日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

良い実を結ぶために

2017-07-26 13:03:57 | 礼拝説教
【マタイによる福音書7章15~23節】


 7月の第2週の日曜日、各部集会が行われましたがその際青年会を行いました。教会の青年会をこれから、少しでも活発にしていければと願いながら、色々と取り組んでいこうと思っておりますが、7月の青年会は、横浜にある教会というタイトルでお話をさせて頂きました。

 横浜と言っても、横浜には教会は沢山ありますから、一回目として横浜の神奈川区にある教会に絞りました。それでも沢山の教会がありましたが、準備の為に、私は直接神奈川区にある教会の一つ一つの教会に出向きまして、教会を見せて頂いて、写真を撮って、週報を頂いて話を伺って参りました。そういう意味では私自身が一番学びになったと思います。
 
 訪問した教会は、日本基督教団ではない五つの教会ですが、その中で、特に印象に残りましたのは、横浜ハリストス正教会です。一般的にはロシア正教と呼ばれる教会です。
 
 日本が江戸から明治になった頃に、海外から多くの宣教師がやって参りましたが、ロシア正教からも宣教師がやって来ました。特に有名な宣教師がニコライという宣教師です。北海道にやって参りまして、主に日本の北の地域を中心に宣教したと言われます。
ただその後、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、ロシア革命等が起こり、正教会の日本での伝道は順調にはいかず、困難であったという話も初めて知った話でありました。
 東京のお茶の水にニコライ堂という正教会の美しい建物がありまして、今は国の重要文化財となっているそうです。横浜ハリスス正教会もニコライ堂を小さくしたような形です。   
 礼拝堂を案内して頂きました。中に入りまして本当に驚きました。全く私たちの教会とは違います。何から何まで違うと言っても良いのですが、大きな違いは二つで、一つは礼拝堂一面に、イコンと呼ばれる聖人の絵で埋め尽くされています。青年会では写真を撮って皆で見たのですが、いつか一緒に見る機会があればとも思いますけれど、金や銀といった派手な色が沢山使用されてかなり豪華な印象を受けます。同じキリスト教の教会なのだろうかとさえ思う程ですが、もう一つの大きな違いは礼拝堂に椅子がありません。ですから、広くがらんとしている印象があります。なぜ、椅子が無いのか、椅子がなかったらどうやって礼拝を守るのか。皆さんが立って礼拝を守るのだそうです。
 
 2時間、3時間と続く礼拝を皆が立って礼拝をする。ニコライ堂も、基本的には立って礼拝するそうです。勿論、現在は、年配の方とか、理由があって立っての礼拝が厳しい方には椅子が用意されるようですが、なぜ、椅子が無いのか、後で調べましたら加藤常昭先生が記した文章の中にその答えを見つけました。そのまま読みますが「そのひとつの理由は明瞭です。居眠りなどさせてはいけないということであります。」とあります。
 
 私たちは時々、礼拝の特に牧師が説教をしている時に眠ってしまうことがあります。特に今日のような暑い日に暑さの中家を出て、時間をかけて教会にやって来られる。礼拝はやはり緊張が強いられますし、しかも、大きな声で共に讃美歌を賛美し、立ったり、座ったりしながら、牧師の説教の時間となると、やっと一息つきたくなるものです。すると、不思議なことに、というか不思議でもないのですが、眠くなってくる。人の体とは自然にそうなるものだと思いますし、むしろ、1分でも2分でも、つい眠りこけてしまっても、その後、目が覚めてすっきりして説教を聞くことが出来ますので、私は寝てはいけませんなどと言うつもりもありませんが、けれど、だから寝ていても仕方がないというわけにも行きません。
 
 礼拝を守る、礼拝を献げるとはどういうことなのか。これも加藤常昭先生が記された文章そのままですが「礼拝すること、それこそが私どもにとって生きることであります。ここにおいて、生きることの充実、ああ、生きていてよかった、このように生きることは素晴らしいことだという体験をすることがないと、教会になぜ来るのか、改めて問い直さなければならないと思います。人生の充実はまず、礼拝において始まるのであります。」とありました。
その通りであろうと思います。礼拝の時間だけが、普段の生活から切り離されているわけではありません。

 東京大学で教えておられた信仰の先達でもある隅谷三喜男先生が「二階建ての信仰」という言葉で、私たちの信仰について説明されたことがありました。いつもの日常の生活は一階で生活している、でも日曜日になると、今日は礼拝の日だからと二階に上っていく、二階で礼拝を守り、神様に感謝し、礼拝を献げ、そして、礼拝が終わると一階に降りて来て、さあ普段の日常生活に戻ろうと言う。そんな思いが日本人の思いの中にあるのではないかと説明されました。良く分かるなぁと思って、良く覚えております。

 隅谷先生は礼拝と日常が切れてしまっているのではないかと指摘しているのでしょう。生きていて良かったなぁと礼拝でも思い、その思いのまま日常生活を営んでいく、生きていると色々とあるけれど、主なる神によって生かされている人生を、喜びを持って、感謝を持って、生きていける。周囲の人が、あなたはどうしてそんなに喜んでいられるのか、感謝して生きていられるのかと問われた時に、はい、私は教会に通っていますから、礼拝を守っていますからそう答えられるのならどんなに幸いであるかと思います。そのような礼拝に大塚平安教会も更に目指して参りたいと願います。

 今日はマタイによる福音書の7章15節から読んで頂きましたが、主イエスが人々を前にして山上の説教の中で教えられている、しかし既に終盤の箇所となります。人々に対して「偽預言者を警戒しなさい」と話されました。この警戒すると言う言葉は、先ほどから申し上げていることで言えば、眠らない、よ~く、注意して目を覚ましていなさい。目を凝らしていなさいという意味になります。なぜ、目を覚ましていなければならないのか。偽預言者がいるからだというのです。

 本日はエレミヤ書の7章という箇所も読んで頂きましたが、エレミヤが生きた時代に、エレミヤが苦労した一つは偽預言者であったと言われます。今日読んで頂いた箇所はそのことが良く分かる箇所の一つです。「主からエレミヤに臨んだ言葉、主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。『主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダヤの人々よ、皆、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこういわれる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。』なぜ、神殿の門でエレミヤがこのように人々に告げなければならなかったのか。イスラエルの人々が異教の神々を拝み、バアルと呼ばれる異教の神に従い、時には盗み、殺し、姦淫し、偽りの誓いをしながら過ごしているからだというのです。日常の生活では神を顧みず、過ごしつつも礼拝の為に神殿に集まって来ては、神の前に立って、立って礼拝を守っていたと思われますけれど、そして「救われました」と言うからだと主なる神がエレミヤに伝えているのです。
 
 イスラエルの人々にとって、エレミヤよりもずっと偽預言者の方が、ずっと本物らしく見えていたと思われますし、また、偽預言者の方がずっと、人々に心地よい言葉を語り続けていたのかもしれません。
 
「彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来る」と主イエスは言われました。羊の皮の意味は、神の使いという意味があるようです。あたかも自分は神の使いのようにしてやって来るというのです。優しそうに、柔らかそうにやって来て誘うけれど、中身は貪欲な狼、それが偽預言者だというのです。

 しかも、もっと凄いことを主は話されました。22節ですが、「かの日には、大勢の者がわたしに「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろと行ったではありませんか。と言うであろう。」かの日とは神の審判の日です。神の御前に出されるときです。神の前に出された時に、神の前で主よ、わたしは御名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡を起こし、一生懸命に生きてきましたと語るのです。それは何も弁明でもなく、本当にそう思って、正直な思いでそう告げているように思います。けれど、そのような人々に対してして、23節では「そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、私から離れ去れ』これはどう考えればよいのか。
 
 例えば、こういうことではないかと思います。8月に入って最初の週は、平和聖日でもあり、教会の創立記念日となっています。例年、礼拝を行った後に、幼稚園の園庭でバーベキューを行っておりますが、流石にこの年の暑さの中でバーベキューをするのは辛いのではないか、それよりもずっと信仰的に実りのある礼拝、礼拝そのもので創立記念を祝えたら良いのではないかと役員会で考えました。
 
 その中で、礼拝の中で、短い時間ですが、特に信仰生活の長い方の中に、証をして頂くというのが良いのではないかと決まりました。役員会ではあの方が良い、この方が良いというのです。でも聞いていると、とても引き受けて下さらないだろうなと思う方の名前がどんどん出るのです。誰が交渉するのですかと聞いたら、牧師がやって下さいと言う。私は本当に困りました。お願いしても無理だろうなと思いまして、ですから、一か月近く頼めないでおりました。
 けれどどうしても進めなければなりませんので、決意してお願いしました。最初から無理かなと思っていますから余計かもしれませんが、やっぱり断られるのです。何人とは申しませんが、次々と断られて行くのです。それでも、本当に幸いなことに、週報に記してありますように間島九子姉妹が引き受けて下さいました。とはいえ、間島さんも本当のことを言えば「ハイ、分かりました。お任せください」と言って下さったわけではありません。必死になってそれだけは勘弁して下さいと何度も言われました。でも、最後はね、分かりましたと話して下さり、私は間島さんと神様に感謝しました。
 
 証をするというのは、時には自分をさらけ出すようなものだと思います。神様を前にして、聞く一人ひとりを前にして、自分は信仰を得て、こんな立派なことが出来た、人生が成功した。信仰を得て上手くいきました。といったサクセスストーリーを話される方もおられますが、それも良き証になるでしょう。 
 けれどまた、実に自分は神の前に力ない者であるか、情けない者であるかを証するようなものなのだとも思います。けれどそんな自分を神様が用いて下さったことに感謝する、けれどそれをまた、言葉に乗せて、皆さんの前で話をする、それほど簡単な事ではありません。簡単に引き受けるわけにはいかないと思われると思います。

 ましてや、かの日に、つまり主の裁きの前に出て、主なる神を前にして、主よ、私は御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡を色々行いました。と本当に言えるものでしょうか。例えば私が主の前に立たされた時に、主よ、わたしはいつもあなたの名によって間違いのない、正しい説教を話して来ました。いつも力ある業を行ってきました。立派な愛の業を示して参りました。自分の力でこれだけの人が救いに導かれましたと言えるのかと問われるとするなら、それは全く出来ないことだと思います。

 むしろ、私は悲しいくらいに、神の前に、恥ずかしさのあまりに泣き出してしまいそうになるかもしれない。何一つ主の満足のいくようなことが行えませんでしたと、やっとの思いで告げることになるのではないかとさえ思います。けれど、それは私だけでもなく、恐らく多くの皆さんも同じ思いを持たれるではないかと思うのです。

 むしろ偽預言者と呼ばれるような者こそ、主を前にして堂々としているのかもしれません。けれど、だからこそ主は『あなたのことは全然知らない』と言われるのではないでしょうか。

 ここまで話しまして、改めて思いますのはこの偽預言者とは誰なのかということです。主イエスは「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。」と話されました。実とは信仰による実りのことです。具体的にはどんな生き方をしているのか、どんな行いかということです。口では立派に話すけれど、少しも行いが伴わないからあの人はダメだとか、あの人は口だけだとか、恐らく牧師が一番そう言われているのかもしれませんが、主イエスの言葉で言えば、偽預言者とは「不法を働く者ども」です。行っているのか、行っていないかという比較でありません。「主よ、主よ、と言っている者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」と主は話されました。

 大切なことは「天の父の御心に生きる」ということだと思います。しかし、それこそ、本当に容易なことではありません。私たちの人生で、生きていく中で、これこそ天の父の御心であると確信をもって生きることは本当に容易ではありません。むしろ、それがわからないから悩みながらの生活ですし、悩むのが嫌だからと自分でさっさと決めて、自分の道を生きようとする人がなんと多いことだろうかとも思います。しかし、自分の意志で自分の思いのままに生きる時、その時天の国はますます遠くなっていくのではないでしょうか。

 そこで、大切になってくるのは、私たちに与えられているこの聖書の、例えば今日の箇所は主イエスの山上の説教と呼ばれる箇所でありますけれど、ここに記されている主イエスの御言葉の一つ一つを私たちは知らないわけではないと思います。聖書に記されている御言葉を知らないわけではありません。知らない訳ではないのに、御心がわからないと簡単には言えないと思います。主イエスがお知られる、話しておられる一つでも実践してみる、「人を裁くな」「求めなさい」「敵を愛しなさい」そのような御言葉を聞くためにも毎週の礼拝があり、そこでしっかりと目を覚まして、御言葉を聞くということは、神の御心を生きていく為に大切なことではないでしょうか。だからこそ礼拝が、私たちにとって大切なものとなっていくのだと思います。
 私たちの人生が神の御心を生きるものへと益々祝福されますように、共々に祈りつつ、新しい一週間を過ごしてまいりましょう。

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神と人間との間

2017-07-22 08:53:29 | 礼拝説教
 
 (テモテへの手紙一2章1~6節】

 二日前の金曜日にテレビでスタジオジブリの映画がありまして、家族で見ました。「思い出のマーニー」というアニメです。主人公はアンナという中学生位の女の子。都会で過ごしているのですが自分が貰われて来た子どもであることを知っているのです。ですから、育ての母親をおばちゃんと呼んで、友達も少なく、一人寂しく心を閉ざしていた子どもでした。
 
 そのアンナ、持病の喘息の治療もあって、おばちゃんの知り合いで海辺の田舎に住んでいる夫婦のところの療養に出かけます。
 
 行った家の近くの海辺に古い洋館が建てられていて、その建物を見た時に、アンナはとても懐かしさを感じました。更に不思議なことに誰も住んでいないはずの洋館に、一人の同年代の少女が住んでいて、その子がマーニーという名前でした。
 
 アンナとマーニーは出会い、とても気が合い、心を許し、友達となっていくのですが、このマーニーが一体、本当は誰なのか?中々分からない。けれど、最後の方になりまして段々と分かって来るのです。細かいところは省きますけれど、マーニーは実はアンナのおばあちゃんで、マーニーの娘夫婦、アンナの両親ですが、交通事故で二人共無くなり、だからマーニーはアンナを自分が引き取って育てていたのです。でも育て始めて1年程で、自分もまた病気となって死んでいくのです。
 
 ですから、一人残されたアンナは、今のおばちゃんの家に貰われて育てられていたのだということがストーリーを通して分かって来ました。そしてアンナはどんなにか本当自分は両親にもマーニーに愛されていたのかということが分かって来る。自分は独りぼっちじゃなかったということが分かって来る。家族がいて、愛されていて、自分は命があるのだということが分かって来る、それから次第に、笑顔の無かったアンナが、自分は一体何者かということを理解し、自分は生きていていいのだと思い始め、そしておばちゃんや周りの人々にも心を開いていくというストーリーでした。流石にジブリ映画で、アニメといっても、どこも良く出来ている素敵な映画でした。
 
 この主人公のアンナではないですけれど、一体私は何者なのか、私はどこから来て、どこに向かうのか、なぜ今ここで命があり、生きているのか、そのような問いかけは、特に思春期と呼ばれる中学生、高校生の時代、現代の若者だけでもなく、私たち自身も、それぞれに、特に若い頃に限ることでもなく、これまで、一度や二度や、深く考え込んでしまうような、そんな時期があったのではないでしょうか。そしてその答えは勿論、学校でも教えてくれませんし、親も、大人も中々教えてくれないものです。
 
 上手な答え方が分からないということもあるでしょうし、答えようがないものだと思っている方も多いと思います。

 だからこそ、やはり私たちにとって聖書を読むことがどんなに大切かと思います。今日読んで頂きましたテモテへの手紙の2章5節、6節を読んでみますが、そこにはこう記されます。「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとしてご自身を献げられました。」
 
 私たちが例えば自動車を運転したいなと思う。でも自動車は免許がなければ運転出来ないわけで、だから教習所に行って、最初は所内に作られた道路でこわごわと運転を開始します。また、同時に沢山の授業がありまして、道路交通法とか自動車の仕組みとかを教わるわけです。
やっていくうちに次第に運転も上手になり、道路交通法も覚えて更に試験を何度も受けて、やっと免許を受け取り、公の道路に出て運転出来るようになるわけですが、このようにして私たちの人生も、子どもの頃から、人はなぜ生きているのか、なぜ生きていくのかを教わりながら、悩んだ時、苦しい時にはどう対処するのかを示されながら大きくなるというよりは、学校でも家でも、勉強については沢山教わるけれど、あるいはスポーツとかね、習い事は沢山するのですけれど、人が生きるのに、人はなぜ生きているのか、私たちはどこから生まれ、どこへ向かっていけばよいのか、誰も教えてはくれないものですから、そのまま何も教わらないまま、世の中にポンと送り出されるようなものですから、人は、私たちは余計に悩むのだと思うのです。

 でも、聖書に記されているのは、ここにお集まりの皆さんが既にご存知のように、私たちの人生は、決して偶然でもなく、不可解なものでもなく、あなたの人生は、目に見えない永遠なる父なる神によって、神の愛によって神の命を頂き、神に似せて作られた神の作品であって、更にはその命を持って、私たちを贖って下さった主イエス・キリストの愛に包まれて、アンナがマーニーと出会って、人として心を開いていくことが出来たように、どんな時でも、どんな状況の中でも、あなたがとても大切だ、あなたは私の最高傑作だと言って下さる方がおられる。人と神との間でもって、私たちを贖って下さった方がおられる。その方からエネルギーを頂き、力と励ましを受けることが出来る。なぜ、あなたはそんなにいつも明るいのですかと問われるのなら、「ハイ、私は神様から愛をしっかりと受けておりますから」と答えられる。既にそのように生きておられる方々ばかりであることがどんなに感謝なことかと思いますし、大塚平安教会が与えられている神様からの賜物、贈り物であるのだと思うのです。

 そして、私たちが生きていく為にどうしても必要なもの、主イエスが「神を愛すること、隣人を自分のように愛することだ」と教えて下さったように、私たちは、人と、神と良い関係を生きていくことが求められていると思うのです。良い関係というのは、私も一人ではないし、あなたも一人ではないよという関係です。人間という言葉は、人との間と書いて、人間と読みますが、人間は例えば、ギリシャ語ではアンスローポスと申します。その意味は「顔を上に向けて生きる存在」という意味があるそうです。

 ドラエモンというアニメがありますが、テストで悪い点を取ったのび太が、トボトボと下を向いて歩いている姿を見て、担任の先生が声をかけるのです。のび太よ、人の目がなぜ前に付いているかわかるかい、それは前へ、前へと進むためだよ。くよくよしないで頑張りなさい」と励ましたという話はよく知られる場面ですが、人は前に進む、これも良い話だとは思いますけれど、人は顔を上に向けて生きる、なぜ上に向けて生きるのか、上に神様がおられると信じていたからでしょう。つまり、神様との確かな関係を保ちつつ生きるのが、人間だということでしょう。

 今日の説教題を「神と人との間」といたしましたが、先週の火曜日は幼稚園のお母さん方と一緒に「聖書に親しむ会」が行われました。10名以上の方々が集まって、楽しく行われましたけれど、最初は小さい礼拝を行うわけです。讃美歌を歌い、祈り、御言葉に聞く、ですから私が一生懸命に聖書のお話をさせて頂いて、礼拝が終わって出席されている方々から感想や意見を聞くわけです。 

 けれど、大体毎回ですが、「先生、今の先生の話とはちょっとはずれるのですが、うちの子がどうたら、こうたら」となる。次のお母さんも、先生の話はちょっと置いておいて、実はうちの旦那がという話になるのです。だから、私の話はずっと置かれたままになって終わる時もあるのですけれど、つまりどういうことか、どうも、世の中は人と人との関係で物事を考えようとしているところがあるかなと思います。
 
 なんとか、親子で、何とか夫婦で、なんとか家族で、そこで平和でありたい、そこで安心を見つけたい。でも、中々見つけられないのです。だからどうすれば良いのですかと聞かれるのです。ですからね、だから人間とは「顔を上に向けて生きる存在」であって、私たちを愛して、人と神との間を贖って下さった主イエス・キリストを知ることなのです。

 どんな時でも大丈夫、どんな状況にあるとしても、神は自分に耐えられない試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えて下さっているとコリント書にありますように、神との関係をしっかりと保ことです。この方をこそ土台として、私を、私の子どもを、私の夫を、私の家族を、支えて下さっているから大丈夫と安心して、子どもに、夫に、家族に向かうことなのです。そこに平和があり安心を見つけることなのだと思います。

 けれど、尚、そんなに立派な方がおられるなら、そんなに素敵な方がおられるなら、先生、どうしてこの世は戦争ばかり起こるのですか、どうして、こんなに人は人との間で争い、血を流すことばかりしているのですかとも問われることもあります。どうしてなんでしょうね。私もどうも上手く答えられない思いがする時も多いのです。でもね、どうしてなんでしょうねぇと思いつつも、私たちはやっぱり罪人だからなのでしょうと答えます。   

 怖いのは、私たちは罪人だと言われると、そうだなと思うのだけど、でも、そんなに悪いことはしていないと思うのです。些細な罪、わずかな罪は犯してしまうけれど、大したことはしていないと思うのです。我が家にリビングに、この間、テレビ台が壊れて、ガラスも外れて新しいテレビがあったらいいなと願っていいたのですが、ついに、決心してテレビ台を買い替えたのです。新しいテレビ台に子どもたちがびっくりして、まるで我が家のようではないと言うのです。 

 だからこれから綺麗に使おうねと話しましたが、設置した初日には部屋は綺麗でした。でも二日目、三日目と少しずつ汚れていく、少しずつですよ、少しずつ、そして気が付けば2週間目、買い替える前の部屋と少しも変わらない状況がしっかりと出来上がっているという具合なのです。そして、みんながいうのです。やっぱり我が家だね~。

 ほんの少しなら、一回だけなら、だってみんながそうしているから、そのようにして、私たちは少し罪が、でも、その少しがどんどん大きなものになって、気が付いたら顔を上に向けていたつもりが、顔を人に向けて、しかも、愛の眼差しというよりは、比べているのです。比較して、喜んだり、悲しんだりしながら、あの人が憎い、この人は腹が立つというようにして、だんだんに、安心、平安から離れて行って、気が付いたら本物ではなく、偽物、偽物だけに、楽ですけれど、でも本物の神は生きている神ですけれどね、偽物は死んでいますから、命がありませんから、命が無いものを頼りにすると、もっと、もっとと、もっと欲望が増えて、更に大きな罪となり、その罪が大きくなるところに死が生まれて来るのではないですか。争いが絶えなくなってしまうのではないですか。
 
 みなさんだから、そんな罠にははまらないことです。私たちと神とをしっかりと取り持って下さる方、主イエス・キリスト、神と人との仲保者、贖い主を通して、神と繋がることです。いつでも、どんな時でもこの方と繋がることです。どうすれば繋がることが出来るのか、人は、頑張りなさいと言うかもしれません。人は、もっと聖書を読んで、励んで、祈って、というかしれません。勿論、大切なことです。でもね、私たちは、私たちがどんなに頑張っても、死ぬほどの修業をしたとしても、私たちは神に近づくことは出来ません。

 だから、主なる神は、人となられた主イエス・キリストが、この方、ただお一人が、全ての人の贖いとしてご自身を献げられましたとあるではありませんか。
 しかも、私たちに対しては何の、見返りを求めないでそうされたのです。私はあなたを贖うから、贖ってもらったら教会を頼むよと言われたわけではないのです。
 無条件で、徹底的な愛を注いでくださったのです。そこにこそ、真の神の愛があるのだと思います。私たちは、そのような無条件、無尽蔵の神の愛に包まれて、良かったな、命があって、生きていて良かったなぁ。感謝だなあ、そのようにして互いに支え合いながら、この一週間も過ごして参りましょう。

お祈りいたします。


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手のひらに刻みつける

2017-07-22 08:47:16 | 礼拝説教
【イザヤ書49章14~21節】

 先週の金曜日に、さがみ野ホームの礼拝がありまして、その後、さがみ野ホームで過ごされて、73歳で召されていかれたご婦人の納骨式が、相模原市にありますさがみ野メモリアルパークにて行われました。
 大変暑い日差しの中でしたが、さがみ野ホームの関係者、また、召された方のお姉さんも来られまして無事に納骨をすませました。納骨式と言いますのは、葬儀の一連の最後の儀式となります。地上での別れ、後は神様あなたにお任せしますと祈り、賛美し、また、悲しみの中にあっても、一つの区切りとする、そういう儀式なのだと思います。

 私は納骨式にあたって、何を話すのが良いのかといつも悩みますけれど、永遠の命について思うところをお話します。
 
 ローマの信徒への手紙の14章8節に「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」とありますが、この御言葉から、私たちの人生は生きるにしても、死ぬにしても、主のもの、なぜなら、この方が、この方だけが私たちをいつまでも憶えておられるからだと申します。
 
 私たちの肉親が亡くなる、その思いは特別なものです。4年前に父親が召されて、葬儀に参列しましたが、いよいよ火葬にされるのかと思うと思わず、
「とうちゃん!」と叫んでいました。永遠の命を信じているからなんとも思わないとか、神様が一緒におられるから、悲しみを我慢出来る、なんてことは無いと思います。悲しい時は悲しいし、涙が出る時は涙が出るのです。
 
 お祈りの中にもありましたように、福岡、大分の地域で大変な水害となりました。何名もの方が亡くなられ、被害にあわれ、どんなに悲しいかと思います。その悲しさに対して、私たちは、その大変さはなるほど良く分かるとか、大変だろうけれど頑張りなさいなどと、そうそう簡単には言えない程の思いがあります。私たちはその為にも、祈り、また様々な出来うる支援を考えなければならないと思います。
 比べるわけではないですが、暑くとも穏やかな日に、悲しみの中にあっても、慰めが与えられる納骨式を迎えられる。本当はこの事さえも幸いなのかもしれません。

 永遠の命とは、主なる神が憶えておられることですよ。召された方を憶え、偲びつつ葬儀を執り行い、納骨をする。納骨にはほとんどの場合、親族の方々が中心となりますけれど、つまり、召された方を良く知っている方が集まるのです。沢山の思い出をそれぞれに、その心にお持ちであろうと思います。けれど、納骨に際して、私は時として、今はこの召された方の納骨ですが、この場面は将来の私たちもこのようにして墓に納められる、将来の私たちを見ているようなものですと申し上げます。

 今回は、この方を憶えている方が集まっている、でも、その集まった方もいずれは年を重ね、一人召され、二人召され、10年後、20年後、50年後に、この方を本当に知っている方はどれだけおられるでしょうか。50年後にはおられるでしょう。まだ、幼いこども、10代、20代の方、この方は良く知っているという方、おられるでしょう。でもそれでは100年後はどうでしょうか。この方のことを良く知っている、名前が墓に刻まれているから知っているとか、記録が教会の記念誌にあるから知っているのではなくて、良く知っている、このことも、あのことも良く知っている、という方は殆どいなくなってしまうことでしょう。それなら、その方はもうすっかり忘れされてしまうのでしょうか。永遠の命とはどういうことなのか。
 
 私は、例え人が忘れてしまっても、主なる神は決して忘れませんと申し上げます。主なる神がその方を、わたしを、あなたを忘れない以上、私たちは人の中にではなく、神の命の中で生き続けることが出来る。だから永遠の命を生きることが出来るのだと申し上げます。ある先輩の牧師は、永遠の命について、人が完全に説明することは無理なのではないかと話している文章を読んだ記憶がありますが、私の話も、永遠の命についての、恐らくほんの一部についての、説明にしかならないでしょう

 けれど、主なる神はどのようにして私たちを憶えて下さっているのか、先ほど旧訳聖書イザヤ書49章を読んで頂きましたが、その15節、16節をもう一度読みますが、こうあります。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを わたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。」

 ここにたとえ、母親が自分の子どもを忘れるとしても、ということでしょう。そんなことはありえなと思えるような話ですが、でも、例えそうであっても、主なる神は、「わたしがあなたを忘れることは決してない。」と言うのです。どのようにして忘れないのか。「わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける」というのです。あなたを刻み付ける。この言葉は独特な言葉だと思いますが、他の聖書で読みますと、あなたの名前ともあります。私の名前を刻み付けて下さるのか、神様の手って大きいんだなとか思わなくて良いと思いますが、また、聖書によっては、このなまえという言葉をあなたの姿、あなたの像、あなたのイメージとも訳しています。つまりあなたの本物、実像を刻みつけているよということでしょう。

 私たちの実像と言われても中々分かりにくいかもしれませんが、先日、幼稚園の職員室に入りましたら一冊の本が目に留まりましてタイトルが「仲間と共に自己肯定感が育つ保育」というのです。著者が浜谷直人とありました。わたしが出た学校の教員されている方で、同じ学部内の建物にいた方なので、なんとなく名前を記憶しております。

 その冒頭にこんな言葉で始まります。「先日、スポーツ番組を見ていたら、有名な監督がインタビューに応えてこんなことを言っていました。「成功の反対は、なんでしょうか」「失敗では、絶対にありません。」と言って、少し間をおいて「成功の反対は、挑戦しないことです。」そして、その言葉を聞いて、そうだなと思ったというのです。なにがそうだなと思ったのかというと、今の時代の子どもも、大学生も、大人も成功することばかりを考えていて、挑戦出来ないでいるというのです。挑戦出来ない苦しみを抱えているというのです。なぜか、挑戦すれば、そのいくつかは幸運に恵まれて成功することもあるけれど、その多くは思った通りにはいかないものなのに、でも、生きづらさを感じている大学生も子どもも、そうは思っていなくて、失敗は許されない、必ず成功しなければならない、といつも思っているように見えると浜谷先生は説明しています。
 
 必ず、成功しなければならないと思っていると、逆に一歩も踏み出せないから、それなら成功も、失敗もしない、引きこもるとか、やる気を起こさない状態の方がまだ良いというのです。つまり、自信がないのです。より良い自分は自分で良いと思えるような気持ちになれない。自信があるとはどう定義するのか、これは難しい問いかけだと思います。自信がありすぎて、自信過剰の人もいて、女性の国会議員が秘書に尋常ではない暴言を吐いて、大きな問題となっていますが、あの人は自信過剰だったのでしょうか。日ごろのストレスがあんな形になったのでしょうか。人の話ではなく、言葉遣いには私たちも気を付けなければならないと思いますが、浜谷先生は自信についてあえてまとめるとすれば、「自分のプラス面も自分のマイナス面にも向き合うことができて、ほどよく自分のことを良いなと思う。そういう感じが、自信があるということではないかと記してありました。

 つまり、自分の良い面、悪い面、どちらも受け入れることができる自分、けれど、そういった自信がどこからくるのかというと、「安心と安全が確保できて初めて、そういう気持ちになれるのです。」とありました。私は本当にそうだなと思います。その人がどれだけ安心と安全をしっかりと確保できているかどうか、また、そのような環境に生きているかどうか、そのような育ち方、成長をしているかどうかが鍵となるのだと思います。ですからね、浜谷先生は特に幼稚園の先生方や、保育する方々や、お母さん方に向けてこの本を記して、より良い豊かな自信があるというよりも、より良い自己肯定感を持てるようにと願っているのだと思いますけれど、でも、それは何も子どもたちだけの問題ではないでしょう。私たちがどれだけより良い自己肯定感を、私たちの良い実像を持って過ごしているのか、生活しているのかが問われているのだと思いますよ。

 その為にも必要なのは、この聖書のみ言葉「見よ、わたしあなたを わたしの手のひらに刻み付ける」という御言葉です。主なる神は、あなたの人生が失敗してはいけないとか、成功しなければならないと思っているかもしれないけれど、失敗も成功も一枚の葉っぱの裏と表のようなもので、どっちも大事で、どっちもあってよかったなぁと思えるように、あなたの人生のその全てを通して、あ~、私は私で良かった。神様ほんとに感謝ですと思えるように私の手のひらにあなたを刻み付けているからね。そう告げて下さっているのです。
 
 神様がその手に私たちを刻み付けておられるどころか、時々、私たち自身が、私たち自身を傷つけることがありますね。自傷行為と呼ばれますけれども、良く知られているのは、自分の手首を傷つけるとか、髪の毛や、眉毛、まつげを抜くとか、エスカレートすると頭を壁に打ち付けるとか、自分で自分を傷つけようとする、その原因も多様だと言われますが、ストレスや不安感、自信の無さからの影響がとても強いのは明らかでしょう。そして、何よりも劣等感、コンプレックスです。劣等感の強い夫婦がいれば、互いに互いを非難して、傷つけあうのです。コンプレックスの強い親子がいれば、互いに親子で非難しあうのです。これも先ほどの国会議員ではありませんが、言葉の暴力でもあり、言葉の自傷行為ですよ。
 
 マルコによる福音書の5章に自分を傷つける人が登場します。墓場を住まいとして、鎖は引きちぎり、足枷は砕いて、誰も彼を縛ることが出来なかったとあります。なぜ、鎖や足枷ですか、人に悪さするからではないですよ。自分に悪さするからです。彼は昼も夜も墓場や山で叫んで、石で自分を打ちたたいていたとあります。もう心も、体も、俺はダメだ~、俺はダメだ~、俺をダメだ~、人生を悲観してね、心にも体にも傷付け、傷ついていたということでしょう。
 この人、大変だなと思います。でもね、言葉で私たちも、このように心で思っていることがありませんか。どうせ私なんかダメだもの、やったって上手くいかない者、医者にいっても治らないもの、思いや、言葉でもって、自分を傷つけていませんか。そして、その返す刀で、同じように人にも悪口を言ったり、意地悪したり、同じ言葉かけをしたりするのです。どんなにか自分に喜びがない人生を生きているか、喜びが無い人は喜びを分け与えることが出来ませんからね。

 でも、キリスト教は、聖書は「神の手に、あなたへの愛が刻まれている」というのです。
もうあなたは、あなた自身の体を、心を痛みつけるのをやめなさい。なぜなら、人となった神が、自らが十字架に付けられて、神が神を傷つけるようにして死んでいくから、あなたをしっかり憶えて、いや、あなたが生きる前から、そしてこの地上の人生が終わった後も、永遠の命として、あなた自身を、あなたのその存在をしっかりと刻み込むのだから、あなたは自分を傷つけなくていいよ。あなたのその重荷を、なんでこんなものを背負わなければならないかな、と思う重荷も、私がみんな背負うからと言われるのです。

 イザヤ書の53章5節にはこう記されています。「彼らが刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かかれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された」とあります。このイザヤ書が記されたのは主イエスの誕生の700年も前の事だと言われますが、そのようにして主イエスが、私たちの傷を、痛手をしっかりと背負って、あなたは生きていける。とおっしゃって下さっているのです。
 
 今日はマタイによる福音書6書25節からの箇所も読んで頂きました。聖書の中でも最も知られている聖書の箇所の一つでしょう。「思い悩むな、だから言っておく、自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」とあります。どんなに思い悩んだところで自分の寿命を一秒でも伸ばすことは出来ないし、神を信じることによって多くの重荷から解放されて、自由に生きていきなさいと教えて下さっています。私たちは神によって、備えられた「永遠の命」を、しっかりと生きて参りましょう。

お祈りします。
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神の中に生きる

2017-07-09 15:51:04 | 礼拝説教
 【エゼキエル書18章25~32節】
 
 旧約聖書エゼキエル書18章という箇所を読んで頂きました。イスラエルの民がその歴史の中で一番苦しかった時代、元々一つのイスラエルでありましたが、あの栄華を極めたソロモンの時代と聖書の中にも登場して参りますが、ソロモン王の後、国が二つに分かれて、北イスラエルと南ユダという国となります。しかし、北イスラエルは200年間、国が続きましたがアッシリアという国との戦いで敗れ、国が崩壊していくことになります。
  
 それから更に200年後、エルサレムを首都として、小さいながらも頑張って来た南ユダもついに人の歴史の中で、強国バビロニアとの戦いにおいて敗れていく。その敗れていく中で、しかし、神のみ言葉を取り次ぎ続けたのがエゼキエルという預言者でありました。
 
 エゼキエル自身も、バビロニア帝国の捕囚の民として連行されて、連れて行かれたその捕虜として生活する場所と時代に、主のみ言葉がエゼキエルに望み、エゼキエルは人々に慰めと励ましを語り続け、どんな困難の中にあっても、希望は失望に終わらないと伝え続けたわけでありました。

 私事ですが、先々週位の時でしたか少し体調を崩しました。若い頃からそういう傾向があるのですが、夜の寝る頃になると、心臓が変な動きをし始めるのです、時々、そういうことが起こるのです。いつもはすぐに治まります。ですから自分で分かっているつもりですから、あまり心配しなかったのですが、けれど、落ち着かない状況が一晩中続き、朝になると治るのです、けれど、夜になるとまた、心臓がおかしな動きをし始める、一晩、二晩と長く続いたのは初めてのことかもしれません。これはね、元気にしていてもダメだし、横になっていると余計にダメだし、病院に行ってもあまり心配ありませんと言われるのでダメなのです。
 こうなると、どうしようもないのです。ですから、もうお祈りするしかない。一生懸命にお祈りするうちに、三日目、四日目となって次第に普通に戻りました。ネットで調べますと、自律神経がいたずらするようにして、そういうことが良くあるのだと書いてありました。ですから年なのかなとも思います。けれど、だからこそ益々、これからも体を大切にしようと思い立ちまして、久しぶりに朝のラジオ体操を復活させて、最近はかしわ台駅を超えて、北部公園まで行ってラジオ体操をするようにしております。

 やれば、やっぱり体調がいいんですね。けれど、そういうことがあると本当に思わされます。私たちの心臓が動いている、当たり前だと思うそのことでさえ、本当はまるで当たり前ではなく、私たちは自分の体のこと、一つとっても自分でどんなに気を付けているとしても、自分の意志だけでは直すことが出来ないのだと思うと、そのことを通しても、私たちの健康も、生活も、全ては神様が関わって下さっているのだと思います。
 
 だからその主なる神が、目には見えないけれど、私たちに命を与え、私たちの心臓もしっかりと動かして下さる方が、私たちに対してエゼキエル書18章31節にありますように「新しい心と新しい霊を造り出せ」と教えて下さるのです。

 イスラエルの民ではありませんけれど、もうこんな状況になってしまって、国会では共謀罪法案も通過して、世界のあちらもこちらではテロ事件が起こり、また、日本は地震も起こり、私たちの国は、私たちのこの地球は一体どこに向かおうとしているのか、益々混迷を深めて来ているではないかと嘆くだけでもなく、何よりも私のこの人生が、とてもこんなはずではなかったと思えるような状況に陥ることさえあるかもしれません。でも、主なる神はあなたがどんな状況にあるとしても私は共にいる、だから、あなたがたよ、あなたがたは「新しい心と新しい霊を造り出しなさい」というのです。

 新しい心、新しい霊を造り出す。心と霊とはどう違うのか、人によって心とはどういうことだ、霊とはどういうことだ、色々と話す方、説明する方がおられますが、なんとなくわかりつつも、けれど、どうも分かりづらい、英語では心をハートと申しますし、霊はスピリットと言いますが、辞書で調べてもその違いが本当になるほどと思えるような説明には中々出会いません。一体どういうことなのか、聖書を丁寧に調べていくうちに分かって来たことは、ここで伝えて言えるのはどうも距離と方向の問題であることが分かって参りました。

 25節ではこうあります。「それなのにお前たちは『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのはお前たちの道ではいのか」ここに記される正しい正しくないと言う言葉は、遠い、近いという意味が込められている言葉のようです。ですから、主の道は正しくないという言葉は、主の道は遠いというのです。イスラエルがバビロニアに敗れ、国が崩壊しようとしている、この状況を体験する中で、あ~神はどこにいかれたのか、神ははるか向こうにいかれたのか、すっかり遠くに行かれてしまったのではないかと嘆いているのです。
 
 けれど、主な神は、あなたは方は神は私たちから遠いと言う。けれど私ではなく、あなた方こそが遠くなっているのではないか。お前たちは遠くの道に行ってしまっているではないか、迷っているのではないかと言っているのです。
 だから、新しい心と新しい霊を造り出すことだ。その意味は、造り出すというよりは、だからその道の向きを変えなさい、私の方向へ、あなたの心を、あなたの霊を私に向き直しなさいと伝えているのです。

 どのようにして向き直すのか、同じ出来事、同じ状況の中で、そのことがマイナスだなぁ、無理だあなぁ、でも神に向き直すと、マイナスと思うそのことさえ、そこから尚プラスとなって希望が与えられるということでしょう。
 
 あの、ポストイットを聞いたことがあるかもしれません。付箋と呼ばれる文房具ですが、私の机の上にもありますし、幼稚園の先生方の机の上にもありますし、大変便利なものです。もともと、アメリカのスリーエムという会社の研究者スペンサーさんが最高に強力な接着剤を作ろうと研究していた時に、たまたま不思議な接着剤が出来たというのです。良くくっつくけれど、はがすことも出来る。しかも結構何回も使用できる。でもね、強力な接着剤をと願っていたわけですから、スペンサーさんからすると、作品としては失敗なのです。あ~変なものになってしまったと嘆きました。
けれど、一緒にいた別の研究員のアート・フライさんという方がいて、この方は教会の聖歌隊のメンバ-だったそうですが、讃美歌を賛美していた時に、挟んでいた栞がはらりと下に落ちてしまって、上手くページを開くことが出来なかった時に、あの張ることも、はがすことも出来るあの接着剤が良い栞代わりになると思って、そのように使用していたそうです。それから数年、ついにポストイットが商品化されたのが1980年の時でありましたが、出来事は同じ、でも、失敗というマイナスに見るのか、こういう使い方も出来るとプラスにするのか。もう、終わりだと思うのか、いや、これからが始まりだと思うのか、新しい思いをもって作り出そうとするのか、心ひとつで全く違った世界がその先にひらかれるようにして、イスラエルの民よ、心を神に向けて、そして新しい心、新しい霊に生きることだ、あなた方は終わりだ、お終いだと思っているだろう、でもそうではない、これからが新しい始まりであることを知れということではないでしょうか。

 だからね、心を神様に向けること。すなわち、心をこの世に向けるのではなく、与えられている状況に捕らえられて、神から離れるのではなく、私に命を与え、私を生かして下さる方との関係を大切にすることです。なぜならこの方こそが、主なる神が、私たちを心と心を交わして下さり、「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死も喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と言われる方だからです。

 主なる神は、私たちの誰の死も喜ばないと言われます。勿論、だから長生きすることだということでしょうけれど、でもそれでだけでもないでしょう。生きていても、既に死んでしまっているかのようにしている人もいます。もうダメ、もう無理、つまり毎日、失望しながら生きているというのです。でもね、神の力は、死から命へと向かうのです。
 創世記の最初のページに、神様が天と地を造られる創造物語があります。第一日目、光あれと言われたら、光があって、神様はそれを見て良しとされた。そして夕があり、朝があったとあります。二日目、空と水とが別れなさいと言われたら、そうなって、神様は良しとされたとあります。そして夕があり、朝があったとあります。そのようにして三日目も、四日目も天地創造の出来事が続きますが、いつも夕があって、朝があるのです。一日の終わりが夕ではなくて、一日の最初が夕でそして、朝が来るのです。そのようにして主なる神との関係をしっかりと保人は、夕があり朝がある、だから今この状況は夕方の暗さかもしれない、夜の闇かもしれない、でも、その先に大きな祝福が必ず与えられると、しっかりと受け止めながら生きられる人でありましょう。

 新約聖書マタイによる福音書3章1節から読んで頂きましたが、主イエスがこの世に登場される前に、バプテスマのヨハネという人が現れて、人々に悔い改めの洗礼を授けたとあります。ヨハネは人々にこう伝えました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」そのようにして人々に迫り、その言葉に促されて、多くの人々がヨハネの所にやって来て、洗礼を受けました。そうだな、これまでの自分に死んで、新しい自分に生きますと決意したということでしょう。これまでの自分は神様から離れ、その関係をまるで無いものであるかのようにして生きてきました。スイッチをオフにして関係を絶ってきました。でも、これからは主よ、私はどんなことがあっても、あなたの方向を向いて、あなたとの関係を保ちつつ生きていきます。そう信じて洗礼を受けたのです。主の方向に向き直したのです。

 主なる神の方向に向くために必要なこと、それは悔い改めることです。エゼキエルも同じように人々に伝えました。「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てよ」投げ捨てるとはギブアップするということです。人の前にではなく、神の前で、神様降参します。あなたから離れ、今はこのような私です。だから降参しますと、もう自力では行きませんと罪を告白して、そして神から力を得てエネルギーを得て生きていけるのです。

 みなさん、今日の週報にも記していますけれど、教会員のSさんがご自分の自伝を出版されました。日付では昨日6月24日発行です。私は少しフライングしまして木曜日に頂戴しまして、昨日読み切りました。もう本当に感動しました。
 日ごろ、断面的に伺っていたことが、点となり、線となって繋がってよく理解出来ました。当時日本が支配して、朝鮮と呼ばれていた韓国で造り酒屋で誕生されたこと。妹もおられたようですが、1歳で召されたこと、お父さんが戦死されたこと、命がけで一人で帰国されたこと、後から帰国したお母さんと一緒に一生懸命生きたこと。教会で洗礼を受けたこと。高校卒業して苦労して大学へ通われたこと。ご主人のM兄との出会いと結婚、綾瀬ホームでの生活、七人の子どもたちの出産、子育て、そして、町長選挙と全く思いがけなくM兄の逮捕と、もう何か、どの場面でもまるで息を飲むような思いで読まさせて頂きました。
 けれど、どんな状況でも、どんな時でもSさんを支えたのは主なる神のみ言葉と、S家を囲む多くの方々と、そして教会だったんだなと本当に思わされました。ここで、私がくどくどを内容を話しますと、もう読まなくて良いと言われても困りますから、もう話しませんけれど、やっぱり信仰者として、ご主人と共に、家族と共にいつも、どんな時も主なる神への方向を向いて、生きてこられたのだなと深く思わされております。

 でも、私はSさんだけが特別だったわけではないと思います。エゼキエルもそうであったように、与えられた状況がどんなに悲惨であったか、家族は離散し、あるいは殺され、家を焼かれて、食べるものも無い、それが戦争というものでしょう。でも、エゼキエルはそれでもなお、「わたしはだれの死も喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と告げなさいと言われ、人々に声を大きくして語り続けました。
あなたの人生も、あなたの人生も、あなたの人生も、私はよ~く分かっている。だから諦めるのではなく、夕があって朝があるように、死から命へ、私に向き直れと伝えて下さるのです。そんな神の愛を頼りに私たちは生きてまいりましょう。


 
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豊かになるために

2017-07-09 08:46:23 | 礼拝説教
【コリントの信徒への手紙二 8章8~15節】


 主イエス・キリストの弟子は12名と言われます。この弟子たちはいわば内弟子です。自宅があって主のもとに通って来たわけではなく、主イエスと共に生き、共に食事を取り、共に寝て、共に生活をした弟子たちでありました。けれど、この12人の弟子たちに勝るとも劣らないと言われる一人の弟子、それがパウロという人でありました。
 
 パウロはもともと、主イエスとは反対側の立場にあった人でした。熱心なユダヤ教徒として生きていました。フィリピ書の3章5節でも記されていますが、「生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人、律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのないものでした。」とありますように、一人前のユダヤ人としてだけでなく、むしろ、イスラエルの民の信仰の指導者の一人であったと思われます。

 ですから、主イエスの十字架の後、三日後に復活された主イエスと出会い、出会うばかりでなく、それから50日後の聖霊降臨、ペンテコステの出来事を経て、どんなにか力を得て、世界に向けて主イエスの福音伝道を開始した弟子たちの、最も厄介な相手、敵とも言えるこの人とは関わりたくないとさえ弟子たちは思っていたでしょう。

 けれど、そんなパウロを主イエスが選ばれました。主イエスをメシアと告げる弟子たちの、信仰者の一人でも捕まえて牢に送りたい、それこそが、まことの神の思いであると信じて疑わなかったパウロの元に、突然の光と共に、主イエスの声が聞こえてくるわけです。詳しく読みたい方は是非、使徒言行録の9章を読んで下さればと思いますが「主よ、あなたはどなたですか」と問うたところ「私は、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすればあなたのなすべきこと知らされる」という声を聞くのです。それから三日目に、主の弟子のアナニアから洗礼を受け、そして、迫害する者から、宣べ伝える者へと変えられていく、変えられていくだけではなく、パウロの何が凄かったのかというと、多くの弟子たちはエルサレムを中心とするイスラエル、すなわち、自分の故郷で伝道活動を行ったと思われますが、パウロの視点は、大きく広く世界に向けられました。ですから、そのパウロの、世界へという視線のその先で、その恩恵を私たちもこうして受けていると言うことも出来ると思います。

 けれど、またパウロの働きの一つは、当時貧しかったと言われるエルサレムの教会に対して少しでも援助して、少しでも多くの教会が支え合って、力づけ合って、励まして、具体的には献金を献げて、自分達の信仰の故郷でもあるエルサレムの教会を支えていこうとする働きでもありました。そんな思いが込められた聖書箇所、今日読まれたコリントの信徒への手紙を読んで頂きました。

 改めて読んで頂いたコリント書の8章9節を読んでみますとこうあります。「あなたがたは、わたしたちの主イエスの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたの為に貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」

「主は豊かであったのに」とは、主はもともと父なる神として、天地創造の初めから、更にその先から、そして永遠の命に至るまで、人の歴史の中ではなく、神の歴史と言えるのかどうかもわかりませんが、いずれにしても主なる神として、足りないもの、不足しているものもなく、全能の神としておられたということでしょう。でも、そのままでは良しとされず、「あなたがたの為に貧しくなられた。」それは、神が人の姿を取られて、御子イエスとして誕生され、弟子たちと共に生き、歩まれた。その歩みの中で、この9節を読む時に、マタイの8章9節を参照しなさいと、私の聖書には記されていますが、そこを読みますとこうあります。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そのように話された主イエスの思いは、御自分がどんなに貧しい生活をされたのかということでしょう。

 私自身、若い頃に教会に通うようになりました時に、その時の牧師に、自分の苦労話をする機会がありました、どんなに大変だったかと訴えたことがありました時に、この御言葉を教えられました。菊池くん聖書を読んでご覧、主イエスは狐には穴があって、空の時には巣があるけれど、御自分は枕する場所も備えられていないと言っておられるよ。その言葉を聞いて、そうだなと思いました。どんなに大変だと思っても、主イエスの苦労を思えば、まだ自分はやっていける、やっていこうと励まされた思いがしたことを思い出します。

 けれど、なぜ、主イエスはそれほどまでに貧しくなられたのか。特に主イエスの回りに集まって来る人々の多くは、生活も苦しく、貧しい人々が多かったからでしょうか。あなたがたも貧しいけれど、御覧なさい、私の方がずっと貧しい生活をしているのだから、もっと精進して、耐えて、励みなさいという為だったのでしょうか。
 でも、どうもそれは違うようです。パウロはこう記します。「それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かなになるためだったのです。」主イエスの貧しさとは、何よりも神が人として誕生された、それは御自分の神として誇りや、プライドを抜き捨てて、私たちの為に人となられたということでしょう。なぜそうされたのか、あなた方が豊かになるため」だというのです。
 私たちが豊かになるため、私たちはもっともっと豊かに富んでいく為だというのです。
 
 皆さんは、この言葉を読む時に、どんな風に思われるでしょうか。

 例えば、キリスト教もプライドとか誇りのようなものがあると私は思います。例えばキリスト教は仏教とは違うと言います。何が違うのかと考えると、キリスト教は御利益宗教ではありませんと言います。お寺や神社でお守りを売っている、家内安全、商売繁盛、必勝祈願、合格成就、沢山のお守りがあります。でも教会ではそういうものは売っていません。日本ではわかりませんけれど、世界の大きなカトリック教会ではお守りのようなものを売っていることがよくあるようですが、私が行ったことのある、世界のどのプロテスタント教会でもお守りを売っていた教会はありません。教会がお守りを売るのはおかしい。  
 なぜ、おかしいのか、お守りを神様とするわけにはいかないからです。

 とはいえ、それではキリスト教は家内安全を願わないのでしょうか。商売繁盛を願わないのでしょうか。交通安全を祈らないのでしょうか。私が牧師になって一年目、二年目位の時に、小さいお子さんを連れて、若いお母さんが来られて、これから古い車で旅行にいくのですが、車が壊れないように祈って下さいと頼まれたことがありました。でも、その時私は、どこかおかしいと思ったのです。古い車で心配なら、旅行に出る前にまず整備工場で点検してもらって、これで安全ですと言ってもらってから祈るということならわかるけれど、点検もしていません、でも祈って下さいというのはどうも違う、祈ったけれど、途中で動かなくなりましたと言われて神様のせいにされるのも変だし、祈ったお陰で車が故障しませんでしたと言われてもどこか変だしと思ってしまって、結局上手な祈り方が出来ませんでした。
 
 とはいえ、とてもこの事が気になって後で先輩の牧師に相談しましたら、最初に祈ってから、適切なアドヴァイスをすればよかったねと言われて、なるほどと思って反省したことを思い起こします。でも、やっぱり祈れば願いが適う、と、聖書にはそう記されてありますけれど、ならば、キリスト教こそご利益宗教ではないのかということにもなるのではないでしょうか。
 私たちは祈ります。どうそ私たちの家庭を日々平穏無事に、妻を、夫を、子どもを、年老いた母を、父をどうぞ支えて下さいと祈ります。商売をされている方であれば、今日もよい仕事が出来ますようにと祈り、仕事に励むことをします。ですから、お守りはありませんけれど、それでもそう祈るとしたら、やっぱり御利益宗教ではないのかと問われるとしたら、みなさんはなんと答えられるでしょうか。

 そんなことを考えますと混乱する思いになられるかもしれませんが、実はそれほど混乱することでもないのです。私の父親の話を時々いたしますけれど、父親は彫刻師としての人生を過ごしましたが、信仰心も篤く仏教や神道などにも詳しい人だったと思いますが、その中でいわゆる暦と言われる本を詳しく読んでおりました。読みながら、ずっと研究と言う程でもないのですが、厄年であるとか、建てられている家の方向とか、位置とか、今風にいえば風水とでも言うのでしょうか、近所の方が何か困ったことがあると父親に相談しに来るのです。その相談を聞いた父はいつもその暦の本を取り出して来て、その人の名前の字画を数えたり、誕生日や家の方角などを調べたり、相談の原因がどこにあるのかという話をしていました。声の大きい、私とは違って威厳のある声で、例えば、子ども素行が悪いと相談があると、あなたは最近、先祖の墓参りに行っていないでしょう。と言うのです。不思議に当たるのです。それが原因だというのです。墓参りをすれば解決するというのです。夫婦中が悪いと聞くと、庭になにがしかの木が生えているでしょう。生えています。それが原因だから木を切ってしまいなさいというのです。そうすれば解決するというのです。

 わたしは、子ども心に、そんな馬鹿な事があるものかと思って聞いていましたが、それでもいつも困った人がやって来ていました。父親は不思議な人でした。
 でも、だからこそ本当に思うのです。ご利益宗教と呼ばれるような考え方を、なぜキリスト教はそれは違うというのか、子どもの素行が悪いのと、墓参りがどう関係するのですか、夫婦中の問題と庭の木がどう関係するのですか、物事の本質は全く違うところにあるのに、その本質を見ることなく、どうやってその問題を解決しようとするのでしょうか。

 先ほど、コリント書の9節だけを読みましたが、8節にはこうあります。「わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。」ここに「純粋さ」という言葉がありますが、この言葉は「本質」とも訳せる言葉です。あるいは「実体」とも訳せる言葉です。つまり、真実なる愛、最も大切なところの愛、子どもが悪さばかりするのなら、墓参りする前に子どもとしっかり向き合おうとする愛が必要なのです。夫婦の仲が悪いなら庭の木よりも先に、夫として、妻として、しっかりと向か会って話し合おうとする愛が必要なのです。人と人とが本気になって話す、しかも、互いに愛を持って話し合える所でのみ、その本質の問題が、解きほぐされて行くのではないでしょうか。

 勿論、そのために私たちに必要なのは、そうだなと思って、しっかりと向き合おうとする勇気かもしれません。しかし、その勇気は人間の側から、私たちの内側からは中々出て来るものではありません。だからどうするのか、私たちの主は「豊かであったのに、あなたがたの為に貧しくなられた。それは主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」とあります。
 
 このメッセージは、私たちはもっともっと、もっともっと豊かになれる。神が貧しくなって下さったほどに、私たちを徹底的に、その実体を持って命をかけて愛して下さったのだから、私たちはもっともっと豊かになれる。それは金持ちになれるとか、贅沢が出来るというものとも違う豊かさです。美味しい食事が出来るとか、豪華な服を沢山着られるとも違う豊かさです。

 以前にも申しましたが、私は、私の年代は高度経済成長時代に子どもの頃を過ごしています。だからかもしれません。私自身、物があるのは幸せだと思っていました。無いよりはある方が良いと思っていました。持っていることは成功の印だと思っていました。でも、そうではありませんでした。物はいくらあってもそこに幸せはありませんでした。少しも豊かにはなりませんでした。
 もっと言うと、私たちはというと、お怒りになる方がおられるかもしれませんが、でも、日常の生活の中で、幸せではないから、心に愛が無いから、人生が潤っていないから、物が欲しいのです。寂しいから、辛いから、子どもたちは毎日ゲームを欲しがるのかもしれません。大変だから、本当にきついから、苦しいから世のビジネスマンは、夜まで遊ぶのかもしれません。そして、それらをあたかもお守りにするのではないですか、でも、それらは全部偽物です。本当に潤っている人ほど、物ではないことを知っているのだと思います。

 私たちは一体何に富むのでしょうか、一人ひとり違うでしょう。学生は成績に富みたいと思うでしょう。お母さんは子育てに富みたいと思うでしょう。お父さんは仕事に富みたいと願うでしょう。人によっては健康に富みたい、財政的に富みたい、色々と願うことでしょう。でも、そのすべてが敵いますよ。全てが敵います。なぜか、キリスト教は御利益宗教ではないからです。

 どういう意味ですか?すべての愛は、私たち人間の側からではなく、貧しくなられた神、主イエス・キリストの側からやって来るからです。私たち人間の力では出来ないし、私たちの努力だけでは無し得ないし、私たちだけの勇気だけでは越えられない、私たちだけでは出来ない数々の中で私たちは生きているのです。私たちは完全ではありません。
 けれど、神の力が、貧しくなられた神が、あなたがたはそのすべてに富むことが出来ると話して下さる方がおられるのです。全ての私たちが豊かになる秘訣は神の側からやってくるのです。だから、私たちは豊かに富むことが出来る。いや、既にそのように豊かに生きておられるお1人、お1人がここにおられます。私たちはその豊かさを感謝して、そして出来るなら多くの人々と共にわかちあって、生きていきましょう。

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