日本キリスト教団 大塚平安教会  

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

あなたがたは世の光

2017-06-23 13:58:26 | 礼拝説教
【マタイによる福音書5章13~16節】

 昨日は、町田にある保育園で理事会がありまして、土曜日でしたが出席して参りました。保育園の理事を受けて15年となりますが、その保育園の理事長先生は現在85歳となりました。その先生が現役を退かれるまでは私もなんとか引き受けてと思っているのですが、昨日はなぜ出席したのかというと、これまでの理事であった方が一人は天に召されて、一人は病気で外に出られなくなりまして、わずか5~6人の理事会ですけれど、人の構成が大分変りまして、いつの間にか私は古い立場の人となってしまいました。

 実際の所、無くられた方は弁護士をされておられた方、病気になられた方は、国の内外に保育園、幼稚園を経営して、行政にも詳しい方、私は実際は殆ど何も知らないのに、私が残るなんてと思いながら出席して来ました。私が残っても良いのですかと一応話すのですが、お世辞でも、もう是非これからも宜しくお願いしますと言われるのです。何の役にも立ちませんけれど、と申し上げても、そんなことない、とりあえず頭数が大事ですから、とも言われない。(笑)先生、とにかくお願いしますと言われるのです。
 
 私がしている役割は、深刻な話だとしても、財政的な話だとしても、とにかく、そばでニコニコしていれるだけです。でも、それで良いと言われるのです。この思いは母親の性格を受け継いだのだとも思っています。そう思いますと、幾らでも役に立つのかなと思うのです。

 昨日は、今年も理事として一年行いますという「就任承諾書」にハンコを押しながら、久しぶりに私が何年も前に記した自分の履歴書に目を通しました、事務の方が変更があれば変更して下さいと言われましたので、変更しても良いのですか聞いてみました。学歴と職歴はダメなようです。(笑)
 
 でも、改めて履歴書を見ていまして、自分の人生も色々であったと思いました。私は高校を卒業した後は、成績もそれほど良いわけでもなく、家庭に財政的な余裕もなく、ですから進学は諦めました。その時、同級生で就職した人は4人だけでした。当時は役場に行くとか公務員になるという道も今ほど困難でもなく、道はあったのですが、手に職をつけて生きていこうと思いまして理容師になりました。
 ですから今でも理容師の免許証はきっとどこかにあるはずです。けれど数年働いて、その仕事が自分のものではないなと思いながら、でも、人生って自分の思い通りにはならないものだしなと思いながら、でも、生きていくってこういうことだろうなと思うと、どんどん苦しくなっていくのです。ただただ辛いと感じていくのです。

 そんな辛さを感じながら生きている時に、聖書との出会いがあって、「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」という御言葉を読むのです。「あなたがたは地の塩である。あなたがたは地の光である。」

 この御言葉は、イエス様が、話を聞こうとして集まっていた弟子達、さらにその弟子達の周りにいた多くの人々に対して話して下さった御言葉です。多くの人々は恐らく経済的には貧しかったと思います。でもそんな人々に対して、あなたがたがは地の塩、世の光だよと話して下さった。
 今、ここで私が、「塩の大切さ」について、あるいは「光の大切さ」について改めてお話する必要はないでしょう。
「あなたがたは地の塩である、あなたがたは地の光である。」

 私はこの「である」と言う言葉に心が惹かれます。あなたがたは「地の塩」となりなさいと話されたわけではありません。あなたがたは「世の光」となりなさいと言われたわけでもありません。主イエスが人々に対して、今、あなたがたは貧しい生活を送っているかもしれない。苦しい生活をしているかもしれない。
 でもそこから抜け出すために頑張りなさいと、人々を励まし、諭していたわけではないのです。

 今あるその状態で、そのままで、あなた方は「地の塩」であり、「世の光」だと言うのです。「である」という言葉、英語では「~である」と言う言葉はbe動詞が使われます。Be動詞は「存在」を現わす言葉であると私達は中学生の時に教わります。
 イエス様が人々に話されたことは、私たち一人一人の「存在」を神が、「地の塩」、「世の光」という言葉を用いて認めて下さっているという事だと思うのです。

 この主イエスの絶対的な、一人ひとりの存在を肯定する力は、何にもまして力強いのです。

 先週、私たちの教会は特別伝道礼拝を行いました。安積力也先生という先生にお出で頂いて話を伺いました。長年、学校の、特にキリスト教教育の教育者として、具体的には教員として、教頭として校長として、過ごして来られた方の話ですから、より具体的で、色々と考えさせられました。全てが終わって帰宅しまして、家族に話しました。「今日の安積先生良かったね~」と話しましたら、中3の娘がこんな話をし始めました。「安積先生、現代の若者の、特に20代とか、30代の25%の人は、本気で死んでしまいたいと思ったことがあるって言っていたよね。」「そうだったね」「でも、私一回もそんなふうに思ったことない」と言われてしまいました。確かに25%と言えば、「四人に一人は死にたいと思ったことがあるけど、四人に三人は思ったことが無いんだね、と言って笑いました。」
 
 娘が私も死にたいと思っていたと言わなくて良かったと思いましたが、でも、後で私自身のことも考えてみました。

 実際、私もこれまで色々な人生があったけれど「死にたい」と思ったことがないな、20代の頃に、あんなに辛い、苦しい思いをして生きていたのに、理容師をやめて、でも、塾にも行かないで、殆ど誰からも教わらないで、NHKのラジオの講座を毎日聞きながら、勉強して、勉強して、勉強して。
 今度私が卒業した、学校で、勉強することはどういうことかの話をするのですが、簡単です。ただ一生懸命に、背水の陣を敷いて臨むだけなのです。
 
 私はこの「背水の陣を敷く」と言う言葉が大好きです。目指したもの以外のすべては必要ではないという思いに至るということです。この話についてもいつかお話が出来ればと思いますが、受験生とかに話せればよいかとも思いますが、とにかく、お金もない、体力もない、学力もない、でも、だからこれ以上、後ろには下がらないはずだと思いながら、その当時やれるだけのことはやったようにも思います。

 その当時の、私の気持ちはどうであったのか、「生きたい」、「生きてやろう」「生きていくぞ」なぜなら、人は誰も肯定してくれないし、誰も助けてくれないし、親も家族の誰も応援もしてくれないけれど、主なる神が、あなたは地の塩である、あなたは世の光である。と言っておられる。神様が応援してくれている以上は、私は生きていける、そんな思いであったと思います。

 私たちは、生きていく中で、育ってくる中で、特に日本の私たちの文化の中では、力の出る言葉、元気の出る言葉、肯定される言葉を聞きながら育てられるということはありません。自分の妻のことを愚妻と呼び、子どものことを愚息と呼んだりする。嫌な言葉です。

 生まれた赤ちゃんが初めての言葉を発するのに、凡そ八千時間必要だと言われます。日にちに直すと333日、すなわち一年はかかるということです。
この一年の間に、赤ちゃんはどんな言葉を聞きますか、妻と夫が、家族が、互いに愛し合い、笑い合い、支え合い、喜び合い、あなたの存在がどんなに愛おしいかという様々な言葉を聞きながら、育った赤ちゃんが発する言葉は、自ずと、喜びに満ちた言葉となることでしょう。
 互いに生きることが、どんなにか素敵かと思いながら、話す言葉をもちいるのなら、自ずと、生きていくって素晴らしいと思いながら、赤ちゃんは話し始めることでしょう。だから、その逆もあり得ることでしょう。

 こういう話をしますと、礼拝が終わった後に、よく言われます。私が子育てする時に、聞きたかった、もう遅いわ。遅くありませんよ。人はいつからでも生き直せます。先週、安積力也先生は、フランスの哲学者でもあり、教育者であったルソーの言葉を教えて下さいました。「エミール」という書物に記されている文書ですが、「人は二度生まれる」とあります。正確にはこう記されています。「はじめは人間に生まれ、つぎは男性、女性に生まれる」この言葉の意味は、一回目の誕生は、実際に母親の胎から生まれること。二回目は自分が何者であるのかと知る時が来るという意味です。自分が女であること、自分が男であることを知る。

 それはすなわち思春期を意味します。自我が生まれ、自分で自分であることを知り、自分でありたいと求めてもがく時でもあります。

 その時が、教育をうける大切な時であるとルソーは教えました。人は自分が自分であると知ると、次に、自分以外の他人に、特に友達に、また異性に関心をもつようになります。それは大切なことです。そして関心を持ち始め、関心を持ちつつ人間関係を営む中で、関心を持てば、持つほどに、逆に「如何に自分がみじめで、不幸で、悲しみを負っていて、欠乏しているのか」を知るようになります。でも、それだけでもない、その時期に更に知るのは、自分以外の多くの人もまた、それぞれに、弱さを抱え、悩み、苦しみを背負っているのだと知って、そして、そのために互いが支え合わなければならないと感じるのです。
 
 互いが支え合いながら生きていかなければならないと感じる、だから生きていこうと思う。共に生きていこうとする。その生きていこうと決意することが、二度目の誕生だと言うのです。

 でも私は思います。人は二度でも、三度でも、四度でも、何度でも生まれます。なぜか、神がこの私を肯定して下さるからです。あなたの状況がどうかではなく、あなたは地の塩である。あなたは世の光である。その存在がどんなに愛おしいのかと伝えて下さるからです。収入が幾らかではなく、会社の立場はどうかではなく、家庭が上手くいっているのかではなく、健康であるのかでもなく、あなたは地の塩であり、あなたは世の光、50歳でも、60歳でも、70歳でも、80歳でも、あなたは世の光、あなたは地の塩、そう伝えて下さる方がおられる以上、私たちは、力強く生きていきましょう。そうか、私は主なる神から大いに愛されている、大切にされていることを感じて、喜びを持ってこの一週間も過ごして参りましょう。                           
お祈りします。

コメント

「元気が出る」

2017-06-09 11:03:08 | 礼拝説教
使徒言行録2章1~11節
マタイによる福音書12章14~21節

2017年の、ペンテコステ礼拝を迎えました。今日の説教題を「元気が出る」といたしました。何かストレートなタイトルにしたかなと思いますが、でも神の聖霊の働きとは、一言で言うとすれば私たちを元気にして下さる力だろうと思うのです。
主イエスの弟子たちのことを思いましても、この聖霊降臨、ペンテコステの出来事によって、弟子たちが力付けられたからこそ、主の福音が世界へ向けて発信されはじめられたのだと思うのです。

 私たちは一言で神を信じると申しますが、日本の多くの方が信じている神様も、キリスト教が教えるところの神様もどっちも同じ、神、普通名詞で神様ですからね、なんとなく有難い、でも恐れ多いということにおいては変わりがないだろうと思っている方々が多いかもしれません。でもキリスト教が指し示す神様はどういう神かというと、父なる神が子なる神である固有名詞としてのイエス・キリストを誕生させて下さり、この方が私たち人間にもよくわかる姿で、この地上で福音伝道を展開されたことによって分かるのですよと教えます。

 その出来事は今から2000年前の出来事ですが、聖書を読んで主イエスの御業や御言葉を知り、この方こそ私たちの救い主と信じるに足ると思われている方も大勢おられます。更に、主イエスの十字架の死という出来事によって、すなわち、私たちの人としてのどうしようもない、傲慢さや罪や人としての幼さ、未熟さ故の欠けの全てを負って、しかし、父なる神の前に私たちを罪無しするために、付けられた十字架の業、を信じることによって、私たちは救いを得ることが出来るとも言えます。
更には、十字架の死から三日目に、全てが終わったと絶望に打ちひしがれていた弟子たちの所へ復活されて主イエスが現れて下さり、死にさえも勝利される神の姿を示して下さり、どんな絶望のその先にも確かな希望があると教えて下さった、そこからもそうだ、この方を信じようと決心された方もおられるでしょう。
 
 けれど、大切なのは、この一連の出来事が、主なる神の御計画であり、私たちには必要だと知るためには、聖霊なる神の力が必要であるということではないでしょうか。主イエスは救い主である。この方こそが、死から復活された方である。この方によって私たちはいつでも、どんな時でも元気を出して希望を持って、歩むことが出来るのだと共におられて、励まし続けるのが聖霊なる神、この聖霊の働きによって人と人とが繋がって、教会が誕生しました。ですから、ペンテコステは、教会の誕生日でもあると言われます。

 誕生日といいますのは、幼稚園でも毎月の誕生会を行いますし、子どもの教会でも毎月行いますが、誕生日の何が良いのかというと、やっぱり祝ってもらえることだと思うのです。自分の誕生日を自分で祝う、それもあるかもしれません。でも何が楽しいかと言うとおめでとうと祝ってくれる人がいる。自分の事を祝ってくれる人がいる。これはね、子どもだからとか、大人だからということを超えて、誰もが嬉しい事であると思います。それは、ここにあなたがいてくれて私も嬉しいというメッセージだからです。そのようなメッセージを受けると、人は本当に元気になります。

 五旬際の日に、弟子たちが一つになって集まっているとき、神の聖霊が弟子たちの所へ降って来て、一人ひとりの上にとどまりました。すると、一同が聖霊に満たされて、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。とあります。

 ほかの国々の言葉でというのは、より話が通じるようになったということでしょう。一月ほど前でしょうか、教会に「広報えびな」という広報誌が入っていました。この教会は綾瀬市なのか、海老名市なのか配る方も、迷うと思いますが、それを見ておりましたら、大人のための初心者英会話教室開催の情報がありました。それで、私も初心者英会話なら、参加したら楽しいかなと思いまして、なんとなく申し込みました。それで、先週の金曜日の夜が第1回目でした。私を含めて5人のクラスでしたが、これがまた本当に全員が初心者で挨拶からスタートです。挨拶からスタートと言っても、全員が初心者ですから、何をどう言っていいのか分かりませんので、中々会話が広がっていきません。先生が本当に忍耐して下さっているのが良く分かるのです。なかなか元気が出ないのです。
 それで、ちょっとがっかり感をもって帰宅しまして、改めて使徒言行録のこの箇所を読みまして、「すると、一同は聖霊に満たされて、霊が語らせるままに」色々な言葉で話し出して、聞いた人々が驚いたという場面を考えさせられました。言葉が通じるって大事だなぁ。

 言葉がわかるという意味は、心と心が繋がるということでしょう。心がつながるとは話している言葉もそうですが、その語る思いを理解できたということでしょう。特に、聖霊に満たされた弟子たちが告げるその言葉とは、主イエス・キリストこそ、私たちの救い主である。この方こそ、私たちを救いに導いて下さる方ですよ、という言葉でしょう。主イエスの業と教えと十字架と復活の出来事は、真のメシアとしての姿であったと力強く、また、迷いなく語るその心に人々は大いに惹き付けられたのではないでしょうか。

 聖霊を受けると、人は元気になります。主の弟子として主イエスと共に歩んで来た弟子たちの一人ひとりが、主イエスが捕らえられ裁判にかけられ、十字架刑にされてしまう。弟子たちはどんなにか落胆して、失望したことでしょう。けれど、その三日後に主が復活された。彼らはどんなに喜んだことでしょう。でも復活された主は、40日の間、弟子たちと共におられましたが、40日後には天に昇られてしまいました。
再び、弟子たちはここで心を落とすのです。復活された主が共にいて下さると信じていたのに、天に昇られた、これから自分達はどうすれば良いのか、しかし、今回は心を落としながらも一生懸命に祈りました。その祈りの結果、その先に聖霊降臨の出来事が起こりました。聖霊体験とも申しますが、すなわち、この自分を、神は少しも忘れてはおられなかった。この自分を徹底的に受け入れ、肯定して下さった。そういうメッセージを受け取りました。
この出来事によって弟子たちは決定的に元気になりました。と同時に、自分達が何をなし、これからどう生きていくのか、それが明確になった時でもあったと思います。
 
 聖霊を受けて、弟子たちはそれぞれの国の言葉で語りだしました。ところが、人々の反応はどうであったのかというと、12節、13節を読んでみましょう。「人々は皆驚き、とまどい、『いったい、これはどういうことなのか』と互いに言い合った。しかし、『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた。」とあります。

 この言葉が意味しているのは何か、不思議なことに、元気が出る、それは良い、でもその次は、元気が出る力をはばむ何かの力が働くのだということです。
 どういうことか、難しい話ではありません。先日、家内が久しぶりにクリーニング店に行くと言うのです。行くけど何か出すものがあるかと聞かれたので、丁度良いから、冬物のスーツを出してくれと頼みました。内心はやっと出そうと決死したのかと思っておりましたが、特別何も言わず、宜しくとお願いしたのです。出かけて以外と早く帰って来ましたので、早かったねと声をかけたら、「今日、休みだった。」不思議なことに、決心をはばむものあるということです。何も大きなことではないのです。そばをゆでて食べようとしたら、そばつゆが無かったとか、明日はジムに行こうと思って決心したら、体調が悪くなったとか、日曜日に教会行こうと思っていたら、何かの用事が入ってしまう。不思議なことに、まるで何か迫害のようにしてやって来るのです。
 
 弟子たちは聖霊に満ちて、元気が出て、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えようとしたのです。けれど、必ずのように、あの人たちは酔っているのだと、いうようにして、その元気さをはばむ何かがあるのです。
 この力によって、人はせっかくの決意を持っていたにも関わらず、やっぱり止めようかなと思う。英会話教室に行くと言いましたら、なんであんたが行くの、一人で外国にフラ~っと行く人が、なんで初心者のクラスに行くのと言われました。そうかもしれないと思いましたけれど、人に言う程上手くはないのです。
 だから丁度良いと思い返してやっぱり行ってきました。それでも行く直前になると、やっぱり忙しいからやめようかなと思う。やめるというより、逃げたくなるんですね。決意をはばむ何かの力によって、迫害のようにしてやってくる力はやめたくなる、逃げたくなる、そして、戻りたくなるのです。こんなことなら、申し込まなければよかったと、戻りたくなるのです。
 
 あの出エジプトの出来事を考えると良く分かります。イスラエルの人々が、エジプトの地で奴隷として働かされて、その苦しみの故に叫ぶ声を主なる神が聞いて、モーセを指導者として、エジプトの王と対決しながらも、ついに出エジプトの出来事を果たすのです。けれど、すぐに後悔したエジプトの王は、イスラエルの民を捕えて連れ戻すために、軍隊を派遣する。エジプト軍に追われて逃げるイスラエル、しかし、逃げたその先には、広大な海が待っていました。前は海、後ろはエジプト軍、その中で、イスラエルの民はモーセに不平、不満を語ります。私たちは殺されるために、エジプトを出たのか、これならまだ、エジプトに仕えるほうがましだったというのです。その声を聞きながら、モーセは持っていた杖を高く上げて祈りました。すると海が二つに分かれて道が出き、イスラエルの民は生きながられることが出来た物語です。しかし、その後も、イスラエルの民は、喉が渇いたとモーセを困らし、お腹が減ったとモーセを困らし、こんなことなら、エジプトの方が良かったと、すなわち、戻りたい、戻りたいと訴えるのです。

 決心したにも関わらず、今のこの時が苦しいと、やめたいとか、逃げたいとか、戻りたいとか、誰かに頼りたいとか、そして、最後には死んでしまいたいとさえ思うのではありませんか。死んでしまえばあとは悩まなくていいわけですから、死んでしまいたい。人はそのようにさえ思うものです。だから、そのように祈ることです。神様、私は決心しました。あなたの道を歩もう、でも、苦しみもあり、止めたいと思い、逃げたいと思い、戻りたいと思うのです。最後には死んでしまいたいさえ思うのです。
 そのような時こそ、神の聖霊が働かれる時であると思います。聖書は「死ねば生きる」と記します。主イエスはこう話されました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」神様、私はあなたを信じて、過去の自分、これまでの自分に死んで、あなたと共に生きる人生を生きていきます。どうぞ、私をあなたの弟子にして下さい。そう祈って、祈って私たちは主イエス・キリストの弟子になりました。その弟子たちの所へ、聖霊は降りました。

 どんな状況にあっても、止めたいとか、逃げたいとか、戻りたいと思う私たちの所へ、時には死にたいとさえ思う私たちの所へ、神の聖霊がやってきて、私たちを包み込んで下さいました。
主イエスが捕らえられた時、逃げてしまった弟子たちでした。主が十字架につけられている時、あなたもあの人の仲間だと言われて、呪いの言葉さえつぶやきました。十字架で死なれた時、全ては終わったと弟子たちは思いました。復活の主イエスと出会い、喜んだのも40日間でした。主の昇天はどんなにか弟子たちを悲しませたでしょうか。何度も、何度も、喜んだり、悲しんだりの人生でした。でも、祈りの中で与えられた聖霊によって、すべてを超えて元気をいただきました。神様、私はもう、大丈夫です。あなたの聖霊によって汲めども尽きない泉のように、心からの元気を頂きました。どんな人生でも主が共にいて下さいます。だから、安心して今日も生きていきますと私たちは祈り、そして、聖霊降臨の出来事を感謝を持って過ごして参りましょう。

お祈りいたします。

コメント

唯一の主

2017-06-02 15:52:14 | 礼拝説教
【ルカによる福音書24章44~56節】

 ルカによる福音書の最後の箇所を読んで頂きました。ルカによる福音書の最後の箇所は復活された主イエスが「天に上げられる」という場面でありました。今年で言いますと先週の木曜日が主イエスの昇天日となりますが、50節にどのようにして天に上げられていったのかが記されています。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」主が天に上げられる時、手を上げて弟子たちを祝福された場面です。

 祝福された弟子たちはどうであったのかが52節以降です。「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」

 神をほめたたえる弟子たちの姿が分かります。主なる神から見れば弟子たちを祝福する。弟子たちから見れば神をほめたたえる。神と人との豊かな交わりを感じる良い聖書箇所であると思います。

 注解書に興味深い指摘がありました。ここに記されている、「祝福する」という言葉と「ほめたたえる」という言葉は同じ言葉である。なるほどと思いまして、英語の聖書で確認しましたら、確かにどちらも同じ言葉が使用されていました。ですから、神が人をほめたたえ、人が神を祝福するでも良いということでしょう。ただ日本語的にはそれでは具合が悪いので、神が祝福する、人は神をほめたたえるとなったと思われますが、更に興味深いのは、注解書は、そのもっと元となる言葉の意味は「良い言葉を語る」ということだとありました。

 主イエスが弟子たちに対して、良い言葉を語る時、それが祝福の言葉となり、弟子たちが神に対して良い言葉を語る時、それがほめたたえるのだと言うのです。
 相互に、自分の側から、相手に対して良い言葉を語る時、そこに見えてくるものこそ、祝福であり、ほめたたえること。とても大切だと思います。

 振り返りまして、私たちは日頃、どこまで良い言葉を語りえているのかと思います。先日、娘の学校で1学期の中間試験がありまして、その対策の為にお父さん一緒に勉強しようというのです。教えてくれではなく、一緒に勉強しようという、どういうことかなと思いましたら、社会の教科書を私が適当に読んで、色々と質問してくれというのです。試験個所は第一次世界大戦からベルサイユ条約やワシントン会議といった、近代社会の歴史でありました。
日本という国が韓国や中国に対して領土を拡大していく様子なども記されてありました。日本は1910年~1945年までの35年間、朝鮮総督府を置いて、実行支配したわけです
 けれど、韓国もだまって支配されたままではありませんで、幾度も独立運動が繰り返されたものと思われます。その中で最も知られているのが1919年3月1日に起こった独立運動でしょう。そのことも教科書に記されてありました。そのような独立運動に対して日本は立ち上がった韓国の人々にして鎮圧したと記されていたのが、気になりまして、娘にこれは「鎮圧」ではなく、「弾圧」だと思うよと話しましたら、だって教科書にそう書いてあるから、弾圧と書いたら〇がもらえないというのです。その通りだと思います。教科書そのものも、ここに弾圧と記したら教科書検定で指摘されるわけですから、鎮圧としか記されないと思います。
 
 そこで、娘に、三一運動の中で起こった、教会焼き討ち事件の話をいたしました。韓国の独立運動の指導者の中心は宗教的指導者です。仏教でも、キリスト教でも、僧侶であり、牧師でありました。ですから当然、韓国の教会は目を付けられていまして、日本語では「堤岩里キリスト教会」という教会に、地域の人々23人が集められて、日本兵がその人々を射殺し、そして教会そのものを焼き払ったという事件です。教会関係者には良く知られている事件でもあります。その話をしましたら、娘は怒り出して、なぜ教科書は本当のことを書かないのかと文句を言い出しました。

 けれど、歴史と言いますのは、どこからその出来事を見るのかということでもあります。同じ出来事であっても、韓国から見る視線と日本から見る視線では物事の解釈や考え方に大きな違いがあります。数年前に、神学校の関係で韓国に行きました時に、韓国の独立記念館を見学しました。そこにはひたすら日本兵が韓国の住民に対して拷問や弾圧をし続けている写真や模型が沢山飾られていました。こういう所は、絶対に観光地のルートにはならないだろうと思いながら見ていました。
 けれどまた、広島、長崎の原爆のことを考えれば、日本からすればとんでもない出来事ですが、アメリカから見れば、戦争を早く終わらせるのには原爆は必要であったと考えるアメリカ人が圧倒的であろうと思います。同じ出来事だとしても、どの視線から物事を見るのかによって物の考え方が変わる、それが歴史を学ぶことでもあるのだと、娘に話しました。
 そう話しましたら、お父さん、それじゃいつまでたっても私たちは平和に生きられないね、と言われてしまいました。
 
 でも、その通りだと思います。それぞれに生まれも、育った背景も、考え方も違う一人ひとりが、それぞれの都合で、それぞれの思いを主張し始めるとしたら、そこからどうやって平和を導き出せばよいのかわからなくなります。しかもそういったことは、本当は、ごく身近な問題です。何も特別に歴史を学ばないとしても、私たちは日常生活の中で、家族の中で、親としての主張と、子としての主張とがあり、学校では先生として、生徒としての主張があり、職場では上司として、しかしまた、部下として、それぞれの立場から物事を考え、また話すのだろうと思います。それぞれの立場で、時には怒りを感じ、喜びを感じ、苦しみを感じる。私たちの社会がどんなに技術文化が進んでいるとしても、その社会を営んでいるのは機械ではありません。命与えられ生きている私たちが、人と人との火関わりの中にこそ、私たちの社会があるとも言えるでしょう。

 そんな社会の中で、家庭で、幼稚園で、学校で、職場で、夫婦で、親子で、どんな言葉、どんな会話を私たちはしているのか。大切なことは、神が祝福し、弟子たちが褒め称えたように、つまり、主と共に歩む者は「良い言葉」を語ることによって人生を営むのだということでありましょう。
ルカによる福音書の最後の箇所において、神が弟子たちを祝福される、弟子たちが神をほめたたえる。そのようにして、私たちが生きていく。その営みの大切さを示すためにも、この福音書が記されたのであるとも、ルカは考えたのではないでしょうか。

「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」更に、もう一つ大切な御言葉は、「絶えず神殿の境内にいた」という御言葉です。次週のペンテコステ礼拝から今年も早くも6月になります。私たちの教会が新しく建てられまして、献堂式を行いましたのは2年前の2015年の6月28日のことでした。
 
 もうすぐ、早くも丸2年目を迎えようとしています。振り返ればあっという間であったと思いますけれど、しかし、この目に見える会堂を立てるために、私たちにどうしても必要だったのは、目に見えない教会、主にあるエクレシア、信仰共同体を建てていくことであったと思います。私たちはこの目に見える会堂を建てるにあたって幾度も話し合いましたし、また、乗り越えなければならない課題が幾つも与えられていました。今から思うと、よく乗り越えて来たと思います。勿論、神の導きがなければなし得なかった業でありましょう。

 3週間ほど前の礼拝に、Yさんという方が礼拝に来られました。横浜山手キリスト教会の会員の方です。会堂建設について、表のタイル画や、教会のステンドグラスについて関心があっって来られたようですが、今、横浜山手キリスト教会は、会堂を取り壊して、いよいよ着工に取り掛かろうとしています。昨年は教会員、大勢の方々で見えられました。場所については良くわかりませんけれど、横浜の石川町から歩いて3分、関内から歩いて12分とありましたから、きっと素敵な場所に建っているのだと思います。でも、写真で見ましたら、とても高い場所に建てられているのです。私たちの前の会堂も高い場所でしたが、それどころではなく、下の道路からは見上げるような高さにある教会です。ですから、壊すにも建てるにも相当大変だと伺いました。そんな訳で余計に私たちの教会建築に関心があったのかもしれません。

 様々な課題が与えられる、でも、その課題を通して、私たちが建てて来たのは、確かにこの教会であり、この会堂であったと思いますけれど、それ以上に、私たちは主にあって、学んだことは、私たちがどの立場から見て、考えるとしても、そうだ、この会堂を建てていこう、主にあって一つになろう、という力が働いてこその会堂建設であったということであったと思うのです。
どうして古い建物ではなく、新しい建物なのか、私たちが建てようと決意した際に、意見の中にこれまでの建物でも良いのではないかという話はなかったと思います。ですから、余計に話が前に進んでいったわけですが、どうして新しくするのか、この場でこの建物で誰もが、「絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえるため」であったことは間違いありません。すなわちそれは、互いに「良い言葉」を語り続けることでありましょう。

 私たちの日常生活の中では、時として語りえない「良い言葉」を語る場所がこの場所なのです。
 先日、5月の青年会では、海老名市出身の信仰の先達である大島正健について、学び、ゆかりの場所を尋ねることをしました。大島正健は、海老名の中新田に生まれ、非常に優秀な成績で札幌農学校、現在の北海道大学の一期生として北海道に渡りました。
そこで、出会ったのがクラーク博士であり、二期生として入学してきた内村鑑三、新渡戸稲造でありました。彼らはクラーク先生の元で、信仰を学び、キリスト教信仰に生きた人々でもありました。しかし、このことは初めて知ったのですが、クラーク先生から洗礼を受けたわけではなく、それぞれがそれぞれに通っていた教会で洗礼を受けたようであります。
 ですから、人によっては自ずと聖公会の教会員となり、人によってはメソジストの教会員となっていく。当時、激しかったと言われる、いわゆる教派争いに巻き込まれて行くのです。そのような争いを見るにつけ、自分達はクラーク先生から信仰を受け継いだ者として、一つになろうと決意するにいたったとありましたから、そこからもしかしたら内村鑑三が伝えたところの無教会主義的な考え方が生まれたのかもしれないとも思います。

 2週間後に、山形のキリスト教独立学園の校長された安積力也先生をお迎えしますが、独立学園という学校は、内村鑑三の弟子のひとり、鈴木弼美先生が創設した学校ですから、恐らく大変詳しいと思いますので、聞いてみたいとも思っております。
そこから分かることの一つは、日本のキリスト教は、必ずしも様々なキリスト教の教派同士が争うようにして伝道することが良いことではないということではないでしょうか。

 すなわち、大島正健にしても、内村鑑三にしても、多くのクラーク先生の弟子たちが、教会で聞くことが「良い言葉」ではなかったということでしょう。
 人は「良い言葉」を聞きたいのです。自分が力づけられるだけでなく、相手にとっても力となり、励みとなる言葉を聞きたいのです。祝福となる御言葉を聞きたいのです。その「良い言葉」とは何か、それは、私たちが信じる、唯一の主は、主イエス・キリストであるという信仰の言葉でありましょう。
この新しい会堂においても、今、多くの方々が日々出入りするようになりました。その一人ひとりがいつの日か、主イエスに対する信仰を新たにするように、私たちがなすべきことは主イエスをほめたたえる事でありましょう。主を称え、主の御名はほむべきかな、と語り伝えることでありましょう。
疲れた者、重荷を負っている者は、だれでわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

 この御言葉は私たちの教会の看板に付けられている御言葉です。この会堂に、この教会に、この場で、良い言葉を語る私たちが、これからも尚一層、多くの方々と共に歩んで行けるようにと心から願います。この場が主の聖霊に満たされ、神の恵みの場として、益々祝福されますようにと、心から祈ります。お祈りましょう。

コメント