日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

先を見る力

2017-03-28 13:15:19 | 礼拝説教

ペトロの手紙二 1章16~19節

【マタイによる福音書17章1~13節】

 先週の礼拝では「神の岩」と言う説教題で、マタイによる福音書の16章13節からの箇所を読みました。主イエスが弟子たちと共にフィリポ・カイサリア地方にいかれたときのことでした。主が弟子たちに尋ねます。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」。弟子たちはそれぞれに、洗礼者ヨハネだとか、エリヤだとか、預言者だと答えますが、それでは改めて聞くが、あなた方はわたしを何者だと言うのか」と問われて、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子」ですと答えました。この答えを聞いて、ペトロの信仰を受けて、その信仰を土台として、その信仰に続くものの上に、私たちの上に私は教会を建てると約束して下さいました。

 更に、その後にはご自分がエルサレムに行って、そこで、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっていると弟子たちに打ち明けられ「わたしについて来たいものは、自分を捨て、自分の十字を背負って、わたしに従いなさい。」と弟子たちを励まされた場面を読みました。

 今日与えられました聖書箇所は、それから六日後ということになります。丁度一週間後と考えても良いかと思います。主イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、高い山に登られました。先ほど、フィリポ・カイサリア地方に行った時と申しましたが、その地域で高い山とは、ヘルモン山と呼ばれている山のことです。

 山というよりは山脈のように、峰々が続いている高い山、ヨルダン川の源流にもあたり、この山によって豊かな水が供給され、人々の暮らしを支えていたようです。 

 そんな山の山頂までいったかどうかは分かりませんが、かなり高い場所まで登ったのではないでしょうか。マルコ福音書やルカ福音書にも同じ記事が記されていますが、それらを合わせて読みますと、時間は恐らく夜であったと思われます。弟子たちは疲れてとても眠かったようです。けれど、その暗さの中で、主イエスの姿が変わっていく、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなって、更にそこに旧約聖書の指導者モーセとエリヤが登場する、弟子たちにとってみれば、信じられない、とんでもないと思われる場面を見ることになります。

 弟子たちは、主イエスを、洗礼者ヨハネの生まれ変わりではないかと思い、あるいはあの預言者エリヤだと思い、あるいはエレミヤだ、預言者だとそれぞれに主イエスを思っていたわけですが、ここに来て、主イエスが光り輝き、そこにモーセとエリヤが登場した。ペトロが「あなたこそ、メシア、神の子だ」と話した、その言葉に喜んだ父なる神が弟子たちに改めて主イエスの神としての姿を示してくださった瞬間であったとも言えるでありましょう。

 ペトロは喜び、興奮して、「主よ、わたしたちがここにいるのは、素晴らしいことです」と語りながら、ここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセの為、一つはエリヤのためにと話しているうちに、更に天から「これは、わたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声を聞き、もう弟子たちは興奮を超えて、恐れおののいたのではないでしょうか。その声にひれ伏しているところで、主が彼らに声をかけられます。「起きなさい、恐れることはない」彼らが顔をあげてみると、そこには主イエスのほか、誰もいない、すなわち、元に戻っていたわけでありました。

  それでも、弟子たちは大いに喜んだと思います。自分達の師匠は、先生は本当に大した方だ、到底信じられない場面に私たちは遭遇することが出来た。まさに誰も知られることのないような真の姿を知ることが出来た。その喜びを他の弟子たちにも知らせ、多くの人々にも知らせなければならないと思ったでありましょう。それほどの喜びの場面であったと思います。

 人は、自分の悲しみとか辛さ苦しさというものは案外人に話さず、じっと自分で我慢することが多いものです。あまり悲しさや辛さを話すと愚痴のようでもあるし、弱い人だと思われるもの嫌ですから、滅多に苦しみや悲しみを話さないものですが、けれど、逆に、喜びや嬉しさはやっぱり誰かに話したいと思うものでありましょう。

 先日、思いがけなく岩手におります私の弟から電話がかかってきました。年に一度あるかないかの電話ですが、岩手で何か起こったのかと一瞬こちらが緊張しましたが、どうも話していると差し障りのない話をしているのです。何の電話かなと思いながら聞いていると、おばあちゃんは元気かというのです。元気だよと話すと、おばあちゃんと話がしたいというのです。何の話かと思いましたら、弟には一人息子がおりまして、その子が願っていた高校の受験に合格したことを報告したかったのだとわかりました。しかも、岩手では名門と呼ばれるような高校に合格した。それをどうしても黙っているわけになはいかない、私にもそれを聞かせたかったのだと思いますし、喜びを分かち合って欲しい。そんな思いで電話してきたのでしょう。喜びは分かち合ってこそ喜びになるのだと思います。

 弟子たちもだから、この山の場面をどんなにか他の弟子たちと喜びを分かち合いたいと願っていたのではないでしょうか。先ほどペトロの手紙を読んで頂きましたが、そこでも、ペトロは「わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。「荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉と栄光をお受けになりました。私たちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。」と記すほどに、ペトロ自身の生涯において忘れがたい出来事として記憶されたことでありましょう。

 けれど、主は山を下りる時に弟子たちに告げました。「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」

「今見たこと」という言葉は、私が用いている英語の聖書にはビジョンという言葉になっていました。通常、ビジョンとは幻と訳される言葉です。けれど、日本語の幻と言う言葉は、辞書で調べますと「実際にないのに、あるように見えるもの、まもなく消えるはかないもの」と出て参ります。英語の辞書でも同じような意味で記されてもいますが、順番としては4番目、5番目の意味で、実際には、見た光景とか、物の見方、考え方としてとらえるのが一般的です。あるいは日本語としてビジョンという言葉を用いるならば、それは、これからの目的とか、展望、将来を見通す力、として用いられるのではないでしょうか。

 すなわち、「今、見たこと」、神のビジョン、神の展望を誰にも話してはならない。少なくとも「人の子が死者の中から復活するまでは」と限定的な命令ですが、しかし、弟子たちにはこの時、主イエスの死と復活の意味を十分には理解出来なかったでしょう、でも、話すことはしなかったと思います。この主からの命令は特別なものであると感じていたのかもしれません。

 なぜ、話してはいけないのか、今、話したとしても多くの人々は信じないからとか、ただ、混乱を招くだけだからとか、敵対する者が更に攻撃を仕掛けて来るからとか色々と考えられると思いますけれど、私は「神の時」があるのだろうと思わされます。

「神の時」、今、受難節の時期を過ごしておりますけれど、今年の主の復活を祝うイースターは4月16日3週間後になります。

 この間のことですが、青森県に三沢市という町があるのですが、三沢基地という基地があることで知られていますけれど、その商店街が計画して3月25日(土)、26日(日)とつまり、昨日、今日ですよ。ハッピー・イースター祭りを行うというのです。このことを知ったフェイスブックというパソコンの仲間がチラシや情報を知らせて来まして、まだ受難節なのに、少し早いんじゃないのかというのです。別に怒っているわけでもなく、町起こしのイベントとして行うのでしょうから、悪いとも思いませんけれど、でもまあ今年の場合は、ちょっとは複雑な思いにならないでもない。なぜかというと、イースターを上手い具合に「人の時」に合わせて使われているようにも思うからです。

  イースターは「神の時」です。主イエスが十字架に付けられ、そして三日の後に復活された、それはきっと神が最も良い「神の時」として下さったということでしょう。復活された主は弟子たちと出会い、そして、更に聖霊降臨の出来事が起こり、弟子たちが聖霊に満たされて、神の福音を語りだしたときに、ペトロもヤコブもヨハネも、私たちはあのヘルモン山で、主イエスが光り輝き、モーセと、エリヤとが現れて、更に天からの声を聞いたのだと語りだしたのだと思いますが、語りだすのもまた時があって、その時、その時がきっと与えられている、そういうビジョンを持つこと、そういう先にこそ、神のビジョンがあると信じて進んでいくこと、それが大切なのだと思います。

  私たちは、時として「人の時」、「自分の時」を優先させたいという思いに駆られます。私が神様に捕らえられて信仰を得ましたのは、20代前半でした。それまで自分はどうやって生きていこうか、どうやって生活していけばいいかと悩み続けながら、池袋の立教大学の裏側に沢山あるのですが、安くてボロイというと叱られるかもしれませんが、貧しい人にリーズナブルな、つまり、私には好都合な、4畳半 風呂なし、共同トイレ、月1万7千円という屋に住みながら、自分は一体これからどう生きたらいいのか、自分で言うのも変かもしれませんが、随分頑張って生きていました。でも、何をしても上手くいかず、学力も、体力も、財力も無い自分を思いながら、ある日、部屋の中で立ち尽くした自分のあの光景を忘れることもありません。

 でも、そのあたかも人生のどん底のような時代に聖書と出会いました。聖書を読みながら、こんな世界があったんだと感じたあの感動も忘れることが出来ません。あの時に、こんな私でも、神様は忘れておられるわけではなく、こんな自分でも神様の愛の中に包まれていて、何も取柄もない自分でも生きていっていいんだよ、そう言われているような気がして、そこから、私自身の人生のビジョンが生き始めたのです。でも、そのビジョンは私の人生でありながら、確かに「神の時」であったと私は思います。

 人は、自分が生きるために、何とかしようとします。なんとかして「人の時」、「自分の時」を手にしたいともがくのです。もがく気持ち、私も経験しましたから良く分かります。何とかしたい、なんとかしなければ、でも、それが「神の時」でなければどうしても前進しないのです。自分も良し、回りも良し、でも、どうしても上手くいかない時もあります。 

 あるいは自分も嫌だな、回りもダメだなと言う時もあるけれど、でも神さまは今だよと、今こそ「神の時」だよと言っておられるそういう時もあるのだとも思います。

  だから私たちはしっかりと「神の時」を見極められるなら良いのになと思うわけですが、でも、なかなか、今だという上昇気流のようなその「神の時」という風に乗れるかどうか、でも、だから乗るために必要なこと、一つは「神の時」とは備えの時でもあるということでしょう。主イエスがこの地上に現われて「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と福音宣教を告げ、そして、イスラエルの各地で、エルサレムで、時には異邦人の土地で、福音を宣べ伝え、神の業を示されました。その一つ一つの出来事は、誠に「神の時」でありながら、「準備の時」でもあったと思います。弟子を集め、自分の十字架を背負って、私に従って来なさいと語られた主の言葉もまた、弟子たちにとっては大切な準備の時でありました。

 備えの時、このような時はいつまで続くのか良く分からないものです。一年なのか、二年なのか、三年なのか、でも、この準備の時が大切だと思います。先日の役員会でも少し話しましたが、今日の礼拝が2016年度最後の礼拝です。来週の礼拝2017年度最初の礼拝、この2017年度をどう私たちは生きていくのか。

 先日、息子のKの卒業式がありまして、一緒に卒業した友達の中に、茨城県の土浦めぐみ教会という教会に通っている友達がいるとことを聞きまして、それがどういう意味かというと、その教会は毎週600人の人が礼拝に集まっているというのです。牧師が5人も、6人もいるというのです。なぜ、そんなに大きな教会なのか、今、色々な方面から情報を集めておりますけれど、少なくとも様々なビジョンを持って歩んできていたことは間違いありません。私たちの教会は、新しい年度をどのようにして宣教活動をしていくのか、私たちもビジョンを持っていきたいと思います。でも、どのようなビジョンを持つのか、その備えをしっかりと進む新しい年度に出来ればと願います。

 勿論、人数だけではないということにも気を付けなければなりません。

  エフェソの信徒への手紙5章15節にこう記されていました。「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。」私たちは、人の事ばかり考えてしまうと、愚かな者となるかもしれません。賢い者とは、細かく気を配って、時をよく用いる者だとあります。細かく気を配るとは、今を大切にしなさいということでしょう。主イエスは99匹の羊を安全な場所において、迷い出た1匹を探しに出られる方であることを忘れてはならないと思います。

 そして神の時とは、しっかりと備えの時を生きて、よし、この時とばかりに、神の時を漕ぎ出せたとしましょう。漕ぎだしたら順風満帆かというと、決してそうではありません。「準備の時」の次は「試練の時」がやって来きます。大体、その決意や思いが本物であればあるほどに不思議なことに反対がやって来ます。それは違うのではないか、それは間違っているのではないかと反対されてしまう。でも試練を通れば通るほど、人は成長するのです。成長しながらしっかりと乗り越えながら、更に確かな神の時、真の神の時として、「復活の時」が与えられるのだと思います。

 復活の時、あの十字架の死から三日の後に復活された主イエス、それは絶望からの希望、悲しみからの喜びを生きる、復活の望みを私たちは与えられています。

  主イエスが復活されて、弟子たちがすっかり変えられて来たように、私たちもいつでも変わることが出来ると思います。復活の主と出会い、聖霊を受け、しり込みしていた弟子たちが変わっていったように、私たちの信仰がいつも神の時、神のビジョンを信じながら生きられるようにと心から願うものであります。

                                                     お祈りいたしましょう。

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喜び続けていきましょう。

2017-03-22 13:56:20 | 子どもたちに福音を

「主において常に喜びなさい。重ねていいます。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。」

(フィリピの信徒への手紙4章4~5節)

 今日は「主において常に喜びなさい」という言葉です。

 聖書のお話、イエス様のお話は、いつも私達が話しているお話しとか、年長さんがたはね、もうすぐ小学校に入って一年生ですけれども、学校で教わるお話しとはちょっと違います。

  私たちが、いつも話しているお話しや、学校で教わるお話しは、どっちが「良いのか、悪いのか」、どっちが「正しくて、正しくないのか」ということばかりじゃないかなって思います。

 例えば、一年生になると、文字を教わります。ひらがなだけではなくて、漢字も教わります。書き方や、読み方を教わりながら、正しく書けたり、読めたりすると〇をもらって、正しくないと×がつけられてくるのです。

 私たちがいつも話していることも、こっちが良いことですよ。正しいことですよ。でも、こっちは悪いことですよ。正しくないことですよ。そんなことを話している時が多いかなぁって思います。

  でも、聖書は正しいのはどっちか、正しくないのはどっちかを教えているわけではありません。

 何を教えているのかというと、大切なことは「いつも、喜んでいることですよ。いつよ、神様に守られて嬉しいなぁって喜ぶことが大切なんですよって」教えているんですね。

 先生は教会の礼拝でもいつもお話しをしていますが、何をお話しをしているのかというと、神様の前で、「いつも喜んでいることがとっても大切なことなんですよ」って、大人の皆さんにもお話しするんですよ。

  皆さんね、悲しいことはね、1人で悲しむんですよ。悔しかったり、悲しかったりというのはね、1人でも出来るんです。でもね、喜ぶことは一人では出来ません。どうしてかというと、喜ぶこと、嬉しいことはね、どうしても人に話したくなるからです。

 皆さん、宝くじって知っていますか。昔、先生は宝くじに当たったことがありました。

 宝くじの当選番号は新聞に載りますから、その日は朝早く起きて、新聞を見て、宝くじの番号を調べました。そしたらね、なんと1万円当たっていたんです。そしたら、思わず「当たった~」って大きな声を出してしまいました。黙っていたら、自分だけで使えたのに、「当たった~」て叫びましたから、家族みんなが、もうびっくりして、100万円当たったのか、1千万円あたったかのか、1億円あたったのか、みんなが走って集まってきました。でも、1万円って聞いて、喜んだような、がっかりしたような。(笑)でも、楽しい思いでです。 

 つまり、どういうことかというと、喜びはみんなの喜びになりますよってことです。だから1人が喜ぶとみんなの喜びになるってことです。そして、神様が教える喜びは、神様が私たちと一緒にいて下さるんですよ、どんなときにも、いつも一緒にいて下るのが神様ですよ、だから嬉しいねって、お話するのが教会なのです。

 「主において常に喜びなさい」って言葉を聖書に書いた人はね、名前をパウロと言います。

  パウロさんがどんな時に「常に喜びなさい」って言葉を書いたのかというと、それはね牢屋に入れられていた時なんですよ。

 パウロさんは何も悪いことをしていませんでした。一生懸命「神様を信じて、喜びましょう」てみんなにお話しをしていたら、つかまってしまって、牢屋に入れられてしまいました。でもね、牢屋に入って「あ~あ、なんでこんなめにあうだろうな、悲しいな、面白くないな」とは思いませんでした。

 牢屋の中でも、大きな声で讃美歌を歌っていました。そしたら、他の牢屋にいた人もその讃美歌を聞いて心が安らかになって、あ~気持ちいいなぁって思っていたら、大きな地震が起こりました。地震が起こって、牢屋の鍵が壊れてしまいました。もう逃げることも出来ます。でもね、パウロさんは逃げませんでした。どうしてか、何も悪いことをしていないのに逃げる必要もありませんってそのままいたのです。

 そして、ずっと讃美歌を歌って神様がいつも守って下さっていることを喜んでお祈りしていました。その牢屋で、教会のみんなに手紙を書いて、「いつも喜んでいることがとっても大切ですよ」って教えて下さったんですね。

  どんな時も、神様が一緒にいて下さるからいつも喜びです。私たちのところにも神様がいつも一緒にいて下さいます。だから、大丈夫。いつも、一緒にいて下さる神様に感謝して、お祈りしましょう。

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神の岩

2017-03-20 11:16:13 | 礼拝説教

【マタイによる福音書16章13~28節 】

 先週の月曜日、火曜日と息子のKの高校の卒業式に夫婦で行ってまいりました。実際の卒業式は水曜日でしたので、同じ水曜日に幼稚園の卒業式と重なりまして、私はどうしても幼稚園の卒業式にいなければなりませんので、火曜日の夜に、私だけKの学校の荷物と共に帰宅いたしました。

車のタイヤがノーマルタイヤでしたから、雪を心配していましたが、それも守られてホッとしております。途中高速のサービスエリヤに何度か寄りましたが、「雪道の中、ノーマルタイヤで走行して動けなくなった場合、道路交通法違反になります」という張り紙を見ながらドキドキしておりました。(笑)

 私は車の免許を取ったのが二十歳位の時ですから、すでに30年以上になります。皆さんも免許を持っておられる方が多いと思います。車を運転してみたいと思えば、教習所に通います。教習所に通いながら、所定の授業を受け、道路交通法を教えられ、標識の見方を教えられ、車の仕組みを教わり、何よりも直接車の運転席に座り、エンジンをかけて車を運転するわけです。運転しながら、仮免許証から路上運転となり、公道に出て運転の体験をする。その間、何回かの試験にパスしながら、やっと免許証を手にすることになります。免許があるとは、上手か下手かというよりは、所定の段階を踏んだという記しです。

 私は、フランス語の教員免許を持っていますけれど、それも全く同じことで、所定の授業を受けて、所定の単位を取って、仮免許証のような物はありませんが、一定の単位を取得しますと、最後に直接学校に行って子どもたちに授業をしまして、受け持ちの先生にハンコをついて頂いて、学校の卒業証書を貰ってから、やっと免許証となるわけです。今、それが役に立っているのは、幼稚園の書類にそう書けるだけで、それ以上何の役にも立っていませんが、それでも免許があります、と言うことは出来ます。

  それでは、信仰を得るはどういうことでしょうか。信仰を得るために、何か定められた所定の勉強をしなければならないわけではありません。信仰についての仮免許証があるわけでもありませんし、ハンコを貰うこともありません。この試験にパスしなければ認められない、というわけでもありません。古代の教会は、古代といいましても数百年に渡ってですが、洗礼を受ける時には、最低でも使徒信条を暗唱出来なければ認められなかったと言われます。暗唱して、一人で会衆の前で唱えなければならなかったと言われます。

 けれど、少なくとも私たちの教会は洗礼を受けることと、使徒信条を暗唱することが繋がっているわけでもありません。私には信仰がある。と思いながら、私たちは過ごしていますけれど、その信仰とは一体どういうものなのでしょうか。

  ある日の日曜日の礼拝が終わって、教会の玄関を出たとします。その時に、一人の知らない人が教会の看板を見ていて、そして、ふいに尋ねて来るのです。「すみません。キリスト教について教えて下さい。」と言われたらどうされるでしょうか。とっさの事でドギマギするかもしれませんし、もしかしたら、日曜日で良かったと思いながら、「中に牧師がいますから牧師に聞いて下さい」と話されるかもしれません。

 案外、私たちは信仰生活を送っていると言っても、その信仰生活とはどのようなことなのか、改めて考えてみるところが少ないのではないでしょうか。

  先ほどマタイによる福音書の1613節からの箇所を読んで頂きました。主イエスが、弟子たちに向かって問答をしているかのような箇所です。どんな問答かというと、あなたの信仰はどうなっているのか?という問答です。

  主イエスは弟子たちに尋ねました。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」人の子とは主イエスご自身のことです。ご自身について人々がなんと言っているのか、このような問いかけを私たちも時々行うことがあります。私たち、特に日本人の特徴はなんといってもみんなと一緒かどうか、凄く気になる所があります。 

 日常生活の中で、「自分は自分、人は人」と分けて考えることを苦手としている人が沢山おられます。小学校の子どもを持つ親御さんから時々質問されることの一つは、先生、何年生になったら子どもに携帯電話を持たせたらいいのでしょうかという問いかけです。「特に持たせなくとも良いのではないですか」と話しましても、5年生、6年生にもなると、同級生の皆が持つようになるようですよ。と言われます。皆とはどの位の人ですかと聞くと、実際はそんなに多くはないのです。でも、気になりますし、子どもは「みんなが持っている」と主張します。子どもが言うところの皆という数は3人以上と聞いたことがあります。((笑)クラスに3人以上携帯電話を持っていれば「皆」という言葉を使うようです。

 我が家では中学生の娘がいますが、未だに持っていませんし、どうしても欲しいとも言いません。携帯を持っているのは大学生のSだけです。だから「よそはよそ、うちはうち」で良いのではありませんかと話しても、なかなか納得してくれない時があります。

  そのような生活文化の中に生きていますと、余計に皆が自分のことをどう思っているのかとても気になったりするのです。主イエスもご自分のことが気になっていたのでしょうか。気になっていたとは思いますけれど、けれど、主が問いかけた言葉の意味を知るにはもう少し先になります。

 弟子たちは問に答えました。「洗礼者ヨハネだ」という人がいます。この時既に、主イエスの先駆けとして登場したヨハネは捕らえられて首をはねられ、死んでおりました。ですから、ヨハネの生まれ変わりだと言う意味であったでしょう。預言者エリヤだという人もいます。エリヤは、旧約聖書列王記に登場するイスラエルの預言者であり英雄です。450人のバアルと呼ばれる異教の神を信じる預言者と一人で対決して、勝利し、また、嵐の中を生きたまま天に昇っていった、すなわち死ぬことなく天に昇った預言者して知られています。ですからエリヤはメシアとして再び地上にやって来られると人々は信じていました。だから主イエスこそ、エリヤであると噂がたっていたのでしょう。

 あるはエレミヤだとか、預言者の一人だと言う者もいると、弟子たちは、主イエスに人々が主イエスをなんと言っているのか、口々に話し出しました。

  口に出したと言うことは、どういうことかというと、人が話していたことをあたかも伝えようとしながら、本当は自分もそう思っていることを伝えているわけです。 

 人々は主イエスをエリヤだと言っていた、でも、自分もそう思うから、話が出来るのです。預言者ヨハネだと言っていた、自分もそう思うからそう伝えられるのです。人の言葉にのせて自分もそう思うことを伝える。実際、私たちも案外日常的に行っていることです。例えば私のネクタイが古臭いと言う人がいて、聞いた人もそうだなと思うと教えて下さるのです。先生、あの人が先生のネクタイを古臭いと言っていました。((笑)自分がそう思わない時は、あれは古いのではなく、大切に何年も使っているのではないかと話して、私にまではもって来ることはありません。

 人の思いを伝えるわけですから、自分は無責任ですからで案外話しやすいものです。実際、弟子たちはそのようにして、人々はこう言っていると、自分の思いも込めてここで主に告げているのだと思います。

  けれど、主イエスが本当に問いたかった問いは次の言葉にありました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」弟子たちは驚いたと思います。人はどう言っているのかには次々に答えられた弟子たちですが、では、あなたがたはどう思うのかと問われると、責任が自分にかかって来ますから迂闊な答えを出すわけにはいきません。しかも、問いかけの内容は自分達の信仰にかかわる事柄でもあります。

 改めて問うけれども、あなた方は私とこれまで一緒に旅を続け、共に苦しみ、共に悲しみ、共に喜んできた、そこで、あなたの信仰はどうなっているのか?と問われたのです。弟子たちは、びっくりして、皆黙ってしまったのではないでしょうか。本当は既に自分達の思いをあたかも人の言葉に重ねて、主に伝えているわけですから、それではあなたがたはと問われても答えられなかったかもしれない、どう答えるべきか躊躇してのではないでしょうか。黙って下を向いてしまったかもしれません。

 この場合、主から目をそらして、私ではなく、他の誰かがきっと話すだろうと責任を回避しているようにも思えます。

  少しの間、気まずい時間が流れたかもしれない、その沈黙を破って、良くも悪くも、弟子のひとりであり、一番弟子とも言われる、でも、少しそそっかしく、思ったことはつい話してしまうところがあったペトロが答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です。」ここにメシアとありますが、口語訳聖書では「あなたこそ、生ける神の子キリストです。」とあります。メシアとはキリスト、すなわち「救い主」という意味があります。このペトロの告白は、人の口をもって、イエス様あなたは私たちの「救い主」」でると明確に答えた瞬間でありました。

 

 この答に主は応答しました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」この言葉は主が願っていた信仰告白の言葉をペトロが告げたという意味でありましょう。けれど続いて主はこう話しました。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」

 この言葉は、あなたがあなたの信仰でもって、信仰告白したというよりは、そういわせてくださった天の父なる神がおられる」と話しているように思えます。それは、あなたがその信仰をもって語る、その言葉もまた神によって与えられているということでしょう。

  実際、読んで頂いた後半の箇所で、あなたはペトロと誉め言葉を頂きながら、しかし、主イエスがご自分は、必ずエルサレムに行って長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっていると打ち明けられたその後に、主をわきに連れ出したペトロが「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」といさめてしまい、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をするもの、神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱られてしまう、こちらの箇所は天から与えられた御言葉というよりは人間ペトロとしての姿が露わにされた場面だとも言えるでしょう。

  それでも主イエスはペトロに対してこう告げました。18節「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」あなたはペトロ、このペトロという言葉は正しくはペトロスと言います、意味は勿論、岩という意味ですが、むしろ石とか小石とか、岩のかけらと言う意味のようです。「この岩の上に」と言われた岩はペトラという言葉です。ペトラとは大きな岩、鉱脈、巨石を意味するようです。そのような大きな岩の一部としてペトロよ、あなたもその岩に属するものであり、そのあなたに天の国の鍵を授けたよと主は伝えたのです。

 

 アメリカ聖公会のバーバラ・テイラー牧師がこの箇所に触れて、こう告げています。「ペトロがどのような人物であり、何を語り、行うから、天の国の鍵が与えられるのではありません。ペトロが「幸い」であるのは、彼の答えが神の答えであるからであり、ペトロが岩であるのは、「千歳の岩」から取られた一片であるからです。そしてこの関係の上に、教会が建てられるのであり、ペトロの、そしてあなたの、わたしの、美徳の上に、ではないのです。ペトロが選ばれるのは、正しい答えを思い浮かべたからではありません。むしろ、ペトロに正しい答えが思い浮かんだのは、彼が選ばれているからなのです。」

 途中飛ばして読みますが「もしも、ペトロがその上に教会が建てられる岩であるならば、わたしたちすべてに望みがあります。なぜなら、ペトロはわたしたちのうちの一人だからです。なぜなら、隅の親石のようにふるまおうと、躓きの石のようにふるまおうと、ペトロが神に選ばれた岩であることには変わりがないからです。」

  バーバラ・テイラー牧師は、神の選びがペトロで良かったと告げます。なぜなら、ペトロは「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどと決して申しません」というような大胆な約束してしまい、後で弱気になり、一度どころか三度も「そんな人は知らない」と言ってしまう程の人でも神がこの人を選んで下さった。だからペトロでよかった、もし、完璧な人間を神が選ばれたなら、私には望みがなかったと告げるのです。

 ペトロが受けた祝福は、ペトロ自身の信仰によってではなく、ただ神の選びと祝福がそこにあったからです。そのことをペトロは何よりも大いに喜んで受け入れました。復活の主と、聖霊の力によって、立ち上がり、主イエス・キリストを宣べ伝えました。生涯において、主を宣べ伝えました。この方が、私たちを救って下さる方だと生涯伝え続けました。

 教会の礼拝が終わり、玄関を出て、看板を見ていた人がいたとして、目と目があって「すいません。キリスト教について教えて下さい」と言われたら何を話しますか?「はい、私は神様から選ばれて、教会に繋がるようになりました。あなたも私と同じように神様から選ばれています。そのことを喜んで信じるだけです。」と答えられるでしょう。

 そこに大きな神の喜びがあります。どんな出来事にも揺るがない神の岩に建てられた教会の喜びがあります。そして、教会とは、建物ではなく、私たちのことです。わたし達は、一人も漏らすことなく、神の恵みの喜びに招かれている。この喜びをもって、この一週間、共々に歩んで参りましょう。

お祈りいたしましょう。

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赦されない罪はあるのか

2017-03-15 17:52:10 | 礼拝説教

【マタイによる福音書12章22~32節 】

 受難節第2主日の礼拝が与えられています。本日は「赦されない罪はあるのか」という説教題といたしました。

 三日日前の木曜日に教会の前の駐車場に車を止めて、教会に向かおうとし時に、教会の掲示板に張られていた説教題をじっと見ておられた方がいました。あ~、あの方は「赦されない罪はあるのか」をどう読んでいるのだろうか、思わず聞きたくなるほどにじっと読んでおられました。

 実際、私もこの一週間、じっとというよりは、ずっと考え続けておりました。主イエスが告げた「赦されない程の罪」とは何かとずっと考えておりました。考えながら、今も尚、わかったかなという思いに至ったわけではありませんが、それでも、考えさせられたことが幾つかあります。主イエスが言われた「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも許されるが、『霊』に対する冒とくは赦されない。この御言葉の意味について本で調べ、またパソコンでいろいろと調べしておりましたら、一つの文章がありました。その文章は、「この赦されない程の罪とは、ファリサイ派の人々の心」について言っているのだろうと記していました。なるほど、そうかもしれないとも思います。

  マタイによる福音書の12章の最初から読みますと、主イエスと弟子たちが安息日に麦畑を通られた時に、弟子たちが空腹を感じて、畑の麦を摘んで食べた場面から始まります。その様子を見ていたファリサイ派の人々がやって来まして、主イエスに問いかけます。「あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている。」

 けれど、主はその言葉を聞いて「人の子は、安息日の主なのである」と語られて、ファリサイ派を退けました。そこを去って後、その日は安息日でしたから、礼拝を守るために会堂に入られます。会堂には片手の萎えた人がいて、人々が主に尋ねました。「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」人々の思いは主を訴えようとしようと思ってとありますから、尋ねた人は、恐らくファリサイ派の人々か、ファリサイ派に近い人々であったと思われますけれど、それを知りつつも、主は手の萎えた人に向かって「手を伸ばしなさい」と言われ、手を元のように癒されたわけでありました。

 けれど、その次に記されていることは、「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。」とあります。

 すなわち、主イエスが人の病を癒された、それは神の業であったと賞賛し、癒された人に対して良かったねと言ったわけではなく、むしろ、彼らにとって腹立たしかったのは、神の民であるなら一人残らず誰もが守らなければならない安息日が汚さてしまったということでした。

 礼拝後でしょうか。ファリサイ派の連中が集まってどうやって主イエスを殺そうかと相談するほど腹立たしいと思ったのです。ですから、主もそのままそこに留まるわけにもいかず、そこを立ち去れます。けれど、その業を見せられた群衆はむしろ、主イエスの後に従いました。多くの人々が従っていったその先で、今度は、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、主イエスのところに連れて来られました。

 主はその人の目も口も癒されると、目が見え、言葉を話せるようになりました。

  群衆は益々驚いて「この人はダビデの子ではないだろうか」賞賛します。聖書に「驚いて」とありますが、この言葉は「我を忘れる」という意味の言葉だそうです。我を忘れるようにして、人々は主イエスを賞賛したのです。けれど、驚いたとは思いますけれど、ここで「我を忘れてはならない」と踏ん張ったのが、ファリサイ派の人々で、こんな状況を肯定するわけにはいかない、安息日違反を平気で行うような輩に屈してはならないと感じつつ、話した出したことは「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない。」と主張し始めた、今日の場面となるのです。

  主イエスが会堂で片手が萎えた人の手を癒したのも、目が見えず、口が利けない人が、見え、ものがいえるようなったのも、皆、悪霊の仕業だとファリサイ派が語る、その非難に対して、けれどそれに対して主イエスは、なぜ悪霊の力だと言えるのか、私は神の霊によって悪霊を追い出している、人が癒され、幸いだったね、良かったねとも言えず、その業そのものを悪霊の業だとするファリサイ派のあなたがたよ、あなたがたの心がどんなにか頑なになって、道に迷い、そして神を、また神の霊を冒涜する、その冒涜は赦されるものではないのとそう告げたのだと思われます。となると、赦されない罪とは「ファリサイ派の人々の心」すなわち「神を受け入れない頑なな心」を主イエスは指摘したのであろうかと思うのです。

  しかし、また、ここまで納得しながら、聖書を読みつつ、先ほどのパソコンに記してあった「赦されないのはファリサイ派の人々の心が問題ではないか」と記していた文章を更に読んでいてすぐに気が付きました。神のことをエホバと記していました。

 この人はもしかしたらと読み続けていきましたら、やはり思った通りにどうも「エホバの証人」とか「ものみの塔」と呼ばれるグループの一人が記した文章だと気が付きました。

 そのことに気が付くと、私自身がなるほどと思いながら読んで来たことで余計に腹立たしくなるわけで、あ~読まなければ良かったと思いつつ(笑)けれど改めてそこで思ったのです。私たちももしかしたら、どれほど頑なな生き方をしているのだろうか。私たちは、いつのまにか自分達こそ正当なキリスト教であって、エホバの証人やものみの塔を信じている人々は、まさに悪霊に取りつかれているとは言わないとしても、騙されているし、いいように搾取されていたり、子ども虐待の容疑にかけられていたりするのですが、だから、彼らのような信仰を持ってはいけないと思いながら、彼らよりはずっとましな信仰が私たちのところにはあるはずだと思う。

彼らはよりはずっと柔らかな心で生きていると思っている、でもそんな思いもまた、もしかしたら頑なかなとも思います。

 何を申し上げたいのか、私たちは自分たちが持っていると思っているテリトリー、領域が誰かに荒らされる時に、それが、どんなにか不快に思うのかということなのです。思うだけではなく、実際にその対象となる人を殺そうとまで相談する程ですから、自分の、あるいは自分達の領域が犯されているという思いは、憎しみに繋がり、そして命をさえ狙おうとするのだと思います。先日、マレーシアで、北朝鮮の金正男(キム、ジョンナム)さんが殺されたことも同じ理屈なのではないかと思います。

 今日与えられている聖書は、一方においては、主イエスを「ダビデの子ではないだろうか」と称賛する声、他方においては、その姿を悪霊の頭としてとらえようとするファリサイ派の人々の姿、あたかも世の価値感と神の価値感がここでまるで激しくぶつかり合っているようにも思います。

  25節から語られた主イエスの御言葉を今、ここでもう一度読むことはしませんが、私は主イエスが怒りを持ってと言ったら失礼かもしれませんが、しかし、そんな風に感じるほどの気迫のようなものを感じます。

 あなたがたは私のことをベルゼブルの力によって悪霊を追い出していると言う。とんでもないことだ。どんな国でも内輪で争えば、荒れ果てるではないか、どんな町でもどんな家でも内輪で争っているなら成り立たないではないか。なぜ、悪霊の頭が悪霊を追い出すのか、とんでもないことだ。とまくし立てているようにも感じるのです。

  主イエスが気迫を込めて悪霊を追い出す業、それは悪霊に対して、あるいはサタンと呼ばれる者に対する真剣で激しい、又、厳しい戦いなのかもしれないと思います。一瞬の油断も見せられない戦いであったかもしれません。そのような徹底的な厳しい戦いの中で、初めて人は人として癒される経験をするのかもしれないと思うのです。

  鎌倉雪の下教会で牧師をされておられた加藤常昭先生の説教を読んでいましたらこんな話をされていました。加藤先生の先生であるドイツのボーレン先生が鎌倉を訪ねて来られて、神学校で集中講義をされたというのです。ボーレン先生がドイツ語で話され、加藤先生が通訳をされた。けれど、通訳するほどの自信はないので、全て原稿にしていただいたというのです。けれど、授業が予定通り進んでいく中で、突然原稿にない話をされて困ったと言うのです。

 でも、その内容もとても良かった、どういう内容かというと、スイスにバーゼルと言う町があります。私も一度行ったことがあります。フランスとドイツとスイスの丁度国境にある町です。そこにバーゼルの大学があるのですが、一人の先生がおられて、その先生が若くして天に召されたというのです。当然のことながら、家族は悲しんだ、特に奥様が本当に嘆いて、嘆いて、どうして内の夫がこんなに若くして天に召されなければならないのか、神さまはそういう残酷な仕打ちをされる、私はとても神様を信じることが出来ない程で、祈ることさえ出来ないというのです。

 その嘆き、悲しみの姿につい、教会の牧師が、その人に対して何を言ったかというと「祈れないあなたの気持ちは、私にもよく分かる」と言って慰めたというのです。その後で、同じ夫人をカトリックのイエズス会の先生、恐らく、ご主人の大学の同僚だったのでしょうか、その先生が訪ねた時に、夫人が同じように「とても自分は祈れないし、神さまを信じられない」と訴えたというのです。

 そしたら、カトリックの先生はその姿をご覧になって、厳しく批判したというのです。「そんな思いは間違っている。全く間違っている。神は今こそあなたを求めておられる。神は今こそあなたを捕えようとしておられるのに、なぜ、祈らないのか。今こそ祈る時であって、もし祈れないというのなら、私が一緒に祈りましょう」と言って、二人でひざまずいて、主の祈りを一緒に祈ったというのです。その夫人はその祈りによって大いに慰めを受け、そして信仰を回復してカトリックに移ってしまったというのです。ボーレン先生は聞いていた学生たちに「何もカトリックになる必要はなかったのに」と言いながら、しかし、語りだしました。

 皆さんよ、牧師になって大切なことは、不信仰を言い張る人に対して、妥協しないことです。牧師もまた、自分の心の中に不信仰の思いをどこかで抱いているものだから、不信仰な言葉を語られると、つい「私もそれは良く分かる」とか「そうおっしゃるのも無理はない」とかと言ってしまう。けれど、そうするとあなたの信仰もなくなるのです。だから不信仰に妥協してはなりません。不信仰を受け入れてはなりません。信仰だけで生きていきなさい。でなければ人を慰めることは出来ないのだと話されたそうです。

 このボーレン先生の教えを読みながら、私は先週の日曜日のことを思い出しました。先週の日曜日、9時からのファミリー礼拝は私がお話の担当でした。

 聖書箇所は最後の晩餐の箇所です。主が敵に捕らえられてしまう夜、しかし、主が弟子たちを前にして、パンを取り、これは私の体であると話され、杯を取られてこれは私の流す契約の血であると語られた場面の話をしました。話をしながら、先週ですからね、今日の1030分からの礼拝では聖餐式が執り行われます。その聖餐式が信仰を持つものにとって、どんなにか大切な儀式であるかを話しながら、でも、このパンを受けとって頂ける喜び、この杯を受け取って飲む喜び、それをこの礼拝に出ている皆さんよ、子どもも大人も、お母さん方よ、ここにおられる全員がその喜びが分かち合えるようにと、私は心から願います、と話しました。そういう話を話す予定は全くなかったのですが、でも気が付いたら話しておりました。

 話しながら尚、これこそ、本当に自分が伝えたかったことなのだと心に感じながら話をしていた自分がいました。

  9時からの礼拝に出席して、聞いておられる方々殆どがまだ、洗礼を受けていない求道中の皆さんです。ですからそう言う方が当たり前のはずなのに、でも、どこかでいつも遠慮しながら、妥協しながら、一人ひとりの顔色を伺いながら話していたなぁと思っていたと感じていたものですから、余計にボーレン先生の話は私にとっても、本当に心に沁みてくるような思いでありました。

  皆さん、私たちは、私たちがテリトリーだと思っている所を荒らされたと思うと、確かに頭に来るものです。でも、そこで頭にきて、怒りに満ちて、あの人は悪霊の頭だとは言わないとしても、そんな思いで語る言葉が、神の恵みから遠く、なんと毒に満ちていることか、しかしまた、だからと言って、その人の思いに添いたいと願いつつ、配慮し過ぎ、添い過ぎてしまって、神の福音から自らも離れていくこともあるのだと思います。

  だから大切なことは、主イエスが28節で言われた御言葉「私が神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」

 今、ここで、この世で、神が既に働いておられるということです。わたしたちから見れば、矛盾に満ちた、光と陰で言えば、陰ばかりだと思えるようなこの社会の中で、主なる神が霊に満ちて働いておられること信じることでしょう。

 更に尚、この世にあっては、信仰に対する厳しい争いがあるかもしれません。ほかの宗教のことではなく、私たち自身がまた、厳しい争いがあるかもしれません。けれど、どこまでも、神の霊が働かれるのはこの世であり、そのことを信仰を持ってしっかりと受け止めて生きていきましょう。そして、願わくば、私たち自身が頑なにならず、柔らかな心でもって生きて参りましょう。柔らかな弾力のある信仰を生きて参りましょう。主によって支えられて過ごして参りましょう。

 

 

 

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光の子として歩みなさい

2017-03-08 09:27:00 | 子どもたちに福音を

【エフェソの信徒への手紙5章8節】

今日の聖書は「光の子として歩みなさい」と書かれてあります。

 私達の世界を造られた神様の一最初のみ言葉は何かというと、「光あれ」という言葉でした。「光あれ」って言ったら、「光があった」と聖書に書かれてあります。

 神様は一週間かけてこの世界を造られました。一日目が「光あれ」という言葉ですね。光あれって言ったら、光があって、神様は「あ~良かった」と話して下さいました。

 二日目は「水と空は分かれなさい」と言われました。そうしたら「下には海、上には大空」が出来上がりました。三日目は「水と地面とが分かれなさい」と言われたら「海と陸が出来上がりました。陸には木や植物が生えて来ました。」四日目は「昼と夜とに分かれなさい」と言われたら太陽と月が出来たとあります。そして五日目に、動物、虫や鳥もいたでしょう。生き物を造られて、六日目に人間を造って下さって、七日目に休まれた。とあります。

 四日目に、神様は太陽と月を作られたとあります。そして昼は太陽、夜は月の明かりですごすことが出来るようにされました。

  だからね、最初に神様が言われた言葉「光あれ」という言葉は太陽の光ではないんですね。何の光かというと神様の光です。

 では、神様の光とは何でしょうか?

 わたしはイエスじゃないかなって思います。イエス様は、赤ちゃんとしてイエス様が誕生される前から神様とずっと一緒だったわけですし、十字架で一度死んでしまったけれど、それから三日の後に甦られて、復活されて、弟子たちの所に姿を表わして下さってこう言われました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」だから、これまでも神様は私たちと一緒だったし、これからもずっと一緒でしたよっってことですね。

 今日、記されている「光の子として歩みなさい」ってことは、だから、ずっとあなたがたは「イエス様の子ども」ですよ。「イエス様の子ども」として歩みなさいってことだと思います。

 私達はみんなイエス様の子どもです。

 さあ、イエス様の子どもってどんな子どもでしょうか。三つあります。

 一つ目、「光によって全てが明るみにだされますよ」ということです。全てのことが明るみに出されるとは、簡単にいうと、ウソをつかないということです。どうしてか、ウソをついて、誰もわからないはずだと思っても、神様は全部わかっているからです。だから、ウソついて、知らんぷりしていても、いつかはウソが神様の光に照らし出されてしまって、ばれちゃいますよということです。

 人に対してウソをつかないように生きること。それが、光の子としての歩みですよ。イエス様の子どもの生き方ですよということですね。とっても大切なことです。

 二つ目、イエス様の子どもは、感謝することが出来るということです。有難うと言う言葉を言う事が出来るということです。私達は案外「ありがとう」って言わないかもしれませんね。

 三つ目、変わらないものを信じることが出来るということです。

 皆さんの家に、テレビがありますか?ありますね。先生の子どものの頃にはテレビがありました。でも白黒テレビでした。それからカラーテレビになりましたけれど、とってもでっかいテレビでした。今は凄く薄いですね。壁にかけてテレビが見られるなんてかっこいいなぁって思っていましたが、そうなりました。だからすごく変わったのです。皆さん、東京タワーって知っていますか?昔から東京で一番高いタワーでした。でも今、東京で一番高いのは東京スカイツリーですね。

 皆さん、ジュウオウジャーって知っていますか、知っていますね。ニンニンジャーは、知っていますね。トッキュージャーは、知っていますね。ガオレンジャーって知っていますか?知りませんね。ジャッカー電撃体は?誰もしりません。つまり、いつも変わっていくんです。なんだかいつも変わっています。

  皆さんはこの一年で一歳年を取りましたし、皆さんはこれからどんどん大きくなって、変わっていくでしょう。でも、どんなに変わっても、変わらない、それは神様の光、イエス様の愛ですよ。どうぞ忘れないで過ごしていってほしいなって思います。

 

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