日本キリスト教団 大塚平安教会  

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

流れのほとりに植えられた木

2019-04-01 10:26:03 | 礼拝説教
【詩編1編1~6節】
【ヨハネによる福音書15章1~5節】

 今日は詩編の1編1~6節を読んで頂きました。
 
 3節に「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」とあります。
 
 今日申し上げたいと思っていますのは、ここに記されている「繁栄をもたらす」という御言葉です。私たちの誰もが願う所の一つは年が若くても、年を重ねておられても、自分の人生が「繁栄をもたらしている」と思う、繁栄の意味がは、それぞれに違い、時には財力かもしれませんし、健康かもしれませんし、学力かもしれません、人間関係かもしれません。いずれにしても私たちは「繁栄」を生きたい、誰もがそう願うのではないでしょうか。
それでは、その繁栄を生きていくためにはどう生きていこうとするのか。

 私たちキリスト者はあまり用いることはありませんけれど、最近よく聞く言葉に「平成最後のなんとか」という言葉をよく聞きます。昨年の12月は平成最後のクリスマスでしたし、1月は平成最後のお正月でした。1月12日は、私は平成最後の誕生日でした。(笑)今、日本では一つ時代に区切りを付けようとしていることは確かです。4月の終わりから5月のゴールデンウィークは10日間連続の休みとなることが決まっています。
 
 「平成」という元号に意味があるとは思えませんが、しかし、私たちは今、そういう「時代」を生きていると言うことは出来るでしょう。実感としては甚だありませんけれど、今は、経済的に見れば戦後最長の景気と政府は伝えています。しかし、同時に少子高齢化の時代とも言われます。

 先週の月曜日、幼稚園は隣接する土地を購入しました。社会の少子化が進むと言われる中で、しかし、私たち幼稚園が、この時代に備えより豊かな成長、繁栄を遂げるために、この今の時代に添った考え方を模索する中での決定でした。既に幼稚園は色々な策を考え実行しようともしています。

 私たちの教会も先週、礼拝後に「教会全体懇談会」を開催しました。教会の、中、長期的な計画を見据えていくためにも、活発な意見が出されまして大変良い時間であったと思います。中、長期的ということは、激しく移り行き、流れていくこの世の中にあって、果たして教会はその流れの中をどう生きていこうとするのか、どのような福音伝道を行っていくのか、それは、どの時代においても問われていることですが、今、この時代、これからの時代をどう歩んで行こうとするのか。大切だと思います。時代の流れに乗るのか、乗らないのか、ということも大切だと思いますし、そのような時代の変遷に影響されない、左右されないという思いも大切でありましょう。

 カトリック教会は1962年から65年の4年間を費やして、第二バチカン公会議という歴史的な大きな会議を行いました。中々結論が出ない大議論の末に、結果的にこれまでのカトリック教会の考え方を大きく変更することを決議しました。
代表的な決議は、これまで行われてきたラテン語の礼拝から、それぞれの国の言葉での礼拝を執り行うこと。しかも、それぞれの国の固有の文化をよく踏まえた礼拝を執り行うこと。更には、多宗教との対話を打ち出し、プロテスタント教会、正教会のみならず、多くの宗教との関係改善を打ち出した画期的とも思える決定を致しました。

 それ以降、現在のカトリック教会は、ある面においてはプロテスタント教会の考え方のほうが、保守的な傾向にあると思えるような、革新的な歩みをしているとも感じますし、その成果は多方面に出ていると私は感じています。時代の流れをどう捉えようとするのか。

 社会における成功者、その人生に繁栄をもたらしたと言われる人の特徴の一つは、財力があったとか、優れた頭脳であったとか、体力があったということもあるでしょうが、でも、時代の流れを的確に捉え、その流れと共に、社会のニーズにしっかりと応えていった人たちであったと言うことは出来ると思います。

 何か大雑把に色々と申しましたが、それでは私たち信仰者として、キリスト者として、この時代をしっかりと生き、繁栄をもたらすために必要なことは何か、聖書に「その人は流れのほとりに植えられた木」とありますように、信仰の土台、人生の土台において、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさみながら」、その土台、木であれば根と呼べるところに、いつも可能性を見いだし、可能性を信じて生きていくということではないでしょうか。

 もともとキリスト教は、誰が見ても、もうお終い、これ以上は無理、と思う、そこから神の栄光が現れ、主イエスの十字架の死から、誰もが全てが終わったと思ったそこから三日後に主イエスの復活が起こり、弟子たちが力付けられ、聖霊の力に満たされて福音伝道が始まったのです。人の思いだけでは無理、でも、そこに神が我と共にいて下さる。だから大丈夫と流れのほとりに植えられた木のように、その土台がしっかりと強められてどんな状況にあっても主にある可能性を見いだし、神の福音がこの世にあまねく宣べ伝えられるべくキリスト教の歩みが始まりました。

 「流れのほとり」の流れとは川のことでしょう。川は高いところから低いところへと流れて、そして海に注がれていくものですが、川の特徴は、どんな川であろうと右に左に、右に左にと曲がりながら流れていくのであって、どうしてそうなるかというと水が低いところ、低いところと低いところを探すようにして流れるからです。低いところは必ずしも真っすぐではありません。真っすぐな川は本来ありえないことです。いつも右であったり、左であったり、まさにその状況を確実に踏まえて流れていくわけで、例えるなら私たちの人生のようだと言えるかもしれませんし、しかし、それはまたそのようにして、川の水が流れる場所を探すかのようにして、可能性を探るようにして流れていくように、私たちの人生も、いつでも可能性があるということです。

 その可能性としての水、主イエスが「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れでるようになる」と話されたように、私たちの人生の渇きを潤して下さるのは、主イエス・キリストです。

 この方の恵みに、福音に、この方の御言葉を水源として、そこから私たちの人生を造り上げていくことができるのです。ヨブ記14章7節からの箇所にこのように記されています。「木には希望がある、というように 木は切られても、また新芽を吹き、若枝の絶えることはない。地におろしたその根が老い 幹が朽ちて、塵に返ろうとも 水気にあえば、また芽を吹き 苗木のように枝を張る。」とあります。木の特徴は、どんなにその見えるところを切られてしまうとしても、根に力があり、そこに豊かな水分と栄養があるならば、またそこから芽を出し、また成長しようとする力があるということです。

 私たち信仰者として神様から与えられている大きな恵みは、「その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡り来れば実を結び、葉のしおれることない」いつでも、どんな時でも厳しい状況、苦しい状況の中にあっても、尚可能性を見いだし、そしてしっかりと栄養を与えられ、また芽を出し、枝を伸ばし、葉を茂らせて、そして確かな実りを実らせるその希望が、可能性がいつもある、年齢によらず、更には時代によらず、能力によらず、人の可能性ではなく、神の可能性を信じて歩み続けていくことができる。その可能性を与えられているということが、その可能性こそが繁栄をもたらすのだと徹底的に信じること出来る、それがキリスト者に与えられた大きな特権ではないでしょうか。

 「主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。」その人に繁栄をもたらすのに大切なことの二つ目は、今日は聖書の御言葉を戻りますが「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。」だと言うのです。昼も夜も、つまり、一日中、いつも主の教えを愛し、口ずさむ。皆さん、昼も夜も、一日中、私たちの心の中に一体何があるのか、何によって満たされているのか、それがとても大切なところなのです。
 
 私が尊敬している牧師先生がおられます。昔に、聞いた話ですがその先生の所に一人の学校の先生が相談にやって来たというのです。どうしましたかと聞いたら、その学校の先生は、地域では優秀な進学校を呼ばれる学校に勤めていたのに、思いがけなくいわば荒れていると言われる、色々と問題があると思われている学校に転勤になったというのです。

 学校に行って見ると、確かに授業にもならない、子どもたちは言うことを聞かない、騒がしくて話も聞いてくれない。だから、なんで自分がこんな学校に来たのかな、これでは自分がどんなに頑張っても良い学校にはならないし、自分もすっかりやる気が無くなって来たというのです。
 
 そればっかり考えているというのです。その話を聞いて牧師先生は答えられました。

 「いや~、先生よ、それは大変だ。先生の気持ちはよく分かる。無理もない。でも、またしばらくしたら転勤だから、それまでは辛抱だ」とは答えませんでした。どう答えたかと言うと「先生よ、だから先生が選ばれてその学校に来たのでしょう。先生だったら、あの学校の生徒に自信と誇り、プライドを持たせることができる、いや、それが出来るのはあなたしかいないと思ったから転勤になったんじゃないの。だから、先生が、この学校に来てよかったなぁ。僕がこの学校の先生になれて良かったなぁ。みんなも良かったなぁ。と昼も夜も、毎日そう伝えるために、派遣されたんじゃないの。」その言葉を聞いた先生の目つきが一瞬で変わったそうです。
 
 皆さん。なんで自分は大塚平安教会かな、他所の教会もあったのになぁ、あの教会もあったのになぁ、なんで大塚平安教会なのか、それは、あなたがこの教会に来ることで、あの教会は違う、あの人が通っている教会だもの、牧師は大したことないようだけど(笑)教会の人たちの目つきが違うもの、優しさが溢れて出ているもの、あれは本物だ、そう言われるために、この教会に来ているのです。
 
 私たちの心の中に心配毎や、苦労や、悩みや、怒りが昼も夜も、いつも一日中あるとすればそこに神の教え、福音、恵みがどこに入るでしょうか。勿論、私たちは人間ですから、心配なこともあるし、苦労もあるし、悩みもあるし、怒りもあるでしょう。でも、それでも神の尽きることの無い、無尽蔵の愛を信じて、昼も夜も、どんな時も神の教えを愛して、その教えを口ずさむ人のところにこそ確かな主にある繁栄がもたらされるのではないでしょうか。
 
 だから大切なこと、更に戻りますけれど、1節にこう記されています。「神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず」とあります。

 つまり、神に逆らう者、罪ある者、傲慢な者と一緒になるようなことなくということでしょう。私たちはどうしてもいつも触れている物に似るのです。わたしは神など信じないと人と友達ならば、いつの間にか自分も神を信じなくなるかもしれない。一緒に悪いことをしようじゃないかと言う者と友なら、ついつい、その言葉に乗ってしまう。あの人は一つも人の付き合い方が分かっていない。あの人のああいう話し方はないよね。と人を批判したりする人は、自分だけはよく分かっている、と思う傲慢さを生きているようなものです。
 
 私たちは皆、そのような者の一人一人ですけれど、でも、そうではなく、主イエスが「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」と話して下さったように、私たちの人生のどんな時も主イエスと繋がり、主イエスに触れ続けることです。触れ続けると必ず主イエスの愛を生きることが出来る。そのような可能性が必ずあり、主の言葉を昼も、夜も口ずさみ、そして主イエスと繋がる、そのような人生を歩む時、そこに必ず私たちが思いもしない、私たちの想定を超えた神の繁栄が私たちにもたらされる。そのような神の愛に私たちも生きて参りましょう。感謝をもってこの一週間過ごして参りましょう。

 お祈りします。
ジャンル:
きいてきいて
コメント   この記事についてブログを書く
« 神の武具を身に着け | トップ | 根気よく祈り続けていく »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

礼拝説教」カテゴリの最新記事