日本キリスト教団 大塚平安教会 

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私は決して動揺しない

2020-06-14 14:03:54 | 礼拝説教
【詩編62編1~13節】
【ヨハネによる福音書14章1~14節】

 新型コロナウィルスの影響により、凡そ2か月の間、私たちの教会はこの場での礼拝を行えませんでしたが、過ぎる5月31日のペンテコステ礼拝から、恐る恐る、でも新たな思いを持って2020年度を歩みだしました。
6月も中旬なり少しずつでも日常生活を取り戻しているかのように感じます。

 先週の木曜日は、久しぶりに綾瀬ホームで朝の職員礼拝と、その後に続く利用者の皆さんと一緒に礼拝を守りました。梅雨に入る前の良い天気でした。
綾瀬ホームでは今、ルカによる福音書をずっと読みながら礼拝を守っています。

 先週はルカの18章35節以降に記される「エリコの近くで盲人をいやす」という箇所から礼拝を守りました。
 主イエスが、いよいよ決意されて御自分の十字架を見つめつつ、エルサレムに向かっている途中、エリコの町の近くを通られたところに、一人の盲人が物乞いをして座っていました。
 主イエスの一行はエルサレムに到着した際、エルサレムの人々は棕櫚の葉をかざして大いに喜んで、ホサナと叫び 英雄のようにして迎え入れた訳ですが、エルサレムに向かっている一行の周りには、人も大勢いて賑やかだったと思います。
ですから、盲人の前でも騒がしい音がする。その音を聞きつけて、何事かと思って聞いてみると、「ナザレのイエスのお通りだ」と答えが返って来たわけです。この方なら自分の目を見えるようにしてくれるのではないか、盲人は必死に叫びました「ダビデの子、イエスよ、わたしを憐れんで下さい」何度も叫び続けました。
その声を聞いた主は盲人の側によって来て、「何をして欲しいのか」と聞くと、彼は「主よ、目が見えるようになりたいのです」と答え、主は「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と言われ、彼は見えるようになり盲人ではなくなったという出来事であります。
 私は、この話を読みながら、改めて思わされたことがありました。それは人の正しさ、あるいは正義はどこにあるのかということです。

 先日、アメリカのミネアポリスという町で、フロイドさんという黒人男性が白人警官に膝で圧迫死させられたという出来事が起こりました。このことが大きく報道され、また、コロナウィルスによって亡くなった方の割合が、白人より、多くのアジア系民族、アフリカ系アメリカ人と言われる社会的、経済的に弱いと認識される人々のほうがずっと多かったと言われていますが、そのような緊張感とストレスの中で過ごしていた人々の怒りが爆発したのでしょう。
アメリカのみならず、多くの西欧の国において、社会的民族差別に対する講義デモ、集会、時には暴動にさえなりました。
私たちの国ではそのようなことは、少なくとも表面上は起こりませんが、どれほど人の、人に対する差別意識が根強いのか、改めて思わされる思いがしたわけでありました。

 話はコロコロ変わりますが、私の母親が、私の家に来まして7~8年になりますが、この所、認知症の症状が進んで来ていることはあきらかです。ここ2か月あまり、家族全員が家に居続けるといった状況は、母親にとってはより良くなかったのかもと思いますが、自分が何処にいるか、今、何歳なのか、時間的、空間的な認識が随分と弱くなりました。毎日のように家に帰ると言うようになりました。家ってどこって聞くと、自分の生まれた家に帰るというのです。ここには長くお世話になったから、家族の所に帰るというのです。すぐそこだから、荷物をまとめて帰るから、猫も抱っこして帰るから、と言ってきます。一日何回もそう言って来るわけで、これは中々大変で、母親に言われれば言われるほど、こっちがイライラしてくるのがよく分かります。
 一度、ゆっくり落ち着いて状況を説明するとしても、その時はそれなりに納得する時もありますが、一時間後には元に戻るわけで、母親が悪いのではなく、病気がそうさせているだけだと思っても、つい大きな声が出たりもする。

 何を話しているのかというと、アメリカの黒人差別問題に対しては、自分としてはどんなに立派なことも言えるなと思います。人が人を差別するなんて、とんでもない、主イエスは、どんな人に対しても愛の眼差しを向けられたわけだし、私たちに対する神の愛をしっかりと受け止めて、少なくとも私たちはそういった差別意識無く、過ごして行きましょう。と言えると思いますが、一方においては、自分の母親に対して、つい邪見に扱う自分の姿を思うと、一体、人が思っているところの正義とは何か、人が思う正しさはどこにあるのか、自分で自分が悲しくなってしまう程だと思うのです。

 そこで、改めて思わされたのは、道端に座っていた物乞いの盲人に対してさえ、主イエスは愛の眼差しを向けられました。だから私たちも主に倣い、そのような思いを持って人に接していきましょうという読み方もあるでしょうが、むしろ、自分は、道端に座っている盲人と幾らも変わることなく、ただ主イエスに対して「わたしを憐れんで下さい」と願い続ける者ではないのか、つい、自分には分かっている、自分には見えていると思っている事柄の一つ一つは、少しも見えていないし、分かっていないのではないのか、改めて思わされる思いがしているわけであります。

 今日の説教題を「私は決して動揺しない」といたしました。読みました詩編62編2節からを読みますとこうあります。「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない」
 私たちは、日常生活の中で起こる出来事の一つ一つに、動揺しないようにと切に願いながら、実際は毎日のように何らかの出来事というより、それぞれが抱える様々な重荷によって動揺し続けているのではないでしょうか。
それらの出来事に対して、いつの間にか自力でなんとしかよう、なんとかしよう、もがきながら、しかしなんともならずに落胆しているような者ではないでしょうか。

 主イエスは、山上の説教の最後にこう言われました。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても倒れなかった。岩を土台としていたからである。」
 必要なことは、主の御言葉を、信仰をもって、祈りをもって聞き続け、神の御言葉を土台とすることだと教えて下さいました。主イエスは、何度も何度も弟子たちに動揺しないようにと話されていたに違いません。
読みました、ヨハネによる福音書14章でも、主イエスは、いよいよ御自分が捕らえられ、十字架に付けられる時が近づいていることを理解されて、だから一生懸命に弟子たちに教え続け、話し続けられました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」
 なぜ、そう言われたのか、神を信じきれず、主イエスを信じ切れていない弟子たちがいたからです。弟子たちは主の言葉を聞いて、主がどこかに行かれるのかと思って、慌てて聞き返します。トマスは「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちにはわかりません」と伝えました。フィリポは「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足です。」と告げました。この時、弟子達の心は騒ぎ、動揺していたことは明らかです。

 この後、ユダの裏切り、捕らえられ、裁判、十字架刑、と続く中で、弟子達の心は大騒ぎとなり、動揺し続けたことでありましょう。その心が収まったのは、三日の後の復活と、40日後の主の昇天と、更に10日経ったペンテコステの時、神の聖霊が弟子達のもとに降って来た時でありました。
 弟子たちは神の聖霊に満たされ、神の力を受けて、自分達が進むべき道が備えられ、神の御言葉を力強く語り始めました。ついにペトロは弟子たちと共に立ち上がり、キリスト教の教会、最初の説教とも言える、御言葉を力強く告げ始めました。
 
 十字架に架けられ、復活された主イエスこそ、私たちの主であり、救い主、メシアである。この方こそ、自分達を確かな歩みに導いてくださるのだと、これまで人に見せたことの無い程に、自信にあふれた口調と、話ぶりであります。
その説教の中でも、ペトロは詩編を引用しながら「わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない」と告げています。
 私たちが生きている中で体験する騒ぎ、動揺の一つ一つ、人の力では解決しそうもないと思える程の出来事の一つ一つ、その騒ぎを落ち着かせ、安定させるのは、自分の力ではなく、主なる神の聖霊によらなければならないのだと思います。そのような心を持ってこそ、人類の将来が開かれていくように思います。

 今、この世は、人の世は、世界的にも不安定な社会へと移行しています。人と人とが主張しあい、互いに自分の立場から物を言い続け、共に歩もうとしない空気や雰囲気がとても強くなっています。
 そのような不安定さの中にあって、私たちはより一層、神を土台として生きましょう。人が神を造ったのではなく、神が私たちを造られ、命与え、全ての人々が幸いに生きられるようにと導いてくださっていることを忘れず、永遠に変わることの無い御言葉によって過ごして参りましょう。

 お祈りします。


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