日本キリスト教団 大塚平安教会 

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十字架の五つの意味

2019-10-15 09:06:16 | http://www.ohtsukaheian.jp/
【ローマの信徒への手紙5章7~9節】


 本日は、台風19号の影響を受けて、予定しておりました鈴木崇巨先生の礼拝説教、また、午後の「学びと交わりの会」を中止とさせて頂きました。
 鈴木先生は、土曜日の朝に海老名に入り、今日も、もし電車が動いていなければ歩いてでも教会に来ますと話して下さり、その決意が極めて固く、私も予定通り行おうと金曜日まで動いておりましたが、テレビ等の情報を見ますと、改めて非常に危険な状況にあると思わされ、金曜日の夕方、改めて鈴木先生と電話で話をしまして、土曜日の段階で交通機関が止まるということ、また平時においては、予想しがたいなんらかの不足の事態、停電であるとか、断水等も含めて想定しなければなりません。
 鈴木先生の身に被害が起こることも想定しなければなりませんので、先生にお願いして、中止させて頂くことにいたしました。私達としてもまことに残念ですが、このことをも通して、主なる神が私達を祝福して下さるようにと願います。お祈りしましょう。


 本日、私達の教会の歩みと信仰の養いの為に、鈴木崇巨先生が用意して下さった聖書箇所はローマの信徒への手紙5章7~9節です。その箇所を改めて読みますとこうあります。7節から読みますが「正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死でくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」
 鈴木先生がつけて下さったタイトルは、「十字架の五つの意味」です。主イエスが十字架に架けられ、死に、そして三日目に甦られた。その十字架には少なくとも五つの意味があると考えられたと思われます
 鈴木先生が幾つも記されている著書の中に、十字架と復活の意味についてしるされている箇所がありました。一つは「罪の赦し」二つ目に「神と人との和解」三つ目に「永遠の命の証明」四つ目に「人生の十字架を背負った人への励まし」五つ名に「生まれ変わった新しい生き方をするように」この五つでありました。赦し、和解、永遠の命、励まし、新しい生き方、そのどれもが大切な事柄だと思います。台風被害を受けて、辛い思いをしている方のためには励ましを語らなければならないと思います。

 けれど、この五つの中で、何が最も大切かと考えました時に、私は、「罪の赦し」が今、私達に最も求められているというより、この罪の赦し無くしては、和解も、永遠の命も、励ましも、始まらないと思うのです。
 先週の礼拝でも、人の罪について話をいたしましたが、罪とはギリシャ語でハマルティアと言います、「的をはずす」という意味ですと申し上げました。
 
 ローマ書5章7節の一つ前の6節にこう記されています「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。」
 ここに記される「弱かった頃」と「不信心者」とは繋がりがあると思います。「弱い」ということは「不信心」な事なのです。
 
 先日、ある方がとても真剣に質問をしてきました。「先生、謙遜に生きていきたいと願っているのですが、いったいどう生きれば謙遜に生きていることになるのでしょうか。」難しい質問だと思いました。けれど、私は、「そのままの自分を、そのまま愛して下さっている神様を受け入れることではないですか」と答えました。でも、直ぐにこう返されました。「そのままの自分を神様が愛して下さっているとしたら、確かに『良かった』と思いますが、それでは人としての成長を望めなくなるのではないでしょうか。」皆さん、どう思われますか。「あなたはあなたのままで良いよ」と言われるとしたら、もうその人は安心してやる気を失ってしまうのでしょうか。この質問は、これまで幾度となく、問われた問です。そのままで良いという言葉を聞くと、人は本当にやる気をなくするだろうか、成長はなくなってしまうのか。私はそうは思いません。

 もし、自分が本当にこの人からそのままで良いよと言われるほどに、愛されている、大切にされている、あなたを必要としているというメッセージを受け取っているとしたら、人は、この人のために頑張ろうと思うのだと思うのです。

 これまで何度か、話して来た話ですが、私が岩手の花巻教会におりました時の話ですけれど、ある一人の青年が教会を訪ねて来ました。相談があるというのです。どんな相談ですかと聞きましたら、彼女がいないというのです。エッとビックリしましたが、何歳なのと聞きましたら23歳だというのです。23歳で彼女がいないというのはね~、私は35歳で結婚しましたよ、まだまだ色々なチャンスがあると思いますよと答えましたけれど、色々と相談事を聞くうちに、本当の悩みが分かって来た。その一つに仕事が続かないということでありました。

 高校を卒業して、これまで最も続いたのが2年で、後は半年、数ヶ月、何日というのもある、仕事が安定しないというのです。それで、そうかそういう悩みがあったのか、でもよく教会に来て下さった。普通の人なら中々、そういう相談を教会に来て話をしないよ、教会に来ようと思う、その積極性は本当にたいしたものだと思うよ。
 
 そういう積極性があるなら、きっと次の仕事はいい仕事が与えられて、上手くいくから大丈夫。「そうでしょうか」「勿論、大丈夫だよ」と言ったら安心して帰っていったわけです。
 それから数か月後、私は忘れていましたけれど、彼がやって来たわけです。あら~久しぶりだね元気にしていたのと聞くと、元気ではない。どうしたのと聞いたら、仕事を3ヶ月間、頑張ったけれど、同僚と揉めて止めて来たというわけですよ。でもね、その時も、彼に、そんなに揉めたのに、よく3か月も続いたね~、僕なら一か月続くかどうかわからないよ、たいしたものだね~、次こそは、きっともっと良い仕事が見つかるから大丈夫、そう言って帰したところ、また、数ヶ月して、また辞めて来たというのです。どうも仕事が合わないというのです。
 ですから、聞けば聞くほど、そりゃ仕事が合わないと思うよ、僕ならすぐにでも辞めたと思うよ、でも、よく頑張った、その気持ちがあるから大丈夫、次こそは、きっと大丈夫、こんなやり取りが2年位やりました。そして、2年もした後に、ついに、続く仕事に巡り合った。丁度その頃、念願の彼女も与えられた。だから彼女のためにもというより積極的な姿勢が見えて来て、良い仕事をしていました。

 ところが、その務めていた携帯電話の部品の製造工場でしたが、どうも時代的に段々上手くいかなくなってきたというのです。ですから社長は、どうしたものか、もう止めてしまおうか、銀行から借りてまた頑張るか、悩んでいたというのです。その様子を見ていた彼が社長の所に行って、社長、私を製造から営業に回して下さい、私が仕事を取って来ます、そう言ったというのです。

 その言葉に感動した社長は、もうそれならもう一回やってみるかと自分の家を担保にして銀行からお金を借りて、盛り返したという話しを聞いた時には、こっちも驚きました。

 皆さん、彼はなぜそんなに力が出たのか、勿論、彼女がいないという悩みが解決したという点も大きいと思いますが、どんな状態であっても、そのままで良いよ、たいしたもんだよ、という言葉を聞き続けたからでもあると私は思います。仕事を止めて家に帰れば、また辞めたのかいと親に言われる。お前は続かないなぁと友達にも言われる。自分でも自分が嫌になる。周囲からは力を失う言葉ばかりを聞くのです。頑張ってやってみろという言葉も、彼の耳には、お前は頑張っていないという言葉として聞こえていたに違いない。

 今のお前じゃだめだ、今のお前じゃだめだ、そういう言葉は励ます思いで言ったとしても、どんなにかその人の力を落としてしまうようなものなのです。

 ここで、どうしても必要な言葉は、それでも、今のあなたはたいしたものだ、よく頑張っているよという言葉、そういう言葉を一人でもかけてもらえているとすれば、人は間違いなくそう言ってくれる人の所に行くのではないでしょうか。
だから、彼は教会に、何度も何度もやって来てくれたのです。それは世の中の常識や、考え方とは違うかもしれません。

 でも、その人に対して、今やっていることではなく、その人そのものの存在を全て受け入れて、受け入れるだけでなく、励まし、励ますだけでなく、希望を与え続ける。

 その働きこそが「的をはずない。」つまり、罪の赦しがそこにある。そのようにして「弱っている心」それは、「不信心な心」と申し上げましたが、その弱さを、その罪を赦すことによって、主なる神にあって強い心にしていけるなら人はどんなにか、大きな祝福を見いだすのではないでしょうか。

 朝9時からの子どもの教会のファミリー礼拝では、使徒言行録の9章という箇所を読んでおります。このローマの信徒への手紙を記したパウロが迫害したものから、主の福音を宣べ伝える者へと変えられた場面を呼んでおります。
 パウロはもともと、生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ時の中のヘブライ人、律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころがない者でした。フィリピ書3章に記されています。そこにパウロの誇り、プライドがあったと思います。もともと、パウロはサウロという名前でした。 
 サウロはベニヤミン族の中の英雄である、イスラエルの初代の王、サウル王の名前を貰っているのです。どんなにかその名前を喜んでいたことでありましょうか。けれど、それらの全てを越えて、復活の主イエスとの出会いが決定的でありました。

 なぜ、決定的なのか、キリスト者を捕らえては牢に入れるために、ダマスコという町に向かっている途中、突然、天からの光が彼の周りを照らし、サウロが倒れた時に、声が聞こえます。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声がありました。「主よ、あなたはどなたですか」と問うと、答えがあり、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」

 私はこの「あなたのなすべきことが知らされる」という言葉がとても大切だと思います。ある牧師が講演会を行う中で、人生の中で一番大切な時はいつか?という問いを聞く人々に問うていました。ある人は、生まれた日、誕生日が大切、また、ある人は結婚した時、またある人は大切な時は「今日という日」と答えておられた。どれも、大切で、その通りだと思います。けれど、その牧師の答えは、人生を歩む中で、一番大切な日は自分がなぜ、生まれて来たのか、自分が何のために生まれて来たのか、自分が生涯をかけてこのことを行うために生まれて来たということが、分かった日ではないか、と話しておられました。とても印象的な言葉だと思います。


 自分が何のために命与えられ、人生を歩んで来たのかを理解出来る時、まさにパウロは、復活の主イエスが「あなたの生涯において、なすべきこと」をパウロに告げたのです。

 パウロは、この御言葉を聞いた時どう思ったでしょうか。「主よ、あなたはどなたですか」と聞くと、「わたしはあなたが迫害しているイエスである。」と返事があった。となると、パウロはその次の言葉は、「パウロよ、一体、お前は何をしているのか。とんでもない男だ。まことの神の働きに背く者よ」と言った、批判、非難の言葉が続くと思ったのではないでしょうか。

 もし、主なる神から否定的で、後ろ向きな言葉を聞いたとしたら、パウロは益々力を得て、キリスト者を迫害する者としての歩みを続けたのではないでしょうか。

 けれど、復活の主はそのような批判や非難を一言も言わず、ただ「あなたのなすべきこと」をパウロに告げたのです。それはパウロにとって、パウロの生涯にとってどれほど大切な時であったかと思います。主イエスは、パウロの罪を指摘したのではなく、その罪の全てを赦したのです。主イエスの十字架の姿、神の決定的な罪の赦しであり、その全ての罪を赦し、赦すだけでなく、愛して下さり、パウロが何のために生まれて来たのかを、しっかりと示し、主イエスを宣べ伝えるものへと導いたのです。
 
 ローマ書5章8節には「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」と記されています。主イエスの十字架のその意味の一つ、それは「罪の赦し」です。
 
 この体験をした者の信仰は、自分がいかに弱いものであったのか、すなわち不信心な者であったのかを知る信仰へと導かれ、主の愛を知り、その愛の中に生きる自分を見いだすのでありましょう。そのようにして罪赦された者として、私達の人生も、自分ならではの歩みをそれぞれに歩んでまいりましょう。

 お祈りいたします。

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