日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

世の終わりまで

2017-04-25 21:04:02 | 礼拝説教

【マタイによる福音書28章11~20節】

 「世の終わりまで」

  先週は、主イエス・キリストの復活を喜ぶイースター礼拝を共に守ることが出来ました。大勢の皆さんが来られ、またお二人の方が受洗された、神様の子どもとして生きる決意をされたことに感謝しております。

今日読まれました箇所は、主イエスが復活され、ガリラヤで弟子たちと会われた場面となります。

 主は、弟子たちに対して、御自分が祭司長や、律法学者に引き渡されて、裁判を受け、十字架刑となり、しかし、その三日目に復活されることを話しておられました。話される中で、復活した後のことについても、話されていたものと思われます。

 安息日が終わり、週の初めの日の朝早くに、数名の婦人たちが主イエスの墓に行きましたが、そこで主の天使が表れて、婦人たちに話しかけます。

 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさった。そして、弟子たちにこう告げなさい。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」更に、復活された主ご自身が、婦人たちの前に現われて、「恐れることはない、行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこで私に会うことになる。」

 その言葉を伝えられた弟子たちは、勿論、喜んだことでしょう。けれど、疑う者もいたとありますから、以前にもその話は聞いたけれど、人間的には全く信じられない、復活されたなんて、本当だろうか、騙されているのではないか、何か策略があるのではないか、どこまでも信じられない気持ちの弟子もいたのだろうと思います。

 それでも、ユダを除いた弟子たち11人は、エルサレムからガリラヤに向かい、主イエスが指示しておられた山に向かい、登りました。

 果たして、そこで主イエスと出会うことになります。主は弟子たちに近寄り語りかけました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがと共にいる。」と告げて下さいました。そこでマタイによる福音書は締めくくりとなるわけです。

 マタイによる福音書に限るわけでもないのですが、小説でもなんでもそうだと思うのですが、大切なのはその書き出しと、締めくくりです。一つの小説を読む時にも、書き出し部分だけでググッと持っていかれることがあります。そんな小説にあたりますとつい夢中で読んでしまう。書き出しと言いますと、マタイによる福音書の書き出しは主イエス・キリストの系図で始まりますが、これがね、私たちに日本人にはなかなかググッと持っていかれない、特に初めて聖書を読もうと思って、新約聖書の最初から、と思いつつこの系図から始まりますから、いっぺんに読む気が失せてしまったと思われた方も多いかもしれません。実際、私もそうでした。

 ところが、このイエス・キリストの系図を読んで、ググッと持っていかれる人達がいたわけで、誰かというと旧約聖書に慣れ、親しんでいたユダヤの人々となるわけです。ユダヤ人ならばこの系図を読むだけで、旧約聖書の流れと言いますか、その記されている歴史、物語を思い起こすことが出来るわけです。ですから、この文書は、旧約聖書の次に続いていて、そしてアブラハムの子である、またダビデの子であるイエス・キリストの系図、この方が私たちの真の救い主として現れて下さったということを記そうとしているのだなと感じることが出来る。

 勿論、これだけの理由ではなく、例えば旧約聖書の引用が多いとか、旧約聖書とのつながりを大切にしながら記されている福音書と考えられていますから、きっと、この福音書はユダヤ人に対して、記されたのであろうと言われる所以でありますが、ですから、物語の最初が大切、そして今日はその最後の箇所、この福音書全体がこれまで書き記してきたことの意味と、更に読者が読み終えた後に、その心に感じて欲しい、受け止め、留めておいて欲しいと願う思いが記されているのだと思うのです。

 その最後の最後の御言葉、復活された主イエスが弟子たちに、すなわち私たちに語りかける御言葉が「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という御言葉です。

 世の終わりまで、世の終わりとはいつのことか、復活された主イエスは、その後40日経って天に昇られましたけれど、また再びこの人の世にやって来る時がそうなのか、あるいは、私たち皆が天の国に住まう時、その時がそうなのか、あるいは神の目から見て、全てが完成したと思われる時がそうなのか。

 けれどまた、私たちの人生においてね、もうこれで自分の人生も終わりかなと思われるような事態、依然として北朝鮮を巡る社会情勢は厳しい状況が続いていまして、そんなに楽観は出来ないと言われています。この事が引き金になって、まさに世の終わりのような事が起こらいようにと今こそ祈りが求められるのだと思いますけれど、それだけでもなく、私たち自身の身の上でも、経済的に、精神的に、肉体的に、あたかも世の終わりとなるのではないかと思われる様々な状況の中であればあるほどに、そこに確かに、目には見えないけれど、主なる神がそんな私たちと共にいて下さる。これが今日、お伝えしたいと考えているメッセージであります。

 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」この御言葉が伝えている意味の一つは、私たちは一体日々の生活の中で誰と一緒に生きているのか、ということです。

 誰と一緒にいるのか、誰と一緒なのかと問われても、家族と一緒にいますとかね、教会の皆さんと一緒にいますと言われるかもしれません。先週ローマの信徒への手紙の6章からの箇所を読みましたが、そこに記されていたのは、自分が「キリストの十字架と共に死んで、復活のキリストと共に新しい自分を生きる」ということでした。パウロはローマ書を記しながら、何度も「罪に死んでキリストに生きること」だと伝えていました。

 なぜ、何度もそのことを記すのか、私たちは誰と一緒にいるのか、誰よりも自分自身と一緒にいるのだからということでしょう。

  先日、ある方からこんな話を聞きました。「都会の友達が遊びに来たというのです。それでバーベキューとかね、家の庭でランチをしているときに、「やっぱり田舎はいいなぁ、空気が違うなぁ」と言ったと言うのです。その言葉を聞いて腹が立って、と怒っているのです。確かに友達はおしゃれな都会の中で仕事をされているそうですが、そんな所で働いて、住んでいる場所も都会なのかもしれません。「田舎はいいなぁ」と言う言葉にちょっとムカッと来たのかもしれません。

 でもなんでムカッとするのか。簡単です。自分もここが田舎だと思いつつも、どっかで田舎は嫌だなと思っていて、田舎で嫌だなと思っているのに、田舎はいいなと言われたので、そんなはずはないとか、そういう言い方は無いでしょ、と思うから腹が立つのです。

 私たちは自分と一緒にいる、すなわち、自分の思いは誰の思いにも増してかわいいものですし、自分の思いが間違っているかなとは滅多に思わないものです。相手こそが間違っていると、しょっちゅう思うのです。だから、人の世は争い事が治まりません。

 先日、中学生の娘が学校から帰って来まして、私に話すのです。友達がことわざ辞典を購入して、一緒にその辞典を見ていたと言うのです。そこで一つ覚えて帰って来たというのです。どんなことわざ覚えたの?と聞きましたら「預言者郷里に入れられず」というのです。「預言者郷里に入れられず。」

 お父さんこのことわざ、知っているというのです。まさか本気で聞いているのかなと思いつつも、そのことわざの出典はどこって書いてあったか読んだのか?と聞きましたら。読んでいないのというのです。それは聖書から出ていることわざだよと教えましたら、驚いていました。マルコによる福音書の6章にあるよと話しましたら、今度は長男が「誰も知らないと思ってそんなこと言ってと」茶化されてしまいました。我が家は大丈夫でしょうか?

 それはともかく、主イエスがご自分の故郷に帰られて、安息日に会堂で話をされた、聞いたみんなは驚いて聞いていたけれど、結局は「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは我々と一緒に住んでいるではないか」このように、人々はイエスにつまずいた。とあります。自分達の知っていること、理解出来ること、納得のいくことなら受け入れるけれど、どうも知っていることとは合わないようだ。自分の思っていることとは違うようだ、と思えば受け入れられないということでしょう。

  私たちは誰と一緒にいるのか、私たちは自分と一緒にいるのです。自分が自分と一緒に生きているとすれば気楽な思いで生きていけるかもしれませんが、けれど、何かがある度に、なにか起こる度に、自分の人生に古い自分がひょっこりと出て来て、主と共に新しい自分に生きられないとしたら、それは残念なことではないでしょうか。

 だから、私は自分とは一緒に生きません。だって、自分こそあてにならないものはないのですからという祈りが必要なのではないでしょうか。

 私は自分とは生きない、だからどうするのか、日本人の特徴は自分に生きない、だから「みんなはどうしているかな」と、右を見て、左を見て生きるということもあるようです。

 イソップ童話の中に「ロバを売りに行く親子」という話があります。ある所で、ロバを連れたお父さんと息子が歩いていたそうです。そしたら周りから声がした。もったいないなぁ、ロバに誰も乗らないで歩いているのかい。そう言われたので、息子を乗せて、お父さんがひいて歩いたそうです。そしたら、また、回りで見ていた人が、何だい年よりを歩かせて、子どもが乗っているよ。だから、今度はお父さんが乗って、子どもがロバを引いたそうです。そしたら、違うところからまた声がした、子どもにひかせて、親が乗っているなんてそりゃないだろうと言われたものですから、それじゃ、二人でロバに乗って、これなら文句無いだろうと思っていたら、また、声がした。そんな小さなロバに二人で乗って、ロバが可愛そうだというのです。だから、今度は二人でロバを背負って歩いたそうです。そしたらバランスを崩してロバを川に落としてしまって、ロバを売ることも叶わなかったという話です。

 あまりにも主体性が無く、人の話ばかりを聞いて、深い思索や識別、判断をせずにその通りにやっていても、時にひどい目にあうから気をつけなさいという教訓のような話だそうです。

  ですから、皆さん、自分も当てに出来ませんけれど、皆というのも当てに出来ませんよ。日本は戦後、高度経済成長時代と呼ばれる時代がありました。その頃からですよ。良い学校、良い大学、良い会社、に入ることが良いことだ。今でもそうかもしれません。けれど、本当にそうなのでしょうか。何をもって良いというのか、今、長男が就職の時期になりましたけれど、数年前の記録ですが就職しても、3年以内に3人に1人は仕事を辞めていく時代だと言われています。今はもっと離職率が上がっているかもしれません。

自分も頼りにならない、みんなも当てにならない、大きな会社だとしても、頼りにならない時代です。

 だからどうするのか、聖書には「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」これは主イエスの聖書の最後の御言葉です。私たちの幼い時も、青春の時代にも、結婚の時期にも、壮年の時代にも、年を重ねても、どんな時代にも、どんな時にも、主イエスが私たちと共にいて下さる。と、神が約束しておられるのです。この方にそこ、私たちの人生の土台を据えて生きていきたいものだと思います。

 私たちの限りある人生の中で、主イエス・キリストに土台を据えて、この方こそ、わたしと世の終わりまで共にいて下る方である、だから大丈夫、そのように私たちは生きていきたいものです。今日は礼拝の後に教会総会が開催されます。一年間の計画を立てて、実行していこうとしていますけれど、何をどう実行するにしても、主がわたしと共にいて下さる、だから大丈夫、この思いの中で総会が行われることを願いします。政治がどうなろうと、社会がどうなろうとも、経済がどうなろうとも、多くの人が大丈夫かな、心配だな、不安だな、でも、その時にこそ、なんであの人は平安なのか、私もあの人のように生きてみたい、何も言葉を駆使しなくとも、お金をかけることなくとも、私たち自身の主と共に生きる生き方が、きっと最大の伝道となるのではないでしょうか。そのような大丈夫感をしっかりと養いながら、私たちは今日も、そしてこの一週間も、これからもずっと主と共に歩んで参りましょう。

お祈りいたします。

コメント

新しい命に生きよう。

2017-04-19 09:24:11 | 礼拝説教

 【ローマの信徒への手紙6章3~11節】

     【マタイによる福音書28章1~10節】

 

 みなさん、イースターおめでとうございます。

 主なる神が主イエス・キリストの復活を通して、私たちに伝えたいと思ったことは一体何か?

 ローマの信徒への手紙、6章3節を読んで頂きましたが、そこに示されている御言葉を読みます。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」

 主イエス・キリストの復活を信じるとは、私たちが、「主による新しい命に生きる」ことだと聖書は告げています。それでは新しい命とはどんな命なのか、それが本日与えられたテーマであろうと思います。

 新しい命に生きるために必要な一つは洗礼によってキリストと共に葬られるということ、つまり、自分の人生に死ぬということだと思います。

  先週、娘と一緒に「祈りの力」というアメリカの映画を見ました。原題は「war room」「戦いの部屋」というタイトルです。

 夫トニーと妻のエリザベスと小学生の娘の三人家族が主人公です。夫のトニーは製薬会社のトップセールスマンとして活躍し、妻のエリザベスは不動産会社に勤めて、家を売買する部門で働いています。割合に豊かな家庭、傍から見たら幸せなファミリーのように見えるのです。しかし、実際は、夫婦関係は既に破たんしておりました。特にトニーは、家に帰っても妻とろくに会話しようともしない、たまにする会話は喧嘩となり、口論となるのです。娘の学校の成績やクラブ活動にも関心を示さず、言葉も荒く、愛情のかけらもない態度を取り続けていました。エリザベスは、なんとかして暖かな家庭を取り戻したいと願いつつも、殆ど絶望的に諦めていた状態でした。そんな折に、仕事でエリザベスは、自分の家を売りたいと言って来たクララという年配の女性と出会うことになります。

 クララは、エリザベスに自分の家の中を案内しながら、会話を交わしながら、エリザベスが何か問題を抱えていることを感じ取り、一休みした折にお茶を飲みながら話しかけました。

 あなたは神様を信じているのか、教会には行っているのか、家族はあるのか、子どもとは上手くやっているのか、夫との関係はどうか。

 当初、エリザベスは、クララの面倒臭いと思われる質問に、適当にあしらいながらも、人並みには信仰もあるし、教会も毎週とはいかないけれど人並みは行っていますよと話しつつも、クララが熱心に聞いてくるものですから、ついに心を開いて、夫との関係が最悪であり、もう修復は難しい状態であることを告げるのです。そこでクララはもう一度問いかけます。あなたは夫と口論して勝ったとしたらそれが嬉しいのか、負けたとしたら悔しいのか、勝っても負けても、どちらしにしてもそこにあなたが願う平和があると思うのか?

  そして、その家の小さな2畳ほどの衣裳部屋に連れていき、ここが私の「戦いの部屋」であると教えたのです。戦いの部屋、この部屋でこれまで必死に祈り続けてきたのだと告げます。マタイによる福音書の6章6節にこうあります。「だから、あなたが祈る時は、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いて下さる。」その御言葉を頼りとして、クララは自らの人生の多くの困難を、祈りをもって実践し乗り越えて来たのだと言うのです。

  そして更に話しかけます。エリザベスよ、あなたは今、神に祈ることが必要だ。あなたの本当の敵は夫ではない、敵は別にいる。それは例えるならサタンのようなものであって、サタンよ、私から去ってくれと祈り続けなければならないと必死に諭すのです。エリザベスはその必死さに、心が動かされるものを感じて、なお疑いつつも家に帰り、自分も小さな祈りの部屋を作り、そこで毎日、祈りの時間を過ごすことになります。そして祈りながら次第に気づいていくのです。これまでの夫との会話は、売り言葉に買い言葉で争い続けていたこと、結局のところ、全ては夫が悪いと思いつつ、夫に信頼も愛情も慈しみも赦しもなかったこと、そして何よりも神に祈っていなかったこと、そしてそのままそれは神を信頼していなかったことに気づいていくのです。

 人並みに教会に行って、人並みに信じているという言葉は、人並みに神も教会も信じていないということであったと気づいてくるのです。そこからエリザベスは更に本気になって自らの戦いの部屋で祈り続けます。夫の暴力的な言葉に自分の気持ちが引き出されないように気を付けながら、ののしられては、いたわりの言葉で返し、意地悪な仕打ちを受けても、反撃することなく、「敵を愛し、自分を迫害するものの為に祈りなさい」という御言葉を信じて祈り続けるのです。

 既に妻の変化に気づいていたトニーでしたが、ついに決定的なことが起こります。自分の失態で製薬会社を解雇されたのです。失意のどん底で帰宅したトニーに、自暴自棄になっていたトニーに、なお夫に対する信頼と愛情を失わない妻の姿を見て、トニーの心も大きく動かされ、思いが変化し、そこから家庭が、家族が生まれ変わったかのように導かれ、エリザベスは祈りによって、夫を自分のもとに取り戻し、娘は笑顔を回復し、家族の絆が強まり、祈りによって家庭が守られて行くことになる、そんなストーリーでありました。

 エリザベスに祈ることを教えたクララは、「祈りは戦いだ」と話します。戦う程に神に祈っているかと、映画を見ている者にも問いかけていたのだと思いました。

  私たちは人並みには祈っていると思う、人並みには信じていると思っています。けれど人並みとはどうことなのでしょう。人並みと本気との差はもしかしたら随分と違っているのではないかと思います。神に対して、自分が死ぬのか、死なないのか、自分が死んで、神と共に生きようとするのか、そこに本気かどうかが問われているのではないでしょうか。

  本気で祈り続けるその先に、見えてくるのは、これまでの自分の人生に別れを告げようと決意する思いではないでしょうか。キリストと共に葬られて、新しい神の命の中で生きていこう、そのような決心ではないでしょうか。

  ローマ書の6章6節以降でパウロは記しました。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」

  パウロは、神を知る前の私たちのこれまでの人生は「罪」に支配されていたと言うのです。クララがエリザベスにあなたの敵は夫ではない、敵は別にいる、それはサタンのようなものだと話す、そのサタンの正体を「罪」という言葉に置き換えることも出来るでしょう。しかも、それはあくまでも相手の罪ではありません。相手の罪を見つけて非難することが大切だと言っているわけではないのです。

  けれど、そうなると、それでは自らに罪があるのかと、問わざるを得なくなります。しかし、自分のうちに罪を認めるのは容易ではありません。あなたは祈りが足りないと言われてもなかなか受け入れられなかったエリザベスの思いは、少なくとも私にはよく分かりました。やっぱり自分が可愛くて、どこまでも自分は悪くないと思ってしまうし、けれど、そう思い続けていることが物事の解決を遅らせているということにも気づかないのです。

  今日、ここで罪とは何かについて、話をする暇は限られていますが、一言で言うとすれば「罪」とは神様と切れている状態だと言えるでしょう。繋がっていないという状態でしょう。

 例えば、どんなに素晴らしい電化製品だとしても、コンセントが無ければ動かないように、どんな立派な車であってもガソリンが入っていなければ一ミリも動かすことが出来ないように、タコ糸の切れてしまったタコのように、繋がっていない、切れている状態とは、そこに力が無い、実体が伴わないのです。

 ペトロの手紙という箇所に「人は、自分を打ち負かした者に服従するものです」(ペトロ2章19節)とあります。私達を生かし、命を与え、人生を与えて下さっている神に服従するのではなく、自分が打ち負かされた物、例えば自分の思いや、自分の計画、あるいはお金、時間、貪欲、時には夫、妻、親ということもあるでしょう。自分を打ち負かした者に服従してしまうのです。しかしそれらは、本物ではありませんから、本物ではない、神ではないものに服従してしまうという事です。神でないものに征服されてしまう、このことを罪というのだと思います。

 だからこそ、気付く事が大事です。私達が本物の神に従って、復活の主イエスの恵みの中で洗礼を受けようと決心したあの時、「新しい命に」生きていこうと決心した、その思いを忘れずに生き続ける事が大切なのだと思います。

 今日、これから洗礼式を執り行います。今日はお二人の方がその備えをしつつ、祈って礼拝に臨んでおられます。洗礼の意味はローマ書に「キリストと共に死に、しかし、死者の中から復活されたキリストと共に生きることです。」とあります。

 お二人は神と子と聖霊の御名によって、水によって清められ、罪が洗い流され、罪に死に、キリストと共に新しい命に生きようと決心されておられます。  

  本日の説教題を「新しい命に生きよう」といたしました。このタイトルは6章4節の「わたしたちも新しい命に生きるためなのです」という箇所から取りました。「生きる」という言葉は元々「歩く」という意味の言葉が用いられています。主イエス・キリストと共に新しい命の中を歩んでいきましょう。

 人生の時には走らなければならない時あるかもしれません。休むことも必要でしょう。しかし、大切なことは「歩く」事、そしてそれが「生きる」と訳されているという事です。私達の日常生活の中で、毎日が冒険のような、目新しい事が起こるという事は、そうそうはありません。また、そうであってもならないと思います。むしろ本来はもっと地味で、日々コツコツコツコツとした歩みであろうと思います。特に信仰についてはそうであろうと思います。

 勢いづいて一機に物事が進む事もあるでしょう。思いがけない展開の時もあるかもしれません。それもまた大切な事でありましょう。

 けれど洗礼を受けるあの感動を保ち続ける事は、むしろコツコツコツとした日々の生活の中にあって、その生活の中に信仰が織り込まれていくものでありましょう。

  だからこそ私たちに必要なのは、復活された主イエスに対して祈り続けることです。この方が共にいて下さることに感謝しながら、日常のコツコツした日々の中で、私たちは輝いていきたいと思います。

 主イエス・キリストは十字架の死の後、この世に復活されて、今この時、私たちと共におられます。インマヌエルの神に感謝しながら、この一週間、過ごして参りましょう。

お祈りします

コメント

野の花を見なさい。働きもせず紡ぎもしない。

2017-04-14 10:57:10 | 子どもたちに福音を

(マタイによる福音書6章28節)

 皆さん、今日はね「野の花がどのようにして育つのか、注意してみなさい。働きもせず紡ぎもしない。」という御言葉ですけれど、今から4年前になりますが、4月27日私の父親が天に召されました。88歳でした。

 私の父親は、とても野の花が好きな人でした。皆さん、盆栽ってわかりますか。五月とかツツジをね、鉢に入れて育てて、多い時には200位の盆栽が我が家にありました。だから4月、5月は花だらけ、それから春になると山に行って、わらびとか、ぜんまいとか、タラの芽とか、ふきとかを沢山採ってきました。秋になるとマツタケとかも採ってきたことがあって、マツタケご飯にして食べたことを思い出します。

 自然のものが大好きだったんでしょうね。私も何回も一緒に山に連れていかれて、ユリの根とか、美味しい山菜を沢山一緒に取って食べたことを思い出します。

  我が家の結構近くに「虹雲荘」というグループホームがありまして、お年寄りが5人位で一緒に住んでいて、春になると、そこでタラの芽の天ぷらとか川の魚の天ぷらとかを食べながらのお祭りがあったのも忘れられません。とっても美味しかったです。

 とても素敵な思い出ですが、良く考えると、山の山菜も川の魚も人が育てものではありませんし、誰かが世話をして水をあげて栄養をあげていたものではありません。全部自然に生えて来たものばかりです。だから、誰が育てたのかというと神様が育てたのだと思います。

 神様が育てたとは、どういうことかというと、寒い冬が終わって段々と春がやって来て、そして沢山のお花や植物が成長して来ます。なんで成長するのかというと、太陽の光、暖かい温度、雨の恵み、土の養分、私たちではどうすることも出来ない一つ一つを神様が用いて下さって育てたということでしょう。

 だからイエス様はこう話されました。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず紡ぎもしない。」

野の花とは、山とか野原にある花とか植物のことです。花とか木とか草のことです。花とか木か、植物が自分で考えて、こんな花になりたいなとか、こんなに大きくなりたいなと思いながら、育つのではなく、神様の思いのままに育って行くんですってイエス様は話されました。

  そして、イエス様は何を話されているのかというと、だから野の花よりも、人間の皆さんの方が、ずっと、ずっと、沢山神様から愛されているのだから、神様は、皆さんの一人一人をしっかりとご存知なのに、どうして心配だなぁとか、困ったなぁとか、腹が立つとか、思いながら生きているんですかって話しているんですね。

  野の花、植物でさえ、ちゃんと神様はみんなご存知で、太陽、雨、気温全部を備えて育てて下さるのですから、神様は私たちのことを忘れるわけがない、だから、悩まなくていいよって、そう話して下さっているんですね。

 私たちは、時々悩んだり、困ったり、泣いたりします。でも、そんなこと全部を神様にお任せにすればいいんですよ。何にも心配ないですよ。

 人間というのは、心配すると心が弱くなって、心が弱くなると、体も弱くなるものなんですよ。だから体の為にも、何にも心配する必要はありません。全部、神様、あなたにお任せします。そして、毎日を精一杯、元気に明るく、(笑)過します。そう祈ることですよ。

  聖書には何回も、何回も「心配しないように」って書かれてあります。お花や植物だけじゃありませんよ。空を飛んでいる鳥だって、心配しながら生きているわけじゃないよってイエス様がお話ししていますよ。ただ、毎日を一生懸命に生きると素敵な一日が与えられますよ。だから大丈夫、そう思いながら、心配しないで、今日も生きていきましょう。明日も生きていきましょう。この一週間を生きていきましょう。

お祈りします。

コメント

神の力

2017-04-12 19:18:58 | 礼拝説教

【コリントの信徒への手紙一1章18~25節】

【マタイによる福音書27章32~56節】

「神の力」

 今日から受難週の一週間が始まりました。マタイによる福音書から、主イエスが十字架につけられていく場面が読まれました。主イエスの十字架が何を示しているのか、一言で言い表すとするならば、今日、もう一個所読んで頂きましたコリントの信徒への手紙1章18節の御言葉であろうと思うのです。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」

 十字架の言葉とは、主イエスが捕らえられ、裁判にかけられ、十字架につけられる、その時、十字架の上で話された七つの言葉というものがあります。その言葉について言っていると説明される方もいます。

 マタイによる福音書においては「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と主が叫ばれたとあります。この言葉は七つの内の四番目の言葉であると言われます。伝統的には主が十字架の上で詩編の22編の言葉を用いたのだとも言われます。

「わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか」で始まる詩編22編は「暁の雌鹿に合わせて」というタイトルが付けられていまして、雌鹿とは旧約聖書のエステルのことだと言われます。旧約聖書エステル記に記されるユダヤの美しい物語の中で、ユダヤ民族為に、命を懸けて時の王と交渉したエステルの孤独が記されているのだと言われます。しかしその交渉は見事に成功し、ユダヤ民の命が守られていくように、詩編22編は「お見捨てになるのか」という嘆きで始まりながらも、徐々に神への感謝へと移行して、後半になればなるほどに神が称えられ、「わたしの魂は必ず命を得て、子孫は神に仕え、神の恵みの御業を子孫に告げ知らせるでしょう」という言葉で閉じていく。そのようにして主イエスもまた、十字架の上につけられても、尚主なる神を称えようとした御言葉だとも言われます。

 十字架につけられてなお、主を称え、主こそわが神と祈り続ける信仰、そんな信仰は愚かだと笑われるかもしれない。けれど、神の救いに預かる者にとってはそこにこそ救いがある。

 ここに神の壮大な人々に対する福音が記されているのだとコリント書は記したのではないでしょうか。

 けれど、また、「十字架の言葉」とは、主が話された七つの言葉に限ったことでもないでしょう。むしろ、この礼拝堂の正面にも十字架が掲げられていますが、この十字架はただデザインではなく、主イエスが十字架へ向かいつつも、地上の生涯、福音宣教を行われる中で人々に話されたすべての言葉を示していると考えても良いのではないでしょうか。

 その十字架の言葉、聖書の御言葉、そんなもの自分の人生に必要ない、そんなキリスト教の教えなど聞く耳を持たない、パウロが伝道旅行の中でアテネに行ったときに、アテネの人々はパウロが語る、主イエスの十字架と復活の話を聞いて、ある者は嘲笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言ったとありますが、主イエス・キリストの十字架と復活、関心の無い人々には、なんと愚かな言葉であろうとか聞く耳持たなかったということでしょう。

 けれど、自分の人生において、自分自身の人生の中で、聖書のこの御言葉によって自分は生きていこう、主の語られたこの御言葉によって自分は支えられている。折に触れ、人生のここだという場面でしっかりと用いて、自分の心に、自分の健康に、自分の生き方に、精神状況に活用する人にとって、そうだ、神様の守りが自分の内にあるのだから、昨日よりも、今日、今日よりも明日を、精一杯に生きていこう、と思う者にとって、すなわち私たちにとってはまさに神の力となっていくのだと思うのです。

  先日、一人の新聞記者の質問に答えて怒って、出ていけと怒ってしまった大臣がいました。福島原発の事故の中で、自主避難している方々に対応する政府の姿勢に、批判的に突っ込まれて怒りが爆発したのだと思います。なんで我慢できなかったのか、なんで怒って暴言を吐いたのか、大臣失格だとか、色々と言われていますが、私は、大臣は自分のプライドが傷つけられたと感じたのではないかなと思いました。

 私たちは自分のうちに知らず知らずのうちにプライドとか自尊心があります。良くも悪くもプライドの無い人はいないのです。けれど、この大臣ではありませんが、生きていく中で、どうも上手くいかないな、どうもよくないなと思うような時に、もしかしたら自分のプライドが邪魔しているということがあるのだと思います。

 大臣だけではありません。牧師こそプライドだらけかもしれません。3月の末に幼稚園の理事会、評議員会がありまして、評議員としてお願いしている古旗先生(目白教会牧師)、森田先生(元横須賀本牧教会牧師)、服部先生(伊勢原教会牧師)が来て下さいました。委員会の後に場所を移しまして、消息を尋ねつつ暫く楽しく話をしました。色々な話をするなかで、その細かい話をここでするのは止めますがが、つくづく思わされたのは牧師がプライドを持つとどうもよくない方向に向くのではないかと改めて思わされたわけでありました。一つだけ話すとすれば、私が大塚平安教会でこうして役割が与えられている、ありがたいと本当に思っておりますけれど、そんな会話の中で古旗先生が会堂建築のこともあり、少しばかり褒めて下さった、菊池君はよく頑張っていると思いますよ。そう褒められると嬉しいものです。けれど、すかさず、服部先生がこう言われたのです。菊池さんは前の教会で苦労されたから、その時の苦労があってのことじゃないですか。その苦労を当時、私は時々、服部先生に愚痴って、こぼしていましたから服部先生は良くそのことを知っているのです。

ですから、その言葉は私にとって図星なのです。本当にそうだなと思いました。家内も私も複雑で色々な思いを持ちながら前の教会で過ごしました。そんな中でもね、その前の教会から時々この教会の礼拝に来て下さる方がおられるのは、そういう苦労を知っていて、そして、一生懸命に支えて下さった方々ばかりです。ですから本当にありがたいと思います。

 でもその時に、服部先生が話された菊池さんは苦労したからという言葉を聞いて、図星でありながら、図星だからこそ、恥ずかしいと思いました。ですから、すぐにそうんなんだよね~という言葉が出て来ないのです。なぜか、恥ずかしいと思ったのは、自分のプライドがズキっとしたからです。そんな泥臭い苦労話などしたくない、いつもスマートに生きていきたいと思う、そんなプライドなど捨ててしまえばよいのに、なかなか捨てられないのです。

 今、世界が非常に険悪なムードになっています。世の指導者たちが互いに不信感と、不満を持ち始めていることは明らかです。そして、本当に戦争状態が起こるかもしれません。そうならないようにと心から祈っていきたいと思いますけれど、何が原因なのか、経済的なこと、民族的なこと、あるいは宗教的なこともあるかもしれません。けれど、どの国の指導者もみながものすごいプライドを持っていて、そのプライドが傷つけられたと思った時が本当に危ないと思う。

 よその国の人の命より自分の、自分達のプライドが大切、それがこの世の中なのだとさえ思わされます。誰かが、いや、誰もが自分のプライドを捨ててと思うところでは、少なくとも戦闘状態は起こらないはずだ思うのですが、違うでしょうか。プライドを捨てるとは卑屈になるということではありません。戦後日本の失敗は戦争に負けたことによって、一億総ざんげというような言葉を用いて、戦争を起こした責任のある者を正しく罰するわけでもなく、あるいは潔く間違いを受け止める作業が不十分なまま卑屈になっていたのかもしれないと思います。でも、プライドを捨てるとはそういう卑屈になる、下をむくこととはまったく違います。

 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」この言葉は何を意味しているのか、神の子主イエス・キリストが神のプライドを捨てて、最もみじめな姿になって、十字架に付けられて、人々からあざけられて、見捨てられるようにして死んでいった。そして、それは、神の子だからというよりは、私たちの救いの為に、自らのプライドを完全に捨てたということではないですか。

 この神の子としてのプライドを捨てて、十字架の言葉として何を示して下さったのか、「神の愛」ですよ。しかも徹底的で、いつまでも尽きぬ泉のように湧き出て来る無尽蔵の神の愛が示されていると思います。

  先週の金曜日、幼稚園の始業式が行われました。金曜日、私はさがみ野ホームでの礼拝がありますので、どうしても途中から参加するのですが、ですから私の役割は決まっておりまして、幼稚園の年間の説明や報告が終わった10時30分ごろから、11時近くまでお母さん、お父さんの保護者の皆さんへのメッセージの時間です。一部では子どもたちが教室から出て来るまでの、時間調整の時間とも言われます。(笑)それはどちらでも良いのです。凡そ20分の間、一生懸命に話をさせて頂きます。

そこで話しましたことも、プライドと関係があります。皆さんよ、子育てしていると本当に親の思い通りにはいかないということがわかります。だから大事なことは、親の言う通りに生きろとか、こうしなさいとか、あ~しなさいとか、そういう言葉ではありませんよ。キリスト教は言葉の宗教と言われますからね。ですから勿論言葉も大切です。でも、言葉一つどう用いるかによって子どもも、大人も元気が出たり、傷ついたりするものなのです。と話しました。

特にこの傷つくのは、支配と比較することによってです。兄弟が二人いたとする。お兄ちゃんはこんなに出来たのになんでお前は出来ないのかと言ってごらんなさい。その言葉にどんなに子どもが傷つくことか、支配されるようにして育った子どもはどうなるのか、「お父さん、私はこう思うけれど」「あ~なるほどそう思うのか」とちゃんと受け止めてもらえずに、聞いてもらえず支配されている子どもは、支配されるようにして育てられると、子どもの心の中がどうなるのかという、自分は不十分な者、価値の無いもの、自分はダメだ、自分はダメだ、と思うのです。ですからどこまでいっても自分自身の確かな自信を持つことが出来ず、沢山の重荷を負うことになるのです。 

だから、皆さんよ、大切に、大切にその人にとって益となる言葉、力となる言葉、喜びとなる言葉でもって子育てして下さいね。と申しました。でも、それだけでも足りないのです。

 皆さん、「十字架の言葉」と聖書にあります。十字架の言葉、その意味は、主イエスが話された十字架上の言葉かもしれません。けれど、この十字架の言葉は、言葉を超えていくものですよ。むしろ、何をどう話そうとも、時には比較してしまい、時には支配しまおうとも、その言葉を超えて、あなたの存在がどんなにか愛おしいかと思う愛があるなら、いや、その愛こそが言葉を超えて伝わるのですよと申しました。

 どんな状況にあっても、どんな環境にあっても、伝わるのはその言葉を話す、言葉の背後にある思い、その思いが言葉をかける相手を慈しみ、その人を大切にする思いから出ているのであれば言葉を超えて十分に思いが伝わるのだと思うのです。十字架の言葉は、主イエス・キリストの愛の形です。この愛によって私たちは救われました。

神の救いがここに示された。そのような愛、それが神の力なのだと思います。

  そして、そのような神の力が今のこのような世の中にどうしても必要なメッセージだと思うのです。昨日、息子が聞いてきました。「お父さん、なんか戦争が始まるんじゃないの、どうすれば平和になるの」「う~ん、そうだな、もしかしたら宇宙から敵が攻めて来たら人間は一つになれるかな」「でも、宇宙の敵が来たら、あっというまにやられてしまうかもね。」「そうだね、だからダメだね」

 だから、戦いでは平和は与えられないのです。どうしたら平和が与えられるのか、十字架の言葉の本当の姿である主イエス・キリストは、誰の為でもなく、世界中の神に似せて作られた人間、つまり、全ての人の為の十字架であったということを知ることです。

 私たちは神に似せて作られているのです、だから日本人も、中国人も、アメリカ人も、更にはあらゆる民族、あらゆる宗教をも超えて、主イエス・キリストはユダヤ人も、異邦人をも超えて、神の愛、神の力を示し続けておられることを、私たちはしっかりと受け止めつつ、また、そのことを発信していく神の力が与えられることを願いながら、平和を思い、神の愛に生きながら、この受難週を過ごして参りましょう。

 

 

 

コメント

あなたを生かす力

2017-04-02 14:43:06 | 礼拝説教

【マタイによる福音書20章20~28節】

 2017年度になりまして最初の礼拝が与えられました。この礼拝の中で、ドレーパー記念幼稚園の先生方、教職員の方々の任職式が執り行われます。私たちはここに集われている先生方を覚えつつ、幼稚園を覚えつつ、働きが守られますようにと祈りながら礼拝を進めていければと願います。任職式が行われ、そのすぐ後に、月の最初の主日でありますから、聖餐式が執り行われます。

 この聖餐式は2000年に亘るキリスト教の教会の歴史の中で守り続けられて来た儀式です。私たちプロテスタント教会では、洗礼式と聖餐式との二つを専門用語では「聖礼典」と言い表します。聖書の聖、礼拝の礼、式典の典という字を用います。カトリック教会では「秘跡」と言います。カトリック教会では七つの秘跡と申しまして、洗礼式、聖餐式、堅信、ゆるし、病者への塗油、叙階、結婚、を秘跡とします。それがどのようなものか、一つ一つの説明は致しませんが、結婚はどなたでもすぐにわかるでしょう。病者への塗油とは、病気の時に油を塗るというよりは死にゆく者に対して教会の祭司が行わなければならない大切な一つ役割です。

 日本では人が死ぬとどうなるのか、わかりませんが例えば三途の川を渡るのだと教えられます。その三途の川を渡るには金銭が必要だとも言われます。ですから場所によっては棺の中に、お金を入れる習慣が今でもあると思います。昔は六文銭を入れることになっていたようですが、そのように教えられ、そういう習慣を持っている方々がいたとして、家族が亡くなったときに、お金を入れないで葬儀を行ったとすれば、恐らく遺族は死者に対して罪意識や罪悪感を持つのではないでしょうか。

 教会では死者の棺にお金を入れることはありませんけれど、そのようにして長いカトリック教会の歴史においては、死に行く人に対して油を塗る、勿論、油を塗ってその人の為に祈るのです。死に行く人にとって、また、見守る家族にとって、この行為が無ければ死んだ後に、魂は救われないのだと信じられていました。ですから油を塗る時間も無く、突然に死んでいくことが大変恐れられていたとも言われます。 

 人の死に対する思いは時代の進歩とはあまり関係なく、気持ちとして、思いとしては抑えがたいものがあるのではないでしょうか。簡単に割り切れるものではありません。

 そのような、人がとても簡単に割り切れないと思われる出来事に関して「秘跡」、私たちの言葉で言えば聖礼典が行われていたと言うこともできると思います。

 例えば結婚もそうです。聖書の箴言という箇所(30:18)には世の中には分からないことがあって、その一つは男と女が出会うことだとあります。私たちはこんな人と出会いたい、あんな人と出会いたいと願う、けれど、当然自分の思いだけでは結婚出来ず、出来るとしたら、その出会った男女に対して神様が正しく介入されてこそ結婚まで進めるのです。だから結婚も秘跡だというのです。秘跡という言葉はギリシャ語のミュステリオンという言葉が語源です。このミュステリオンが英語となってミステリーとなりました。ミステリー、一般的には神秘とか不思議なことと訳されます。

 ですから、人の目にはわからない、神様の領域だと言うこともできるかもしれません。しかし、それを目で見てわかる儀式が聖礼典と呼ばれるのです。

 叙階という秘儀は、聖職者と呼ばれる者に対して行われる儀式ですが、今日の幼稚園の先生方の任職式も、その一人ひとりが聖職者となるわけでありませんけれど、キリスト教の教会が生み出したドレーパー記念幼稚園で働かれるということは、ただ幼稚園の先生としてだけではなく、子どもたちを自分の所へ来させないと話された主イエスの教えを汲んで頂いて、その思いを子どもたちにも伝えていって欲しいと願う教会の思いが込められた任職式であると思うのです。

 そのような歴史、背景を持つ幼稚園で働かれるということも、ただ自分で決めたからとか、採用されたからとか、人が決めたということを超えて、主なる神が自分の人生に介入されて、その人生の中で繋がりを持って下さり、働きの場が備えられたのだと私は思いますし、教会の多くの皆さんが祈りを込めてその働きを支えようとしていることをどうぞ忘れないで頂きたいとも思います。

  そのようにして、私たちの人生に神様が直接的に、あるいは間接的に介入される業、その目に見えない恵みが見える形として示される業を「秘跡・聖礼典」としたのでありましょう。

  プロテスタント教会の聖礼典は七つではありません。二つです。それが洗礼式と聖餐式です。私たちの教会は、この聖書的に根拠があると信じる二つをもって、神の介入の目に見える業と信じて行っている儀式であります。

 当時の教会は良くも悪くも、というより悪い方向に堕落し、非常に世俗的になっていたと言われます。それゆえ秘跡としての七つの儀式もただ形だけの、心の無い、形骸化したものであったと言われますし、当時の教会にとって都合のように用いられていただけであったとも言われます。そのことを憂いた宗教改革を行った先達が、聖書の中に根拠のあると考えられる洗礼式と聖餐式を聖礼典とすると定められていったのでありましょう。

 本日はマタイによる福音書の20章という箇所を読んで頂きましたが、場面はイエス様と弟子たちの一行がエルサレムに向かって旅をしている場面です。

 21章からは、エルサレムに入られた場面が読まれますが、その場面から、ご自身が捕らえられ、裁判にかけられ、十字架刑に付けられる一週間の始まりを意味します。今年度で言えば来週の9日の日曜日がその日にあたります。9日にエルサレムに入り、13日の木曜日に最後の晩餐を行い、14日に十字架刑に処せられます。そして、三日後の4月16日が今年度のイースターです。

 ですから、今日読まれた箇所も主イエスの思いとしては緊張が強いられる場面でもあったと思います。緊張感を持ちながら、弟子たちを前にしてご自分がこれからエルサレムにおいて、捕らえられて、裁判にかけられて、十字架刑となり、しかし、三日目に復活すると、弟子たちに伝えた後の出来事です。「ゼベダイの息子たちの母が」と回りくどい書き方ですが、弟子のヤコブとヨハネの父親の名前がゼベダイと言います、しかし、父ではなく、母が登場して、二人の息子と共に主に願い出ました。主の十字架と復活の出来事について聞いて、その深い意味まではわからないとしても、ともかく主イエスの御支配がいよいよ、本格的になるのではないか、主イエスがこの世の王として君臨する時が近いのではないのかと感じたのではないでしょうか。その時にはどうぞ、この二人の息子をあなたの側においてくださいと願い出たのです。読めば、なんと愚かなことをしたと思わされる場面かもしれません。

 けれど、この母の名前はもしかしたらサロメと呼ばれる人ではないか言われます。となると主イエスの母マリアの姉妹ではなかったか、とすればなおこの人は主イエスが十字架にかけられたときに、弟子たちは逃げてしまったけど、最後まで十字架の側で見守っていた婦人たちの一人であったのではないかとも言われます。

 今はまだよくわからないけれど、いよいよあなたの支配が始まろうとしているのですね。その時にはこの息子たちがあなたの役に立てるならば、とむしろ謙遜な思いを込めて願ったのではないでしょうか。けれど、尚、それは愚かな言葉であったには違いありません。

 主イエスは「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯をのむことができるか。」と言われました。わたしが飲もうとしている杯とは何か。ここで思い起こしますのは最後の晩餐の後に、一行が外に出まして、ゲッセマネと呼ばれる場所に移動して、そこで主イエスが祈られた場面です。この祈りの後に主は捕らえられるのです。捕らえられる直前に主イエスが必死の祈りを捧げるのです。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」。

すなわち「この杯」とは主イエスの十字架の苦しみ、十字架の死を意味していることがわかります。

 ゲッセマネの祈りの前に最後の晩餐と呼ばれる「主の晩餐」が行われます。そこで主イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂いて、弟子たちに与えながら言われます。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」それから、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らに渡して言われます。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」この主イエスの業と御言葉こそが、聖礼典としての聖餐式の根拠ともなります。

 主イエスがパンを取り、これは私の体である。杯を取りこれは多くの人の為に流される契約の血である。と言われた意味は何か、パンも杯も十字架に付けられる主イエスの姿を思い起させるものです。主イエスの十字架とは、私たちの罪に対する神の子、主イエスだけが担うことのできた贖いの死であると、私たちは教会で教わり、またそのように伝えます。ですから、主イエスが弟子たちに向かって「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」という問いかけは、「あなたもわたしのように十字架にかけられるそのような覚悟を持っているのか」という問いかけでもあると思うのです。少なくともそのような厳しさが込められていると私は思います。簡単に「できます」とも答えられないような厳しさだと思います。

 とはいえ、弟子たちは「できます」と答えました。この時には主が問われた意味さえよく分かっていなかったであろう弟子のヤコブとヨハネでした。けれど、実際この二人は、主イエスの十字架と復活の出来事を通し、また聖霊に満たされて立ち上がり、主イエス・キリストの福音を宣べ伝える二人となり、ヤコブは使徒言行録の12章によれば、ヘロデ王の迫害によって剣で殺され、殉教の死を遂げることになりますし、ヨハネは長く生きたと言われ、またヨハネによる福音書を記したと言われますけれど、生ける主イエスと共に生きた数少ない証人として、その生涯を福音宣教の為に生き抜きました。しかし、その人生のほぼすべての時間を、キリスト教に対する迫害の中で生きた人でもありました。

 ヨハネは主イエス・キリストを宣べ伝えながら、礼拝において主イエスが教えて下さったようにしてパンを裂き配りながら、杯を取って渡しながら、何度も何度も今日読まれた箇所について話をしたのではないでしょうか。自分が如何に愚かな者であったか、しかし、今となって、どんなに主イエスの福音の中に、愛の中に包まれて幸いを生きているのかを宣べ伝えたのではないでしょうか。主イエスの十字架刑と復活からキリスト教は300年以上に亘って迫害を受けました。けれど、その迫害の中で、命がけで守り続けられた礼拝の形が聖餐式でありました。迫害されてなお、理解されなくともなお、このパンと杯によって、主イエスの十字架の姿を思い起こし、そこに神の愛が示されていることを心から受け入れながら、数えきれない程の殉教者を出しながらも、神のミステリー、神の業が守られて来たことを思います。

ですから、私は改めて願います。この聖餐のパンと杯を今ここにおられる方々の全員が受け取って頂ける日が与えられる日が来ることを神に願います。現代の日本においてキリスト教は迫害されることはなくなりました。けれど、尚更この聖餐の業がどこまで私たちが心改まる思いで受け止めているのかが問われているのだとも思います。

 このパンとこの杯は何を意味しているのか、これ以上、限られた時間の中で今日読んでいた頂いた聖書箇所の全部について話すことは出来ませんが、最後に更に一個所読みたいと思います。

マタイによる福音書の20章27節、28節「いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためにではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」この御言葉に込められているのは、十字架とは徹底的な神の愛の形であったということです。主イエスはわたし達に、ただ一つ「愛すること」を求められています。徹底的に愛することです。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えられた主の御言葉を思います。パンと杯の中に、その十字架の中にこそ、愛がある。私はそう信じます。ヨハネの手紙4章10節は良く知られている御言葉です。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。「ここに愛がある」と聖書は記します。ここに愛があるのです。ここに愛の思想があるのではなく、愛の理想があるのでもなく、こうしたら愛することだという説明でもなく、筋道が建てられているのでもなく、愛がここにあると聖書は伝えます。ここに、この場に愛がある。幼稚園でも、教会でも、それぞれに置かれたその場でそのように生きるのです。わたし達はそのように生きていけば良いのです。主の恵みをしっかりと受け止めて、この一年も歩んで参りましょう。                    

コメント