますと、慣れて来る、菊池先生の説教も、大体こんなものだと分かって来る、牧師もまた教会に対する新鮮さが無くなってきますと、一面では慣れて来てね、より良くなるということもありますが、でも慣れて来るとどうしても感動が減るのではないかなと思います。
 ですから、やっぱり、この今日のこの礼拝も、いつものような礼拝ということではなく、今日の、この礼拝は後にも先にも今日、この時にしかないのだからと感動を持って礼拝に出席する、そうすると感謝も増え、喜びも増し、力与えられるものですが、どうでしょうか、皆さん、感謝する思い、感動する気持ち、それぞれ私たちの人生の一人ひとり違った器として生き、生かされているその器に感謝、感動が沢山あるなぁと思われている方は本当に幸いだと思います。

 けれど、最近は感謝もなければ、感動もないと思っているおられる方がいるとするならば、もしかしたら「怒りの器」となっているかもしれません。怒りの器とは、人を見て叱るとか、あの人が気に入らないとか、怒ってばっかりいるというよりも、何よりも、自分を生きていないということです。そして、その究極は、何かという、神様との関係にこそあるのだと思います。神様との関係が上手くいっていない、切れているとどうなるのかというと、何よりも人との関係が気になって仕方がないのです。
 
 あの人の、あの一言で傷つきました。教会なのに、ああいう言い方はないよね~。人の言葉で傷つき、また、自分がそのように傷つけている側でもあることには気が付かないことも本当にしばしばです。人と人との関係で、人は傷つき、また傷つけてしまうのです。
 
 だから、何が大切なのかと言うと、神様としっかりと繋がることです。主なる神は、私たちを、この私を、あなたは本当に、私が大切だと思う、必要だと思う、あなたの為なら、自分の命さえ惜しくないと言って下さる方がおられる、人は私のことをなんだ、かんだと言うかもしれません。人としてなってないよね~、とか、それでもクリスチャンですか、とか、それでもあなた牧師ですか、とか、本当に人は色々といって来るのです。その時に、神様に繋がっているか、繋がっていないかで、怒りの器となるのか、憐みの器となるのかが決まって来るのではないでしょうか。

 聖書はこう語りました。「神はその怒りをしまし、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それは、憐みの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。神はわたしたちを憐みの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召しだして下さいました。」

 主なる神は、私たちを「怒りの器」としてではなく、「憐みの器」として召しだして下さいました。私たちの新しい教会が建てられて丸2年になりました。この2年の間、以前と違っているかなと思うのは、皆さんもお気づきだと思いますが、やっぱり新来会者が少しずつですけれど、増えて来ているように思います。勿論、一回だけの方、二回だけの方もおられますけれど、少しずつ増えて来ているように思うのです。でも、それはどういうことかというと実に色々な方が来られるということです。
 色々な方が見えられますけれど、私の経験上、これまでわずか20年の牧師生活ですが、これまで、新しく来られた方で、「先生、私は聖書を読んで、神様を知って、本当に救われました。ですから、つきましては、献金を持参してやって参りました。これが月定献金で、これが感謝献金です。」というような方はまず、ありません。

 むしろ、本当に色々な方が来られる。ある時には皆さんには特に話しませんでしたが、先月まで刑務所に入っていましたという方が来られた事もありました。何したのと聞くのも怖かったので聞きませんでしたが、その方が後から電話を下さって、本当に来て良かったと話して下さった時には私も大いに励まされました。やっぱり教会はどんな方でもおいで下さいと言うのが良いのだろうと私は思います。その方が何をしているのか、どう生きているのかが大事なことではなくて、来られる方はそれぞれですからね。だから、大事なことは、私たちがどう生きているのか、どんな歩みを歩んでいるのかがとても大切なのだろうと思うのです。

 勿論、私たちのそれぞれです。学生もいれば、就職して働きだした方もおられますし、独身の方、結婚された方、お子さんがおられる方、お孫さんがおられる方、家族で生活をされている方、おひとりで生活されている方、でも、その状態、その形はそれぞれでいいのです。形はそれぞれで良いのですが、大切なことはその与えられている場所で、与えられている環境でその場所で、そして最終的には、神様としっかりと繋がって、神様と交わり、神様のみ言葉を読み、神様を感じ、神様に祈り、神様に語り掛けながら、強い絆で神様との関係を繋がっていると、学生であろうと、仕事をしていようと、独身であろうと、家族がいるとしても、あるいは病気であっとしても、その状態が問題ではなく、形ではないのです。

 詩編23編に「たとえ死の陰の谷を歩むとしても、わたしは災いを恐れない。あなたが私と共にいて下さる」とありますように、私たちが、この自分に与えられた命に感謝して、感動して、良かったなぁ。私はこの教会で良かったなぁ、この仲間で良かったなぁ、この家族で良かったなぁ、この妻で、この夫で、この子どもで良かったなぁと思って生きておられるなら、一回、二回来られるのは、建物の影響が大きいでしょう。でも、三回、四回と来られるのなら、建物ではないと思います。神様との関係をどんなにか素敵に生きている方ばかりの教会だと感じるのだと思います。

 主なる神の憐みが無かったら、私たちはどこまでも「怒りの器」であったかもしれません。でも、主が私たちを特に愛して、特に手を差し伸べて下さって、憐みの器としてくださいました。あなたはあなたで良い、あなたはあなたのままで良い、そう言われれば、そう言われるほどに、心からそう言われているんだなぁと思うと、そこでよりハッキリ見えてくるのは、自分の器の小ささですよ。あるいは、神様と切れている、その状態を罪と言いますけれど、そのことが良く分かってくるのではないでしょうか。だから、パウロは、主イエスと出会って信仰を得て、段々、自分はなんだか神様に近づいているように感じるとは言いませんでした。

 むしろテモテの手紙の中でこう告白しています。「私は、その罪人の中で最たるものです。しかし、わたしが憐みを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」

 パウロは自分が如何に罪人であったか、けれど、その私に憐みをかけて下さった神がおられる、忍耐して忍耐して、愛して下さった方がおられると告げているのです。私たちもまた、主なる神によって、神の忍耐によって、しっかりと「憐みの器」とされています。そのように生きなさいと示して下さっていることに感謝して、この一週間も共々に、歩んでまいりましょう。

お祈りします。
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