日本キリスト教団 大塚平安教会  

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明るみの中で

2018-06-11 09:42:26 | 礼拝説教
【マタイによる福音書10章26~31節】

 本日、読んで頂きましたマタイによる福音書10章26節からのところで、「恐れるな」という言葉が三回出て参ります。一つは26節「人々を恐れてはならない。」二つ目は28節、「体は殺しても、魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるな。」三つ目は31節、「だから、恐れるな。あなたがたは、沢山の雀よりもはるかに勝っている。」
 主イエスが、御自分で12人の弟子を選ばれて、神の国の福音伝道の為に遣わそうとしている場面です。弟子たちを派遣するにあたって、派遣された先であなたがたがたは、神の福音の御言葉を宣べ伝えながら、辛いことや苦しいこと、時には迫害されたり、理解されなかったり、沢山の出来事が起こるであろう。けれど、そのような時に、何をどう言おうかと心配しなくとも良い。神様があなたの中にあって言うべきことをしっかりと備えて下さる。だから心配することはないし、恐れなくても良い、と今日読まれた箇所へと続くのです。
 
 恐れなくとも良い、その理由の一つ目は、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」とイエス様は教えられました。つまり、どんなに隠し事をするとしても、いつの日にか、明らかにされるものだということです。最近の政治を見ておりますと、無いと言っていたものが出てきたり、破棄しましたと言ったものが残っていたりして、結局は大体のものが出てきていたりする。
誰よりも見本とならなければならないような人がと批判したくもなりますが、でも、批判や非難は誰でも出来ますから、それはそういうことが得意な人に任せることにして、今日は御言葉の取り次ぎに集中したいと思いますけれど、一言だけ言わせていただければ、たった一言言ってくれたらと思います。「ごめんなさい」そういうふうに総理が言ったらかっこいいのになぁと私は思うのです。

 とはいえ、私たちは生きて行く中にあって、どうしても人に言えない隠し事の一つや二つ、三つや四つ持って生きているものです。それは親子の間であっても、時には夫婦の間であっても、私は全ての事を明らかにしながら生きていますと胸を張って言える人はそうはいないでありましょう。
 それは又、そうすることによって人間関係が上手くいくからという理由から、あるいはまだその話をする勇気が無いということもあるでしょう。人と人とが話しをする時に、出来るだけ隠し事が無い方が早く友だちになれます。あの人とは何でも話せるのよ、そういう友だちをお持ちの方は幸いな人です。なぜならその人の前において、一羽の雀のように、そのままの自分を、何も飾らない自分を、出すことが出来るからです。
 
 人は、自分が自分を明らかにしている範囲において、人と付き合うことが出来ると言われます。皆さんは御自分の何パーセントぐらいの自分を人に見せているでしょうか。そのパーセントが大きければ大きい程、楽な人生を送ることが出来るのです。
 子どもに対しても、頑張らなくて良いし、無理しなくて良いのです。自分のありのままを見せていく、特に子どもは説明されてわかる、というよりは、見て覚えます。お母さん方が我が子のために、おいしいお弁当を作っているその姿を見て、自分も大きくなったら子どもをドレーパー幼稚園にいれて、おいしいお弁当作ろう、と今から思っていますよ。きっと。まあ、そこまでは思わないかもしれませんが、でも逆に、妻は夫が必死になって貯めているへそくりの額も、隠してある場所も知りながら知らないふりをするように、親が隠そう、隠そうとする姿は、子どもにはよく見えるようです。ですから出来るだけ隠さない子育て、隠さない人付き合い、それが一つのポイントではないでしょうか。
 
 なによりも、この世界を造られた方、主なる神の目から見るとすれば、全てが明らかにされているということを私たちは知らなければなりません。そして神にはすべてがバレているとしても、そこに罪ありと指摘されるよりは、むしろ、知っている、分かっているけれどそんな自分もまた神様に無条件で、徹底的に許されているということを知ることです。あなたも、あなたも皆、隠していることの全ては神様は知っておられ、そして、尚、許して下さる神を信じることです。だから恐れなくとも良いのです。そして感謝しながら、素敵な人生を生きていく。そんな生き方を主なる神は求めておられます。
 
 二つ目、どうして恐れなくとも良いのか、「体は殺しても、魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるな」とイエス様は話されました。私たちは、体が滅びることに大きな恐れを感じます。
この地域の仲間の教会が17あります。その教会の婦人会研修会がありました。そこで鈴木伶子さんという方が講演して下さった。伶子さんのお父さんは牧師で、日本の中に私たちの仲間の教会は1700あるのですが、その責任者となられた方の、お嬢さん、と言っても80歳ですと話しておられました。そして、子どもの頃の戦争の話をしてくださいました。

 本郷という東京大学がある近くの教会に住んでおられた、自分は5歳か、6歳であった。その時東京大空襲があったというのです。沢山の飛行機がやって来て焼夷弾という爆弾をどんどん落としていくといのです。焼夷弾は爆発するだけでなく、それが燃え上がるのです。ですから次から次へと建物が燃えていく、ついに自分の教会の周りにも火の手があがって、でももはや逃げることも出来なかったそうです。お父さんが、6歳の自分と3歳の妹を手で包み込んでそして、毛布をかぶって話しかけたそうです。「いいかい、これから私たちは神様のところへいくよ。そこは花が咲いていて、鳥がさえずり、楽しい、嬉しいところだからなんの心配もないからね」と言って、ブラームスの子守歌を歌ってくれたというのです。父親としても覚悟を決めたのでしょう。けれど、その後、奇跡的に教会は燃えなかった、周りは全部燃えた、遠くに神舎の鳥居が残っていたそうです。なぜ残ったか、石で出来た鳥居だったそうです。でも、やっぱり鈴木先生のお父さんは偉いと思います。体を殺しても、魂を殺すことが出来ない者を恐れない姿であったと思います。

 戦いは更なる戦いを産むだけです。先日、一人の子どもが虐待されて死んでしまった事件が報道されていました。親は大変な罪に問われるでしょう。でも、国が戦争すると、一度の東京大空襲で10万人以上もの人が死んで、そして、誰も罪に問われない。と鈴木先生は話して下さいました。それが戦争なのだと改めて思います。私たちの国は一体どこに向かっているのか、これからの子ども達の命と、人生をどう私たちが守るのか、問われているのかもしれません。更に最近は自然災害も多く起こっておりますし、私たちの体は大丈夫かと心配は後をたちません。

 けれど、体は殺しても、魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるな、と主イエスは話されました。どんなに極悪な非道な人であって、武器を持ってきて体を殺すことは出来ても、魂までは殺す事は決して出来ないと主イエスは教えるのです。
魂とはあなたの心の中心にあるものです。その中心にあるものは、人によっては色々、様々かもしれません。けれど人の心の本当の中心にあるもの、本当の中心に私は、「愛」があるのだと思います。人と人が愛する。恋愛ということもありますが、でもそれ以上の愛、隣人を大切にしようとする愛、イエス様は「神を愛すること、隣人を愛すること」この二つが聖書の中で一番大切だと教えられましたが、人類は愛を中心に据えて来たからこそ、どんな苦境や、憎しみや、残虐な戦争をも乗り越えて、生きて来たのではないでしょうか。そして、この愛によって、生きていけるのだと私は思います。

 人は何で成長するのか、その人を心から思う愛によって成長していくのです。その愛こそが神様から与えられた大切な宝物であって、人の魂そのものとなっていくのではないでしょうか。そのような本来、誰もが持つ愛に包まれた魂にまで到達出来る方は、神様しかいらっしゃらないのです。だから、人は体を殺しても魂を殺す事は出来ません。だから私たちは人を恐れるのでなく、むしろ私たちの造り主である主を知り、そして良い意味で、主を畏れ、感謝し、喜びの生活を営むことが出来るのです。そのためにもこの礼拝が与えられていると言うことが出来るでありましょう。

 恐れるな、三つ目は「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と教えて下さいました。

 29節に「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。」とあります。一アサリオンは円で考えますと、大体100円位かなと思います。ですから一羽50円、二羽で100円となるわけです。けれど、別の聖書箇所(ルカ12章)では5羽で2アサリオンとなっています。つまり、2羽100円だけど、5羽なら200円ということです。つまりは1羽おまけということかもしれません。
 
 それは、値段にならない一羽、おまけの一羽がいるということです。私たちはそのようなおまけのような者ではないかと言ったら言い過ぎでしょうか。

 私は男の子四人兄弟で育ちました。兄がいて、私が次男、続いて三男、四男、ですから、子どもの頃から、母や父が言うのです。二人目からは次は女か、次は女かと思ったというのです。
その言葉を聞くたびに、男でごめんな、とどこかで思う。だから笑われるかもしれませんが、なんとなく弱々しく育ったと思います。
私の家は、岩手県の昔ながらの家ですから、やっぱり長男が大事なのです。次男以下は大事じゃないと言わないけれど、長男の予備のようなものです。つまりはおまけなのです。

何かしらの問題行動を起こす子どもがなぜそれをするのか、「父ちゃんよ~、俺はここにいるよ。」「母ちゃんよ~俺はここだよ。」と父親、母親によく分かるように、そうやって自分をアピールしているのですよ、と幼稚園のお母さん方に話しを私がしているのですが、私自身が、俺はおまけか、おれはおまけなのかという劣等感と、コンプレックスと戦ってきたようにも思います。
 
けれど、そのコンプレックスからどうやって抜け出したのかというと、聖書の御言葉です。「だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

 皆さん、つまり、主なる神はあなたの、全てをご存知だということです。あなたが今抱えている様々な課題、悲しみ、辛さ、苦しさ、その全てを神様は知っておられます。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ」とイエス様は話されました。
 どう祈ろうか、どう願おうか、そう思う前からその祈りを、その願いを父なる神は知っておられる。あなたの髪の毛の数まで知っておられる。え! そんな私だって知らないことなのに、私だって知らないことまで神様は知っておられます。そして、私より先回りして、あなたにとって、最も良い、最善の生涯を与えて下さるのです。そのことを信じて前向きに生きていくことです。

 皆さん、信仰とは、信仰者の後ろ姿を見ながら成長していくのです。年配の方々が前の方に座っておられるでしょう。耳が聞こえないからではないですよ。前向きに生きておられるからです。そのような生涯を送っておられるからです。だから私たちは、そのような方々の後姿を見て成長させて頂くのです。そして、私たちの後ろ姿を見せて、子ども達が成長していくのです。あなたはおまけでもなんでもない、あなたは大切な神様からの預かった命、その命を共に、私たちは一緒に歩んでまいりましょう。お祈りします。
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きいて!きいて!
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