日本キリスト教団 大塚平安教会 

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祈り

2017-05-24 13:17:34 | 礼拝説教
【マタイによる福音書6章1~15節】


 今日は司式者にマタイによる福音書の6章、主イエスが私たちに「祈り」を教えて下さった箇所を読んで頂きました。どのようにして教えて下さったのか、まず何よりも主の祈りを教えられました。私たちの礼拝でも、祈祷会でも、多くの集会で祈る「主の祈り」、先週の火曜日は幼稚園の年長さんだけで会堂礼拝を行いましたが、会堂礼拝は一年を通じて「主の祈り」の一つ一つの祈りを話していきます。

 毎週の幼稚園の礼拝や、また今日も朝早くから子どもの教会が行われていますが、子どもたちが礼拝に集まり、そしてお話を聞いて、正直申し上げて、幼い子どもたちは、先生方が話す話の内容はまず殆ど覚えていません。大きくなってあの時のあの話がきっかけとなってという話はまず聞いたことありません。中学生位の年代ともなれば違ってくるとも思われますが、でも、何が大事かというと、どの礼拝も、どんな小さな場面でも、先生方が熱心であって、一生懸命であったということは良く覚えているものですし、大きくなり、何かのきっかけとなって思い起こす最初は、讃美歌と、私は主の祈りだと思います。主の祈りを子どもの頃に暗唱しますと、一生の宝となる。だから、どんな時でも私たちは心を込めて「主の祈り」を祈って参りたいものだと思います。

 この主の祈りに先立って、主イエスは祈りの心構えについて教えて下さいました。7節の箇所ですが、「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」とあります。ここで、くどくどと述べてはならないとありますが、英語の聖書で見てみましたら、「無駄な、繰り返しをするな」とあります。

 先日、あるお母さんが相談がと、教会にやって来てこられました。お子さんのことで話を伺いしましたが、話している最中にこう言われたのです。

 私が子どものころは親が何も言わなかったというのです。「勉強しなさい」とか「あ~しなさい」とか「こ~しなさい」と言ってくれなかったというのです。もう少し言ってくれたら私はもっとやったのに、なんで言ってくれなかったのかな。ですから、今子どもに結構言っているというわけですよ。

 この逆の話は良く聞きますね、子どもの頃から、勉強しなさい、片づけなさい、早く起きなさい、肘ついてご飯食べちゃいけないと、あれもこれも何度も何度も言われて育ったから自分はあんな親にはなるまいと決めて、子どもにはあまり言わないようにしていますという話は良く聞くのです。ですからね、言われて育った人は、言うまいと思うし、言われないで育った人は、もっと積極的に言おうと思うようだと、そんな事を感じました。
 この事が何を意味しているのかというと、ある調査で、外国人と日本人の親子関係を調べたのだそうです。そしたら、日本人の2割の家族は親子でよく話をするけれど、8割の家族はあまり話をしない、外国人の8割の家族は親子で話をするけれど、2割は話をしないという結果となったそうです。
外国と言ってもかなりざっくりしていますが、でも、日本人の家庭は全体的には、親子であまり会話をしないということが、体験としてもおわかりになるのかもしれません。

 なぜ、あまり話をしないのか。多くの日本人家庭は、つまり、私たちは親子関係を上下関係のように考えているところがあって、だから親が子に話をするときには、「あ~しなさい」、「こ~しなさい」と話すのはとても得意だけど、同じ目線に立って「お前はどう思うのか」と話したり、会話したり、つまり、親子で会話を楽しむ時間をどれだけ取っているか、考えてみれば良いと思うのです。案外少ないのではないでしょうか。ですから、先ほどのお母さんではないですが、言われても、言われなくても親との会話が楽しかったという思いはあまりなく、くどくどと言われたと思うから言わない、言われなかったのが嫌だったから言う、というふうにね、どちらにしても極端に触れると言いますか、どちらにしても聖書的な同じ目線での会話にならないということではないでしょうか。そこに楽しさや会話による豊かさが無いのです。

 祈る時には、くどくどと述べてはならない、くどくどと祈るのは異邦人のすることだ、私たちは異邦人ですからね、だから特にくどくどと祈ってしまうところがあるかもしれません。勿論、どうしてもこのことだけはという願いや思いがあるでしょう。このことは外したくないという思いもあるでしょう。でも、主イエスは「願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と言われました。まるで、神様、忘れていませんか、このこと忘れていませんか、もしかしたら度忘れですか、念のためにもう一回祈っておきますよ、と言った風ではなく、大丈夫、安心して、神様との楽しい会話のようにして祈ることではないでしょうか。

 そして、二つ目、主イエスは「言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。」と話されました。週報を見ればお分かりのように、先週の祈祷会は二人での祈祷会でした。ですから、祈祷会が存続の危機かもしれません。だから危ないなと思われる方は義理でも出席して頂きたいと思いますが、といえ時間帯も夜ですからね、無理はしないでと思いますけれど、私の経験からしても、祈祷会の敷居は思っているよりずっと高いと思います。集まった方々が一人ひとりお祈りを献げるという形でずっと行っていますから、気軽にお出で下さいと言われて、気軽に行ったら、祈らされて緊張して、大変だったという話も何度か聞いたことがあります。ですから祈らなくても良いですよと、積極的に言うのもおかしいかもしれませんが、でも大切なことは、祈りは「繰り返しでもなければ」、「言葉数でもない」ということです。

 私 が神学生だったころ、ある夏に北海道の教会に、夏季伝道研修に行ったのです。そこで、教会の一週間を過ごしましたが、楽しい経験でしたが、ひとつのことを鮮明に覚えています。祈祷会の時に小さい教会でも、祈祷会は熱心でした。礼拝は20人位だったと思いますが、祈祷会は7人、8人と集まって来るのです。でも、その祈祷会が長いのです。あるご婦人が一人で20分近く祈っておられた。後で牧師が話して下さいました。あの方は、自分の子どもの頃から始まって、教会の歴史を含めて、最初から今に至るまでの歴史を祈りに重ねて祈られるというのです。その教会の皆さんが優しい方ばかりでしたから、きっと見守っておられたと思うのですが、でも、やっぱり「言葉数ではない」ということでしょう。

「言葉数ではない」とはどういうことか、一言でいえば「より少なく祈る」ということです。最近私が毎日のように読んでいる本がありまして「より少なく生きる」というタイトルの本です。著者はジョシュア・ベッカーさんというアメリカの方で、さがみ野のツタヤに行った際にどうしても気になって買ってしまいました。聖書の話なども織り込みながら話が記されていますし、読めば読むほどに気持ちが合うなぁと思いながら、読み進めていきましたらこの方は教会の牧師でした。余計に夢中になって読みました。中身はそんなに難しくないのです。

 人生に本当に必要な物はそんなに多くは無いし、むしろ先進国と呼ばれる国に住んでいるほとんどの人は必要以上の物を持ちすぎて、逆に不自由に生きているというのです。なるほど、そうだなと本当に思いました。ですから手放すことのようです。
 その本には「ものを手放すことで得られるメリット」という項目がありまして、物を手放すと、「時間とエネルギーが増える」「お金が増える」「人のためになることができる」「自由が増える」「ストレスが減る」「環境にやさしい」「質の良いものを持てる」「子どものいい手本になれる」「人に面倒をかけない」「人と比べなくなる」「満足できる」といった具合だそうです。読みながら、本当に納得してしまいました。

 でも更に納得しているのは物を手放す勇気とはその物に込められているプライドを捨てることだと言うのです。例えば本を沢山持っている人は、その本にプライドがあるからだと言うのです。なるほどそうだなと思いました。ですからね、私も、今少しずつ、牧師室の本も本当にいる本とそうでもない本と分けたりし始めました。片付けというのは、整理整頓すると言うよりは、減らすということだともありまして、そのことも本当にそうだなと思うのです。
祈るときも、私たちは時として、言葉数が多いのかもしれません。あのこと、この事ではなくむしろ大切な一つに集中するようにして祈る。

 主イエスがティルスとシドンの地方にいかれた時に、カナンの女性が近づいて、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」と願いました。主は「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」と突き放すように話されましたけれど、「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と言ったその言葉に主イエスが感動して、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるようにと言われました。この女性の姿は祈りそのものではないですか。自分が今、本当に必要で大切なことは何か、集中する祈りが私たちに必要なのだと思うのです。

 祈る時には「くどくどと祈らない」そして「言葉数ではない」三つめは、「彼らのまねをしない」ということです。
時々、質問されます。「先生、祈る時はどう祈ればよいのでしょうか。」私が若い頃に教わったのは、祈りの最初に「在天の主なる父よ」と祈り始めて、「この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります」と祈りなさい、と教わりました。ですから、そのようにとお話します。特に祈祷会や、集会などでもこのような手順を踏みますと、まわりの方も共にアーメンと唱和できますからね、非常に分かりやすいわけです。ですから、祈り、に限ることではありませんが、多くの物事、その最初は「まねる」ことから始まるのだと思います。勉強する、仕事をする、楽器を何か演奏してみる、やっぱり手本があり、師匠がいて、その手本や師匠にまねる。祈りもね、ですからいい祈りを祈られるなぁと思う方の祈り、自分もあんなふうに祈りたいなぁと思うと、やっぱり言葉遣いとか、祈り方とか自然と似て来るのだと思います。

 でもね、私たちは、どんなに立派な師匠がいて、あの人のようになりたい、あんなふうに生きたいと思っても、全く同じように出来るわけではありませんし、自分はその人と同じ人生を生きていけるわけでもないと気づいて、気づいた時に、まねることを超えて、自分ならではの人生を生きる、そのことが求められているのではないでしょうか。

 自分ならではというのはどういうことか。聖書では主イエスはこう言われています。「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。」なぜ、異邦人がくどくどとまた、言葉数が多い祈りをするのか、そうすれば、神様が自分達を認めて下さるに違いないと思うからでしょう。

 こんな長い祈りを祈れば、神様、お前は立派だと認めて下さるだろう。豊かな言葉数で祈るならば、神様だけでなく、周囲の皆も大した人だと言ってくれるだろう。そんな思いで祈る祈りが異邦人の祈りだと言っているわけです。だけど、あなた方は、そんな思いをまねするのではないということです。
なぜなら、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じである。」とあります。

 
 私の思いは、既に祈る前から神様がご存じである。つまり、私の存在は神様から与えられた命であって、お母さんの胎に宿る前から神様の愛があって、何と言われようとも、私の命は、その価値は誰とも変えられない、一切変えられないのだと信じられるということでしょう。だから祈る方法でもなく、祈る言葉でもなく、ましてや長さでもなく、大切なことは祈る心。その信仰を支えるのは自分ではなく、神様あなたですと素直に認め、そのように祈れるということでしょう。
 だから、そうか、こんな自分だけど、神様はこの自分を招いて下さり、そのままで良いから、私の所へ来なさいと言って下さっているのだなと、受け入れることです。
 こんな自分ではだめだと思い、あの人のようになりたいと頑張らなくていいのだということではないでしょうか。なるほどなぁ、自分は自分でいいのだな。その思いをこそ、しっかりと受け止めて感謝して、祈りましょう。
私たち一人一人は、誰とも変えられない、それぞれに独特の個性を持った一人ひとりです。その私たちが自分ならではの祈りを献げながら、でも、それが更に一つになって、神様を賛美しながら、自分ならではの豊かな人生を歩んで参りたいと思います。

お祈りいたします。
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母の日礼拝 コロサイの信徒への手紙4章2節

2017-05-17 15:00:08 | 子どもたちに福音を

【目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。】
 
 聖書の中には時々「目を覚ましていなさい」という言葉があります。もちろん、〝寝てはいけませんよ”ということではないと思います。寝てはいけませんという意味だとしたら、私たちはいつも寝ていますし、人は寝ないと死んでしまいますからね。だからそういう意味ではありません

 だから、どういう意味かというと、「目を覚まして感謝を込め」とありますから、感謝するということです。「ありがとう」って言えるようにしましょう。私たちは案外、「感謝すること」を忘れています。

 私たちは何に感謝すれば良いのか。一つ目はお母さんです。私たちは皆、お母さんから生まれました。5月14日は何の日かというと、「母の日」ですね。
 お母さんに感謝のお花を送る日です。どうしてそうなったのか。

今から100年以上前になりますが、

 アメリカのバージニア州のある教会でのお話です。アンナ・ジャービスさんという女性がいました。きっと、5月の今頃だったのだと思います。日曜日の礼拝のある日の朝早くにアンナさんが教会に行って、その日の礼拝の為に、前にお花を飾って、窓にもお花を飾って、入り口にもお花を飾って、あっちも、こっちもお花を沢山飾ったそうです。だから、その日、礼拝に来た人達がびっくりしました。なんだ、教会が花だらけになっているよ。どうしたんだろう、どうもアンナさんが飾ったようだよ。

 アンナさん、「一体どうしてこんなに沢山の花を飾ったのかい」って聞いたら、「ハイ、実は今日は、お母さんが亡くなって丁度2年目なのです。だからお母さんに「ありがとう」という思いを込めて教会をお花でいっぱいにしました。」
 この言葉に、教会の人達が感動して、沢山の場所で「アンナさんはお母さんに感謝して教会堂を花で一杯にしましたよ」と伝えました。この話はとてお評判になりました。評判になるだけではなく、ついにアメリカの国会でもこの話が取り上げられて、5月の第2日曜日を「母の日」にしましょう、と決められていったそうです。
 
 この母の日のお祝いを日本に伝えたのが、アメリカからキリスト教を伝えるためにやってきたドレーパー先生、の奥さんのマイラ・ドレーパー先生です。マイラ先生がね、青山学院という所で、母の日の礼拝をしたことが知られています。(この話のマイラ先生のところは資料的に確かです。アンナ・ジャービスさんの話はいわゆる諸説あります。)

 皆さん、教会の横に幼稚園があります。幼稚園の名前なんというか知っていますか?ドレーパー記念幼稚園と言いますね。母の日を伝えたドレーパー先生ご夫妻の娘さんのフランシス、ドレーパー先生から付けられた幼稚園の名前です。だから「母の日」と幼稚園はとっても深い関係にあるんですね。

 皆さん、だからね、聖書にも「どんな時でも感謝しなさい」って書いてありますけれど、どんな時も感謝する。それが、目を覚ましているということでしょう。
 
 感謝して、目を覚ましていないとどうなるのか、不満と不安で一杯になります。世の中の沢山の人達が不満と不安で一杯です。

 だから、どうするかというと、例えば物を買うわけです。昨日もねちょっと、引き出しを掃除しようと思って明けたらね、昔買ったデジタルカメラが三つ出てきました。どれも壊れて動かないのです。壊れているのに、なんだかもったいないなと思っても中々捨てられない。
 
 捨てられないというのは、どういうことかというと、物があった方が安心だと思ってしまうからかもしれないな~と思います。私たちが生きていくために必要なものはそんなには多くないというか、本当はとっても少なくても十分生きていけるのです。でも、どうしても、あれも欲しい、これも欲しいってなってしまって、気が付くと物が一杯になってはいませんか。

 目を覚まして感謝を込めて、というのはシンプルで、少ない物で自由に、素敵に生きていくことかもしれません。
 
 目を覚まして感謝を込めて、今の自分に感謝して、そしてひたすら「祈りなさい」とあります。

 祈るってどういうことかというと、「心を明け渡す」ということです。今、私がお話しているでしょう。でも、皆さんは聞いているようで、きっといろんなことを考えていると思います。礼拝終わったら何しようかな、さっきのテレビ面白かったなぁ、今日のお昼は何食べられるのかな~ まあ、私たちはいつもいろんなことを考えてしまうのです。

 だから、祈るというのは、「神様、私はいつもいろんなことを考えてしまいます。そして、いつの間に感謝していません。だから、お祈ります。神様ありがとうございます。」と出来れば声に出して正直になることです。
 
 私も一緒懸命に皆さんの為に祈っていますけれど、どうぞこの一週間も目を覚まして、感謝して、そして祈れる時としていきましょう。お祈ります。
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天にのぼられた主

2017-05-16 08:38:33 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書14章1~11節】

「天にのぼられた主」

 ヨハネによる福音書は全部で21章ありますが、その21章は、主イエスの御生涯をバランスよく配置し記しているわけではありません。むしろ、他のどの福音書にもまして、主イエスが十字架に架けられる一週間前、いわゆる受難週の一週間に重きを置いています。21章の中盤にあたる12章からはその一週間の中で、主が話された話、教えられた話が続いているわけで、「わたしはまことのぶどうの木」の話も、「聖霊を与える約束をされる」のも、その中で話されていることがわかります。

 今日、読んで頂きました14章の箇所も、同じように主が目前の御受難を前にして、弟子たちにこれから起こるであろう出来事を見据えて、主ご自身について、また、父なる神について一生懸命に話をされている箇所となります。
「心を騒がせるな。神を信じなさい」という言葉から始まる御言葉、落ち着いて話されているとは思いますけれど、けれど、既に裏切りを企てたユダは主のもとから去っている状況です。ご自分が捕らえられることはご自身が一番良く知っておられます。ですから気持ちとしては、遺言といいますか、弟子たちに対する惜別の説教と言っても良いと思います。「心を騒がせるな」と言いつつも、主ご自身も気持ちが高揚していたのではないかとさえ思うのです。

 けれど、興奮を抑えるようにして、弟子たちに大切な話を話されます。今日読んで頂いた箇所の中では、恐らく「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことが出来ない」という御言葉がもっとも知られている御言葉だろうと思いますし、キリスト教の大切な教えがここに示されているとも言えるでしょう。

 私がまだ洗礼を受ける前に、2年間に亘って、毎週求道会に出席いたしました。導いて下さったのは熊野清子先生と言いまして当時は80歳位ではなかったと思います。毎週、毎週熊野先生の所へ欠かさず伺い、聖書の言葉を聞くのが本当に楽しみでした。この先生は本当のホスピタリティに溢れていまして、どんな時でもよく来て下さったと迎えて下さり、どんな人にでも暖かさを持って迎えて下さっていました。当時一人暮らしであった私は、母親のように思うほどでありました。この方のように生きていきたいと思っておりましたし、今でもそう思います。
 
 その熊野先生が何度も話して下さったことの一つに、人が神の国に至る道は、どうなっているのかということです。天国ともパラダイスとも言いますが、そこに至る道は幾つあるのだろうかと話される、そして、天の国を山の頂上と考えると、その頂きにたどり着くには、一つの山には登山道が幾つもあるように、私たちは天の国に行くためには、本当は幾つもそのルートがあると思いがちだけど、それは違うと教えられるのです。私は当初なるほどと思いながらも、その話は、どうももう一つピンと来ませんでした。逆にやっぱり天の国へのルートは幾つもあったほうが良いのではないだろうかとさえ思っておりました。
 
 私が幼い頃通った幼稚園は、お寺が経営した幼稚園でありまして、お寺の境内が遊び場でもあり、本堂の中でも良く遊びました。本堂に入りますと、父親が作成した仏像とか、人の像が幾つも飾られていまして、少しばかり嬉しかったのですが、その横にお寺であればどこにでもあるようないわゆる地獄と思われる絵が記されているのです。恐らく、天国というよりは極楽の絵もあったと思いますけれど、そちらの絵は覚えておりません。地獄の絵は良く覚えています。血の池があったり、針の山があったりと幼心に見ても、怖い絵であることは容易に分かりました。そして、死んだらこんな所に行くことになるのは嫌だなと思う。そのような絵を見る者は皆そう思うでしょう。ですから、そのようにして寺のお坊さんが、あるいは大人が子供たちに話すのではないでしょうか。「いいかい、悪いことをしたら、死んだあとはこんな所に行かなければならないから、悪いことをしてはいけないよ。」 
 子どもはそういうことを聞くと、純粋ですから、そうだな悪いことをやってはいけないな。良いことをして、極楽に行けるようにと思うのだと思います。
 
 実際にそのようにして、私は育てられてと思います。けれど、皆さん、ここが、仏教とキリスト教との違いなのです。何が違うのか、私たちはいつの間にか、天国に行くために、一生懸命に自分が山を登っていようにして、山頂を目指していけば良いのだと思っているのではないでしょうか。
 けれど、もし本当にそうだとするなら、大切なことは、自分がどう頑張るかにかかっているのです。自力で、自分の力で、信仰という体力をしっかり養って、毎日祈り、礼拝を休まずに頑張れば天の国に行けると思う。自分に与えられている自分ならではの人生のルートを精一杯生きて、神様に認められて、あなたは山頂に到達する働きをしたねと認められたいと思うのです。私はたちそのように思っているところがあるのではないでしょうか。
 
 先週の座間地区の家庭集会で皆さんと一緒に読みました聖書箇所ですが、「金持ちの青年」とタイトルが付けられた箇所を読みました。主イエスの下にやってきた金持ちの青年が尋ねました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」主は「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ19章18節)と教えたら、青年は、そういうことは皆、子どものころから守ってきたというのです。
 青年は一生懸命に子どものころから律法を守ってきた、山を登るようにして、踏ん張ってきた、だからその働きが実りとなり、若くして財産もあり、地位も名誉もある人生を歩んでいたのでしょう。けれど、どんなに頑張っても、いつまで経っても、あるいは、どのルートを辿ってみても山の頂に到達した思いになれずに、主イエスの所にやってきたのではないでしょうか。

 この青年の悩みは、もしかしたら私たちの悩みかもしれません。少なくとも私自身、若い頃は特に、一生懸命に生きようとしながら、どこにも、また、いつまでもどこかに到達したという思いを感じたことはありませんでした。
だから、主イエスは「私が道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことは出来ない。」と教えられたのではないでしょうか。この御言葉が意味する事の一つは、人は人の教え、すなわち知恵や行い、あるいは学校の道徳教育などでは救われないということだと思うのです。

 それでは何によって救いが与えられるのでしょうか。最初に答えを申し上げますが、「わたしは道であり、真理であり、命である」こう話される方を信じることに尽きると思います。この方が私にとって真理としての道であり、命としての道である。なぜなら、主イエス・キリストだけが天の国から来られた方であり、十字架の死と復活、そして、その後40日後に、再び天の国へと戻っていかれた方。この方だけが天の国と繋がっておられる方だからです。私たちがこの方と繋がることによって、正確には主が私たちを繋げて下さることによって、主がおられる天へとは向かうことが出来るのでありましょう。天の国とは、病気も悩みも無い、一年中花が咲いている場所かもしれません。鳥のさえずりが聞こえるのかもしれません。けれど、それらのことが大切なのではありません。主イエスがそこにおられ、また、愛によって信仰と先達と会いまみえることが出来る、そういう場所だということで十分だと思います。

 「わたしは道であり、真理であり、命である。」という御言葉の前後に、二人の弟子たちの言葉が記されます。一つは弟子のトマス。トマスは「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることが出来るでしょうか。」と伝えます。この問に先立って、弟子のペトロも13章36節で同じようにして訪ねています。「主よ、どこにいかれるのですか」主イエスが、既にこの時、御自分の栄光を受けたと話され、これからご自身に起こるであろう出来事を弟子たちに一生懸命に話しておられますが、でもペトロもトマスも弟子たちはどうも分からない、けれど、主がどこかにいかれてしまう、そのことだけは良く分かったのでしょう。聖書を注解する学者によっては、このトマスの問を「愚かな問い」だと説明するようです。これだけ主が話されても、尚、理解出来ない弟子たちの愚かさを表したのでしょう。

 また、8節には今度は弟子のフィリポが語りかけています。「主よ、わたしたちに御父をお示し下さい。そうすれば満足できます。」この願いを「愚かな願い」であると説明するのだそうです。
 けれど、本当に愚かな問いであり、愚かな願いなのでしょうか。私には、二人の問いかけは、人としての大いなる不安を示しているのではないかと思うのです。これまで主と従って来た、主の歩む道を自分もその道に従って歩んできた。けれど、主が自分達のところから消えてしまわれそうだ。そうであるならば、自分達はどの道を歩めば良いのですか、そのような不安の問いかけのようにも思うのです。
 だからこそ主は「私は道であり、真理であり、命である。」と話されました。この言葉の中心は「私は道である」という教えです。私は真理の道であり、命の道だということです。
 
 詩編119編、詩編の中で一番長い詩編ですが、その105節に、こんな御言葉があります。「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」大変美しい御言葉だと思います。

 あなたの御言葉は、私の道の光 わたしの歩みを照らす灯、この私たちの歩みを照らす道の光とは、光り輝くイルミネーションでもなく、上から照らす外灯でもなく、私たちの人生の歩みを、歩みの一歩一歩を照らし続ける光です。そしてその光は、私たちの足元をしっかりと照らし続けるのです。私たちの人生の瞬間、瞬間を照らして下さり、何よりも主なる神が示される道を照らしだして下さる灯でもあります。
 
 トマスの不安、フィリポの不安は私達の不安です。この先をどう生きれば良いのかわからないという私達の不安なのです。その不安は勿論、戦争とか、災害、病気といった、大きな不安はいつもありますけれど、何にもまして自分の人生の足元が見えないという不安ではないでしょうか。
 
 ヘンリー・ナウエンというカトリックの司祭が記した「すべて新たに」という本は、現代人の不安を一言で言い当てています。それは、「私たちは忙しいのに、目一杯であり、目一杯なのに、満ち足りていない」というのです。私も本当にそう思います。私たちは朝に、昼に、夜に、あの事も、この事も、やることは尽きず、またやらなければならない事は終わらず、いつも忙しく、目一杯に働いているにも関わらず、どこまでもいっても満ち足りたと思う所がありません。試験や受験で子どもの時から暇もなく、働き盛りの若者も、責任を負う世代も、定年を過ぎた後の世代の多くの人たちでさえも、いつも心も体もギリギリの状態で、更に多くのことに思い煩い、何かに追われるかのようにして生きている、それが現代だというのです。現代の人間の生き方だと言うのです。

 だからナウエンは伝えます。主イエスは、ただ一つの事だけに生きられた、それは父なる神の御心に生きることであったと教えます。今日読まれた箇所で言うならば11節の御言葉です。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。」
もっと、単純に言うならば、主イエスは父なる神に与えられた道を歩み続けられたということでありましょう。私たちはいつの間にか、この世の中の常識のようなものに、どっぷりと浸かってしまって、毎日のテレビや報道によって政治や世界情勢の変化を知らされながら、大いに不安を募らせ、あるいは時として不必要と思われる怒りを爆発させ、世の中の情報に踊らされているようなところがあると思います。
毎日流されているコマーシャルによって、私たちは購買意欲を増加させ、いつの間にか、借金してまでも、あれもこれも必要であると思わされ、物を持つことが幸せなのだと思わされている所があります。

 でも、幾ら購入しても、購入した時には確かにひと時の幸せがあるように感じても、そんな幸せは偽物だから続かないのです。だからまた別の物をと願って、そしていつのまにか物質社会の中で行き詰まってしまうのではないでしょうか。
 だからそのようなこの世の価値観に踊らされるのではなく、私たちは本物なる方、真実なる方、主イエスが示される道をこそ歩んで参りましょう。私たちの力では天の国へ導かれる道を見つけることも、作り上げることも出来ませんでした。でも、その道を主イエスよ、あなたこそが示して下さいました。感謝します。だからその道を私たちは進みます。その足元をどうぞ、御言葉によって照らして下さいと願いながら、私たちは一緒に歩んで参りましょう。
お祈りいたします。

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人生の中心となる方

2017-05-09 13:51:20 | 礼拝説教
【ネヘミヤ記2章1~18節 コリントの信徒への手紙一 12章1~13節】
 
 
今日の説教のタイトルを「人生の中心となる方」といたしました。過ぐる4月16日のイースター礼拝において、お二人の方が洗礼を受けられました。感謝な時を過ごしましたが、洗礼を受けるとはどういう意味があるのか、きっと多くのことが言えるのだと思いますが、でも、本当に大切なことはたった一つだと思います。「イエスは主である」と信じることです。読んで頂きましたコリントの信徒への手紙12章3節に記されています。『ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです』
 聖霊によって与えられる信仰、「イエスは主である」この信仰をもって洗礼を受けるのです。主イエスが、この方こそが、私たちの人生に具体的に関わりを持っていて下さっている、と信じるのです。

 皆さん、GWをどう過ごされたでしょうか。私達菊池家は、特別どこにも行くことなく、毎日、朝、昼、晩、朝、昼、晩と家族6人が皆で集まり、食事をするというGWでした。でも、金曜日の昼にですね、気が付きました。おばあちゃんがいなかったのです。おばあちゃんどうしたと騒ぎになったのですが、その日はデイ・サービスの日で、なんと家族の中でおばあちゃんだけが出かけていたと言う「落ち」だったのですが、その日の夕食に、長男がいきなり、お父さん、ソクラテスとか、プラトンのことを教えてくれと言うのです。大学の授業の中で、先生がそんな話をしたらしいのです。

 ですからソクラテスの「イデア論」がどうしたとか、アリストテレスの「原因論」がどうしたとか私も知っているつもりの話をいたしました。実際の所はあまり詳しくも知りませんが、それでも私も調子に乗って色々と話しました。結局大分長く話しましたが、哲学は結論がありませんので楽しいのです。
哲学とは、例えば人がどう生きればよりよく幸せに生きられるのか、という問いが立てられる、そこからスタートしまして、善とは何か、道徳とは何か、自由とは何か、家族とは何か、社会とは何か、政治とは何か、国家とは何か、そうやって一つ一つを突き詰めながら、定義づけながら更に具体的にどうすれば戦争の無い世界を作りだせるのか、貧困をなくすためにはどうするのかと、色々と考え続ける作業を致します。
 
 この色々と考える作業によって、人類は、法律や政治経済のみならず、天文学とか、自然科学とか、医学といった多くの分野において発展することが出来たとも言えるでしょう。長い教会の歴史も少なからず、哲学的思考の影響を受けて、繰り返し、繰り返し、信じるとはどういうことか、考えられて来たとも言えると思います。

 けれど、哲学と宗教とは決定的に違うところがあります。哲学はどこまでも考えることによって発展していく学問ですが、宗教もまた、どこまでも考えていくことが大切だと思いますが、でも、どこかで決断していく、決心することが求められるのです。
主なる神、主イエス・キリスト、十字架に付けられ、でも三日の後に復活された、この方に自分はかけて生きていこう、「イエスは主である」と信じよう。そのような決心が促されます。

 コリント書の今日は12章を読んで頂きましたが、13章は有名な「愛」というタイトルが付けられた箇所その13節に「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」とありますように、神の愛を受けて、どんな状況の中にあっても、この愛に生きる決心が求められているのだと思います。

 私たちは「イエスは主である」と受け入れ、決心して、洗礼を受けます。そこから信仰生活、教会生活が本格的にスタートするわけです。けれどまた、信仰は一つであるとしても、人それぞれが考え方もあるわけで、ですから哲学者は一つ一つの言葉や思いを定義づけて行く作業を行うのですけれど、聖書はその違いを、神様から与えられた一人ひとりの賜物だと言うのです。その賜物は多様であり、例えば今日行われる任職式のように、ある人は役員として選ばれ、ある人は子どもの教会の奉仕者として立てられ、ある人は奏楽者として、また、ある人は聖歌隊として、ある人は祈る人として、それぞれに多くの役割が神様から与えられ、私たちの大塚平安教会という共同体が作りあげられているのだということでしょう。

 読んで頂いたコリント書12章4節には「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。」とあります。人はそれぞれに与えられた賜物があります。私は牧師としてこの年、22年目を迎えています。この22年間を振り返りますと、私自身がずっと、どこかでもがいて来たように思います。
 牧師として立てられたと思い、決心して神学校に入ることが許されましたけれど、卒業も許され、任地が与えられ、今もこうして話すことが許されていますけれど、尚、この22年目において、思うことは、私自身がどこまでも、牧師として十分だと思えることがありません。

 自分にも何か賜物が与えられているはずだと思いまして、哲学の学びをする。でもせいぜい息子に哲学の話を幾らか話せるぐらいのものです。若い頃には牧師は、語学が出来なければダメだろうと思いながら、随分勉強したつもりですが、それも今となっては、中学生の娘がパパは良く出来ると褒めてくれる程度のものです。音楽に至っては、歌が上手いわけでもなく、いつまでも初心者の域を出ることがありません。結局の所、何一つ十分と思えるようなことが無いないと思うしかありません。でも、年齢だけはしっかりと重ねていくのです。

 勿論、まだまだ、人生これからと思っていますけれど、そんな中にあって更に思わされることは「賜物にはいろいろあります」という御言葉です。私に何か神様から与えられた賜物があるとするならば、それはきっと「神様に対して誠実に生きていきたい。」と思い続けられていることかなと思います。
 
 今、祈祷会でコリント書を読んでいますが、1章27節に「神は世の無学な者を選ばれました。」とありますし、「世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下されている者を選ばれたのです。」とあります。この御言葉を私は深く思います。いくら考えても自分自身の中に何か誇れるものはありません。

 GW前にお葬式で花巻に帰ったでしょう。何年かぶりにね、花巻教会の方ともお会い出来ました。私たち夫婦を見つけて、教会の皆さんが駆け寄るようにして集まって下さいました。でもね、話しかけられているのはほぼ、家内ですよ。私は横に立って、添え物のようにしてニコニコしているだけです。ひとしきり家内と話し終わった後に、教会の方がこちらを向き直して、こう言われました。「先生、今、どこにいるの?」こうですからね。

 でもだからこそ、主なる神は私を選んで下さったのだろうと思います。誇るものが無いとは良いものです。だから全能なる神にこそ信頼出来るのではありませんか。パウロは「わたしは弱い時にこそ強い」と話しましたが、色々とある方は逆に大変かもしれません。

 私は何も無く、誇るものもありません。でも、だから永遠なる主なる神が、自分の人生となって下さって、自分の人生のヴィジョンを立てて下さって、完成させて下さると信じることが出来るのではありませんか。皆さん、私たちはどこまでも不十分な者ではありませんか。学力だけでもなく、健康のこと、家族のこと、財産のころ、人間関係のこと、これまでの人生を振り返って誰一人として悩まなかったと思える方はいないでしょう。人は不十分だからです。でも、それで良いのです。その悩みを通して、主なる神が私たちの信仰を、更に強くして下さるのだと私は思います。

 旧約聖書のネヘミヤ書という箇所を読んで頂きました。ネヘミヤ書はエズラ記と並んで、あの50年に亘るバビロン捕囚の時代が過ぎて、自分達の故郷イスラエルに帰ることが出来ると希望を持って歩んでいこう、進んでいこうとしている物語です。ネヘミヤが色々と策を練って、故郷へ帰還していこうとする場面を読んで頂きました。ですから彼らは言ってみれば、信仰を継承してといよりは、新たな信仰を持って、新しいヴィジョンを持って帰ろうとしている人々です。苦労に苦労を重ねた人生であったと思いますが、信仰によって支えられている。その喜びが伝わる箇所でもあります。人には出来ないが、神にはなんでも出来るという信仰を持って歩んでいるその姿を読むことが出来る良い聖書箇所でもあります。
今、この時、この時代で、与えられた賜物をしっかりと磨き、信仰を持って精一杯を生きようとするその姿、今の時代に求められている姿ではないでしょうか。

 コリント書の続く5節には「務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。」とあります。務めとは働きということです。務めというよりもむしろ奉仕という意味のようですが、つまりはミッションということです。与えられている使命が色々とあるということです。人には使命がある。

 今日は礼拝後、新しいメンバーでの初めての役員会を行いますが、役員会で職務分掌を行います。そこで誰が何の役割を担うのか話し合われます。それぞれに書記として、財務として、伝道として、教育として、様々な側面から教会を支える役割を分かち合うわけです。それぞれの務めが与えられます。それぞれに大変な働きです。その働きの力となる御言葉は、丁度一か月前の礼拝で取り上げられた聖書箇所となりますが「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命の献げるために来た」(マタイ20章28節)という御言葉ではないでしょうか。
主イエスご自身のヴィジョンがここに示されていると思います。

 私たちが、どこで腹が立つのかというと、このことも、あのことも誰かにしてもらおう、してもらおうと思うところで腹が立つのです。だから、そうではなくて、この人の為に自分が出来ること、あの人のために自分が出来ることは何かなと考えてみることではないでしょうか。
結婚する二人がいるとして、上手くいくカップルと上手くいかないカップルがあると言われます。なぜ上手くいかないのか、この人はお父さんみたいな人だと思い、相手はこの人はお母さんのような人だと思って結婚すると上手くいかないのです。なぜか、どんなに無理を言ってもいいよ、いいよと言ってくれるお父さんのような人、少々怠けても、汚しても笑って許してくれるお母さんのような人と思って結婚するわけです。でも、そんな都合の良い相手はいませんから、こんなはずではなかったと思うようです。上手くいくカップルは、この人の為に自分は何が出来るかと互いに考えることが出来る。だから喧嘩も少なく、長く一緒に生きていけるのだと、時々、若い方にも話します。だから大切なことは、この役割が、自分に与えられている使命ならば、としっかりと受け止めることが出来る。勿論、なんでこんなことを私がしなければならいのかと思うものです。

 でもね、主イエスこそが、私たちの罪を背負って十字架に付けられたではありませんか。主イエスがご自分の使命、ミッションに生きられたように、私たちも、私たちなりのミッションとヴィジョンを持って、神にまた、人に仕えるところで神様の祝福が見えてくるのではないでしょうか。

 パウロは更にコリント書の続きの6節で、「働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。」と記します。改めてコリント書を読みますと、パウロは4節、5節、6節で、「賜物にはいろいろと」あり、「務めにはいろいろと」あり、「働きにもいろいろと」あると告げています。そして、それらの働きは同じ霊であり、同じ主であり、同じ神だというのです。この聖書箇所はキリスト教が三位一体なる神として表現している根拠の最も古い形で記されているとも言われますが、その父なる神と、子なる神の主イエスが、私たちには聖霊なる神となられて、私たちの人生の中心となられて、私たちの体に宿っておられるということでしょう。

 私達一人ひとりがその賜物を持ち、それぞれの務めを持ち、働きを持ちながら、自らが神の宮として生きていく、そこに私たちの人生が繰り広げられるのだということでしょう。

 私たちは聖霊に満たされて、私たちの人生に主なる神が与えて下さったミッションと、ヴィジョンをより確かなものにするためにも、私たちの人生の主は私ではなく、私を造られた神こそが主です。と信じる時、もうそこに聖霊の業が力強くあなたを導き、豊かな、喜びに満ちた人生を示されることでありましょう。「イエスは主である」大切なのは言葉以上に、生き方かもしれません。

「あなたは学歴も無く、過去にもいろいろな失敗をしているのにも係わらず、どうしてそんなに喜び、笑顔の生活をされているのですか」と尋ねられたら、どう答えますか。そう「はい、私の人生の中心はイエス様だからです」と答えられることでしょう。

                                                          お祈りいたしましょう。


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本物のしるし

2017-05-05 08:32:43 | 礼拝説教
【マタイによる福音書12章38~42節】

 先週の礼拝後の報告の際にも申し上げましたが、金曜、土曜と故郷でもある花巻を4年ぶりに訪問して参りました。花巻教会員の三田照子さんという方の葬儀に参列したいと願いまして、家内と伴に出席して参りました。
 三田さんが召されましたのは4月17日の月曜日、イースターを過ぎて、御家族の皆さんが見守る中で静かに息を引き取られたと伺うことが出来、私にとっても慰めを受けました。後五か月で100歳となられる方でありました。

 恐らく教会と身内の方だけで前夜式を済ませ、火葬後、日を改めて昨日の葬儀となったと思われます。葬儀に際して教会では無理と相談したのでしょう。市内の葬祭センターにて執り行われました。参列者は凡そ500名程、弔電は300通を超えていたと思われます。
 
 弔電300通の中で、実際に読まれましたのは10通程度であったと思いますが、3番目に読まれた弔電にはこうありました。詳しい文面は書き留めてありませんので、正確ではないと思いますが、「満州で一緒に過ごしたあの時のことが忘れられません」という書きだしでした。どなたであるのかすぐ分かりました。予想通り、神奈川県海老名市 寺尾鉄男様とアナウンスがありました。
 寺尾さんが小学校5年生の時、日本が敗戦となり、満州にいた日本人が一晩の内にも、皆が難民状態になったそうです。当時、満州に住んでおられた三田さんご夫妻も逃れるかのようにして、しかし、それまでの三田さんご夫妻の態度が、多くの日本人とは違い、どんな人をも平等に愛する姿に心を打たれていた中国の人々が、三田さんご夫妻を死なすわけにはいかないとかくまってくれた、その場所に三田さんたちは私たちだけが助かるわけにも行かないと、何組かの日本人を招き入れた、その一つの家族の中に、小学校5年生の寺尾鉄男さんがおられたわけです。ですから寺尾さんも本当は葬儀に出席したかったと思いますけれど、そんな思いも込めて、私たちが一緒に葬儀に連なって参りました。

 葬儀の司式は花巻教会の鈴木道也先生という30代前半の若い先生でした。若くても優秀な先生であると伺っています。鈴木先生は式辞の中丁寧に文章を調べられて、こんな話をされておられました。
 戦争に負けて、満州の日本人が難民となった時に、三田さんのご主人は、仲間たちと共に立ち上がり、兵隊も既に逃げて行ってしまっている中で、近くにあった神社の敷地を利用して、日本人難民収容所を作ったそうです。沢山の日本人が家も家財も財産も捨てて、着の身着のままで逃げて来たそうです。その一人ひとりを迎え入れ、世話をされたのだそうです。
 けれど、疲れ果て、やっとの思いで逃げて集まってきた人達ですから、食料も十分ではなく、健康や衛生面も十分ではなく、悲しいことにどんどんと人が亡くなっていく、近くに用意した千個もの墓地が、ついに全部ふさがってしまっても尚、更に大勢の人々が亡くなっていったのだそうです。それが現在も戦争と争いの中で逃げ惑う難民収容所と呼ばれる場所の嘘の無い現実だろうと思います。

 ついに、処理しきれなくなったご遺体を、今度は裏の山に運んで、そこに置いていく日々、山全体が人の体で埋め尽くされてしまうようであったそうです。
 三田さんは、そういうわけでご主人が何日も帰って来ないものですから、心配になって難民収容所を訪ねていくと、ご主人は「帰れなくて、すまん、でも、俺もお前も今日の命は心配ない。今、ここにいる多く人達は今日の命が心配な一人ひとりだから、今帰るわけにはいかない。お前にも苦労かけるが申し訳ない」と話したそうです。二人は既に夫婦というよりは、何か同士として、しかも「愛」に満ちた同士としての絆があったのではないかと鈴木先生は伝えておられました。

 その愛の姿は三田さんの100年の生涯に亘り、少しも衰えることはありませんでした。80歳を過ぎてからは、戦争の悲惨さを語り継ぐ働きを本格的に始められ、更に短歌や、執筆活動や、講演会、90歳を過ぎても少しもその働きが衰えることなく最後の最後まで、神様に支えられて生かされて生きた方であったと思います。
 自分たちは、生きているのではない、自分たちが生きて日本に帰れたのも、たまたまではない、神様に託された働きが与えられているのだと思っていたとも話されていたそうです。私も三田さんが生きて帰れたのは、たまたまではなかったと思います。三田さんご自身が養ってきた信仰によって、日本人とか、中国人とか、何人とかに関わらず、人を大切にし、親切に接して生きたことによって命が保たれたのだと思います。
 
 当時の満州国において、多くの日本人が威張って、中国の人を馬鹿にしている姿に憤りを感じるほどに、神の前にあって、誰もが神に愛されて、誰もが祝福を得るはずだと思う信仰が、三田さんを生かしたのではないでしょうか。

 本日読は、マタイによる福音書12章38節から読んで頂きました。「人々はしるしを欲しがる」というタイトルが付けられています。
 律法学者とファリサイ派の人々が主に尋ねました。「先生、しるしを見せてください。」彼らが求めたしるしとは、主イエスが救い主であるというしるしです。その証拠となるものという意味でしょう。その証拠が確かならば私達は信じましょう。どんなに偉そうなことを言おうとも、証拠がなければどうして信じられましょうか。と人々は言うのです。
 ファリサイ派のファリサイという意味は「分かたれている人」という意味だと言われます。彼らは一生懸命に律法を守り、純粋な信仰、又神に対して正しい生活を生きようとしていた、又、それを実践していた人々であったとも言われます。決していい加減な信仰生活をしていたわけではありません。ですから、その純粋さによって人々から嫌われていた面もあったようですが、反面、多くの面で尊敬も受けていたようです。
 
 しかしまた、彼らには自負心があったと思います。自分たちこそが、神から与えられた律法を守っている。自分たちは正しいという思いも強かったのではないでしょうか。しかし、自分は正しいという思いから出てくるものは、愛ではなく、人を裁く気持ちでした。同じ立場からではなく、一つ高い所から、自分の正しさ故に人を裁いていたのだと思います。その裁きに主イエスは否を言われました。

 自分こそが正しい、私は間違っていないと思えば思う程に、本当にそうなのかと指摘されると、人は言い訳を始めたり、反撃する事によって、自分を守ろうとします。ファリサイ派の人々は、主に対してこう切り出しました。
 それほど言うのならば、そう言えるだけのしるしを見せてくれ。天からのしるし、神の子であるという自分たちが納得するしるしをみせてくれと迫るのです。

 私は、どうしてイスラエルの人々は主イエスに対して、それほどまでにしるしを欲しがるのかと思っておりました。しかも何かにこだわるかのようにしてしるしを求めているようにも思っていました。今、水曜日の夜の祈祷会でコリントの信徒への手紙という箇所を共に読んでいますが、コリント書の1章22節にはパウロも「ユダヤ人はしるしをもとめ、ギリシャ人は知恵を探します。」とあります。なぜユダヤ人はしるしを求めるのか、先日この箇所を読みながら、そのことをずっと考えていました。そして、その時に気が付いたのです。以前から、ユダヤ人は律法というしるしがあるからであろうとは思っていましたが、しかし、その中でももっとも大切なしるしは何か、それは割礼ではなかったのかと思いました。男の子が誕生したら生まれて八日目に割礼を受けると律法では決められています。
 
 しかし、この割礼の儀式は、律法より更に遡って創世記17章、アブラハムの時代に既に登場いたします。律法が与えられるモーセの時代の500年も600年も前の時代です。
 
 主なる神はアブラハムに与える祝福の約束のしるしとして、イスラエルに生まれて来る男子は割礼を受けなければならないと伝えるのです。主なる神は「いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない」これが神とアブラハムとの間で結ばれた神の民としての契約であり、しるしなのです。

 何もファリサイ派に限ることなく、生まれて来たイスラエルの男性は割礼というしるしを持っている。これが何を意味するのか。

 私は花巻の行き帰りの新幹線や旅館で説教を作るためにパソコンを持っていこうか、どうかと悩みました。けれど旅の途中でどうもそんな気が起こらないだろうと思いましてパソコンではなく、一冊の本を持っていきました。藤岡陽子さんという小説家が書いた「闇から届く命」という小説です。場所は産婦人科病院、主人公はその病院で助産師として働く有田美歩さんという女性です。 
この女性を中心にして、その病院で出産をする女性の人生や病院の医師や看護師の思い、あるいは望まれて生まれて来る命や、望まれつつも生まれなかった命や、望まれずに途中で強制的に生まれなかった命や、あるいは母親として自信を失い、子育てをしなくなった女性、産婦人科病院という世界の中で繰り広げられる様々な人間関係を扱った素敵な小説でした。行き帰りの新幹線で読んでしまいました。
世の男性には最も遠い所にある病院であり、しかし命の誕生やあるいは死を毎日のように目の当たりにするのが産婦人科という病院なのだと改めて思わされました。しかし、そこでまた、思うのです。

 アブラハムから始まる旧約聖書の時代の出産、生まれて来てどれだけの子どもが成長したであろうかと思います。恐らく私たちが思っている以上に、多くの幼子は成長しなかったと思います。更にイスラエルでは、生まれて八日目に割礼を施すのです。あえて体に傷をつけるのです。その傷が原因となって更に子どもたちは命を落とすことが普通にあったであろう、けれど、その傷も癒えて、健康に成長し、大人になった人々にとって、その傷こそ、神と自分達の約束のしるしとなったのではないだろうか。自分は神から生かされている、この印がその証拠であると感じていたのではないでしょうか。だからこそ、ユダヤ人はしるしにこだわったのではいかと私は思いました。
けれどその求めに対して、主イエスはこう話します。「よこしまで神にそむいた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」

 しるしを欲しがる時代とは、よこしまで、神に背いた時代だと主は話しました。よこしまで神に背く、この神に背くという言葉は、もともとは姦淫するという意味の言葉です。もっというならば、結婚生活を欺いているという意味、愛を裏切っているという意味だと言われます。
愛が裏切られるような時代にこそ、人々はしるしを求めるのです。どうしてか。愛が裏切られるとは、これこそ本物だと思っていたものが、本物ではないと知らされるからです。何度も何度も愛が裏切られる、そういう経験をする一体どこに本物があるのかと、本物はどこにあるのかと求め続ける事になるのです。
 
 私が、カウンセリングについて勉強しておりました時に、教わったことの一つに、相談しにくる人とは、その内容がどのような事であったとしても、多かれ少なかれ、自分が愛されていない、又、愛に裏切られたという思いを持ってくる。そしてその満たされない思いを持ってやってくるわけですから、その思いを汲んであげなければならない。しかし、実はその相談者は、いままで何度も何度も、裏切られる経験をしていますから、相談しながら、本当にこの人は自分を裏切らないか、大丈夫かと思いながら、色々と仕掛けてくるというのです。裏切られた経験が多ければ多いほど、その仕掛けは何度と無く繰り返されます。時には怒ったり、脅したり、泣いたり、わめいたりしながら、しかしそれでも自分をしっかり受け止めてくれるかと試すのです。そういう態度を取るというのです。つまりしるしを求めるのです。

 けれど、その時、そんな怒りや脅しの態度に翻弄されると、カウンセリングは成功しない。なぜなら、相談者が求めているのは、どんな状況でもしっかりと受け止め、そして裏切らない愛を求めているからです。その態度ではなく、その思いをしっかりと受け止められるかどうか、そのあたりを見極められる力をカウンセラーは養わなければならないという事を教わりました。
 
 今、この時代に求められていること、それは決して裏切ることのない、確かなもの、本当の神の愛が最も求められているという事でありましょう。

 しるしは、ヨナのしるしのほかはないと主は話されました。つまり、それはヨナが3日3晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も3日3晩、大地の中にいることになる。そしてそれは主イエスの十字架の死と復活を意味するのだという事でありましょう。この十字架と復活の出来事が、本当のしるしとして与えられるのだということでしょう。

 なぜそう言えるのか。それは主イエス・キリストだけが私達の人生の、又、一人一人の心の中にある、どうすることもできないような罪や欲望や悲しみや、わがままを、親も兄弟も妻も夫も、人間の誰もが負ってはくれない一つの一つの、私達の重荷をしっかりと受け止め、そして「頑張りなさいとか、諦めなさい」とは言わずに、キリストだけが「わたしのもとに持ってきなさい。そしてあなたを休ませてあげようと」とおっしゃって下さるからです。主イエス・キリストは、私達が本来、負っているもの、これから負っていかなければならないものを、全てを受けいれ、そして私達の痛み、憎しみを、許せないという思いを全部、わたしの所に持ってきなさいといい、それを体で受けて,私達の代わりに十字架の上で死んで下さったからです。
 
 皆さん、私達の代わりに死んでくださった方がいる。これ以上の愛を私達は知らないのです。三田照子さんという方もそんな神の愛に捕えられた一人でありました。先程の小説の中でこんな言葉がありました。
 助産師という人の命を扱う仕事に悩みを感じていた主人公に、先輩が一生懸命に励ましの言葉を語り掛けるのです。その励ましを受けて力を得た主人公は思いました。「ここで働けて良かったと思う。自分の仕事に誇りを持てるかどうかは、先を歩く人がどんな生き方をしているかにかかっている。彼らの背中がどう見えるかどうかが大切だ」
 三田照子さんは主なる神を見つめつつ、どんな困難をも乗り越えられない困難は与えられないと信じて生きてきたそうです。私もそのように生きていきたいと思います。自分の信仰に誇りをもてるかどうかは、先を歩く人がどんな生き方をしているのかにかかっていると、私も思います。そして、そのような方と出会えたと思えることはどんなにか幸いだと思います。
 私も主イエス・キリストと共に歩んで行きたい。誇りと愛を持って生きていきたい。そして、私たちはやっぱり、どんな人をも愛することによって、徹底的に愛する事によって神の平和を築いていきましょう。そのように生き抜いていきたいものだと思います。

                                                          お祈りいたしましょう。
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