日本キリスト教団 大塚平安教会 

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かけがえのない人生

2017-11-07 12:16:47 | 礼拝説教
墓前礼拝
聖書箇所 ヘブライ人への手紙11章1~3節
「かけがえのない人生」

 「かけがえのない人生」という言葉があります。この言葉の意味について東北大学で先生をされていた宮田光雄先先生は、二つの意味がありますと教えておられます。
 一つは「取り代えがきかない」ということです。先日、我が家の玄関の電球が切れまして、今回高価でしたがLED電球にしました。恐らく相当時間、切れることが無いと思います。しかし、私たちの人生はそのようにして取り代えがきかない、だから「かけがえのない人生」なのだと思います。私たちは色々な方の生きざまを見ています。時には、あの人のような人生を生きたいと願い、その人を人生のモデルとして生きようとすることがあります。私自身、尊敬する牧師が幾人もおりまして、あんな牧師のような話し方、振る舞い方、生き方が出来たならと願うことが幾度もあります。
 憧れをもって、あんなふうに生きていけたらと願うのは悪いことではありませんけれど、はっきりしているのは、絶対にその人になることはできず、また、案外、そう自覚すると自分は自分の人生を生きていくしかないのだと改めて思わされて、自分ならではの人生を責任もって生きていくしかないのだと思わされたりもします。
 
 そして「かけがえのない人生」の二つ目は、「繰り返しがきかない」ということです。私たちの人生は、あたかも一方通行の道路のように戻ることも出来ず、進むしかありません。勿論、道路ならば、もう一度もとに戻って同じ道路を何度も走ることが出来ますけれど、人生は、戻ることは許されません。
 そういう意味においては、私たちの人生は、演劇の芝居のようなものを思いますと、練習なしのいきなり本番、しかも一度きりの本番を生きているようなものです。この時、この出来事が上手くいかなかったから、その場面に戻ってやり直そうとしてもそれは赦されません。何度も練習して一番よい人生を生きることも出来ません。だから、私たちの人生は「かけがえのない」人生なのだと言うのです。

 本当にその通りだと思います。先ほどヘブライ人への手紙を読みましたが、その個所は皆さんもご存じのように、聖書を読み進めて参りますと旧約聖書の信仰の先達の名前が登場いたします。「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ」とあります。「信仰によってエノクは死を経験しないように、天に移されました。」とあります。「信仰によってノアはまだみていない事柄について神のお告げをうけたとき、おそれかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また、信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。」とあります。
 さらに「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」とあります。
 
 かけがえのない人生、取り代えることも出来ない、繰り返すことも出来ない人生を私たちはどう生きるのか、ここで更にはっきりしてくることは、自分が歩んで来た道も、これから歩もうとする道も、これまで既に誰かが歩んでみてこれは良い道だからと道しるべをつけてくれていたわけでもなく、自分以外の誰もまだこの道を歩むものはいないと言う事実だと思います。
 
 そんな中で、何よりも頼りの親も年を取り、人生の伴侶も、子どもにしても、家族、血縁の誰かにしても、自分の人生の最後まで伴に連れ添ってくれる、という確証があるわけではありません。時には一人になってしまったと思うことがあるかもしれません。
 
 だからこそ、聖書が告げる言葉は、「信仰によって」という御言葉でしょう。それは、どんな時も、神が私と共にいますという信仰です。他の人がどうか、あの人はどうか、この人はどうかではなく、神が私と共にいて下さる、その信仰によって、例えばアブラハムは新しい旅立ちをしたことを私たちは知っています。もともとアブラハムの家族は旅の途中でした。アブラハムの家族はもともとカルデやのウルと呼ばれる町に住んでいたとあります。そこから父親のテラに連れられて、妻と共に家族と共に旅に出て、そしてハランという町に向かうのです。この度はアブラハム最初の旅であったかもしれません。けれど、その後、アブラハムに直接神の言葉が届くのです。その御言葉は「あなた生まれ故郷、父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。」というのです。ヘブライ書ではこの場面をアブラハムは「行き先も知らずに出発したのです。」と記されます。
 
 神の言葉に従って、行き先もわからないけれど、神に対する「信仰によって」、安心、安全の家族とも別れて新しい人生を歩みだした。これがアブラム二度目の旅立ちでもありました。昔の偉い学者は「人は二度生まれる」と説明したそうですが、一度目は命の誕生。二度目は神の子としての誕生。それは、自分自身のかけがえのない人生を、主なる神が伴って下さるのだという信頼と信仰が与えられた時ということでありましょう。
 
 その信仰によって、一人ひとりが人生の時には大きな荒波の中を、時には大きな混乱の中を、時には喜び、時には涙しながらも、どんな状況によっても信仰によって生きることが出来た。「ほんもの」と出会い、確かな喜びに包まれながら生きることが出来たと私は思います。私たちの人生は、かけがえのないものです。だからこそ、その人生に必要なものは、「信仰によって」すなわち、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する。」まだ、ここで与えられているわけではないけれど、既に与えられたかのようにして、喜んで生きる。それこそが「信仰による」生き方なのでしょう。そのようにして生きて来られた方々の一人ひとりと共にこうして墓前礼拝として行えておりますことを感謝しましょう。そして、私たちもまた、信仰の先達に倣い、まだ見ぬ神の国を、しかし、確信と確認を新たな思いで受け止めて、感謝しつつこの時を過ごして参りましょう。

 お祈りします。

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